「歴史捏造の歴史 司馬遷から江沢民まで」その1

 (最新見直し2009.12.24日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、鹿島昇・氏の歴史捏造の歴史 司馬遷から江沢民まで(1999.11.20日初版、新国民社)を確認しておく。

 2007.10.30日 れんだいこ拝


 司馬遷から江沢民まで 歴史捏造の歴史 目次
 推薦のことば―――南 正玩
 はじめに

 第一章 嘘から生まれた中華思想…--…1

中国の歴史は史実でなく、小説だ……--2
古代中国史はオリエント史の翻訳小説だ…4
秦の始皇帝は実はバクトリア人だった…-6
木を見ても森を見ない歴史学者…………・10

歴史の教訓を求めて-…-…………-・13
北朝鮮とカンボジアを支持した中国……--21


 第二章 歴史書という暗号文…・・27

中国の開祖の黄帝はクマやトラが部下……・28
しかし黄帝は中国に実在しなかった…---30
蛇身人首、人身牛首の王たち………………-・35
中国にもあった「ノアの洪水」……--37
オリエント史そっくりの『史記』…---・40
なぜ歴史を盗用したか……42
黄帝の丁供たちもアッカドの諸王であった…・…・44
夏・股・周の王、皆が黄帝一族というこっけい…48


 第三章 歴史偽造のテクニック・・・・・53

中国に象がいたわけはない……54
まぼろしの夏王朝…・………・…・・57
夏という国、ウルという国…60
西の歴史、東の歴史………・63
歴史はいかに化粧されるか………-…・66
偽造史の手法……・70
その一、複数国の歴史をつないで一国にする---74
その二、同時代の国なのに後継国にする-…76
バビロン王ハムラビは殷の王にされた……78


 第四章 偽造された「殿」の歴史…83

殷王朝もまた、黄帝の一族とされる…84
殷王湯が夏王桀を討つ…-…86
殷史はオリエントのイシン史だった…89
イシン王朝と殷王朝の対比・…93
殷とは、いかなる国だったか…97
王統変動のなかの暗号…・.…・99
湯が殷王朝をつくる以前…101
殷の五〇〇年史…103
殷から周へ………108
大王ハムラビは、殷王「沃甲」になった…110
『史記』に秘められた暗号…118.
殷周革命をホンモノと思わせる創作…121

殷の存在証明はなされていない・・・124


 第五章 まぼろしの古代中国、「周」…129

周はアッシリアだった…・130
周の文王はアッシリア王シャルマネサルニ世…134
周とアッシリアの王統一致を検証する….137

西周の時代-…141
周が共和制をしいた?…146
周の東遷…・151
覇者なき時代…・-154


 第六章「秦」はアケメネス・ペルシアだった・・・・・159

秦のふるさとはイラン高原だ…:160
ニセ歴史はなぜ生まれたか…-162
失われた一〇支族が中国に入った…165
秦の始祖伝説…-167
アケメネス・ペルシアの台頭……172
秦は中国に実在したか………・-…・--176


 第七章 始皇帝はバクトリア王ディオドトスだ・・・・・185
-
始皇帝は中国人ではなかった…・186
始皇帝のモデルをさがす…-…-190

始皇帝はバクトリアの知事ディオドトスだ…193
始皇帝陵の謎………-………・………-…-…・…………・196
ペルシア文化そのものの兵馬俑-……199


 第八章 モーセが中国の「魯」に出現—205

イスラエルの歴史が中国史の原点—206
大偽造の発端…………・……・213
アブラハムからヨセフまで…-………217
燔祭としてのイサク……・・223
エジプト移住…226
魯の恵公はモーセのこと…・・229
モーセとアロン…--233


 第九章 人が動いて歴史も動いた―「晋」…………-237

晋はバビロンのこと-………・…238
バビロン王と晋王・……・・243
晋と新バビロニア帝国…………250
新バビロニア帝国(晋)の滅亡…-257
奇子朝鮮のルーツ…262


 第十章 日本史、中国史、朝鮮史はすべて虚構だ・・・・267

古代も現代も、虚構の中国史-……-268
日本古代史の虚構…・・279
「三晋」の実体を探る……・289
『契丹北倭記』と『檀奇古史』の奇子朝鮮…・・・・293
檀君朝鮮と奇子朝鮮…………・…・…・……・……・……302
『桓檀古記』の檀君朝鮮………-………..…………-307.
日本現代史も虚構であった・………・……・-・……-311

王統比定表・・・・・・・・・・・・・・…319


 推薦のことば  南 正玩(ナム・チョンワン)(慶尚大学校名誉教授)

 『桓檀古記』を初めて解明した鹿島昇先生のご高名は、実は、10数年前『桓檀古記』の日本語訳版を手にした時からつとに承知していたが、その後、幸いにも初めて先生の知見を頂いたのが、一九九七年の秋であった。それは私の住む韓国、慶尚南道晋州市の慶尚大学校の大講堂で、『桓檀古記』に関する先生のセミナーが開かれた時であった。さて会が終わってからさっそく先生の近作『裏切られた三人の天皇』を注文して入手し、明治維新の歴史の意外なることに驚き、これは私一人で読んですますことではないと思って、意を決して先生の承諾を得たうえ、この本の韓訳の仕事をすすめることになった。

 実に明治維新は世界史的な大革新運動の、一つであったが、その結果はその後、東アジアに大きな影響を与えて大変革を起こしたものである。しかし、その維新が進行した前後において、天皇を殺してすり代えるという日本の苦悩に満ちた近代化の過程を、鹿島氏のこの著作を通して韓国の人達にもぜひその真相を紹介して欲しい、いや、その最大の影響を受けた韓国人としてその歴史を見直す必要がある、と考えたのである。

 こんな時期のある日、鹿島先生からお手紙があり、東京から電話もいただいて、さっそくソウルに上京し、先生にお目見えして本書『中国四千年の虚構』の原稿を託されたのであった。本書の論旨は、概略、次のようなものである。

 著者は周知の古典『史記』に問題が蔵するとして、まず中国古代史に、言及する。「中国随一の歴史の古典とされる『史記』によれば、中国古代には紀元前一、六〇〇年から殷の時代が始まり次に周が起こり、やがて長い春秋戦国時代に入る。そして始皇帝によって秦が統一を果たしたのが前三二一年とされる。孔子、孟子が活躍し、のちに儒教のもととなった数々の古典を残したのも春秋戦国の時代となっている」。

 しかし本書のなかで著者が展開した新史観は、「夏、殷、周、そして秦と漢字で記されているところの歴史は、実は古代オリエントの都市ないし帝国の歴史ではなかったか」というのである。次に著者はさらにこれを敷衍(ふえん)して考察を進める。「古代の中国の歴史とされているものを古代のオリエントの歴史と比較していくと、歴史の流れ、事件、登場人物が偶然ではすまされないほど見事に対応しており、中国の歴史はオリエントの腋史のソックリさんであるということに気づく。

 もとより単純な翻訳ではないから、それを見抜くことはたやすくないけれど、綿密に対比する作業を続けていくと、手のこんだ中国の歴史屋の作業が見えてくる。その張本人の一人は『史記』を書いた司馬遷(紀元前、四五~八六)であり、さらに司馬遷のその道の先輩は孔子であった。しかもその孔子の正体は実はシナ人ではなく、ユダヤ人のラビ、エリアだった。まことに中国の歴史はオリエント史の借りもので、例えば周の歴史はアッシリアの歴史である。秦はペルシア帝国と深い関係があり、始皇帝は中国人ではなくバクトリア王ディオドトス、一世なのであった」と。

 そしてこの事実の論証として、「史記の記述を無条件に、すなわち考古学的な裏付けもなく、また近隣諸国史とも比較せずに、受け入れてしまえば、バクトリアの大秦国が始皇帝の秦国の本国であろう、とする発想は出てこない。しかし『史記』に記す焚書坑儒という事実をよく考えて、その文章に作りごとがあったと仮定すれば、バクトリアの大秦国が始皇帝の秦の本国であるという結論は全く論理的なものである」という。

 『史記』によってよく知られている始皇帝の焚書坑儒の動機について著書の説を引用する。「始皇帝の悪行として『焚書』がある。皇帝は自らを中国オリジナルの皇帝とするためには、過去の記録は邪魔であった。すべて中国古来の歴史を抹殺することによって、ディオドトスは姶皇帝に変身し得たのである」。

 著者は本書のテーマに関して、なぜとくに古代中国史をとらえて論難するかという点について次のようにいう。「かりに中国史が実はオリエント史であっても、日本史は日本史だというかもしれない。そうはいかない。倭人はインドから中国、朝鮮を越えて渡来した。いわば外来の種族だから、日本の歴史は中国や朝鮮の歴史とは無縁ではありえないのである。秦の残留者が朝鮮から日本に移って秦上国を建てた。この人びとを『日本書紀』は別倭と書いているが、日本史をつくったのはその人びとだったから、中国史を正しくとらえることによって、はじめて日本史も正しくとらえることが出来る。このこともまた本書の一つのテーマなのである」。

 著者はいみじくも「歴史を語るためには偏見をすてて古典を正確に読み、そしてその真偽を発見しなければならない」という。すなわち、「近年、日本の古代史研究においては、ゆきすぎた細分化、専門化の反省に立ち、東アジア史全体の中で日本の姿をとらえようとする傾向があるという。方法としては当然のことだが、この場合においても『史記』のごまかしを見抜いて真の中国史を見なければ、真の日本史も見えてこない。まして偽書でしかない『記紀』を偽書として認識しなければ、誤読曲解の弄流の中から披け出すことは出来ないのである。物知り顔して、いわゆるウガヤ文書や『秀眞伝』『東日流外三郡誌』などを偽書だという人が多いのだが、それ以前に『記紀』や『史記』などのいわゆる古典とされた官撰史書が偽書であることを知らなければ、その議論はしょせん愚かなる空理空論に過ぎない」と。

 著者はなお、古朝鮮の歴史にも論及して、その正しい歴史の理解こそ民族のアイデンティティを導くものとしている。引用を継続する。「朝鮮も先住民であるオロチョンのうえに、まず苗族と混血したツングースがいた。そしてシルクロードを渡って来たチュルク人(トルコ人)もいた。チュルク族の一派には高句麗と高麗があり、新羅はインド系である。秦人と漢人を始めとするシナ中原からの移民もある。これら多くのグループがこもごも朝鮮を支配したから抗争が絶えなかった。朝鮮人が固守する本貫制度が国民の融合を妨げたのである。李氏朝鮮には中国系の朱子学が残っていたが、歴史や言語は高句麗系であった。インド系の中山国、奇子朝鮮、大扶余、駕洛国などの文化は檀君教として残るだけである。このような融合しないままの多民族国家では抗争が絶えない」。

 以上、主として著者の古代中国史の論点を瞥見したが、著者はここで白問しつつ、中国古代史の解読法を説く。「ところで中国古代史を借史であるとしてそのすべてをバッサリ切り捨ててよいだろうか。早まることはないと思う。このような方法で書かれていたものだとして、ひとまず受け止めることを提案したい。

 『古事記』『日本書紀』は神話的だ。中国史のほうは漢文で書かれていて、「本紀」と「世家」があって対比できるから正史であり信頼できる、というようないい方はおかしい。朝鮮でも、『三国遺事』には『新羅の文武王のとき唐の水軍が二回にわたって侵攻してきたが、坊主がまじないをしたために海が荒れて全員が海没した』という記述がある。これも読み方を変えないと荒唐無稽な記録になってしまう」。さらに「中国においても、日本においても、古代の史書は特殊な方法で書かれているということを知って、その特殊な方法をわきまえてつきあえばよいのである。一言でいうと、いにしえの中国、朝鮮、日本の史書は知る人にだけ判る一種の暗号文書である。だから、その解読法を見出してそれによって読むことが必要になる。多くの歴史家は史書に書かれてある文章を懸命に理解しようとするが、その解読法を発見できない。中国古代史を借りものだという私の考え方こそ、実はこの解読法なのである」。

 最後に著者は檀君朝鮮と奇子朝鮮の歴史に論及し、これを古朝鮮といい、オリエントとインドの古代に実在したいくつかの国々を、一系の国家として表現したものだとする。「檀君朝鮮とはすなわち、シャキイ族のちの昔氏のバビロン史を、ナーガ族のちの朴氏の関係するインド古代のクル国、シスナーガ国、ベトナムの文郎国などにっなげた.ものである」と。

 著者は次に掲げる四書を熟読して、オリエントとインドに於ける擬似一系国家、いわゆる檀君朝鮮の実体を明らかにすることを望んでいる。この時代は、朝鮮と日本が分離する以前の時代なのであった。著者がすすめる四書(年代順)とは、

(1) 新羅十九代訥祗王(四一七~四五七)の重臣として倭国で処刑された朴堤上による『符都誌』、朴氏の子孫が伝えた。
(2) 渤海の天統三十一年、初代高王(六九八-七一九)の弟、大野勃による『檀奇古史』。
(3) 契丹の太宗の天顕元年(九二六)、王族耶律羽之による『契丹集史』または『契丹北倭記』、日露戦争のとき奉天のラマ寺で浜名祖光が発見した。
(4) 李朝鮮の光武十五年(一九一一)、太白教の宣川桂延寿による『桓檀古記』、日本の焚書に抵抗した太白教徒がひそかに伝えたものである。

 以上、読者が一読する便宜の為に本書の論旨を大略紹介したが、私の浅学非才のために著書の意の正鵠を得ることは成し難く、読者の諒解を乞う次第である。今や、私たちは歴史を自国中心の閉鎖的な史観から脱退解放して、より広く東洋史・世界史を理解するためのオープンな史観に昇華発展して、人類が一体であるとする意識を形成すべきだと思うのである。ここに著者の『中国四千年の虚構』を読書人にあえて推薦する。


 はじめに

 「日本人は歴史の解釈が間違っている。正しい歴史を確認しろ」という声が声高に中国や韓国で叫ばれ、今では北朝鮮もその尻馬に乗っている。たしかに日本の腋史は建国以来日本に亡命した中国人や朝鮮人が担造して国民に押しつけたものであり、しかも戦後、マッカーサーと吉田茂が結託して天皇に戦争責任がないとして捏造したものだから、かれらがいうことにも.理はある。しかし、歴史偽造の張本人は中国人であって、中国史は古代の始めから現代に至るまで、捏造の羅列であるから、今、言論の自由がない中国人に正しい歴史を復元するなどは不可能に近い。

 例えば中国共産党は自分の勝手気ままに、自分に都合のよいように、大がかりな歴史偽造を行っている。毛沢東が、一五年でイギリスに追いつくといい出して始めた大躍進政策の実体は、全国各地の村々に前近代的な溶鉱炉を作るという時代錯誤的なもので、始め農民は希望にみちてナイフや農具などをとかして屑鉄のかたまりを作っていたが、やがて本来なすべき農作業に手が廻らず、'-農産物が極度に減産してしまった。

 しかも、毛沢東はすでに耄碌(もうろく)していて、過密な種付けをすれば増産できるとか、畑を深く掘ればよいとか、次々に理屈に反する政策を命じたから、その結果、さらに作物が減産したのだが、毛の指示通りやったら増産したといいたいゴマスリ幹部たちが、今年は農産物が二倍になったなどと景気のいいホラを報告して、農民にその水増しした量を供出させた。このため農村では物凄い大飢饉におちいって、ついに全国的に、お定まりの人肉を喰うのやむなきに至った。

 そうなると、無実の人をつかまえて、資本主義者だとか反革命だとかいって殺害して内臓を喰う。また、親同士が幼い子供を交換して食べるという報告も多かった。この大飢鐘で餓死した中国人民は三〇〇〇万人ないし八000万人といわれている。人口統計もすべて程造だったからこういう数字しかないのだ。しかし、共産党の幹部たちは貧農出身の彭徳懐元帥を除いて、周恩来、鄧小平を筆頭に、ほとんど全員が毛沢東の誤りを承認したから、この事件は党全体の責任になった。

 江沢民は早稲田大学大講堂で、「日本の侵略戦争で中国人の犠牲者が三五〇〇万人もいた」といったが、それは大風呂敷で、戦後直ちに発表された国民党の公表では、せいぜい、15O万人以下だといっている、江が0(ゼロ)を、一つ付け増したのは、党の大責任を外らすために、日本による被害は大飢饉の死者より多いといいたかったのだという。この問題を中国の留学生と話したが、「毛は中国人の帝王だから、いくら国民を殺してもいいのだ。日本は侵略者だから一人でも国民を殺せば文句をいえる」という。

 しかし、歴史の真相を明らかにすれば、日本の王家も、また蒙瓦室韋、蒙古族といまの日本人との共通の先祖であるいわゆる北倭も、中国中原から満州、朝鮮をへて日本に亡命した人びとであり、倭人のうち沖縄経由の南倭以外は、かつてはすべての漢民族に文化を教え、統治した中国中原の支配者であった。

 また中国の歴史では、漢字文化を持った遼、金、元、清など周辺の異族が中原で覇を争うことを『中原逐鹿』といって、決して侵略とはいわなかった。日本を侵略者というのは歴史を知らざるものであって、問題はその支配者に「徳」があったか、どうかということなのである。

 「徳」の問題になると南京虐殺であるが、中国側はその犠牲者は三〇万人だといい、日本側は三万人、多くて四万人だとしている。中国人がしばしばゼロを加える手口は先に述べた通りで、実は有史以来、針小棒大という格言がある位だが、ここでも犠牲者は三万人前後というのが正しいであろう。この事件の原因はつぎのようなものであるという。

 一、中国軍が国際法上の降伏をせず、将軍たちが自分だけさっさと逃亡したために、おきざりにされた兵隊が市民のなかにまぎれこんだ。

 二、これより先、日清戦争で日本の第二軍が行った旅順虐殺という事件があった。しかし、清は日本兵を捕虜にすると、すべて殺害してその内臓をひきずり出して食べたから、敗北したときには日本兵の捕虜を返すことができなかった。結局、捕虜として返したのは10人くらいの卒だけで兵隊は一人もなかったという。一五年戦争でも私の取材では、日本軍が退却したとき人間の睾丸を干しているところを見たといい、日本の負け戟だった以上、日本兵の睾丸だということであった。このような中国側の狂気が南京虐殺という狂気につながったという。

 三、南京占領のあとで、ある皇族、勿論、天皇家とは何の関係もないのに、明治天皇すりか代えの沈黙を買うために皇族とされた無能者が、軍の指揮者として南京に人城するというパフォーマンスが予定されていたから、とにかく、見さかいなしに危険と思われる連中を殺しまくった。オーバーキルである。

 このうち、第三の問題は、すり代えた明治天皇による神聖天皇制が内在すべき欠陥であって、精密時計の一つの歯車がさびて時計が動かなくなったという状態に、日本の国全体がおかれていた。

 のちの対米戦争敗北の前兆となったノモンハンの戦いでも、ヒロヒトが国境防衛を厳重にせよといったのを勝手に拡大して、参謀の辻政信らが、いやがる小松原師団長をおどしたりすかしたりで、開戦させ、敵が山上から日本軍の布陣を見通せるような地形にひきこまれて、小松原師団全滅という惨事に陥った。しかし、この辻にしても他の参謀にしても一時的な異動はあったが、一人として全減の結果について責任を問われたものはなかった。法制上、参謀本部は天皇が直轄する機関だから、間違いがある筈はなく、敗けたのは現場の責任だ、というすり代えの議論であった。天皇をすり代えたような王家だから、責任もすり代えることを考えたわけである。

 それは山本五十六が部下に真珠湾攻撃を命じながら、自分は瀬戸内海に居座っていたという無責任さにもつながる。アメリカはこうした日本軍首脳部の腐敗を冷静に研究して、緒戦の敗北を覆したのである。しかし、ノモンハン戦争はヒロヒトの発言と、低能、カラ威張りの参謀共とが無暴な開戦をおこしたとして、どうして日本軍の敗戟のままで全面降伏をうけ入れたのか。このとき日本側は北支から歴戟の精鋭軍団をノモンハンに呼び寄せていたのである。

 それは、このとき、ヒロヒトの娘婿にきまっていたある皇族―いわゆる東中尉なるもの―が、ジューコフ将車卒いるソ連軍の捕虜になっていたからである。しかも、ヒロヒトはこの皇族を取り返すとき一緒に受け取った日本側の捕虜将校たちを、皇族の捕虜事件をかくすために全員自決させるという暴挙をした。この他にも、皇族がバカなことをして、同民がその尻ぬぐいにひどいめにあったことは枚挙にいとまがない。満州での細菌部隊の問題についても、天皇は皇族を名代として虐殺の現場を視察させ、ごていねいに細南部隊の部隊長に親しく勲章を与えた。

 こういう歴史を考えると、中国侵略の失敗は、天皇制による日本人の神国意識が中国人に拒否されたということであり、日本がこのような世界に通用しない体制で、中国も朝鮮も支配できると考えたのが浅はかだったのである。

 昔、遼の大宗は中原に侵人して百姓を大量虐殺し、屍体をつみ上げてこれを打穀草(むぎかり)と称した。しかし、殺しても殺しても農民の抵抗はつづいて、結局、遼は「中国治めがたし、北方の嚝野のほうが未だましだ」といって、中原を放棄して引き上げてしまった。

 皇軍もほぼこれと同じような状況に陥っていたのである。しかしそんな機能不全の天皇制による敗戦の責任を、ヒロヒトはついに認めなかった。このことこそかれが、擬帝であった事実を、明かに、証明するものである。

 自民党は北朝鮮や中国の脅威に対して、夢よもう一度で「君が代」を歌って対抗しようと考えているようだが天皇ヒロヒトが沖縄の米軍基地化を礼賛したり、米軍の日本駐留は長い方がいいなどといって、己れの戦争責任を認めなかつた事実を、日本人は誰一人として忘れてはいない。日本に反戦運動がさかんなのはこれに対する怒りからである。もう日本人は天皇のために戦争するのはマッピラなのだ。だから、どうしても天皇制を維持したいというなら、天皇の資格審査、あるいは国民選挙による天皇認否制度をきめておかなければならない。長州と薩摩の自分勝手な都合によって、先帝父子を殺し、身代わりの天皇を作った明治王朝を、そのままの形で残すことは、できないであろう。

 しかし、こんなことは外国の圧力でやれば失敗するにきまっている。中国だって大飢饉の責任を今の共産党に認めさせなければ、世界中から相手にされない。こんなメチャクチャな人治国家が台湾を開放するなんていっても、開放ではなくて奴隷化ではないか。中国人が共産党の人治による腐敗、権カ万能主義を克服するのは、日本人と同じく自分たちでやらなければなららない。

 終りに、朝鮮の史学についてもひとこといっておきたい。『三国史記』に「瓢(ひさご)を朴という・…-故に朴を以て姓となす」、「瓢公はもと倭人なり。瓢を以て腰につなぎ海を渡りて来たる」とあり、鳥越憲三郎は倭人である瓢公が朴氏の始祖になったと説明しているが、『桓檀古記』においても、倭人はナーガ族でのちの朴氏であるという。また昔氏はインドのシャキイ族であるが、金氏はアユダ国の植民地が沖縄から北東九州の豊日国に移り、さらに朝鮮において駕洛国となったものである。アユダ国はフェニキュア人の古い町アルワドをオウドといって都の名にしていた。

 さて今、奇子朝鮮と檀君朝鮮を神話だといっている朝鮮人が多いが、これこそ無知文盲の愚論である。奇子朝鮮は満州に建国したのちに馬韓に移り、秦韓の秦人とともに吉野ヶ里から機内に逃れて秦王国を作った。この人びとを『紀』は別倭といっている。邪馬壱国(倭国)は、大扶余、北扶余から続く百済(南扶余)と共同した公孫氏の九州における植民地であった。

