鹿島史観3

 (最新見直し2009.12.24日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、鹿島昇・氏の史観を確認しておく。

 2007.10.30日 れんだいこ拝



【二・二六事件考】
 [3908] ひきつづき、“日本史の、タブーに、挑んだ、男・・鹿島 曻――その業績と生涯・・松重 楊江(まつしげ ようこう)”という、良好なる、著、の、一部分を、の、甚大紹介、引用、ログ!!<2004年、10月、31日、午後、8時57分、打ち、ログ!!>> 投稿者:白金 幸紀(しろがね ゆうき))会員番号 1738番 投稿日:2004/11/02(Tue) 01:30:36

 “日本史の タブーに 挑んだ 男 鹿島 曻-その業績と生涯 松重 楊江(まつしげ ようこう))”(2003年11月15日 初版第一刷発行))

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 第二章 明治維新で 北朝から南朝へ(p51~)

 徳川家茂、孝明天皇は、ともに毒殺か

 鹿島昇は柳井(やない)市を訪れ、田布施町麻郷(おごう)に大室近祐(おおむろ ちかすけ)氏を訪問した。鹿島は、『裏切られた三人の天皇――明治維新の謎』『明治維新の生賛――誰が孝明天皇を殺したか』(松重 正、宮崎 鉄雄 との共著)で、伊藤博文と岩倉具視(ともみ)が孝明天皇と幼い睦仁(むつひと)天皇を謀殺し、長州藩に匿(かくま)われていた南朝の末裔を明治天皇にすり替えたと主張したが、そのきっかけとなったのは、昭和六二年一〇月の山口県柳丼市訪問であった。

 日本神道・歴史研究の権威である吾郷(あごう)清彦氏の紹介で、柳井市を訪れた鹿島曻は、熊毛郡田布施町麻郷字大室に住む大室近祐氏(口絵与真参照)を訪問した。いまではすでに故人となった大室氏は、当時、地元では大室天皇と呼ばれていた。大室天皇は、南朝の崩壊とともに吉野の地を追われ、長州・麻郷に落ちのびた光良(みつなが)親王の子孫である。これはよく知られていることだが、南朝・後醍醐天皇の皇統は、次のように大きく二つに分かれている(54ぺ-ジの家系図も参照)。

 正系・・・・後村上天皇――長慶天皇――後亀山天皇――良泰(ながやす)親王

 傍系……・・尊良(たかなが)親王(東山天皇)一-守良(もりなが)親王(興国天皇)一興良(おきなが)親王(小松天皇)――正良(まさよし)親王(松良天皇)

 この傍系の正良(まさよし)天皇には、美良(よしなが)親王、光良(みつなが)親王という二人の息丁がいて、光良(みつなが)親王は弟のほうであった。兄の美良(よしなが)親王は、三浦佐久姫を妻として三浦藤太夫と名を変え、現在の愛知県豊川市に移り住んだ。そして、これが三浦天皇家となる。南朝正系の良泰(ながやす)親王のほうは、南朝の崩壊とともに関東に落ちのび、江戸時代まで水戸藩の庇護を受けた。これが熊沢天皇家である。つまり、南朝の皇統を継ぐべきものとしては、大室天皇家、三浦天皇家、熊沢天皇家の三つがあるということである。

 鹿島が訪ねたとき、大室近祐氏は、すでに八○歳を越えていたが、「私は南朝の流れを引く大室天皇家の末蕎であり、明治天皇は祖父の兄・大室寅之祐です」と、はっきりと語った。鹿島は、この最初の訪問のときはさすがに半信半疑のようであったが、一〇回におよぶ訪問を重ね、『皇道と麻郷」をはじめとする大量の文書を見せられることにより、しだいにこの事実を確信するようになっていった。

 山岡荘八は徳川家茂毒殺説を、ねずまさしも孝明天皇毒殺説を

 第二次長州征伐直後の慶応二年(一ハ六六)七月二〇日、第一四代将軍・徳川家茂(いえおち)がわずか二〇歳で急死し、その五ヶ月後の一二月二五日に、今度は孝明天皇が三六歳で急逝した。この二つの死は、ともに不可解なものである。徳川家茂については、山岡荘八は毒殺説をとっている(「明治百年と日本人」『月刊ひろば』昭和四三年一一月号)。孝明天皇についても、当時からその死については黒い噂が流れていて、平凡社の『大百科事典』などにも、孝明天皇は「疱瘡(ほうそう)を病み逝去。病状が回復しつつあったときの急死のため毒殺の可能性が高い」(羽賀祥二・著)と書かれている。孝明天皇・毒殺説の最もポピュラーな論文は、歴史家・ねずまさしの『孝明天皇は病死か毒殺か』(『歴史学研究』一七三号所収)である。

 さらに、当時の歴史状況を振り返ることにより、次のようなことがいえる。孝明天皇は、徳川家茂を信任していて、思想的には、幕府の政策を是認し、これを助ける佐幕派であり、公武合体を志向していた。それに対し、薩長土肥(薩摩・長州・上佐・肥前)の志士たちは、徳川幕府を倒す倒幕を目指し、外交政策は開国であった。薩摩藩は薩英戦争によって、長州藩は四国連合艦隊による下関事件(後述)によって、英・仏・蘭の軍事力のすごさをよく知っていて、戦っても勝ち目のないことはわかっていた。それにもかかわらず、孝明天皇が「佐幕・公武合体・攘夷」を命じるのならば、それは薩長土肥のみならず日本そのものを危うくするものであった。

 この間の複雑な国内状況が、幕末政治史上最大の内政外交問題である「条約勅許問題」(一八五七―六七年)を引き起こす。一八五四年、幕府は日米和親条約締結に際して、アメリカ国書を朝廷に奏聞(そうもん)(事情などを申し上げること)したが、調印については事後報告を行うにとどまった。その後に、日米修好通商条約をも調印せざるをえなくなり、このときは国内の反対派を押さえるために、幕吏を上洛(京都へ上ること)させて勅許を得ようとしたのだが、朝廷はこれを拒否した。そのため、外交責任者の老中・堀田正睦(まさよし)みずからが上洛し、国際情勢の変化を説いたが、それでもなお朝廷は拒否の姿勢を貫いたので、この条約調印をめぐって国内世論はまっぷたつに分かれ、大変な状況となった。その状況をさらに危険なものにしたのが、大老・井伊直弼による勅許を得ないままの調印断行であった。

 違勅調印により、尊王と攘夷が結びついた

 この時期、天保改革以後台頭した西南雄藩(せいなんゆうはん)(薩長土肥)は天皇との結びつきを深めていたが、幕府も体制の立て直しをめざして天皇の権威との結びつきを深めようとしていた。いわゆる「玉(ぎょく)をにぎる」(天皇を手に入れる)ための暗闘が、幕末の水面下で激しく繰り広げられていたのだ。そんななかで、井伊大老が違勅調印(天子の命令に背いて調印すること)を断行したため、西南雄藩はこの違勅調印に対して、はっきりと尊王を打ち出した。さらに、違勅調印による開国政策に対しても、はっきりと撰夷を打ち出した。そのことにより、ほんらい儒教的名分論(名称と実質の一致を求めて社会秩序を確立しようとする儒教の思想)であった尊王論が、攘夷主義と結びつき、尊王攘夷運動が奔流することとなった。

 幕府は、この尊王撰夷運動に対して、吉田松陰・頼三樹三郎(らいみ きさぶろう)・橋本左内(さない)ら多数の志士を投獄・処刑する安政の大獄などの強硬策でもって応じ、孝明天皇はそのことへの抗議として譲位の意を示し、朝幕の対立は頂点に達し、幕末の政局はいっきょに流動化した。この井伊大老による違勅調印は、一八五八年の桜田門外の変によって、一つの結末を迎える。一八六〇年の雪の朝、水戸浪士ら一八名が桜田門外で、「尊王攘夷(そんのうじょうい)は正義の明道(めいどう)なり、天下万民をして富岳(ふがく)の安(やす)きに処(しょ)せしめ給わん事を願(ねが)うのみ。いささか殉国報恩(じゅんこくほうおん)の微忠(びちゅう)(忠義な心)を表(あらわ)し、伏(ふ)して天地神明の(御(ご))照覧(しょうらん)を仰(あお)ぎ奉(たてまつ)り候(そうろう)なり」と言って、井伊直弼を暗殺したのである。

 維新前夜、北朝から南朝へと、明治天皇がすり替わった?

 皇妹・和宮と将軍・徳川家茂の婚姻により、孝明天皇はごく近い親戚に

 公武合体を方針とする幕府は、将来の攘夷の実行を約束して、皇妹・和宮と将軍・徳川家茂との婚姻を、孝明天皇に要請した。その要請を受けた孝明天皇は、周囲の反対を押してこれに同意し、その結果、孝明天皇と将軍・徳川家茂は、ごく近い親戚となった。そのうえ、孝明天皇(北朝系)は、中川宮や京都守護職・松平容保(かたもり)と結んで、尊皇撰夷派を京都から追放した。孝明天皇は攘夷派であり、天皇なのだから孝明天皇にとって尊皇が悪いはずはないのだが、一方でアンチ尊皇撰夷派であり、反西南雄藩・反薩長派だったのである。

 さらに幕府は、長州藩の攘夷即行の藩是、七卿西走(尊攘派と提携していた七人の公卿が厳罰を受け、西走した事件)の擁護、蛤御門の変(長州藩が京都に出兵し、京都守護職・松平容保率いる諸藩の兵と宮門付近で戦った事件)などを怒り、一八六四年に第一次長州藩征伐を行った。このときちょうどイギリス、アメリカ、フランス、オランダの連合艦隊が下関を来襲したので、長州藩は敗北して恭順の意を表し、主謀者を処刑して謝罪した(だが、長州藩で匿っていた三条実美らの五卿を幕府側へ引き渡すという約束は実行しなかった)。

 この長州藩俗論党の弱腰に対し、高杉晋作らの藩内強硬派は、一八六四年未から翌六五年にかけて馬関(下関)で決起し、藩の主導権を奪い、奇兵隊以下諸隊軍事力を背景に、藩論を幕府との軍事対決の方向に定めた(一八六五年三月)。これを見た幕府は、六五年九月に孝明天皇の勅許を得て、第二次長州征伐を敢行しようとしたが、朝廷および諸藩には再征反対の空気が強く、薩摩藩は出兵を拒否した。

 第二次長州征伐敗北直後、一四代将軍・徳川家茂は大坂城で急逝
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 この時期の薩摩藩の動きは、実に興味深い。薩摩藩が第二次長州征伐への出兵を拒否したのは、六五年九月のことであり、その一〇ヶ月前の六四年七月には、蛤御門の変が起きている。その蛤御門の変では、薩摩藩は幕府側であった。
ところが、いざ蛤御門の変が終わると、京を支配したのは一橋家の徳川慶喜、会津藩主・松平容保(かたもり)、桑名藩主・松平定敬(ああたか)の三者であり、薩摩藩にはこれといった論功行賞がなかった。そのため、薩摩藩は蛤御門の変以降、公武合体派から距離を置くようになり、勝海舟あたりから、徳川幕府には将来はないというような話を聞くことになる。

 そのようなこともあって、六五年九月に、第二次長州征伐への出兵を拒否するわけだが、その四ヶ月後には、薩長同盟を結ぶに至っている。まさに昨日の敵は今日の友といった感じなのだが、このとき薩摩藩の西郷隆盛を口説き落としたのは、桂小五郎(=木戸孝允)であった。「わが長州としては、南朝の御正系をおし立てて王政復古をしたいのだ」と、西郷を口説いたのである。これを聞いた西郷は、自身が南朝の大忠臣・菊池家の子孫だったため、「ようごわす」と、南朝革命に賛同し、薩長軍事同盟を締結し、薩長は尊皇倒幕にまとまったのである。そこに、第二次長州征伐の幕府軍がやってきて、薩摩藩がいることに驚き、密輸入によって手に入れたおびただしい数の近代兵器に目を見張るのである。さらに、大坂や江戸における打ちこわしや百姓一揆が、後門の虎となり、あとは敗走あるのみといった状況となった。

 まさにそのとき、実にタイムリーに一四代将軍・徳川家茂が大坂城で急逝したのである(これほどまでに時宜を得た急逝はないことも、毒殺説を裏付けることになる)。

 将軍が死んだのだからと、六六年八月に、休戦を孝明天皇に申し入れ、九月二日に長州藩と休戦協定を結ぶのだが、その三ヶ月後の二一月に、今度は孝明天皇が急逝してしまった。そこで、休戦から解兵へと方針を変更して朝廷の沙汰書を得、天下に布告した。すなわち第二次長州征伐に幕府は失敗したことを、明らかにしたわけである。このことによって、幕府の権威失墜は決定的となり、以後、幕府支配の崩壊は時間の問題となった。

 孝明天皇は徳川家茂、会津藩主を信任する頑(かたくな)な懐夷主義者であった

 一方、難なく下関に入った四国連合艦隊は、さらに大坂湾へと入り、条約勅許と兵庫開港を要求した孝明天皇はこの期に及んでもまだ首をたてにふらなかった。孝明天皇は、それほどまでに頑(かたくな)な攘夷主義者であったのだ。しかも、将軍・徳川家茂を信任するのみならず、京都市中の治安維持の総責任者・京都守護職に会津藩主の松平容保を任命していた。それらのことを、明治天皇と対比して整理すると、次のようになる。

 孝明天皇・…-幕府を助ける佐幕派、公武合体、攘夷、会津藩主を信任

 明治天皇・…:幕府を倒した倒幕派、反公武合体、開国、会津藩は朝敵

 一八六六年の六月に徳川家茂が死去し、同年一二月に孝明天皇が死去する。

 一八六七年一月九日、睦仁(むつひと)親王が践祚(せんそ)(天皇の位を受け継ぐことで、即位との区別はない)し、明治天皇睦仁(みつひと)となる(なお、明治天皇の即位の礼は一八六八年八月二七日に行われ、同年九月八日には明治と改元され、一世一元の制度がここに確立されることになる)。だからといって、すぐに大きな変化はなかったのだが、一八六七年五月になると、兵庫開港の勅許が出され、日本は攘夷から開国へと、ようやく大きな一歩を踏み出した。鹿島の説によると、ちょうどそのころ、大室寅之祐は西郷隆盛とともに上洛している。

 孝明天皇から明治天皇へと路線が一八○度展開し、明治維新が成立している

 やがて、一〇月になると薩長両藩に倒幕の密勅が下るのだが、不思議なことに、最後の将軍・徳川慶喜(よしのぶ)が朝廷に大政奉還を上奏したのは、この倒幕の密勅が下った直後のことであった(一〇月一四日)。その大政奉還を受けて、一二月に王政復古の大号令が発せられるのだが、その最初の場所は、なんと大室寅之祐の生家のすぐそばの高松八幡宮であった(ここに、三条実美(さねとみ))も同席している)。

 そしてその翌月、すなわち一八六八(慶応四=明治元)年一月、鳥羽・伏見で、幕府軍二万と薩長軍四千が戦うが、錦の御旗を前に幕府軍は戦意を喪失して敗走。それが二二日であり、その二日後の一五日に、鹿島説によれば大室寅之祐が明治天皇として、正式に京都御所に迎え入れられたということになっている。

 睦仁(むつひと)親王が即位をして新天皇となったのは、一八六七年一月九日である。ところがいつの間にか人物がすり替わり、そのちょうど一年後の一八六八年一月一五日に、長州藩が匿っていた南朝末蕎の大室寅之祐が、明治天皇となったというのである。そして、この一年のあいだに、孝明天皇路線(幕府を助ける佐幕派、公武合体、撰夷・会津藩主を信任)から、明治天皇路線(幕府を倒した倒幕派、反公武合体、開国、会津藩は朝敵)へと政策を一八○度展開し、明治維新が成立しているというのである。

 睦仁親王と明治天皇は、似ていない

 明治天皇のすり替えについては、一八○度の政策展開という「状況証拠」のほかに、「物的証拠」にあたるものもある。まずは、「あばた」である。睦仁親王は、種痘を受けていて天然痘には罹っていなかったので、あばたはない。ところが明治天皇(大室寅之祐)は二歳のときに天然痘に罹り、口の周りに「あばた」が残った。立派な口髭は、そのあばたを隠すためのものであり、写真に撮られるのを嫌った。「御真影」が肖像画であるのは、そのためである。

 第二に、禁門の変のとき、二二歳であった睦仁親王は、砲声と女官たちの悲鳴を聞いて失神したとあり、ひ弱な虚弱体質であった。明治天皇(大室寅之祐)は、二四貫(約九〇キロ)の巨漢で、側近と相撲をとっては投げ飛ばしていた。

 第三に、即位前の睦仁親王に乗馬の記録はない。馬に乗れなかったようである。ところが明治天皇(大室寅之祐)は威風堂々、馬上から閲兵し、大号令をかけている。

 第四に、睦仁親王は右利きだが、明治天皇(大室寅之祐)は左利きである。当時、左利きは嫌がられていたため、天皇が左利きというのは、いかにもヘンである。しかし、長州藩に匿われていた南朝の末商ならば、それはありうる。

 孝明天皇は、岩倉具視が毒殺したのか?

