鹿島史観1

 (最新見直し2009.12.24日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、鹿島昇・氏の史観を確認しておく。

 2007.10.30日 れんだいこ拝


 鹿島昇『歴史捏造の歴史、②デッチアゲの万世一系』(平成12年、6月、30日、発行!))の『第一章 捏造の日本史――天皇まで創作した歴史(投稿者:白金 幸紀(しろがね ゆうき))会員番号 1738番 投稿日:2004/10/28)

 倭国から日本国建国まで

ついで時代を遡って倭人の歴史と日本建国史を説明することにしたい。先ずは倭人のルーツから。

 1、松本秀雄は免疫をつかさどるグロブリン・マーカー「Gm」のアロタイプの頻度を調べて、日本人のGmパターンは蒙古族のなかのブリヤート族にほぼ等しいとする(『日本人は何処から来たか』)。蒙古族は北倭の子孫の蒙瓦室韋の子孫であるが、それでは、日本人と蒙瓦室韋の共通の先祖はいかなる民族であって、いつ両者は分離したのか。

 『記紀』のいうところを正しいとすると、両者は歴史時代以前に分離したとしなければなるまい。実際松本はそのように主張しているのだが、『紀記』が握造文書であることを理解すれば、その分離は奇子朝鮮が馬韓に移ったあとである。

 2、今の雲南の仮族やメコン流域のクメール族などの先祖が、シャキイ族に従って前七世紀にカルデア人と共にシナ大陸に入って東胡といい、その国々を韓(河南省)といい、また中山国(河北省)といった。韓はアレクサンダーに従属したバビロン軍に吸収されてのちに奇子朝鮮となる。その中には、沖縄から上陸して大扶余と混じたシャキィ族とナーガ族もあった。シャキイ族は朝鮮の昔氏になり、ナーガ族は朴氏になり、さらに那嘉、中曾根氏などになった。長髄彦も沖縄の尚氏、契丹の蕭氏もナガ族のシスナーガ族であった。だから北倭の子孫は三分して九州の南倭と混じた北倭と、朝鮮の倭人であった新羅人、そして満州(中国東北)の北倭、すなわち鮮卑の一派として残った蒙瓦室韋から蒙古族になったものになったのである。

 北倭とは狭義には仾族の子孫でのちの蒙瓦室韋、または蒙古族であるが、広義に北倭とは、ナーガ族、シャキイ族、ボド語族、カーシ族、クメール族などのインド系アジア諸族を含める。そして北倭の子孫が匈奴のキンメリ人やチュルク人と混じて鮮虞、鮮卑になり、さらに蒙瓦室韋、蒙古族になった。

 3、北倭が満州から日本に渡来したのは邪馬壱国の建国のときだから、蒙古族と日本民族の共通の祖先は中国東北に散開した北倭であった。『山海経』海内東経には「北倭と南倭は燕(奇子朝鮮)に属す」と書いてあり、この燕は『史記』の燕ではなくて奇子朝鮮のことである。しかし『記紀』は大物主命の軍隊を大来目としてクメール族を記す他、北倭も南倭も共に記録していない。

 これもまた滑稽なことであるが、韓国の文化母胎(征服者)はトルコ系の高句麗人、インド系の新羅人の他、秦漢文化をもちこんだシナ人という三つのグループであるが、慶尚大学における筆者のセミナーで、「檀君桓因は帝釈天桓因だから、インド渡来の朝鮮民族がいる」といったところ、「われわれはウラル・アルタイ語族である」といって長々とぶった大学教授がいた。

 アメリカの黒人はアフリカ語を忘れているし、アメリカのインディアンも自分の言語を忘れたものは沢山いる。結局インド、中国、朝鮮、日本では、愚民と奴隷を作り出した歴史こそが長期権力維持の方便だったのである。しかしゼミのあと一人で接触してきた若い教授がいて、そっと「朝鮮語にはインド語が入っています」と告げた。1乃至3は拙著『倭と日本建国史』に詳しい。

 4、『北史』は「扶余王仇台は公孫氏と同盟して帯方郡を経営した。郡のもとに倭人と韓人がいた」という。この帯方郡が南扶余.(ありしひのふよ)ともいう百済国のおこりであって、百済の本当の祖王仇首は扶余王仇台その人であった。

 5、伯族の扶余王仇台は百済王仇首であり、伊都国に進んでイワレヒコこと神武天皇になった。従って公孫氏の女(むすめ)とある仇台妃は卑弥呼であり、かつ神武妃ヒメタタライスズである。(図3参照)。