 このように、歴史上は日鮮同祖、いや日中同祖とでもいうべき大過去が、たしかに存在したのである。朝鮮の史家は国民統一のために反日、抗日とばかりいっていないで、、一日も早くこの歴史を直視しなければならない。かつて朴大統領は私の友人に、「日本の朝鮮合併ばかりを非難するのはまちがっている。李氏朝鮮の統治が悪かった事実をも考えなければいけない」と語った。

 総督府時代の日本人が、特にクズのような日本人が、かれらの父祖を差別した事実は歴史としてよく知られているし、ことに、美女とはいえない厚化粧のバアサンだった閔姫女史の屍姦事件は伊藤博文がやらせたものだが、日本人のツラよごしでしかない。しかし、日本は朝鮮、台湾、満州などで住民を差別する反面で、必死になってインフラを整備した。今それが生きている。これは事実として認めなければならない。

 以上、詳しくは本文を読んでいただくとして、本書は『倭と辰国』『史記解』『歴史』などで論じた中国史借史説の要約であり、またその集大成でもある。要約である以上、なぜそうなるか、という部分に十分な筆が及ばなかったきらいがあるが、それについては前記各書を参照されたい。なお、『史記』『バビロン』の引用は太いかっこで示してある。日本でも歴史の見直しは徐々にではあるが、確実にその足音がきこえている。本書かそのためのよすがとなることを祈る。

 平成十一年十一月 鹿島 曻


 第一章 嘘から生まれた中華思想

 中国の歴史は史実でなく、小説だ

 日本という国名は太陽が昇るところといえば体裁がよいが、つまりは最も東にあるという意昧だけのものであって、中国を世界の中心と考えた古代中国から日本へ来た渡来人の命名であった。そのことを東にあるからとか、太陽に近いとかいってありがたがるのは決して誉められる態度とはいえない。そんなに太陽に近けれぱ原爆で焼かれたようにまっ黒こげになってしまう。太陽に近い国の人間が原爆で焼かれたなんてマンガにもならない。このように、日本を東の果てと考える地理と歴史の根本的な誤りが、阿じように、中国の夜郎自大な中華文明を作ったのであるが、それらは中国文化と日本文化をともに破壊した。

 かりに日本を中国とすれば千島やハワイが日の本である。じじつ千島アイヌはもともと秦王国にいて千島に移動したものだが、秦王国の別名である「日の本」という名称を千島に持っていって後生大事に自称した。さらにハワイを中国とすればアメリカが日の本になる。地球は球形だから、こんなことは指の先で地球儀をぐるぐる廻しているだけでキリがないのだ。

 自分たぢが地球の中心にいる、という余りにも愚かな、マンガ的な意識からあの夜郎自大な中華思想が生まれた。その結果、中国の政冶家は天皇制時代の日本の侵略を激しく非難しているが、自分たちがチベット、シンチャン、内モンゴル、満州などなどを侵略したことを全然反省しない。

 国民政府の発表によると、日本の侵略戦争なるもので中国人の犠牲者は一50万人以可だったという。しかし毛沢東の大躍進の失敗で飢え死にした国民は三〇〇〇万人ないし、八○○○万人だったという。それならば中国共産党は日本を非難して反省を求める前に、自ら日本の、1〇倍も反省する必要がある。

 しかし、ある中国の留学生は「毛沢東は帝だから国民をいくら虐殺してもいい、日本は侵略者だから許されない」という。こういう人は「中原逐鹿」という中国の歴史を知らないのである。中国では漢民族でなくても、漢字文化を持つ外夷が中国の支配を争うことは正しいとされているのだ。また中共はチベットに侵入してチベット人六〇〇万人の二割から三割をなぶり殺しにした。日本が満州で細菌実験をやって殺した中国人はわずか、1〇〇〇人単位だった。

 もちろん筆者は日本を弁護するものではない。山東省でやった細菌戦争はアメリカの原爆投下と同じく、まぎれもない戦争犯罪である。しかしその責任は細菌部隊に勲章をやったという天皇ヒロヒトにある。兵隊に罪はないのだ。

 さてそれでは、その古代の中国にはどのような歴史があったのだろうか。せわしない現代の日本人一般にとって、それはどうでもよい、うえん極まりないことに見えるかもしれない。しかし、中国の東方にあるということを以て、ありがたく自らの国名とし、不当にも中国共産党に非難され続けている日本人にとっては、まんざら、そうとばかりもいえないではないか。

 手元の歴史年表をめくると、中国古代には紀元前一、六〇〇年頃から「殷」の時代が始まったとある。さらに「周」が起こり、やがて長い春秋戦国時代に入る。そして始皇帝によって「秦」が統一を果たしたのが前二二一年とされる。孔子、孟子が活躍し、のちに儒教のもととなった数々の古典を残したのも春秋戦国の時代となっている。これらの国々のことは中国随一の歴史の古典とされる『史記』などに長々と記されていて疑うものはなかった。しかし中国の古代では真実、そのように歴史は推移したのだろうか。筆者は疑問を持たざるを得ない。最近では『史記』の多くの記録が年代的に整合しないという学者も現れている。

 筆者の疑問は中国の古代史とメソポタミア、ペルシアなどいわゆるオリエントの古代史とを比較して生じた素朴な疑問である。夏、股、周、そして秦と漢字で記されているところの歴史は、実は古代オリエントの都市ないし帝国の歴史ではなかったか、という疑いなのである。余りにもとっぴな説だ、と思われるかもしれないが、例えていえばこうである。


 古代中国史はオリエント史の翻訳小説だ

 ロシアの文豪トルストイは『戦争と平和』という長編小説を書いた。かれはロシア語で執箪した。日本人の読者のほとんどはその作品を日本語で読む。この小説の中に登場するナポレオンは日本語訳でもナポレオンである。誰が訳したものであっても、読んだ人はトルストイの『戦争と平和』という作品に接したのである。原作があっての翻訳であると明白に知りつつ…。

 ところが、トルストイの原作があることを知らないとしよう。その筋書きは『戦争と平和』と似たものであるが、ナポレオンは例えば田中角栄になっている。時代設定や状況設定は日本を舞台にして、工夫されている。このような日本語の作品に接すれば、それをオリジナルな日本語の作品と受け取る読者がいたとしても不思議ではない。古代の中国史や日本史を読んだ人はすべてがこのたぐいなのだ。『戦争と平和』という作品について全く知らなければ、それをもとにした作品であることは判らないのである。

 一方、トルストイに『戦争と平和』という作品があることは知っており、その忠実な日本語訳を読んでいるとすれば、前記のような作品に接したとき、これは『戦争と平和』のまがいものだ、ソックリさんだ、と見極めがつく。手塚治虫の『ジャングル大帝』を知っている人は、ディズニーの映画『ライオン・キング』を見たとき同じ思いをしたであろう。

 古代の中国の歴史とされているものを古代のオリエントの歴史と比較していくと、歴史の流れ、事件、登場人物が偶然ではすまされないほど見事に対応しており、中国の歴史はオリエントの歴史のソックリさんであるということに気付くのである。もとより単純な翻訳ではないから、それを見抜くことはたやすくないけれど、綿密に対比する作業を続けていくと、手のこんだ中国の先人の作業が見えてくる。その張本人の一人は『史記』を書いた司馬遷(紀元前一四五~八六)であり、さらに司馬遷のその道の先輩が孔子であった。しかもその孔子の正体は実はシナ人でなく、ユダヤ人のラビ、エリアだったのである。まことに中国の歴史はオリエント史の惜りものなのだ。例えば周の歴史はアッシリアの歴史である。秦はペルシア帝国と深い関係があり、始皇帝は中国人ではなくバクトリア王ディオドトス一世なのであった。


 秦の始皇帝は実はバクトリア人だった

 秦の始皇帝陵のいわゆる「兵馬俑」を陝西省西安の郊外で見て、私は兵たちの像に異様なものを感じとった。それまでの古代中国のデフォルメされた動物像と違って、オリエント式の与実的な立体像は、その等身大の身長といい、鼻の高い顔付きといい、まさにギリシアやペルシアの文化の香りがする。ということは、かれらは前三〇〇年頃、中国の西方にあったというグレコ・バクトリアの軍隊ということになろうが、このような直観は古代オリエント美術を知っていて現地を視察した人びとに共通するものではないか。しかしこのことは日本での兵馬俑の展示からは得られない実感であろう。日本を巡回した展示物は共産党の学者たちが日本人を洗脳しようとして、選び抜いたほんの一部に過ぎないからである。

 かつて小説家の司馬遼太郎は読売新聞紙上で、漢民族は「関中台地(陜西省)に流れこんでくる、インド・ペルシア系の流入者から、今の中国武術、曲芸、さらに仏教という形而上学を学んだ。秦の始皇帝陵の兵馬俑はギリシアの技術で作られたものであり、始皇帝の時代、ギリシア丈化はバクトリアを通じて中国の文化を支配していた」といった。

 この時代、西域を本拠として中国大陸を侵略できる程の大国はグレコ・バクトリア王国しかなかった。バクトリアは中国史では大夏国と記されるが、仏典ではバクトリアは大秦国と書かれていて、この国こそ始皇帝の秦国の本国なのであった。

 きわどいところまで悟った司馬遼太郎だけでなく、文字に明るいはずの中国史学の研究者たちが、どうして始皇帝の秦国がグレコ・バクトリアであったと考えなかったかというと、秦という国家が数百年にわたって中国大陸の咸陽(現在の西安)にあったとする『史記』の記述を、無批判にそのまま受け人れたからであり、それは漢字で書いたものをすべて真実であるとする救いがたい無知文盲のためであった。そういう意味では、かれらは愚かなる中華思想に洗脳された「学奴」だったのである。

 ひどい表理かもしれないが、中国、朝鮮、日本はともに建国のはじめから他民族によって侵略され、人びとが奴隷化されたから、史書であろうとその他の古典だろうと、教えられるままに解釈しつづけるほかはなかったのた。日本人の遺伝子に奴隷的心性が組み込まれているという学者がいるが、これは中国人もそうなのであって、そうでないものは生きられなかったであろう。

 『史記』の中の「秦本紀」に書かれた始皇帝以前の王たちとその一族が、中国大陛に実在したという直接の証拠は全く発見されていない。これは日本の古代史も同じである。司馬遼太郎は奇しくも中国を偽造した司馬遷と同姓であるが、かれはのちにノモンハン事件を調べて、その敗北の責任が天皇ヒロヒトに帰することを知って筆を折ったという。

 じじつ天皇ヒロヒトは自分の長女と婚約した東久邇宮盛厚中尉がノモンハンでソ連軍の捕虜になったために、スターリンの不法な要求に屈服して敗北したままで停戦を命じ、若宮の身柄をかえして貰ったが、その事実をかくすために送還された将校をすべて自決させた。ノモンハン事件で小松原師団が全滅したことを知ったアメリカは日本軍の弱点を知り、のちにハル・ノートで日本に大陸を放棄するように圧力をかけた。その意味でもノモンハンの全滅は日本にとっては重大な事件であったが、この敗北の責任を認めない陸軍参謀本部は史上最悪最低の集団であったし、保身のためにこのような真実を書かないという点では、司馬遼太郎も司馬遷と同質であった。

 『史記』の記述を無条件に、すなわち考古学的な裏付けもなく、また近隣諸国史とも比較もせずに受け入れてしまえば、「バクトリアの大秦国が始皇帝の秦国の本国であろう」とする発想は出てこない。しかし『史記』に記す「焚書坑儒」という事実をよく考えて、その文章に作りごとがあったと仮定すれば、バクトリアの大秦国が始皇帝の秦の本国であるという結論は全く論理的なものである。

 始皇帝の文化はしばしば「革新的」であったと評される。従来の中国文化を一変してしまったからであるが、異国丈化の侵略でなければそういってもよいだろう。始皇帝の悪行として「焚書」がある。皇帝は自らを中国オリジナルの皇帝とするためには、過去の記録はいっさい邪魔であった。中国古来の歴史をすべて抹殺することによって、ディオドトスは始皇帝に変身しえたのである。長州の大室寅之祐がまんまと睦仁に変身した日本の腋史を考えれば、このことは決してありえないことではない。

 同じことは昔の日本でも実際に行われたことであり、『桓檀古記』が記すように扶余王仇台が朝鮮に移って百済王仇首となり、さらに九州の伊都国に移ってイワレヒコ(神武天皇)になった事実や、長州にかくれていた大室寅之祐が京都に潜入して、暗殺された睦仁親王にすり代ったことなどはどの教科書にも書かれていない。このように歴史の変造や偽造は中国や日本ではしごく当り前のことであった。

 日本では天皇すりかえをかくし通すために、明治二〇年には伊藤博文が爵位をばらまいて知っている者の沈黙を買い、さらに翌二一年には、寅之祐の生家の広大な上地をも、近隣の人びとに分け与えて沈黙を求め、また血液のつながりがほとんどないような中川宮の一族をも全員皇族にして黙らせた。その結果がさきに述べた盛厚中尉の捕虜事件と帰還将校の虐殺であり、また皇族が南京に入るために、疑わしきものを全部殺したという南京事件であった。


 木を見ても森を見ない歴史学者

 今や学問は細分化されている。歴史学も例外ではない。日本史、中国史、オリエント史それぞれが専門化されている。それだけではすまない。中国史の秦、漢の専門求家は明の専門家を兼ねることはむずかしい。江戸時代を研究している日本史家に平安朝のことをたずねるのは見当違いだ。嬰するにハタケが違うという。ある日本史の女性研究家は「聖徳太子は朝鮮の人だ」といいながら、「全体として日本史が朝鮮史の借記であるか否か、には興味がない」といって筆者を残念がらせた。

 歴史は極めて世界的である。国際的であるし、同時に連続性があって原因と結果が続くから、ある時代の、ある国についてのみ研究していては、全体を見るときに誤りが生まれる。しかし今のところ、古代オリエント史と古代中国史とを対比できるような専門家は世界でもまずいないであろう。従って古代中国の歴史は古代オリエントの借り物だといった話は、中国史の専門家にもオリエント史の専門家にも通じない。中国史にもオリエント史にも、専門家であるといえない筆者がこのことをなしえた理由である。

 学問というもの、研究というものがいくら細分化されようとも、腋史そのものはタテにもヨコにも、つまり時間的にも空間的にも絶えることなくつながっているから、限定された歴史のある局面のみを見ることは、まさに「木を見て森を見ず」である。だから始皇帝という歴史の、一部分を知るためであっても、前後の大きな流れを無視することは出来ないのだ。

 昔、私が韓旧の大田市で、ある大学の考古学教授に「ピョンヤン付近で出土した黒陶土器は竜山黒陶の流れだ。それが日本の亀ケ丘土器になっている」といったところ、彼は「どうして同じような文化が世界の各地で生まれたと考えないか」といって反対した。同じような問答はソウル大学で金元竜教授ともした。しかし、原爆の例をとっても、そのマニュアルはアメリカとドイツ以外はすべてが模倣であった。いやアメリカの原爆も実はドイツの理論の模倣であった。

 日本は戦争中に原爆の理論を教えられていたが、ウランがなかったから完成できなかった。終戦直後、それを研究した学者が厚木から重慶に飛んでドイツから貰っていた設計図を中国人に伝えた。中国の原爆がプルトニウムでなくてウラン爆弾だったのはそのためだという。そして中国がパキスタンにその設計図を転売した。パキスタンもまたウラン爆弾である。

 本題に戻って、この本では限られたぺージの中でやさしく、丁寧に、古代中国と古代オリエントを対比させていきたい。そのことによってはじめはとっぴに思われたことが、「実は恨拠のあることだ」という受け止め方に変ってほしいのである。「かりに中国史が実はオリエント史であっても、日本史は日本史だ」というかもしれない。そうはいかない。倭人はインドから中国、朝鮮を越えて渡来した、いわば外来の種族だから、日本の歴史は中国や朝鮮の偽史とは無縁であり得ないのである。秦の残留者が朝鮮から日本に移って秦王国を建てた。この人びとを『日本書記』は別倭と書いているが、日本史をつくったのはその人びとだったから、中国史を正しくとらえることによって、はじめて日本史も正しくとらえることが出来る。このこともまた本書の一つのテーマなのである。

 邪馬壱国を調べようとする人は必ず中国の史書『魏史』や『晋書』に当たるが、それらの信頼性はどれほどのものか。魏、晋という国の歴史が本当はどんなものだったのか、冷静な理解力が必要になる。実は『晋書』には「卑弥呼は公孫氏の女なり」と明記してある。「漢末倭人乱攻伐不定。乃立女子為王、名卑弥呼。宣帝之平公孫氏也」というのだが、すべての歴史学者はあえて曲解した読み方をして市民を欺いている。歴史を語るためには、まず日本語でも漢文でも、偏見をすてて古典を正確に読み、そしてその真偽を見抜かなければならない。

近年、日本の古代史研究においては、ゆきすぎた細分化、専門化の反省に立ち、東アジア史全体の中で日本の姿をとらえようとする傾向があるという。方法としては当然のことだが、この場合においても、『史記』のごまかしを見抜いて真の中国史を見なければ、真の日本史は見えてこない。まして偽書でしかない『記紀』を偽書として認識しなければ、誤読曲解の奔流の中から披け出すことは出来ないのである。物知り顔をして、いわゆるウガヤ文書や『秀真伝」『東日流外三郡誌』などを偽書だという人が多いのだが、それ以前に『記紀』や『史記』などのいわゆる古典とされた官選史著が偽書であることを知らなければ、その議論はしょせん愚かなる空理空論に過ぎない。


 歴史の教訓を求めて

 明治維新のとき、薩長らの倒幕側が尊王撲夷といったのは実は幕府に対する権力闘争の口実にすぎなかった。その証拠にかれらは攘夷のかけらも実行しなかったではないか。いま中国共産党のかかえる問題も実は資本主義と共産主義の対立ではなくて、むしろ「法治か人治か」という対立が根本にある。人治である限りは結局だれが権力を握るか、という権力闘争でしかない。このことは毛沢東が大躍進の失敗をごまかすために、白作自演した文化大革命なるクーデターを見れば判るであろう。国民を主権者として投票する権利を認めない限り、権力の交代は暴力によらざるをえない。歴史に残る一九八九年夏の天安門の虐殺は、中国共産党がその専制によって自浄能力をもたない以上は避けられなかったのである。

 くり返すが、毛沢東が大躍進の失敗を非難させまい、告発をそらすためにと始めた文化大革命の犠牲者は少なくとも三〇〇〇万人以上いたという。またチベットに侵略したとき、チベット人六〇〇万人のうち一二〇万人ないし二〇〇万人のチベット人を虐殺した。これらの非道なる犯罪は一五年戦争の末期に原爆によって広島、長崎の市民を虐殺したアメリカ帝国の戦争犯罪にも比すべきものであろう。原爆によって終戦を早めたなどというのはペテン師のいいわけにすぎない。アメリカはこういう正義の歪曲を天皇に戦争責任がないというペテンと相殺したのであり、アメリカの戦争は常に正義を口にするが、実は金もうけのためなのであった。

 さて鄧小平は一九八四年一〇月三日、香港に対して五〇年間の資本主義を認めるといって「一国両制」を主張した。いったい共産主義と資本主義が一つの国家の中で共存できるはずはないから、このことはその五○年の間に共産党を改造して中国すべてを資本主義にするという宣言であろう。この時サッチャー英首相が「なぜ一〇〇年といわないのか」と聞いたところ、鄧は「五○年で大陸は香港なみに豊かになる」といったという。毛沢東が一五年でイギリスに迫いつくといった大ぼらを思い出すが、しかしそれを可能とするためには、大陸をすべて資本主義化しなければならない。

 笹川陽平は次のように述べている(「地球巷談28」産経新聞97/7/13)。

 【香港返還式典の模様を旅先のモスクワのホテルのテレビで見た。インタビューに応じたサッチャー元英国首相が「共産中国に明日はない」と手厳しい見通しを許っていたのが印象に残った。先月中旬ロンドンでお目にかかって、サッチャーに全面返還に応じた理由をただしたところ、「中国に法と正義の尊さを教えるためのものです。彼らはいまだに“法治”を分かっていない。英国は“法治”について範を示す必要があった」といたって明快であった。

 またサッチャーは「中国は鄧小平が約束した五〇年間の一国二.制度を守るはずがない。必ず言論、集会の白由や経済活動の制限をしてくる。その時、西側諸国が一致団続して中国に約束事の順守すべきことを教え込まねばならない。現在のところ、香港が現状維持されると思っている人びとは少ない。しかし中国は今回、国際的な約束事を守ることで世界的評価を高める絶好の機会を得たことになる」といった。】

 鄧がいった五〇年の期限は、その間に共産党の権力者の子供たちが、明治の維新政府の要人たちですらもしなかったような、公金を盗んでどこかの外国に亡命するための時間かせぎだったか。あの天安門の虐殺もこのようなチャイナ・シンドロームの産物であろうか。こんな官僚の腐敗が学生や大衆の怒りを呼び、その彼らを、権力者たちが自分の子供たちを救うために虐殺したのである。

 矢吹晋は「(江は)香港の現状維持は歓迎するが、香港を基地にして大陸の民主化運動をやってくれるなと懇願しているのだ」と述べる(「江沢民政権の実像」読売新聞98/8)。しかし民主化は歴史の流れであり、大帝国ソ連でさえさからえなかったのである。

 また鄧は「台湾は独立制をもち、大陸と異なる制度を実行してもよい。司法は独立し終審権を大陸に移す必要はない。大陸への脅威にならない限り軍隊を保有してもよい。大陸から軍隊も行政官も出さない」と述べた(『郵小平文選、三』)。すなわち中国と台湾を連邦化するというのである。しかしこれが本心なら、まず中国はチベット、シンチャン、内蒙、満州などの自治と連邦化を認めなければ一貫しない。もし中国がそれを認めればアメリカも台湾の分離と独立を助けたりしないであろうが、それで中国が四離滅裂にならなかったら奇蹟であろう。このことは共産党の幹部たちも十分承知だから、江沢民はすでに鄧の開放路線を修正して再び専政と独裁を回復しようと計っているらしい。

 江沢民といえば、かれは突然、早稲田大学で大ブロシキを拡げて、「日本との戦争でシナ人に三五〇〇万人の犠牲者が出た」といい出した.、もちろん、そんなことはひどいデッチアゲで、蒋介石の国民政府勝利宣言では戦死者は一三一万九九五八名であったといっている。

 イギリスに一五年で追いつくという大躍進の失敗による大飢饉で毛沢東が殺したのが少なくとも三〇〇〇万人といわれているから、江は、日本軍のやったことはそれよりひどかった、といいたいのであろう。しかしこれでは中国人は上から下まで歴史を歪曲することを平気でする民族だといわれるであろう。中国共産党がやりまくった大虐殺を、日本を非難することによって消去しようとするのであるが、それは危険なプレイである

 鄧はゴルバチョフが空しくも望んだように、中国共産党がその権力を維持したままで国を資本主義化できると考えたのであろうが、この期待を徳川幕府が維新政府に変わったわれわれの歴史と比べてみると、やはり体制が変わるためには古い組織は権力を失うとすべきではないか。

 日本では徳川幕府が亡びても維新ののち天皇制が生き残ったという人がいる。しかしその真相はどうか。足利時代には義満の子が天皇になって北朝の天皇家を創設した。幕末には南朝の遠い子孫であると自称した大室寅之祐が明治天皇になりすまして、実は革命であったのに維新といって、そのままの天皇家が存続するようにして国民をあざむいた。これこそ世紀のペテンであった。だから日本では天皇制はひそかに変わったといえるし、またその周辺に孝明大皇を裏切った公卿たちが残っていた以上、たいして変わらなかったともいえる。理屈を重んじ、革命を正しいとしてきた中国人にはこんなトリックは必要ないであろう。しかしその理屈を重んじる体質が自分たちの歴史を偽造したのだから、われわれはこれに引きずられてはならないのである。

