ホツマツタヱ3、ヤのヒマキ(人の巻)34

 (最新見直し2011.12.24日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「ホツマツタヱ3、ヤのヒマキ(人の巻)34、ミマキの御世 任那の文」を説き分ける。原文は和歌体により記されている。「ミマキの御世 任那の文」、「34綾 目次」、「みかど崇神(すじん)の御世(みよ)」その他を参照しつつ、れんだいこ訳として書き上げることにする。

 2011.12.24日 れんだいこ拝


【ホツマツタヱ3、ヤのヒマキ(人の巻)34、ミマキの御世 任那の文】

 みまきのみよみまなのあや      ミマキの御世 任那の文
 みつかきの とほなのそなか     瑞籬(みつかき)の 十穂九月の十七日
 こしのをし おおひこかえり もふさくは    越の治人 オオ彦帰り 申さくは  
 ゆくやましろの ならさかに おとめかうたに     「行く山背(しろ)の なら坂に 少女(おとめ)が歌に 
 みよみまき いりひこあわや     『見よ ミマキ 入彦あわや
 おのかそゑ ぬすみしせんと     己が副(そえ) 盗み殺(し)せんと
 しりつとお いゆきたかひぬ     後(しり)つ門(と)を い行き違ひぬ
 まえつとよ いゆきたかひて うかかわく      前つ門よ い行き違ひて 窺わく 
 しらしとみまき いりひこあわや      知らじとミマキ 入彦あわや』」
 しるしかと きみこれはかる      兆(しる)しかと 君これ諮る 
 ももそひめ うまれさとくて これおしる     百襲姫 生れ聡くて これを知る  
 きみにもふさく これしるし       君に申さく  「これ兆し
 たけはにやすの そむくなり          タケハニヤスの 背くなり
 われきくつまの あたひめか          我聞く妻の アタ姫が     
 かくやまはにお ひれにいれ      香久山埴を 領巾(ひれ)に入れ 
 いのりてくにの ものさねと        祈りて国の 物実(ものざね)と  
 これにことあり はやはかれ         これに事(こと)あり 早や議(はか)れ」
 もろはかるうち はやすてに          諸議る内 早や既に 
 たけはにやすと あたひめと  タケハニヤスと アタ姫と 
 いくさおこして やましろと            軍(いくさ)起して 山背と
 つまはおおさか みちわけて          妻は大坂 道分けて    
 ともにおそふお みことのり         共に襲ふを 詔
 いさせりひこお おおさかえ          「イサセリ彦を 大坂へ」
 むかひあたひめ うちやふり ついにころしつ          向かひアタ姫 討ち破り 遂に殺しつ  
 おおひこと ひこくにふくと むかわしむ     大彦と 彦国フクと 向わしむ
 ひこくにふくは やましろの          彦国フクは 山背の 
 わにたけすきに いんへすえ          ワニタケスキに 斎瓮据え
 つはものひきて いくさたて         兵(つわもの)率きて 軍立て
 きかやふみむけ てかしわの           木茅踏み平け 手柏の
 いくさまつかつ ならさかそ      戦まず勝つ なら坂ぞ 
 またおおひこは しもみちに        また大彦は 下道に
 わからあくらと あひいとむ             ワカラアクラと 合ひ挑む
 はにやすひこは かわきたに        ハニヤス彦は 川北に
 ひこくにふくお みていわく           彦国フクを 見て曰く
 なんちなにゆえ こはむそや           「汝何故 拒むぞや」 
 くにふくいわく これなんち     国フク曰く 「これ汝
 あめにさかふお うたしむと     天に逆ふを 討たしむ」と
 さきあらそいて はにやすか いるやあたらす         先争いて ハニヤスが 射る矢当らず 
 くにふくか いるやはあたる         国フクが 射る矢は当る
 はにやすか むねうちころす     ハニヤスが 胸撃ち殺す
 そのいくさ やふれにくるお     その軍 破れ逃るを