 『晋書』倭人伝には、「漢末倭人乱攻伐不定。乃立女子爲王。名日卑弥呼。宣帝之平公孫氏也。」と明らかに記している。勿論『記紀』はこのことにふれないが、『桓檀古記』には「イワレヒコは伊都国の王である」と書いてあって、邪馬壱国が神武夫妻の合作だったことを教えている。(図、三参照)この問題も第六章に詳述する。

 だからのちの南朝天皇家は扶余王仇台、百済王仇首、のちの神武天皇が朝鮮の帯方郡から南下して九州を侵略したのが始まりであった。帝国憲法の英訳ではこのことを「天皇の祖先は日本に来た(come)」と書いている。

 6、『桓檀古記』によれば、邪馬壱国は九州の日向にありのちに朝鮮に戻って安羅といった。日向の西都原古墳群の中にひときわ大きい卑弥呼の古墳が存在する。これはもと円墳であったものを、誰かバカな奴が尻尾をつけておかしな形に変えたものである。(図、4参照)

 近畿説は大和王朝という『記紀』の虚構を維持し、『記紀』の宗教的権威を保持するための詐術でしかない。いま奈良の前方後円古墳から三角縁神獣鏡という青銅鏡が多数出土して、卑弥呼古墳だろうという人がいる。しかし『魏志』によれば、卑弥呼古墳は円墳だから、前方後円古墳がそうだというのは床屋考古学のたぐいでしかない。日本にはこういうノータリンの学者が多過ぎるのである。

 「その他の倭国」は朝鮮南部と九州各地にあり、また沖縄の狗奴国も倭国の一つであった。その王はナーガ族の長髄彦であり、また朴氏の祖になっている南解次々雄であった。因みに次々雄の前の赫居世の姓はインドでナーガ族と接触したカッシュ人を表しているのである。九州北東部には東表国のちの駕洛国があり、秦王国は畿内にあって『紀』には「別倭」となっている。1乃至6は拙著『女王卑弥呼とユダヤ人』に詳しい。

 7、新羅史の「砒曇の乱」は日本史のモデルである。このことは遡って、日本史の孝元天皇が実は駕洛国初代の首露王だったことを教える。日本史は扶余王と駕洛王を交互に天皇と書いてそれらを万世一系と強弁した、国民を奴隷化する、または子供だましの偽史であった。崇神まで、応神までを神話だというなら『日本書紀』はすべて神話だったというべきである。こんなことがまかり通ったのは学者のレベルが余りも低くて『書紀』の文意が理解できなかったからであろう。

 8、『晋書』には「扶余王依慮は自殺し、子弟が走って沃沮を保った」とあるが、『古記』には「依慮は鮮卑に敗れ…子の依羅、海を越え遂に倭人を定めて王となる」とある。この依羅が国史のミマキイリヒコこと崇神なのである。

 9、七支刀の裏面の銘文は「百済王の世子、奇しくも聖音に生まれ故ありて倭王旨となる。造りて後世に伝示す」と読む。こんな当たり前の読み方が出来ないようでは学者ともいえない。倭王は辰王ともいい、倭王旨は百済の辰斯王すなわち辰王斯であり、国史の景行でもある。辰王とは実は共立された倭大王のことであった。のちに『記紀』がほぼ一貫して百済王を天皇とし、処々に駕洛王と新羅王を介在させたのはこのような歴史的事実を反映させたからであろう。新羅金姓王朝の祖になっている金首留は駕洛王金首露と同一人物で、新羅は駕洛から分れた国である。

 10、倭の五王は駕洛国の王で、その前後の百済系天皇とはつながらない。日本史は扶余王、百済王の天皇と駕洛王、新羅王の天皇を合成してつなぎ、あえて万世一系といったのである。これこそ歴史握造であった。

 11、『陪書』に登場する倭王アメタリシヒコは聖徳太子ではない。聖徳太子とは百済の威徳王昌であるが、アメタリシヒコは大伴望多(馬來田)であり、ワカミタフリは大伴道足であった。大伴談の子が金村であり、その弟が歌で、金村の子が磐(磐井)、磐の子が望多であるが、談が継体、金村が安閑、歌が宣化、磐が磐井の君で、アメタリシヒコの望多は磐の子である。

 大伴氏は公孫域の大物主命、公孫度の事代主命、公孫康の道臣命、その妹の卑弥呼(仇台妃)など、すなわち邪馬壱国王家の子孫である。だから継体、安閑、宣化という天皇家はその前後の百済王家とは断絶している。万世一系は原住民に対するめくらましであった。『ラーマーヤナ』とプラーナ諸聖典によると、コーサラの王統譜の中にシャーキャ、サッドホダナ、シッダルータ、ラーフラという釈尊の系図が混じている。このやり方をコーサラの移民だった公孫氏、のちの邪馬壱国の王族が教えたのであろう。