 そもそもいまの中国共産党は幕末の幕府と同じく、上から下まで余りにも腐敗して人材が枯渇し、自力更生の望みはない。権力をにぎった政治家と官僚は国のカネを平気で自分のために使っている。清末、西太后は「孔子は鉄道に乗らなかった」といって始めて作った鉄道を破壊した。鄧も同じように、慶喜やゴルバチョフのなしえた選択を斥けて天安門事件をひきおこした。まさに中国的な権力のやり方である。だいたい、ソ連にしろ中共にしろ、資本主義国家群が自ら求めて作り出した仮装敵国であって、これによって資本主義諸国に緊張を保つための存在であった。その役目が終われば、ソ連であれ中国であれ、共産党の政府なんてすぐにつぶれるであろう。

 明治政府は徳川幕府の士農工商という藩幕体制にかわって、武士を軍人と文官に分離したうえで、商、工、農といういわば西欧的な体制をアンシャンレジームの天皇制の中に導入したから、これもまた「一国両制」であろう。その機構は、旧権力者には“天阜すりかえ”をかくす口止めのための爵位を与えたうえで、下級武上たちにも満足出来る生活を保証して年金を与えたが、それが二重のコストになって、国家の財産を歪め、金が不足して近代兵装ができず、維新という革命を正常に発展させることに失敗したのである。そして「革命か戦争か」という重大な岐路の前であえて侵略戦争を選び、のちには天皇ヒロヒトと東條および高級参謀たちの愚かさのゆえに、すでに確立した世界資源の秩序を維持しようとする先進国を敵にするという悲劇につながった。

 しかしそれは伊藤博文がイギリスの命令によって戦争の道を選ぶために、明治憲法によって「天皇制と軍閥」という新しいシステムを作って、実は「天皇制と幕府」という旧システムを別の形で復活させたことに始まる。その原因は、そもそも秀吉と家康が人民の力、同民の権利というものを考えなかったからであって、春秋の筆法を借りていえば、維新政府と天皇ヒロヒトの失敗は遠く秀吉と家康に姶まったといえよう。同じような失敗に、恐らく中国共産党もおちいるであろう。

 さて、松本秀雄は免疫グロブリンのGmパターンによって北方型モンゴロイドと南方型モンゴロイドとに分類して、「杭州、武漢、西安を結ぶ線で漢民族は北部と南部の二つに分けられる」と述べた(『日本人は何処から来たか』)。中国は北と南に北方モンゴロイドと南方モンゴロイドがまったく同和せずにほぼ拮抗している仇しから、これを統一するためには問答無益の暴力が必要になる。

 歴史上、すべての中国の王朝は三〇〇年くらいで統一のための過剰な暴力が急速に腐敗して滅びている。中国共産党といえども中国の国家である限り、同じ運命を免れることは出来ないであろう。

 こうした複合型の多民族国家はアメリカ合衆国のように、特定の種族が決定的に優位を持たなければ動乱が絶えない。

 朝鮮でも先住民であるオロチョンのうえに、まず苗族と混血したツングースがいた。そしてシルクロードを渡って来たチュルク人(トルコ人)もいた。チュルク族の一派には高句麗と高麗があったが、新羅はインド系であった。秦人と漢人を始めとするシナ中原からの移民もあった。これら多くのグループが、こもごも朝鮮を支配したから抗争が絶えなかった。朝鮮人が固守する本貫制度が国民の融合を妨げたのである。李氏朝鮮は巾国系の朱子学を残していたが、歴史や言語は高句麗系であった。インド系の中山国、奇子朝鮮、大扶余、駕洛国などの文化は檀君教として残るだけである。このような融合しないままの多民族国家でも抗争が絶えない。朝鮮民族がこのような古朝鮮の歴史を正しく理解しない限り、かれらの貧苦と「恨」の歴史は止まないのであろう。

 韓国がいま先進国の仲間に入れてもらえるのは、日本がさきにインフラを整備しておいたからである。誰がこの国のインフラを作ったか、そのことを公正に理解できない限りこの国に輝く未来はないであろう。ついでにいえば満州も、台湾も、そのインフラはすべて日本人がつくった。満州の首都であった長春で、いまなお、もっとも立派なビルは日本人がつくったものだという。

 話は変わって、最近、Mという上野のスナックで中国の雲南省出身の娘さんから面{い活をきいた。「私は二〇歳で中共軍に人って三年間訓練を受けた。二三歳で退役して会社に入ったが、社員は全員が仕事せずに新聞ばかり読んでいる。給料が一銭でも少ないと目の色を変えて上役や社長にくってかかる。それでも共産党員だからクビにはならない。いやになって一年でやめて日本に来た。中共軍に人るのは一〇〇〇人に二、三人という難関で、処女でなければ入れない。入ってからもセックスは厳禁。ある同期の女性が妊娠してツワリがひどくなったが、相手を調べられた結果、首をくくって自殺して(させられて)しまった」。

 なるほど中国軍の軍紀が厳正なことはよく判ったが、筆者の友人が北京に近い小都市でジェット機の操縦ライセンスをとった時、中国空軍の有夫の女性将校と知り合って不倫したという。何でも話し合う友人でウソやホラではないのだが、「金を渡したか」ときくと、「いや彼女は好奇心でしたと思う」といった。自殺した女兵との激しい落差を痛感した。中国ではこのように幹部が腐敗している。そして末端は奴隷化している。それは旧日本陸軍と同じような末期的な症状であるが、このような体制は長く続くことは出来ない。


 北朝鮮とカンボジアを支持した中国

 特に北朝鮮の問題がある。今や北朝鮮の崩壊は避けられないといわれるが、それは中国にも深刻な影響を及ぼすであろう。だいたい、北朝鮮のテポドンも、カンボジアのキリング・フィールドも、中国はとめればとめられたのに勝手にやらせたのだ。これこそ中国の子分になればこうなるというサンプルだから、台湾がいやがるのは当り前である。

 北京では共産党の腐敗がある一方、香港では従来からマフィアによる麻薬、奴隷売春などの黒社会が存在していた。今まではイギリスの統治によってようやくそれらを阻止していたが、共産党と黒社会が癒着するのは時間の問題である。法治を否定する共産党の人治政治と香港の黒社会が結びついたらどういう結果になるか。それはまさに恐怖の杜会ではないか。

 中国ムスメにつかまって、早々と大陸や香港で工場や営業所を作った日本人はきっとひどい目に合うだろう。工場では労働者が仕事をせずにわがままをいいたいほうだい、店舖ではお客が皆万引きするというわけで、結局はヤオハンのようにつぶれてしまうであろう。

 「週刊新潮」(平成9/8/24)誌は、ジャーナリストの富坂聡氏の言として、「中国では業者からの賄賂が半ば常識、ヤオハンは賄賂を取った中国人の仕入れ担当者を首にして、従業員の給料を能力給制にしようとして反発を食った。・…反対派が地元のチンピラを雇い、ヤオハン幹部の車が事故に遭って幹部の頭の皮がズルっと剥げるほどの重傷を負った」と書いている。国が侵略戦争の責任をとらないから自分が代行するとミエを切ったヤオハンの和田社長は上海の万引きとチンピラたちに追放されたわけである。文化と歴史に村する正確な理解がなかったのだ。

 近代資本主義のルールは人治の共産中国には通用しない。しかし資本主義である韓国もまた、賄賂を封筒に入れて送ることが当然の社会であるし、イギリス支配下の香港も、イギリスが与えた虚構の信用によって辛うじて黒社会の支配を抑制していた。

 だから、中国大陛の支配者は共産党だけではない。もう一つ、黒社会もその支配者であって、「中国は、二頭だての馬車で走っている」といわれる所以である。このことは蒋介石がフォンパンのボス杜月笙の兄弟分であった時代から少しも変わっていない。

 1O0年のスパンで考えれば、水素燃料など、新しいエネルギーが完成して地球上に燃料の収り合いはなくなるかもしれない。しかし三〇年のスパンでは、まず、中国では燃料と食糧が絶村的に不足するから、それらを強奪しようとする誘惑を避けがたいであろう。

 目下、アメリカが世界の燃料を支配しているかに見えるが、二億の人口で一四億の中国人の希望を実らせることは出来ないであろう。中国のソフト・ランディングは失敗するだろうし、その時にアメリカが対応を誤ればアメリカも沈没するであろう。

 それを思うと、中国は資本主義を取り入れるれる前にまず法治国国として成立しなければならなかった。法治国家でなければ世界経済に完全に参入できないからである。だから鄧が処方した共産党による体制の革命は、法律無視の人治によって混乱をひきおこして結局は失敗に終わるであろう。そういう意味では、伊藤博文の作った欠陥だらけの明治憲法でも人治よりましだったといえよう。かつて地球上の巨竜が絶滅したように、法治を認めない共産党はその他もろもろの人治社会と共にすべて絶滅するであろう。いかなる国家も歴史の流れを逆行することはできないのだ。

 中国ではその時、文革の犠牲者を上廻る厖大な死者が生まれるであろう。公卿と武士の悪いところだけを受けついだ慶喜を失脚させた戊辰の役と東北戦争の犠生者よりも多い、また、エリート党員であったゴルバチョフがロスチャイルドに手じまいを通告されて、共産党の幕引きをした時に作り出した弱者の犠牲者よりも多い、一四億人、一五億人の世界の一大悲劇が歴史に記録されるのである。

 だいたい今日の文明の力では、一四億の多民族による統一国家なんてとてもムリなのである。そんなことが、可能ならとっくに世界連邦が成立しているだろう。もちろん、衣食住のすべて、燃料エネルギーのすべてに革命がおこれば人類は差別化の欲望を失って、世界的な統一国家が出来あがるであろうが、それ以前に、中国は食糧と資源の枯渇から戦争か革命かという選択を行うであろう。

 どちらにしても、日本を含めて周辺の諸国は、中国の恐怖の激動に巻き込まれないように、かかりあいを避け、十分な自衛手段を備えたうえで見守っている他はないのだ。

 日本はかつて無主の大陸であった東北三省に王城楽土を作るといって満州国の建国を始めてインフラを整備した。しかしそれが失敗したのは、一〇〇年後の租税まで取りたてたという、沽安が極度に悪い内陸部から、イナゴの大群のように厖大なシナ人が逃げて来たからであって、それ以前には、清末まで、満州にはシナ人は一人もいなかったのである。

 もしアメリカが日本と共同して満州を開発していたら、国境に兵隊と戦車を並べてシナ人を入れなかったかもしれない。日本人はシナ人を差別せずに受け入れたが、それは甘かったといえよう。

 四川省や雲南省も同じようなシナ人の逃亡先になったが、ここではインフラが悪かったから今では大陸一の貧乏地帯になっている。一〇万円で娘を売ったとか、パンダを捕まえて食用にしたとか報じられているが、これに比較すれば、日本が東北三省にインフラを整備した功績は認めなければなるまい。いま多くの漢民族が東北に移っているが、それは日本人が住めるようにしたからではないか。

 朝鮮人や中国人には自らインフラを作らず、他国に作らせてそれを盗むといういやしい思考が根づいている。それを認めないで日本の侵略とばかりいうならば、日本はそんな中国とのかかわりを必要最小限にとどめて、かれらの理性が回復する日を待たなければならない。

 毛沢東は「中国が統一されたのは日本の中国侵略のおかげだ。日本に感謝しなければならない」と述べたし、黄文雄は「日本の中国進出は、二〇世紀初頭において列強の中国分割を阻止し、中頃には中国の内戦を終結させた」と述べている。また内田良平は「辛亥革命は日本人がやったことだ。日本人が中華民国を作ったのだ」といったが、その言葉は必ずしもウソではない。多くの日本人が中国の革命のために命を捧げたのである。しかしこの功績を空しいものに変えたのはひとえにヒトラーに依存した無決断の天皇ヒロヒトと東條以下の無能なる高級参謀だったのである。



 その一、日本史の虚構と裏日本史 p158~
 古代中国史の虚構

 中国を始めて統一した秦(シン))帝国とは、アレキサンダー大王がおいたバクトリアの司政官、ディオドトスが始皇帝と称して中国を支配した植民地であった。

 始めにお隣の中国人の中華思想を考えておこう。

 「漢民族はすべて黄帝の子孫である」というがこれがデタラメなのだ。黄帝は実は漢民族とは関係がない。アッカド王サルゴンをモデルにした創作の大王だから、それは日本人のいう万世一系の神国意識と同じく麻薬的な幻想が作りだした観念なのである。こんなことを民族のアイディンティにするのでは日本を神国というのと同じで、世界史から見れば夜郎自大な考えである。歴史の偽造と錯誤がこの民族の致命傷であり続けた。

 中国大陸を杭州、武漢、西安を貫ねて線を引くと、その両側の住民は黄河文明の北方モンゴロイドと長江文明の南方モンゴロイドであって、血液型も顔の形も言語も全く違っていて別の民族である。このように別の民族を、偽造した歴史とインダスから渡来したドラヴィダ人が持ち込んだ外来文化であるいわゆる漢字によって、無理やりに統合しようとしたからいろいろな矛盾が生じた。

 漢字という言葉も中国人の勝手な言い方で漢字は漢民族が作った文字ではない。そこには漢という国家以前、いや漢民族が成立する以前から甲骨、金文という外来文字があった。漢民族以外でも同じ形の文字を受容した多くの民族がその文字を発明した人びとを離れてそれぞれ勝手な読み方をし、勝手な使い方をした。どれが正しいというわけでもないし、全てが間違いだったともいえるのである。

 一九二〇年代に四川省の成都で漢字とは別の符号が刻まれた青銅武器が大量に出土して、これが始皇帝の頃まで使われた巴蜀文字だったことが判った。これを徐中舒は「巴蜀文字は夏文字の名残りである」といい、徐朝龍は「インダス文字の印章を想起する。両者共に印章として用いられ文字と図柄を混成している」と述べる(『長江文明の発見』)。

 夏という歴史は実はウルク、ウル史の翻訳であるから徐中舒の推論は歴史を知らざるものの言であるが、徐朝龍の推論は考慮する必要がある。

 インダス文明を作ったのはドラヴィダ族とナガ族だというが、これらの人びとがインダス河口のマガンから遡って中国に入ったことはのち落陽金村から出土した韓の驫氏の鐘の銘文からも推察できる。

 前漢時代の『蜀王本紀』と東晋時代の『華陽国志』は、「蚕叢、柏潅、魚鳧、杜宇、鼈霊(開明)が上古代から秦による征服まで蜀国の上(朝)として交替していた」と述べている。

 世田谷美術館で展示されて見る者を驚嘆させた三星堆の出土品は、「縦目」を持っていたという「蚕叢」を表す青銅の「縦目仮面」を始めとして、「柏潅」と見られる川鵜、「魚鳧」を表す青銅鳥頭や大量の「鳥頭杓柄」などを含んでいて、「杜宇」以前の蜀王国に属するものと見られている。

 文献の記録を分析すると、外来の「杜宇」が土着の「魚鳧」を倒して蜀の新しい支配者になったという政治権力の交替が読みとれる。しかし多数の鳥が止まっている青銅の神木は鳥のトーテムポールで、この人びとが大航海をする民族であったことを示すであろう。そうだとすれば、かれらは長江の下流から上って来たのではないか。

 広漢一帯を政治の中心として展開した三星堆文化に対して、西の成都一帯を中心にして、いわゆる殷時代から、「尖底器」という特徴の強い土器を用いる文化圏が出現して、春秋時代前半まで存在した。西周前期に巨大中心都市の放棄によって三星堆文化が崩壊したのを受けて、成都西部一帯は羊子山祭壇や十二橋宮殿などに見られるように蜀の新しい政治の中心である様相を示した。

 徐朝龍は、「文献分析と考市学資料とを結び付けて理解すると次のような経緯が考えられる。およそ西周時代前期頃に成都西部の『卑』に拠点をおいた新生の政治勢力の杜宇部族は、それまで蜀を支配してきた三星堆文化の集団とついに対立し、紛争が軍事衝突まで発展して蜀王国の都を攻め落とす結果に至った。

 そして、かれらは三星堆蜀国の魚鳧という最後の王とその一族を処刑して、黄金の王杖などと共に一号坑に埋め捨てた。そしてさらに敵の精神的な拠り所だった巨大な神殿を破壊し、そこに飾られた青銅製の神樹や仮面および人物像などを潰し焼いて二号坑に投げ込んで埋めた。

 『三星堆の遺宝』と呼ばれる青銅製品、玉器、金器などは大文明.の亡国の証である。それ以降、蜀の政治的中心が成都一帯に移り、杜宇政権が、有数十年にわたって蜀の地を支配したのちに開明王朝が天下を奪取し、紀元前三一六年に秦国の司馬錯によって滅ぼされるまで三百数十年余り存続していた」と推理している(『長江文明の発見』)。

 蜀王の系賦は『史記」が各王名を列挙してあるのに比べて極めて異質であり、王名を飛び飛びにのみ記しているが、これは『桓檀古記』の檀君朝鮮の諸王と同じ書き方で、この方が原始の史書としては信じられるものである。『史記』のように全部の王名を記すのは、それが外国の史書の翻訳だからであろう。このような中国史の真実を語っている長江文明の歴史に比べると、黄河文明の歴史は真実を全く抹殺したものであり、今に存在する史書は征服者がオリエント史を漢訳して中国の土壌に移植したものであった。

 黄帝はアッカド王サルゴンであり、そのあと夏、殷、周、秦という諸国の歴史は「ウルク、ウル、ラルサ」、イシン、アッシリア、アケメネス・ペルシアをモデルとした創作史であった。始皇帝はバクトリア王ディオドトスであり、始皇帝の秦帝国はアレクサンダーが置いたグレコ・バクトリア王国の中国における植民地であった。始皇帝がわずか一〇年で中国大陸を支配できたのは、秦の軍隊がアレクサンダーがバクトリアに残したギリシャ兵団で、当時としては世界最強の戦力だったからである。

 これらの歴史を解明したのは世界でも筆者が始めであるが、偽造されて冗漫な文学的中国史を盲信する歴史学者たちは、強力なバリヤーを作って真実の歴史を受け入れなかった。かって生前の八切止夫氏から筆者の理論について「あなたのタネ本は何ですか」と尋ねられたが、そんなものは存在しない。似たような学説があるなら教えていただきたい。

 さてその秦帝国はディオドトスニ世とエウチデムスの極めてギリシャ的ともいえる同族戦争の結果、ひどい蛮地であった中国大陸を見捨ててバクトリアからインド大陸に転進した。ディオドトスニ世が二世皇帝胡亥の、エウチデムスが楚王項羽のモデルだったのである。

 いわゆる楚と秦の戦いは全くのデタラメで、秦、楚の争いはバクトリアの二つの勢力の内部抗争であった。かれらがインドに去ったあとでとり残された若干の秦人は、奇子朝鮮の残党と共に朝鮮半島南東の秦韓をへて日本に渡来し、始めは吉野ヶ里から鳥栖にかけての地に倭奴国を作った。

 このあと扶余王仇台、改め百済王仇首が福岡近辺に伊都国をたててイワレヒコ、のちに神武といわれたが、倭奴国はその仇台に国土を譲って中国地方から大和地方に移り、『北史』に秦王国、または『紀』に別倭とある小国を作った。この国は「日の本」ともいい、その国名は大和から北に追われた千島アイヌによって遠く千島列島に運ばれている。

 古代朝鮮史と倭国史の虚構

 『晋書』は『魏志』と違って邪馬壱国について「卑弥呼は公孫氏の女である」と書いているが、日本の学者はそう読みたくないから奇妙キテレツな読み方をしている。しかし真実は、公孫氏の女の卑弥呼を娶った扶余王仇台がヒメタライスズだったのである。

 漢文を正しく読むことが出来ず、偽造文書の『記紀』に合わせて奇々怪々な読み方をしたのがこの国のいわゆる歴史学者であり、また国民にしても自分たちの祖先が中国や朝鮮から逃げて来たという事実を認めるのがいやだったから、この国では、こんな頭のおかしな連中でも勝手なことをいえたのである。

 神武妃ヒメタタライスズまたは女王卑弥呼は神武の死後、神武の先妻の子の綏靖と共に九州にあった倭国連合の祖王、正しくはその中心の日向の安羅国の祖王であったが、その倭国連合がのちに百済(旧多羅)を支援して白村江の戦いに敗れると、戦勝した統一新羅帝国は唐には秘密にして倭国と秦王国を合体させて新たに日本国を作り、始めに新羅王が自ら日本国王を兼ねた。

 日本史の天智と天武の正体は新羅の武烈王と文武王であって日本に渡来した事実はない。のちに百済王敬福の子に文鏡、武鏡、道鏡、玄鏡といった子供たちがいて、その道鏡が称徳天皇の愛人になって法王となり、そのあと文鏡が井上皇女の愛人になって光仁天皇と称した。これこそベッドの中で奪った王権であったが、かくして日本の天皇家は新羅人から百済人の子孫に移ったのである。

 それでも天皇家を万世一系と威張れるのは道鏡が偽造した二人一役の天智のおかげであった。

 この目的の為に、先に道鏡は自分にも皇位継承権があるといいたくて、『記紀』を書き換えて自分の祖先の百済王子豊璋を以て天智とした。その結果、先の武烈王と合せて天智は二人一役になった。のちに睦仁と寅之祐を二人一役の明治天皇といったのと同じ手法であるが、こんなことをやれば、多くの天皇家を万世一系と強弁する歴史の偽造はいとたやすい。

 天皇家がまず系図を偽造して万世一系を誇るように歴史を書き換えたから、藤原氏も源平二氏も、日本のすべての権力者が系図を偽造して日本史は偽造の固まりになった。

 武烈王の墓地は慶州海岸のポツンと浮かんだ小島にあるが、朝鮮の人びとは王が死後も倭国を監視しているという。しかしこのいい方は歴史を誤解した表現であって、実は武烈王は天智として日本国の天皇を兼ねたから遠くから自分の領土の日本を望んだわけである。こんなことが判らないようでは、朝鮮人の歴史観も日本人と同様で威張れたものではないのだ。

 さて日本人の先祖はおおむね満州にいた奇子朝鮮、公孫燕、北扶余などの傘下にいた「汗人」または「北倭」であった。朴蒼岸氏がいうように、この「汗人」がのちに韓人になったのだから、韓人とは実は倭人のことなのである。

 今の朝鮮人が民族成立の時に文化を教えた倭人のことを非難するさまは尋常ではない。

 「北倭」とは広義には瓦族、クメール族、ナガ族、シャキィ族などの総称であるが、北倭が三分して一は日本に渡来し、一蒙瓦室韋から今の蒙古人になり、一つは朝鮮の朴氏と昔氏になった。新羅帝国の金氏は九州の駕洛国の金氏から分れたもので、これを「南倭」という。朴氏と金氏は共にいまの朝鮮の大姓である。

 朝鮮ではこの他にもチュルク族の高句麗文化が残っていたし、また中国からも朱子学が入りこんだから異民族の間で異文化の対立がおこった。しかし日本では北倭と南倭が共同してツングースを追放し、ツングースは北海道に逃れてアイヌ人になったから、本島だけでは単一文化、単一民族の杜会になった。

 ツングースももともと満州から日本に侵入した人びとで、その始め満州でオロチョンと苗族が混血したものらしい。日本列島にはツングースの渡来以前に縄文人であるギリヤックとオロッロッコ(ウェツタ、穢多)などが先住していた。琉球とか琉鬼国(樺太)とかはギリヤックの地といっているのである。

 『契丹北倭記』第一八章は「初め五原に先住の民あり、没皮、龍革は北原で牧畜し……と述べているが、この没皮はニヴヒ、龍革はギリヤックのことで、かれらはもと大陸の北にいたものである。

 ところで、もともと天皇の選定は日本でも古来、蒙古のクリルタイと同じく、血族者の中から実力を考量して選んだ。その新羅帝国の王家は朴、昔、金の三姓であり、その中から王を出したが、三姓のすべてが広義の倭人であった。倭国では天皇を寡占的な諸部族から選出するというシステムがあり、それを新羅が日本国においては新羅の金姓王統のみで天皇にしようとした為にのちの系図偽造がおこったのである。

 朴氏はいまやインドからインドシナの沿岸部にいるインドのナガ族の子孫である。始めマガダのシスナガ王朝がベトナムで植民地を作って文郎国といったが、中山国から亡命したシャキィ族の蜀の安陽君に国を譲って海頭の沖縄に移った。そして沖縄から北支に入り、ウラルトゥ亡命者の国を奪って大扶余国といってその王となり、また沖縄に残ったものは南解次々雄(ナガ族の支派シシュナガ族)と名乗り、日本名ナガスネヒコとなった。ナガ族は沖縄では那嘉氏といい、本土では中曾根氏になった。

 沖縄の那嘉氏はのちに尚氏という王家を作ったが、その同族は契丹の王妃族蕭氏になっている。尚も蕭もシシュナガ族を表わしたものである。因みに、契丹王族の耶律氏は匈奴チュルク族の支派であった。北支で中山国をたてたシャキィ族の昔氏とナガ族の朴氏を鮮虞といい、かれらがのちの奇子朝鮮を作り、その朴氏がチュルク族の匈奴冒頓部と混じて鮮卑となり.、のちに契丹の王族と王妃族になったのである。/

 旬奴には別に刀漫部というものがあってこの人びととはもとキンメリ人であった。匈奴という名前自体もキンメリといっているのである。.

