ホツマツタヱの教える哲理、日本思想考 |
(最新見直し2013.08.28日)
「ウィキペディアのホツマツタヱ」その他を参照する。
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「ホツマツタヱの教える哲理、日本思想考」をものしておく。 2013.8.27日 れんだいこ拝 |
【ホツマツタヱの教える哲理考】 |
【ホツマツタヱの教える日本思想考】 |
【ホツマツタヱの教える哲理、日本思想の由来考】 |
ここで「ホツマツタヱの教える哲理、日本思想の由来考」をものしておく。恐らく、こういう問いをする者は、れんだいこ以外にいないだろう。れんだいこは、「ホツマツタヱの教える哲理、日本思想が何ものか」の次に「そういう哲理及び思想がどのようにして生まれてきたのか」に関心がある。未踏の分野なので追々に書き付けていこうと思う。 |
「神の数学ホームページメニュー 」(「「神の数学」・研究・検証」) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
日本神道の原郷としての縄文神道(原始神道)の中にあるものこそ本来の「古代の叡智」である。最早我々の文明は破綻寸前であり、新しい手法を求めている。今、我々は温故知新の故事に倣ってもう一度過去をさかのぼり新しい真実世界の基本原理を探し求めなければならない。 |
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① 古神道に封印された「古代日本の真実」を求めて(1) …2012年2月上載 ② 古神道に封印された「古代日本の真実」を求めて(2) …2012年3月上載 ③ 古神道に封印された「古代日本の真実」を求めて(3) …2012年4月上載 ④ 古神道に封印された「古代日本の真実」を求めて(4) …2012年5月上載 ⑤古神道に封印された「古代日本の真実」を求めて(5) …2012年6月上載 ⑥古神道に封印された「古代日本の真実」を求めて(6) …2012年7月上載 ⑦古神道に封印された「古代日本の真実」を求めて(7) …2012年8月上載<最新の記> |
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古神道に封印された「古代日本の真実」を求めて(1) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
日本に存在した先史時代、すなわち神々の時代の知の遺産とは…!!? そもそも古神道とは縄文神道とも言い、密教・仏教・道教などの外来宗教の影響を受ける以前の神道 のことであり、純粋な日本民族の意識が遥かな年月をかけて培い、育て上げて来た自然にまつろう叡 智の集大成と言えるものである。しかし、それは甚だ不幸な出来事により失われ、途切れてしまったの であるが、歴史は一切そのことに関しては何も言わず口を噤みつづけて知らん顔しているだけである。 心ある者もいるではあろうが、恐らくは古代日本に存在した叡智の姿は今ある西洋科学知とはまったく 異なった姿を持つものである故に言い出すことが憚れるのであろうか、それとも未だ誰もその事実に気 がついてはいないのであろうか…?。私はいぶかしむ。 ここにそれを証言する一つの古代文献がある、それは今を去ること1400年くらい前に聖徳太子が記し たとされる古代の書、すなわち古代日本の歴史的な書物『先代旧事本紀』である。そこには確かに不 可思議な言葉、すなわち「数」に関する意味不明な言葉がずらりと並んでいるのである。それは人類史 上極めて優れた頭脳を持つと自賛しているあなた方現代人でも恐らく目を疑い、即否定するばかりの有 ってはならない言葉の群れである。 それゆえに現代では打ち捨てられて誰も顧みようとはしない。恐らく ,あなた方もそれらの不可解極まりない言葉の数々には、ただただ呆れて言葉も出ないはずであろう。だ から、江戸時代の学者達もその不可解さに大騒ぎをし、その結果幕府は発行禁止の処分をした曰くつき のものである。その結果すべては偽書として片づけられ、荒唐無稽な偽作文書として捨て置かれ、その まま現代に至っているのである。その名は『先代旧事本紀』の中に収録されている「神文傳(かみふみの こととぎ)」と言う不可思議な言葉を持っている記であり、一切は不可解な「数」にまつわる文言なのである 。 さあ、見るがいい、読んでそこにある事実とその真実をあなたの目でしっかりと確かめるがいい。これら は日本の古代文書からの引用そのままであり、古代の学の真実の確かな答を持っているものである。こ れをして昭和初期の学者達は「数が物言うなんて馬鹿げた話であり、到底信じることなどは出来ない。ま さに狂人の戯言であり、誰かが面白く、おかしく捏造した単なる偽作文書である」と言って見向きもしなか ったのである。しかもその流れは今も延々と続いているのである。要するに、歴史の真実を解する頭脳は 当時そのままであり、一切進歩発展はしてはいないと言うことである。当時の知的水準、すなわち、もの を見る目の度合いと現在のそれの間には格段の差があり、当然見る目もずい分変わっていると思われる のであるが…!。今のあなたはどう感じるのであろうか、この二十一世紀と言う新しいミレアムな時代に 生きるあなたはどのように感じ、どのように思うのであろうか…。 この「神文伝(かみつふみのこととぎ)の内容はあまりにも常識外であり、それゆえ解釈も叶わず今ま であまり人目を引くこともなかったものである。それを一つ紹介しよう。 |
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神文傳(かみつふみのこととぎ) ●「学(まなびのみち)」はここに始まる。その言(のたまい)は数(かず)にあり。しかも数の道は理(ことわり)を含 む。その 理(ことわり)は玄(ふかき)を有(たもち)て在り。しかし、人はこれを知らじ。これ先天(さきのあめみよ) の傳(つたえ)なり。 ●「数は天、地、神、人、物の法(のり)を総(す)べ、しかして萬法(よろずのり)の根(おおね)となる。故にこの 文、その 音は数によさす。これ先天の理なるのみ」 ●「天皇(すめらみこと)はこの傳(つたえ)を得(さとりえ)たまい、聖人(ひじりびと)に請(まわし)たまい。聖人はも って その密(みふかさ)を察(さとり)たまひ、神代の数の音(こえ)をもちて、人代(ひとのよ)の義音(よきこえ)と なしたまい、しかして理(ことわり)に合わせ章(つづり)をなされたまう。その学(まなび)は明らかにありて、人 これを知得(さとら)ん。これ後天(いましよ)の傳(つたえ)なり。 ●「中なる……の字(ふみ)は天上(たかあまはら)の数なり。その詞(ことのは)傳はらじ。下の……の字(ふ み)は、 黄泉(よもつくに)の数なり。また傳はらじ。 ●「これを以ってこれを思うに、神文(かみつふみ)はフトミタカラなり。何れの世、何れの人がこの文(フミ= 書いたもの)を宗(たっと)ばざる。この道を学ばざらんや。 ……臣、大連の秦河勝、神文の傳を敬て白すこと 璽れり。 以上、『先代旧事本紀』に収録されている「神文傳(かみつふみのこととぎ)」より…。 如何であろう、何回も読み直しその素晴らしさを“心”で感じてほしいものである。、 《学びの道は「数」にはじまる、数は天、地、神、人、物の法(のり)を総(す)べ、しかして萬法(よろず のり)の根(おおね)となる》。 何とまた意味の深い驚くべき言葉の現れなのであろうか。学者たちはこれを読んで心が動かされること はないのであろうか…?。 これははっきり言えばかのピタゴラスが言った「宇宙は数でつくられている」と全く同じ意味を持つ言葉 と言ってもいいものである。いや含まれる概念、意味するものはさらに大きく、もっとストリクトで、甚だ正 確な内容を持つ言葉と考えてもいいものである。西洋の科学者達は今でもこのソクラテスの言葉を金科 玉条として日々自然探求に明け暮れている。それを代弁するのが現代理論物理学の第一人者であるイ ギリスのステ-ブン・ホ-キング博士である。彼が初めて世に出た時の言葉には「宇宙は全て「数」で説 明が出来る…」と言う言葉があったと確か記憶にはある。それほど「数」は威厳ある存在と見られ注目さ れていたのである。 現代的な言葉にすると次のようになるのであるが、今までの学者たちは誰も気にする者はいなかった のである。我が国日本ではそんなことを言うものならそれこそ気狂い扱いである。誰も相手にされないの は必定だからである。何だろう、この違いは…?。 ましてや、古代文献など引っ張り出して来ようものな ら、そんな古代の言葉、学も定まらない古い時代の下らない書物を相手にしているとはおおたわけそのも のであると叱咤されるだけである。若し、その内容が到底理解の出来ないものなら、即、無視であり、ま た、それが現代の知に即しているなら、そんなことはあり得ない、これは後代の誰かがつくった偽書であ ると断ぜられ、そこでお終になるのが常である。 何と、そこにあるのは驚くべき前代未聞の言葉が並び、それは現代知のフレ-ムを覆さんばかりの由 々しい言葉である。何とそれらはまさしく古代ギリシャの哲人、聖プラトンがいみじくも呟(つぶや)いてい た言葉を彷彿させるものであり、明らかな先史文明の知の響きを感じさせるものである。それはすなわ ち、「遥か遠い古代に存在したアトランチス大陸には素晴らしい真理を持つ「哲理数学」があった。 しかし、今ではそのすべては失われ、忘れられてしまった」と嘆いていた彼の言葉の真実性を裏付け る確かなものと言えるものでもある。何と、今の日本にもそれらの証拠となるものが脈々と伝り、秘かに 真実を告げていたのである。それはまさに誰も予想もしなかったことである。何と言うことであろうか…!!?。 「神の数学」とは……《学問の道とは「数」に教えを乞うことが必要である。なぜなら、「数」は天、地を始め宇宙万物の法則を操り、すべてを統治して納めているもの、すなわち、あらゆる法則の生みの親、すなわち「数」はあらゆるものの大元となり、すべてを導き納めているものなのである》。 まあ、このことは一応さし置いてこれら古代の文を現代風な言葉に直して見よう。
●「学(まなびのみち)」はここに始まる。その言(のたまい)は数(かず)にあり。しかも数の道は理(ことわり)を含む。その理(ことわり)は玄(ふかき)を有(たもち)て在り。しかし、人はこれを知らじ。これ先天(さきのあめみよ)の傳(つたえ)なり」。
すなわち、ここにあるように、祝詞「ひふみ天地の数歌」とはこの地球自然界の創生順を高らかに歌っているものであり、その発生の順が言葉で綴られているのである。恐らく太古の知者が嵌め込んだ巧みな言葉の業と言うべきものである。おそらくこの二重言葉のことを称して後代の人々は「言霊」と呼んだのではないであろうか。確かに、これは世界にも類の無い恐るべき言葉のテクニックであり、まさに「言霊」=「裏言葉」の証言と言うべきものである。これらの証言は確かに岡本天さんの言葉にもあるはずである。 |
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古神道に封印された「古代日本の真実」を求めて(2) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
「魔方陣」と『神法陣 (ヒフミ法陣)』、 そして『神の易』の秘密を語る (NO1)
さあ、一つ、このあたりで長年の懸案だった「魔方陣」と『神法陣』について述べて置くことにしたい。考えて見れば、本来、「魔方陣」は日本に起源を持つものであり、古神道の流れの基本に据えられるべきものである。爾来より、古代文献にはそのように記述されてはいるが、誰も信じようとはしない、逆にあるまじき偽書として国家やマスコミが激しい攻撃を加え、葬り去ろうとさえした時期があったのである。 要するに、おそらく日本を去る時、単なる「サンプル」を伏儀・神農あたりが持ち出したものか、それとも日本滞在中に聞いた風聞を元に、帰国後自ら作ったものか、そのいずれかであろう。なぜなら「魔方陣」の秩序そのものが実に不安定であり、そこには何らの「自然の真実」「天の知」等は一切見出すことは叶わないからである。いや、ただ人為的に数を並べ替えたものなので、あるべき自然の真実は失われて完全なる形骸と化してしまったものである。