 八八卿列参事件により、岩倉具視は辞官落飾のやむなきに至る

 岩倉具視は、一八二五年(文政八)に、権中納言・堀川康親(やうちか)の次男として生まれ、岩倉具慶(ともやす)の養子となっている。一八三八年に、従五位下で侍従として出仕し、一八六一年には正四位下となり、右近衛権少将(うこのえごんしょう)を経て、左近衛権中将となる。

 鹿島説では、岩倉具視は幼い日に孝明天皇を女形にして男色遊びをしていたということになっているが、たしかに岩倉は関白・鷹司(たかつかさ)政通に認められて、孝明天皇の侍従となっているのだから、これはありうることである。さらに、鹿島説では、孝明天皇が男色遊びに飽きて女性を求めたため、その心変わりを憎んで、岩倉具視も暗殺の謀議に加わったということだが、これもありうることである(この点については、後に別の角度からも検証する)。

 さて、一八五八年(安政五)、日米修好通商条約への調印をめぐって、国内がまっぷたつに割れたとき、岩倉具視は同志の廷臣八八卿の参列に加わって勅許案改訂を建言し、関白・九条尚忠の幕府委任案を一転させた。この列参事件以降、岩倉具視は難局打開と攘夷の実行を公武合体策に求め、万延元年(一.八六〇)には一時中座していた皇女・和宮の将軍・家茂への降嫁(こうか)を、江戸下向にも同行して積極的に推し進め、朝廷の有力者としての地位を固めた。

 それらのことにより、岩倉具視は、久我建通(たてみち)、千種有文(ちぐさ ありふみ)、富小路敬直らとともに、〈四奸(かん)〉の一人として、尊王攘夷過激派に命を狙われ始めた。そのため、朝廷としても家族ともども洛中から追放せざるをえなくなり、岩倉具視はついに辞官落飾(官を辞し、貴人が髪をそりおとして出家すること)のやむなきに至った。剃髪し出家した岩倉具視は、友山と称して、霊源寺、西芳寺、岩倉村と居所を転々として逃げ回ったが、めまぐるしい情勢を意識してか、玉松操、大久保利通など多数の志士たちとの接触を欠かすことがなかった。

 重要な貴人の暗殺は、東洋ではごく普通のことである

 尊皇攘夷派が台頭し、岩倉具視の命が狙われ始めたのは、一八六二年(文久二)。その四年後の一八六六年(慶応二)に孝明天皇が急死すると、岩倉具視は明治天皇により勅勘(ちょっかん)(天子のとがめ。勅命による勘当。宥免(ゆうめん)の勅許があるまで、閉門・蟄居(ちっきょ)して謹慎するのが通例であった)が許され、王政復古クーデターで参与となり、明治新政府において、副総裁、大納言、右大臣と、たちどころに権力の中枢に位置するようになっていった。

 孝明天皇が急死するまでは、髪をおろして家族ともども逃げ回っていたのが、明治天皇に代わるやいなや、急激に異例の出世をしているのである。そのため、当時から岩倉具視には、孝明天皇毒殺の疑いがかけられており、いまでも歴史関係などの本に「孝明天皇には毒殺説があり、岩倉に嫌疑がかけられた」と書かれていたりする。

 孝明天皇の急死によって、岩倉具視の境遇が激変したのは事実である。さらに岩倉具視は、明治新政府の中枢に納まるやいなや、明治六年の政変、士族反乱、対朝鮮・台湾問題、〈漸次国家立憲ノ政体〉樹立の詔勅、太政官・大書記官・井上毅を駆使しての明治憲法の基本構想づくり、明治一四年の政変と、クーデターや政変には推進者ないしは協力者として、必ず顔を出すようになる。

 彼が権謀術数の政治家であったことには異論の余地はなく、孝明天皇を毒殺していたとしても、驚くにはあたらない。「保守的な帝によって、おそらく戦争になるだろうということは予期されるはずであった。重要な貴人の死を毒殺に帰するということは、東洋の国々ではごく普通のことである」とは、英国公使パークスの通訳官であったアーネスト・サトウの言葉である(『日本における外交官」)。

 伊藤博文とは、何者だったのか

 伊藤博文は、二二歳までは士分ではなく、数多くの違法事件に関与していた

 伊藤博文は、一八四一年(天保一二)九月二日、周防(すおう)国(今の山口県南部・東部)熊毛郡に生まれ、家が貧しかったために、一二歳ごろすでに若党(わかとう)奉公(武士の従者。戦闘に参加するが馬に乗る資格のない軽輩)に出ている。

 一四歳になると、親子で足軽・伊藤直右衛門の養子となり、その俊輔(博文)の人物を見込んだ藩士・来原良蔵(くりはら りょうぞう)(桂小五郎の義弟。相模湾警護隊勤務)に鍛えられて一人前の下忍(忍者)となった。そのため一六歳のときに松下村塾に入って吉田松陰の教えを受けると、たまたま大室天皇家と俊輔の郷里が近かった縁で中忍(佐官級情報局員)松陰から「玉(ぎょく)」大室寅之祐の傳役(もりやく)を命ぜられた。そしてこれが彼のライフワークとなったのである。一八五八年(安政五)に、俊輔は山縣(やまがた)小助(有朋)らと京に入っている。

 この京入りは吉田松陰の策により、長州藩が行った諜報活動であった。大老・井伊直弼が、徳川斉昭、慶篤(よしあつ)、松平慶永(よしなが)などを処分して、オランダ、ロシア、イギリスと修好条約を結んだ直後に、朝廷と京の情勢を探ったわけである。諜報活動にあたったのは、足軽と奴(やっこ)から選んだ六人(の忍者.テロリスト)であり、その中に伊藤博文と山縣有朋が入っていたということである。伊藤博文は、この京における諜報活動のあと、長崎で洋式銃陣法を伝習している。

 一八五九年(安政六)になると、桂小五郎(木戸孝允)とともに江戸へ行き、一〇月二七日に吉田松陰が刑死すると、その遺骸を同志とともに江戸の小塚原回向院(こづかっぱらえこういん)に埋葬している。

 一八六二年(文久二)七月、久坂玄瑞(くさかげんすい)らと諮って長州藩重臣・長井雅楽(うた)の襲撃を計画するが失敗し、一二月には高杉晋作らと英国公使館を焼き討ちし、山尾庸三(ようぞう)とともに、国学者・塙(あなわ)次郎を斬殺している。

 井上聞多(もんた)(井上馨)、野村弥吉、遠藤謹助、山尾庸三らと英国へ密留学をしたのは、その翌年の一八六三年(文久三)であり、士分にとりたてられたのは、この年のことである。

 英国密留学もそこそこに、翌年には帰国して、外国艦隊との講和に奔走し、この年の年末には、長州の力士隊を率いて高杉晋作の挙兵に従っている。

 以上が、一八六六年(慶応二)に孝明天皇が急死する以前の伊藤博文の行動である。ざっと見て感じるのは、違法事件への関与の多さである。

 伊藤が士分にとりたてられたのは、一八六三年だから、二二歳のときである。つまり、二二歳までは士分ではなく、斬殺を含む違法事件に数多く関与していたということである。そんななかで、いい意味で目立つのは、松下村塾に入って吉田松陰の教えを受けたことだが、この松下村塾が、鹿島説ではたんなる私塾ではなく、大変な問題を含んでいたのである。次に、鹿島説における「松下村塾とは何か」と「吉田松陰の三つの理念」を見てみよう。そのうえで、伊藤博文は孝明天皇暗殺にどう関わったかに触れたい。

 吉田松陰の松下村塾とは、どういうところであったか

 松下村熟の塾長であった吉田松陰は、一八三〇年(天保元)に、長州藩士・杉百合之助の次男として萩郊外の松本村に生まれている。幼いころに、山鹿(やまが)流兵学師範・吉田大助の養子となり、叔父の玉木文之進らの教育を受け、一一歳で藩主に『武教全書』を講じて早熟の秀才であることを認められた。

 一八五一年に江戸に出て、西洋兵学を学ぶ必要性を痛感し、兵学者の佐久間象山(しょうざん)に入門したが、勉強は進まなかった。同年末、許可なく藩邸を辞し、翌年にかけて水戸から東北、北陸と遊歴したため、士籍永奪の処分を受けたが、その代わりに一〇年間の諸国遊学の許可をもらった。

 五三年のペリー来航に際しては、浦賀に出かけて黒船を目の当たりにし、佐久間象山に勧められて海外の状況を実地に見極める決心を固め、長崎でプチャーチン(ロシア提督)の軍艦に乗ろうとしたが果たせず、翌五四年(安政一)に、下田に来航していたアメリカ艦に漕ぎ着けたが、密航を拒否されて、岸に送り返された。

 松陰は、江戸の獄に入れられたのち、長州藩に引き渡され、在所に蟄居(ちっきょ)させるとの判決を受けたが、身柄を引き取った長州藩は、萩の野山獄(のやまごく)に投じた。幕府に気をつかい、慎重にことを運んだのである。

 在獄一年余で、生家の杉家に預けられることになるが、他人との接触は禁じられた。そんななかで、近隣の子弟が来たりして、幽室が塾と化した。松下村塾は、もともと長州藩士・玉木文之進が始めたものであり、それを外叔の久保五郎左衛門が受け継いだのだが、この時期に、その門弟で松陰のもとに来るものが増えたため、いつしか松陰が松下村塾の主宰者と見なされるようになった。評判が高まるにつれて、萩の城下から通うものも現れた。久坂玄瑞と高杉晋作がその代表で、松下村塾の双壁と目され、久坂は松陰の妹と結婚した。

 松陰の講義は時勢を忌憚(きたん)なく論じるところに特徴があり、彼の膝下(しっか)から益田親施(ちかのぶ)(右衛門介・須佐領主。俗論党により切腹)、桂小五郎(木戸孝允)、吉田稔麿(としまろ)(池田屋にて討ち死に)、伊藤博文、山縣有朋、前原一誠(いっせい)(萩の乱を起こし斬罪)などが出ている。

 安政の大獄を強行した幕府は、松陰へも疑惑を持ち、江戸伝馬(でんま)町の獄に投じたのち、一八五九年一〇月、死刑に処した。

 鹿島が整理した吉田松陰の三つの理念

 一、長州藩が匿ってきた大室天皇による南朝革命論

 鹿島説では、その吉田松陰の理念は、おおよそ次の三点であるとしている。まず第一に、南朝革命論である。吉田松陰も水戸学の藤田東湖(とうこ)も、尊皇攘夷を主張したが、この場合の尊皇とは、南朝正系論に立った尊皇攘夷である。南朝が正系であるにもかかわらず、孝明天皇のような北朝の天皇が天皇の座にあるのはおかしい。偽朝である京都北朝の天皇を廃して、正系たる南朝の天皇を再興しなければならない。…そのように主張し、尊皇すなわち南朝革命論を打ち立てたのである。

 ただし、同じ南朝革命論としての尊皇攘夷ではあるが、吉田松陰と藤田東湖では、その内容が異なる。吉田松陰が再興すべしとしている南朝は、長州が匿ってきた大室天皇家である。吉田松陰は、自身が「玉」(天皇)を握っていたからこそ、南朝革命論を打ち立てたのである。それに対して、藤田東湖が再興すべしとした南朝は、当然のことながら熊沢天皇家であった。熊沢天皇家は、歴代にわたって水戸藩が匿ってきた天皇家であり、藤田東湖および水戸藩は、みずからが握る「玉」を担いで南朝革命を成立させようとしたのである。

 攘夷についても、注意を要する点がある。鹿島によると、藤田東湖の主人であった徳川斉昭は、松平慶永にあてた手紙のなかで「攘夷なんかできっこない。自分は老齢だから、一生攘夷と言って死ぬが、貴殿はそこのところをよく考えてほしい」と述べている。

 藩主・徳川光圀(みつくに)の『大日本史』編纂に端を発した水戸学は、国学・史学・神道を基幹とした国家意識を特色とするが、それらが鮮明となり特色ある学風を形成したのは寛政(一七八九‐ 一八〇一)年間以降である。幕末の尊王攘夷運動に大きな影響を与えたのも、この寛政以降の水戸学であり、この時点での攘夷は、多分に家康の鎖国政策を擁護するためのものであった。だから、たしかに徳川斉昭のように、それが不可能であることを知っていながら、立場上、攘夷を主張していた者がいたということは、大いにありうることである。そのことがわからずに、攘夷原理主義的に行動したのが蛤御門の変であり、水戸藩の攘夷原理主義集団・天狗党なのであった。

 二、徹底した民族主義と侵略思想

 吉田松陰の三つの理念の第二は、民族主義である。鹿島曻は、この松陰の民族主義を「徹底した民族主義と侵略思想である」としている。そして、次のような松陰の言葉を引いている。「富国強兵し、蝦夷(北海道)をたがやし満州を奪い、朝鮮に来り、南地(台湾)を併せ、然るのち米(アメリカ)を拉き(くだき)(両手で持って折り)欧(ヨーロッパ)を折らば事克たざるにはなからん」。

 これは明治以降、途中までは実現できたことである。明治新政府は富国強兵に励み、蝦夷地を耕し、満州国を建てて実質的には支配し、朝鮮と台湾を併合した。松陰は、その後アメリカを両手で持って折るべしとしたのだが、それはうまくいかなかった。満州を奪い、台湾と朝鮮とを併合したあと、日中戦争を行い、首都南京を攻略するも、蒋介石は首都を放り投げて逃げてしまい、戦争のゴールというものがなくなり、泥沼化してしまったからである。

 日本は、そのような状態で大東亜戦争に突き進むことにより、腹背に敵を受ける二正面作戦となってしまった。日中戦争を行わず、あるいは適当なところで和平に持ち込み、国力を蓄えた上で、米を拉いていたならば、アメリカ本土はともかく、太平洋がある程度のところまで日本の海になっていた可能性は、なくはない。そこまでいったならば、ヨーロッパともある程度の戦いはできただろうし、外交的に緊張関係を乗り切ったり、緩和したりすることも可能であったかもしれない。