 次に昔氏はインドのシャキィ族の子孫である。『契丹北倭記』、は「シャキィ族の殷が海路満州に渡来して、その地に穢国をたてた」とあるが、その王が中国史の穢君南呂峠(ナロン)で文郎国の子孫である。シヤキィ族はいにしえバビロン南部のアル・ウカイルにいて天もとづくジッグラトを作り、シュメール人に文化を教えたというオアンネスに似た第二次の海人の子孫らしく、『桓檀古記』をひもとくとアル・ウカイルを穢と書いていることが判る。

 『契丹北倭記』ではシャキイ族の王国は穢国と奇子朝鮮になっているが、奇子朝鮮という言葉を使わずに辰戢殷といってその国は始め北支にあったという。文理上それは中国史に鮮虞の国とある中山国に相当するであろう。勿論、中山国に関する歴史はギリシャ史の借用であって、眞実の歴史は歴史書とは異なるものであった。

 シャキィ族はまずインドから渡来して、新バビロニア帝国の亡命者とともに北支の中山国の支配者になり、中山国の滅亡ののちに分裂してベトナムの文郎国と満州の奇子朝鮮に分れた。中山国の王家は。シャキイ族(昔氏)人民は鮮虞であったが、奇子朝鮮になった時にその王家は朴氏になったかも知れない。文郎国の王家はシスナガ国の植民地で始めはナガ族でのちの朴氏であったが、シャキィ族の王に変ってから昔氏となり、これがのちに穢国の王家に続く。

 穢君南呂峠の子孫の陜父がチュルク族が王にな一た高句麗から分れて南下し、九州の熊本に上陸して多婆羅国または多羅国を作り、陜父の名を改めてニギハヤヒといった。多婆羅国の名は今もなお田原坂として残っているし、百済の国名も旧多羅(くたら)といったものであった。

 百済と書いて朝鮮人はパクチェと読む。それがどうして日本でヒャクセイでなくクダラになるのか。「済」をタラと読むのは他にないから、百済という漢字以前からクダラという言葉があったのである。百済史にいう「百姓を率いて云々」というのは作り話である。

 シャキィ族は今ではインド史に残るのみであるが、かってあ中国の中山国、ベトナムの文郎国、満州の奇子朝鮮や穢国などにも広く存在し、さらに新羅の昔氏や倭国のニギハヤ氏にもなった。

 第三の金氏は、「黄金の牛」といわれるヴァル神を奉じて、はるかアラビア海を渡って朴氏以前に前7世紀頃には沖縄をへて九州の宇佐に渡来した。その国は始め東表国といい、ついで狗邪国または駕洛国といった。のちの金官加羅国であり、その民は、南倭である。この王家が金氏であった。

 『中山世鑑』巻一の始め「琉球開霹之事」あ「昔、天城二阿摩美久トイウ神アリ・・・・阿摩美久、土石草木ヲ持下リテ島ノ数ヲバ作リテケル云々」と述べる。沖縄に上陸したアマミクの一族がさらに豊後海人部のアマベになったというのであるが、アマベの古い根拠地は豊前国宇佐であった。アマミクの子孫が宇佐を中心にして前7世紀頃に東表国、のちの駕洛国を建てたのであろう。

 さて国東半島から前7世紀の青銅剣を含む青銅器と多数のトーテツ土器が出土している。

 新羅の金姓王家は九州の金氏から分かれたもので、駕洛王金首露は実は新羅王統の金首留と同一人である。このへんが判らないのは、朝鮮と日本の歴史家がデタラメな漢文を盲信して歴史をよく考えないからである。歴史書を頭で読んでは判らない、心で読む習慣を持たなければダメなのである。

 これらの三姓が始めて中国から朝鮮、日本の地に文化を植えつけた三部族で、アメリカの歴史でいえばWASPに相当するものであった。

 そもそも倭人とは陜義には同音の亙族のことで、日本人とともに、のちに蒙古族となる満州の蒙瓦室韋もその子孫であるが、広義にはナガ族、シャキィ族、クメール人、ボド語族などを含めて、インドから中国の長江流域にやって来たインドのアジア系諸族の総称であった。

 だから檀君朝鮮と奇子朝鮮の王家は共に広義の倭人であり、また北倭の朴氏と昔氏、南倭の金氏という新羅三姓もすべてのちに倭人になる。このへんの歴史は朝鮮人がいやがるものであろうが、檀君朝鮮、従って大扶余、及び奇子朝鮮、新羅の王家はすべてが倭人だったのである。

 現在八O歳をこえたある在日韓国人が「あなたの歴史解釈はわが民族を侮辱している」と文句をいってきたことがある。しかし歴史は真実を語るからこそ価値があるもので、歴史をほしいままに美化するのでは歴史ではなくて夢物語りになるであろう。^

 いま朝鮮では対馬と北九州は朝鮮民族が開いた地であるという人がいるが歴史的には正しくない。正しくは、新羅帝国は広義の倭人を王族の三姓とした国家であり、統一新羅の時代には朝鮮半島すべてが倭人の支配下にあったし、のちの元帝国の時代には世界を、そして問接には高麗をも支配していた。このような真実を認めることから、始めて未来も輝くということを知らなければならない。

 こういう歴史の真実を知らずして、ウソを重ねた天皇家の万世一系を誇るのは日本人の知能の低さであり、それを安易に模倣するならば、朝鮮の古代史もかつての日本のように安っぽい民族主義によって独占されるであろう。

 バクトリア王ディオドトスが秦の始皇帝として中国を席捲する以前の歴史をすべて抹殺して、オリエント史を翻訳して「これが中国史である」といった漢以降の中国人も、古代朝鮮半島を倭人が新羅帝国をたてて支配した事実を認めない朝鮮民族も、すべて日本人の愚かさと同じレベルである。

 歴史偽造を日本に持ち込んだ朝鮮人が民族創世の真実を捨てた歴史観によって日本人の歴史偽造を、明治以降に限って告発するというのは実に狡猾なことではないか。日本人がそれをいい返せないのは、明治天皇が睦仁でなく睦仁に変装した長州の大室寅之祐だということを否定しているからである。

 日本は明治以降予算をつぎ込んで朝鮮、台湾、満州などにインフラを整備した。それを自分で作ったように考えているのでは決して一流の文化人とはいえない。日本が負けたからインフラのただ乗りが出来るのだという事実を、きちんと認識しない人びとは愚かというよりもタカリ根性というべきであろう。

 終戦直後、厚木から日本の空軍機が技術者を重慶に運んで、その技術者が中国に原爆の理論を教えたという。乗りが出来るのだという事実を・きちんち一識しない人びとは愚かい∵ポもタカリ根性というべきであろう。終戦直後、厚木から日本の空軍機が技術者を重慶に運んで、その技術者が中国に原爆の理論を教えたという。その証拠に、中国の原爆はプルトニュウムでなく日本が研究したウラニュウムであった。そしてその中国が金ほしさにパキスタンにウラニュウム爆弾の設計図を売ったのである。

 また共産軍が台湾を解放(略取)しようとして金門島に上陸した時、日本の根本博元中将は蒋介石に策を授けて上陸した奇襲部隊に放火して共産軍を全滅させた。共産軍は国共内戦では一貫して勝利を続けたが、この戦いで始めて完敗し、これによって台湾政府は独立の道を得た。

 さらに蒋介石は岡村寧次元大将に頼んで日本の将校団を借りて、その指導によって日本軍装の「白団」を組織した。のちに「白団」は国府軍の中核になった。しかし中国人が大陸から台湾に逃げて来た時、日本の民間人四〇万人を追放したことを恩知らずだった、失敗だったとして反省した中国人は一人もいなかったし、台湾でも朝鮮でも日本人の墓地まで破壊したのである。

 大邸で一人の日本人が潅漑用水の整備に貢献し、土地の人はかれの墓地だけは破壊しなかったという。それは今広々とした池になっていて、ある日、私はそこに佇んで感慨を深くしたことがあった。

 朝鮮戦争でマッカーサーが仁川に敵前上陸をした時、その作戦を米軍に教えたのも旧日本軍の参謀だったという。そのあと、ベトナムの独立軍にゲリラ戦術を教えたのも旧日本軍の参謀たちで、その中心は死んだといわれた辻政信だったともいう。

 ベトナムの独立軍は、とても大砲を運んでは上れないといわれた道のないディエンビエンフーの周辺高地に、大砲を分解して持ち上げ、そこからフランス軍を砲撃して降服させた。ベトナムはのちに侵入した中国共産軍をも敗退させた。マレーシア、インドネシア、インド、ビルマなどの独立は日本人の犠牲の上に成功したものであり、実は辛亥革命もそうであった。

 こういった歴史はすべて国家のエゴの為に抹殺されたのであろう。しかし旧日本軍は長い間、共産軍の弱点を徹底的に研究していたからそれが役に立った。それに反してアメリカを敵国として研究したことは殆んどなかったから日本は負けた。戦争の勝敗には絶対ということはない。敵をよく研究すれば寡兵といえども負けることはないのである。資源が十分の一しかなかったから日本は負けるにきまっていたという人がいるが、それではベトナムの資源はアメリカに比べてどれだけであったか。

 以上、古代中国史と古代朝鮮史の解明は拙著『倭と辰国』を始めとして『史記解』『歴史』『倭と日本建国史』などに発表してある。

 「万世一系」の虚構

 過日(平成一〇年四月中)、たまたまソウル市を訪れた時に大学の学長さんたちと話す機会があったが、「檀君朝鮮と扶余の王家は万世一系である」といわれて愕然としたことがあった。勿論そんなことは歴}の曲解で、檀君朝鮮の王家なるものはいくつもの別々の国の王家を飛び飛びに書いてそれを一系だとして強弁したものである。これを万世一系といって誇るのでは日本人と同じで、ギリシャ系バクトリア人の系図偽造に両国民が等しくだまされたからである。

 先に『裏切られた三人の天皇―明治維新の謎』において筆者は、伊藤博文が自ら隊長になった長州力士隊に、かつて吉田松陰が南朝再興の理想を託した一人の少年、奇しくも睦仁と同年の一六歳になる大室寅之祐なるものがいて、吉田松陰の命を受けた木戸と伊藤が掌中の玉の如くして養育し、孝明天皇と睦仁を暗殺したのちに睦仁とすり代えたという世紀の大謀略を明らかにした。

 その寅之祐は自ら南朝を滅ぼした後醍醐天皇の末蕎であると自称していたから、松陰は門下生と共にかれを天皇に復帰させようとして秘密の南朝再興作戦を練っていたが、南朝派の徳川慶喜もひそかにそれを知って支援していた。慶喜は父斉昭が曲解した天皇中心史を以て生き甲斐とした極めて日本人的な知性なき人間であった。

 松陰の処刑後、生き残った門下生たちは薩摩の西郷、大久保、小松といった人びとをも捲き込んで維新回天の大業といわれる南朝革命を成しとげたが、その背後には「成破の約」を遵守して南朝再興を求めた慶喜のひそかなる献身があった。慶喜はその目的の為に家茂に実行不可能な孝明天皇の攘夷命令を受諾させて幕府を弱体化させた上で、第二次長州征伐を始めた家茂を暗殺した。二階に上げて梯子を外したのである。

 四境戦争で小倉口で戦った高杉晋作は家茂の生前から幕軍の解兵予定を知っていた言動があったが、慶喜はさきに家茂の暗殺とそのあとの解兵を長州に通告していたのであろう。これを承けて伊藤は孝明天皇を、岩倉は睦仁をそれぞれ暗殺し、西郷が連れ出した長州麻郷の大室寅之祐を睦仁とすり代えることに成功した。すべては余人の介入を許さない雲の上のクーデターであった。

 このことを知らないと、慶喜の行動は矛盾だらけで説明は不可能である。

 西園寺公望の孫の公一は「睦仁と明治天皇は別人である。二人で一人、これこそ明治維新最大の秘密だ」といったが、そもそも日本史は建国の始めからこういう方法を重ねて系図偽造をやってきたのである。公一がせっかくこんなことをいっても、聞いた方は何のことか判らなかったという。

 朝鮮合併の時、安重根を始めとする独立派の人びとは伊藤が孝明天皇を殺したことは知っていたが、そのあと睦仁をも殺して大室寅之祐が天皇にすり代ったことは知らなかった。知っていれば日韓の歴史の流れは変っていたであろう。歴史の無知、無関心はこのように亡国の原因にもなるのである。

 余談であるが伊藤を狙撃した銃痕はすべてロシア兵の銃から発射されたものだったという。安良根は始めから身代わり要員だったのである。

 しはらく日本史をそのへんから考えてみたい。

 日本史は建国の始めから、いや建国以前から王家と豪族の系図を偽造し、のちに睦仁と大室寅之祐の二人を一人の明治天皇であるとしたのと同種の詐術によって歴史を偽り続けた。「万世一系」という日本史の誇りは何代にもわたってつみ重ねた系図偽造の産物であり、実は日本人の恥の原点だったのである。

 歴史と系図をすべて偽造して書き換えればバカでもチョンでも「立派な歴史だ」といって感心するであろう。戦いに敗れて命からがら逃げて来た亡命人権力者にはそれが付け目だったのである。

 新羅の英雄だった金庾信と唐人郭務悰の二人を合成して藤原鎌足という人物を作り出し、『藤原家伝』にもない架空の人物の不比等によって藤原四家につないだのが、この大いなる歴史偽造の始まりであったが、こんなバカなことをした為に藤原四家では一族の抗争が絶えなかった。のちの天皇周辺の公卿はすべてが藤原氏だったから、それが合成氏族であるということは日本史を虚構の固まりにしたことになる。

 やがて武烈王の天智と文武王の天武に始まった新羅人の天皇家を奪おうとして、百済王(くだらのこにきし)敬福の子道鏡が天皇系図を偽造してあたかも自分に皇位継承権があるようにした。それによって兄の文鏡改め光仁も皇位を要求することが出来たから平安時代の南朝が発足したのであるが、その根拠は天智を百済王子の豊璋でもあるという二人一役にして、自分を万世一系だとする虚構をいい張ったことであった。

 のちに同じように、新羅花郎の源家の子孫と称するものを天皇の子孫の源氏に重ねる、すなわち自分の系図を偽造して天皇家周辺の源氏につなぐというお定まりの系図偽造によって、長い長い武家政治の幕を開いた。

 武士は歴史的には公卿の家事奴隷であったが、その源流は新羅花郎の子孫と自称する成り上りものを中心にして、熊本にあった多婆羅国から上京した白丁隼人が多かった。

 江戸時代、仇持ちになつた武士は「落ちいく先は熊本相良」といって能本を目指したが、もともとこの地方は昔氏の陝父ことニギハヤヒノミコトが多羅国または多婆羅国をたてて、日向の安羅国、鳥栖の倭奴国、福岡の伊都国などと連合して邪馬壱国を作っていたのである。

 山窩は祖神をニギハヤヒといっていたが、熊本にいた多羅国の兵士はやがて山窩と白丁隼人とに分離し、白丁隼人が京都では公卿の奴隷から成り上って武士になったが、朝鮮に帰った白丁隼人はその地で白丁になった。白丁は朝鮮のヱタである。

 日本のヱタは縄文人のオロッコ、自称ウエッタ(ヱッタ)が始まりであって、かれらは同じ縄文人のギリヤックらと共に東北から北海道へ、北海道から樺太に逃げた。かれらを追放したのはツングースでのちのアイヌであったが、そのアイヌもまた北倭や南倭によって北海道に追い払われた。逃げそこなったオロッコがヱタ部落を作って、そこに多くのクラッセ・ルンペンを吸収して制度化したのである。

 このあと足利義満が皇妃を姦して生ませた後小松天皇、及び伏見宮家に猶子としておしつけた足利貞成、のちに伏見宮貞成親王と称した、二人の隠し子によって、暴力で公卿たちを沈黙させて天皇家を乗っ取った。これを北朝という。

 かくして天皇家は賎しい武家の出自であった足利氏の血脈となって、戦国時代に山窩系の鉢屋武士団の秀吉やささら者の家康が足利氏の権力を奪っても、足利系天皇家はなお宗教的権威を維持して連綿として孝明天皇と睦仁まで続いた。

 しかし慶喜、木戸、伊藤、西郷、大久保、岩倉といった人びとの呉越同舟的な連係プレーによって、将軍家茂が慶喜と慶永によって毒殺されたあと、孝明天皇は堀河紀子の私邸の便所で、床下にかくれていた長州の下忍伊藤博文の忍者刀によって高貴なるお尻をえぐって殺され、その子の睦仁は御所に潜入した長州忍者の猿廻しの猿によって手を傷つけられ、岩倉が買収した医者がその手に毒を塗って暗殺した。しかしこのことを知る国民は今や一人もいない。全く呆れはてた革命の歴史であった。

 かくして南朝滅亡ののちに長州に潜んで南朝の光良親王の子孫と称する大室寅之祐が西郷に伴われて薩摩邸に入り、岩倉と中山忠能の助けを借りて巧みに睦仁とすり代ってついに南朝の天皇家が復活した。とはいえ、その南朝は大麻を使って政治を行った後醍醐天皇の暴虐によって亡びた王朝であって、そのような王朝を再興することに何の意義があるだろうか。

 明治維新における大室寅之祐という南朝の生き残り少年は身分制度で腐敗した幕府を倒す為の緊急避難として利用されたものであった。

 このような天皇家の秘事は維新以降、木戸と伊藤という長州テロリストの忍者たちによる国家権力によって厳重に秘匿され、その結果、この国は秀吉、家康以来の鎖国によって主張された神国という思想が「尊王攘夷」から「中国、朝鮮の差別」に変じて、不可思議な狂熱として燃え上がった。民族的な差別心は麻薬のようなものだから、時的には国民の不満と反抗を鎮める力があった。

 その狂熱はのちの東條らの暴支膺懲論につながるものでもあるが、統制派軍団の目的は日本をヒットラーに従属させるという不純なものであった。かれらの国際政治の無知は恐るべきものであって、のちにアメリカに対して降服交渉をするのにソヴィエトに仲介を求めるという大失敗を犯した。

 幕閣は黒船に敵せずして開国したが、のちに維新政府は攘夷の狂熱を欧米から中国と朝鮮にふり向けて、あたかもヒロポン中毒の男が手当たり次第に弱者に斬りつけるように、近代化に遅れたこれら周辺諸国を侵略して廻り、あげくの果に、天皇ヒロヒトは青年将校のクーデターを恐れるの余り、攘夷の対象を転じてかつての保護者であった英米に向けた。

 ヒロヒトの主戦論は孝明天皇の攘夷と同じくテロリストの機嫌をとってかれらの忠誠を得たいという自分本位、国家不在の思考であった。英米はこのときアヘン戦争以降の巨悪をすべて日本に肩代わりさせようと考えて、愚かな中国のインテリを思うままに洗脳したのである。

 それがあの十五年戦争であったが、この時は出来もしない攘夷を唱えた孝明天皇と睦仁を暗殺したように、天皇ヒロヒトを暗殺して取り代える動きは見られなかった。それは先に自ら孝明天皇を暗殺した伊藤の憲法が「天皇は神聖にして侵すべからず」と定めて、伊藤自らの天皇暗殺やすり代えがもはや憲法上許されなくなったからである。

 天皇ヒロヒトと東條は今やかつての孝明天皇と家茂に相当する存在になったが、その天皇をとり代えることが、孝明天皇父子を暗殺して明治天皇をすり代えた犯人の伊藤によって禁じられた、というマンガティックな憲法によって不可能になっていた。

 伊藤がやった天皇暗殺を正しいというならば、伊藤は将来、孝明天皇のような天皇が出現した時にそれをとり代える方法を定めておく必要があった。それをしなかった伊藤は暗殺者としては成功したが、政治家としては失敗したというべきであろう。

 いま皮肉にも、日本は敗戦ののちその時代の「極東の小国」ではなく「世界の経済大国」になって、その一挙一動は世界の建設と破壊に重大な影響を与える迄になった。

 「極東の小国」ならば神国とか万世一系という麻薬的幻想も許されるかもしれないが、今の日本人がそんな幻想に溺れれば全人類にとって有害でさえある。だから偽史によって眠らされた日本人の理性を回復する為には真実の歴史を発見し、その教訓の中から未来の指針を得て人類の糧としなければならない。

 だいたい世界の平和に最も有害な思想は、①、日本人の神聖民族意識、②、中国人の中華意識、③、アラブ人のイスラム原理主義、④、イスラエル人の選民意識と⑤、アメリカ人の資源独占思想などであり、すべては世界史の誤解から生れたものである。

 アメリカ人の資源独占思想はついに原水爆の独占または寡占となり、しかもそのことはインドとパキスタンの抵抗によって覆えようとしている。

 自分たちは原爆を持っていい、他の国はダメだというのは差別そのものであり、アメリカがインドとパキスタンの原爆を非難するならば、原爆を日本に落としたことを人類に対する犯罪として認めて自らの原爆を放棄しなければならない。外務省がアメリカの原爆投下を世界に告発しないのは死者に対する冒涜である。しかし原爆を作ることより、それを放棄することはもっと困難であろう。

 日本もアメリカの原爆に守ってもらうなどはやめて他の手段で国を守らなければならないであろう。しかし原爆反対を叫ぶ人びとは再び国民皆兵の世の中にすることにも賛成するだろうか。

 またアメリカなどが目の仇にしているイスラム原理主義と北朝鮮のチエチェ思想が伊藤憲法下の日本の神国、攘夷思想と双生児のように似ていることも驚くべきである。

 古来、中国では内戦をやって城を落とした時、兵たちに一週間は略奪や婦女暴行をさせないと司令官は部下に殺されるか、見捨てられたという。中国兵は昔から捕虜の頭に穴をあけ、目をえぐり、鼻や耳を斬って皮を剥いだ。こんな暴虐なものと戦えば日本軍もやられただけはお返しようということになる。それが日本軍の暴行の始まりであった。中華思想とはこのような暴虐の裏返しだったのである。

 しかし、筆者のこのような考えによって上梓した『裏切られた三人の天皇』は出版杜、雑誌杜、広告社の合同からなる審査協会の中し合わせによって、朝日新聞、日経新聞はもとより、歴史読本、文芸春秋などからも広告を拒否され、加えて幾つかの書店も販売に熱心でなかったから営業活動は困難を極めた。