《太極の証》
さあ、この『太極図(ひふみ九九表) 』がいかいして「両義」、「四象」、「八卦」へと本質(DNA)を失わず分化し、しかも、分極性を持って歩を進めて行くのかを見てみることにしょう。 〔1〕その概要を見てみよう 【太極】…… 未だ分化せずに、混沌の状態にありながら、原始的な陰陽の形態、未完の陰陽を示す。 (混沌にあってもすべては0の本質を持ち、全体としての本質は0である) 【四象】…… 大いなる上下左右の陰陽の変化の始まり。四方が対峙して変化を競う。 〔2〕その仕組みとは…?。 ここにあるのはまさに「神の芸術」の表れであり、「神の意志」の存在の記録である。 ≪両義≫ 「ひふみ九九算表」、すなわち、太極図を真ん中から切り裂き分断する、するとその切り口から数がこぼれ落ちる、その数を拾い集め加算する。その上でもう一方も同じ処理をして比べて見るのである。すると、驚くなかれ、右の陰相は天から地に流れ、左の陽相は地から天に流れると言うお互いが反相の状態で出現し、それぞれが抱き合って目の前で弥栄を歌いだす(本質0になる)のである。すなわち、これが「両義」の本来の真実の姿である。 更には両義を真ん中から切り裂き、こぼれる数を拾い加算する、するとそこには「天から地への流れ」と「地から天への流れ」が生まれるのであり、更には「右から左への流れ」、「左から右への流れ」が相呼応して陰陽の姿をつくって四つの陣が対峙するのである。それら四つの陣(四象)はそれぞれ0の本質を持って秩序の通りに流れて完成に至るのである。 これほど美しい調和をもった「真実の世界」が他にあるであろうか…!?、すべては「ひふみの数」で構造化されているものである。すなわち、各四象を更に真ん中から切り裂いて、切り口からこぼれ落ちる数を加算する。すると、そこには8ヶの陰陽が現れて、相対的な布陣を構える図が出現するのである。そこには8ヶの数列が本質0を持ちながら、相対的な陣を張って対峙している図が現れるのである。 すべては見事な「神の作品」であり、素晴らしい「神の化神の図」とも言うべきものである。我々がその解明の一翼を担うだけでも、まさに光栄の至りであり、至福の至りと言うべきものである。 心静かに上述した言葉の通りに解いていってほしい、何も難しいものではない。素直になれば小、中学生にでも解けるものである。ただ、あなた方は「易」とは不可解なものであり、難しいものと最初から考えているから解けないのである。 さあ、明日への希望を掲げて、見事「神の易」を解くがいい、これらは古代の日本に起源を持つものである、我々日本民族が解かずして、誰が解き得るであろうか…!!?。 私はサジェストを与えるだけに止め、敢えて本性、本筋は明かさない積りである。何故ならば、これは「神の真髄」の部分であり、やんごとない神知のスト-リそのものなのである。出来る限り自らの直感と洞察力を用いて、この絵(太極図)を咀嚼して内蔵されている「天地の理」をひも解き解明の限りを尽くしてもらいたい。 「神の数学」をここまで会得したあなたがたの知を持ってすれば、おそらく軽々と正しい答えを手に出来るはずであり、更にはそれを反芻してまことの真実を見出すであろう。 ただ、読み方、解き方を口授し、教えるだけでは、何となく不信感が残るであろう。よってここに結果として「八卦の伝え」の数字を少しばかり残して真実の証としたい。出来ればこれらを一つの手掛かりに歩を進めていくがよかろう。 とにかく、自分の手と目を用いて心で考えることである、なまじ他人の手と口を当てにすれば己の心は陰るだけであり、だんだん錆ついて動きを失うことにもなるのである。どうも現代日本人は西洋科学文明を学び出してから、そのような傾向にあるように思える。 何と、この「八卦の図」に現れた縦と横の数字は完全な「神の意思」を持った数字の群れと言ってもいいものである。そこにあるのは決してランダムな数などではない、そのあたりを逐一順序に沿って調べてみると、そこに間違いなくは大いなる宇宙の意思(神)が存在していることが自然々に解ってくるのである。 真実に目覚めるためのいい機会である、そのあたりを十分に探索・検証し、学んでもらいたい。 そのあたりの一切は次の「八卦の図」の検証仔細あたりを見ながら心と魂で理解すべきである。
…『[魔方陣]と「神の法陣」』(№3)より】 何と、驚くことには、「陰」と「陽」の相である「縦の数列」と「横の数列」はまったく同じ数を示しているではないか…。まさにここには3456の4数が正しい秩序をもって並んで、何かを囁いているのである。 また、この3456のΣ=18であり、本質は0である。その位置関係を見るとそれは「ひふみ数、0123456789」の中央と言うやんごとない位置を占めているのであり、まさに、神の座にある「神の数」の現れであることが判るのである。
…… 数学幻視考「魔方陣」と「神法陣」(1)、(2)、(3)より ここでよく見てほしい、ここで古神道の天地物語を考えてほしい、するとここに現れたのは神々を生んだとされる中心の神「天の中主の神」である。するとその前に御座する012は「カミムスビの神」であり、後ろに鎮座するのは「タカミ結の神」ということになる、本当なのであろうか…。ではその証を示すためにこれら二つの神々を結んでみよう。 012+789Σ=702(神算法) Or 801(計算機) → 9 → 0 おお、何と言うこと…、 この3神は確かに無に還り、身を隠されたことを数は証しているではないか…!!。 ここに改めて天地開闢の大神である造化三神が揃い踏みし、次なる神々の九十九神を生み出すことになるのである。もはや、あなたにはお解りであろう、そう、その九十九神とはこの大神太祝詞の後ろにひそかに坐する「ひふみ九九表」の神々であり、そこに坐す陰と陽の対の神々である。 古神道ではこれらの陰陽の対の神々を夫婦(めおと)と捉えてそのように扱っていることからもその真実はわかるであろう。 あらためて考えると、この奥儀祝詞の申すことには嘘偽りなどは一切ないことが判る…!。今まで陽の目を見なかったのは知に疎かったからであり、真実の知に目覚めなかったからである。まさに日本の神々の物語は万々歳であり、弥栄であり、弥栄の限りである……!!!。 あなかしこ…、あなかしこ…!!。 |
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古神道に封印された「古代日本の真実」を求めて(3) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
「魔方陣」と『神法陣 (ヒフミ法陣)』、 そして『神の易』の秘密を語る (NO2)
論より証拠、この数千年間、誰かこの3次の魔方陣から易の基本である「太極」、「両義」、「四象」、「八卦」を引っ張り出した者がいたであろうか、NOである。要するに、すべては単なる風聞であり、数千年前の知の亡霊に惑わされて右往左往している人々の頼りの無い姿があるだけである。
まことに「魔」と「神」は好一対、すなわち偶の仕組みを愛してやまない「神」存在が伺われるものである。
しかし「数」だけは別で、常に真実を囁き、真実のみを明かしてくれるものである。しかも、時代や人の心などでは決して動かされず、常にて心を踏みにじるようなことはないのである。
また、時を同じくして、古神道の中から失われて幾久しいとされる「カムナガラの道」の本璽言葉やその内容さえも「神の数学」により明らかにされたのであり、それにより日本神道は単なる宗教の類ではなく、遥か超古代に存在した超科学・超哲学を封じ込めた「タイムカプセル」とも言うべき存在であったことが今ここに来て判り始めているのである。 もうお解りであろう、すべては『太極』から始まった「陰」と「陽」の分極こそが「易」の動きであり、「陰」と「陽」の変化により自然万象の開花が始まり、次々と万展変化してまた最後には究極に還る、それが自然のあくなき動きであり、元化なのである。
陰(○)=0123456780、 陽(●)=0876543210であり、それを結び加算すると…
○+●=0999999990 → 0000000000、すなわち、「陰」と「陽」の場を折り重ねて合一すると0になり、無、空、になるということである。「陰」と「陽」、それらはもともと、お互いに強い力で引き合い、合一しょうとしている性質を持つのである。それはまさに、天然磁石のようにである。なぜ、そうなるかは、現代科学にも未だ答は無い。 もうお解りであろう、すべては『太極』から始まった「陰」と「陽」の分極こそが「易」の動きであり、「陰」と「陽」の変化により自然万象の開花が始まり、次々と万展変化してまた最後には究極に還る、それが自然のあくなき動きであり、元化なのである。 〔両義の説明〕…
陰(○)=0123456780、 陽(●)=0876543210であり、それを結び加算すると…
○+●=0999999990 → 0000000000、すなわち、「陰」と「陽」の場を折り重ねて合一すると0になり、無、空、になるということである。「陰」と「陽」、それらはもともと、お互いに強い力で引き合い、合一しょうとしている性質を持つのである。それはまさに、天然磁石のようにである。なぜ、そうなるかは、現代科学にも未だ答は無い。 〔四象の説明〕 これらの四象を再び、真ん中より分断して、再びこぼれ落ちた数を加算する。するとそこには見事な八卦の象が現れて数をもって
just see→参考リンクはこちら → http://hifumi.busidou.jp/190/m-02.html(メ-ル97)
また、これを言葉で言うとなれば、○は凹の象であり、●は凸の象の状態である。それら二つがピッタリと嵌合することによってすべては「無」になり、「空」になり、「完全無欠」となって無妄へと昇華して最初、すなわち諸元に戻ることになるのである。それが元化(げんか)という自然の流れの姿なのである。 <○+●=◎についての詳細説明は「宇宙次元原理表№27」参照のこと>
さあ、懸命に考えて答を出してほしい…!!。
また、長年かけて培って来た宗教、哲学等の中にも答となるようなものは一切無く、ただ無味乾燥な言葉が漠然と並んでいるだけである。そこにはただ、レトリックな言葉がうわべを飾って人々を惑わしているだけであり、空念仏的な言葉の姿があるだけである。
一体我々は何者であり、何処からきて何処に行こうとしているのか、そしてその目的は何なのか…。一切は未だ流れ流れてやまない混沌とした闇の中であり、未だ暗中模索の最中なのである。恐らくこのままでは100年経っても、200年経っても同じ状態であろう。
さあ、それが大きな人間知上の問題である。一体それは何を表そうとしているのであろうか……!?。
学者だけでは手不足である、どの路地にも市井の学者がいる、町には哲学者がいるし、近所には坊さんも裸足と言う宗教家達も大勢いるではないか、皆で考えよう…!。まさにこれは相手にとって不足ない人類至高の問題であり、「神」の心の探索、自然の行きつく果ての姿と言うものであろう。 <この答となるものは「真実の数理」(№5)にある、参照してほしい> 『神の易』の語る未来の学とは……!!!。 さあ、勇を鼓して「数」の語る「神のみぞ知る真実世界」を垣間見ようではないか、その上で共にそれを検証して見よう…。その結果如何により、やはり、「神の真実」とは易で言う八卦の世界あたりに留めておくべきか、それとも考えを新たにして次のステップまで昇り、あるべき真実を求めるべきなのか、その結論を出さなければならないのである。その真実とは直感的の度合いが深い方には判り、感じの鈍い人には何もわからないものである。ハッキリいえば、本当に心を開いている者にとっては簡単なものであり、直感的に心に響いて論を待たずに納得のいくものと言うものである。お解りかな…!!。