 倭国から日本国建国まで

 12、入鹿殺しは新羅史の「砒曇の乱」の翻案であり、従って新羅王善徳以下は皇極以下のモデルであり、百済王東城以下は欽明以下のモデルである。このことは『記紀』が全体として朝鮮史の書きかえであることを示す。従って崇神まで、あるいは応神までを神語というなら『記紀』は全文が神話なのである。

 しかし世人の反論としては、日本史に朝鮮史の一部がまぎれこんだのだろうというものであり、無能な学者共に至ってはこの問題すべてを黙殺している。しかしこの事実は重大であって、『記紀』が全体的に正当な歴史書ではありえないことを示す。自白調書の一部に重大な矛盾があれば、調書全体を信ずべきでないことは当然であろう。

 13、『北史』が記す如く大和地方には秦王国があった。秦王国はまた別倭、伊倭、日の本などといい、京都郊外の太秦の秦氏はその子孫であった。『弾左衛門由緒書』に弾家の祖は秦氏でのちに藤原姓になったとある。秦氏は日本国が作られたあとで藤原氏の中にもぐりこんだ。しかし『記紀』を史書であるとすれば、このような真実の歴史は否定せざるを得ない。

 「砒曇の乱」によれば藤原鎌足は金庾信であるが、一方『書紀』の中では鎌足が郭(唐)務悰のところもあって、鎌足という人物は二人一役の合成人問であった。それは白村江戦争で捕虜になったグループの中の藤原不比等が、長じてから、捕虜グループのなかの有力者の郭務悰を金庾信と合成して鎌足という人物を創造したからである。藤原不比等が自分が捕虜だった事実をかくすために、舎人親王にたのんで郭務悰と金庾信を合成して自分のハクづけをしたのである。これが睦仁と大室寅之祐の二人を一人の明治天皇にした手法の先例であった。

 『藤氏家伝』には藤原不比等の名が記載されていない。このことによって、藤原四家はそれぞれが別の氏族であり、ミス・ハーフといったところの娘たちをもった不比等の名によってかれらを統合したことが判る。従って藤原四家は金庾信の子孫と郭務悰の子孫の他、秦氏もいたし、金氏もいた。金氏といっても金海金も慶州金もいたであろう。『善隣国宝記』のなかに郭務悰を唐務悰としているところが一ヶ所だけあるが、この「唐」が「藤」に変っただけである。

 14、日本国は畿内の秦王国または日の本と、九州の倭国(邪馬壱国、安羅)を合体させて作った国家であった。それは白村江の戦いののちに、新羅人の色ぼけ帝国の命令によって唐にかくして行われた。『記紀』はこの日本建国史の真相を唐と日本人にかくすべくして程造したものである。   

 16、新羅史の「砒曇の乱」によって、日本史は東城王以下の百済王と善徳王以下の新羅王を共に天皇にしたことが判る。だから天皇家が万世一系であるというのはマッカなウソで、その時その時の王朝が、自分の王朝は万世に続くとする自分勝手な醜い欲望にすぎない。これは天皇家周辺の朝鮮人やシナ人が考え出したことで『記紀』の主たる目的の一つであった。そもそも『記紀』によって一系とされる日本の王朝は実は八つの王朝が交替していた。

 第一王朝は孝昭以下の駕洛王朝、第二王朝はニギハヤヒ(昔氏)の多羅王朝、第三王朝は神武以下の扶余の百済王朝、第四王朝は継体以下の邪馬壱国または安羅王朝、第五王朝は皇極以下の新羅王朝、第六王朝は道鏡、光仁以下の亡命百済王朝、第七王朝は後小松以降の足利王朝、第八王朝は明治以降の自称百済系の大室王朝である。

 これをもって万世一系となしたのは帰化朝鮮人と秦人が合作した系図偽造であった。だから日本では王朝の交替には公卿たちの承認と神器の継承を必要としたのである。1乃至16は拙著『日本王朝興亡史』『国史正義』に詳しい。ざっとこんなところであろう。

 以上37項目のうちせめて半分だけでも判っていれば、その人は『記紀』を盲信して『紀記』の国民奴隷化政策に協力した大学教授たちよりもはるかに物知りである。このうち一つの問題についても反論は百言以上も還ってくるであろうが、実はその百言はすべて『記紀』という宗教の教義書の如き史書に基づく狂信者、自分の生活のために国民を奴隷にしたい奴隷監督、カポたちのいい分なのである。