 おひうては わきみわきみと なかれさる      追ひ討てば 「我君我君」と 流れ去る
 いくさおさめて みなかえる            軍収めて 皆帰る
 めつきはつひに みことのり           十月初日に 詔
 うちはむけれと とつあるる          「内は平けれど 外(と)つ荒るる
 よみちのいくさ たつへしと すえふかにたつ         四道の軍 発つべし」と 二十二日に発つ 
 よものをしゑと ももそひめ           四方の教え人 百襲姫   
 おおものぬしの つまとなる       大物主の 妻となる
 よにはきたりて ひるみえす          「夜には来りて 昼見えず
 あけなはきみの みすかたお          明けなば君の 御姿を
 みんととむれは かみのつけ           見ん」と留むれば 神の告げ 
 こといちしるし われあした くしけにいらん            「言著し 我朝方 櫛笥(くしけ)に入らん  
 わかすかた なおとろきそと     我が姿 な驚きそ」と
 ももそひめ こころあやしく     百襲姫 心怪しく
 あくるあさ くしけおみれは こへひあり     明くる朝 櫛笥を見れば 小蛇あり
 ひめおとろきて さけひなく          姫驚きて 叫び泣く  
 おほかみはちて ひととなり        大神恥ぢて 人となり
 なんちしのひす わかはちと          「汝忍びず 我が恥」と
 おほそらふんて みもろやま          大空踏んで 御諸山  
 ひめあほきはち つきおるに        姫仰ぎ恥ぢ つきおるに
 はしにみほとお つきまかる        箸に御陰(みほと)を 突き罷る  
 おいちにうつむ はしつかや        大市に埋む 箸塚や 
 ひるはひとてに よはかみの         昼は人手に 夜は神の
 おおさかやまの いしはこひ          大坂山の 石運び
 もろあひつきて たこしかて     諸合ひ継ぎて 手輿(たごし)担(か)て    
 はかなるのうた       墓成るの歌
 おほさかも つきのかおそえ いしむらお   「大坂も 月の光を添え 石群を 
 たこしにこさは こしかてんかも           手輿に越さば 越し勝てんかも」
 そひうつき そむかよみちの えひすむけ    十一(年)四月 十六日四道の エビス (蝦夷)平け  
 きみにつくれは くにやすく        君に告ぐれば 国安ぐ   
 あきたたねこに おれかれの        秋タタネ子に 折れ枯れの   
 をとくまつりお はしつかに      緒解く祀りを 箸塚に  
 なせはかかやく のりのいち             なせば輝く 祝(のり)の市
 そふやよいそひ みことのり               十二年三月十一日 詔
 あまつひつきお われつきて        「天地つ日嗣ぎを  我継ぎて 
 あめのおふひも やすからす             天の覆(おふ)日も 安からず
 めをあやまりて ついてせす        陰陽誤りて ついて(対処) せず
 ゑやみおこりて たみをえす         穢病起りて 民汚穢す  
 つみはらわんと あらためて       罪祓わんと 改めて 
 かみおうやまひ をしえたれ            神を敬ひ 教え垂れ
 やをのあらひと いまなれて         八百の荒人 今平れて
 もろたのしめは かんかえて          諸楽しめば 考えて    
 おさといとけの みちおあけ     長(おさ)と幼(いとけ)の 道を明け 
 たみにおおする いとまあけ         民に負する 暇明け
 ゆはすたすえの みつきとめ          弓弭(ゆはす)手末(たすえ)の 貢止め 
 たみにきはせて そろのとき         民賑はせて 繁(そろ)のとき
 なおりてやすく このみよお          直りて安ぐ この御世を
 はつくにしらす みまきのよ       初国治(し)らす 御マキの世