【両義より】 ① +②=○○+●●=(1次元折り<1回折り重ねて>)=横(01234+08765=09999→00000) 縦(01234+08765=09999→00000) ② +④=○●+●○=(1次元折り<1回折り重ねて>)=横(56780+43210=99990→00000) 縦(08765+01234=09999→00000) (ここ両義には「ふみ九九算」の最上位置にある00000…が現われている) 【四象より】 ① +④=《2次元折り<2回折り重ねて>》=横(01234+01234=02468) 縦(01234+01234=02468) ② +③=《2次元折り<2回折り重ねて>》=横(08765+08765=07531) 縦(08765+08765=07531) (ここ四象には「ひふみ九九算」の3番目の位置にある0246813570…が現われている) 知にうずく者は確かめるがよい、それによってまた誰も知らない新たな知の回廊が一つ現われてくるはずである。 一体、ここには何が語られ、何を示そうとしているんであろうか、じっくり考えてほしい。
ここに一つの親細胞があり、それが真ん中からくびれて分裂し、二つになり、それらがまた同じ状態を呈して二つが四つになり、更に八ヶから一六ヶとなる。 その後更に分裂が進んで最後には一体の成体となる。それが自然が作り上げた生命体の荘厳な仕組みの姿なのである。ここまでの仕組みは何も不思議はない、ただ倍々と算術級数的に増える姿があるだけである。 しかし、それと重なって行われる染色体の仕組みにはただ驚かされるだけである。何故ならば、細胞が二つに分裂されると同時にその本質であるDNAはすでに分割された半分の姿から分裂前の完全完成の姿に戻り、すべての機能を全うしていると言うからである。
もっとはっきり言えば、この「神の易」の図は『生命の鋳型』、すなわち、生命の基本構造の存在を語る唯一無二の「神の作品」であり、「永遠の金字塔」とも言うべきものである。 確かにこの「神の易」の天啓図は尋常一様なものではなく、まさに「神の設計図」と言うものであろう。
要するに、古神道においては宇宙自体も細胞と同じように二つに分裂し二つの宇宙が生まれ、それが2転、3転と分裂しながら進化発展していくと語っているのである。 これは「神の易」が囁く宇宙論であり、「数」の物語る宇宙の創生物語と言えるものである。あまり眉唾ものとは思わないでほしい。なぜなら、現在、宇宙論は数多くあってそのどれもが一長一短であり、いろいろな物議をかもし未だ結論は何も出てはいないからである。その中には、次のような極めて有機的で,かつ、意図的な形で進化を図っているような宇宙論も存在しているのもご存知であろうか。 (2)また、チャイルドユニバース論は、宇宙物理学者である佐藤勝彦氏が相対論から導き出したインフレーション理論によるもの で、マザーユニバースがまずあって、そこから別のチャイルドユニバースが次々と芽を出し、生まれるというものである。この芽 を称して「アインシュタイン・ロゼン・ブリッジ」と呼んでいるのである。 これらに比べても「神の易」が囁く宇宙論は何ら遜色のないものであることがわかるであろう。いや、もっと自然的にはあり得るものかも知れない…!!!。 あなた方は御存じであろうか、現在、宇宙と言う極大の世界に関する研究と素粒子と言う極微の世界の研究は完全につながってしまっていることを…。この意味はまさに大きい、すなわち、極大の世界と極小の世界は構造的には相似関係にあると言うことである。 しっかり読み込み、再三再四の反芻検証を行ってほしい、それによりまだまだ新たな世界が開けて、あなたをさらなる夢幻の世界へといざなっていくはずであるから…。 常に好奇心と希望は失わずに進んでほしい。好奇心と希望、それは人間の持つ最高の「神からの贈り物」である。それらが失われた時は人生終わりの時であり、心の力が完全に失われて希望が消えた時に初めて敗北を告げればいいのである。 |
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古神道に封印された「古代日本の真実」を求めて(4) |
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古神道の魂である双祝詞「ひふみ…天地の数歌」と「アイウエオ五十音」の秘密を探る | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
これから古神道の本義を見るのであるが、その前にまずは過去の私の講義の中に今回の本旨と大変関係があるものがあるので、まずはそちらを披露し、もう一度その意味を噛みしめながら、改めて古代日本に存在した天授の叡智の姿を見てもらいたい。 その内容は今回の「アイウエオの秘密」と大変深い関係があるのでもう一度おさらいの意味で読んでもらいたい。少々古い記事ではあるが私にとっては甚だ含蓄を含んでいる懐かしい思い出の記事である。 以下、再掲文である。(部分的には加筆や訂正が加えられているところもあり) 恐るべき言葉、それは古神道の祝詞「ひふみ…天地の数歌」であり、「アイウエオ五十音図」である。この言葉を戯言(ざれごと)ととるか、はたまた真実的な意味合いを天与の福音と考えるかのより、これからの日本の将来、あるいは現代文明の行く末を決定するものである。それらはまさに「天啓の叡智」と言うべきものであり、「神の言葉」と言っても決して過言ではないはずである。 それだけの内容は十分にあるものであり、再考するには十分に値するものである。。 遥かなる古代の秘儀であった「神々の真実言葉」の存在は今では失われてあまり知る人とていない、 要するに、それは日本が大陸よりの侵略者達により完全占拠されたと言う驚くべき事実の存在である。あなた達はそのような歴史は聞いたことがない、単なる絵空事であるとか、想像による架空の物語であるとかのたまい、決して信じることはないであろう。 しかし次の参考事例を見ると恐らくその考えはひるんで、考え込んでしまうであろう。 ② 縄文晩期(紀元前200年あたり、始皇帝が帝国を打ち立てたころ)には日本の人口は7万5千人くらいであり、それが7世紀には450万人以上になったのである。それは単なる自然人口増加では説明が出来ないのであり、そのためには150万人以上の大陸からの渡来者があったと考える必要がある。すなわち、そこには単純比例でも縄文人直系と渡来人と差は1:9となり、当時のすざましい迫害の様相が浮き彫りにされるのである。……「日本の歴史」佐々木高明著より ③ 自然人類学の埴原和朗氏(東大教授)の調査研究によると「紀元前300年から紀元後700年までの1000年間の日本の人口増加は世界のどの民族に比べても異常に高く、自然増加だけでは説明がつかず、海外からの渡航者と言う要素を考えざるを得ないと言う。 ④ 日本列島に押し寄せた侵略人とその子孫は縄文人を駆逐することに専念した。その事情史あたりが 何と、日本の本当の古代史については我々と同様に歴史専門家達も見事なくらい何も知らないのであり、侵略者達、支配者達が作り上げた歴史を我々は正統な歴史と誰もが信じて懸命に学んで来たのである。 それに恐れをなした人民や戦いに敗れた将軍や兵士たちは一族郎党引き連れて国外に逃れようと必死なったことは容易に想像ができる。なぜなら、当時の処罰は厳しくて捕まれば当人ばかりではなく、一族郎党はもとより血族関係の者まですべて殺されたからである。いや、そればかりか、住んでいた家屋は打ち壊され、先祖の墳墓のすべてが掘りあばかれ捨て去られたというのである。とにかく前政権のものは何も残さず完全否定することにより後患を絶つ、それが代々続くしきたりであったのである。 また、あなた方は数千万人の人口の減少とは大げさと思うかも知れない、しかし、歴史書を見ればすべてがうなずけるものである。 例えば、 ① 前漢末の紀元2年当時、5,959万人であった人口が後漢の初期の57年には2100万人まで減少したのであり、僅か50年くらいの間には4000万近い人口が失われてしまったのである。 ② 後漢の最盛期であったDC156年における漢民族の人口は5000万人以上であったがその後、後漢が滅びた頃(220年~240年)の人口は一割強の763万人に激減している。僅かの間に4300万人の人口が失われてしまったのである。 ③ このような人口の大減少がその後の晋、隋、唐、宋の各王朝が交代する度に同じように起こっていたことを知るべきである。 【この数字に誇張があるとは思わないでほしい。あなた方は最早忘れてしまったのであろうか。最近起こった文革では数千万、天安門事件では数百万人の人々が虐殺されていることを…!。疑問のある者は当時の新聞を調べるがよい、今のインタ-ネットからは数字はすべて消されている、しかし、大きな図書館に行って当時の新聞を調べればすぐに解ることである】。 さあ、一方当時の日本の状況はと言うと、その遥か昔から大陸人にとっては最大の憧れの国、すなわち、神仙の住む国、長寿の国として名を馳せていた憧憬の国であったのである。そのあたりについては彼の秦の始皇帝の時代以前から神々の住む国、文明尺度の高い国、極楽世界の夢のような国としてあまたの人に知られ、その臣下の徐福が護衛も連れずに童子数千名を手土産代りに日本に来ていることからも十分に察することが出来るであろう。 現存している当時の古代文書を見ると日本礼賛の言葉だらけ、すなわち「神仙のように長寿で、百余歳の者甚だ多し、天性従順にして治めるを道をもってなす…」とまである。<漢書の倭人伝より> 要するに、日本がそのような素晴らしい国であるとの噂が広まっていたということは、すなわち、国を追われた将軍一族、敗残兵達が一路海を越えて日本に続々と向かったことが容易に推察できる。 この日本占領は単なる推理ではなく、しっかり、古代文献には記されているものである。そこには「神武即位から566年、天皇は新都である三輪を侵略軍達に明け渡し、巻向川北岸の穴師に移られた。しかし、侵略軍は支那や韓国から大勢の学者を呼び寄せ、漢字を知らない万民を奴隷の奴とした。役人たちは遊び、贅沢三昧に暮らしていたので食料が不足した。そこで侵略者達は国中を荒らしまわり、出雲に神宝を求め、吉備から出雲の東に進軍するなどの横暴を極めた。かれら侵略軍の皇都占領で、これまでの平和な日本の縄文文化が弥生文化に大革命されたのである」と……。…<神代の万国史より> 年表を見るとそれまでの天皇の在籍年数は平均60年くらいと長かったのであるが、突然、どう言う訳か一気に一ケタ代の在籍、すなわち、僅かの5,6年くらいで代替わりしているのである。それも七、八代にわたって続いたのである。 考えて見るがいい、今まででは日本は神国であり、決して他の国に侵略され占拠されたなどの事実はあってはならなかった、それが国の基本的な認識方針であったのである。それゆえに、事実を記しているような古代文献等は国や御用学者によってすべて切り捨てられ、迫害されたのである。 さあ、このあたりで私流の歴史の基礎講座は完了しそろそろ本題に入ろう。 なんせ本当の歴史がハッキリ解らなければ古神道のあるべき由来、その本分本性、その姿も解らないのである。 今となっては解き明かす術もない、すべては数千年という時の闇に埋もれて歴史からは完全に消えてしまった存在なのである。なんせ、当事者である神官や長年携わってきた神道研究家さえも完全にお手上げ状態で、ただ閑居してただ時を過ごしていただけである。その報いが来て、現在、神道は完全に国民から見放され危機的状態にあって完全な窒息状態に陥っているのは誰の目にも明らかである。このままでは恐らくあと数十年の命であろう。 それもこれもすべては歴史を改ざんし、偽ってきたことが原因であり、本当の歴史を掲げてこなかったことが原因と考えられる。すべては解らない、行き方知らずの言葉で終わらした結果が今を招いていると言ってもいいであろう。 そこにあるのは余りにも平平凡凡であり、稚児的なものとして誰も顧みることもなかった「ひふみ…天地の数歌」であるが、すべてはそこから始め、その端緒から始まる委細合切のすべてを調査しなければならないと言うことである。 そもそも、「神の数学」とは「ひふみ…天地の数歌」、すなわち、123456789のたった九文字から成り立つ「数のぺ-ジエント」を詳しく検証することにより見出されたものであり、その並びによりすべての「天の理」が開花され、循環的に推移していくことを限りない形で歌っているものである。