 ところが案ずるよりも生むは易しで、時がたつと北は北海道から南は九州まで、多くの読者から激励のお手紙をいただいて出版社ともども安心することが出来た。とりわけL・A在住の評論家藤原肇氏と実業家渡辺幸明氏から連絡をいただいて、九七年一〇月にL・Aに立ち寄った時、約三〇人の有力在米邦人を前にして講話したことは忘れ得ない思い出であった。また九八年四月には韓国普州の慶南大学の大講堂でセミナーを開くことが出来た。

 偽史によって教育された日本の日本人よりも思想と信仰の白由があるアメリカの日本人や、倭人の祖先の地を占める韓国人の方が、筆者の歴史研究法を理解できるというのは皮肉である。

 筆者の研究法というのは、例えば写真のネガとポジを比べても、また正面からと横から撮った写真を並べても直ちに二つが同じものとは判らない場合がある。筆者の歴史観は真実の歴史をそれから作り出した小説的な歴史と比べて、一方を他方のタネ本であるとするものだから、思考が柔軟でないと理解が難しい。

 筆者は今日まで、専ら古代日本史を探ねる為には日本史を全虚構にした『記紀』などの偽書によらず、先学浜名祖光氏が幸運にも満州のラマ寺で発見して世に出した『契丹北倭記』の他、『桓壇古記』『壇奇古史』『府都誌』など日鮮未分離時代の古代朝鮮史によって研究すべきことを悟り、これらの書を解読して『北倭記』『北倭記要義』『桓壇古記』『桓壇古記要義』『符都誌要義』『歴史』などの書を世に出したが、世人の批評は「面白い意見だ」とか「こういう意見もあるのか」などというもが多かった。

 日本の史学は『記紀』を歴史書と認めないものを異端とする、しかしそれなら異端で結構である。だいた}昔から学問は異端によつて発展した。コペルニクスも異端だったのである。『記紀』を信奉するものは漢文を正しく読めず、予備知識も欠落しているような輩であって、かれらこそ日本の史学を不毛なる全錯誤にした真犯人である。そうはいっても筆者としては暖簾に腕押しというわけで、手答えが無くて面白くない。

 しかし幕末史、明治維新史となれぱ、殆んどの読者は孝明天皇が暗殺された事実を知っているし、睦仁が少女のように育てられた知恵遅れの少年であったのに、明治天皇は騎乗して近衛兵に号令をかけ、力自慢で角力も強かつた、脚もすこぶる丈夫、佐々木高行なども碓氷峠の上り坂ではついていけなかつた、などという事実を知っているから、「睦仁と明治天皇が同一人である筈はない」というと、余程の強情者か、バカでない限りは納得する。

 それでも何人かは、「今になって何故そんなことをいうのだ。寝た子をおこすようなことをするな」といったり、「天皇家の歴史を批判するヤツのいうことを聞けるか」「そんなことは聞きたくない」「ご先祖様の恥を曝くな」などというが、それでは「歴史を読むときは理性を捨てろ」というに等しく、そんなことをいうならば、南京虐殺事件も細菌戦争もシナ人に対するアヘンの押し売りも、すべて無かったことになるではないか。

 マァ、こうはいっても反論するものの中には歴史学者はいない。かれらが真実を恐れてひたすら壕にかくれているさまは滑稽というばかりである。過去を反省しない者はその過去を繰り返すだろうから、これではかつての被害国が納得するわけはない。

 勿論、歴史を正しく理解しなければならないということは日本人だけでなく、歴史偽造という異民族支配の新戦術を日本に持ち込んだ朝鮮人やシナ人の子孫たちにとっても一層必要である。

 朝鮮に行くと屡々中国、朝鮮、台湾、日本などで合同して歴史学を調べ直そうという人がいるが、歴史学で最も大切なことは過去を客観的に評価することである。日本が朝鮮、満州、台湾で乏しい予算をやりくりしてインフラを整備したのにその功績も認めないようでは、韓国も中国も台湾もとうてい共に歴史を学ぶレベルにあるとはいえない。

 こんな歴史偽造が横行している国々との共同研究が可能だとは、筆者にはとても信じられないのである。

 鉄砲の伝来と戦国大名

 戦国時代の鉄砲の伝来について、南浦文三の『鉄砲記』は次のように述べている。

 【天文一二年(一五四三)秋八月二五日(太陽暦九月二三日)のこと、種子島の西岸西村の狭い入江に百人あまり乗り組んだ見なれぬ一大船が着いた。乗組員はいまだかつて見たこともない形貌をしていて言葉も全く通じなかった。幸いに明人の五峯なるものが同船に乗りあわせていて村主の織部丞も文字を解したので、杖で砂浜の上に筆談した結果、西南蛮の商人たちであることが判った。

 かれらはほぼ君臣の道は知ってはいるが礼儀作法もわきまえず、食事にも箸を使わず手づかみでするような人びとであった。ひとまず同島の赤尾木に廻航するようにすすめて、これを島主種子島時堯に報告した。

 時堯は小舟数十隻をだして蛮船をひき入れさせた。たまたま来島していた日向の仏僧の筆談で五峯とうまく用を弁じ、その長を牟良叔舎と呼び、他の一人を喜利志多、佗、孟太と呼ぶことも判った。

 このとき気がついたのがかれらが携えていた奇妙な長い一物であった。真直ぐで中が空で底部がつまっている。これこそ問題の鉄砲であった。試みに白い標的を岸の上におき鉛の丸い玉をこめ、狙い定めて火をつけて発射すると一瞬にして命中したが、その吹き出す火花は稲妻のようで、その音は雷鳴にも似、聞く者皆耳をおおうて胆をっぶしたほどであった。今迄知るかぎりこれと比較できる物がなかった。

 その威力に驚いた島主時堯は百方懇請して金に糸目をつけずこれを手に入れた。そして家来に命じて火薬の製法をも学ばせてその使用法を習い、自分も朝夕練習をつんだので、技倆はほとんど百発百中に上達した。さらにその翌年、来航した船に鉄砲鍛冶がいることが判ったので、家来の金兵衛尉に命じてその製法をも伝習させ、ここにわが国において鉄砲の製作が始まった。

 根来の僧杉之坊も時薬に乞うてその一挺を手に入れ、堺の橘屋又三郎という男もまた種子島に渡って製造技術を習得して帰り、製造を始めたので、しまいには町の人びとはその本名をよばずに「鉄砲又」というようになった。さらに種子島を出航した商船が関東に漂着したことが縁となって同地方にも伝わるようになった。】

 種子島時堯が入手した一挺の鉄砲はこの新しい大量殺戮の武器を国産化して、またたく間に日本全土に拡散させて戦国時代を作り出した。このような出来事は世界史にも例がない。

 しかし幕末、薩英戦争でイギリス艦が遠くからアームスロング砲で鹿児島の町を砲撃したことを聞いた肥前の鍋島閑叟は、早くもこの大砲を三門買い入れて見よう見まねで自ら製作することに成功した。物真似は日本人の才能の一つであった。

 勢心に新しい鉄砲や大砲を研究してついに全土を支配しようとした信長は、自らを神としてカソリック宣教師にも礼拝を求めた。筆者の旧友で雲八切止夫氏は「宣教師らはひそかに明智光秀をたきつけて信長に反逆させ砲と硝石を与えた。光秀はその火薬で本能寺に泊まっていた信長を大砲をうって爆殺した」と述べている。いわゆる光秀の三日天下である。

 ことの詳細は信長の仇を討つ為に、忍法の「大返し」によって長州攻めからとって返したはちや出身で軒猿という忍者の豊臣秀吉に対して、堺のはちや衆から宣教師の内政介入であるとして報告されたから、秀吉はそののち宣教師たちの行動に対して極めて神経質になって布教禁止の機会を窺っていた。

 天正一五年(一五八七)三月、秀吉は鉄砲によって九州統一をもくろんだ島津義久が九州を支配する野望を排除する為に自ら出陣して、五月に義久を降伏させ、翌六月、博多において早くもキリスト教入信の強制や日本人奴隷の売買を禁じた上で、宣教師の退去を命じた。

 秀吉はこのとき布教は禁止したが貿易による利得は自ら独占したいと考えた。天正一九年七月にはインド総督に対してヤソ教の禁止を伝える一方で貿易を求めた。このような日本側の政策がカソリックの布教を捨てなかったポルトガルとイスパニアに貿易と国交を禁止し、布教と貿易を分離したイギリスとオランダに貿易を許した。

 文禄元年(一五九二)に秀吉は朝鮮征討の軍をおこした。日本軍は漢城を落してさらに北上したがやがて兵糧が欠乏した為に明の和議を入れた。兵糧の手当をせずに突出するところはのちの日本陸軍と同じであったが、秀吉は西国と九州の大名に硝石火薬のストックを消費させる為に朝鮮と戦ったという。

 こののち秀吉は淀君の求めによって、淀君が生んだ秀頼の為に甥の秀次を殺して国内の支配を強化したが、その一環としてキリシタンニ六名を捕らえて長崎で礫刑にした。これを「二六聖人の殉教」といい、この殉教者の子孫は明治維新ののちにローマ法王庁に優遇される。

 これより先、文禄の役における朝鮮遠征軍の中から、公称約六千人の日本兵が朝鮮に投降して「降倭」と称した。この戦いにもと一向宗を奉じた雑賀浪人の岡本越後守が阿蘇大神宮の寄人として参戦し、朝鮮側が一向宗を認めた為に投降して金忠善と称し、六千人の降倭を率いて朝鮮軍に鉄砲による戦闘法を教えた。

 これによって新しい知識を得た李舜臣が、イエズス会にカソリックの伝道を許して硝石を入手したから、慶長二年に始まった秀吉の再征軍は前回のようにたやすくは勝利できなかった。

 のちに天皇ヒロヒトの侵略軍が、日本に石油を売らなくなった英米が、貿易による中国の支配を狙って中国に武器を供給した為についに敗北したのと同じであった。今も昔も、資源のない国が資源国の支援なくして資源戦争に参入するのは余りにも愚かであり、結局は資源国の掌中で踊るしかなかったのである。

 応仁元年五月、鉄砲がない時代、山名宗全と細川勝元が国を二分して戦った応仁の乱は結局勝敗が決着せず、一一年戦ったあとで文明五年の三月に宗全が、同年五月に勝元が死んだ為、敵も味方も戦い疲れてやめてしまったが、のちに鉄砲を手に入れた織田信長は奇蹟の如くして次々に敵を殱減して天下布武をなしとげた。

 明の嘉靖三四年、わが弘治元年(一五五五)に豊後に上陸した明の使節鄭舜功が滞日三年余、帰国ののちにその見聞を記した『日本一鑑』は鉄砲の伝来について、「手銃、初め仏郎機国の商人に出てて始めて教わる。種子島の夷の作る所である。次いで即ち棒津、平戸、豊後、和泉等の諸所で通じて之を作る」と記し、ポルトガル人が始めて鉄砲の製法を種子島に伝えてのち十年余りにして早くも貿易港である薩摩の坊津、肥前の平戸、豊後の府中(大分)や、さらに泉州堺などの各地において鉄砲が製作されたことを述べている。

 将軍足利義輝は鍛一冶職人を召し寄せて鉄砲を作らせて、その一挺を上野国新田の金山城主横瀬成繁に送った。天文二二年(一五五三)のことである。伝来後わずか十年位しかたっていない。かれはまた公家の近衛家に頼んで書を種子島に送って硝薬の法(火薬の製法)を問いあわせた。

 幕府の管領細川晴元も本能寺の僧を介して種子島から鉄砲を手に入れた。さらに近江甲賀の土豪黒川与次郎が永禄初年頃(一五六0前後)鉄砲で撃ち取った鳥を送られるなど、伝来当時の中央にも鉄砲伝播の例があった。

 戦国大名はさかんに鉄砲を利用してしばしば戦陣に使用したが、始え武士たちは鉄砲を軽蔑して足軽に使わせた。しかし鉄砲で戦うにはそのターゲットとする敵兵の所在を確認しなければならいから、その為にも忍者が起用された。

 若年から海賊や鉢屋上りの忍者と交流した毛利元就は弘治三年(一五五七)、山崎興盛が守る大内軍の須々万沼城を攻撃した時、城の周囲の泥沼に枯れ草、編み竹、席などを投げ入れて泥沼を渡り城声を上げ、その為に飛び出した城兵を鉄砲隊が狙い撃って城を落した。合戦に始めて鉄砲を使ったのである。

 また元就が永禄十年(一五六七)に家臣の平左源七郎にあてた書状に、「殊更、今頃は鉄砲などと申す事候て世上にも不慮の事のみ候間、身上油断無く候え」と書き送った。

 そののち天正三年(一五七五)五月、信長が武田勝頼の無敵の騎馬軍団を破った長篠の戦いにおける鉄砲三段打ちも、慶長の役における薩摩の釣り野伏せ戦法も、敵を射程内にひきよせて撃つというヨーロッパ伝来の新戦術であり、ともに宣教師が伝えたものであった。それもこれもすべて鉄砲の為であり、必ずしも信長や島津義久の能力ゆえではない。鉄砲がなければ信長も義久も名もない田舎大名で終ったであろう。

 信長は長篠の戦いで勇猛を誇る武田の騎馬軍団に備えてこれを防ぐ為に、陣地の前方に頑丈な木柵をめぐらした。騎馬隊がこれにひっかかったところを、柵の内側で火縄銃をかまえた足軽隊の三千人が三隊に分れ交代して狙い打ちをくわせた。

 さしもの武田騎馬隊も突撃の度毎に死傷者を出して、馬場、山県、土屋、真田、仁科、海野など名高い歴戦の宿将も殆んど倒されてしまった。かくして新鋭の兵器たる鉄砲を媒介として戦術に一大変革がおこった。

 長宗我部元親が四国の経略をすすめた時代にも幾度か鉄砲戦があったと伝えられ、かれが天正八年(一五八〇)に出した『掟書』には、「種子島鉄砲は家中衆のほか他国の者の求めに応ずべからず、もし命にそむいてこれを他国の者に手渡した者は斬罪に処する」とあってその独占を計った。

 三河の一向一揆側もさかんに鉄砲を使用して徳川家康はこれに苦しめられた。

 鉄砲の威力が、先に天皇家を乗っ取って真の意味で公武合体をなしとげた足利幕府をも滅ぼして戦国時代を作ったのである。

 岩生成一は、「織田信長は早くその製造地の堺や近江を手に入れてしきりに鉄砲を作らせ、野戦にもっとも活用して新時代転換期の覇者となった。

 信長の拾頭の緒を作った桶狭間の戦いにも既に鉄砲を使用し、その後、かれはこれを大々的に取り入れて鉄砲隊を編成、天正三年(一五七五)五月二一日、長篠の合戦には武田軍の騎馬隊を撃破してついにわが国の戦術に一大革命を引き起こした」と述べる(『日本の歴史14、鎖国』)。

 信長の天下布武は一にかかつてこの鉄砲による。だから火薬の原料である硝石を輸入する能力が勝敗を決するであろう。永禄一一年、信長は足利義昭を擁して上洛したが、天皇が発したキリシタン禁制の紛旨を覆してキリシタンを保護した。勿論、硝石が欲しかったからである。

 しかし、八切止夫氏によれば、「信長は生前、安土城内に総見寺を築いて自らの神格化を計り宜教師にも礼拝を強制したから、硝石貿易を以て布教の手段としたイエズス会の宣教師がついに明智光秀に大砲と硝石火薬を与えて信長を殺させた」という。宣教師の記録によれば、「信長は天守閣の直下に巨大な石を埋めて自分の神体と見立てて宣教師に礼拝を強制した」という。

 このいきさつを探知した秀吉が、やがて宣教師と通じそうな九州のキリシタン大名を光秀の二番煎じとして警戒したのは当然であった。
茶会の司会者であった千(賎)利休は同じはちや衆出身の「軒猿」という下忍であった秀吉を支援し、多くの情報を与えて秀吉の天下を助けたが、この堺商人の一部がいち早くキリシタンと硝石をセットにした南蛮貿易の危険性を察知して、利休を通じて秀吉に教えたという。

 鉄砲の伝来が刀槍テクノクラートであった武家の手から鉄砲を扱う武士以外の新しいカースト、すなわち鉢屋とかささらとかヱタとかいう人びとを古い源平武士に代えて権力の座に押し上げたが、かれらは天皇制という古い権威と野合してかっての仲間を見捨てた。このことこそ鉄砲の伝来の最も大きな害であった.。

 文禄、慶長の役に、日本軍が朝鮮の野にあって一時迅速に戦果をあげたのが鉄砲隊の活躍によるところが多かったことは、朝鮮側の史料もしばしば述べているが、鉄砲も始めは武士でなく鉢屋衆が扱ったものであった。だから信長が大名の身で自ら鉄砲を扱ったのを他の大名は軽蔑していたという。

 豊臣秀吉の武将淺野幸長が朝鮮の陣中から父親の長政にあてて、「何の道具もいらぬから鉄砲だけは少しだけでも多く送ってほしい」と訴えたのも、文禄、慶長の役における鉄砲の威力と必要性を示すものであり、戦国時代の鉢屋衆の活躍を示すものであった。

 忍者秀吉は鉢屋だった

 八切止夫氏によれば、大阪の堺に進出した鉢屋の商人は、鉢屋武士の山中鹿之助の子孫であった鴻ノ池家などが「鉢屋衆の支配」を求めて、茶室という密室の中でひそかに茶をたてて回し飲むというあやしげな秘儀を以て秘密結社を作ったという。尼子経久が失った富田城を取り戻すことが出来たのは鉢屋衆の協力を得たからであったが、のちの山中鹿之助も鉢屋の下忍、中忍を支配した尼子の上忍であった。

そもそも鉢屋とは契丹の鉢室韋が海賊や難民になって日本に渡来したもので、かれらは時の「入管?」の追及を逃れる為に、しばらくは山窩の山師と協力してその組織に参入し、のちに居付山窩となって平将門らの軍隊に入ったと考えられる。そのあとでは盗賊になったり、人間の臓器から漢方薬を作った売薬行商人、医者、万歳師などを始めとして、隠密や忍者などにもなり、一方では米問屋、運送業、両替商などの近代商業にも進出して、この時代にはすでに隠然たる力を蓄えて石見銀山の開発に関与した。今でいえば商社の情報網を握ったのである。

尼子も毛利元就もこの鉢屋衆を忍者として使い、両者の戦いは常に忍者と忍法が戦局を左右した。尼子経久が鉢屋賀麻党によって富田城を取り返したことは正史に残っているが、元就も放浪中に海賊や鉢屋衆と親しくして忍法とそれによる調略を会得した。

毛利の上忍になった安国寺恵壇が「藤吉郎さりとてハの者なれば」と書いたように、秀吉は「ハの者」といわれる鉢屋衆の出身であって、長じて「軒猿」といわれる下忍になった。また伊勢湾台風のとき前野家の土蔵から発見された『前野文書(武功夜話)』には「藤吉郎が乱波(忍者)であり武芸の達人であった」とも書かれている。

秀吉が大返しによって明智光秀を破たのも、引き上げると見せかけてとって返し、柴田の軍を奇襲して破ったのも共に忍法であった。また家康が服部半蔵という上忍を使ったことはよく知られているが、半蔵の名は今でも宮城に半蔵門となって残っている。

安国寺恵瓊の手紙というのは信長が将軍足利義昭を追放した頃、天正元年一二月一二日付で吉川家に出した手紙である。

「信長の代は五年三年は持ちたるべく候。明年あたりは公家などにならるべく候かと見及び申し候。さ候いて後、高転びにあをのけにころばれ侯ずると見え申し候。藤吉郎さりとてハの者にて候」とあるものだが、これを歴史学者のように「さりとては」と読んだのでは意味にならない。

「ハの者」とは鉢屋の意味である。漢文も仮名文も正解は一つだがいくらでも読み違えることが出来るから、日本の歴史家は意識的に読み違えて国民を誘導したのである。

八切氏によれば、「始めて鉢屋衆の情報力を手中にしたのが鉢屋出身の秀吉であったが、秀吉は朝鮮征伐によって九州大名の硝石を使い果そうとした。戦闘の開始に対した堺の鉢屋衆は秀吉を見限ってササラ遊女の私生児の家康を支持した」という。天正一九年二月、秀吉に利休が殺されたのは利休が朝鮮戦争に反対したからという。

のち関ケ原の戦いに、この安国寺が秀頼に味方しろといった為に毛利輝元は西軍の総大将になった。恵瓊は始めから秀吉と毛利が同じ鉢屋出身だったことに拘泥していたのだ・

恵瓊は幼名竹若丸といい天文七年(一五三八)に生まれた。天文一〇年、元就が討った沼田郡銀山城主武田元繁の子である。武田氏が滅ぼされた時かれは安国寺に逃れてやがて住持となり、のちに京都東福寺の住持になって安国寺を兼任した。

 鉢屋は平将門の臣になった

 鉢屋について雲田謙吉は次のように述べる(『出雲に於る鉢屋を語る』)。

[出雲地方一帯、特に舊松江藩、廣瀬藩、母里藩の三藩の舊城地及び陣屋に住居する部落があり、現に竹細工を業としてその生活を營んでいる-・-この部落は元鉢屋と稱して舊藩時代、各藩に於ける十手捕縄を藩主より預り、藩内の治安維持を保持するの重責に任じていた。

この鉢屋が史書に記載されたのは『出雲私史』並に『雲陽軍實記』である。この鉢屋が文明一二年一二月、出雲の一隅に起って失地恢復の兵を起した尼子經久が、自らの手兵極めて寡く堅固を誇る圓山城(富田城)に據る鹽治氏と闘うに正攻法をもってしては到底勝利を得ること不可能であることを知り、この地方に隠然たる勢力を持っている鉢屋の義心に頼んで奇襲をもって勝利を得るべく、その援助を求めた際、喜んでその求めに磨じて一臂の力を致し遂に尼子經久をして中國十有餘國の主たらしむるの基礎を築いたのである……
 『出雲私史』には、

「富田(圓山城下の謂)に盜を捕うる者あり。之を鉢屋という。その先祖は平將門の臣なり。將門の反するや、その臣藪十人をして京師を窺はしむ。将門既に訣せらるる後、京外に散匿し却掠を以て事となす。

空也上人嘗って御菩提池を過る時、來り其の服を奪わんとするものあり、上人日く『我が服は汝が奪い取るに任す。抑も汝も人なり、何ぞ濁り五逆罪を犯し甘んじて地獄に堕落するか』と。因って詳らかに之を喩す。皆大いに服す。

上人乃ち之に生産を授け鉢を鼓して念佛し、且つ歳且に萬歳を唱へ以て食を乞はしむ。故に鉢屋という。茶筅を造って之を鬻ぐ。故に茶筅という上人之を朝に請い其の罪を宥さる。其の強勇にしぐ。て用うるに足るを以て、四條五條の磧に置き以て非常を警しむ。故に番太という。更番に之を守るを謂うなり。又川原者というは磧の邦言なり。後遂に諸國に分遺す。

富田の鉢屋は國中の鉢屋の長なり。その長を苫屋という。非常の事あれば其の衆を率い苫を齋して往き屋を作っている。故にかく名づけたるなり云々」と誌している。これによって見ると鉢屋は平將門の臣の末孫であることになる。

次に『雲陽軍實記』を播いて見ると、鉢屋は何者なるかという點には全く觸れないで「富田の鉢屋は國中の茶筅頭にして部類大勢なり。而も剛強の健やかものなれば云々」と記録し、更に「彼の苫屋の頭二三人密に山中の館に呼び寄せ、汝等代々富田に住し、我先祖より父清定まで恩澤に預りし事定めて忘るる事あるまじ云々」と誌している:…・

尼子氏が毛利氏のため永祿九年、亡ぼされて以來城主も數氏に變り、更に慶長一六年、堀尾吉晴が松江開府を行って松江城を築き移城し、次いで寛永一五年、松平直政、封松江一八萬六千石を受けて入城、更に寛文四年、松江藩主松平綱隆に至り二子を廣瀬、母里に分封して新藩を設置し、明治維新に至って魔藩置縣を見るまで鉢屋は傳統的に忠實なる捕吏の責務を盡くしたのである……