 たみたのしめは きみやすく                 民楽しめば 君安ぐ 
 きさきもおえて すけやさか         后も生(お)えて スケ八坂
 といちにもふて うむみこは とちにいりひめ          十市に詣で 生む御子は 十市ニ入姫 
 ふそむとし ねつきはつひに     二十六年 十一月初日に
 みまきひめ しきにうむみこ     御マキ姫 磯城(しぎ)に生む御子
 とよきひこ いむなしきひと     豊キ彦 諱(いむ名)磯城ヒト
 ふそことし はつひをうとに     二十九年 初日ヲウト(元日)に
 きさきまた うむみこいくめ     后また  生む御子イクメ
 いりひこの いむなゐそさち     入彦の 諱ヰソサチ
 みそやとし あきはつきゐか     三十八年 秋八月五日
 きさきのと くにかたうちめ     后の妹 国方(姫)内侍
 うむみこは ちちつくわひめ     生む御子は 千々ツクワ姫
 よそむつき すえやかこうむ    四十年一月 二十八日子生む
 いかつるの いむなちよきね     イカツルの 諱千代キネ
 よそやとし はつそかをあゑ     四十八年 一月十日 ヲアヱ
 とよきみと いくめきみとに みことのり    豊君と イクメ君とに 詔
 なんちらめくみ ひとしくて       「汝ら恵み 等しくて
 つきしることの ゆめすへし          嗣ぎ領る事の 夢すべし」
 ともにゆあひし ゆめなして            共に湯浴し 夢為して 
 とよきもふさく 豊キ申さく
 みもろゑに きにむきやたひ ほこゆけし      「御諸上に 東に向き八度 矛遊戯し」 
 いくめもふさく         イクメ申さく 
 みもろゑに よもになわはり すすめおふ           「御諸上に 四方に縄張り 雀追ふ」 
 きみこのゆめお かんかえて       君この夢を 考えて   
 あにかゆめたた ひかしむき ほつまをさめよ          「兄が夢ただ 東向き ホツマ治めよ
 おとはよも たみおをさむる よつきなり      弟は四方 民を治むる 世嗣なり」   
 うそこかつみゑ みことのり       四月十九日ツミヱ 詔
 ゐそさちたてて よつきみこ        ヰソサチ立てて 世嗣御子 
 とよきいりひこ ほつまつかさそ         豊キ入彦 ホツマ司ぞ
         
 みまなのあや            【任那の文】
 みつかきの ゐそやほはつき     瑞籬の 五十八年八月
 みゆきして けゐおおかみに もふてます     御幸して 契大神(おおかみ)に 詣でます 
 もろいわふとき つのひとつ         諸祝ふ時 角一つ  
 あるひとここに たたよえり ことはききゑす          有る人ここに 漂えり 言葉聞き得ず    
 はらのとみ そろりよしたけ よくしれは      原の臣 ソロリヨシタケ 良く知れば 
 これにとはしむ そのこたえ      これに問はしむ その答え 
 われはからくに きみのみこ つのかあらしと       「我は韓(から)国 君の御子 ツノガアラシト
 ちちかなは うしきありしと     父が名は ウシキアリシト
 つたえきく ひしりのきみに     伝え聞く 聖の君に
 まつらふと あなとにいたる     服ふと 穴門(あなと)に至る
 ゐつつひこ とみにいわくは     ヰツツ彦 臣に曰くは
 このくにの きみはわれなり ここにおれ       「この国の 君は我なり ここに居れ」 
 ひとなりみれは きみならす      人なり見れば 君ならず 
 さらにかえりて みやこちと うらしまたつね      新に返りて 都路と 浦島訪ね
 いつもへて ややここにつく     出雲経て ややここに着く
 かみまつり きみここにあり     神祀り 君ここにあり」
 かれつのか めしてつかえは     故ツノガ 召して仕えば
 まめありて ゐとせにたまふ     忠ありて  五年に賜ふ
 なはみまな かそみねにしき     名は任那(みまな) かぞ峰錦
 くにつとに かえるあらしと     国苞(つと)に 帰るアラシト
 みまなくに これたちそめそ     任那国 これ建ち初めぞ