驚くべきことは、たったこの九文字の中には「宇宙」、「神」、「天地」の真理がしっかり込められていることであり、それをゆくりなく語っているものが、この古神道の太祝詞「ひふみ…天地の数歌」なのである。 この九文字こそは「神」の化身、分身とも言うべきものであるが、それを知らずただ単なる「数字」、大小を表すものとして用いて無限なる「大の世界」を目指して走り出したものが「10進法」、すなわち、「現代数学」の基幹をなす「10進法」と言う計算法なのである。 今はすっかり忘れられてしまったが、本来、祝詞とはすべて「陰」と「陽」と言う双対関係を持っているものであり、その二つがそれぞれが絡み合い、対応し合って深い意味(真理)を歌い上げていくものなのである。その事実が今まではすっかり忘れられて顧みる人もいないありさまであり、それらすべてはある事情、すなわち、上記の日本国大乱によって完全に失われてしまったのである。 <ここにあるコラボ的な数の証言とはこの二つが同一的な韻を踏みながら流れるような形で循環を繰り返していることである。冒頭の方で「アルゴリズム的な数の流れ」と述べたがここでそれを訂正して「コラボ的な数の証言」としたい。その方が現代風であり、理解出来やすいはずと思われるからである。> しかし、それは確かに見かけは簡単明白なものではあるが、改めてその内容を作り出そうとしても、とてもとても人間業では不能なものであり、たとえ巨大なコンピュタ-といえどもただ跪(ひざまずく)だけの無用の長物と化してしまうだけであろう。 まさにそれは単純でありながら美しい形を持って我々を驚嘆のるつぼに追いやり、感激させてやまないものである。 さあ、それらの克明な詳細については来月の記で改めて述べる積りである。すべては3千年来の古神道に秘められていた「神の秘密」であり、異形の知を持つ者達(侵略者達やその子孫)には解けなかったものである。それは純な古代人の血を引いている者のみに響くメッセージであり、遥か古代のDNAを引き継いでいる者のみが感じる懐かしいフィ-リングの響きである。 彼らも恐らくは古代の血(霊)をひく者達であり、淡いフィ-リングの中にかすかな響きを感じていたのであろう。しかし、すべてはそこまでであり、それ以上の進展を見ることはなかったのである。 なぜならば、彼等は現代西洋知を前提に置いて古神道を解こうとしていたからである、それでは駄目なのである。 我々が学の根拠としている現代西洋知、それは自然の響きを取り入れたものではなく、あくまで人間知の上に人間知を積み上げて出来た人間の学問であり、自然の声、その響き等は一切無視して構築されたものなのである。だから自然に関してはまったく手が出ないのである。 もう一度考えて見よう、現代数学と言うものは10進法方式により組み立てられたものであり、人間の日常生活の上では一つの決めごと的とも言うべき人間の間での約束事なのである。人間同士のあいだではスム-スに守られているので問題はないのであるが、いったん人間世界の外に持ち出すと何も機能せず、何も意味を持たないものとなるのである。そのことも知らずに、学者達は人間同士の約束事を表に持ち出して適応させようとしているから事を難しくして解けない、解らない、複雑系であるとかカオスとか言いながら自分達を煙に巻いて誤魔化そうとしているのである。 本当の自然数学、すなわち、自然法を用いている「循環数学(神の数学)」にはそのような誤魔化し類は一切無く、すべては最後まできちんと枠におさまって機能しているものである。そこでは大は小であり、小は大としてすべては調和と秩序を持って循環体をつくりあげ最後までしっかりつながりを保っているのである。それがすなわち、(0=9)と言う自然の理なのである。 改めて言う、古神道の祝詞「ひふみ…天地の数歌」をもって自然を解かない限りすべては水泡に帰すだけである。 まさに「ひふみ…天地の数歌」こそ天地を揺るがすばかりの天地の歌であり、驚くべき「数の極めつけ」を歌っているものなのである。 なぜなら、「神の数学」にて「自然の数学」や「次元の理」、はたまた「自然の序」を解くと、正しい場合にはすべてが0123456780の正自然数の循環をもって現われ、答を示しているからである。まさにその姿は「天地の数歌」の内容を語るものであり、古神道は正しい自然理をもった存在として3千年と言う長い間失われることもなく続いてきたのである。 明治の文明開化以来、祝詞「ひふみ…天地の数歌」は三才の稚児でも知っているつまらない言葉であり、未開の原始宗教の類であると外国の宗教家や宗教団体から嘲笑され、そんなものを大切に崇め奉ることは宗教の名を辱めるものであると強い指弾を受けていたのである。それも、 あろうことか、西洋かぶれの神道家や学者までが神道軽侮をあらわにし、年々祝詞「ひふみ…」の奏上を怠るようになり、それと共に神道の権威はますます地に落ちてきているのである。 恐らく、今では祝詞「ひふみ…」は宮中の儀式あたりで奏上されるくらいであり、殆どは無視の状態であろう。要するに、当事者達は自分達の不勉強を棚に上げて神道の信義を疑問視し始めると言う甚だけしからぬ態度をとっているのである。改めてよく考えて見れば、神官達は数千年という長い間権威を笠に遊び呆け、勢いに任せて人を見下し一切の本義探求をなおざりにしていたのも神道没落の原因の一つと言えよう。 しかし、今更真実云々を求めんとしても最早時遅しであり、すべてはすでに失われて「空ろな言葉」だけが空しく残っているだけである。要するに、ますます信者の足は遠のき、それと共に神道の影はどんどん薄くなって来ているのである。 しかし、ちょっと待ってもらいたい、今ここに来て、何とこの辱められ、疎まれてきた「ひふみ…天地の数歌」が日本神道を救わんとして目覚め始め初めていると言う事態が起こっているのである。それが完全に目覚め、時の声を上げれば、それは完全な逆転劇の姿をもたらすものであり、まさに皮肉な廻り合せを語るものとして大変期待してやまないものである。 なぜならば、今まで散々あざけり、笑いものにしてきた日本の神道の前に今度は外国の宗教がひれ伏すことになるからである。 それほど強いインパクトをもつもの、それが祝詞「ひふみ…」や「アイウエオ五十音図」、更には「カムナガラの道」等の「ぬけがら言葉」の正体なのである。まさに、その姿はまさに神受のものであり、神の手になるものと言ってもいいものである。 今までもこの「アイウエオ」の言葉は由来不明とされ多くの学者達が研究を重ねてきたが皆目正体不明であり、議論が尽きないものなのである。ましてや、祝詞「ひふみ…天地の数歌」にいたっては一切がまったく不明であり、したがって論議の対象にもならず、ただ捨て置かれていただけである。なぜなら、そこには余りにも深い「神の理」が込められ、人の知を寄せ付けようとはしなかったからである。私も偶然により解き放った後にそれを知り、まさに言葉も出ない有様で感激に震えたことを思い出す。まさに、あらかしこである。 さあ、来月からはこれらのすべてを解き放ち、3千年来の古神道の本当の姿、その内容を開いて見ようではないか…。ただし、100%とはいかない、なぜならそこには言葉の壁があり、しかもそれらの中にはすでに失われて幾久しい言葉や発音があるからである。それらをパズルとして捉え、糊づけし、法則をもってつなぎ合わせることにより、本来のあるべき言葉が判り、同時に全体のあるべき姿が甦って来ることになるはずである。その結末の正否を判断するのはほかでもない、あなた方であり、あなた方に託すものである。 さあ、我々現代人は果たして「神の知」の一切を解き明かし、見事、古代人の知と肩を並べることが出来るのであろうか。果たして、現代人の知、それは果たしてに「神の理」を読み取るだけの力を持っているのであろうか。、私にとっても大変興味のあることである。 すべては来月の記で明らかになるはずであり、現代人の知の程度が判明するはずである。 しばし、坐して待たれよ…!。 |
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古神道に封印された「古代日本の真実」を求めて(5) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
古神道の魂である双祝詞「ひふみ…天地の数歌」と「アイウエオ五十音」の秘密を探る (その2)
それは人間知とは少々思考法や表現法が異なるものなので、最初は戸惑い、真実を見てもなかなか信ずることさえも出来ないと思う。しかし、そうかと言っても何も難しいものではなく、素直に解いて行けば誰にでも十分に判るものである。 古代祝詞の双璧の一つである『アイウエオ五十音図』の見せる思いもよらない驚嘆すべき内容、今でも私はただただ畏敬の念で眺めるだけである。そこにある古代の祖達の持っていた驚くべき言葉による「縁(韻)結びの秘密」、それらは世界の暗号史にも残る素晴らしい姿を持つものである、なぜなら、我々の常識を越える知的アルゴリズムを示しながら、まさに唖然とするような驚くべき真理の片鱗を見せ、それを展開しながら見事な「神の業」の存在を我々に見せてくれるからである。 それはまさに言語学の権威である明治時代の山田孝雄博士がその書の中で述べている通りである。すなわち、「『アイウエオ五十音図』は宇宙間の音韻の根本原理を示すものであり、まさしく神授のものと言えるものである。このような図表を作り上げた我ら祖先の偉大なる頭脳を驚嘆せずにはいられない」と…。まさに恵眼の至りであり、真実をついてやまないものである。 さて、思うままに知の才が溢れると自負する方々よ、ならば試しに、ここ『アイウエオ』に含まれる祖達の巧みな文字表現による「あの世」と「この世」の構図を見事に解いて見るがいい。そこには『アイウエオ』で綴る「顕幽の世界」の縮図がしっかりと描かれていることが解るであろう。 それは一般に知られている「いろは」歌の持つ暗号言葉「とがなくてしす」などの個人の叫びではなく、もっと奥深い日本民族の「叡智の叫び」であり、真実を伝えようとしてやまない大いなる知の叫びなのである。それはまた神代文字を消し去り、漢字導入が強制的に行なわれた際に残存した知者達によりひそかに組み上げられた「言霊言葉」の姿であり、支配者達(大陸からの侵攻者)の目から逃れるための「隠し言葉」として用いられていた「言霊」の姿なのである。そこにある詳細説明やその真実の内容については、いずれまた近い中に改めて述べることにしたい。 それは前者、すなわち、「アイウエオ」は顕(この世)に属し、後者「カキクケコ」は幽(あの世)に属することをハッキリ歌っている文字の群れの存在が見えるであろう。ぜひトライして見てほしい。 やる気のある者には大変やさしいことであり、中学生でも十分に解るものである。 このような驚くべき古代の秘密が長い間明らかにされず不明であった理由は学者と言うものは頭で考えるだけで心で考えようとはしなかったからであり、古代人の知は低いと言う先人達の言葉を丸飲みにしてそれ以上の探究を一切しなかったからである。 私は言いたい、古代人の知は我々より劣っていると考えるのは明らかな間違いであり、無能極まりない愚かな考えであると…。そのあたりは是非再考の必要があると常々思っている。 例えば、古い時代の作品である「源氏物語」などを見るがよい。あまり日本人は関心を持たぬが、あれは世界一古い長編物語であり、その繊細な内容は大変美しくて、素晴らしいものであると世界の専門家が賞賛するいわば、日本の誇りである。しかし、日本人は余りにも知らな過ぎる。 自然と和するには心で考えることが必要であり、心だけが触れ得るものである。また、我々が祖達の心を知るには真摯に心で対応し、そのかすかなフィ-リングの存在に心を合わせることが必要である。 ならば、見事心で迫って「アイウエオ」、「カキクケコ」の心を覗いて感動してもらいたい。そこには見事な「顕幽の世界(あの世とこの世)」の姿内容がしっかり描かれ、その存在を我々に伝え心を震わすものである。その巧みさ、その妙、その幽玄な姿や囁きを身近に感じて、感動を味わってもらいたい。 <この四十八音の首音の「ア(天)」と尾音の「わ(地)」を取って「アワノウタ」あるいは「アワウタ(天地歌)」と呼ばれるのである。この天地歌は漢字によってほぼ想像出来るごとく、天地宇宙の実相、事理を具現・象徴しているものである…著者 吾郷清彦記す>。 