 何度でもいうが今の歴史学は学問ではなく、オウム信者と同じレベルの狂信者たちの教義論に等しい。歴史学は『記紀』が歴史書であることを否認して、本国から命からがら逃亡した朝鮮人やシナ人が裡造した天皇教という邪教の呪縛から解き放たれない限りは学問にならない。

 ここに説明した倭人と日本建国史については、拙著『倭と日本建国史』『国史正義』などおおむね述べた。武家と軍閥の歴史は拙著『裏切られた三人の天皇』、『昭和天皇の謎』と本書において論じるであろう。歴史は極めて因果性の強い学問だから、前半と後半を分割することは困難である。読者には前掲拙著の通読を望む。

 以上、廣橋氏の八項目を手がかりにして考えてみた。廣橋氏のいった八項目は廣橋氏の証言の他にも傍証がある。またこの八項目はそれぞれ筆者のリストとも重複するが、廣橋氏からこのように貴重な示唆を得たことは望外の倖せであった。特に記して謝意を表す。


 『記紀』の原作は、新羅の舎人親王が唐に提出した報告文書

 百済王の道鏡や桓武天皇らが、『日本紀』をもとに『記紀』をつくった

 さて、日本の天皇家の氏素性(うじすじょう)だが、鹿島は『昭和天皇の謎』のなかで、「もともとは北支の伯族であり、のちに扶余の王家、百済の王家となった一族である」と述べているが、これをもう少し詳しく述べると、次のようになる。

 神武天皇というのは、中国東北(満州)から朝鮮半島を経て南下した扶余族のタケミカヅチのことである。その神武天皇率いる扶余族は北倭人であり、これが三世紀初頭に南倭人と戦い、博多近辺に伊都国を建てた。卑弥呼は神武の妻であり、実家はユダヤ系亡命者である公孫氏であった。その公孫氏の建てた国が日向・西都原(さいとばる)であり、卑弥呼は都をここに移して統治した。その後、朝鮮半島と日本列島の支配権をめぐって、高句麗、新羅、百済、倭国が争い、当時の世界帝国・唐の援助を得た新羅が百済を滅ぼし、その百済を復興させるために倭国は軍隊を派遣した。それが、六六三年の白村江(はくすきのえ・はくそんこう)の戦いである。この白村江の戦いで、倭国を破った唐・新羅連合軍は、九州に攻め込み…-というように、きわめて大きなスケールで、鹿島は、神武天皇から白村江の戦いまでの歴史を解き明かすのだが、その部分は、本書の第四章から五章にかけて詳述しているので、そちらを熟読いただきたい。

 日本の歴史というと、まずは『古事記』と『日本書紀』だが、この二つの書物の下敷きとなったのは『日本紀(にほんき)』である。その『日本紀」とは、縄文時代からの先王朝=天(あめ)の王朝の歴史をすべて抹殺し、新羅天皇家が有史以来続いてきたとする、唐へ提出した報告文書である。六七六年に唐が朝鮮半島への進出を断念したことにより、日本をも支配下におさめた統一新羅が誕生し、新羅王は皇帝となる。そうして、日本総督として舎人親王を日本に派遣し、舎人親王を天皇として、新羅天皇家が有史以来続いてきたとする『日本紀』をつくったのである。その『日本紀』を、権力者となった百済王の道鏡や桓武天皇らがたびたび改竄して『日本書紀』をつくり、それに合わせて『古事記』もつくったのである。その『古事記』と『日本書紀』を、最高の史書として、いまも国民が教育されていることはいうまでもない。いまでも、多くの日本人が「万世一系の天皇」と信じ、「日本民族は単一民族」であると信じているのは、そのためである。

 秦始皇帝はバクトリア王ディオドトス、兵馬俑(へいばよう)はペルシア軍団

 鹿島はさらに、中国の神話に出てくる人頭蛇身の伏犠(うっき)は、バビロン神話の人頭魚身のオアンネスであり、中国の古典とされている司馬遷(前一四五~九六)の『史記』前九七年は、オリエント史を地名遷移して漢訳した「翻案偽史」であることを、克明な対比作業によって証明した。そして、漢民族は、股(シュメール人)→周(アッシリア人)→秦(バクトリア人)の文化遺産をそっくり棚ボタ式に受け継いだと主張している。その漢民族は、大きな恩恵を受けた殷人(シュメール人)を夷、すなわちエビスと呼び、その夷=エビス=殷人が日本列島にやってきて打ち建てたのが、東表国(とうびょうこく)であり、それこそが神武以前の先王朝である天の王朝であるというのだ。