 これのさき あめうしにもの おほせやり     これの先 アメ牛に物 負せやり  
 あらしとゆけは うしみえす       アラシト行けば 牛見えず  
 をきなのいわく   翁の曰く 
 これおすに さきにもふけて これくわん        「これ推すに 先に儲けて これ買わん
 ぬしきたりなは あたいせん        主来たりなば 価せん  
 すてにころしつ もしさきて        既に殺しつ もし先で 
 あたいおとはは まつるかみ ゑんとこたえよ 価を問はば 祀る神 得んと答えよ」
 たつぬれは むらきみうしの あたいとふ     探ぬれば 村君牛の 価問ふ 
 こたえてまつる かみゑんと         答えて「祀る 神得ん」と 
 かみのしらいし もちかえり        神の白石 持ち帰り 
 ねやにおくいし なるおとめ        寝屋に置く石 成る乙女
 あらしとこれと とつかんと         アラシトこれと 婚がんと  
 おもひゆくまに ひめうせぬ        思ひ行く間に 姫失せぬ
 かえりおとろき つまにとふ         帰り驚き 妻に問ふ
 いわくおとめは きさにさる           曰く「乙女は 東南に去る」 
 あとおたつねて おひいたり       跡を探ねて 追ひ至り
 ふねおうかめて ついにいる        船を浮めて 遂に入る
 やまとなみはの ひめこその           ヤマト浪速の 姫コソの 
 みやよりいてて とよくにの       宮より出でて 豊国の
 ひめこそみやに かみとなる             姫コソ宮に 神となる
 ときにあらしと もとくにに               時にアラシト 本国に (加羅国) 
 かえさにみやけ うはわれて        帰さに土産 奪われて 
 しらきのくにと あたおこり        新羅の国と 仇起り 
 まみなのつかひ つけいわく          任那の使 告げ曰く 
 わかくにきねに みはえあり         「我が国東北(きね)に 三はえあり 
 かみなかしもの くにひろく  上中下の 国広く
 よもみものりの つちこえて たみゆたかなり         四方三百程(のり)の 土肥えて 民豊かなり
 いますてに しらきのあたに をさめゑす     今既に 新羅の仇に 治め得ず
 ほこおたつねて たみいきす  矛を尋ねて 民生きず
 とみねかわくは くにむけの をしおこふのみ           臣願わくは 国平けの 御使を請ふのみ」 
 きみとみと はかれはいわく     君臣と 議れば曰く
 くにふくの まこしほのりつ これよしそ      「国フクの 孫シホノリツ これ好しぞ」   
 かふへのみこふ まつのきみ      頭の三瘤 松の君 
 せいひたけゐた やそちから いさみはけしく 背一丈五尺 八十力 勇み激しく  
 みことのり         
 しほのりひこお みまなをし          「シホノリ彦を 任那御使 
 ゆきとくにむく みちつかさ         行き外国平く 道司 
 かえれはよしと かはねたまひき          帰れば吉」と 姓賜ひき
 むそふつき そよみことのり     六十年七月 十四日詔
 たけひてる むかしささけし かんたから     「タケヒテル 昔捧げし 神宝  
 いつもにあるお みまくほし           出雲に在るを 見まく欲し」
 たけもろすみお つかわせは         タケモロズミを 遣わせば
 かんぬしふりね かんほきに つくしにゆきて           神主フリネ 神祝に 筑紫に行きて
 とゐいりね みやよりいたし          弟ヰイリネ 宮より出し
 おとうまし からひさとこの     乙弟ウマシ カラヒサと子の
 うかつくぬ そえてささくる     ウカツクヌ 添えて捧ぐる
 のちふりね かえてゐいりね せめいわく      後フリネ 帰えてヰイリネ 責め曰く 
 いくかもまたて なとおそる     「幾日(いくか)も待たで など恐る 
 いつもはかみの みちのもと     出雲は神の 道の本  