確かに、今まで古神道の太祝詞。奥儀祝詞として神々に恭しく奉納され、歌われて数千年の間、人々に守られて来たのであるが、そこには大いなる「神の秘密」が隠されていたことなどは今の今まで誰も知らなかったのである。 今回はそれについて述べ、語り置くので心で読みしっかりその業を自らの手で検証してもらいたい。なぜなら、それを知ることにより「天理の妙図」の存在を確かめることが出来、同時に日本神道の素晴らしさを再認識出来るからである。また、あなたの意識は一挙に現世界から離れ、神の意識世界へと入っていくことになるはずである。 そこにあるのは現代科学手法とは全く異なる自然知による巧妙な解法であり、人類にとってはまさに天与の授かりものと言うべき「妙なる手法」でもある。決しておろそかにしたり、無視したりはすべきではない。 なんとそこには驚くべき方法で「宇宙次元の実相」、「あの世とこの世のつながり」が描かれているという不可思議な真実が見出され、我々をして仰天させ、慌てさせてやまないのである。 それはまさに驚くべき「神の仕組み」の表れであり、『ひふみ‥』の心、「天地の理」の真髄を知らない者にはなかなか理解するのは困難なものであろう。それはまことに畏敬すべき「神の仕組み」の一つであり、まさに世紀の「知のスク-プ」の出現と言ってもいいものである。 それをして私は『ひふみ‥』と『アイウエオ』のコラボ的な数の証言と申し上げているのである。 要するに、ここにある『ひふみ‥』と『アイウエオ』のコラボ的な調べの存在こそがまさしくこの二つの祝詞が同時期に揃って存在したものであり、双対の関係にあった祝詞であることの証拠であり、証明となるものである。 何と、このコラボ的な関係を経てはじめて「正しい神の答」、「数が示す驚くべき真実」が見出されるのであり、その事実は誰も否定できない「天の理」として我々を唸らせてやまないのである。 それはまさに神妙な自然の理であり、少なくとも『神』の関与無くしては到底不可能と言えるものである。 ただ、悲しいことに、それを読むのに「ひふみ…天地の数歌」を用いる代わりに「十進法」の数を持ち込んだために、封印が解けなかったことである。それでは駄目なのである、それを解くには「ひふみ…天地の数歌」を打ち込まなければ決してその扉は開くことは出来ないのである。 大体、古神道を解こうとした今までの神道学者と称する者達は大変けしからんと思う、なぜならば、何事も数的な解釈や、あるいは神話学的な追及に行き詰まったりするとすぐに「中国の故事」、あるいは「易」などに結び付けて解釈を濁してしまいたがるからである。たとえば、7、5、3などの奇数を見出し場合、何も考えずにすぐ中国の風習に結びつけ、ただ瑞数(おめでたい数)であるとして終わるなどである。本来は2、4、6…などの偶数と共に古神道の双(左右)の道につながる重要な数と考えて斟酌し、取り上げるべきであるが、誰もそのことについては言及もしない…!!。 とにかく、解らないもの、判断が出来ないものはすべて外国に結び付けることにより、ことをうやむやにすると言う悪い習慣を学者達は持っているのである。恐らく、それにより民衆の方もそれ以上の追及は出来ないと考えていたのであろう。一つの狡猾なやり口、結果の見える詐意的な落とし穴として用いていたようにも感じられるのであるが…。 それが、神道のグロ-バルな発展には阻害をもたらしていたのであり、日本だけの単なる地域宗教として存在に甘んじなければならなかった最大の理由なのである。 その点、この古神道発の「神の数学」は数による真理の表現であり、どのような国の人々にも十分に解るものであり、更に各自の知次第によりどうにでも開くことが可能なものである。
古神道の魂である双祝詞「ひふみ…天地の数歌」と「アイウエオ五十音」の秘密を見る 次の図は『アイウエオ五十音図』に『ひふみ‥天地の数歌』を縦に打ち込んでいった図である。 さあ、考えていただこう、一体どのような展開を見せることになるのであろうか…?!!。 これらは単に「数」を用いたものであり、初期数学である算術的な甚だ簡単な数学と言ってもいいものである。 そのあたりは有名なイギリスの物理学の大御所であるペンロ-ズは次のように述べている「宇宙は整数のみから、組み合わせの作用からつくられている。すなわち、足し算、引き算、置き換え、比、という単純な算術演算によりこの宇宙を創造しているのであり、人間の持っている高等数学なんかはまったく必要としていない」と…。 ![]() |
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さあ、この図をしっかり見て、しっかり読んで、それからしっかり考えてもらわなければならない。これらは この図は『アイウエオ五十音図』に対して『ひふみ‥天地の数歌』を図の右側から縦に置いたものであり、日本古来の読み方に沿ったものである。 (1) この『アイウエオ五十音図』の図外の右に並ぶ、二桁の数は左横に並ぶ数の加算合計数(Σ)である。その姿は上から37,38,39、40、41、となる見事な連続した姿を見せている。また、それらの数を一桁に置き換えれば(Σ=37→1)、(Σ=38→2)、(Σ=39→3)……となるものである。 (2) この『アイウエオ五十音図』の図外の下にあるΣ=6、Σ=8、Σ=1、……はその『アイウエオ五十音図』に置いた数を縦に加算したものである。そこには見事な6813570246の数列が現われ、その姿は「ひふみ…九九算表」上から3番目の数列の姿である事が解る。この両端にある6の数に注目してほしい。 (3) この表の最初のア行と最後のワ行にはまったく同じ数列、12345があらわれていることを知ってほしい。 恐らく、完全な同じ文字を用いたならば、何らかのさしさわり、あるいは不具合が生ずるので、それを防ぐために少し文字を変えることにより本来の真実を隠し、解き得た者だけに真実を伝えようとしているのである。一体、その真実とは何であろうか。それにしても見事な神業とも言うべきものである。ここが『アイウエオ五十音図』の持つ重要なポイントであり、決して意味のないものではなく、そこには逆に恐ろしい自然の真実の現われが存在するのである。 すなわち、両端にまったく同じものが並んで存在すると言うことはそこには大変自然的には大切な意味があるということである。その意味とはその両端、すなわち、陰(端)と陽(もう一つの端)を重ねて円筒状(立体)にすることであり、自然の常套手法なのである。それが正しいものと言う証明がそこに縦に並ぶ12345の自然数の現われである。 また、両端を重ねて円筒状にした場合、すなわち2次平面図を3次元立体構造にした場合、両端は重複して1ヶとなるのでその重複数、すなわち重なった数をマイナスすればいいのである。それが最右端にある数、すなわち、37-1=36、38-2=36、39-3=36、……の姿である、それらはすべては36→9→0となって本質は0になり有象、無象の森羅万象の生ずる世界、すなわち次元本質0の世界の出現となるのである。 現在の我々の宇宙も本質0であると科学者は言う。すなわち、一切のこだわりのない自由自在な自然意識世界であると言うことである。まさに、0次元の本質を持つ有難い「神(意識)の世界」なのである。 (4)この本図の外側(上)にある0000…の数群、それは実際には何も無い、それで0の群れを置いたのである。 さあ、もう一度考えてほしい、そこの縦のΣの数列は37,38,39,40,41、となる連続数を作り上げていることを…、するとそのまえの存在する「見えない世界」の数は37の前の36であり、最後の41の次の数は42となるはずである。何とそこにはそれらが見事につながって、そこに現われる「あの世」と「この世」は完全につながりを持っ連続体であることの証明となっているのである。 さあ、見るがよい、そこには「あの世」と「この世」には完全連数である36,37,38,39,40,41、42とが現われて完全に連続した世界であることを証明しているではないか。 まさにこれは あなかしこ、あなかしこ、の連続世界である…!。 (5)最下端の赤い文字で記されている数列を見てほしい、それらは『アイウエオ五十音図』の縦の数列の次に来るべき各数である。まずは右側の「アイウエオ」の数である12345の次の数は(6)であり、次の「カキクケコ」の数は67801で、その1の次に来る数は(2)であることが解る。そのように考えて数を取り出していくと、そこには左から6150483726の姿が現われて見事な「ひふみ…九九算」表の五番目の数列が現われるのである。 これらの赤い数は「見えない世界」の数列であり、意識上の数と言ってもいいものである。この姿はまさに、我々の現世界とつながって存在する「あの世」の存在をしっかりと語る大いなる数列である。 (6)ここまで理解したら、もう一度よく見てほしい、ここには両端にある数列である12345や、あの世の数である図上の数(0)(0)ばかりではなく、図下の数6,(6)までが声をそろえて右端と左端は同一なものであると囁いていることがお分りであろう。この両端数の一致とは、すなわち重ねて重複状態により、3次元構造体が求められると言うことである。そのあたりは両端の(0)、1、2、3、4、5、(6)となる完全な自然数のつながりの存在に気がつけば解るであろう。 とにかく、そこには不一致とか、不整合、あるいは矛盾などは一切なくすべてが定められた軌道を作ってすべてが同一方向を指していることは明白である。しかも、ランダムとか無意味な数などではなく、すべては「ひふみ…九九算表」の中にある九つの数列を持って答を示しているのであり、その妙なる姿で流れ流れているのである。 さあ、これに驚いてはいけない、これに続くとても信じられない『アイウエオ五十音図』の更なる仕組みの存在を知ってほしい。これは紙数の都合で図だけを掲示し、詳細説明は省くことにする。各自力の限り自分の手で検証して見事「神の秘密」を見出してもらいたい…!。 【その1】では『ひふみ…天地』の数を縦に置いて検証したが、今回【その2】はそれを横に置いて結果を見たものである。しかし、【その2】の内容は【その1】とまったく変わらないと言う不思議さを持っているのである。最初のアの縦列、最後のワの縦列、共に0123456の数列が【その1】と同様に並んでいる、これはまさに神技の業、不可知極まりない絶妙な業と言うべきものである。 【その2】の内容及び説明の一切は【その1】にあるものそのままであり、付け加えることなどは一切ない。すなわち、【その1】の説明をそのまま用いればいいと言うことである。 要するに、『アイウエオ五十音図』に対し、『ひふみ…天地』の数を縦に置いても横に置いても結果としての答はまったく同じと言うことであり、まさに不可思議極まりない構図と言うものである。 しかしこのように、しっかりとここにあるのである。まさに自然の超知(神)による大いなる業仕組みであり、人間業ではないと言うことである。《詳細は『数学幻視考』古神道№7参照》
私が声を大にして申しておきたいのは古代の言い伝えにある通りのもの、すなわち、『ひふみ‥天地の数歌』と『アイウエオ五十音図』はまさに不可分の双対の太祝詞であって、二つが揃って初めて「天地の理」が開かれて日本神道のあるべき本儀、本質が現われてくると言うことである。 まあ、時間の許す限りでよい、懸命にこれらの図を眺めて苦慮苦心すれば、あなたの心も少しづつ覚醒し、新たな目を持つことになるであろう。 ここでもう一度おさらいしたい、今まで私が申し上げた古神道の奥儀祝詞の真髄のまことについてである。
すなわち、これら3種の神誼(じんぎ)の表す正しいものとは、 ① 祝詞「ひふみ…天地の数歌」……平面環状の響き…1次元体…→一つの平面立体 ② 祝詞「アイウエオ五十音図」……立体円筒の響き…2次元体…→ワ-ムホ-ル ③ 祝詞「ひふみ…天地の数歌」の奥儀本体の「ひふみ九九算」……超立体の響き …超3次元体…→現在の宇宙 まさに世にもまれな1次、2次、3次と言う三体の有難い自然を語る真理言葉を指すもの、すなわち、それが(誼(ぎ))の本義であり、その存在を説くものである。出来れば何回も考えてこれらの是非とその仕組みを考えてもらいたい。
あなかしこ…!!。 |