尚『出雲私史』にも『雲陽軍實記」にも茶筅を造って之を鬻ぐとか或は、出雲の茶筅頭とかの職業が彼等に與られているが、その茶を立てて服するとは考えられないから現在同様竹細工をもって捕吏の職を副業としていたであろうと考えられる。

この茶筅を造るとか或は茶筅頭とかの文字に就いては、相當研究の餘地が残されていると思う。
この茶筅頭の言葉より推して、「鉢屋を見るに彼の山窩の定住せるものなり」とする一部の人びとがあるようであるが、これは當らざるものであると信ずる。勿論彼の山窩の職となすところも一種の竹細工ではあるが、その生活信念に於て根本的な差異が存在していると思う(昭和一五、四、一五)。】

『出雲私史』には「鉢屋は平将門の臣なり」とあるのだが、契丹が渤海を滅したのが延長四年(九二六)で、承年五年(九三五一に将門が平国香を殺した。これより先、承年二年頃から海賊が南海道などに出没したことが報じられて承年六年には藤原純友の乱が始まっている。将門と純友の乱に、これよりさき契丹の鉢室章が率いた渤海難民が参入していたのであろう。

年表を調べてみよう。

延長四年(九二六)、契丹が渤海を滅した
承年二年(九三二)、追捕海賊使のことを定める
備前国、海賊のことを報告する
承年三年(九三三)、京中に群盗横行し、南海道に海賊も横行したから警固使を派遣する
承年五年(九三五)、新羅が高麗に降って滅びた
承年六年(九三六)、海賊が伊予国日振島に集る
藤原純友の乱始まる
'
天慶二年(九三九)、出羽国に俘囚の反乱があった、平将門が常陸国府を攻める
天慶三年(九四〇)、純友ら伊予、讃岐を虜掠する
天慶四年(九四一)、伊予国、海賊前山城橡藤原三辰の首を進める
讃岐国、海賊藤原桓利の投降を報告
小野好古ら純友を博多津で破り、橘遠保、純友を殺す
海賊の将、佐伯是基を捕える
源経基、海賊桑原生行を捕える
海賊三善文公を殺す
海賊藤原文元を但馬国で殺す

天慶九年(九四六)、太宰府、大船の対馬来着を報告
天暦二年(九四八)、群盗横行し、右近街府、勘学院、清涼殿などに押入る
天元元年(九七八)、備前介、海賊に殺される
天元二年(九七九)、海賊を追捕する
天元四年(九八一)、宋、渤海の契丹討伐を援助する
長徳二年(九九七)、太宰府、奄美島人の壱岐、対馬襲来を報告

寛弘二年(一〇〇五)、太宰府、宋商人の来日を報告
仁三年(一〇一九)、女真人、対馬、壱岐、筑前を襲う-刀伊の乱

刀伊の乱で女真の渤海人が筑前を襲ったのは寛仁三年(一〇一九)のことであるが、契丹が渤海を滅ぼしてから、この頃まで約百年の間海賊の活動が盛んであった。この海賊は契丹の鉢室韋が渤海人を率いていたものでその若干が難民として日本に残り、始めは取締りを逃れる為に山窩に混じて山中にひそんでいたのであろう。

鉢屋が竹細工を職業としたというのは山窩と同じであり、ヱタを差別することも山窩に似ている。また田樂、猿樂、万歳なども鉢屋の生業であったが、これも山窩のユゲイと同じである。日本に来た始めには鉢屋が山窩の組織とつながっていたからであろう。

竹細工をするという山窩は頼朝の職制では弾左衛門の支配するところと定められたが、この法は実行されなかった。

雲田は鉢屋が居付山窩だという説を否定しているが、それは誤りで、もともと鉢室韋が山窩になり、それが居付山窩となって平将門の軍団に入ったのではないか。

思うに、鉢屋衆は始め難民として渡来したとき取締りを避けて山窩のアヤタチの支配を受け、のちに多くのものが居付山窩となって鉢屋と称したのであろう。

 ささら遊女の子、家康と徳川幕府の忍者

 徳川家康は駿府の宮ノ前に住んでいた「ささら遊女」のお大と下野国からの流れ祈祷僧江田松本坊の間に出来た子で、幼名を国松といった。

そのささらであるが、出口櫻谿の「清水という伊勢の簓部落に就て」は次のように述べる。

[伊勢國多氣気郡相可町に「清水」という特殊部落が現在二四軒ある。全戸「清水」という苗字を付けている爲にこう呼んでいる。明治二年の調書には彫家命人敷四八人とある。ヱタの火を忌む町家でも清水で焼いた香魚は平氣で喰うが、さて普通の交際はしない。縁組などは河を隔てる射和村(飯南郡)にある二三軒の清水という家と、度會郡外城田村(田丸町付近)にあるササラという部落とが互いに行っている。

この清水の職業は勞働に從事しているが夏期中は名産なる櫛田川の香魚捕りをする。何時頃にこの町へ移住し來り特殊部落をなしたかは不明だが、「先祖は蝉丸が病気で苦しんでいる時、碍サササラを鳴らして金銭を乞いこれで以て蝉丸を世話した」と伝えている。

この時のササラというを今に秘藏している。過日相可町役場在勤の畏友岡田鳳石君から清水部落秘藏の寫本というを贈って下さったで、左に併記して喜田博士の机下に呈す。

平城天皇  嵯峨天皇
淳和天皇  仁明天皇
文徳天皇  清和天皇

陽成院     光孝天皇
宇多天皇    醍醐天皇
朱雀院     延喜御門王子是也

さて蝉丸と申すは両眼共に閉目なる故に依って、王宮に叶わず江州相坂山に流人に成し給う也。即ち相坂山に捨置きて供奉の旁々涙乍ら、勅定なれば何れも帰られる。其の後蝉蝉丸の姉宮深くいたわり、余りに悲しきまま、蝉丸の住處を御覧思召有りて相坂山指して夜忍行し給うに、琴琵琶の音聞き給いて、只人に非ず蝉丸にてもやあらんと草の庵の扉に立ち給う、内より人の足音を御聞き有りて戸を開き給えば、則ち姉宮蝉丸を御覧有りて、御手と御手を取り共に涙にむせびたえ入り給う計り也。

哀しくやつれます御姿を御覧有りて、姉宮御心も亂れ狂乱し給う時は御髪もさかさまに立つ。其れより御名をさかかしと申す。御兄弟ながら崩御の後は同杜祭り篭め給う也。彼の明神の氏子は今の世迄も前髪少しづつさかさまにはゆる事不思議なり。

供俸の大臣白川の紀の則長、軈て上洛有りて折々の見廻り也。居留まる人は基經師輔古屋の美女也。仍、延喜二二年甲申春二月の事也。同じ年号に態て開眼するもの有るといえ共、卑劣のたたすみの末なる故に都に召帰さざる也。相坂山に於て哀れなる御栖い、仁倫常にしてわらやふせ屋の躰にて日月地に落ちたるありさま也。


古屋の女房はふしかづらをひねり、基經師輔育てまいらせて、たつきも知らね山にて木の実をひろい、草のみを取って月日を送り給いしに、天慶九年丙午九月に崩御有り。御年三一云々。其の後基經江州志志賀に住し、古屋美女は遊女と成り、師輔の行末は今の世の説教者是也。時に蝉丸は本地妙音菩薩の化身也。

妙音菩薩は卅四身に身分け、爲に衆生濟度の爲に種々に形を現わし給う也。故に或る時は開、時有りては世間の盲目を近付けて利益し、或る時は相坂上下の旅人に乞食して其の人の利益を請ける事、是を以て仏菩薩の御方便とする也。

蝉丸は延喜王子なれば、わらや伏やのすまいながら御心は尋常にして常に琴琵琶を御慰めとす。

琵琶は断除無明と弾じ、琴は方度萬行とかき鳴す。極楽浄土の管弦の粧を表わし給う也。假に令しむ利益方便の爲に乞食し給うといえ共、内心何ぞ卑劣ならん哉。


關清水大明神

江州志賀郡 三井寺別院

寛永一八年巳年四月良日

近松寺   總代(印)

兵次家   總代(印)

多氣郡   説教中

右之御巻物於に別富に於て、執行令に書き寫すの條、執行職代替り節者廻状還すべし。即ち当職に持参致して執行の加判を講く可き者也。

執行(印)

正徳三癸巳歳九 二四日

延亨元甲子歳九月二四日

執行(印)

鳳石申す。
「以上は大正八年五月三一日、相可清水部落秘藏の寫本に依り転寫したるものを更に転寫したるもの。意の往々通ぜざる處あるは誤字脱字あるやも保し難し」と。】

ささら族はもと盲目の貴人から出たという。このことは癩病になった貴人を山窩が助けたという伝承にも通じるものがあり、ささら族の演ずる琵琶は山窩のユゲイに属するものとすべきであろう。して見ると、ささら族もまた山窩の支派だったのではないか。

家康は幼時から酒井家という人買いに売られて願人となって酷使されたが、長じて願人が各地に張りめぐらした情報網をよく使ったという。

家康が差別されたささら遊女の私生児だったからか、徳川幕府の政治はある意味では隠密、忍者の政治であった。E・H・ノーマンは、

「幕府では密偵制度が極めて大規模に組織された結果、それに関する逸話や俚諺が今日なお残っている」と述べる(『日本における近代国家の成立』)。

家康に仕えた上忍、服部半蔵の活躍はよく知られているが、幕府にはのちに吉宗が連れて来た紀州藩の忍者もいた。下って天明年間には、松平定信が「物価高騰の原因は諸人の箸侈にある」として庶民の風俗にも干渉したが、そんなことは何時の時代にもうまくいかないから、結局、取締りの為に多数の忍者を動員することになった。しかしこの時代には忍者の質も落ちていてワイロを取って違反者を見逃すことが多かったので、幕府は忍者にさらに忍者をつけた。

しかしこんなレベルの低い忍者ばかりではなかった。文化三年四月二四日、ロシアの武装船がエトロフ島のナイホに渡来して番屋を焼き払い、二九日には会所のあるシャナの沖合に来て砲撃し、さらに上陸して会所に攻撃を加えた。このとき箱館奉行の下役であった戸田又太夫と関谷茂八郎は篭城したが腰を抜かして応戦できず、ひとり幕府の下忍だった隠密同心の間宮林藏が勇敢に戦った。戸田又太夫はシャナを撤退してルベツに逃れようとしたが、気の弱い男で、その途中で責任を感じて自殺してしまった。この時、落日の徳川幕府には北条時宗のような英雄はいなかったのである。

文化五年、林藏は箱館奉行下役の松田伝十郎と共にカラフトを探検して間宮海峡を発見し、カラフトが島であることを明らかにした。このようにこの時代には外国や遠隔地の調査に当ったのはすべてが忍者であった。吉田松陰が藩命によって九州から東北各地を含む遠隔地を視察したのは正史に残っているが、さらに高杉は上海に、伊藤はロンドンに派遣されてそれぞれ忍者としての務めを果した。

さて林藏であるが、文政六年に来日したシーボルトが幕府天文方の書物奉行高橋影保から日本の海図を貰ったことをかぎつけて、その結果、幕府はシーボルトをスパイとして海外追放に処した。
この事件は教科書にも書かれているが、よかれあしかれ隠密史または忍者史の白眉であった。

天保の改革の時も幕府は隠密廻りの忍者を使って縄付きの囚人に化けさせ、会所のものに改革を非難する言辞をはき、会所のものがうっかり相槌をうったところを拘引した。これは帝政ロシアの秘密警察がよくやったかんがい教唆である。

また町奉行の同心にも監視をつけた。美人の「くの一」忍者に華美な着物をきせてシャナリシャナリと市中を歩かせ、同心が検挙しようとするとそのふところに一、二両の金をなげこむ。それで同心が見逃すと同心はあとで取り調べられて罷免されたという。

隠密といい忍者といい同じようなものであったが、太平の時代には共に変質してもますます盛んであった。


 日本現代史も虚構であった
 80歳をこえたある在日韓国人が「あなたの歴史解釈はわが民族を侮辱している」と文句をいってきたことがある。この人は筆者が安重根が伊藤を射殺していないと論じたことを非難したのであるが、安のピストルが七連発なのに弾痕は合計で一二発で、しかも銃弾はすべてロシア騎兵の小銃から発射されたものだという。

 歴史は真実を語るからこそ価値があるもので、歴史をほしいままに曲解して美化するのでは、歴史ではなくて夢物語になってしまう。安重根は決して英雄ではない。自分ではピストルを扱えなかったから、進んでロシア騎兵の身代わりになっただけだ。だいたい身代わりなんてヤクザでもチンピラでもやる仕事だ。これに比べれば、義烈団を、率いた、密陽の金元鳳と朴容惇は、フォンパンの周武の協力をえて、香港で皇太子ヒロヒトを、襲おうとした。その計画を上海にいた、李承晩が香港領事にたれこんだために、朴は銃殺されて金は逃亡した。金はのちに北鮮で大臣になったあとで粛正され、周武は朝鮮戟争のとき林将軍の参謀になった。かれらをこそ真の英雄というべきであろう。 こんなタレコミ屋の李承晩をアメリカにおしつけられて大統領にするのでは、朝鮮人の気が知れない。

 いま朝鮮では、対馬と北九州は朝鮮民族が開いた地であるという人がいるが、歴史的には正.しくない。正しくは、新羅帝国は広義の倭人を王族の三姓とした国家であり、統一新羅の時代には朝鮮半島すべてが倭人の支配下にあった。またのちの元帝国の時代には、世界を、そして間接には高麗をも支配していた。モンゴル人はかつて蒙瓦室韋といって北倭の子孫であり、瓦人が北倭となったあと、モンゴル人と倭人に分離したのである。

 朝鮮人は「真実を認めることによってこそ未来も輝く」ということを知らなければならない。金大中が「日本人は歴史を正しく学べ」などといっているが、その必要は自分たちにもあるのではないか。こんな無知無学のやからのいうことなんか気にする必要はないのだ。

 しかしこういう歴史の真実を知らずして、ウソを重ねた天皇家の「万世一系」を誇ることこそ、日本人の知能の低さであり、今、北朝鮮がそれを安易に模倣して金正日の礼讃を続ければ、朝鮮の古代史も、かつての日本のように安っぽい民族主義によって支配されてしまうであろう。

 バクトリア王ディオドトスが秦の始皇帝として中国を席捲する以前の歴史をすべて抹殺して、オリエント史を翻訳して「これが中国史である」とした漢以降の中国人も、古代朝鮮半島を倭人が支配した事実を、認めない朝鮮民族も、すべては日本人の奴隷根性と同じレベルである。

 歴史偽造を日本に持ち込んだ朝鮮人が、民族創世の真実を捨てた歴史観によって日本人の歴史偽造を、明治以降に限って告発するというのは、じつに狡猾なことではないか。

 日本は明治以降、身を削って朝鮮、台湾、満州においてインフラを整備した。これとてもいわばアヘン戦争後の香港経営の拡大であったが、それを余計なお世話だったとか、あたかも自分で作ったように考えているのは、決して一流の文化人とは、いえない。いまビルマに行くと、夜道はまっくらだし、すべての道は穴だらけだ。イギリスはここではインフラ整備をあまりやらなかったのであろう。それに比べると、日本が作ったインフラは立派に役に立っているではないか。日本が負けたからこそ、インフラのただ乗りが出来るのだという事実を、きちんと認識しない人びとは、愚かというよりもタカリ根性というべきである。

 中国の留学生が「満州は日本がインフラを整備して人が住めるようにしたということは事実だ。しかし日本は戦争に負けたから、いま中国は日本を非難しつづけるのだ」といった。しかし中国が日本をおどかしているのは原爆があるからなのだ。その原爆である。

 大室近祐氏によると、日本が戦時中、ドイツから原爆の設計図やその模型を潜水艦で運び出し、インド洋で、撃沈されてしまったというが、そのとき乗っていたものの中に、近祐氏の、末弟がいて、出撃の、三日前に、突然配属替えされ乗船したという。近祐氏の家族は三笠宮によって、大室一族の根絶しが計られたと疑っている。こんなことも徹底的に調べておかなければ、日本人は他国のことを笑えない。

 終戦直後、厚木から日本の空軍機がある技術者を重慶に運んで、その技術者が中国に原爆の設計図を与えたという。その証拠に、中国の原爆は始めはプルトニウムでなく日本が研究したウラニウムであった。そしてその中国がパキスタンにウラニウム爆弾の設計図を渡したという。さらに北朝鮮のミサイル、テポドンなるものは日本の電子技術で作られているといい、CIAはそのことを激怒しているという。

 また共産軍が台湾を解放(略取)しようとして金門島に上陸した時、日本の根本博元中将は蒋介石に策を授けて、奇襲部隊を上陛させておいて放火し、かれらを全滅させた。毛利元就の厳島戦の二番せんじであった。共産軍は国共内戦では一貫して勝利を続けていたのに、この戦いで初めて完敗し、これによって台湾政府は独立がようやく可能となった。

 さらに蒋介石は岡村寧次元大将に頼んで日本の将校団を借り、その指導によって日本軍装の「白団」を組織した。のちに「白団」は国府軍の中核になった。しかし中国人が大陸から台湾に逃げて来た時、日本の民間人四〇万人を追放したことを失策だったとして反対する中国人は一人もいなかったし、朝鮮人に至っては、日本人すべての不動産を掠奪したうえ、日本人の墓地までも破壊した。

 いま香港のなかで、イギリスの植民地時代の統治はインフラ整備を始めとして香港に多大の恩恵を与えたという香港人がいることに比べると、こんな朝鮮人の態度は歴史を正しく理解しているものとはいえない。

 イギリスが退去したあと香港人のある大富豪がイギリス統治は善政だったといってなつかしんだ。台湾でも日本人に対してこういうことをいう人が多いが、韓国では大統領を始めとして一人もいないのが悲しい。しかし大邸では一人の日本人が潅漑用水の整備に貢献し、土地の人はかれの墓地だけは破壊しなかったという。そこは今広々とした池になっていて、一日、筆者はそこに佇んで感慨を深くしたことがあった。

 朝鮮戦争でマッカーサーが大原の空港に着陸した時、仁川の敵前上陸を決意したとなっているが、その作戦をジョニーウォーカーを貰って米軍に教えたのも旧日本軍の参謀だったという。そのあと、ベトナムの独立軍にゲリラ戦術を教えこんだのも旧日本軍の参謀たちで、噂によると、その中心には死んだといわれたスーダラ参謀の辻政信がいたという。

 辻はノモンハン戦争、コヒマ、インパール作戦など日本軍全滅の責任者であった。法律上、天皇が総括する参謀本部だけがあいつぐ敗北の責任を認めなかったために、辻は居直って最後まで敗北戦の指導をつづけることができた。かれがのちにベトナムに行ったのはその責任を感じて死所を求めたのであろうか。

 これよりさき、ベトナムの独立軍は、とても大砲を運んでは上れないといわれた、けわしい山間のディエンビエンフーの周辺高地に大砲を分解して運び上げ、そこからフランス軍を砲撃して降服させた。これは、二百三高地の戦いの再現であった。

 べトナムは同じような戦術でのちに侵入した中国共産軍をも敗退させた。べトナムのみならず、マレーシア、インドネシア、インド、ビルマなどの独立は、日本人の協力のうえに始めて成功したものである。われわれはこのことをきちんと認識している国だけは助けなければならない。

 しかし、こういった歴史はすべて国家のエゴのために抹殺された。

 旧日本車は長い間、国府軍と共産軍の弱点を徹底的に研究していたから、朝鮮戦争でもそれが米軍のために役に立った。それに反して日本はアメリカを敵国として研究したことはなかったし、日本の軍閥、すなわち天皇を長とする参謀本部は日露戦争のあとで、不足する銃弾の代わりを肉弾で代用できるとして負けた。

 戦争の勝敗には絶対ということはない。敵をよく研究すれば寡兵といえども負けることはない。「資源が一〇倍のアメリカに勝てるはずはなかった」と人はいうが、日露戦争でもロシアは一〇倍の資源をもっていた。べトナムはアメリカの一〇〇分の一も資源はなかった。日露戦争もそのまま続ければ日本は負けていた公算が大であった。日本は伊藤がイギリスの命令で代理戦争をやったからこそ、アメリカの協力で終戦できたのである。

 一五年戦争では、アメリカはシンガポール陥落のあと、ルーズベルト大統領が特使を出して日本に終戦を求めた。東條はそれを受けて陸軍の撤退準備を始めたが、天下一の憶病者であったヒロヒトは「陸軍が反抗すると二・二六事件のようなことになる」といって継戦を命じたという。その結果が戦線の拡大であり、それが敗因の最大のものとなった。

 これは友人の広橋興光氏の話であるが、かれの父君は広橋信光氏で、大納言をつとめた藤原氏名家の出身、元伯爵、束條の首席秘書官であった。

 さらに日本が硫黄島で全滅した時でさえ、アメリカは「日本が降服するなら満州の統治を認める」といったが、この時もヒロヒトは決断できずに拒絶している。せっかくアメリカが日本を満州経営の下請けにしてやるといってきたのに、自分の命惜しさにずるずると降服しなかったヒロヒトの国民に対する敗戦責任は断じて否定することはできない。

 ヒロヒトが責任を回避したために、その責任はかれの後継者が負うことになった。

 自民党が「君が代」を国歌といって夢よもう一度と考えているが、日本人は一人としてもはや無責任な天皇のもとで戦わないであろう。

 われわれは、白由と正義と解放のためにのみ戦う。このことを判ろうとしない政治家は消滅の道を辿るだけだ。

 かつて筆者が満二○歳で徴兵検査を受けたとき、その終りに検査官の老将校が「対米戦争はまだ一○年も二○年もかかる。諸君は一時の勝敗にとらわれずに国につくしてくれ」といった。

 戦争末期にはほとんどすべての軍人が敗戦必至なるを予見していたが、ひとりヒロヒトだけは、その悲惨な結末を直視する勇気がなかったのである。

 これこそ、水戸学の徳川慶喜がひそかに画策して薩長を動かし、その慶喜の密謀をオカマオジンの岩倉が横取りして、孝明天皇と睦仁を殺したあと、長州の大室寅之祐をつれ出して明治天皇に化けさせたという、珍無類の忍者的プランの結末であった。

 国民は、この真実を、直視しなければ、ならない。


 『歴史捏造の 歴史』②デッチアゲの万世一系 鹿島 昇(平成12年、6月、30日、発行!))
 目次

はじめに  鹿島昇

第一章 握造の日本史―――天皇までの創作した歴史・・・・・・・・・・・・・17
広橋興光氏の証言…………-・:--……・・・・・・・・・・・・・・・18

広橋説を検証する………………:・……・・・・・・・・・・・・・・20-

複合社会だった日本………………-・…-・・・・・・・・・・・・・・26

武家と軍閥の日本史、(一)………………・・・・・・・・・・・・・30:

武家と軍閥の日本史、(二)………………:・・・・・・・・・・・・・45

倭国から日本国建国まで、(一)・一………・・・・・・・・・・・・・53-

倭国から日本国建国まで、(二)…………・・・・・・・・・・・・・・60-

第二章 入鹿殺しは朝鮮の歴史だ:――――新羅史の翻案だった日本史・・・・・・・・67

『日本書紀』成立の謎………………・・・・・・・・・・・・・・・・68

抹殺されたα群…………・--・………-・・・・・・・・・・・・・・・72

『書紀』を改賓したβ群………………・・……………:…・………………78

入鹿殺しの謎………………:・………………:・………………:・………85

新羅史の砒曇の乱………………:・…………………--…………………-…91

入鹿殺しは砒曇の乱だった………………:・………………:・……………94

中臣氏の系図………………:・………………:・………………:・…………99

蘇我氏の系図………………:・………………:・………………:・…………105

新羅は駕洛から分れた………………:・………………:・……………-…・116

第三章 聖徳太子、継体王朝、倭の五王、応神王朝--すべてが捏造であり神話だった・・・・・・・・・125
聖徳太子は実在したか………………:・……………・…・………………:126