 やもよろふみお かくしおく         八百万(よろ)文を 隠し置く 
 のちのさかえお おもわんや          後の栄えを 思わんや 
 たやすくたすと うらみしか        容易く出す」と 恨みしが 
 しのひころすの こころあり          忍び殺すの 心あり  
 あにのふりねか あさむきて          兄のフリネが 欺きて    
 やみやのたまも はなかよみ        「ヤミヤの玉藻 花かよみ
 ゆきみんとてそ さそひくる          行き見ん」とてぞ 誘ひ来る 
 おとうなつきて ともにゆく         弟頷きて 共に行く  
 あにはきたちお ぬきおきて         兄は木太刀を 脱ぎ置きて 
 みつあひよへは おともまま      水浴び呼べば 弟もまま
 あにまつあかり おとかたち はけはおとろき            兄まず上がり 弟が太刀 佩(は)けば驚き 
 ゐいりねも あかりてあにか きたちはく        ヰイリネも 上がりて兄が 木太刀佩く  
 あにたちぬきて きりかくる       兄太刀抜きて 斬り交(か)くる  
 ぬかれぬたちに ゐいりねは       抜かれぬ太刀に ヰイリネは
 やみやみふちに  きえうせぬ        闇々淵に 消え失せぬ
 よにうたふうた         世に謳ふ歌
 やくもたつ いつもたけるか はけるたち     「八雲たつ 出雲タケルが 佩ける太刀
 つつらさわまき あわれさひなし  葛(つづら)沢巻き あわれ(刀身は)錆なし」
 からひさは おいうかつくぬ つれのほり     カラヒサは 甥ウカツクヌ 連れ上り  
 きみにつくれは きひひこと        君に告ぐれば 吉備彦と 
 たけぬわけとに みことのり   タケヌワケとに 詔
 ふりねうたれて いつもおみ           フリネ討たれて 出雲臣 
 おそれてかみの まつりせす               恐れて神の 祀りせず
 あるひひかとへ わかみやに   ある日ヒカトベ 若宮に  
 つくるわかこの このころのうた         告ぐる我が子の この頃の歌
 たまもしつ いつもまつらは まくさまし      「玉藻繁つ 出雲祀らば まくさまじ 
 かよみおしふり ねみかかみ     かよみ御使振り ねみ鏡
 みそこたからの みからぬし           三十九宝の 御から主   
 たにみくくりみ  たましつか       たにみくくりみ 魂静か   
 うましみかみは みからぬしやも         うまし御神は みから主やも」
 うたのあや かみのつけかと きみにつけ   歌の綾 神の告げかと 君に告げ   
 いつもまつれと みことのり             「出雲祀れ」と 詔
 むそふきなとの あふみつき               六十二年キナトの 七月 
 きみとはつやゑ みことのり           キミト初ツヤヱ 詔
 たみわさはもと たのむとこ         民は沢本(さわもと) 頼む床    
 かうちさやまは みつたらす      河内狭山は 水足らず  
 わさおこたれは なりはひの      業怠れば 生業(なりはひ)の 
 ためによさみと かりさかと          ために依網(よさみ)と 苅坂(かりさか)と 
 かえおりのゐけ ほらんとて         反折(かえおり)の池  掘らんとて  
 くわまのみやに みゆきなる      桑間の宮に 御幸なる
 むそゐほふつき みまなくに           六十五穂七月 任那国 
 そなかしちして みつきなす          ソナカシチして 貢なす 
 そのみちのりは つくしより     その道程は 筑紫より 
 きたえふちのり うみへたて しらきのつさそ     北へ二千程(のり) 海隔て 新羅の西南(つさ)ぞ
 むそやとし しはすをなゑは ゐかねあゑ      六十八年 十二月ヲナヱ初 五日ネアヱ  
 きみこときれて ものいわす ゐねますことし      君こと切れて もの言わず 寝ます如し
 あくるとし ねやゑはつふか     明くる年 ネヤヱ一月二日