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古神道に封印された「古代日本の真実」を求めて(6) |
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古神道の魂である双祝詞「ひふみ…天地の数歌」と「アイウエオ五十音」の秘密を探る (その3) それは形としては大変やさしいものである、しかし、その本髄、いや神髄に至る道のりはとても容易なことではない。なぜならば、それを解き去り、それを現在知のランクで説明をするには余りにも大きい段差がそこにはあるからである。 歴史上、今から2千年くらい前に何らかに事情で他の国から流れて来た人々が主流と言われている。その侵入者の群れが一気に先住民、すなわち、縄文文化の担い手であった者達を滅ぼして作り上げた国家、それが今の日本の国と言うことである。そのあたりは細々と歴史書には記されていることからも判断出来るはずである。すなわち、縄文文化は徐々に弥生式文化に向かったのではなく、一気に変化したと記されていることがそれである。 例えば、繁栄を誇ったインカ帝国をみるがよい、たった200人足らずのスペインの軍隊により人口数十万を擁する帝国がたったの2~3日で占領され、手も足も出ずに簡単に滅ぼされてしまったことである。すべては脅しと、卑怯な謀略により一気に国が押さえられ如何ともし難く哀れな結末を迎えることになったものである。 考えて見れば、これなどはまだいいほうである、歴史上にはもっと短期間であっという間、たった1日で一億近い人口を持つ国が完全に無条件で占領され、無条件で降伏してしまった国もあることを忘れてはいけない。無条件降伏とはすなわち、歴史的にも最もみじめな降伏の仕方であり、一方的な仕打ちを我慢しなければならないものである。それは、あなた方の言うことはなんでも聞きます、何でもおっしゃる通りにいたします、何でも好きなものは差し上げますということを意味する完全な土下座降伏なのである。この場合もまさに恫喝が物を言ったのである。その恫喝の種こそが原子爆弾であったのである。 今でも国はホイホイと外国におだてられ(原発ビジネスをアメリカから買ったこと)自分の国に自爆装置まがいのものをせっせと埋め込んで満足しているのである。その様子はトランプのババ引き気ゲ-ムでババを引いて無邪気に喜んでいるようなものである。それが将来、どのような結果を生み、どれだけ国民を苦しめることになるかはまったく考えようとはせずに…。 まさに恐ろしいあなた任せの最終兵器を自分の手で懸命に埋め込んでい嬉々としているのである。今の日本はまさに何時でも、何処からでも攻撃してくれと言わんばかりの危い姿である。しかし、危機感等はまったく無い、誰も考えることもない。それはどこかが戦争など仕掛けたらアメリカが許さないであろうとの時代錯誤的な幻想を抱いて平然と構えている姿であり、人目もはばからない他人まかせの姿である。その幻想は憲法制定後のこの65年間まったく変わらず、常に国防は他人に預けて知らん顔の異常な姿である。
それを地で行っているのが、アメリカと日本の関係である。知らずに恫喝され、知らないうちにむしり取られ、挙句の果てには知らないうちに国家は破産を迎えようとしている現状である。果たして、どれだけのお金が詐取され、かの国を潤おしてきたのか、誰も解らない。ただ解ることは、今、日本は借金財政で火の車、まさに破産寸前であると言うことである。何と1000兆円の負債(借金)を背負い、財政難に喘ぐ姿である。 しかも、その1000兆円の中の700兆円はアメリカに貸したものであるが、アメリカは決して返すことは出来ないとハッキリ言っているものである。 それは何故なのか…?。
最早、常識的うんぬんは口先だけであり、最後にもの言うのは非常識であり、非常識と非情式が勝利をもぎ取り、それを実践したものだけがこれからは生き残れることになるのである。 このように過去の歴史には大いなる教訓が含まれ、いろいろと教えられることが多いことを知らなければならない。 それらを学び、生かしてこそ国家の安泰や、個人の一生が保障されるのである。その大きなうねりを見れば、歴史はまさに生きているのであり、セオリ-通りに動いていることが解るはずである。まさに、歴史は蓋然性を持つと言うことである。 有名な歴史家が言ったではないか…、「歴史をおろそかにする者は歴史に復讐されると…!」。
要するに、今のところ何ら後始末のめどはたっていない、処理策はもとより防御策すらまったく見えない現状である。事故が発生してからもう1年以上は経っている、しかし、後始末は完全に処理不能状態であり、発生当時と何も変わってはいないのである。
このあたりでしっかり国の未来を考えて、最善の策を見出さなければならない。それは誰が考えても原発全廃と完全撤去である。
恐らく、この分では何年か後には原発を大量に抱えている日本やその他の国々は哀れにも完全にのど元を抑えられ、抵抗は出来なくなることは間違いないであろう。 まさに、今は危機一髪の情勢である、平和ボケもいい加減に卒業してほしい。 今の老政治家達にはそれが解らない、未来が読めないのである。今、我々に必要なのは民族を未来に連れて行ってくれる強いリ-ダ-であり、百年の大計を考える優れた政治家なのである。
しかし、大企業と政府は動こうとはせず、逆に潰そうと図っている可能性もあると新聞は報じている。なぜならば、コストが安いということは儲けにつながらない、すなわち、会社には余り利益は入らず、したがって政治家の懐にもあぶく銭が入らないからであろう。 その証拠に見るがいい、現にそのような優秀な発明をしたところは予算をバッサリ切られたり、資金を引き揚げられたりして研究がストップし、その後の音信は絶えている実情を…!?。この国には本当の人、見る目のある人はいないのであろうか…!?。 我々は、しっかりそのあたりを監視しなければならない…。それが我々の役目と言うものである。 要するに、国のこと、国民のことを政府や役人は何も考えてはいないことは明らかである。ときどき、本音を言う優秀な官僚を見かける、しかし、その途端、あっさり首を切られて生活もままならない状態である。まさに、見せしめである。一体この国はどうなっているのか…??。 それらを伝え聞いたとたんに心の軽い軽薄浮塵な神官達はそのまま唱えることを止めてしまったのである。悲しいことに、今ではそれは宮中の重要行事あたりしか見受けられず、すべてはもはや失われたと言ってもいいものである。 確かにそれは世界中で最も簡単なものであり、日本人はおろか、世界中の人々の誰もが知っているものである。しかし、その本当の心(本質)は誰も知らない、その存在さえ知るものもいない。ただ古来からの伝承だけがかすかにそれを伝えているだけなのである。 今、それを開いて、その神髄を永遠に遺す、それが今生の私に与えられた使命と考え最後の力を振り絞っているのである。 ただ、それを解くための鍵は純日本人だけが握っているのであり、歴史ある日本民族だけが古神道の祝詞言葉を開くことが出来、中身を覗くことが出来るのである。ただし、同じ日本人でも日本に対して軽侮と猜疑心の深い異郷の血筋(DNA)を持つ者達は読み取ることは出来ない、魂のつながりの無い彼らにはどうあっても無理なのである。 最古の奥儀祝詞である「ひふみ…天地の数歌」とは… ひ、ふ、み、よ、いっ、む、なな、や、ここのたり… ひ、ふ、み、よ、いっ、む、なな、や、ここのたり… ひ、ふ、み、よ、いっ、む、なな、や、ここのたり…
よく見かけるのであるが、この後に、もも(百)、ち(千)、よろず(萬)の言葉が連なって唱えられて如何にも理に叶っているように見える。しかし、これらは後代の神官達が如何にも古代から存在して来た正統言葉のように見せるために付け加えられた言葉である。 恐らくこれらは10進法が次第に広がるに従って、これではならずと付け加えた後代の「付け足し言葉」であろう。その証拠に、十から百、百から千、千から万へとつながる中間の言葉、あるはずの間に入る言葉数詞と言うものがまったく見当たらないのである。本当に古代から百、千、万の数が存在したなら当然それらを結ぶ秩序ある数詞の数々が少しは伝えられているはずであろう…、しかし、それらはまったく見当たらない、ナッスイングなのである。 すべては神の御心のままの姿であり、隠された存在としての姿である。ただあなたの鋭い直感と深い洞察力がこれらを結び上げることが出来き、それによりそこにある「数」と「言」の持つ二つの魂とその絆の存在をはっきり見通し、掬い上げることが出来るのである。 また、それはただただ易しくて、ただただ難しいものである。なぜならば、それは古(いにしえ)の心には存在したが現代の心にはそのかけらも無いからである。果たして、そのどちらが自然の心に合い、自然の姿を写しているものなのであろうか…。 出来る限り心を大きく開いて夢想無念になって、これら「ひふみ…天地の数歌」を唱えることである。その上で心を無にして奥を覗き込むのである。するとそこには次のような秘めやかで微かな子音の流れが秩序を持って連なって存在していることが解るはずである。
あ、い、う、え、お、あ、い、う、え、お、あ、い、う、え、お、あ、い、う、え、お、あ、い、う、え、お、……。 ○、1,2,3,4,○、5,6,7,8,9、1,2,3,4,○、5,6,7,8、9……つづく。
① 1の前と5の前にある○(マル)の持つ意味を考えるのである。すると、そこに入るものは1の子音が「い」であるから、その前にあるべきものは「あ」の子音を持つものでなければならないことが解る。 ② 8の次の9は1の前のものと同じでなければならないことは数の並びから解るであろう。その事実があなたの心の壁を取り払い、あたらしい意識世界へと導いてくれることになるのである。
④ 確かに、古代日本には0(ゼロ)の言葉は無い、しかし、よく調べると、その0と言う観念を表す代わりの言葉がひそかに隠されていることを「ひふみ…天地の数歌」がしっかり教えてくれている。 ⑤ よく見ると、8の次は9の数字が見られる、しかもそれは次の繰り返しの1の前の数である0の位置にあるものと同じものであると言っているので、ここからも(9=0)が導き出すことが出来るのである。 これらすべては「神の数学」のセオリ-通りであり、まことに不思議千万な数の表れである。
以上で我々の現代数学的な考察はひとまず終わりとする。次にこれらの関係を古代言葉である「ひ、ふ、み、…」をもって、しっかり考えるのである。 すると「ひぃ」の前に何らかの言葉が欠けていることが解る。そこで「ひふみ…」の言葉の順序から考えると、その言葉は「ぁ」の子音を持つ言葉であり、1の心を満足させるものと考えるのである。すなわち、それは「0の心」を持ちながら、しかも、「無」の姿、「空」の姿をもつ大切な言葉でなければならないのである。 また、それは古代数詞である「ひ、ふ、み…」と時代を一つにする言葉であり、しかも、「ひふみ…」の心を十分に満足させながら、しかも最初に存在しなければならないものである。 さてはて、その古代言葉、すなわち1の前にあるべき言葉とは一体何であろうか……?!。 純な心、古代に帰った自然の心をもって考えてほしい。すべては古代日本の真実を知るためであり、由緒ある古代日本の姿と古神道の本質を見出すための一つの前哨戦なのである。 要するにそれを解決するには循環態という自然の流れの中で考えなければならないのであり、その中で追求しなければならないのである。 それを示しているのが次の図である。