 戦後のいまの常識に照らせば、侵略は悪いことであるが、松陰の生きた時代は、欧米列強が世界支配を完成せんとする帝国主義の時代であった。この時代の帝国主義者は、それぞれの国では、領土を拡大し国に富をもたらす英雄であった。松陰がもっと長生きをし、明治維新の成立を見、日清・日露戦争の勝利、満州国の建国、台湾と朝鮮の併合を見たならば、その後の国策や外交方針は大きく変わっていたにちがいない。

 日本は欧米列強の世界支配を、最後のところで食い止めたわけであり、それができたのは日本に欧米列強と戦い、アジアを侵略せんとする思想と力があったからである。鹿島説は、侵略はすべて悪としているが、一方でアジアの大国であるインドや中国までもが実質的に欧米の植民地にされてしまうなかで、幕末から明治・大正・昭和初期まで、日本が独立を保つことができたのは、松陰の「徹底した民族主義と侵略思想」が、明治の元勲のなかに生きていたからだという点は否めないとしている。

 日本は、大東亜戦争に敗れて七年近くもアメリカ軍を中心とする連合国軍に軍事占領されることになるが、このときには松陰の「徹底した民族主義と侵略思想」が心のなかに生きていた明治の元勲は、一人も生き残っていなかった。松陰の「徹底した民族主義と侵略思想」が日本のなかから潰(つい)え去ったとき、ことの善し悪しは別にして、日本の軍事力も潰え去っていたのである。

 三、部落の解放(これを全アジアに広めようとしたのが大東亜共栄圏)

 吉田松陰の三つの理念の第三は、第二の民族主義と矛盾するようだが、「解放」という理念である。この点に関しては、「長州藩の奇兵隊は、部落解放の夢に燃える若者が中核をなしていた」という私(松重)の研究が基礎となっている。奇兵隊のなかでも、とくに注目すべきは力士隊である。伊藤博文は、実はこの力士隊の隊長だったのである。この時代の力士というのは弾体制(いわゆる同和)に従属していて、部落と密接に関係しているか、あるいは部落そのものであった。さらに、力士隊のあった第二奇兵隊の屯所(とんしょ)は、麻郷(おごう)近くの石城(いわき)山にあった。麻郷はいうまでもなく大室天皇家のあった場所であり、明治天皇となる大室寅之祐が明治維新の前年まで過ごした地である。

 つまり、麻郷を共通項として、力士隊と伊藤博文と大室寅之祐(明治天皇)は、つながるのである。そればかりではない。大室寅之祐(明治天皇)は、大の相撲好きだったが、それもそのはずで、力士隊長・伊藤博文や力士隊のメンバーらと、よく相撲をとっていたのである。

 『中山忠能日記』に「明治天皇は奇兵隊の天皇」と述べた箇所がある。これまで、それは「薩長連合によって生まれた天皇」というように解釈されることが多かった。明治天皇と奇兵隊に直接の関係があるなどとは、想像だにできなかったからである。しかし、明治天皇すなわち大室寅之祐は、奇兵隊と直接関わっていたわけであり、この記述は文字どおり「奇兵隊の天皇」という意味なのである。尊皇攘夷の真の意味は、南朝革命であることはすでに述べたが、吉田松陰にとっては、それはすなわち「奇兵隊の天皇」を再興することにほかならず、それは部落を解放することをも意味した。そして、明治維新によってこれらのことは実現されたのである。

 さらに、この「解放」を全アジアに広めようとしたのが大東亜共栄圏であり、その精神が八紘一宇なのである。八紘一宇は、次の三つを特徴とする。

1、 日本は神国であり、皇祖・天照大神(ああてらすおおみかみ)の神勅を奉じ、「三種の神器」を受け継いできた万世一系の天皇が統治してきた(天皇の神性とその統治の正当性、永遠性の主張)

2、 日本国民は古来より忠孝の美徳をもって天皇に仕え、国運の発展に努めてきた

3、 こうした国柄の精華は、日本だけにとどめておくのではなく、全世界にあまねく及ぼされなければならない

 前段の二つは真っ赤な嘘である。しかしながら、結論の部分はアジアの「解放」、被抑圧民族の解放につながる思想である。

 孝明天皇は、伊藤博文が刺殺したのか?
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 幕末に、暗殺の実行部隊に忍者が選ばれるのは自然なことであった

 戦国時代は血統を重んじる源平武士団が敗北して、賎民が天下を奪った時代であった。秀吉は「はちや」部族の出身であったが、長じて「軒猿(のきざる)」といわれる下忍(下級忍者で、実戦部隊)となった。秀吉は大返し(本能寺の変を知った秀吉が備中から姫路城まで大急ぎで戻った一件)によって明智光秀を討ち、さらに引き上げると見せかけて、柴田勝家を奇襲攻撃して破って、ついに天下をとるが、この二つの戦の兵法は、ともに忍者戦法であった。

 はちや部族のルーツは、月山(がっさん)の山麓にすむ蜂屋(はちや)賀麻党(兵役もつとめる芸人集団)であり、文明一八年(一四八六)、尼丁経久(あまこつねふさ)が七〇名ほどの賀麻党の者を万歳師(ばんざいし)(新年を言祝(ことほ)ぐ祝福芸人)として富田月山城に繰り込ませ、裏口から放火して城主を討ち取ったという史実があるから、はちやという人々が、賎民といっても万歳師でもあり忍者であったことがわかる。

 毛利藩も乱破(らっぱ)の術(情報収集や破壊工作)を得意としたが、これも忍者戦法である。当時の山陰山陽地方は、はちや系の忍者がいっぱいいたと見るほうが自然であり、毛利元就の好敵手であった尼子(あまこ)藩もまた忍者の軍団を中核としていた。

 このような忍者によって、長州藩では邪魔になった者はたとえ権力のトップにあっても、毒殺できる技術が、江戸時代にはほぼ完成していた。一八三六年(天保七)、斉煕(なりひろ)、斉元、斉広(なりこう)と、三人の藩主が相継いで変死しているが、これらはおそらく毒殺であったろう。

 こういう藩の藩主になったならば、実力者に対して、うっかり逆らえば、すぐさま毒殺されかねない。だから、長州藩主は「そうせい候」(何を言っても「そうせい」と返事をするので、こう呼ばれた)という態度をとるようになったのである。

 こうした忍者の伝統は幕末まで連綿として続いていた。薩長の密約によって、将軍家茂と孝明天皇を暗殺する際、実行部隊として長州の忍者部隊が選ばれたのは、むしろ自然な流れというべきである。

 伊藤の刀剣趣味と忍者刀(『明治維新の生賛』より抜粋)

 伊藤俊輔は、明治の世に伊藤博文と名乗るようになって、趣味としての書画骨董(しょがこっとう)などには深入りしなかったが、刀剣類の鑑識眼は相当なものであったらしい。晩年には名刀も数十本所有し、そのなかには国宝級のものもあって暇なときには夜半電灯に照らし、刀剣のにゅう匂(こう)などを点検するのが道楽であったという。

 梅子夫人は維新のころ、萩城下に同伴したとき、俊輔が夜間外出する際には曲がり角などでいつ刺客に襲われるかもしれないと、用心のため抜き身の刀を後手(うしろで)に持って同行したという。そのため、夜中の室内で電灯の光に反射する抜き身の刀を見るたびにそのことを思い出して、「嫌でたまらなかった」と娘の生子に語っている。

 そのためかどうか、維新のころ愛用していたという「忍者刀」が俊輔夫妻の手許を離れ、本家の林家の係累に預けられたまま伝承されているのをこのたび確認した。平成九年(一九九七)九月二日、博文の遺品や直筆の手紙などを集めた「伊藤公資料館」が、山口県熊毛郡大和町束荷(やまとちょうつかり)の伊藤公記念公園内にオープンした。同町が公の生誕一五〇年記念事業の一つとして新築整備したものであるが、あらかじめ公の遺族、親族のほか一般へも広く呼びかけて資料の収集に努めた。

 林家の妻ヤスの孫娘・静子(祐美子)の夫・村上靖男君も、それを機会に義父の遺品を調べることにして、蔵の中の遺物箱を開けてみると、その底に一本の刀があった。この刀は未登録であったので、早速平生警察署を通じて県に連絡したところ、文化庁の係官が来て鑑定してくれることになった。平成七年(一九九五)二月、県庁の一室に持参して、まず刀の銘を見ようとして柄(え)を抜いてみると、普通の刀の根元を切って短くつくり直しているために銘の部分が消えていた。刀身の長さは普通の刀と脇差の中間ぐらいになっており、室内や樹林の中などでも自由に使えるように工夫されていた。

 そのとき、刀身をじっと見ていた文化庁所属の鑑定人が、「この刀は人を斬った刀で、刀全体に脂がべっとりとついていますね」という。脂には塩気があるから、人を斬ったあと拭わずに鞘に納めると中が汚れる。そのまま一〇日も放っておくと刀に錆が出て、次の斬り合いのとき折れることもあるという。だから、人を斬ったあとには必ず鹿のなめし革で刀を磨くようにして拭わねばならない。鹿革は五回も使うと汚れてしまうので、心得のある武士は常に三枚の鹿革を懐中にしていたといわれている。俊輔もそのことは十分に知っていて、この刀も鹿革でよく拭ったのち鞘に収めていたようで、鞘から出すときはすんなり抜けた。

 しかし、長年の間にジワリと脂が浮き出して刀身全体がどす黒くなり、所々に泡のような錆状のものが付着している。この刀はそれほど多くの人の血を吸っているもので、やはり維新動乱の時代に幾度となく使いこなされた「忍者刀」に違いない。調べてみれば孝明天皇の血痕も出てくるかもしれないのである(口絵写真参照)。

 昔から人を斬ったあとには、無性に女性を抱きたくなるものだというから、博文が無類の女性好きになったのは暗殺専門の志士として麻薬患者のような殺人常習者と化していたからであろう。

 さて―――

 一、この刀は明治のはじめ、林惣左衛門のところへやって来た俊輔が、「すまんがこれを預かっておいてくれ」と言って渡したままになっていたもので、爾来門外不出の家宝として、林惣左衛門→次郎(その次男)→ヤス(次郎の妻)→芳雄(次郎とヤスの子・武田芳雄)→静子(芳雄の末娘・村上祐美子)と伝承され、保管されてきたものであった。村上君は、「人を斬った刀とわかれば気味が悪いし、展示するわけにもいかんから家に置いておこう」といって箱に納め、資料館には提出していない。

 二、町の調査報告によれば、「資料収集に努力したけれども、俊輔の一八歳から二四歳までの間の手紙や書などは、今まで知られているわずかなもの以外は全然出てこなかった」という。

 この二つの事実は何を物語るのであろうか。筆者(鹿島)もこの稿を書き進むうちに、維新の志士(俊輔たち)の活躍が彼らの青春時代を賭けた決死のテロ活動であり、そしてその活動が維新後に歴史から抹殺されたことをひしひしと感じるのである。

 宮崎鉄雄氏による決定的な証言

 こうして鹿島は、伊藤博文による孝明天皇刺殺の可能性を唱えたのだが、それを裏付ける証言をする人物が鹿島の前に現れた。作曲家の宮崎鉄雄氏である。宮崎鉄雄氏の父は、渡辺平左衡門章綱といって、幕末、伯太(はかた)藩一万三〇〇〇石の小名として大阪城定番を勤めていた。渡辺家は、もともと嵯峨天皇の末蕎であり、宮崎鉄雄氏はその渡辺平左衛門の子供として一五歳まで育てられ、のち、宮崎家の養子に出されている。

 宮崎氏によると、平左衛門は、徳川慶喜の命を受けて孝明天皇暗殺の犯人を調べていたが、それが岩倉具視と伊藤博文であったことをつきとめた。しかし、そのために伊藤博文から命を狙われる羽目になり、実際、長州人の刺客に稲佐橋の付近で襲われて重傷を負った。その平左衛門の遺言として、宮崎氏は鹿島に次のように語った。

 「父が語ったところでは、伊藤博文が堀河邸の中二階の厠(かわや)に忍び込み、手洗いに立った孝明天皇を床下から刀で刺したそうです。そして、そのあと邸前の小川の水で血刀と血みどろの腕をていねいに洗って去ったということでした」。

 さらに、宮崎氏の話では、伊藤博文が忍び込むに際しては、あらかじめ岩倉具視が厠の番人を買収しておいたという。だとすれば、岩倉具視が伊藤博文を手引きしたことになる。たしかに、暗殺がプロの伊藤博文といえども、天皇の厠に忍び込むのは危険このうえなかっただろうから、だれかの手引きがあったにちがいない。そうした手引きができるのは、孝明天皇に近い人物にちがいなく、その意味で、岩倉具視が手引きしたという話は説得力がある。

 宮崎鉄雄氏がこの話を鹿島にしたとき(一九九七年七月)、すでに宮崎氏は九七歳になっており、それまでずっとこの証言を世に出すかどうか迷っていたそうだが、鹿島曻の著書を読んで公表する決心をしたとのことであった。「日本の歴史家に鹿島氏のような勇気があれば、日本史がウソ八百で固められることもなかったろう」と、宮崎氏はその著書の中で語っている。


 ○吉田松陰の理想

 田中 光顕(たなか みつあき)は、「吉田松陰の松下村塾が南朝の子孫を皇位につけるためのアジトであった」といっているが、このことは本当だろうか。もし本当ならば、明治、大正、昭和、という天皇家はまさしく第8王朝ということになる。

 吉田松陰は「天下は一人の天下に非ざるの説を許す」の中で、「本邦の帝皇或いは桀村の虐あらんとも、億兆の民はただ当に首頭を並列して、闕(宮城)に伏して號哭し、仰いで大子の感悟を祈るべきのみ。不幸にして天子震怒して蓋く億兆を誅したまはぼ、四海の余明復た孑遺(げつい・のこり)あるなし、而して後神州亡ぶ。若しなお一民の存するものあれば、また闕に詣りて死せんのみ。これ神州の民なり。或いは闕に詣りて死せずんば、則ち神州の民に非ざるなり。この時に当り、湯武の如き者放伐の挙に出でなば、その心仁なりと雖も、その為(しわざ)義なりと雖も……決して神州人に非ざるなり。而して神州の民なお何ぞ之に与せんや」

と神がかった主張を述べている(安政三年五月一三日)。しかし、松陰が「不幸にして……」といった言葉はよく対米戦争の不幸なる実情を表現している。

 吉田松陰がここで「天子」といっているのはそもそも孝明天皇のことであろうか。吉田は二四才のとき、長崎へ行こうとして、途次京都に立ち寄り、「山河襟帯自然の域:…・空しく山河のみありて変更なし聞くならく、今上聖明の徳…:妖氛(ようふん)をはらいて太平をいたさんと祈りたもうと」と唱った。この時の松陰は天皇を説得できるとした二、二六事件の青年将校のようであって、のちに「王朝を変えなければならない」とまで思いつめた姿はいまだ見られない。

 松陰は結局アメリカに渡航しようとして失敗し、自首したのちいったん長州に送られ、その後、江戸に連行されて刑死してしまった。松陰は孝明天皇の公武合体に失望して、理想との落差を知り、その言葉通り、幕吏の手を借りて自決したといえるのではないか。

 松陰の論旨を孝明天皇暗殺事件にあてはめてみれば、「孝明天皇が殷王桀村のように暴虐であっても、国民はすべて首を差し出して斬られるべきである……もし、周の武王のように孝明天皇を殺して、(南朝の子孫という)大室寅之祐を立てようとするならば、その心は仁、その行ないは義であっても、決して日本人ではない。日本人たるもの、どうしてこのような放伐(天皇殺し)に加担するだろうか、いや決してしない」ということになる。