 このあたりのことについては、鹿島著の『倭と王朝』(新国民社、一九七八)に詳しく展開されていて、その先王朝が日本列島を支配していたという部分が、韓国と日本の双方でずいぶん大きな反響を呼んだ。鹿島の中国論においては、それ以外にもっと驚くべきことを、二つ指摘している。一つは、秦の始皇帝陵出土の兵馬俑は、中国人のものではなく、ペルシア軍団のものであったということである。この部分は、第六章に詳述した。二つ目は、秦の始皇帝(前二二一~一〇)そのものが、中国人ではなくバクトリア王ディオドトスであったということである。そればかりではない。そのことが明らかになることにより、さながら「神経衰弱」のカードが次々と開かれていくように、以下の事柄が明らかになっていった。

 孔了のモデル…………『旧約聖書』の預言者エリヤ

 儒学・:…………-・…・ユダヤ人ラビ(律法者)の「ジュウ学」

 『史記』・…・………:…・・オリエント史の借史

 その作者の司馬遷::: ユダヤ人。漢王によって宮刑(宦官)を与えられ、誕生したばかりの漢民族のための「偽史」づくりを強制された

 倭人::…………・:・…・秦の始皇帝に追われ、東北(満州)に移動して「北倭」となり、扶余族に率いられて九州に渡来。日本列島の先住民や「南倭」と混血し、近畿の秦王国とも合流して日本列島全体に拡散

 項羽:………:……・…・エウチデムス

 これらのことは、本書では第六章と第七章であつかった。以上のことが鮮明になったならば、部落差別というものが、いかに不合理で無意味なものであるかは、おのずから明らかである。そこで、最後の章=第八章で、あらためて差別の原点を見つめ直した。