 あめひつき みよあらたまの     天地日嗣ぎ 御世新玉(みよあらたま)の
 はつきそひ かみあかりとそ     八月十一日 神上りぞと
 よにふれて きみとうちとみ  もはにいり       世に触れて 君と内臣 喪衣に入り
 とのとみやはり まつりこと        外の臣やはり 祀り事   
 かんなそひかに おもむろお やまへにおくる   十月十一日に 骸を 山辺に送る
 このきみは かみおあかめて ゑやみたし      この君は 神を崇めて 疫病治し     
 みくさたからお あらたむる           三種宝を 改むる
 そのことのりは おほいなるかな      その言宣は 大いなるかな

【ホツマツタヱ3、ヤのヒマキ(人の巻)34、ミマキの御世 任那の文】
 ミマキの御世 任那の文
 「瑞籬(みつかき)の 十年九月の十七日」、「越の治人 オオ彦帰り 申さくは」、「行く山城の 奈良坂に 少女が歌に」、「みよ ミマキ イリヒコあわや」、「己が副(そえ) 盗み殺せんと」、「後つ門を い行き違ひぬ」、「前つ門よ い行き違ひて 窺わく」、「知らじとミマキ イリヒコ あわや」、「徴かと 君これ諮る」。
 瑞籬(みつかき)の十年九月の十七日、越の治人(オシ)のオオ彦(やまとあえくに、八代目開化天皇の兄)は京都へ向かう途中の山城の奈良坂に至ったとき、乙女が歌っていた歌が聞こえてきた。その歌の内容は、「御世(みよ)のミマキイリヒコ(崇神天皇)の身に危険が迫っている。皇の副(そえ、部下)が政権を盗もうと国盗りを企んでいる。後の門(背後・奥方のことを示す)からいったりきたり様子をうかがっていて君に背いている。前の門からも行ったりきたり様子をうかがって、国を奪おうと君に背いている。知らないのはミマキイリヒコだけで、危険が及んでいる」。これは何かの悪い前兆ではないかと、君(崇神天皇)はこのことを皆に諮(はか)た。
 「モモソ姫 生れ聡くて これを知る」、「君に申さく  これ徴 」、「タケハニヤスの 背くなり」、 「我聞く妻の アタ姫が」、「香久山埴を 領巾(ひれ)に入れ」、「祈りて国の 物実と」、「これに如あり(こと) 早や謀れ」。
 モモソ姫は生まれつき聡明で、事変を直感的に理解した。そして、君(崇神天皇)に申し上げた。「これは悪い前兆です。タケハニヤスの謀反に違いありません。私が聞いた所によると、タケハニヤスの妻のアタ姫が香具山の土を取って、領巾(ひれ、ふろしきのようなもの)に入れていました。これは国を手に入れたいと願う時の祈りの物実(ものざね、物事の素にになるもの)です。乙女の歌は当たっております。一刻も早く対処するのが良いでせう」。
 「諸謀る内 早や既に」、「タケハニヤスと アタ姫と」、「軍(いくさ)起して 山城と」、「妻は大坂 道分けて」、「共に襲ふを 詔」、「「イサセリヒコを 大坂へ」 」、「向かひアタ姫 討ち破り 遂に殺しつ」。
 君(崇神天皇)は早速、計画を行動に移すため諸臣を集めて諮った。ところが、既にタケハニヤスと妻のアタ姫が、反旗をひるがえして軍(いくさ)を起こしていた。タケハニヤスは山城側から、妻のアタ姫は逢坂山側から、道分けて(それぞれ逆方向から挟み撃ちして)同時に襲ってきた。崇神天皇が詔を発した。イサセリ彦(七代目孝霊天皇の皇子)を逢坂山へ向かわせ、アタ姫軍を討ち破り、アタ姫を殺した。(アタ姫の「あだ」が、「あだを討つ」とか「あだ討ち」の語源になったと考えられる)
 「オオ彦(ハニヤスの異母兄弟)と ヒコクニフクと (チチハヤの孫) 向わしむ」、「ヒコクニフクは 山城の」、「ワニタケスキに 斎瓮(いんべ)据え」、「兵(つわもの)率きて 軍立て」、「木茅踏み平け 手柏の」、「戦まず勝つ 奈良坂ぞ」。
 オオ彦と(ハニヤスの異母兄弟)とヒコクニフク(七代目孝霊天皇の子供)の二人をハニヤス彦の征伐に向かわせた。ヒコクニフクは山城のワニタケスキ坂に斎瓮(いんべ、器に御神酒を入れたもの)をすえて戦勝祈願した後ろ、兵を率いて軍(いくさ)に発った。生い茂った木や茅(かや)を踏み分けて、手柏(てがしわ、手合いの前哨戦)の戦にまず勝った。この地が奈良坂である。