 こう考えると、岩倉と中山忠能らの孝明天皇殺しに、松陰の門下生であり、その志をついだ木戸や伊藤が加担したという田中光顕の告白は納得できなくなる。しかし田中がいうように、松陰のかくされた目的が大室天皇の擁立にあったならば、松陰のいう天皇は一見、北朝の孝明天皇をさしているようだが、その実は南朝の大室寅之祐をさしていたことになる。吉田松陰の語は真実をかくす秘言であったか。

 吉田松陰(一八二九~五九)は長州萩松本村、現萩市椿東の麓団子山で二十石の藩士杉百合之助の次男として生まれた。幼名は虎之助で、のちに明治天皇となる大室寅之祐と奇しくも同名であった。

 五歳にして五七石の浜学師範家の吉田家の仮養子となり、翌年同家をついだ。天保一二年一二月(一八四一)玉木文之進の松下村塾に入り、嘉永三年(一八五○)、九州に遊学し、翌四年山鹿流の皆伝を受け、藩主に従って江戸に留学し、佐久間象山に師事した。一二月には水戸藩を訪れ藤田東湖によって南朝正系を説く『大日本史』を学んだ。

 松陰は実に明治維新の指導者であった。明治の歴史を考えてみるに、維新政府はひたすら松陰の革命の理念を追い求め、半ばにして失敗したというべきであった。

 松陰は複雑な人格であったが、その理念はおよそ、三つに分けることができよう。

(一) は南朝正系論である。水戸光圀の『大日本史』は要するに熊沢天皇擁立を求めたものであり、松陰のそれは長州の大室天皇擁立であった。これはのちに成破の約として、水長両藩の秘密条約に至る。松陰は水戸の光圀の思想を受けて「儒仏は正に神道を輔くる所以なり。神道は君なり、儒仏は相なり、将なり」と述べて、神道による国家支配を主張した。維新政府と神道の癒着はここにはじまったのである。

(二) は徹底した民族主義と侵略思想である。安政一~二年(一八五四~五五)に萩の松陰は松陰は野山獄において「來原良三に与うる書」の中で、「富国強兵し、蝦夷をたがやし満州を奪い、朝鮮に来り、南地(台湾)を併せ、然るのち米を拉き(くじき)欧を折かば(くだかば)事克たざるはなからん」と書いているが、のちに維新政府は…行倉使節川の帰旧後、松陰の□葉通りに侵略戦をはじめた。しかし、神道と天皇制による侵略戦争は古代であればいざしらず、とうてい現代の世の中で成功するものではなかった。

 ジンギス汗は自らを神とせず、シャーマンによって神託を求め、キリスト教、マホメット教、仏教などを平等に扱って、わずか百五十年ではあるが世界を制覇したが、その軍隊にはシナ人か多かった。シナ人が対金戦や対宋戦にジンギス汗の兵として戦ったのである。

 しかし日本は「神道は君なり、儒仏は相なり」といって、結局シナ人を差別し、国家内の差別入別ヒエラルキーをアジア全域に拡大して再生産したのであった。それではアジアの統治などできるはずはない。秦王国と倭国を合併して日本国を建国して以来、この国の支配者は差別の体制に寄与していたのである。

 そして、(三)は、(二)と矛盾するようだが、解放という理念であった。しかし、天皇のもとで全アジア人が、平等だとするなら、(二)と(三)は両立できたのである。

 松陰は「討賊始末」という書によって、「宮番」という賎民の女高須久子が夫市之助の仇を討ったという苦心淡を書き残しているが、久子は未亡人となったのち、「えた」の弥八を家に泊めたり、弥八の甥の勇吉を贔屓にしたため、亡夫市之助の父の穴戸潤平によって告発されたのである。

 松陰が高須久子に傾倒したのは単に愛情のためだけだったろうか。

 実は吉田という姓には問題がある。

 毛利元就はもと安芸国吉田荘(いまの広島県高田郡吉田町)の地頭であったが、長州には「徳定」という薬屋と「覚定」という万歳師のカ-ストがあって、『東福寺文書』には「五百文国御輿舁雛式河原者、鹿賀法子」と書いてある。山口県では特に「覚定」の地位は高かった。ところが「徳定」は長門吉田宰判伊佐村に、「覚定」は山口宰判問田村と吉田村に居住していたのである。松陰の養家であった吉田家はわずか五七右の微禄だったから、その吉田の姓は元就の生地の吉田荘ではなく、「覚定」の吉田村をさしたものではないか。

 また、松陰は安政三年九月四日、「松下村塾記」において、「吾が松下邑(まつもとむら)なる……蓋し平家の遺民嘗て隠匿せし所なり。其の東北のこれ大なるものは唐人山となし朝鮮の浮虜の釣陶する所なり……萩城の将に大いに顕われんとするや、それ必ず松下の邑より始まらんか」と述べている。

 山陰の「えた」をはちやといい、それが鉢室韋を意味することはさきに述べたが、松陰がここで「朝鮮」に言及したのはそのことと関係するものであろうか。渤海が滅亡したとき、人びとが難民となって萩に亡命し疋のではないか。そしてかれらがのちにはちや衆になったのではないか。また「平家の遺民がいた」とか「朝鮮浮虜がいた」という地区は、一種の同和地区と考えてよいのではないか。

 松下(まつもと)という言葉も「えた」が松の枯杖を取得する権利を与えられたという古事を想いださせるではないか。今は故人となったが松下某という肘界人がいて、実は差別問題でもあった「G事件」の捜査をやめさせるように画策したという話を聞いているが、松下という名称そのものが、ある地方では差別を連想させるのではないか。

 ところで、吉田松陰の門下生に吉田稔麿(栄太郎)という男がいて、久坂、高杉、入江杉蔵と並んで四天王といわれた。

 稔麿は足軽の長男であったが、文久二年七月士分となり、翌三年(一八六三)に「えた」を兵士とすることを建策して「屠勇取立方」に任ぜられた。この結果、維新団、一新組などができたが、稔麿は元治元年六月五日、京都の池田屋で新撰組に襲われて自刃した。享年二四才。

 長州はさらに赤根武人の屠勇隊をはじめ、山代茶洗組、上関茶洗隊、伊藤博文の力士隊などの同和軍団を作った。これらの同和軍団はまた忍者の部隊でもあった。

 維新の原動力にはこのような同和軍団があり、維新という革命の制旗は実は荊冠旗でもあるべきだったのである。ちなみに日の丸は毛利元就の軍扇の模様であって、のちに力士隊がその隊旗とした。大室家はもともと同和部落の族長であったのである。

 しかし、南朝の大室寅之祐を擁立すべき維新の理念は、これを国民に秘匿したために北朝人との妥協、長州黒手組の結成という結果を生み、解放戦の放棄、帝国主義によるカースト差別のアジア的再生産という最悪のパターンに転化してしまった。

 クリストファーソンは、「日本がシナと講和できなかった最大の理由は実は日本側の差別意識であった」と述べている。(『太平洋戦争とは何であったか』)。

 前にも述べたが、モスクワの大学教授ガブリール・ポポフは、「革命は新しい体制を作り出すが、本来革命が目指すものとは無縁の体制が革命の担い手になることはフランス革命の歴史が証明している。しかも革命後の新制度は旧体制の制度から生まれたもので、過去にあったものとの妥脇の産物だ」といった(「朝日新聞」89/11/8)。

 今、松陰の三つの革命テーゼを考えてみると、南朝再興はさておいて、その侵略主義はむしろ革命のためのアジであり、実行不可能なプロパガンダだったと考えるべきではないか。カラ景気でも威勢をつけなげれば革命の情熟は湧かなかったからである。

 革命が成功してわずか三〇年にして侵略戦争をするのでは、革命の果実がみすみす失われるではないか。だから革命のあと、誰か、どこかで松陰のテキストを修止しなけれぼならなかったのである。そして松陰が小命を捨てて理想を託した大室寅之祐は、はからずも天皇の地位を手中にした以上、岩倉たちの侵略戦争に加担せずに、完全なる解放を志向すべきであったろう。

 明治天皇は明治二七年八月一日、清国に対して宣戦布告したが、宮内大臣土方久元に対して、「今回の戦争は朕、素より不本意なり。閣臣等戦争の巳むべからずを奏するにより之を許したるのみ。之を神官、先帝陵に奉告する。朕甚だ苦しむ」と正論をいった(『明治天皇紀』)。しかし、この時、伊藤はすでに松陰の弟子であることを□にしなくなり、天皇すりかえをかくすことによってすでに革命の理念を放棄していたから、天皇が臣下たちの戦争決定に心ならず同意したことは、すなわち松陰の革命テーゼ「解放」の放棄となった。日本人にも、アジア人にも、暗黒の時代がここにはじまったのである。


 ○明治天皇すりかえ説の検証

 明治天皇南朝説はどうやら否定しきれない。そうでないと、どうして明治天皇は父の仇に国政をまかせ、父を殺した岩倉の病床を親しく見舞い、さらに寝た子をおこすかのように、慣例を破って自ら南朝正系説を主張したか、という疑問は説明できないであろう。

 もちろん天皇が成人してから、中山慶子なり中山忠能なりが、南朝云々の創作話を教え込んだため、天皇が南朝正統論を主張したという可能性もある。

 仮定として考えれば、岩倉らの暗殺者はのちの報復と粛正を恐れて、中山忠能らと謀って、明治天皇をうまくだましたとも考えられる。すなわち天皇は孝明天皇の皇子であるのに、実は南朝系の幼児とすりかえたといってだましたかもしれない。

 父親を殺した以上、殺人者はその子に対して「殺した孝明天皇はあなたの父ではない、あなたは実子ではない」といって必死になって説得したという想定である。

 だまされる側にしてみれば、反証はあげようがないから、はじめは半信半疑でも、やがてそのように信じてしまうのではないか。筆者も子供の時兄弟げんかをして、兄から、「お前は橋の下から拾った子だ」といわれて深刻に悩んだ経験があるが、このように推理すれば、明治天皇が自分は南朝系だと信じて、南朝正系論を主張したのも理解できるではないか。

 こうした考えに立つと、明治天皇の南朝正系論は簡単にいえば薬がききすぎたということになるが、この副産物として、北朝系の官家が皇位を覗うことができなくなったということもある。

 しかしこう考えても疑問は残る。明治天皇がそんな子供だましにひっかかるいわれはあるまい。真相は依然として闇の中にあるといえるではないか。

 後藤田正晴は、「ランドサットが宇宙を回っているような科学技術の発達した現在の杜会の中で、いつまでも隠しおおせる秘密はない。しかし外交と防衛などでは一定期間漏らしてはいけないものがある」と述べている(「中曽根政治の舞台裏」「週刊朝日」87/12/u号所収)。ここで一定期間というのは恐らく一〇年から長くても三〇年位までで、五〇年も一〇〇年も空惚けてはいけないのである。

 だから完全な民主主義の杜会では、たとえ天皇家の秘事といえども、それをもって永遠に人民をだますということはできない。天皇がひそかに養子をえてあたかも実子の如く装うということは許されるべきでない。そうでなければ、戦後、自由を謳歌するといっても、なお、われわれの杜会はオウム教団の人びとと変わらないことになろう。しかし、国家権力に寄生して、情報を独占し、国民を人か豚のごとく扱うことを望む人びとは、今もなお依然として国民をだますことに専念している。

 さて将軍家茂と孝明天皇を暗殺したグループは、睦仁親王の新帝に親徳川的な発言があったために、新帝の命をも狙ったのではないか。そして、成功した暗殺グループの情報独占によって、長い間国民をだましつづけ、その秘密がついに今日まで一〇〇年以上もかくされていたのではないか。まったく驚いた、というよりも呆れはてたことではないか。

 『明治天皇紀』によれば、孝明天皇の崩御は慶応二年一二月二.五日となっているが、このあと慶応三年正月一〇日の条は、「前権大納言中山忠能書を内大臣近衛忠房に呈し、後宮を振粛せんことを請う……仍りて典侍中山績子の老朽事に堪へざるを罷め、其の後任者として帥典侍広橋静子を挙げ、又先帝に侍したる典侍、掌侍等に其の勤仕の年数に応じて各々金千両以上を支給して之れを罷め、相応の家に嫁せしめ-…其の他頗る(すこぶる)時宜に称ふ(かなふ)もの多し」と述べ、ついで三月一三日の条は、「新宰相中山慶子を従五以上に叙し尋いで四月八日典侍に任ず」と述べ、四月二九日の条は、「中山慶子の典侍を免ず」と述べる。

 しかし一、○○○両という金は、当時金が無かった天皇家としては異常な大金ではないか。わかりやすくいえば、「睦仁を知っている女官は口留料として一、○○○両をやって追い払った」ということではないか。かくて天皇は裸の王様となった。

 次に岩倉は先帝崩御の知らせを受けて、ただちに中御門経之に対し、「新帝(睦仁)は御年なお幼くましませば、一日も太偉なかるべからず。中山前大納言は新帝に対し奉り縁故あり…・-卿よろしく…前大納言の幽閉をとき、これに任ぜんことを周旋せよ。余もまた力を致さん」と手紙を出している。

 山岡荘八はこれをもって「中山大納言を幼帝の太傅にあげ、御璽を思いのままに捧持して討幕の勅令を下させようとする画策である」と告発している(『徳川慶喜』)。

 しかし新帝の祖父である中山忠能が登用されるのはあたりまえである。わざわざ岩倉がこんなことを画策したことを考えると、忠能はすでに新帝すりかえに加担したとすべきであろう。

 もしそうならば、「孝明天皇を暗殺したあと新帝に討幕の勅令を出させよう。もし出さなければ新帝も暗殺してしまおう」という密約は、薩長と岩倉の間では相当早く、家茂、孝明天皇の暗殺を決定したときから存在したのではないか。この謀略には、中山家が加担しなければ成功はおぼつかないが、加担したとなると睦仁の暗殺は容易であり、またそうであれば睦仁は中山慶子の実子ではなかったかもしれない。

 危ういかな、睦仁親王!