<これらの図は「真実の数理」講座(№1)からの抜粋である> 【図2】を見てほしい、ここにあるのは自然の道、すなわち、「1234」と下方に向かって流れる「陰の数列」と平行点(中庸点)を経て今度は逆に上に向かって流れる「5678」の「陽の数列」である。よく見てほしい、そこには平行(平衡)という傾きのない中心場が2か所あるではないか…。その一つが上部の(0,9)の場であり、(0=9)の理の存在を示しているものである。 さて、問題は下方に位置する4と5の間であり、そこにも 0 がなければならないと言うことである。何故なら、ここももう一つの平行(平衡)場が存在するからである。それが自然の決まり、すなわち、「天の理」であり、「天の律」なのである。ただし、それは現代数学(10進法)にはその姿がまったく無いのである。 この平行(平衡)場とは中立(中庸)のエネルギ-場であり、動きの無い場、すなわち、運動(位置)エネルギ-が0であり、ポテンシャル・エネルギ-(潜在エネルギ-)は無限大という場のことである。 何故なら、物理法則であるエネルギ-保存則により運動エネルギ-とポテンシャル・エネルギ-の和は一定だからである。ここにある平行(平衡)の場は運動エネルギーが0であると言うことであり、それはすなわち、ポテンシャル・エネルギ-は無限大で、無限の力を持つ場を意味することなのである。要するに、それら二つのエネルギ-の関係は反比例状態にあると言うことである。 もし、それが一つのエネルギー的な存在であるとするならば、恐らくそれは無限のポテンシャル・エネルギ-を持つ「神」と呼ぶべき存在と考えるべきであろう。それを表している巷の言葉が「神は万能である」、「神は無限の力を持つ」などの言葉なのであろう。 すなわち、無限のポテンシャル・エネルギ-を持つ「神」とは0の存在であり、神=0 と言うことになるのである。また、この「神」が12345…の前にあると言うことは、すなわち、「神」こそがこの現実世界(12345…)を生み出した完全母体と言うことである。このあたりのことをしっかり考え、心に含み置いてもらいたい。 自然の基本態である原子の基本因子である電子の動きを見るがいい、めぐるましい動きで陰の場と陽の場を駆け巡り、常に変化の連続にあるものである…。【図2】は現代物理で言うところの電子の動きを表わす「電子軌道とその位置エネルギ-」の図とまったく同じものであり、寸分も違わないものなのである。 解っているのは「あ」の子音を持ち、「神」を示す尊い古代言葉であるの二つなのである。 もはや残されたぺ-ジも少ない、急ごう。私が古語辞典から選び出した言葉は「カムナ」であり、「神名」、すなわち、「神の名と言う言葉」なのである。すると…、不思議な事に「カムナ」=「神名」=「神の名と言う言葉」=0 と言うことになるのである。
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古神道に封印された「古代日本の真実」を求めて(7) |
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古神道の魂である双祝詞「ひふみ…天地の数歌」と「アイウエオ五十音」の秘密を探る (その4) さあ、今回がこのシリ-ズ、古神道に封印された「古代日本の真実を求めて」の最終章である。 まだまだ言いたいことは山ほどある、書き足さなければならないものも海ほどあるが、とにかく先を急がなければならない。 何故なら、数の本編である「神の数学」の諸稿もなおざりには出来ないからである。そちらがあるべき本来の主人公であり、本来の筋と言うものであるから…。 とにかく急いで次へと進まなければならない。時間には限りあり、待ってはくれない。 もし、共感を得て、なおも奥の知の拝殿を伺い見したければ直に私に尋ねるがよい、出来る限り案内もしようし、知っている限りにおいては答えてもいこう。それも恐らく、この2,3年限りであろう、人生には限りがある、それを迎えると言う避けられない究極の運命が待っているのである。
確かに、現在の一般の歴史書を見る限り、今回の敗戦においては何事もなく、スム-スに物事は展開されアメリカ占領軍の下で平和裡にすべてが終了し、混乱は何も無かったと記されている。しかし、それは表の顔である。そこには触れてはいけない裏の顔があったことを我々は決して忘れてはならない。それが封印された裏の歴史であり、国が忘れ去ろうとしている裏の歴史の存在なのである。 今ではそんな事実はすっかり忘れ去られて話題にも上らない。それらのすべては脅しと謀略に屈した戦争の悲惨な裏話であり、外交と言う言葉の奇策に見事に引っかかった日本の恥部なのである。だから歴史の表には出ては来ない。要するに、国は忘れようとしているのである。 今、各企業は何らかの方策を立て準備はしておくべきであろう、それが転ばぬ先の杖と言うものである。日本人は余りにも鷹揚過ぎる、それが日本では長所なのであるが、見知らぬ外国では欠点となるものであり、命取りになることを知ってほしい。 何故このような見苦しい日本の過去に今更首を突っ込み、あばき出すのかとお尋ねもあろう、その理由を申し上げよう。かく言う私がその最後の証言者という資格を持つ者だからである。もはやすべての先達証言者達は没し去り、語る者とてはいない現状である。私は上に記したようなことの僅かに残る経験者の最後の一人であり、数少ない伝承者と言う立場にある者として真実を告げなければならない、それが私の義務があると考えているからである。
そのトラック部隊は途中でクリ-ク橋の破壊、道の崩落、突然の匪賊に遭遇などに遭いながら何とか苦労してやっと最終地である港までたどり着いたのである。たしかコロ島と言う名前であったと思う。 (ずっと地図でコロ島を探してきたが見つからない、誰か知っている方がいるならば是非教えてほしい) それは「これから明日○○時に再び出発する、向かうところは××である。そこで一斉に武装解除を受けて、そこで改めて皆で一緒に内地に帰還する」と言う内容であったことを今でも鮮明に覚えている。彼ら軍人達は誰も不平も洩らさず、そのまま来た道を一人の脱走者も出さずに戻って行った。確か、全員20歳代の若者達であったと甦った記憶は告げている。 あとで聞いた話によると、何と、集団で武装解除を受けた兵隊たちはすべてそのままソ連軍にシベリアに連行され、捕虜として酷寒地での強制労働に従事することになったのである。とにかく上官の命令に忠実に服したことが結果的に命取りとなり、そのまま騙されて強制的に連行されてしまったのである。そのような上官の集合命令がなかったならそれぞれ三々五々と連れだって早々に日本に帰って来れたであろうに。彼等は余りにも律儀で正直者であり、上官の命令は天皇陛下の命令と信じていたので決して逆らうことは出来なかった兵達(つわものたち)であった。そのあまりの忠実さ、従順さが今では悔やまれる。 ソ連兵によって武装解除された彼らの大量の武器弾薬や車両のすべては北方匪賊である八路軍に回されて政府軍とのドンパチに使われてしまったのである。それはすなわち、ソ連軍と八路軍は裏でつるんでいたということであろう。恐らく、ソ連軍は押収した武器や弾薬を八路軍にひそかに売って莫大な利益を上げたと思われる。何しろ70万人の軍隊が所持していた大量の武器と弾薬である、その行方こそがその後の大陸の大勢を決した、すなわち、中国共産党(八路軍)の勝利とその後の大躍進の最大の要因になったのがこの大量な武器と弾薬、そして八路軍に身を投じた日本兵(数万人?)の存在であり、彼らの類まれな作戦能力と行動力こそがその後の大勢を決したのである。 それらの事情があったからこそ、単なる北方匪賊の集団に過ぎない八路軍が正規軍である政府軍を完膚なくまで敗走させ、最後には中国全土を治めることが出来たのである。なんせ、当時の八路軍は日本兵が混入していたので日本人の難民にはやさしく危害を加えることは決して無かった。それに比べれば、ソ連軍は鬼畜そのものであった。彼等は見たことの無い連発式の短い銃(長さ1メトルくらい)を首から掛け、酔っ払っては日本人の群れに威嚇射撃をして何人もの婦女子をさらっていった。今でも、その悲鳴や家族の嗚咽等はしっかリ耳に残っている。これは恐らく一生消えることはないであろう。 北方匪賊である八路軍との戦いに次々と敗れた蒋介石の率いる政府軍は逃げ場を失い、最終的には海を越えて台湾に逃げていった、それが現在の台湾政府であり、蒋介石が築き上げた台湾という新しい国なのである。 大陸と大変仲が悪く今でも犬猿の間柄なのは歴史上から言っても至極当然なことであり、当たり前のことなのである。 なんせ、彼等は他民族同士であり、歴史上でも何千年と言う長い間、常に抗争に明け暮れしていた間柄であるのから…。 もっとハッキリ言えば、今の中国は漢民族の正当な民族政府ではなく、北方周辺民族の寄せ集め集団によるもの、いわば、異民族である北方民族であり、漢民族よる正統な国家ではないのである。しかも、現在の中華民国成立の本当の立役者は日本であり、敗戦で散った精鋭関東軍の兵士達なのである。しかし、そんなことは誰も知らない、今の中国人でさえも恐らく知る者は少ないであろう。 そこには日本人のエネルギ-のほとばしり、すなわちジャパ二-ズ・パワ-の炸裂が底辺にあり、それがすべての原動力となり、起因力となったことを我々は知らなければならない。 あなた方は何を勝手な手前味噌をほざくのかと笑うかも知れない、しかし、現在の状態を見るがよい、かって日本人のエネルギ-のほとばしりの洗礼を受けた現在のアジァの国々をしっかり見るがよい。彼等は500年近くも西欧の国々の圧制と搾取により大変苦しんでいたのであるが、それが僅か3~4年で見事に西欧から解放され、それぞれが独立を勝ち取っているのである…!! それを知っているのがアジア諸国の政治家であり、知識人達である。例えば、インドネシア政府の高官は言う、「我々インドネシア国民が感謝することは戦争が終わってから数千人の日本軍人が帰国もせずに、インドネシア国軍と共にオランダ軍と戦い、国の独立を助けてくれたことである」と。また彼等は面白いことも言っている「500年も我々を支配していたヨロッパが謝罪もしないのに、僅か3年半の大東亜戦争での占領を日本が謝罪するのはおかしい、外交音痴も甚だしい。これがイギリスや中国だったら、謝りまわる海部首相や村山首相などの政治家の姿は「利敵行為をした売国奴である」として罵倒されることになる。現実を見るがよい、イギリス、オランダ、フランスは謝罪はしない、だから賠償金も払わない。ところが日本は謝ってばかりいる、だから賠償金をあちこちに支払う羽目になるのである。まさに外交音痴である、日本の政治家はもっと勉強してほしい」。…「困った国ニッポン(土生良樹著)」より。 更に彼等は言う、「どんなに状況が悪くなっても日本には頑張ってもらわなければならない、日本が低落すれば先の大戦で独立した我々の国々も駄目になる。だから、我々はこぞって日本人の覚醒を促す活動をつづけなければならない」と…。彼等は我々よりも日本人の本質を見抜いているのである。
次に日本は韓国から台湾に転出したのであるが、ほんの僅かな期間で台湾経済を盛り上げて世界的な技術立国にしたのである。またこの国は元来日本びいきなので、今のところ日本と仲良くやっているし、これからも同じような関係が続くであろう。これも歴史にある通りそのままである。その昔からイザコザは何もない。 今は、日本の企業はこぞって中国大陸に進出している、それこそ猫も杓子もである。それが中国の経済を変え人々の生活を変えようとしている。現在は日本の技術者を懸命に集め、工場を招聘して日本の技術をあらん限り吸収して自国の基盤を固めることに専念しているところである。そのあたりの深い策謀の存在を果たして日本人は知っていることやら…。?? しかし、これが一段落するとどうなるのか…?!。 それは最早日本は必要なしとばかり、石を持って追われるだけである。すなわち、工場や機械、あるいは知的テクノロジ-等はすべて没収され、あらん限りの資産は奪われて日本人は帰れ、日本人は不用(プヨウ)との怒号の波で無一文となってすごすごと帰るだけである。それが歴史の語る真実なのである。 そのような認識の下で世界を見るとすべてがよく解る、例えば、1万六千五百年前の世界最古の縄文式土器が存在や1万1千年前の漆塗りの装飾品の出土など、あるいは読解不能とされていた世界の古代文字が日本語で解読可能などの驚くべき事実の発見等である。 また、稲作は外国から持ち込まれたのではなく、日本から外国に持ち出され、広がったと言う事実、すなわち、今までの通説の逆の事実が見出されているのである。それまでは、稲作は中国から伝来したと有難がっていたのである。なんせ、その稲の化石が六千年前の縄文期の地層から見つかっているのである、誰も文句のつけようの無い立派な証拠である。それは稲作は日本から世界に広がったとある日本超古代文献の語る世界はまさに真実であり、嘘偽りは無かったとの証明である。要するに、遥かな過去に偉大な日本文明が存在した紛れもない証拠であり、大いに讃えるべきものである。 