 目本史のタブーに挑んだ男●目次

 はじめに――――――――――――――――――――――――――――――――4

第一章 昭和天皇の戦争責任論は、いまや鹿島史観のみとなった

鹿島の「天皇論」が、いま異様な光を放っている   20
"  
   昭和天皇の「謝罪詔書」転載と同時に、日本共産党が天皇制を容認した 20

   鹿島の「天皇論」で、最も有名なのは「明治天皇のすり替え説」だが・・ 22

昭和天皇は「東洋王道」を、捨て、「西洋覇道の犬」を選んだ 24
 
   関東軍が満州制圧を狙って、張作霖を爆破した(=満州某重大事件) 24

   帝国陸海軍のトップは、名実ともに天皇であった 26

   国務と統帥が、天皇の国家統治の二つの大権であった 28

   昭和天皇の叱責により、田中内閣は総辞職し、田中義一は急死する 30

   満州事変を戦った関東軍に、「朕深くその忠烈を嘉す(よみす)」との勅語が 32

   日本国民の大多数も、当時は、関東軍の忠烈を喜んでいた 34

   日本は、「東洋王道の牙城」ではなく、「丙洋覇道の犬」であり続けている 35

帝国陸軍は、「中原の鹿」の追い方がまずかった37

天皇家は、北支の伯族にして、扶余と百済の王家なのだから・…-37

帝国陸軍は現地徴発を断行し、中国戦線におけるタブーを破った 39

『記紀』の原作は、新羅の舎人親が唐に提出した報告文書 42

百済王の道鏡や桓武天皇らが、『日本紀』をもとに『記紀』をつくった 42

秦始白箒はバクトリア王ディオドトス、兵馬俑はペルシア軍団 46

天皇の大権が制約された江戸時代と戦後、目本は繁栄した48

日本は英米と同盟を結んでいるとき発展したのはたしかだが.……48

天皇の権力が制約されたときも、日本は繁栄している 50

第二章 明治維新で北朝から南朝へ

徳川家茂、孝明天皇は、ともに毒殺か 52

鹿島昇は柳井市を訪れ、田布施町麻郷に大室近祐氏を訪問した 52

山岡荘八は徳川家茂毒殺説を、ねずまさしも孝明天皇毒殺説を 55

違勅調印により、尊王と撰夷が結びついた57

維新前夜、北朝から南朝へと、明治天皇がすり替わった? 59

皇妹・和宮と将軍・徳川家茂の婚姻により、孝明天皇はごく近い親戚に 59

第二次長州征伐敗北直後、一四代将軍・徳川家茂は大坂城で急逝 60

孝明天皇は徳川家茂、会津藩主を信任する頑な攘夷主義者であった62

孝明天皇から明治天皇へと路線が一八○度展開し、明治維新が成立している 63

睦仁親王と明治天皇は、似ていない64

孝明天皇は、岩倉具視が毒殺したのか?66

八八卿列参事件により、岩倉具視は辞官落飾のやむなきに至る66

重要な貴人の暗殺は、東洋ではごく普通のことである68

伊藤博文とは、何者だったのか69

伊藤博文は、二二歳までは士分ではなく、数多くの違法事件に関与していた 69

吉田松陰の松下村塾とは、どういうところであったか72

鹿島が整理した吉田松膚の三つの理念74

一、長州藩が匿ってきた大室天皇による南朝革命論74

二、徹底した民族主義と侵略思想76

三、部落の解放(これを全アジアに広めようとしたのが大束亜共栄圏) 78

  
孝明天皇は、伊藤博文が刺殺したのか? 80

幕末に、暗殺の実行部隊に忍者が選ばれるのは自然なことであった80

伊藤の刀剣趣味と忍者刀(『明治維新の生賛』より抜粋) 82

宮崎鉄雄氏による決定的な証言85

第三章異端の歴史家の素顔

一八歳で徴兵検査を受けた年に、終戦を迎えた 90

一〇年近く弁護士をやったあと、「天皇制の研究」を思い立つ92

国史もそこそこに、いきなり「韓国の歴史」の研究に取り掛かる93

『倭と王朝』が大評判となり、貴重な韓国の古文書類を託される94

『桓檀古記』邦訳は韓日両国の宝 96

古史古伝学者・吾郷清彦も『桓檀古記』全訳を激賞 100

スケールの大きな「鹿島史学」を広めるには、短すぎる一生であった 104

第四章「倭人=日本民族」ではない

『バンチェン/倭人のルーツ』で、世界の古代史を覆した 106

一九六七年、農耕文明の発祥地・バンチェン遺跡が発見された 106

縄文時代の初期、彼らの一部は日本列島に移住した 107

超古代の太平洋文化の発展が、世界の文明を生んだ 110

「アトランティスからやってきた軍隊」とは、バンチェン人のことだった 113

エジプトの古王朝人もバンチェン人であった 114

前四世紀の地図に、北米の東側、南米、南極まで描かれていた 118

新羅天皇家以前のすべての歴史を抹殺するために、『日本紀』が書かれた 121

神武以前に天の王朝が日本列島を支配していた 121

邪馬台国は、伊都国、多婆羅国、安羅国の諸王が神武の妻・卑弥呼を共立して建てた
123

日本に派遣された舎人親王が、日本総督を天皇として『日本紀』をつくった 125

バンチェン文明が、東アジア・インド・オリェント文明を結んだ 126

漢字は、シュメール人(殷人)の殷字がルーツ 126

倭人は、東アジアのみならず、オリエント世界ともつながっていた 128