 明治維新が成功した最大の理由は、革命サイドが「玉をとった」からである。直接話法でいえば、将軍を毒殺してとりかえ、さらに孝明天皇と睦仁を殺して、大室寅之祐という長州力士隊のアイドルを明治天皇として、睦仁とすりかえるという大バクチに成功したからであって、それはまさにオウム的な思いつきであり、幕府のトップである慶喜が加担しなければ不可能であった。ここ一発の大バクチであった。

 思うに、幕末の勤皇浪士たちはのちの明治天皇をはじめとしてほとんどが大酒呑みであった。明治維新の実体はアル中革命ともいえるようなものであったが、ロシア共和国のエリツィンの例をみるまでもなく、アル中の欠点はやることがバクチになり、民主的な議論ができずまた複雑な謀略もできない。大言壮語した結果エイやってしまえと暗殺とか大量虐殺に走ることである。

 吉田松陰の大言壮語も、今となってみれば、アル中の世迷いごとといわざるをえないものであったが、その門下生が天皇を殺してしまえば、革命の大義よりも、その犯行をかくすことが共犯者たちの大仕事になるであろう。

 とにかく、ここ一発の大バクチは成功したが、その天皇殺しと天皇すりかえの犯行をかくすために、討幕戦争、西郷征伐、日清、日露戦争という非人道的な大量虐殺をつづけたのは、天皇殺しの犯人たちが強引に画策して、国民の大いなる犠牲のうえにようやくなしえたことであった。

 これに対して、二、二六事件の青年将校が失敗に終わった理由は「玉をとらなかった」――天皇を殺してとりかえなかったからであり、それ以外にはない。東条や辻のやらせの謀略に踊った二・二六事件が失敗して、正しく対ソ防衛を主張した皇道派の将軍も昭和維新を求めた青年将校もともに処分されて、ひたすらドイツだのみの東条らの統制派が結局国を滅ぼした歴史を考えると、亡国の原因はひとえにやらせに踊らされた二・二六事件の暴発と資質なきヒロヒトのその処理の失敗にあったとすべきであろう。この時ヒロヒトは生命の危険に対する恐怖から、情報独占によって国民を人か豚のように扱う明治体制の維持のみを求めたといわざるをえない。

 日本史においては、維新といい革命といっても「玉をとらない」ならばそれは決して成功しなかった。これは偽史国家の宿命ともいうべきものであり、したがって亡国の責任の大半は明治維新の真相をかくしつづけた歴史学者たちにある。死をもってしても、真実を明白にすることが歴史学者の責務だったのである。

 『秀真伝(ほつまつたえ)』には猿田彦が「われはいせのそさるたひこ」といったとあるが、猿田彦は秦帝国から秦韓に亡命した秦人の末裔で、かつては九州吉野ヶ里の奴国の王であったが、おくれて朝鮮から亡命した神武(実は扶余王仇台)に国土を献じ、みずから伊勢に移ったものであり、そのあと奈良地方に朝鮮人の移民がやって来て、「ウリ、ナラ、チョイン、ナラ、ムグンハ、カンサン」という「ナラ」をもってその地名としたものである。

 かつて、伊勢を中心として幾内の大和地方に日本国を建国した秦王国の人びとは、その昔ディオドトス王のバクトリア王国の民であり、かつて中国を侵略して秦という大帝国を建設したが、「馬を鹿」といわせて儒者を殺し、オリエント史をもって中国古代史としたために大帝国を維持しえなかった。その子孫であった秦王国の支配者たちが創作した日本国の偽造史は、あえて朝鮮人亡命者を天皇としたもので、まさに「馬を鹿といった」ものであった。

 こんな偽遣史に屈服して協力した歴史学者は麻原のタワゴトに盲従したオウム信者と変わるところがない。おのれの責任を痛感しなければならないのに、今もなお学者のふりをしてふんぞり返っている。それを認める国民にも責任があるであろう。


 裏切られた3人の天皇 明治維新の謎(増補版)) 鹿島 昇(かしま のぼる))

 平成 9年、(1999年))、1月20日 初版発行

 p154~

第三章 田中 光顕(たなか みつあき))、明治天皇 すりかえを、告白―――――南朝の末裔・大室 寅之祐 を、天皇に、した

 白金注::参考のために、(goo))、webで、“田中 光顕(たなか みつあき))”を、検索してみました。

以下です。

http://search.goo.ne.jp/web.jsp?TAB=&MT=%C5%C4%C3%E6%B8%F7%B8%B2

おのおの、いろいろと、見てみるのも、いいかと、思います。

http://www.city.odawara.kanagawa.jp/library/bungakukan/explain.html

から、

この部分のみを、この人物の概要ということで、貼り付け転載しておきましょう。

 田中光顕(たなか・みつあき) (1843~1939)

 幕末の天保14年に土佐国高岡郡佐川村の郷士の家に生まれる。青年時代高知に出て武市瑞山に学び、土佐勤王党に加わるが弾圧にあい脱藩して長州へ。中岡慎太郎らとともに薩長連合の成立に尽力し、幕府の第二次長州征伐では幕府軍と戦った。中岡が陸援隊を創ったときに幹部として参加し、中岡の死後は陸援隊を統率した。鳥羽伏見の戦いでは錦旗を下賜され、紀州や大阪を牽制する役割を果たした。

 維新後は新政府に出仕し、兵庫県権判事などを経た後、理事官として岩倉使節団に加わり欧米諸国を視察。帰国後陸軍省に入り、明治14年に陸軍少将になる。その後、元老院議官に任じられ伊藤博文、山県有朋らの知遇を受けた。20年に子爵授与。貴族院議員、宮内次官、宮内省図書頭を経て、31年第三次伊藤内閣で宮内大臣に就任。以後11年間にわたり宮内大臣として明治天皇の側近に仕え宮廷政治家として大きな勢力を確立した。40年に伯爵位を授与され、42年宮内大臣を辞任して引退。

 晩年は多摩聖蹟記念館(東京都多摩市)、青山文庫(高知県佐川町)、常陽明治記念館(茨城県大洗町)の設立に尽力し、長年収集した維新の志士の遺筆、遺品を寄贈して一般に公開し、維新烈士の顕彰に余生を捧げた。法政大学図書館には伊藤博文や山県有朋の田中宛書簡四百数十通を中心とする『田中光顕文書』が保存されている。著書に「維新風雲回顧録」など。昭和14年、97歳で死去。

 p154~

 明治天皇は孝明天皇の子か?

 将軍家茂と宏茂と孝明天皇を暗殺しても、次の天皇が親徳川または佐幕論者だったならば暗殺は徒労に終わるであろう。「所期の目的」はとげられなかったことになる。「所期の目的」とは次の人{ドを白分たちのパペット(操り人形)にして討幕を実行するということであるが、陸仁が父孝明天皇の遺志を守って長州征伐と公武合体を主張すれば、岩倉たちの計画は画餅に帰してしまう。孝明人皇を殺したのち、果して睦仁はパペツトたるに甘んじて討幕に協力するだろうか。あるいは断固として反対するであろうか。この前後、睦仁の真意は、不明であった。修史官は慎重に努火をかくしたのであろうが、ついにその真意を語る自筆の文書が出現した。

 蜷川は次のように述べている(前掲)。.

 【後年、三條家の倉を整理した際、三重の桐の箱が発見されて開いてみたところ、明治天皇の一六歳の時の下手な文字で書いてある文書が出てきた。それには、「徳川の功労を減しないように始末をしろ」ということを三條に命じている。討幕(の密勅)とはまったく正反対である。維新史料編纂の総裁金子堅太郎が事の意外に驚いて、それを自ら小石川第六天の徳川の家に持ってゆき、「これが早く見つかったら、慶喜さんも定めしお喜びになったことでしたろう」といったそうである。此の事は、徳川家の家扶の古沢秀彌氏が私に詰った実話である。多年に亙って、それほど真相は隠されていたのである。】

 睦仁にこんなことを命令されたのでは、岩倉が義妹の紀子を暗殺させてまで計画してきた、倒幕による天皇ロボット化という一大プロジェクトの成功は期し難い。しかし陸仁の徳川の功労を認めるという意志はその後の政治にはいささかも反映されず、かえって討幕の偽勅まで出されている。

 その偽勅と対立する睦仁の密書が三條家で極秘文書として三重に包装されていたという。三條家がこの密書をかくした理由は何であったか。また明治天皇は達筆であったのに、どうして一六歳のときは下手くそな文字だったのか。

 いずれにしろ、岩倉と薩長にとってはこのような新帝の存在が邪魔にならないはずはない。思うに、この時睦仁が一六歳にして「徳川の功労を減しないように始末をしろ」と三條に命じたことは、周辺を長州サイドの列参の公卿にかためられた状況のもとでは、いわば自分の死刑執行命令にサインしたと同じではなかったか。しょせん家茂を失った孝明天皇と同じく、裸の王様であった。

 いったい、こういう暗殺ゲームは一度やって成功すると、あとあとブレーキがかげられなくて、何回もつづけるのは、オウム事件や三浦事件などでも見かけられたことである。しからば長州征伐の二人の主役、将軍家茂と孝明天皇の暗殺に成功した岩倉たちは、自分たちのロボットになる天皇を擁立するという「所期の目的」を達せざる限り、決して暗殺ゲームをやめないであろう。犯人たちは将軍家茂と孝明天皇、さらに岩倉の義妹までも暗殺していたから、邪魔になったら、睦陸の暗殺、すりかえといえどもいささかも躊躇はすまい。孝明天阜暗殺の時使った、万能の魔法の杖、すなわち悪名高い長州忍者をここでもう一度使うだけであろう。

 暗殺やすりかえは忍者の十八番であった。舞台の幕は開いてしまった。かたずを呑んだ観衆の前では、毒を喰わば皿までという岩倉の決意のもとで、手当たり次第「殺せ、殺せ」と大合唱が歌われていたのである。こんなことになったらオウム教団と同じことで、何人といえども、連続する殺人ゲームにブレーキをかけられないであろう。岩倉、伊藤らを止常な人間と考えるのは誤りで、麻原なみの犯人だったのである。

 かくして、暗殺グループはここで「最後の仕上げ」の暗殺に着手したのであろう。「最後の仕上げ」……それは新帝を暗殺して、自分たちの意のままになることが確実である長州の大室寅之祐を、睦仁の替え玉にしたてるという、まさに忍法変身の術ともいうべき史上例を見ない悪魔的、オウム的なプランであった。これは余りにマンガ的な発想だったから、かえって成功すれば成功するであろう。岩倉にしても、睦仁を暗殺しておかなげれば、いくら何でも偽勅など…せるはずはなかったのである。

 ことのはじめに、朝廷の医者に忍者宗伝の毒薬を使わせて将軍家茂の毒殺に成功した犯人たちの殺人シンジケートは、一貫した決意のもとに、次に長州忍者の伊藤を便所にひそませて孝明天皇を刺殺し、さらにそれを手引きした堀河紀子をも薩摩浪人に殺させたのであった。家茂は医者によって毒殺され、孝明天皇は女官の手引きで伊藤に刺殺されたとなると、この賠殺シンジケートが毒殺や替え玉作りなど珍案、妙案を考え出す長州忍者をはじめとして、実に多才な殺し屋ども、多くの共犯者たちを抱えていたことがわかるのだが、しかし孝明天皇の刺殺を手引きして多くを知りすぎた堀河紀子をも口止めのために斬り殺したというのでは、そのあともはや女官たちの協力はえられまい。そのために、組織は睦仁親王暗殺という第三の暗殺計画を実行するに当っては、女官たちの協力を求めず、さきにまんまと家茂暗殺に成功して金品を与えておいた医考を使う、しかも家茂の時とは別の方法でやることにしたのではないか。

 このことと関連があるのか、明治天皇は西郷の乱の時病気になっても侍医たちの診察を受けようとしなかった。笹原英彦は「明治一〇年四月に天皇が病気になったとき、(診療が必要だとする)再二、の侍医らの言上を無視したため、侍補の佐々木高行は直諫すること三時問に及んだ。その間、佐々木は天皇と言い争い、逆燐に触れ、叱責を受けながらも容易に屈しなかった。強情な天皇もようやく根負けして、翌日侍医の診療を許すことになった」と述べている(『天皇親政』)。

 天皇は自分がすりかわった睦仁が結局侍医によって毒殺された事情を承知していたから、西郷の反乱という未曽有の難局に、同じようなことが行なわれると恐れたのではないか。

 ここではじめに戻って、もう一度考え直してみよう。

 『記紀』『三国史記』『遺事』などを、「官撰であるが故に正しい」とする服部や吉田などの大前提は、視点さえ変えれば、かえって「官撰である故に正しくない」とすべきものであったが、実は官撰の『孝明天皇紀』と『明治天皇紀』のイカサマは、孝明天皇の暗殺かくしだけでなく、実は、それにつづくもう一つの暗殺事件をかくすためだった、とすら考えられるのである。このことにふれる前に、「もし岩倉らが孝明天皇を暗殺したならば、どうして岩倉、中川、三條らがその息子の睦仁に仇討ちされないという確信をもって、明治天皇を擁立したか。また天皇が、なぜ父の仇である岩倉、伊藤らに国政を委託したか」ということを考えてみよう。

 前三五八年のアケメネス・ペルシァであるが、父王アルタクセルクスの暗殺者によって擁立された王子アルタクセルクス三世は、隠忍自重したのち、自ら実力をつけて、ついに自分を擁立した父の仇を処刑したという実例がある。こうしなければとても王様とはいえないであろう。

 多くの学者たちに英明といわれ、のちに「大帝」とまで書かれた明治天皇がまこと孝明天皇の実子ならば、父を殺した犯人の岩倉が病死せんとする時、再三自ら見舞いに行ったり、また日清戦争の戦勝ののちに神格化された天皇が、岩倉の共犯者であった伊藤などを重用したのは理解に苦しむではないか。いったい親殺しの犯人に国政を預けた不幸者の明治天皇が『教育勅語』の中で、「なん辞臣民親に孝に」などといったのはどういうことか。

 こう考えると、論理上は、(1)、明治天皇は親の仇を討ちたくても討てなかった、(2)、実は孝明天皇の子ではない、という解釈が生まれるであろう。ある研究家は、(3)、明治天皇は暗殺の事実を知らなかった、と説明しているが、篶時天皇の周辺で相当広く暗殺説がささやかれていたことは、さきの谷信と説明しているが、当時天皇家の周辺で相当広く暗殺説がささやかれていたことは、さきの谷信一の文章からもわかる。千種(ちぐさ))有文から岩倉具視にあてた手紙の中には、「新帝(睦仁親工)には、毎夜毎夜お人枕辺へ何か来たり、お責め申し侯につき、お悩み申すことにて、昨日申し上げ候とおりご祈禱せられ候とか、実説の由に候」とある。だから、(3)の説はとうてい無理なのである。こじつけというべきであろう。

 天皇が万一、先帝殺害の事実を知らなかったにしても、公卿の中には、中川官以下多くの反岩倉派がいて、のちに彼らが明治天皇に近づくこともできたはずだし、また、三〇人もいたという天皇の妾の口を全部ふさぐことは不可能に近く、岩倉や伊藤にとって、確実にタレコミを防ぐ手段はなかったはずである。いったい、密告しようとする本能には生死をかけるほど強烈なものがあるのだ。

 また(1)については、即位直後の明治天皇ではできなくても、日清戦争で勝って権力が確立したあとならば可能のはずだという反論がある。すると、思いもかけない仮説であった(2)が浮上することになる。

 加茂喜三は次のように述べる(『富上"隠れ"南朝史』)。

 【明治天皇は孝明天皇の実子か

 駿河大納言忠長卿の自刃、慶安騒動に告ぐ酒井大老の失脚、さらには水戸光圀の死去と続いて、「隠れ南朝」の「政復片への夢は最早風前の灯となっていたが、酒井大老の打ち出した将軍に親王をお迎えする「公武合体」の構想は閉治維新になって再び息を吹き返す。

 「公武合体」というのは明治維新のとき生まれた単語のように思われているが、実はかくの如く、五代将車のころ既に、その萠芽を見ることが、出来るのである。こうした経緯をさらに一歩掘り下げてゆくと、明治維新の勤皇と佐幕は、南北朝争いの宮方(南朝)と武家(北朝)の関係の延長であることがわかる。また明治維新の「大政奉還」は南北朝の争いの「王政復古」であったことも知ることが出来る。

 ということは、火に南北朝の争いはまだ明治維新あたりまで続いていたということになる。そしてこの思想は何と反体制派から生れたのではなく、実に幕府の内部(特に「隠れ南朝」の末裔熊沢家を庇護した水戸藩)から芽生えたものであった。

 こう見てくると、「明治につくられた歴史」の矛盾を痛感することになるが、もともと江戸幕府の本質というのは、北朝の如くに装ってはいたが、紛れもなく「隠れ南朝」であったのであり、土台にこの認識を欠くと全くわけがわからなくなってしまう-…ところが驚くなかれ、調べを進めてゆくと、もっとびっくりする話か飛び出してくる。曰く「明治天皇は南朝なり」というもの。