それはまさに超古代文献の言う「数千年前に世界を巻き込んだ古代日本超文明」の再来であり、その再現現象とも言うべきものではないのか…。 そうすると、かってアメリカのキッシンジャ-ァ博士が「個人に遺伝子があるように、国家にも遺伝子がある」と言った言葉も、まさにむべなるかなと言えるものである。 それはフランスの心理学者であるユングの言う時空をまたぐシンクロ二シテイ(共時性)の現われと言ったものであり、過去の歴史の再来現象と言ってもいいものである。 またもや、今月も脱線したようである、話を本筋に戻そう。ここからが本文本節である。 『天地(テンチ)の歌』を歌っているものは祝詞「ひふみ…天地の数歌」ばかりではない、双祝詞であるもう一つの古代祝詞である「アイウエオ五十音図」にも同じ「天地の相(姿)」が歌い込まれているのであるが、誰もそのことを知らない。今回はそのあたりをかいつまんで話してみよう。すべては超古代の文献からの資料転載であり、事実そのものを記しているものである。 確かに、調べれば、調べるほど日本の古代歴史は奇々怪々なものであり、奇妙な面影を漂わせているものである。それを証しているものが古来から秘匿伝承されて来た数多の超古代文献の群れである。なぜなら、そこには記・紀等の既存の古典文献には無い数々の記録がふんだんに盛り込まれ、それを細々と伝えているからである。それらは我々に歴史の真相を語りかけてやまないのである。 驚くべきことに、これらが世界中が羨むほど多数転がっているのであり、掃いて捨てるほどあるのである。ただ、それらは歴史学者達が構築してきた歴史とは相矛盾するものなので、無視し否定されているるだけである。特に戦前は皇室を侮辱するものとして厳しく取り締まりを受け、弾劾され足踏みされたので、そのしがらみが今でも残って研究者の足を引っ張っているのである。 それから、もうそろそろ100年、真実を再び語ってもいいであろう。いや、今語り置かなければ永久に闇の中に葬りされて陽の目を見ることは叶わないものになる可能性もあるのである。 それらが正しいか否かは諸氏の心が判断すればよいのであり、しっかり考えて自己検証すればいいことである。なまじっか学者達に尋ねても生返事が返って来るだけであり、否定されるだけである。何故なら、彼らもあなた方同様に何も知らないので答えようがなく、それに自尊心が強いので否定の言葉が返って来るだけなのである。 誰も知らないそのあたりの事情を少々竹内古代文献の万国史から抜粋して転記してみよう。 その謎を探り解き明かし、さらに不思議な祝詞の《言霊の仕組み》を用いてそれを現代の世に呼び戻して見ようではないか…!!。これは今だからこそ出来る古代日本の「真実解明の物語」であり、古代日本の「超知の存在物語」でもある…。
ではそこにある絶対の秘密とは一体どのようなものであろうか、それをこれからじっくりと披露しょう。 恐らく、西洋科学知と言う宗教に頭を冒されている方々は「遥か古代の人々が現代科学さえも掴んでもいないような高度な知を持っていたとは到底考えられないと申し立て、反発するであろう。しかし、それは自分達の程度の低い知を棚に上げて古代の知を悪ざまに罵っているだけである。要するに、勉強不足、知識不足を自ら暴露しているようなものであり、ただただ、100年以上も前の知を今でも引き摺っている姿があるだけなのである。 考えて見てほしい、世界中どこを探してもこの「アイウエオ五十音図」のように父音と母音が正しい秩序で固く結び合っている見事な秩序仕組みをもつ言葉は無いのである。まさしくそこにあるのは相繋がって流れる永遠の「陰」と「陽」と言う自然の道であり、同時にそれは古神道の奏でる「陰」と「陽」の調べの存在を物語ってやまないものである。まさしくこれは人類最高の言語上のマスタ-ピ-スと言えるものであろう。本来は、もっともっと誇りを持ってもいいものであり、世界に向かって声を大にしで叫んでもいいものなのである。何を遠慮しているのであろうか、誰にも遠慮等はいらぬものである…!!。 古神道の奏でる「陰」と「陽」の調べとは、すなわち、「神結び(カミムスビ)」と「他神結び(タカミムスビ)の両神や、「イザナギ」、「イザナミ」等の二神のゆくりない存在とその物語であり、そこにある固い結びつきの存在である。 『天地(アワ)の歌四十八音』…日本超古代史資料・吾郷清彦著(新人物往来社刊)より
↓ ↓ ↓ ↓ ↓ (造化の神) (巡りあい) (生命) (膜に包まれ,子宮) (魂を?ぐひも) 何と、生き生きと輝いている言葉の群れであり、まさに生命観が溢れている文字群の現われである。 「お(緒)」は〝魂を繋ぐもの(紐)〟であり、「魂」とは次の『かきくけこ』の存在であり、その連結を指している言葉である。すなわち「あいうえお」と「かきくけこ」は「表の世界(この世)」と「裏世界(あの世)」という繋がった世界の存在であり、それを結び繋いでいるものが〝緒〟という紐であると言っているのである。つまり、魂は緒により「あの世」と「この世」の間を行き来し、輪廻転生を繰り返していると言うことである。 ※「緒」の語源は繭(まゆ)を煮て糸を引く出すこと(漢語林辞典) 次に転じて『あいうえお』に続く『かきくけこ』を同じく『天地の歌四十八音』より拾うと、次のような驚くべき言葉の群が浮か 一体これらの古代言葉とは何であろうか。そこには実に奇々怪々な文字とその意味が不思議な関係で平行状態で並び、何事かを囁いているのである。はっきり断じれば、これが謎の言葉と言われて来た「言霊(ことだま)」の正体と言うものであろう。 か(幽) き(兆) く(潜) け(気) こ(凝) ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ (意思に反して) (魂のゆき場所) (じっと潜む) (目に見えない) (そこにとどまる)
ここにあるのは超古代の「アイウエオ五十音図」に隠された言霊を開いたものである。一体だれがこのように漢文字の裏に真実を隠し、ひそかに心ある人々や遠い子孫に残そうとしたのであろう。 それにしても、そこにある知の豊かさ、情知の素晴らしさにはただただ驚かされるだけである。 この後、さらに「さしすせそ」、「たちつてと」と続くのであるが、誰か興味と時間がある方は一つこの「言霊」の心を開いてほしい、ただし、知と運が上手に重なり、祖達の魂を呼びこまない限り、無理かもしれないが…。 この「天地(アワ)の歌」は超古代文献の「ホツマツタエ」と「ミカサフミ」の両書に記されている重要な歌である。なお、「ホツマツタエ」は約2000年前の書であり、「宇宙原理の書」とも言われているものである。ただ、学者達は2000年前の日本には文字がなかったと言い、これらの古代文献を偽書扱いにし無視しているものである。それはまったく数百年前の江戸時代の学者の受け売りであり、それをそのまま信じているだけである。それはまた、当時の知と同じレベルの何も進歩の無い脳をさらしているのである。 周囲を見るがよい、中国と境を接しているモンゴルや朝鮮半島でさえも漢字とははっきり縁を切って、まったく異なる文字、すなわち、モンゴル文字やハングル文字などの自国の文字を作り上げているのである。漢字を用いて何とも思わないのは日本人の悪いところあり、また、何とも思わない鷹揚なところにはまた何か大きな歴史の秘密があるようにも思われる。 考えて見るがよい、漢字を用いていると言うことはかって大陸人に占領されたと言う事実の何よりの証拠であり、漢字の伝来などの言葉でお茶を濁している場合ではない。それは世界の侵略史を見ればよくわかる、何しろ100年以上にわたり国が占領された場合には公用語はすべて占領国の言葉に変わってしまうのが歴史の常であり、現実なのである。歴史年表を見るがよい、西暦250年あたりから西暦400年あたりは歴史の空白時代とか、謎の空白時代と呼ばれて空白の欄が広がっているではないか…?!。 しかし、そのあたりの事情は超古代文献にしっかり記されているものであり、真実の響きを持って動かないものである。 つらつら考えて見ると、それだから中国に頭ごなしに馬鹿にされ、いいようにごり押しされているとも言えるのではないか…。彼等の頭の中は単純である、漢字を用いている、ははん、これは我々の属国であるに違いないと代々思っている可能性もあるのではないのか…。 ひょっとすると今でもそう思っているのかも知れない。ハハハ―…!?。
その驚きを隠せないものが、すなわち、万葉集に歌われている「言霊(コトダマ)」の言葉であり、その裏に隠されている信じられない内容である。まさにそれは古代からもてはやされている「言葉の霊力」であり、「アイウエオ五十音図」の秘密なのである。 それは神代カナ文字を漢字に書き直す際に意図的な〝神代文字の意味移し〟があったことを示しているものなのであるが、誰もそこまで読み込み、頭をひねった者はいない。本当はそれらを考察するのが歴史学、あるいは歴史国語学者達の本分なのであるが、誰一人として、今までそこに気がつかず、目をやる者はいなかったのである。 ただあるのは万葉集にある「言霊」の言葉だけが一人歩きし人々を惑わし、人の心を迷わしている淋しい姿があるだけである。 人々はただ「言霊」という言葉の響きに惚れ込み、憧れ続けてきているのである。その真実の何かを全く知らずにである…、ただ真実を誰も解き放った者がいなかったので、なおさら追慕の念を強く抱いていただけなのである。 しかしながら、これだけは「時」「知」「縁」といった環境がすべて整わなければ解き放つことは不可能であったものであり、それゆえに今まで誰一人知ることが叶わなかったのかも知れない。それも、やっとこの21世紀になって従来の科学的見地と言うものの見直しが始まり、人々は過去を凝視しはじめ、神話、伝説、習慣、あるいは古代文献に目を向け歴史の裏に隠されている真実を改めて探し始め、考えを巡らしはじめている状態、それが現在なのである。 果たして、我々はその〝古代知の仕組み図〟、その全体図を完全に手に入れ、自在に心に描けるのは何時であろうか。それを考えると、ただ溜め息が残り、虚ろな心が広がるだけである。 我々現代人は果たして精神的な意味での進化の道を歩んでいるのであろうか? 果たして、我々現代人は古代人に比べて、より大きな知を得、天地自然の実相の真(まこと)を観てとっているのであろうか? 私には大変気がかりであり、また大いに危ぶむ気持ちで一杯である。 何故なら、古神道は日本人の学であるが、「神の数学」は世界の人々の学裡であり、未来の人々の学問でもあるからである。 それはいわば今までの講座の応用編であり、検証編とでも申し上げてもいいものであろう。しかし、順序不同、とりとめもないような数の調べも入っているかも知れない。しかし間違いなく首尾一貫して真理を捉えてはばからないことは確かである。 「神の数学」は純然たる意識数学でもあり、そのジャンルに属するものである。すなわち、数学を通して意識を高め、不動の心を持つ人間性を作ることを本分とするものである。要するに、自然の事象を通して、人間にも、あるいは神にも通じる「絶対数学」、「真理数学」の存在を明らかにして世に知らしめようとするものである。そして大変やさしく誰でも学べるものである。 そこにあるものすべては珠玉の「数の物語」であり、数の奏でる天下無双の「大叡智」の数々である。そのあたりをよく汲んで検証し、十分に合点が行ったなら学びとって是非のちの世に伝えてもらいたい。
それは要するに、それだけ日本の歴史が古いと言うことであり、それだけ歴史は長く、それだけ込みいっていると言うことなのである。来月からの「神の数学の真理証明」の中では更に深い数の真実が光を放ちながらホ-ム:ぺ-ジと言う「まな板」の上でいろいろと自然の「数物語」を語り上げて、我々を驚かしてくれるはずである。すべては世界では初めての「秘密物語」であり、誰もまったく知らないものである。少しづつでもいい、 楽しみながら学んでもらいたい。 来月、平成24年9月からの「神の数学」の記述は(8)「数が語る真実証明」に移行する。是非、そちらを見て戴きたい。要するに、9月の衣替えと思ってほしい…!!。 |
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(私論.私見)