 「またオオ彦は 下道に」、「ワカラアクラと 合ひ挑む」、「ハニヤスヒコは 川北に 」、「ヒコクニフクを 見て曰く」、「汝何故 拒むぞや」、「クニフク曰く これ汝」、「天に逆ふを 討たしむ」と」、「先争いて ハニヤスが 射る矢当らず」、「クニフクが 射る矢は当る」、「ハニヤスが 胸撃ち殺す」、「その軍 破れ逃るを 」、「追ひ討てば 「我君我君」と 流れ去る」、「軍収めて 皆帰る」。
 また(一方)、オオ彦は下道(しもみち)を進み、ワカラアクラと相挑み対峙した。ハニヤス彦は川北(川上)に陣取って、ヒコクニフクを見下して、「汝、何ゆえに邪魔立てをするのだ」と言った。クニフク答えて曰く、「それは汝が君に逆ら故である。賊を征伐しにまいった」。言い終わるや否や、双方が先を争って矢を放った。ハニヤスが射た矢は当たらず、クニフクが射た矢は当たった。矢はハニヤスの胸に突き刺さり討ち殺した。ハニヤス軍は大将が討たれてしまい、我先にと逃げだした。その兵たちに追い討ちをかけると「我が君、我が君」と叫びながら流れ去った。反乱を無事治めて、総員凱旋した。
 「十月初日に 詔」、「内は平けれど 外方粗るる」、「四道の軍 発つべしと 二十二日に発つ」。
 その年(みづかき宮十年)の十月一日、詔。「大和国内は平定できたが、遠くにある国々は、まだ争いが絶えない。よって、四道(方面)の軍(いくさ)に行くべし」と。十月二十二日(末の二日)に出発した。
 「四方の教え人 モモソ姫」、「大物主の 妻となる」、「夜には来りて 昼見えず 」、「明けなば君の 御姿を」、「見ん」と留むれば 神の告げ」、「言著し 我朝方 櫛笥(くしけ)に入らん」、「我が姿 な驚きそと」、「モモソ姫 心怪しく 」、「明くる朝 櫛笥を見れば 小蛇あり」、「姫驚きて 叫び泣く」、「大神恥ぢて 人と成り」、「汝忍びず 我が恥」と」、「大空踏んで 御諸山」、「姫仰ぎ恥ぢ つきおるに」、「箸に陰没(ほと)を 突き罷る」。
 四方の教え人であるモモソ姫が大物主の妻になった。大物主は、どういうわけか夜に来て昼間は姿を見せなかった。姫は明け方に君(主)のお姿を見たいと願ったところ神のお告げがあった。「言著し」。「我は明日、櫛笥(くしげ)に入ることにする。我が姿を見ても決して驚かないでくれ」。モモソは不思議に思いつつ、明くる朝、櫛笥を開けて見ると小蛇が入っていた。モモソ姫は驚いて大声で叫び泣いてしまった。大神は大変恥じて、人の姿になって曰く「汝を驚かせたのは我が不徳のいたいところ」と言うやいなや、大空を駆け上がり御諸山(三輪山)に消え失せてしまった。モモソ姫は、仰ぎ見ながら恥じ、箸で陰没(ほと)を突いて自害された。
 「大市に埋む 箸塚や」、「昼は人手に 夜は神の」、「大坂山の 石運び」、「諸合ひ継ぎて 手輿担て」、「墓成るの歌」、「大坂も 月の光を添 石群を」、「手輿に越さば 越し勝てんかも」。
 モモソ姫は太市に埋葬された。この墓を箸塚古墳と云う。昼は人力で、夜は神の力で、大坂山の石を運んだ。諸人が並び継いで、次から次へと手渡し(手越し)で石を運んだ。お墓が完成した時の歌は、「逢坂も 月の光を添え(人足の頭数を加え、夜間も) 石群を」、「手輿に越さば(担架で運べば) 越し勝てんかも (運び尽くせるかも)」。
 「十一年四月 十六日 四道の エビス (蝦夷)平け」、「君に告ぐれば 国安ぐ」。
 十一年四月十六日、四道将軍が未開地征討から帰還して各々が復命した。「エビス (蝦夷)を平定しました」との報告により、君は安堵し国は安寧になった。
 「秋タタネコに 折れ枯れの」、「緒解く祀りを 箸塚に」、「なせば輝く 祝の市 」。
 秋、君はオオタタネコに今度の軍立ちの犠牲者の供養を命じ、苦しみの霊(たま)の緒を解く祭りを箸塚で盛大に行った。神の宣告(のり)で大市は大いに賑わった。
 「十二年三月十一日 詔」、「天地つ日月を 我継ぎて」、「天の和ふ日も 安からず」、「陰陽誤りて ついて(対処) せず」、「穢病起りて 民汚穢す」、「罪祓わんと 改めて」、「神を敬ひ 教え垂れ」、「八方の粗人 今平れて」、「諸楽しめば 考えて」、「長と幼の 道を散け」、「民に負する 暇空け」、「弓弭手末の 貢止め」、「民賑はせて 繁の研」、「直りて安ぐ この御世を」、「果つ国精らす 美きの世」、「民楽しめば 君安ぐ」、「后も生え[栄え]て スケヤサカ」、「十市に詣で 生む御子は トチニイリ姫」。