 誰しも、「まさか」というのである。当然である。そもそも、南北朝争いでは南南が敗北して北朝が勝ち、皇統は南朝が廃絶して北朝が継承し、戦国時代を経て、江戸時代にまで連綿としてこれを伝えてきたというのだから、孝明天皇を父とする明治天皇は当然北朝ということになる。

 しかしよく考えてみると、明治天皇を北朝とする歴史の矛盾は多く、数限りない。これに反して明治天皇を南朝とするならば、明治天皇及びその周辺の事情はすっきり辻褄を合わせてくれる。

 明治天皇が南朝であると記しているのは「神皇正統家極秘伝神風串呂」及び「皇統家系譜」を基礎に論述されたという『徹底的に〕木腱史の誤謬を糺す』(三浦芳堅著)である。同著によると明治の元勲田中光顕伯爵は三浦に、「実は明治天皇は孝明天皇の皇子ではない」とはっきり言明したと記している。

 明治天皇は孝明天皇崩御のとき、表向きは孝明天皇の皇子(母は中山大納斤の娘中山慶 子)で、中山大納言邸で育てられていたということになっているが、みは後醍醐天皇の後裔で、後醍醐天皇のあとに五代に亘って続いた「隠れ南朝」正統の最後の天皇となった大宝天皇の弟の光良親王の後裔だったというのである。しかし真偽のほどはまだ(世人に)明らかでない。】

 ここで加茂が紹介している「明治天皇はは実は光良親王の後裔だ」ということは、明言を避けているが、結局、睦仁と明治天皇とは別人であるとするもので、睦仁の賠殺、すりかえを意味するものである。

 三浦芳堅と田中光顕の対話

 加茂が引用する前掲『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』は豊川市に住む三浦天皇こと三浦芳堅の著作である。この書は市版されたことを聞かないが、国会図書館の蔵書になっているから誰にでも読める。三浦ば例の熊澤天皇と同じように、南朝の子孫を自称して地.元では三浦天皇と呼ばれていた。その三浦が「明治天皇は孝明天皇の子ではない」ことを次のように記述している(前掲)。
 「昭和四年の二月、私は思い切って極秘伝の『三浦皇統家系譜』及び記録を、埋蔵せる地下から掘り出していって、山□鋭之助先生に見ていただきました。先生はびっくりして、「私の一存では何ともお答え出来ないから、私の大先輩でかつては宮内大臣をなさった、明治維新の勤王の志士であった田中光顕伯爵がまだ御牛存中であるから、此の力にお尋ねして見よう」という事で、私は連れていって.頂きました。 田中光顕伯爵は之を御覧になり、又私の神風串呂の説明を聞かれて、「これは我が国の一番正しい歴史だ!、確かに『太平記』をみても、『比叡山に於て後醍醐天皇が春宮に御位をお譲りになった』と書いてある。学者間に於ては、之は恒良親王に御位をお譲りになったといわれているか、あなたの所の記録を見れば、「尊良親王の第一白皇子守永親王が、後醍醐天皇の第七の宮として人統何となっていて、後醍醐天皇は守永親王に御位をお譲りになった」と書かれている。これが正しい歴史であろう。けれども、今理在は明治維新が断行されて、宇宙のあらん限り、絶対に千古不減の欽定憲法が御制定になった。だから過去の歴史は歴史として、現実は此の欽定憲法に依って大日本帝国の国体は永遠に確立せられたのである。あなたが今此の事を発表したならば、それこそ幸徳秋水同様、闇から闇へと大逆罪の汚名を被せられて、極刑に処せられることは火をみるよりも明からかなことであるから、あなたのお父がおっしゃった通り、早く理蔵して何人にも一切語られぬがよろしい」と云われて、さっぱり私の疑問を解いていただくことは出来ませんでした」。

 脇道にそれるが、田中光顕はここで幸徳秋水の事件がデッチアゲであったことと、明治維新によって天皇家の統治権がはじめて確立したことを指摘しているのである。引川をつづける。

 「そこで私は、『伯爵は之は日本の正しい歴史だと御鑑定なされた。その正しい歴史を私が発表する事が、欽定憲法に触れて極刑に処せられると言われたが、私は他人と違ってその直系の子孫であります。私の生命観ではとても耐えられません。それを発表する事が極刑に処せられる様な欽定憲法であるならば、今このまま、直ちに私を司直に渡して極刑に処していただきたい』と申し上げました。

 かよう申し上げた時に、田中光顕伯爵は顔色蒼然となられ、暫く無言のままであられましたが、やがて、私は六〇年来曾って一度も何人にも語らなかったことを、今あなたにお話し申し上げましょう。現在この事を(自ら実行して)知っている者は、私の外には、西園寺公望公爵只御一人が生存していられるのみで、皆な故人となりましたと前置きされて、「実は明治天皇は孝明天皇の皇子ではない。孝明天皇はいよいよ大政奉還、明治維新という時に急に(殺されて)崩御になり、明治天皇は孝明天皇の皇子であらせられ、御母は中山大納言の娘中山慶子様で、お生まれになって以来、中山大納言邸でお育ちになっていたという事にして大下に公表し、御名を睦仁親王と申し上げ、孝明天皇崩御と同時に直ちに大統をお継ぎ遊ばされたとなっているが、実は(その睦仁親工は暗殺され、これにすりかわった)明治天皇は、後醍醐天皇第一一番目の皇子満良親王の御王孫で、毛利家の御先祖、即ち大江氏がこれを匿って、大内氏を頼って長州へ落ち、やがて大内氏が減びて、大江氏の子孫毛利氏が長州を領有し、代々長州の萩に於て、この御王孫を御守護申し上げて来た。これが即ち吉田松陰以下、長州の王政復古御維新を志した勤皇の運動である。

 吉田松陰亡き後、この勤王の志士を統率したのが明治維新の元老木戸孝允即ち桂小五郎である。元来長州藩と薩摩藩とは犬猿の間柄であったが、此の桂小五郎と西郷南洲とを引合せて遂に薩長を連合せしめたのは、吾が先輩の土佐の坂本龍馬と中岡慎太郎である。薩長連合に導いた根本の原因は、桂心五郎から西郷南洲に、『我々はこの南朝の御止系をお立てして王政復古するのだ』ということを打ち明けた時に、西郷南洲は南朝の大忠臣菊池氏の子孫だったから、衷心より深く感銘して之に賛同し、遂に薩藩を尊皇討幕に一致せしめ、薩長連合が成功した。之が大政奉還、明治維新の原動力となった。

 明治天皇には明治維新になると同時に、『後醍醐天皇の皇子征東将軍宗良親王のお宮を逮立してお祀りせよ』と仰せになり、遠州の井伊谷宮の如きは、明治一一年本宮を造営せられ、同五年に御鎮座あらせられ、同六年には官幣中杜に列せられた。而して御聖徳に依り、着々として明治新政は進展し、日清、日露の両役にも(英米の支援によって)此界各国が夢想だにもしなかった大勝を博し、日本国民は挙って欽定憲法の通り、即ち明治天皇の御皇孫が永遠に萬世一系の天皇として此の大日本帝国を統治遊ばされると大確信するに至り、然も明治四四年南北正閏論が沸騰して桂内閣が倒れるに至った時に於ても、明治天皇は自ら南朝が正統である事を御聖断あらせられ、従来の歴史を訂正されたのである。

 かようにして、世界の劣等国から遂には五大強国の中の一つとなり、更に進んで、今日に於ては、日英米と世界三大強国の位置にまでなったという事は、後醍醐天皇の皇子の御王孫明治天皇の御聖徳の致す所である」と王政復古明治維新の真相を語り、尚此の外に、岩倉具視卿の(孝明天皇と睦仁親王を暗殺した)活躍や、三條以下七卿落ちの(大室天皇擁立運動の)真相や、中山忠光卿の長州落ち等々、詳細に渉ってお話し下さいました。

 その時、私は明治維新なるや、直ちに後醍醐天皇皇子宗良親王を井伊谷宮にお祀りあらせられ、官弊中社になさった事を承り、サッと直感したのは、田中光顕伯は明治天皇が後醍醐天皇第一一番の皇子満良親王の御王孫といわれたが、若しそれならば、真先に後醍醐天皇をお祀りにならねばならぬが、吉野神宮も金ケ崎官も明治二二年にお祀りになっている。

 之はヒョッとすると、極秘伝のわが『三浦皇統家』の記録に銘記されているように、「神皇正統第九九代松良天皇(御名正良)が樵夫に扮装して、三州萩(現在の愛知県宝飯郡音羽町大字萩)に落ち延びさせられて、第四皇子光良親王(皇紀二〇六二、四禄木星壬午年生)には、大江氏が此の『萩』から連れて長州に落ち、落ち着いた先を『三州萩』の在所を忘れない為に、『萩』(現在の萩市)と名付け、初めは一二年に一度は連絡を取っていた」と記録されているので、若し此の光良親王なら、系図に記される時に図1のように書かれるに相違ないし、宗良親王は皇紀一九七二年(正和元年)四緑木星壬子年だから、曾孫に其の四緑木星壬午年に一度権現せられ(るはずであっ)たが、明治天皇は嘉永五年の四緑木星壬子年であったから、自ら征東将軍宗良親王の御再現である事を御自覚あって、井伊谷宮をお祀りせられたのではなかろうか。

 又宗良親王は歌聖と称せられているが、明治天皇も全く歌聖であらせらるる、と旧巾光顕仙のお話を承り乍ら、片方では斯く考察して、田中光顕伯のお話が一段落着くや、直ちに私は右の事を『三浦皇統家』の記録を提示して申し上げると、田中光顕伯は、「維新当時、明治天皇は後醍醐天皇の御王孫で"ミツナガ親王"の直系王孫で在らせらるるという事を、先輩から聞かされて、光良親王と云う事は全然文献には無いから、元老院の『纂輯御系図』にも載っている後醍醐天皇第一皇子満良親王とばかりに、私は思っていたが、あなたの所の御記録にはっきり記されている以上、絶対それに問違いないLと申されたので、私は何とも言われぬ嬉しさがこみあげて来た……」。

 明治天皇と田中光顕の関係は通常の君臣という関係ではなかった。天皇はその孫ヒロヒト、秩父、高松の一二人の里親を田中に相談し、田中が伯爵川村純義を推薦して川村にきまった。ここで、、、笠について柵談しなかったのは意味深重である。

 旧中光顕は馬関の奇兵隊にも出人りして高杉晋作と親交があり、慶応二年には、中岡や伊藤とともに同事に奔走していた。のちに伊藤とともに明治天皇の腹心になった人である。余人ならばいざ知らず、薩長同盟を仲介した坂本龍馬の門下生であった田中がいったとなると、この話は俄然信愚性をおびてくる。かたくなに佐幕撰夷を主張した孝明天皇をかえなけれぼならないとする討幕志士の野望が、南朝再興を夢みた寅之祐と一致したのである。田中が述べるような、明治天皇の出生に関する疑問は従来から皆無だったわげでなく、意外にも多くの人が、天皇が孝明天皇の実子ならば佐幕撰夷という父の遺命を簡単に破棄しで倒幕開国に切りかえるはずはないと考えたらしく、ある匿名の座談会では、都立大の名誉教授という人が「明治天皇は産後他の幼児ととりかえられた」と喋っており、口伝としては他にもいくつかあったのであるが、南朝云々というのは、私は三浦の書によってはじめて知った。

 しかし調べてみると、これ以前にも、実は明治時代から、ひそかに皇華族の問では明治天皇すりかえ説が存在したのである。すなわち「明治天皇は萩に亡命した南朝の皇子の子孫で、長州で潜伏していたが、岩倉らが慶子の産んだ睦仁親王の新帝を殺して、極秘にすりかえた」というものである。ところで、仮に大室天坐が南朝系といっても、いったん臣下になった以LL、熊澤大皇や二、浦人内正と同じく歴史的な証明は不可能に近い。『大鏡』に藤原基経が源融に対して、「皇胤なれど、姓をたまはりてただ人に仕へて(天皇の)位につきたる例やある」といったとあるが、これもまた天皇家のルールであった。

 『巾山忠能]記』慶応一二年七月二-の条は「橋本へ以伏日本史○称徳帝、神護景雲四年八月四日癸巳山明。百川永年五人臣定策禁中即日以遺認奉天皇、光仁爲皇太子。六月乙来令天下挙喪服限一年云々……。一〇月巳丑朔皇太子即位干大殿。」と述べる。称徳は新羅上族系の北朝大皇家の最後の天皇であり、光仁は弟の道鏡とともに南朝灯済上系の天}家の祖で、しかも系図偽造によってその革命を巧みに抹殺した。忠能の書状は口本史における王朝交代、実は革命の実情を報じたものである。忠能がしたことは革命の先例調査と情報抹殺の可能性を探ったものであろう。

 だから厳密にいえば、中国史の中で前漢王族の子孫であると主張した後漢王家のように、維新とは革命であり、明治天皇は新王朝(後南朝)の始祖であった。瀧川が首張した明治新工朝説は実にここに根拠があったのである。明治王朝は足利貞成系第七王朝につづく第八王朝というべきであろう。南朝光良親正の子孫だといっても誰がそれを信じるだろうか。

 ここで田中は「御聖徳により日清、日露の両役に大勝を博した」といっているのだが、逆に日清、口露両戦役に勝ったことによって、「御聖徳」を立証したとすべきではないか。ここで「御聖徳」を立証しなければ、いつの日にか自分たちの天皇暗殺がバクロしてしまう。そうなれぼすべてはパーになる、という考えで、天皇殺害犯人たちは侵略戦争をはじめたのであろう。してみれば、清国もロシヤも、そして朝鮮も、とんだとぼっちりを受けたものである。口本では戦国時代も幕末から維新にかけても、ともに支配層のキャラクターによってとんでもない事作がおこった。戦争も平和も独裁者が気ままに決めたのである。

 昭憲皇太后か、昭憲皇后か

 明治天皇の王妃は一条寿栄姫であるが、姫が不妊症であったため天皇は多数の側室(オメカケサソ)をもったといわれている。一説には側室は一一八人いたといい、その問に皇子、皇女が十九人いたが、多くは二歳までの問に死亡した。大正天皇には二人の兄があったがともに夫折した。大正天皇は一」十歳のとき公爵九条道孝の四女節子と結婚した。道孝の妹夙(あさ)子は孝明天皇の皇后であったが子はなかった。南朝を自称する新しい天皇家が北朝系の皇后をめとるというのは、一種の口留めであったろうか。そこで寿栄姫である。姫はのちに昭憲皇太后といい昭憲皇后とはいわないが、これはおかしいではないか。皇太后というのは明治天皇でなく、その先代の皇后をさしているのである。しからば、略憲皇太后の夫は明治天皇でなく、ひそかに殺害されたその先代の睦仁親干ということになる。まず松下松平氏から聞いた話である。
 【乃木希典が学習院の院長になったことはよく知られているが、乃木の前任者は山口鋭之助という人で、乃木に院長を譲って図書陵の上になづた。大正九年、明治神宮を創設するという時、南北朝の論争が喧しかったが、おしかげて来た壮士に対して、「明治天皇は北朝の孝明天皇の子(睦仁親王)ではない。山口県で牛まれて、維新の時京都御所に入られたものである」といったという。この話は山口の秘書をやっていた原与作という人が書いているはずだ。原字作は今豊橋に住んでいる。また『原敬日記』もこのことにふれていたと思う。】

 川口は昭和四年.、月、一二浦芳堅を田中光顕にひき合わせた人物である。松下説によると、山□は大止九年すでに明治天皇の正体を知っていたから、一一一浦の問題提起に対してことの重要性を考えると自分では処理しきれぬから田中のところに連れて行一たのであろう。ポ一そく一原敬日記一一乾元
杜)を調べてみたが、書いてあったのは他のことであった。