殷人の祖地はメコン河の流域 129

第五章 驚異的な倭人の大航海、大遠征

エジプト王朝のファラオたちは、海を越えて交易・遠征を行っていた 134

『史記』は、バビロン史の漢訳だった 134

エルサレムのエブス人は、海の国カルデア人の子孫とも関係があった 135

前一三世紀、エジプトはインド洋を渡って、南アフリカやスマトラヘ 136

混血で赤紫色のフェニキア人誕生 138

カナンの地の豊かさは、多くのイスラエル人を虜にした 141

カナンは、パレスチナおよび南シリアのあたり 141

カナンの地と宗教と文化は、ユダヤ教にとって脅威であった 143

地中海東海岸のフェ二キア人は、紀元前に米大陸にまで到違していた 145

東表国(=九州)は、ソロモン王のオフィルであり、タルシシではなかったか 145

フェニキア人が、縄文時代終期に縄文農業を伝えた 147

殷はイシンの漢訳で、ヒクソス系エブス人であった 148

重藤での製鉄が、「弥生時代は五〇〇年遡る」の決め手である 150

タルシシ船団は、紀元前にアメリカ大陸にまで到達していた 152

東表の本拠地はボルネオ酊部、倭人の祖王はナーガ族の王カーリア 155

『旧唐書』には、「倭国には神代文字があった」と記されている 155

東表の本拠地は、ボルネオ南部の八河地帯か 158

パララーマが伐ったナーガ族の王カーリアが、倭人の祖王だった159

第六章古代中国は、民族の堆塙―――――――――――――――――165

秦はバクトリアの植民地、夏王のモデルはハムラビ大王 166

秦国は、バクトリア=大秦国(始皇帝の本国)の植民地であった 166

『史記』に出てくる夏王は、ハムラビ法典で名を残したハムラビ大王 173

いまこそ大事な、鹿島流「歴史の学び方、考え方」175

殷という国は存在せず、殷墟はカルデア人の海賊.(貿易)基地跡 179

殷という国家が中国に存在したという証明は、いまだなされていない179

殷墟は、イシンの貿易を支配したカルデア人のシナ海賊基地の跡 180

周はアッシリア、段はイシン 183

司馬遷、司馬遼太郎の著したものは、史実ではなく文学作品(創作) 183

アッシリア(周)がイシン(殷)を滅ぼしたことにした 184

漢民族は「すべて黄帝の子孫」と信じているが、黄帝は架空の人物 186

古代中国には、現日本人のルーツ複数を含め、さまざまな民族が入り乱れていた 189

孔子はエリヤ、孟子はアモス、列子はプラトン、荘子はアリストテレスがモデル 189

秦国滅亡後、弥生時代の日本へ渡来し、吉野ヶ里に倭奴国をつくった 190

神武に国を譲り、大和に移った秦王国=伊勢国と倭国が合体して、日本国となった 192

古代中国には、実にさまざまな民族が入り乱れていた 193

『古事記』に、目本にいないワニが登場している 195

『古事記』の「因幡の白兎」に、なぜ日本にはいないワニが出てくるのか 195

ワニだまし説話に似た神話が、アイヌの叙事詩『ユーカラ』に出ている 197

中国にもワニだましの説話がある 199

スマトラ、ジャワ、ボルネオ、マレー半島では、兎がネズミジカになっている 201

青銅または鉄製の剣を持っていたスサノオは、オリエントの人 204

中国ほどにはわかっていない、古代インドと目本の交渉史 206

大物主命神話の原型は、インドの『ラーマーヤナ』の「猿の橋」 207

ワニだまし説話とモーセが海を渡った説話の対象神は同じ 208

神武東征の猿田彦は、『ラーマーヤナ』の猿の大群 210

第七章『旧約聖書』にも原典があった―――――――――――――213

バビロンの教典が、前三〇〇年ごろにギリシァヘ 214

『旧約聖書』のオリジン(原典)は、バビロン神話である 214

バビロンの教典「ベルの目」は、前三〇〇年ごろにギリシアヘ 215
「ベルの目」の語り手は、海に住んでいた蛇人問オアンネスであった 217

中国史もバビロン史をモデルとしている? 218

中国史の黄帝以前の歴史も、バビロン史がモデル? 218

海人マヤ(植民者)オアンネスの伝説 219

司馬貞が追加した『史記』三皇本紀は、古代オリエント史に正確に対応 221

第八章 差別の原点を明らかにした『日本王朝興亡史』――――――225


東アジアには、目鮮同祖、目中同祖ともいうべき大過去が存在した 226

先王朝の歴史が消され、神武天皇即位の年が皇紀元年とされた 226

光明皇后は、唐(藤)の不比等の娘であると署名 229

チベット仏教のパンチェン・ラマは、バンチェン文明の後継者 231

新羅の朴、昔、金の王族たちは倭人であった 232

新羅花郎軍団の「朝鮮式山城」は、西日本各地に二一ヶ所も現存している 233

木村鷹太郎による『論語』と『旧約聖書』の同一性(『旧約聖書日本史」より)235

孔子とエリヤについては、『旧約聖書』と「魯世家」に同一内容の記述がある 235

木村は、『論語』との比較から『旧約聖書』と日本民族の関係も洞察した 236

陳立夫の『中庸』と『バイブル』の同一性の指摘(『四書道貫』より) 238

