「ヲシテ文獻」(ホツマツタエ、ミカサフミ、カクのミハタ)の大宇宙哲理、「ヲシテ」とは、日本固有の文字のこと、あるいはその文字を記した文書(染め書き)のことを云う。大和言葉の源流はヲシテから創られてきた。橋本進吉博士たちが示唆する、日本国語は第1級の文化財の一つであり、国民の経験や思想感情がこれに宿っており、その国語を学び伝えることによって世代を繋げており、伝統的な思惟の体系を基に生活を営み、時代を切り拓く知恵の宝庫となっている。
比叡山や高野山の経蔵には、空海と最澄と吉備真備の接触関係が記載されているものがある。吉備真備の「道隴和上伝纂」そのものが、819(光仁10)年、最澄が撰述した「内証仏法相承血脈譜」の中に加えられている。延暦寺保蔵の「ホツマツタエ」は、吉備真備の死後、彼の蔵書が延暦寺に伝授された可能性が強い。高野山に古代文字の文研が存在したことが、真言宗僧侶・諦忍の「神國神字弁論」で窺われる。空海と最澄には親交があったので、延暦寺から伝わったものと考えられる。
溥泉たちが執筆の「原テキスト」としたヲシテ文獻の原本が遺されている可能性がある。
①995-2001年、古事記、日本書紀、ホツマツタエの三書の内容の厳密な比較、照合により、多くの事が解明できた。「1300年の封印を解く」。記紀記述には、その原点であるヲシテ文獻の奥深い伝承の数々が記載されている。その際、一部は省略、誤訳、欠落している。古事記は古訓古事記、日本書紀は寛文9年版第一種が最も信頼を置くに値する善本である。記紀編纂時、ホツマツタエが原書になり、全体の6割が下敷きにされている。但し、ヲシテ文獻のなかには、記紀、古語拾遺が書き洩らした出来事や、古代日本の様々な日常行事、社会統合の根本原理、国家建設の根本理念が濃厚に縷述されている。記紀、古語拾遺以前の、中期から晩期縄文時代の頃のヲシテ文獻に縷々説明されている。
ホツマツタエには、神武天皇の即位譚が次のように記されている。タケヒトが国を平定したことによりカンヤマト・イワハレヒコ・タケヒトと名乗り、正式に即位した。神武天皇である。場所は三輪の地(現桜井市)であった。ホツマツタエには、この時の「三種の神宝の授受」、「都鳥の歌」、「大嘗祭(オオナメエ)の儀」、「イスキヨリ姫の慕情」、「日嗣皇子の誕生」、「神武天皇崩御」、「カヌカワミミ(第2代**天皇)即位」、「神武天皇葬送の儀」など、記紀ではよくわからなかったことが記述されている。
「七五三の起源」でもあり、現在の皇室の伝統行事に取り込まれている「着袴の儀」や「深曽木の儀」について、記紀には記述がない。しかしホツマツタ第1アヤで出て来る。
大和言葉の基本構造や和歌の起源。漢字渡来以前の大和言葉の文化が、漢字渡来後においてどのように外国文化を取捨選択しながら受容し、自家薬籠中のものとしてきたかの過程の裏付け。
1万年以上前からの縄文文明の存在、上山春平らが洞察した「日本的思惟の特質」。上山は、1969年の「広葉樹林文化」と「思想の日本的特質」の論考において、日本の縄文時代の高度な知的体系の存在を推論している。「縄文文化の段階で、自主的な、独自の思惟の体系を持っていたのではないか」と述べている。日本の広葉樹林に存在する栗、栃、胡桃(くるみ)、団栗(どんぐり)類他、森林の下草には葛(くず)、蕨(わらび)、テンナンショウ(サトイモ科に属する野生の根菜類)、片栗など、野生の澱粉資源が豊富だった。灰汁抜きや煮炊きの為の各種の土器類が発達していく。今から1万5千年も前に遡る土器が多数出土している。
武田祐吉博士たちが指摘していた「漢字の輸入以前に、古事記、日本書紀の成立年代において、既に文字になっていた古記の類は相当にあったと考えられる」、「歌謡にしても『柿本朝臣人麻呂歌集』の如きものが既に成立していたと思われる」。
1960年代以降、放射性炭素14による年代測定が精密化し、縄文時代の遺跡の生活形態が、日本列島で少なくとも10万年以上前に遡ることがはつきりしてきた。例えば、島根県出雲のスナハラ遺跡から出土した土器が「今から7万年前から12万年前までの間に作られたものである」ことが判明している。青森県の三内丸山遺跡から約5500年前の大きな定住集落跡が、富山県のヒメササハラ遺跡から45000年前のプラントオパールが、青森県のカゼハイ遺跡では3500年前の炭化した米が発掘されている。栃木県のテラノ東遺跡では、暦の計測の施設となる冬至と夏至を観測する為の環状遺跡が発見されている。