 【大正九年九月一四日…江木千之来訪、明治神宮祭神の事に付き、明治天皇南憲皇太后とあるは不都合にて色々論議を生じ居る所、昭憲皇后と御改称ある方可ならずや、との一木皇典講究所長の建言を持参相談して去れり。

 同月一七日 床次内相の内談に明治神宮祭神を明治天皇、昭憲皇太后と告示ありし処・白一太后とあるは妙ならぐんとて色、評議あり。一木喜徳郎は皇典講究所長として来談し、解釈にて昭憲皇后と称し奉る事可ならんとの説あり。彌、決定の上は重大なる事件なれば、枢密院の御諮謁にて決定する方穏当ならん。目下講究相談中なりと云へり。

 同月一八日 枢密院副議長清浦杢吾来訪、明治神宮祭神の事に付昭憲皇后と明治天白一と御二方差すべ㌧然らざれば、昭憲皇太后とありて明治天皇の御母の様に誤るの虞れより、御改称然るべきやとの内話に付、昨日内相の雲伝一、何れその場合ともならば、枢密院に御鶉ある方然るべしと思うと返
答したり。

 一〇月二一日 昭憲皇太后の御誼号あるも、昭憲皇后と称し奉る妻可とする議の起りたる事を告げ・去りながら、今更如何をする事困難なる次第を物語りたり。この点に就ては、先達松方邸の会合に於ても話題に上り、中村宮相は反対し、平田も一神宮の祭神としては御称号を変ずるも議一珊は残るべし一
といいたりとて、窟書一始めよりならば昭憲皇后と称する方宣しかりしに思う一といへ、

 同月一.二日 中村篇と床次内相を官邸に招き、明治神宮御祭神を黙な訟客糸と先年凄省より告、小せしを、皇太后とありては、御生母と誤る如きまぎらわしき事も之あり一また神量后などの例によれば欺烹宗レ象牟客-との議あり'の事に付き袈せしヅ、、,一各方面に於て異議なく、其の集に於て改正あるに於ては・告示を改むる事には、宮相は一根本を改むる事には同意し難し一と云う--一般にこれを昭憲白芹と、5しも違例ならずとなす。…山縣は余の説に同意したれば其の事に決定し、是にて此の問題も先づ以て筆者夕さて天皇すりかえを知る山口鋭之助がその発覚を恐れてか・一明治神宮に祀る一保元物、■、旧とせよ一といつたところ、床次竹次郎が一萬省で訂正すれぼ同音一するLといった。しかし時の宮内大臣であった中村中将が「大正天皇が決めたことだから変えられない。稔言汗の如しだ」といって拒絶し、自らは辞職したという。大正天皇は彼女を皇太后ということによって、明治天皇の皇后であることを否認したのであって、中村はこのことを「給≒一□」といったのであろう。これについて、掌典の佐伯有義はのちに国学院教授となった人で、「これでいいのだ」といったが、掌典課長の星野輝興は佐伯を非難したという。かかる重大な問題を、大皇の側近が一.分して論争したのである。戦後、明治神宮にたてられた石碑には「昭憲皇太后(昭憲皇后)」となっているが、このときには振子は証拠埋減に傾いたのであろう。しかしこれでは余りにもいい加減ではないか。苦肉の策であろう。


 昭憲皇太后は尊王撰夷派の左大臣一条忠秀の三女で勝子といったが、末女であったので寿栄姫と改め、睦仁親王の皇后として入内ののち美子と改名した。慶応、一年六月、当時一八歳の寿栄姫は一四歳の睦仁と見合いをしたが、睦仁は一一人で将棋をさしたという。実際皇后になったのは明治六年一一一月八日のことであったが、慶応一一一年『月の御大典のときに費用がなく、戸田大和守の奔走によって幕府から献金してもらった。こんな調子だったから睦仁は「徳川の功績」などといったのであろう。戦後は民問から皇后になれるがこの時代には五摂家か皇族の娘に隈られ、他の女は「お極局制度」によって側宗になっていた。しかし皇太后にはゴ供がなく、閉治大{一は権典竹柳原愛/ゴ(}蕨典侍、従一位柳原光愛の火)、権典侍千種倖子、権典侍園祥rなど数人の側室との問にトπ人のヱ」供をつくった。うち一〇人は早此している。このうち明治一」一年八月仁二Hに、「早蕨典侍」こと柳原愛千が産んだ嘉仁親工が、のちの大パ大皇である。人正夫皇を嘉仁といい、昭和人阜を裕仁といったのは、いかにも陸仁の血筋であると強弁したかったからであろう。明治大皇はこれら側室との問にト数人のr供をっくったというのに、昭憲皇太后との問には戸供が一人もなかった。実際の夫婦生活がなかったのではないか。すなわち、実は睦仁親工の皇后が昭憲皇太后であり、睦仁とすりかわった明治大皇には側室だけで皇后がなかったのであろう。明治人皇もすりかわわったために終生「仮面の人一になったのである。□本版、小説『鉄仮面』の主人公といったところか。大パ天皇を含めて、昭憲皇太后を里后でないと羊張した人は、二条勝子は殺された睦仁親1-の皇后であり、のちの明治天皇の皇后ではない」という事実を知って、そのことを国民に対して間接に表明しようとしたものである。これは日本の権力者特有の「問題先送り」であった。そして山丁后説は永久にことをかくせると単純に考えた人ではないだろうか。
 中山慶子と八瀬童子

 睦仁親王の生母であった中山慶子のことを調べてみよう。井門寛は、「慶rは天保六年(一八、二五)一一月権中納」」一一口中山忠能の二女に生まれ、幼くして八瀬の里親に預けられた……嘉永四年(一八五一)一一一月一七才の時御所に召され、安栄という名を賜り、五年、、一月には早くも懐妊四ケ月で宿下がりし、九月、一二口男子を出産したLと述べている(「巾山慶子」「歴史と旅」61/!)。しかし、慶子は中山忠能の子ではなかったという説もある。山岡荘八は、「(巾山)忠愛の次に生まれた慶子姫は、妹姫たちの誕生が相次いだので、つい去年(忠光が互歳の●時)まで八瀬へ里乙」に預げられていた-…人瀬で育ったいちぼん大きな収穫はやはりここ(中山家一)では教えられないド情に通じたことと、それにたっぷり太陽の光を吸った小麦色の健康さであったLと述べ、さらに、「慶rは実は中山忠能の子ではない。仁孝天皇の実兄竹生の宮が皇位を弟に譲って巾山忠伊(ただこれ)と名乗り、その娘を中山忠能の娘とした、これが慶子である」と述べている(『明治大内芒)。のちに慶子は中山家出身の績子大典侍の推薦で典侍として宮中に上がったのであるが、そもそも公卿のr供を快子に川すのが当時の習慣だといっても、中山家の」.女であったという慶rを、あのカースト制が厳しかった時代に、八瀬という「鬼の子孫」として差別された地域に里子に出すであろうか。

 八瀬について簡単に調べてみよう。『山域名勝志』一五は、「八瀬の人々は比叡山御門跡が閻魔王宮から帰るとき、輿をかついできた鬼の子孫である」といい、『都名所図会』は、「八瀬の里人はいにしへの風俗ありて、男も女の如く髪をくるくると巻き、女も男の如く脚絆して、草娃の爪先の紐異なるは故ある事にや」といい、『京師巡覧集』巻一五、八瀬は、「遅国(シャム)の人のように一一一一口葉が詑っている」といっている。八瀬の男の格別な髪形はタイ国北西部の山岳民族であるカレン族によく似ていると思うのだがどうだろうか。朝鮮から天武第五壬朝が侵入する以前から、平安京の地は秦王国であった。その国には箕子朝鮮の工族と秦氏のちの藤原氏の一族がいて、『桓檀古記』によれぼ、秦王国は伊勢国または伊国といい、『北史』では秦王国または夷洲といった。八瀬の人々はこの箕子朝鮮がかつて檀君教(ダゴソ教)を奉じてイソドから中国に渡来した時、同行して来たものではないか。さて八瀬の地は『和名抄』の中の愛宕郡小野郷の中にあった。

 『保元物語』に、「(木地匠の祖といわれる)惟高親干は清和の御門に位を争い負けて、御出家ののちは比叡山の麓小野というところに引きこもり給ひ……」とあり、南北朝から戦国にかけて、「八瀬の地には、延暦寺一一一門跡の一つ青蓮院を本所とする八瀬荘が成立」したという(『日本地名大辞典』)。また『太平記』によると、後醍醐大皇は建武一二年(一一」二、、六)一月一〇〕、足利尊氏の追撃をさほうれんけて比叡山をこえて坂本へ逃れたが、この時、八瀬の人々は鳳螢の背後を守ったという。八瀬の人々を八瀬竜子といい、地租を免ぜられる代わりに天皇家の葬儀に関する雑役を引き受けていた。ほうよ明治大皇東上の時も八瀬竜千が随行し、照憲皇太后崩御の時は七〇名が上京して奉昇し、明治大山-崩御の時はκ○名の輿rと四人の取締役がヒ京して、桃山駅から桃山陵まで奉卯した。大止人}の時も一〇五人の八瀬竜子が枢をかついでいる。,しかし高松宮の時は牛車でなく白動車の霊枢中であった。飯沢匡は、
「(今では)八瀬地方に大きな牛はいないし、八瀬童子も調達できない。什会は大変化してしまった」と述べている(『異史明治大皇伝』)。

 これによって考えるに、人『の末期まで八瀬の人びとは天皇家の葬式担篶者だったのであって、この地域が特殊な被差別部落であったことは問違いないであろう。しからぼ、むしろ慶乙」は八瀬で生まれ、その美貌に注目されて、中山家の養女になったとすべきではないか。そして人びとが忠能の子ではないということを知っていたため、実は竹生の宮の娘であったとしたのではないか。さすれぼ、慶子の入内はその美貌によるものとなろうが、する6昧仁親LLの化誕についても疑閉の余地が残るのである。慶子が産んだ皇子は祢宮と命名され、誕生後一一、○H日にはじめて参内して天皇に謁した。本来ならぼ、このHから若宮御所に入るべきであったが、英照山ド太后の要望により、祐宮は慶rのもとで養育されることになった。しかし巾山家では、なぜか親モを公衆の眼にふれさせまいと努力した形跡がある。「歴史公論」は次のように記泰をのせている。
 「宮様は御外出の時は当時の規定として駕篭を召すべきである、其の際は真光院が御陪乗として、抱き奉ることが多かつた。御牛母の中山慶子が御乗添へをすることも有つた。何れにしても、官様は窮加であるから御厭いて中々御乗り遊ぼされぬ。夫故宮中に御上り、又は巾山邸に御トりの場合は、向所の問に両側に慢幕を張り、御通行の問は一時往来止をして、幕問の通路を従歩で御通いなされる羽〕慣であつた。夫故中山邸を引きトげて宮巾に御帰還の際は、平生と違って、御遠宮の儀式けいひつとして、既に問道を御通過後中山慶子が駕篭に乗り、宮様と称して儀衛を整え、警曄して遠官の儀を終えられたとある」。

 こんなことも、常識からしてずいぶんおかしいことではないか。巾山家では、う昧仁親-三が、さきざき何者かと交替することをも予測していたかもしれない。慶千が産んだとい

 睦仁親王出生の謎

 木題に疾って、孝明大汽hのヱーが明治天皇であるという宮内省系図ははたして疑いないだろうか。まず仁孝人皇の実rを考えてみると、一五人のうち淑子、孝明天皇、和官の他の一、人が幼児期に死Lしている。次に孝明大皇の実rだが、六人のうち明治天皇以外はすべて幼児期に死亡している。死亡者のうちには女の子も多いから、すべての死を皇位継承のための暗殺とはいえないであろうが、このような死一Lは白血病のような血液疾患を疑わせる。あるいは鉛毒のようなものを使っての海殺であろうか。
ここで陸仁親丁の…牛については若干の疑問がある。。睦仁親工は嘉永κ年(一八兀一一)九月、、二一日(新暦では一一月一二〕)京都猿ケ辻の権大納吉中山忠能の家でtまれた。母は中川忠能の娘で孝閉大皇の側室八典侍)になった慶子である。親王は幼さちのみや、名を祐宮といい、圧歳まで猿ケ辻の巾山邸で育ったが、安政」二年(一八五六)九月慶子とともに御所にもどった。その時孝明天皇の面前で、「オーフィ、オーフィ」「クチュー、クチュー」といってにぎやかに歩きまわったので、孝明天皇が尋ねると、慶子は「オーフィは豆腐屋の、クチューは木靴屋の売り声です一と容えたという、このことから推理して、親[が実は豆腐康または木靴屋の近くで牛まれ育ったとしても、二.歳頃以降には巾山宏に来たことになろう。もちろん公式には、閉治大皇は孝閉大汽Lの第一」里千陸仁親王で、肚は巾…忠能の娘慶ゴである」

 ここで帖阯仁親仁ご挺小の汕後を『明治入山王紀』から抜粋してみよう。
弟一。j、,■j■い九鉱、・州i、人1→寸㌧かえ含ニプ,i」【庶永ハ何賓算」討載あかし

 庶永圧年二、月、典侍中山慶戸懐妊の徴あり。典薬寮医師女医博十賀川満崇診断して既に㎜H柵…月を経たりと為す。足に於て、同月二.○日、権大納一一一,]中山忠能は慶子のために田七第に退き、甘つ内著仰を行ふべきH時の内勘文を陰陽助串徳井保源に徴し、典侍中山績乙-に就きて叡旨を候し、来月、二1IHを以て共のHと定め、史に勘文の清書を徴し以て績子に致す。蓋し慶子、績千を以て部崖親と為すを以てなり。続rは権人納,一□巾川愛親の火にして慶子の高祖姑なり≡㎜H月、二、.H辰の刻、典侍巾山慶子宮巾より退きて内著帯を里第に行ふ。慶Fの執匙典薬寮医師山木随、産科典薬寮医師女医博L賀川満崇、及び産婆片市休渡等之れに侍す。執匙は俗に御匙と称す…-κ月一H、テめ降誕後診治に侍すべき医官を定む。乃ち典薬寮鐵博LL藤木篤平、権鍍博十藤木成邦、典薬少允山科元敏、典薬少属高階絡由、典薬寮医帥山木随、同中山嘩及び元典薬寮医師たりし法眼山科草庵、向浦野泰安、同西尾H〕敬の九人を以て之れに充て後更に典薬寮医帥山H淋庶つとを加ふ。而して生れたまふべき新官の執匙は夙に典薬寮医帥太田成式に命じ、又産科は火薬寮欠帥女医博L賀川満崇及び其の千典薬寮医止上賀川満載に命ず。(『官様御降誕御用私記』)

 一七日、典侍巾山慶千病みて胆第に退く。一,二一□より体熟昂騰し数日にげりて降らず、、六H暁に至りて腹痛甚し。医官等一時瘍産の事あらんことを憂ひしも卓にして其の秦なきを得、病亦Hを経て漸次快方に向ふ。蓋し時疫なりしが、医官等宮巾に漏聞せんことを恐れ詐りて疲の類と称す……(『祢宮御降誕雑記』、『権典侍様御川雑記』、『東坊域聰長H記』)、、、、、、、、、、、、いつわ、、おこり、、、、