提造の日本史―――広橋興光氏の証言 245

「捏造の日本史」を明らかにする広橋興光氏の八証言 245

「藤原氏は二系統あり、中国系の方が朝鮮系よりも威張っていた」を検証する 247

藤原鎌足はつくられた人物であった 248

『藤氏家伝』の嘘を、『弾左衛門由緒書』が暴いている 251

秦氏→藤原氏→弾氏の系譜(『弾左衛門由緒書』弾直樹著より) 251

川瀬勇は「左衛門はユダヤ人シモンの訳」と指摘(『日本民族秘史』) 254

秦人の亡命者・猿田彦は、神武の九州侵入により東へ移動 256

猿田彦は、中南越の苗族を率いた秦人の亡命者(『水尾大明神木土記』より) 256

神武の九州侵入により、伊勢都彦=猿田彦は東へ移動(『伊勢国風土記』) 258

失われた古代ユダヤ一二支族の行方 260

徐福の船団が、弥生時代の日本にユダヤ文化を持ち込んだ 260

古代ユダヤ一〇部族のうち、八部族と一支族は口本に来ている 262

ナフタリ族、アシェル族、ベミアミン族は、日本には来ていない267

『三郡誌』の荒吐族は、駕洛国の金氏と狗奴国(沖縄)の朴氏の子孫たち 268

南朝の逃亡者をかばったのは「秦王国」の後裔たち269

 あとがき 272

 鹿鳥史学に基づく『新説・古代史年表』 276


 (目本史のタブーに挑んだ男)あとがき

 日本人が広い意味で中国民族のなかの少数派であることを認めて中国を助けようとするのと、中国民族とは関わりのない、日本列島に生まれた神聖民族だと自惚れて侵略するのでは、結果として、天と地ほどの相違がある。前者の場合には、中国に古くから伝わる「中原逐鹿」という理念が生きるのであるが、そのためには天皇は北京に住み、中国人になりきらなければ中国人を支配できないし、もし中国人になりきれば、またたく間にその政権は官僚主義が横行して腐敗してしまうだろう。

 一つの大陸に十数億の人民がいれば、その統治にはどうしても強制が必要となるし、その強制に対抗する力も巨大なものになるであろう。ジンギス汗の成功に比較すれば、日本の挫折の理由は明らかである。要するに、日本は同じアジア人でありながら、自らを神聖民族としてアジア人を差別したのが失敗のもとであった。

 昭和三九年(一九六四)七月、社会党の佐々木更三たちが北京に毛沢東を訪問した際、「日本は戦争中、中国を戦場として中国人民に多大な損害をもたらして申し訳ない」と言ったところ、毛沢東は、「日本軍国主義は中国に大きな利益をもたらした。なぜなら、中国国民に権力を奪取させてくれたからです。皆さんの皇軍の力なしには、権力を奪うことは不可能だったでしょう」と言ったという(『毛沢東思想万歳』)。

 毛沢東が「皆さんの皇軍」と言ったのは、皮肉たっぷりであるが、(自称)社会主義者の佐々木たちがこれに抗議した形跡はない。

 しかし、紅軍(中共軍)が解放したシナ12億の人民が、果たして独立の幸福を得たか。人民が「思想の自由、生活の自由」を手に入れたか。けっしてそうではない。文化大革命のとき、毛沢東は抵抗する人々を生きながらにして肝臓を抜いて食う蛮行を許したし、天安門事件の際の人民解放軍は、無抵抗の人民と学生たちを戦車で踏み潰し、3歳の幼児を撃ち殺したうえ、それに抗議する母親をも射殺した。

 天安門広場は、白由を求めて立ち上がった人民を虐殺する広場となり、中華人民共和国は、改革解放の掛け声に乗って都市に高層ビルを林立させ、公害垂れ流しの経済成長を優先させ、結果、貧富の差が極端に広がり、まさに戦国時代のような様相を呈している。中国人すべてが―――共産党員さえも共産主義を捨てなければ中国の未来はないと知っているのに、とっくに建国の理念を破棄した共産党は戦車と大砲によって人民を支配しているのである。中国の歴史を振り返ると、この国には国民を弾圧しない政権は生まれたことがなかったのであるが、今や中国は大きな「歴史の節目」に差し掛かっているといえるであろう。

 第二次大戦で、日本はアメリカに敗れたという。しかし、それは正当ではない。日本は世界を敵にして敗れたのである。アメリカは戦後、中国・北朝鮮の連合軍と戦って引き分けたが、そのあと中国が支援するベトナムに敗北した。第二次大戦のとき、もしも日本がアジアと連帯してアメリカと戦っていたなら、けっしてたやすく敗れはしなかったであろう。日本とドイツが敗れたのは、日本人とドイツ人が弱かったからではなく、最高指導者の水準があまりにも低かったからに過ぎない。

 このような歴史の教訓を生かして今日求められるのは、かつて太平洋やインド洋に雄飛し、アジアに文明を伝えた「倭人」の栄光を回復することであり、それによって自覚される「太平洋民族との連帯アイデンティティ」ではないだろうか。やがて地球上に世界連邦が誕生し、すべての民族アイデンティティは発展的解消をとげるであろう。そのためには多くの試行錯誤が必要であり、それを乗り越えるために、われわれは過去の栄光を忘却してはならないのである。本書で明かされた「鹿島史観」の全貌が、読者の関心を呼び、広く国民に伝わるようになれば、泉下の鹿島の霊も浮かばれ、人類の未来に明るい灯を添えてくれると信ずるものである。





(私論.私見)