物部氏の系図―――物部守屋、用明天皇、百済王聖明は同一人物だ・・・・・・143

聖徳太子と阿毎多利思比孤………………-・………………:・………………:・……146


継体王朝と大伴氏の系図………………:・………………:・…・…---…--…-…--149

履中から武烈まで…………倭の五王とは誰か・・・・・・・・・・・・・・・156


仁徳は女帝だった………・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・167
.
極東のブルボン王家――駕洛王、新羅王、倭大王、百済王の一族・・・・・・・170

応神は百済王久爾辛だ………・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・173

皇統譜解明表………-・………・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・175


第4章 崇神は扶余王依羅だった-―――国民奴隷化政策の祟神神話・・・・・・181


崇神から応神まで………………:・…-…--……………・・・・182

卑弥呼のために創作した神功-----・-・-------・---…---……・・185

神功のために創作した日本武尊…・・・・・・・・・・・・・186

景行、百済王辰斯、七支刀の倭王旨は同一人物だ…………・・191

[資料1]常陸の国司の報告、古老が代々伝えてきた拙星㎜り…:・・190

[資料2]七支刀について………………:・・…--:……………193


[資料3]「百済本紀」の辰斯王……………………--……………195

[資料4]広開土王碑]一……-・-------・-------・--------….・・196

崇神は扶余王依羅だった-----・-------・-------・--…….・・・・・・198

扶余王家とはなにか…:-:……・-:・--・--・--…-・:-:---…-・-・・・203


第五章 扶余王神武と駕洛王孝安の戦い
………対立した二つの倭国・・・・・・・・・・・・・・・217

『東日流外三郡誌』の神武と孝安…・-・:……-・--・--………-・--・-:…:---・--218

孝安王朝と賎民力ースト…………:-::・:--:………:・:-・-:…:229

神武から懿徳まで:…-:………:・:-・-:・:……:・:-:・:・:…・.238

綬靖は扶余王簡位居だった…:…・---:-・・----::---・:・……・244

[資料5]たざしみみの命の変………:・:-::・::-:………:.::-:.:…::..:..:…:249

.
『東日流外三郡誌』と倭国史の眞相……--・-・----…-・-・---・--・-250

駕洛王と新羅の金氏……:-・-::-・・…・:・:・:………:--:・:…:-・・254

『契丹集史』の孝元--・-----:・・:-・:-・・--・-・…:・:-:----・・:…:-::-259

ソロモン王と大望主の一族・・・・・・・・…-------・--・----・--・--・265

倭人のルーツ…・::・:・・:…………:…:-:・:。.・…::….:::・..……:.:::・:270

第一王朝から第五王朝まで……-・:--…-・……-・・-:-:-・…・-…・・・277

第六章 高句麗史と中国史のなかの神武-――残存した歴史の断簡から・・・・・301

百済はもと遼東の東にあった…・:…・:……:・・:------…・・-…………--・・…302

高句麗三王朝と嗣罽須・・・・・・・・・…--…-・…:・…--…-……-----・・…・305

高句麗王子罽須=扶余王仇台=百済王仇首=タケミカヅチ=神武、だ…:--………:・…314

中国史における神武と大物主命の国譲り…・:---:-:-・………---…-・………………・319

扶余王仇台=百済王仇首、九州に上陸する………………:・……・:……--…-…・:…322

神武東征と百済建国………………:・…・:…………-・…・:…………-・…----…・--326


第七章 神武と邪馬壱国の抹殺――歴史を神話という奴隷根性・・・・・・335

『桓檀古記』の出現、…-------…-・:-・・:・………・::-・-・-:--・--…336

『桓檀古記』の邪馬壱国(一)…--…・--…・:…・-…………・:…・・--……338

『桓檀古記』の邪馬壱国(二)………・:……:-:-・…・-……:---・……:・350

邪馬壱国の考古学・…--:………:・:-…-:……:・……・・・・・・・・358

国家権力の歴史程造・・・・・・…----………・-…………・:…・-…・・363

新羅帝国の歴史握造………………:・…・・・・・・・・・・・・・・・369
:
第八章 匈奴、濊貊とウガヤ王朝--忘れられた民族のルーツ・・・・・377

『契丹集史』の発見………………:・…378
-
シルクロードと匈奴:-::…・:・:・……:382

旬奴の二部族:・………---・・…:----390

濊貊とは何か—---朝鮮鉄器文化の始まり・・・・・・・・・394

中国大陸の鉄文化………………:・……399
:
チュルク族とは何か………………-・……411

ツングース族との混合………:・…:-・・…417

ウガヤ王朝とシルクロード(一)-:――『神皇紀』、『上記』と日蓮・・・・・・・・425

ウガヤ王朝とシルクロード(二)―――『契丹集史』と『桓檀古記』・・・・・・430


第九章 中国趙史のなかのウガヤ王朝史前年―――抹殺を免れた歴史の眞実・・・・443

美女に溺れて殺された周王………………-・………………:・………………-・……:・…444

クル国の参戦………………-・………………:・………………:・………………-・………453

趙史の前期はウラルトゥ史だ………………:・………………:・………………:・…・・・455


ウラルトゥの歴史(一)………………-・………………-…--;……………………461


ウラルトゥの歴史(二)………………-・-・……-……--…………---….・・・・471


ウラルトゥ史年表……………:・………:・…-……-……-…----………--…・・・・476

第十章 中国史が抹殺されたウガヤ王朝史後半――趙=申国、大扶余、北扶余、東扶余から百済まで・・・・・・487

趙史の中期はペルシァ史、後期はアテネ史だ………………:・………………:・…………488

-
趙史とアテネ史………………:・…………--……………………-…511

ウラルトゥの大扶余史…………:-・-:……………・・-:………………………………・・-:000

チュルク族の北扶余前期王朝史……・-…-……---……---…-…518

濊族の北扶余後期王朝史………………-・………………-・………………-・…525

チュルク族の加葉原扶余王朝史・・・・・・・・・・・・・・528

年表・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・538
引用参考文献一覧・・・・・・・・・・・・・・・・546


 廣橋興光氏の誕言
 筆者が三〇年来親しくした廣橋興光氏という友人がいる。廣橋家は藤原氏名家の一族で幕末には武家伝奏、明治以降は伯爵家であった。父君はもと内務省のエリート官僚で、東條内閣の秘書官、のちに千葉県最後の官選知事を勤めた廣橋眞光氏、母方の祖父は中川宮の孫、もと梨本宮守正殿下であり、母君は李方子さんの妹に当る。その廣橋氏から伝来口伝の日本史を色々と教えて貰った。要約すると、

一、天皇家は北支から満州、朝鮮をへて日本にやって来た。

二、藤原氏は中国系と朝鮮系に分かれていて中国系の方が威張っていた。

三、南朝とか北朝とかいってもわれわれの祖先はどちらにも行ったから、いま明治天皇が南朝といってもまごついたりしない。

四、戦争によって日本のおかれた惨状は家康の鎖国がもたらしたものである。

五、孝明天皇は伊藤と岩倉が殺した一但しこのことは興光氏でなく、その父君眞光氏の言である)。

六、鳥羽伏見の戦い以後の明治天皇は睦仁ではない。すり替えた天皇である。

七、伊藤の爵位ばらまきは天皇すり代えの口止め料という性格があった。

八、シンガポール陥落のときルーズベルトが特使を以て講和を申入れた。東條はそれを受けようとしたがヒロヒトは二、二六事件の体験から、軍の叛乱を恐れて継戦を命じた。この時天皇に継戦を迫った親独派の将校グループがあった。

というのである。

 これらの各項目を体系化することが出来れば日本史の程造はほぼ明らかになるのに、およそ歴史学者は無視している。明治以降、この国の歴史学、そしてその延長上にある日本の文化は『記紀』の虚構を盲信する天皇教の狂信者によって極めて不合理な体系に堕し、あえていえばオウム教の教義論の如くであった。狂信者といっても天皇を敬愛するからではなく、国民をすべて奴隷化し、それによって自己をカポとして権威づけたいだけであった。かくして歴史学の歩みは、白文の史書を読むことができないニセ学者たちによって、教条主義的な誤読をつづけた不合理なる前期水戸学から一歩も抜け出すことが出来なかったのである。まず廣橋氏がいうような藤原氏の出自は公表された系図からは出てこないから、これは系図の方がイカサマだったのである。

 廣橋説を検証する

 そもそも藤原氏の祖である不比等の名の初見は『書紀』の持統称制三年(六八九)二月の条に、「藤原朝臣史が従五位下の判事(ことわるのつかさ)になった」とあるもので、時に不比等は三十一才であった。そのあと、文武元年(六九七)から桓武一0年(七九一)までの『続日本記』でもわずかに十三ケ所、簡略な記録だけである。『藤氏家伝』には「(鎌足に)二子、貞慧と史(ふびと)あり。史は別に伝あり」とあるが、「史(ふびと)伝」はなくして「貞慧伝」のみがある。

 これを以ていえば、三十才までの不比等は経歴の空白な人物であり、そののち賀茂比売との間に生まれた宮子を文武天皇の妃とし、ついで美努王の妻、県犬養三千代を奪って彼女に生ませた安宿媛が、宮子とともに今でいう混血美女だったから、娘二人の縁故で権力を手にしたというのが実相である。

 あとで述べるように、藤原鎌足とは新羅の英雄金庾信であったから、その次子であるという不比等の人生前半のこのような粗末な扱いは実に不可思議であり、もし不比等になんらかの重大な失策があったならば、その事実も記録されて然るべきである。

 藤原鎌足は金庾信であると同時に、百済の降人郭務悰(かくむそう)(『善憐国宝記』には一ヶ所だけ唐務悰とある)でもあるが、『紀』六七一年六月の条には、「唐の捕虜となった沙門道久ら四人が十一月二日、唐から對島に到着して、唐使郭務悰ら六百人と唐に仕える百済の送使沙宅孫登ら千四百人が、船四十七隻で来朝するといったとある。

 百済に囚えられ、さらに新羅に収容された郭務悰はカクムソウ→唐務悰→藤鎌足(トウ・.カマソウ)として、畿内の秦王国、またはそれから出来上った新しい日本国の内政に参与したものであろう。

 『尊卑分脈』には「公(不比等)、避くる所の事あり、すなわち山科の田辺史大隅らの家に養う。それを以て史と名づくるなり」とある。この田辺史氏は百済系渡来人であり、もと新羅の王朝に囚えられた降人であった。してみると、不比等は実は名もなき百済の降人の子で、同じ降人の田辺史家に拾われたものではないか。そういう立場の不比等が生長してから、降人のなかのヒーローであった郭務悰の子であるといい出したとしても、決して不思議ではあるまい。

 鎌足臨終の前日に藤原の姓が贈られたというが、それは鎌足を郭務悰と金庾信に擬したもので、実は不比等の時代のことであった。

 文武天皇二年八月十九日の詔に「藤原朝臣(鎌足)に賜うところの姓は、宜しくその子不比等等をして之を承けしむべし。ただし意美麻呂らは神事に供するによりて旧姓(中臣)に復すべし」とある。これは中臣氏―金官国の遣臣が「自分たちも金庾信の子孫だから藤原の姓が欲しい」といったものを、不比等だけを郭務悰と金庾信を合成した創作人間であった藤原鎌足の子であるとして文武天皇が認めたものであった。それが皇妃宮子の実家に対する天皇の勝手気まヽな権威付けであることはいうまでもない。

 七〇七年、文武天皇の没後阿閇皇女が元明として即位したとあり、和銅元年(七〇八)には不比等が右大臣になったが、これよりさき、郭務悰を鎌足にしただけでは足りないとして、文武天皇とのお声がかりで新羅の英雄金庾信を舎人(とねり)親王に頼んで郭務悰と合成し、この両名を不比等の父としたのである。こののちの歴史を考えると、捕虜の娘が美貌なのを気にいって皇后にしたために、新羅系天皇家の衰退が始まったのであった。

 さて、江戸幕府のもとで賎民社会を支配した弾左衛門の子孫弾直樹氏の『弾左衛門由緒書』のなかの「江戸町方の制度」によれば、弾左衛門の家系並びに由緒は次の通りである。

 【弾左衛門はいはば穢多の君主なり。ただに同族問に威権を弄したるのみならず、前にも述ぶるが如く、良民社会のある部分へさへ裏面の勢力を逞し(たくまし)ふしたりき。さるにてもかく迄に強大の勢力を養ひたるは如何なる家系、如何なる由緒ありての事か。これらを探究せんは、けだし穢多の族制を記するに当たりて第一の順序なるべし。

 浅草区亀岡町(往時は新町と云ふ)に住む弾直樹と云ふ人なん、往昔より穢多の君主と仰がれたる弾左衛門の後窩なりける。抑も弾家の粗先は鎌倉の長吏藤原弾左衛門頼兼(弾左衛門を単名と思ふは誤りにて弾は氏、名は左衛門その姓は藤原なりとぞいふなる)にて、その先は秦(しん)より帰化し世々秦(はた)を以て氏とせり。

 抑もわが国に於て秦の帰化人と称するものは始皇の子扶蘇(ふそ)の後なり、史を按ずるに、秦皇の崩後扶蘇逃れて穢狛に入り、居ること五世にして韓に遷りしが、その裔弓月君なるもの応神天皇の一四年を以て一二七県の民を率い金銀玉帛を齋して帰化し、大和国朝津沼腋上地を賜ひてその民を諸郡に分置し養蚕織絹のことに従はしめるに、献ずる処の絹帛柔軟にしてよく肌膚に適ふを以て、天皇特に波多君の姓を賜へりと。これ秦の字に「はだ」の訓を付したる所以也。

 その後この一族より秦左衛門尉武虎といふもの出て、武勇を以て平正盛に事へたりしが、たまたま正盛の女の姿色艶麗いと謁丈(ろうた)けてたをやかなるに掛想し、筆に想ひを匂はしてほのめかしけれども、翠帳のうち春なほ浅くて高嶺の花のえも折られず。いよいよ想ひ余りて、寧ろ奪ひ去りてもと謀りけることの端なく洩れて正盛の怒りに触れ、日頃股肱としも頼む武虎にかゝる不義の振舞あらんとは奇怪なり。いで物見せんとて討手を差向けたるよし、武虎いち早くも聞きて夜に紛れて跡を暗まし、関東は源氏の根拠なれば屈意の隠れ処なりとて、鎌倉さして落ち延びぬ。

 これより武虎は鎌倉長史(穢多の古称)の頭領と成りて秦氏を弾氏と改め、自ら韜晦しけるとなん。その後治承年間、頼朝兵を関東に挙ぐるに及びて、弾左衛門尉頼兼、事に預かりて功あり、左の御朱印を下されける・・・・】

 また宝永四年四月、弾左衛門が肥前長吏助左衛門に送った文書にも、「相州鎌倉の住人、弾左衛門尉藤原頼兼在判、但し藤原を弾に改称す」とある。

 このことが事実であるならば、弾左衛門は元来は秦氏であってのちに藤原氏に変り、さらに弾氏に変ったのである。ということは、藤原不比等は藤原四家が同一の先祖を持つというためのシンボルにすぎず、四家のなかには当然秦氏もいたのである。あるいは式家の宇合(うまあい)と広嗣らがそれであろうか。

 『秀眞伝』に「われは伊勢の祖猿田彦」とあって、奈良盆地はもと秦王国の本拠で秦氏の領地であった。だから藤原四家のなかには秦氏が混じったとしても決っしておかしくはない。

 秦氏は元来始皇帝の秦帝国の亡命者で、『北史』倭伝の秦王国、または『桓檀古記』の伊国、ないし伊勢国の支配者であった。『書紀』はこの人びとを別倭と書いて九州や南鮮の倭人と区別している。

 学者は秦王国の所在地を吉備地方に望ているものもあるが、それすらも「畿内には大和王朝があった」という『記紀』の創作に引きずられた誤まりであり、吉備はかれらの通過点にすぎない。これは握造した史書を盲信する奴隷根性のもたらした重大な過誤である。

 百済の降将郭務悰が唐務悰となり、その唐が藤になったとすれば、当時のわが国では唐人と秦人の区別が容易につかず、両者をともにシナ系豪族ということで藤氏としたのであろう。そしてさらに不比等をかざるために、鎌足を郭務悰と金庾信の合成人物として幻の英雄伝説を作ったのである。今でいえば、美智子さんや雅子さんの祖父をアメリカ大統領とイギリス王の娘だったとなどといい出すようなものであるが、実際、歴史家は明治天皇を孝明の子だといい張って替え玉の天皇を擁護した。こんな系図の偽造を認めれば国家の将来は暗い。

 藤原氏の台頭と反比例して秦氏の一族が急速に歴史の舞台から消え、同じように、百済王(くだらのこにしき)敬福の時に隆盛を誇った百済王氏が、道鏡、光仁の即位以降突然消えてしまう。このへんに歴史の謎が隠されていた。今まで、なぜこんなことに思いが至らなかったのだろう。すべては国民の奴隷化を強制した史書程造に始まったのである。

 拙著『日本ユダヤ王朝の謎』および『秦始皇帝とユダヤ人』で述べたように、始皇帝の実父であった呂不韋はユダヤ人であったらしく、川瀬勇は「左衛門という名はユダヤ人に多いシモンの訳である」といっている(『日本民族秘史』)。してみると、「弾」はユダヤ人支族のダン族のことであろうか。朝鮮で白丁姓の一つとされる蛮氏が日本の弾氏と同姓であろう。朝鮮の車氏と池氏は日本の車氏と池田氏になったという。

 マネトの『エジプト史』は、「エジブト脱出以前のユダヤ人はエジプトに囚えられていたヒクソスの残党であった。かれらは屠殺などの賎業に従事させられていた」と述べる。その子孫が屠殺カーストの長の弾左衛門になったことは説得力がある。

 のちに江戸幕府をたてた徳川家康は静岡市馬淵のささら遊女の私生子であって、幼くして奴隷商人の酒井家に買われたという。すなわち被差別部落の出身者だったから、かつては弾左衛門体制の支配下にあったことになる。

 江戸時代の部落の人びとは、「弾左衛門さまには及びもせぬが、せめてなりたや将軍に」と唱ったという。それは弾家が秦王国の末裔という血統によって維持されたことと、家康が弾家の支配下から将軍になったことをいったのであろう。このように望ると、奈良時代以降朝鮮からやって来た新羅系及び百済系天皇家の支配のもとで、秦王国の人びとは賎民社会という形態で長期にわたってゲットーを維持していたと考えられる。

 複合社会だった日本

 思うに、弥生農民の中にはインドから来たカーシ族、その支派であるクメール族と仾族のほかに、揚子江流域の苗(毛)族ではなく海南島の搖(やお)族がいて、かれらをアラビア海とインド洋からやって来たフェニキア系の海人が東表(豊日)国に至るタルシシ船で九州に運んで来たのである。東表国はのちに駕洛国になって半島にも進出した。新羅帝国はこの分派である。

 日本語に「呉服」「呉庭(これは)」など呉音の影響が多いのはそのためであろう。日本をにっぽんと読むのも呉音であり、漢音ではじゃほんである。一月、二月を、いちがつ、にがつ、と、読むのも呉音で漢音では、月は、げつ、である。駕洛国または金官加羅の支配が奥州までのびたために、『東日流外三郡誌』は「荒吐族がアソベ族とツボケ族を支配した」といっている。すなわち荒吐族とは駕洛国の金氏と狗奴国の朴氏の子孫であった。『書紀』を盲信して『三郡誌』を偽書であるとする無知なやからが多いが、本来、日本にはかれらが理解し、さまざまにあげっらうべき史書などは存在しなかった。日本の史書は常に政治的理由によって恣に握造されたものであった。

 さて、奈良時代以前に富士周辺までがすでに秦王国の勢力圏で、その中には手工業の徒が多かった。この秦氏の国を「秦王国」といったのであるが、『晋書』によれば、金官加羅は秦王国をも間接に支配していたという。 その秦王国にはもともと先住民族のオロッコと苗族系の毛人がいた。オロッコは自称ウエツタ、またはウイッタといい、半地下の家屋に住んで独白の文化を有していた。このウエツタが稜多(ヱタ)の語源となり、のちに別所、院地などに住んで結束したが、道鏡、文鏡らの百済系王朝ができると新羅人のグループもウエッタの地に流れ込み、のちにはドロップ・アウトしたものも受け入れて構成が変化した。

 語は戻って、五三二年に金官加羅が新羅に投降すると、倭の大王は駕洛または金官加羅の王から邪馬壱国または安羅国の王に移った。しかし、「秦王国」の人びとは依然畿内においてチャイナタウンとして二重社会という独自性を守って、六六三年、白村江(はくすきのえ)の戦いのときに「秦王国」は新羅に味方した。

 戦後、新羅の占領軍は「秦王国」を中心として倭国と合体させ、「秦王国」は手工業者を、「新羅」は農民と農奴を、それぞれ支配するという二重体制を続けた。

 インドでは賎民とはスーダラとハリジャンをいうが、日本の弾左衛門体制はバラモンの伝統をひく殷人系の白丁を頂点とし、商業カーストであるヴァイシャ、そしてスーダラとハリジャンをもその下に包摂した。白丁はいにしえの殷の祭祀カースト、すなわちバラモンの子孫であり、また殷文化の担い手でもあったが、やがて少数派になって祭祀官または書記として権力に奉仕した。この人びとが新羅系の、のちには百済系の天皇家によるクシャトリアの農奴支配という社会形態の中で、かつての「秦王国」をゲツトー化して支配したのであろう。一種のカースト制であった。

 のちに南朝が地方に四散した時、その逃亡者たちを庇ったのはこの「秦王国」の後裔にあたる木地師や万歳師など被差別部落の人びとであった。また睦仁親王の生母であるという中山慶子も、天皇家の葬列を司るべき、差別された八瀬部落で育った人であった。

 またこれに関連して源平二氏についていえば、武家という存在も天皇家と同じく系図偽造の産物であって、日本の権力は常に系図偽造によって生まれたといってよい。武家はもともと朝鮮から熊本に渡来したニギハヤヒの兵団が分裂して、一はアヤタチのもとで山窩になり、一は白丁隼人を中心として皇室を祖とする系図を作って源氏武士団に転じた。すなわち、公卿たちの家事奴隷となった白丁が立身してご主人の子孫だと自称したのである。勿論もとのご主人たちもその方が都合がいいからこの系図程造を承認した。

 これよりさき、道鏡が自ら天皇になるために変造した『書紀』は、始めは新羅の武烈王を天智天皇としていたのに、道鏡の先祖を天皇にすれば自分も天皇になる資格があるという理屈で、百済王子豊璋をも天智天皇にして二人一役の天皇を作った。この系図偽造によって、道鏡の兄文鏡、のちの光仁天皇も天皇になり上る資格が出来たのであるが、万世一系の理念はイカサマになり、一方では秦王国のままという二重社会も温存させた。

 だからこのような先例こそ、殺された睦仁と天皇に化けた大室寅之祐という二人の人物を一人の明治天皇にするという系図の偽造、二人一役の創作を成功させたのであるが、それ位で驚いてはいけない。日本史は実は建国の始めから一貫して同じようなことをなし続けていたのである。

 すなわち明治天皇は睦仁と大室寅之祐の二人を一役に化した合成人問であって、有史以来、帰化人たちが脈々として行ってきた系図偽造によって作られた天皇の替え玉であった。だからこそ明治天皇は終生写真を撮らせなかったし、外国人が撮った一枚を宮内省が大金を出して買いとったこともあった。順序は逆になるが、ここから考えると殆んどの矛盾が理解できよう。

 友人から電話がかかってきた。「君が代を国歌にするというのは憲法違反じゃないか」。「うん。国民主権というのが憲法の基本理念だから、天皇制を千代に八千代にというのはたしかに憲法の趣旨と相い容れないね。君が代でなく民が代とすればよいのだ」。「それじゃあ、どうすればいいのだ」。

 「結局ところ、程造された歴史の真実を公開して、権力によって奴隷化された国民を啓蒙することが必要だね。
歴史を裡造してはいけないという理由は、歴史がわれわれの行動の原因と結果を教える唯一のシステムだからだ。ウソの歴史はウソの行動を選ばせる。試行錯誤の連続になる。歴史を偽る国は常に滅びている。のことは十五年戦争の結果によっても明瞭ではないか。あの戦争のとき私達は旧制中学生で、『日本は危急存亡のときに神風が吹くから、絶体に戦争に負けない』ということを信じていた。今思えば、その時の日本人はすべてが今のオウムの狂信者と同じであり、また北朝鮮で金日成と`金正日を礼讃している朝鮮人と同じだったのである。

 伊藤博文の帝国憲法には『日本国は万世一系の天皇が統治する』とあるのに、明治天皇は孝明天皇の子ではない。孝明天皇を殺した伊藤が岩倉と共謀して即位した睦仁を暗殺したあげく、長州にいた自称南朝の末裔という饅頭職人の大室寅之祐、何が何だか判らないような少年を明治天皇に化けさせたというのが歴史的事実だ。憲法上はかれもかれの子孫もこの国の天皇として統治する資格はなかったのだ。

 明治維新の立役者たちはほとんど皆この共犯者だから、維新といっても実に国民をバカにしたイカサマ革命だった。吉田茂の自民党はこの愚民政策とイカサマを続けようとした。今の改憲論にしても再軍備は正しいとしても、夢よもう一度で、このイカサマの上に国防を行わんとするものではないか。とにかく、日本の建国から天皇ヒロヒトの存在に至るまでこの国の歴史は握造のかたまりであり、今日の急務はこの国が不法なる国家だったことを明らかにしなければダメなんだ」と、こんなやりとりがあった。.