 八月.一川H、典侍中山慶r宮巾に還る。是の口権人納≒」□中山忠能の神官卜卿を解く。蓋し慶r臨産近きに在り其の産穣に触るべきを以てなり。(『宮様御降誕御用私記』、『巾山忠能履歴』)、.ヒ〕、典侍中川慶ゴ著帯を行ふ……典侍中山慶rの御産所に退くに先だち、宮中より御産の調度並びに雑其を送り来る。蓋し禁裏勘使所に於て夙に調進する所にして、先づ之れを奏考所に致し、じΦん掌侍梅園兄ゴの点検を絆て後禁裏使番をして送致せしむ。即ち胞衣桶一口・争刀一蟹・抑桶.、H・衣架一蟹・菊燈台一某・κ尺牌風一壁・赤身の人兄一鯛・犬張乙」一讐(中に粉黛の具一六品を蔵さむ)・花結の締、一條・提帯.、條・片高畳一枚・薄旧甘、.枚・椅戸産一枚、及び薬箪笥並びに薬川の風h・茶碗・鍋・薬溜・薬斗其の他桶・杓・臨・行燈・胆燵・便器等なり。阿茶(女竹、御末衆の蚊にして飲膳の事を掌る)亦膳具を送り来る…-(『祐官御降誕雑記』)

 九月二二日、天皇、権大納」言中山忠能の第に降誕あらせらる。是の日天晴れ風静かなり。辰の刻㌶、}、川{光蜘、'州台人⊥l1二す'〕かえを一。'止」」頃典侍中山慶子出産の徴あり。巳の刻忠能使を遣はして慶子の執匙典薬寮医帥山本随及び典薬寮医師女医博上賀川満崇、典薬寮医生賀川満載、産婆古市佐渡を召す。皆全る。御用掛山雲守沢村毒栄も亦午の刻頃報を得て至る。忠能又書を関白鷹司政通及び議奏・武家伝奏に送りて之れを報じ、卜鵡代勘解由小路継も亦書を典侍中山績子(大典侍と称す)、掌侍梅園兄子(勾占掌侍と称す)に致して之れを報ず。既にして午の半刻降誕あらせらる。忠能再び書を政通及び議奏、武家伝奏に致して之れを報じ、継も書を以て之れを績子、兄子に告げ、壽栄も亦書を武家伝奏、禁裏附武七及び禁裏執次詰所に致して之れを報ず。其の之れを執次詰所に報ずるは当時皇統譜の管掌其の手に在るを以てなり。時に孝明天皇は常御殿北庭の花壇の菊花を覧たまひつ∫、午嬢に向ひて杯を把らせられしが、阜r降誕の報至るや天顔殊に麗しく更に杯を重ねたまへりと云ふ。(『権典侍様御用雑記』、『官様御降誕御用私記』、大原重朝談話)

 つつ阜子生れたまふや、請衣を以て御体を裏み御胞衣と共に抱きたてまつる。請衣とは白羽一、重二一幅おわを方形に袷にしたるものを云ふ。降誕の事奏上詑るを待ちて後、継入の湯に浴せしめたてまつる。もと継入の湯終れば第内在る所の火を悉く棄て、川端道喜の家に取る所の火を以て之れを改む。蓋し原在る所の火を以て産稼に触れたるものとするなり。あたさき此の時に方り、権大納言中山忠能は家臣をして、嚢に典侍中山慶子が著帯の[に迎ふる所の人利国永久寺子院上乗院内生産杜の神璽を、従二位伏原宣明の弟に送還せしめ、又七H船鉾町及び一㎜HもたらH船鉾町の年寄を召して、嚢に費す所の神功皇后の神面を返付す。皆初穂として金を進む、缶々芹あり。のぞ既にして、末の刻過、御使御差生島朝千(駿河と称す)御産所に荷む。禁裏使番某守刀及び掻巻すのを奉じて之れに従ふ。靭子輿して中門を入り寝殿の賛子にて輿をドり、老女某に導かれて御産所に至り皇子に謁し、守刀及び掻巻をトりて退く:…

 一〇月、一一一H、降誕後一二〇日に当るを以て始めて宮中に参りたまふ。所謂参内始なり。出輿に先だちて皇子に脂紛を加へたてまつる。即ち上額に際を画き黛を点じ、其の下に嚥脂を以て犬の字を書するなり。権大納一一一一□中山忠能之れを奉什す。既にして皇子寝殿に出でて板輿に乗御す。典侍中山慶千陪乗して抱きたてまっる。慶子が嘗て著帯の日に賜はる所の末広、及び皇子が降挺の円に賜はたてまつる所の守刀、並びに諸杜寺より献れる護符類、其の他赤身の大兄・衣一襲・□拭の絹.料紙等をまこ,文厘の蓋に盛りて、輿巾に置く。巳の刻出輿、六門番一一人先を払ひ、禁裏使番一〇人左右相並びて前行す。皆麻件を著す。御輿之れに続く。輿∫八人之れを奉ず。瀧口の十四人直垂を著して輿側に侍す。典薬寮鐵博上藤木篤平、典薬少允山科元敏二人狩衣を著して列外に在り、御用掛沢村壽栄も亦狩衣を著して輿後に雇従す。預仕丁一一人之れに従ひ、押への仕丁一人、同心六人、与力一一人順次之れに従う。皆麻件を著す。雨皮・笠篭等亦列中に在り。御世話卿東坊城聰長中門内より供奉し、忠能及び其の子右近衛権中将忠愛門外に奉送して後、供奉に加はる。聰長以下皆列外なり。外戚権中納言野宮定祥、左近衛権中将今域定章、左近衛権少将止親町公董等亦門外に奉送す。御輿門を出でて東に、中筋街を南に、飛鳥井氏の門前を西に、有栖川官の門前を北に、朔平門前街を西に、順路清所門を入り巳の半刻奏者所に著し、皇子此虜より昇殿したまう。其の路を特に甚しく迂回するは、陰陽家の説に従うものにして、予め陰陽助辛徳井保源をして勘ぜしむる所なり。既にして、天皇常御殿に御して始めて謁を賜い、口祝あり、且人形を賜う。女御亦別に人形を贈進す。是の日皇子御鈴料金百疋・鮮鯛一折を内侍所に薦め、中高檀紙十帖・星布・干鯛各一箱・樽一荷を天皇に献りたまう。又淑子内親王・和宮・新侍賢門院・女御に贈遺する所あり。関白以下諸臣にも亦各々賜宇あり。したが是より皇子は典侍中山慶子の局を以て御在所としたまう。忠能の母綱子随い移りて日夜榑御に任じ、上鵡代勘解由小路継も亦毎日昼問出でて奉仕す-…(『祐宮御降誕雑記』、『権典侍様御用雑記』、『宮様御降誕御用私記』、『近衛家日記』、『野宮定祥日記』、『上山武宗日記』、『議奏記録』、『巾山家文書』)

 二九日、宮中将に新嘗祭の神事に入らんとするを以て、権大納一一一一口中山忠能の第に従御す。乳母中に月障等のあらんことを慮りてなり:…・】傍点筆者慶子は嘉永四年二一月一七歳で宮中に入って五月権典侍となった。わかりやすくいえぼ「お壬・がついたLのである。『明治天皇紀』によると、翌五年一二月、早くも妊娠したので、四月」一一二〕着帯のためいったん実家に帰った。五月一日には医師九人を妊娠の一止会人とした。

 一七日、慶子は病気になって実家に帰ったが、一一六日には腹痛が鐘く、医師たちは流産を心配したというが、問題は本当に流産した可能性である。『明治天皇紀』によれぼ、立ち会いの医師らはこおこりいつわのとき流産しそうになったと報告せず、「疲だといって詐りの報告をした」というから、かねがね中山家に買収されていたことも想像される。仮に慶子が五月二六日に流産して、それをかくしたとすれぼ、一二ヶ月のち八月、、四Hに宮巾に行ったときは、はらまきでもして一芝居したということになる。明治天皇の誕生は九月二二日で、はじめて宮中に参内したのが一〇月一一二日だから、流産したとすれば、中山家では五月一一六日から約四ヶ月の問に適当な幼児をみっけなげれぼならない。通常こんな場合には秘密保持に精一杯で、身代わりの氏素性などを考えるひまはないのではないか。また、ここにあるように、睦仁は生後三〇日で参内始をしているが、そのとき女の子のように「脂粉を使って額に黛を入れた」という。この睦仁と鳥羽伏見の戦いのとき乗馬し、閲兵した閉治天皇と同一人であるとするのは正常人の思考とはいえない。冒王三笠宮は秩父・高松とちがって実はヒロヒトの弟ではないという噂がある。天皇になり損じた中川宮孝則大皇は、、□米通商条約の成LVなどをはじめとして、何にあれ、気にいらない巾件が起きるたびに退位を、にした。この時代までは皇李が必ずし為続するとは限らず・権力考である徳川家や斤摂家などの意向によつて次期蚕が指名されることも多か一た。徳川家の権力が維持されていれば、その時の後継考は必ずしも睦仁とは限らない。南北朝時代にできた貞成甲の伏排竃分家にあたる肯蓮院宮こと中川宮も有力な後継者であった。

 長文連は次のように述べる(『皇位への野望』)。
 一川宮は伏揖家の山身で、父は北朝の九八代崇光天皇から数えて一九代〕の伏桝邦姦・・牛母は鳥柵小路経親の女一むすめ一信子となつている。一八二四年一文政ヒ一舟・1八H・挑牢町通錦心賂Lル、並河丹波介の家で仕まれた。幼名を雫代といい、また。一宮ともいつた。八歳のときに京都本能寺の・慈大に引きとられて教えをうけ、天保七年六月、かれが一二歳のときに、叔父の奈良一乗院尊常法雫が亡くな一たので、同年八月、人・仁美白一の雫となつて格式をっけ、翌年一二月缶・一乗院に入一て竿の竹ドあり、名も成憲と改め、同九年四月、、一二H僧籍に入り、尊応と称した::


 「裏切られた三人の天皇-明治維新の謎-」
 西垣内堅佑氏の冒頭の「推薦の辞」は次の通り。
 「本書のなかで著者が展開する史観は三人の天皇、すなわち孝明天皇、その子睦仁、及び実は大室寅之祐の明治天皇は、或いは明治維新を推進した岩倉具視や木戸、伊藤、山縣、大久保たちに暗殺され、或は裏切られた悲しい存在であったという事実である。まず孝明天皇は長州藩の忍者部隊によって暗殺され、その子睦仁も即位後直ちに毒殺された。そして、睦仁の身代わりになった明治天皇は実は南朝の末孫という長州力士隊の大室寅之祐であり、孝明天皇の子ではなかったというのである。著者は本書で単にキワモノ的にこれらの歴史を暴露しようとしたのではない。本書には岩倉、伊藤らに裏切られ激動の中で翻弄された三人の天皇に対する深い憐憫の情がにじみでている。著者は若き日、天皇ヒロヒトが軍閥の暴力を恐れるあまりあえてひきおこした大東亜戦争でその世代の多くの若人が戦死したプロセスのなかで、維新以降の国家の不法に翻弄されながらも激流の中の木の葉のように自らも流さざるをえなかった苦い経験を重ねているのであろうか。それだけではない。著者は住専問題やエイズ薬害の問題などに象徴されるどうしようもないこの国のあり方と現代官僚制の致命的な欠陥を、維新官僚体制にさかのぼって追及し、本書を抜本的批判の書として完成した。それは著者の若き日の歴史的経験の総括であり、そして何が何でもその真実をつきつめずんばやまないとする猛然たる意欲のたまものであり、その努力は不法なものに対する著者のおさえがたき憤怒にささえられていた。そうだ、著者は限りなき哀しみとともにあえて「憤怒の河を渡った」のであった。著者は明治官僚政治に対する批判として次のような激烈な言葉を発している。- 西郷を殺して悪魔的な帝国主義による差別のエネルギーを根幹にすえた大逆犯人たちの政権は、こののち徴兵制によって無数の日本人を戦死者とし、そして不法なる侵略戦争によってさらに多くのアジア人を虐殺し、アジア人を奴隷と差別した - と。著者のこの言葉はかつての左翼ライターの言辞を思わせんばかりであるが、本書を読むと著者の思想はむしろ民族主義に近く西郷隆盛に似ているということがわかる。 「金もいらない、命もいらない」という西郷の生きざまを己のものとしないならば、このような本書の公開はなしえなかったものである。 本書の内容とほぼ同じことを知った先学は決していなかったわけではない。ただその人びとには若者の如き情念がなかったのである。

 著者は維新の思想根拠となった吉田松陰の革命テーゼを、1、南朝の大室寅之祐を天皇とする。2、朝鮮と台湾を植民地にし、最後はアメリカと決戦する。3、被差別者を開放する。 とし、特に2、のテーゼを政権獲得後に新政府は修正するべきであったと主張する。 そうすれば西郷の「敬天愛人」の政治すなわち南朝革命の大義の宣言を行って、そのうえで列強の帝国主義的侵略に対するアジア諸国の団結という大アジア的政策を行うことが可能だったとする。 著者が「忍者たちの革命政府」と呼ぶ、岩倉、木戸、伊藤らの維新政府がしょせん「敬天愛人」の政治を行ないえなかった理由は、維新政府に内在する「二人の天皇の暗殺とすりかえの隠蔽」というきわめて重大な犯罪の当然の帰結であった。 そうであるが故に、読者は本書を読破して「天皇の暗殺とすりかえの隠蔽」がどのようにして行なわれたか、そしてそれがどのようにしてこの国の運命を左右したか、その歴史的事実を読み解いて欲しい。 そのうえで、維新政府が何故すすんで自らアジア人に対する差別イデオロギーに染まり、あえて植民地獲得の侵略戦争に参入したかを、国を捨てて逃亡した朝鮮人による古代天皇制にまでさかのぼってしっかりとつきとめて欲しいのである。

 著者は邪馬台国の建国は扶余王仇台の神武と公孫氏の女卑弥呼による九州侵略に始まったとする。そしてそのとき占領軍の支配層は朝鮮人とシナ人であり、文字による情報を分与されなかったとする。このことを理解して初めて、忍者的維新政府とその後継者たちが今に至るまで続けている情報独占に対する著者の憤怒の根源を理解するであろう。

 明治天皇は自ら南朝の子孫であったのに、岩倉、木戸、伊藤たちのために、その出自を明らかにすることができなかった。天皇は晩年ようやく南朝正系論によってことを明らかにしようとしたが、このときすべての重臣や側近は天皇を裏切って助けようとしなかった。それだけではない、天皇の死後も歴代の権力者はことごとく天皇の遺志をつごうとはしなかったのである。何のための皇統連綿であろうか。私はかねてから北朝系とされる明治天皇が何故南朝正統を裁断したかが不審であったが、著者は従来の学者たちの仮説と自ら発掘した資料をふまえ、さらに大室天皇論を加えてこのような私の疑問を見事に氷解させた。

 五年程前(執筆は平成9年)のこと、私は著者にすすめられて大室近祐氏を麻郷に訪問して親しくその謦咳に接したことがあるが、本書の公開は私にとっても心から喜ばしいことであり、この喜びを多くの読者にも伝えたい。本書をあえて推薦するゆえんである。

 さて大逆事件の裁判で幸徳秋水が「今の天皇は、南朝の天皇を殺して三種の神器を奪いとった天子の子孫ではないか。それを殺して何故悪いのか」と法廷で陳述し、法廷はしばし沈黙して反論できなかったというが、それに端を発して明治天皇が南朝正統を裁断するに至った経過を考えると、明治時代のこの歴史の最大の謎を見事に解明した本書を生前の幸徳秋水に読んで貰いたかったと思う。本書が公開されたとき、高知県中村市にある秋水の墓前に本書を捧げようと私はひそかに思うのである」。






(私論.私見)