神社の起源をたどっていくと、縄文時代の祖先の祭祀に行きつく。
日本は古来より、汎神論の世界観を持ち、民は神と繋がっておられる天皇の存在を敬い崇め、天皇は民を大御宝として大切にし安寧を祈って来たという「君臣民一体の国柄」を続けて来た。
2017年、三輪正胤の「歌学秘伝史の研究」。神道と王道と歌道を一つの姿に於いて捉える重要性を指摘している。 |
戦後、GHQ(連合軍総司令部)は、神道指令と政教分離により、日本国體の解体を期した。馬野周二は次のように述べている。
「これは彼らにとっては当然のことで、『神を祀る』ことは日本国家と言うよりは日本人の根底を形成する霊的基盤であるから、征服した民族の根本精神を破るためには、少なくともこの制度、外形は、国家的関連からは排除しなければならぬ。けれども自由民主主義を標榜するからには、個人の精神的自由を法律によって規制することは、彼らにとって自己撞着となる。そこで神社の国家支持を廃すること以上はできなかった」。 |
「」。 |
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権藤成卿、北畠親房、吉田兼倶、山鹿素行、 |
企業の経営スタイルにも関係している。欧米型の会社組織は同じ会社でも部署が違えば他人。日本式経営では、組織横断的で臨機応変、柔軟な、機動的集団組織力による総力戦型。 |
江戸時代、役人の数は、その人口比で驚くほど少なかった。これは「ヲヲヤケ」(公)意識の高さによる。「ありがとう」、「おかげさま」、「おたがいさま」等々。「三方良し」理論の源である。日本の商いの中心には、自分の為ではなく共同体のための「ヲヲヤケ」を第一に考える、古(いにしえ)からの魂のアメのミチが生きている。
1754(宝暦4)年、滋賀県の近江商人、五個荘商人の「遺言状」条文は次の通り。
「他国の商圏内に出かけても、その商圏内の物事、その国の一切の人々が皆な気持ちよくなるように心掛け、自分のことにと思わず、皆なに良くなるようにと思い、高利を望んではならない。何事も天の恵みしだいと思い、ただその行き先の人を大切に思いなさい。そうすりば、心は安らかとなり身も健康になる。常々神仏への信心を忘れてはならない」。 |
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漢詩集の「懐風藻」(751年)序文が、672年の壬申の乱で古の文書類がことごとく焼けてなくなったことをひどく歎いている。 |
博学賢眼の馬野周二はヲシテ文獻を次のように絶賛している。
「安政年間(1772-81)の近江に、比叡山延暦寺の目代をしていたという三輪安聡なる人物が住していて、景行天皇代に書かれたという、大変な古代史書を伝持し、それを研究、漢訳文を付けて後世に伝えるため書き残していた。この文献は神武天皇即位前六年にその大部分が書かれていたという、世界的奇書である。よくよく調べてみると叡山にも関係する、奈良の僧溥泉も同じ文書を研究し、その一部は大阪の出版元秋田屋市兵衛から出されていたことが分かった。(この文書はホツマツタエという。他にミカサフミ、フトマニというものが遺されていた) これによって縄文時代末期の、三千年くらい前の史実がはっきりしてきて、記紀の神代史の空白を埋めることが分かってきた」。 |
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理神論。理性重視の啓蒙主義。 |
近代の唯物論的思考には、国際金融資本の援助の下での暴力革命タイプの第一の系譜以外に、1923年にフランクフルト大学において、ルカーチとドイツ共産党員がマルクス思想研究所を旗揚げし、語感を和らげるために改名した社会研究所の二つがある。後者がフランクフルト学派の前身となる。伝統文化破壊のイデオロギーを持つ。T・アドルノ、М・ホルクハイマー、w・ライヒ、H・マルクーゼたちが加わり、ヒトラーの第三帝国に追われて米国へ移住した。コロンビア大学の援助を受け、ニューヨークに新フランクフルト学派を設立。直ちに、伝統的なキリスト教価値観や社会文化倫理の破壊に取り掛かった。 |