 長い武家政治のもとで形を変えて生き続け、神聖なる絶対君主として明治以降の近代日本に再生した天皇家のルーツは、まさに日本史の最重要課題である。明治維新の流血はのちの日清、日露の両戦役をも含めて、愚かなる徳川幕府の鎖国政策の、ある意味では必然的な結果であったのだが、その鎖国を始めて信長にいい出して断られたのは正親町天皇であった。

 ソロモン王とサバの女王ビルキースの間の王子メネリケ以降、連綿と続いたエチオピアのハイレ・サラシェ王朝が滅亡したのち、日本の天皇家がもしも本当に万世一系ならば、世界最古の、輝かしい歴史を持つ王朝であるといってよい。しかし万世一系とは新羅占領軍の舎人親王と百済の降人の子孫百済王敬福の子の道鏡が歴史を程造することによって創作した空疏なるスローガンであった。『日本書紀』はマッカーサーが押しつけた平和憲法と、ある意味では同じものであった。

 実は神武に始まる天皇家はオリエントでアッシリア帝国と覇を争い、キンメリ人とともにシルクロードを東漸した偉大なるウラルトゥ王朝を遠祖とし、中国史はこれを「伯夷の子孫の申侯」と記した。申侯の末という仇台はのちに扶余王として遼西、晋平の地に君臨し、メネリケの子孫であったタルシシ船の移民、大物主一族こと公孫氏と連合して伯済国、のちの百済国をたて、さらに邪馬壱国をたてた。この歴史の栄光は、『記紀』という程造された偽造文書の影に消し去るには惜しむべき事実ではないか。しかし愚人たちが作りあげた水戸学を無批判に引き継いだ明治以降の歴史学は、神武建国を調べれば日本史のタネ本が朝鮮史であることが国民に発覚するという恐れによって、崇神以前、あるいは応神以前を神話であるとして国民の研究を禁止した。

 「ウソの歴史だから神話だ」というならば、『書紀』は応神以後も最後の一頁まですべてが神話であり、この書を応神以前が神話、それ以後を歴史であるとする主張は何ら合理性をもたない。

 また扶余以来、天皇家の祖と同盟した大物主家の邪馬壱国-倭国の歴史も、舎人親王が秦王国の王族を動員して握造した日本史によって抹殺され忘却されたが、さらにホストクラブの売れっこさながらに、巨大なペニスで女帝の寵を得たというエロ坊主の道鏡が、『書紀』の半分以上を改造して、倭人の民族信仰であった神道の内容さえも変造して国民をたぶらかした歴史握造が行われ、そのための国民低脳化、奴隷化政策がスタートしたのである。はっきりいえば、日本史は不良外国人ともいうべきシナ人と朝鮮人によって二重に握造されたものであった。

 筆者はかつて法律を学んだものであるが、法律と宗教は銅貨の表裏の如くであり、歴史はその素材の銅の如くである。われわれが依存している社会規範もしくは価値の体系は極めて歴史的な産物であって、人は何を善とし何を悪とするか歴史的経験に基づいて決定した。人間が長い歴史を歩んで文明を発展させるについて、歴史は普遍的な価値体系を生み続けた。人は価値判断の多くをそのような価値体系に依存して民族のアイデンティティを維持しえた。

 ところで、このような価値体系に依存すべき密度と必要性は、いかなる国家でも存在したのではないだろうか。

 アメリカ合衆国では、人は個人個人が別々の価値を追求するかにみえるが、その根底には、キリスト教の価値体系を共有している。かつてソビェトの人びとはマルクシズム信仰が生んだ価値体系を共有していたし、日本人は『記紀』が創造した「天皇シャーマニズムとそれに奉仕する国家神道による価値体系」を共有し、今や、さらにその価値体系を維持しようとする理性なきマスメディアに依存している。

 判りやすくいえば、日本人はキリスト教やマルクシズムのような強烈な信仰のかわりに、肥大化したマスメディアが描き続ける、不合理なる天皇教の価値体系に依存しているのだ。

 「死者が再生するという奇積によって仏法が拡まる」とする仏教の教典、『ミリンダ.ペンハー』の教えに従って、身代りのものを死なせてから自分が出現して再生したと称したキリストを盲信する欧米人が、日本人の天皇信仰を罵倒するのは笑うべき現象であろうが、麻原某という男がどこかのテロ国家の示唆によって行った実験的なサリン・テロが失敗したあとでも、いまだかたくなにその教義を守っている教徒らと同じように、日本人は今もなお奴隷の喜悦にひたっているのではないか。

 私は舎人親王と道鏡によって、『記紀』という程造された歴史と提造された信仰ともいうべき歴史幻想を手がかりにして、人類の未来にとって決定的な転換を迎える二十一世紀において、日本人、いや人類がいかなる信仰と価値体系に依存すべきかを考えてみた。

 シルクロード時代の天皇家の歴史と、天皇家がヘブライ系の公孫燕、すなわち日本史の大物主王朝と同盟した歴史を道鏡が握造して、さらに神話の内容も書きかえて、アマテラス女神が弟スサノオの暴行を避けて天の岩戸に閉じこもったとしたために、本来の神々はその姿をかくしたままで千数百年の歴史が過ぎ去ってしまった。

 『記紀』は程造のかたまりであり、その実は朝鮮史の拙劣な翻案にすぎない。歴史学者が神話といってかくそうとした歴史の実体はそのようなものであった。また今に残る朝鮮史はウガヤ王朝、檀君朝鮮、奇子朝鮮、大扶余、駕瞥などの歴史をすべて抹殺して、われわれが自らのルーツを探る努力をもきわめて困難にした。それは、拙著『歴史握造の歴史①』で述べたように、そもそも中国史がオリエント史の大河小説的な翻案であったからである。筆者はこれらの史書が抹殺した歴史を復活すべく、日本史では『上記』『宮下』『三郡誌』『秀眞伝(ほつまつたえ)』などを参考とし、満州、朝鮮の歴史は、『契丹集史』『檀奇古史』『桓檀古記』『符都誌』などを根拠とした。また中国史については、オリエント史、インド史、インドシナ史との対比も必要であった。

 そのようにして行ったこれらの歴史は一見バラバラにみえるが、実は互いに密接に関連する世界史の一つの体系から生まれたものであった。人類はかつてコペルニクスの地動説を弾圧したが、やがてその地動説を正しいものと考えた。それこそ、われわれが類人猿ボノボたちと異なっている所以ではないか。

 いつの日か、黄帝がアツカド王サルゴンであり、秦始皇帝がバクトリア知事ディオドトスであった、そして神武天皇が扶余王仇台であり、天智天皇が新羅の武烈王と百済の王子豊璋の合成であり、また明治天皇が本来の天皇睦仁とすり代った替え玉であったことなどなど、すべての真相が明らかになるであろう。

 本書のささやかな史論が読者諸賢の思索に資することを切に望む。

 鹿島 昇


 倭国から日本国建国まで

 ついで時代を遡って倭人の歴史と日本建国史を説明することにしたい。先ずは倭人のルーツから。

 1、松本秀雄は免疫をつかさどるグロブリン・マーカー「Gm」のアロタイプの頻度を調べて、日本人のGmパターンは蒙古族のなかのブリヤート族にほぼ等しいとする(『日本人は何処から来たか』)。蒙古族は北倭の子孫の蒙瓦室韋の子孫であるが、それでは、日本人と蒙瓦室韋の共通の先祖はいかなる民族であって、いつ両者は分離したのか。

 『記紀』のいうところを正しいとすると、両者は歴史時代以前に分離したとしなければなるまい。実際松本はそのように主張しているのだが、『紀記』が握造文書であることを理解すれば、その分離は奇子朝鮮が馬韓に移ったあとである。

 2、今の雲南の仮族やメコン流域のクメール族などの先祖が、シャキイ族に従って前七世紀にカルデア人と共にシナ大陸に入って東胡といい、その国々を韓(河南省)といい、また中山国(河北省)といった。韓はアレクサンダーに従属したバビロン軍に吸収されてのちに奇子朝鮮となる。その中には、沖縄から上陸して大扶余と混じたシャキィ族とナーガ族もあった。

 シャキイ族は朝鮮の昔氏になり、ナーガ族は朴氏になり、さらに那嘉、中曾根氏などになった。

 長髄彦も沖縄の尚氏、契丹の蕭氏もナガ族のシスナーガ族であった。だから北倭の子孫は三分して九州の南倭と混じた北倭と、朝鮮の倭人であった新羅人、そして満州(中国東北)の北倭、すなわち鮮卑の一派として残った蒙瓦室韋から蒙古族になったものになったのである。

 北倭とは狭義には仾族の子孫でのちの蒙瓦室韋、または蒙古族であるが、広義に北倭とは、ナーガ族、シャキイ族、ボド語族、カーシ族、クメール族などのインド系アジア諸族を含める。そして北倭の子孫が匈奴のキンメリ人やチュルク人と混じて鮮虞、鮮卑になり、さらに蒙瓦室韋、蒙古族になった。

 3、北倭が満州から日本に渡来したのは邪馬壱国の建国のときだから、蒙古族と日本民族の共通の祖先は中国東北に散開した北倭であった。『山海経』海内東経には「北倭と南倭は燕(奇子朝鮮)に属す」と書いてあり、この燕は『史記』の燕ではなくて奇子朝鮮のことである。しかし『記紀』は大物主命の軍隊を大来目としてクメール族を記す他、北倭も南倭も共に記録していない。

 これもまた滑稽なことであるが、韓国の文化母胎(征服者)はトルコ系の高句麗人、インド系の新羅人の他、秦漢文化をもちこんだシナ人という三つのグループであるが、慶尚大学における筆者のセミナーで、「檀君桓因は帝釈天桓因だから、インド渡来の朝鮮民族がいる」といったところ、「われわれはウラル・アルタイ語族である」といって長々とぶった大学教授がいた。

 アメリカの黒人はアフリカ語を忘れているし、アメリカのインディアンも自分の言語を忘れたものは沢山いる。結局インド、中国、朝鮮、日本では、愚民と奴隷を作り出した歴史こそが長期権力維持の方便だったのである。しかしゼミのあと一人で接触してきた若い教授がいて、そっと「朝鮮語にはインド語が入っています」と告げた。1乃至3は拙著『倭と日本建国史』に詳しい。

 4、『北史』は「扶余王仇台は公孫氏と同盟して帯方郡を経営した。郡のもとに倭人と韓人がいた」という。この帯方郡が南扶余.(ありしひのふよ)ともいう百済国のおこりであって、百済の本当の祖王仇首は扶余王仇台その人であった。

 5、伯族の扶余王仇台は百済王仇首であり、伊都国に進んでイワレヒコこと神武天皇になった。従って公孫氏の女(むすめ)とある仇台妃は卑弥呼であり、かつ神武妃ヒメタタライスズである。(図3参照)。

 『晋書』倭人伝には、「漢末倭人乱攻伐不定。乃立女子爲王。名日卑弥呼。宣帝之平公孫氏也。」と明らかに記している。勿論『記紀』はこのことにふれないが、『桓檀古記』
には「イワレヒコは伊都国の王である」と書いてあって、邪馬壱国が神武夫妻の合作だったことを教えている。(図、三参照)この問題も第六章に詳述する。だからのちの南朝天皇家は扶余王仇台、百済王仇首、のちの神武天皇が朝鮮の帯方郡から南下して九州を侵略したのが始まりであった。帝国憲法の英訳ではこのことを「天皇の祖先は日本に来た(come)」と書いている。

 6、『桓檀古記』によれば、邪馬壱国は九州の日向にありのちに朝鮮に戻って安羅といった。日向の西都原古墳群の中にひときわ大きい卑弥呼の古墳が存在する。これはもと円墳であったものを、誰かバカな奴が尻尾をつけておかしな形に変えたものである。(図、4参照)

 近畿説は大和王朝という『記紀』の虚構を維持し、『記紀』の宗教的権威を保持するための詐術でしかない。いま奈良の前方後円古墳から三角縁神獣鏡という青銅鏡が多数出土して、卑弥呼古墳だろうという人がいる。しかし『魏志』によれば、卑弥呼古墳は円墳だから、前方後円古墳がそうだというのは床屋考古学のたぐいでしかない。日本にはこういうノータリンの学者が多過ぎるのである。

 「その他の倭国」は朝鮮南部と九州各地にあり、また沖縄の狗奴国も倭国の一つであった。その王はナーガ族の長髄彦であり、また朴氏の祖になっている南解次々雄であった。因みに次々雄の前の赫居世の姓はインドでナーガ族と接触したカッシュ人を表しているのである。

 九州北東部には東表国のちの駕洛国があり、秦王国は畿内にあって『紀』には「別倭」となっている。1乃至6は拙著『女王卑弥呼とユダヤ人』に詳しい。

 7、新羅史の「砒曇の乱」は日本史のモデルである。このことは遡って、日本史の孝元天皇が実は駕洛国初代の首露王だったことを教える。日本史は扶余王と駕洛王を交互に天皇と書いてそれらを万世一系と強弁した、国民を奴隷化する、または子供だましの偽史であった。崇神まで、応神までを神話だというなら『日本書紀』はすべて神話だったというべきである。こんなことがまかり通ったのは学者のレベルが余りも低くて『書紀』の文意が理解できなかったからであろう。

 8、『晋書』には「扶余王依慮は自殺し、子弟が走って沃沮を保った」とあるが、『古記』には「依慮は鮮卑に敗れ…子の依羅、海を越え遂に倭人を定めて王となる」とある。この依羅が国史のミマキイリヒコこと崇神なのである。

 9、七支刀の裏面の銘文は「百済王の世子、奇しくも聖音に生まれ故ありて倭王旨となる。造りて後世に伝示す」と読む。こんな当たり前の読み方が出来ないようでは学者ともいえない。倭王は辰王ともいい、倭王旨は百済の辰斯王すなわち辰王斯であり、国史の景行でもある。辰王とは実は共立された倭大王のことであった。のちに『記紀』がほぼ一貫して百済王を天皇とし、処々に駕洛王と新羅王を介在させたのはこのような歴史的事実を反映させたからであろう。新羅金姓王朝の祖になっている金首留は駕洛王金首露と同一人物で、新羅は駕洛から分れた国である。

 10、倭の五王は駕洛国の王で、その前後の百済系天皇とはつながらない。日本史は扶余王、百済王の天皇と駕洛王、新羅王の天皇を合成してつなぎ、あえて万世一系といったのである。これこそ歴史握造であった。

 11、『陪書』に登場する倭王アメタリシヒコは聖徳太子ではない。聖徳太子とは百済の威徳王昌であるが、アメタリシヒコは大伴望多(馬來田)であり、ワカミタフリは大伴道足であった。大伴談の子が金村であり、その弟が歌で、金村の子が磐(磐井)、磐の子が望多であるが、談が継体、金村が安閑、歌が宣化、磐が磐井の君で、アメタリシヒコの望多は磐の子である。

 大伴氏は公孫域の大物主命、公孫度の事代主命、公孫康の道臣命、その妹の卑弥呼(仇台妃)など、すなわち邪馬壱国王家の子孫である。だから継体、安閑、宣化という天皇家はその前後の百済王家とは断絶している。万世一系は原住民に対するめくらましであった。

 『ラーマーヤナ』とプラーナ諸聖典によると、コーサラの王統譜の中にシャーキャ、サッドホダナ、シッダルータ、ラーフラという釈尊の系図が混じている。このやり方をコーサラの移民だった公孫氏、のちの邪馬壱国の王族が教えたのであろう。

 倭国から日本国建国まで

 12、入鹿殺しは新羅史の「砒曇の乱」の翻案であり、従って新羅王善徳以下は皇極以下のモデルであり、百済王東城以下は欽明以下のモデルである。このことは『記紀』が全体として朝鮮史の書きかえであることを示す。従って崇神まで、あるいは応神までを神語というなら『記紀』は全文が神話なのである。しかし世人の反論としては、日本史に朝鮮史の一部がまぎれこんだのだろうというものであり、無能な学者共に至ってはこの問題すべてを黙殺している。しかしこの事実は重大であって、『記紀』が全体的に正当な歴史書ではありえないことを示す。自白調書の一部に重大な矛盾があれば、調書全体を信ずべきでないことは当然であろう。

 13、『北史』が記す如く大和地方には秦王国があった。秦王国はまた別倭、伊倭、日の本などといい、京都郊外の太秦の秦氏はその子孫であった。『弾左衛門由緒書』に弾家の祖は秦氏でのちに藤原姓になったとある。秦氏は日本国が作られたあとで藤原氏の中にもぐりこんだ。しかし『記紀』を史書であるとすれば、このような真実の歴史は否定せざるを得ない。

 「砒曇の乱」によれば藤原鎌足は金庾信であるが、一方『書紀』の中では鎌足が郭(唐)務悰のところもあって、鎌足という人物は二人一役の合成人問であった。それは白村江戦争で捕虜になったグループの中の藤原不比等が、長じてから、捕虜グループのなかの有力者の郭務悰を金庾信と合成して鎌足という人物を創造したからである。藤原不比等が自分が捕虜だった事実をかくすために、舎人親王にたのんで郭務悰と金庾信を合成して自分のハクづけをしたのである。これが睦仁と大室寅之祐の二人を一人の明治天皇にした手法の先例であった。

 『藤氏家伝』には藤原不比等の名が記載されていない。このことによって、藤原四家はそれぞれが別の氏族であり、ミス・ハーフといったところの娘たちをもった不比等の名によってかれらを統合したことが判る。従って藤原四家は金庾信の子孫と郭務悰の子孫の他、秦氏もいたし、金氏もいた。金氏といっても金海金も慶州金もいたであろう。『善隣国宝記』のなかに郭務悰を唐務悰としているところが一ヶ所だけあるが、この「唐」が「藤」に変っただけである。

 14、日本国は畿内の秦王国または日の本と、九州の倭国(邪馬壱国、安羅)を合体させて作った国家であった。それは白村江の戦いののちに、新羅人の色ぼけ帝国の命令によって唐にかくして行われた。『記紀』はこの日本建国史の真相を唐と日本人にかくすべくして程造したものである。

 (白金注::ここんところを、見ると、つまりは、唐帝国、からの、独立、つまりは、日本の、独立自尊の、その、はじまり、というふうにも、読めないことも、ないが、つまりは、日本書記を、でっち上げてでも、もう、唐の、からの、脱出、日本国の、その誕生、というふうにも、読めないことは、ないが、つまりは、岡田 英弘 氏、的な、解釈、だな・・、もし、この見方で行くなら、でっち上げの、偽造、捏造の、日本書記も、まんざら、効、も、あった、ということに、も、なるが、まあ、ここでは、これ以上は、他全、詳細、略!!白金:注))

 翌日、追記::(まあ、でももっとも、これは日本が、というよりも、戦勝国だった、新羅が、日本書記、を、唐と、日本人へとは、わかられないように、でっちあげたわけであり、まあ、つまりは、戦勝国、新羅の、主導で、日本書紀、っつものが、出来たわけであり、つまりは、言って見れば、たとえば、現在で例えて、見るなら、あくまで、便宜上、たとえるなら、アメリカ(唐))に、ばれないように、アジア内で、勝手に侵略を、する、(つまりは、新羅が、日本を、一部の、日本人を、手先にしつつ、日本という国を、でっちあげる、というような、ものであるから、

 16、新羅史の「砒曇の乱」によって、日本史は東城王以下の百済王と善徳王以下の新羅王を共に天皇にしたことが判る。だから天皇家が万世一系であるというのはマッカなウソで、その時その時の王朝が、自分の王朝は万世に続くとする自分勝手な醜い欲望にすぎない。これは天皇家周辺の朝鮮人やシナ人が考え出したことで『記紀』の主たる目的の一つであった。そもそも『記紀』によって一系とされる日本の王朝は実は八つの王朝が交替していた。

 第一王朝は孝昭以下の駕洛王朝、第二王朝はニギハヤヒ(昔氏)の多羅王朝、第三王朝は神武以下の扶余の百済王朝、第四王朝は継体以下の邪馬壱国または安羅王朝、第五王朝は皇極以下の新羅王朝、第六王朝は道鏡、光仁以下の亡命百済王朝、第七王朝は後小松以降の足利王朝、第八王朝は明治以降の自称百済系の大室王朝である。これをもって万世一系となしたのは帰化朝鮮人と秦人が合作した系図偽造であった。だから日本では王朝の交替には公卿たちの承認と神器の継承を必要としたのである。1乃至16は拙著『日本王朝興亡史』『国史正義』に詳しい。

 ざっとこんなところであろう。以上37項目のうちせめて半分だけでも判っていれば、その人は『記紀』を盲信して『紀記』の国民奴隷化政策に協力した大学教授たちよりもはるかに物知りである。このうち一つの問題についても反論は百言以上も還ってくるであろうが、実はその百言はすべて『記紀』という宗教の教義書の如き史書に基づく狂信者、自分の生活のために国民を奴隷にしたい奴隷監督、カポたちのいい分なのである。

 何度でもいうが今の歴史学は学問ではなく、オウム信者と同じレベルの狂信者たちの教義論に等しい。歴史学は『記紀』が歴史書であることを否認して、本国から命からがら逃亡した朝鮮人やシナ人が裡造した天皇教という邪教の呪縛から解き放たれない限りは学問にならない。

 ここに説明した倭人と日本建国史については、拙著『倭と日本建国史』『国史正義』などおおむね述べた。武家と軍閥の歴史は拙著『裏切られた三人の天皇』、『昭和天皇の謎』と本書において論じるであろう。歴史は極めて因果性の強い学問だから、前半と後半を分割することは困難である。読者には前掲拙著の通読を望む。以上、廣橋氏の八項目を手がかりにして考えてみた。廣橋氏のいった八項目は廣橋氏の証言の他にも傍証がある。またこの八項目はそれぞれ筆者のリストとも重複するが、廣橋氏からこのように貴重な示唆を得たことは望外の倖せであった。特に記して謝意を表す。






(私論.私見)