 十二年三月十二日、詔。「私が天(あま)つ日嗣(ひつぎ)を受けてからというもの、一日一日が追われるごとくで平穏な日とてなかった。天は陰(メ)と陽(オ)が乱れて天候不順が続き、疫病が大流行して多くの国民を死亡させてしまった。私はこの罪や汚れを祓い清めんと心を改めて神を崇(うやま)い、神祇の教えに努めてきたおかげで、今やっと八方の乱暴者供もまつろい、平和で豊かな、民が楽しく暮らせる世の中になった。この平安の世に感謝し深く考えた末、この度は成人と未成年者の区別を法をもって定めて若者を守るとともに、民に負担となる課役(かえき)を廃し、いとま明け(休養)としよう。又、男の弓端(ゆはず)の調(みつぎ)や、女の手末(たずえ・織物類)の調(みつぎ)も止めて、民の生活(くらし)に余裕を持たせて、豊かで賑わう国を造ろう」。これにより民は元気に(にぎやかに)なった。后も元気になりスケヤサカ。十市に詣で、トチニイリ姫を産んだ。
 「二十六年 十一月初日に」、「ミマキ姫 磯城に生む御子」、「トヨキヒコ 斎名シギヒト」、「二十九年 初日 ヲウト(元日)に」、「后また  生む御子イクメ 」、「イリヒコの 斎名ヰソサチ」、「三十八年 秋八月五日」、「后の妹 クニカタ内侍」、「生む御子は チチツクワ姫」、「四十年一月 二十八日子生む」、「イカツルの 斎名チヨキネ」。
 みづかき宮の二十六年十一月一日、ミマキ姫(おおひこの娘)が磯城(しぎ)で生んだ皇子はトヨキヒコ、いみ名はシギヒト。みづかき宮の二十九年のおうとの初日に妃のミマキ姫が二人目の皇子を生んだ。イリヒコと言い実名はヰソサチ。みづかき宮の三十八年の秋、八月五日に妃の妹のうちめのクニカタが生んだ御子はチチツクワ姫。四十年の正月の末の八日(二十八日)に生んだ二人目の子はイカツルで実名をチヨキネと云う。
 「四十八年 一月十日 ヲアヱ」、「トヨ君と イクメ君とに 詔」、「汝ら恵み 等しくて」、「継ぎ領る事の 夢すべし」、「共に湯浴し 夢為して トヨキ申さく 」、「御諸上に 東に向き八度 矛遊戯し」、「イクメ申さく 「御諸上に」、「四方に縄張り  雀追ふ」、「君この夢を 考えて」、「兄が夢ただ 東向き ホツマ治めよ」、「弟は四方 民を治むる 世嗣なり」、「四月十九日ツミヱ 詔」、「ヰソサチ立てて 世嗣御子」、「トヨキイリヒコ ホツマ司ぞ」。
 みづかき宮の四十八年一月十日のホツマ暦おあえの日、長男「とよぎみ」と次男「いくめぎみ」に崇神天皇の詔があった。「汝ら(二人)には、今まで平等に育ててきたが、日嗣をする皇子を決めるために(知るために)夢で占うことにする」。二人とも湯浴み(身を清めて)してから、それぞれ日嗣の夢を見た。兄のトヨキが申すには、「御諸の山に登り、東(き)に向かって、八回、矛を突付く夢を見ました」。弟のイクメが云うには、「御諸山に登り、四方に縄を張って、雀を追う夢を見ました」。君は、二人の見た夢を考えて(考慮して)曰く「兄の夢はただ東を向いているだけなので、ホツマ(東国)を治めなさい。弟は、四方に配慮している。民を治める世継ぎに相応しい」。みづかき宮の四十八年四月十九日(ほつま暦・つみえの日)、詔があった。「ヰソサチを日嗣の皇太子に立てる。トヨキイリヒコ(兄)はホツマの司(政務をつかさどる)に任命する」。
 【任那の文】
 「瑞籬の 五十八年八月」、「御幸して 契大神(ホオテミ)に 詣でます」、「諸斎ふ時 角一つ 」、「有る人ここに 漂えり 言葉聞き得ず」、「ハラの臣 ソロリヨシタケ 良く知れば」、「これに問はしむ その答え」、「我は加羅国 君の御子 ツノガアラシト」、「父が名は ウシキアリシト」、「伝え聞く 聖の君に」、「服ふと 穴門に至る」。
 みづかき宮の五十八年八月、君(崇神天皇)は御幸された。敦賀の「けひ(気比)大神・神宮」に詣でた。諸臣が祝っているときに、頭に角が一つある人物がここ敦賀(福井)に舟で漂着した。言葉が何を言っているのか通じないので、「はら」(はらみ山・蓬莱山・酒折宮・現浅間神社)の臣のソロリヨシタケが言葉に詳しいので、呼び寄せて詳しく問うことにした。その答えは、「私は加羅国(韓国)の君(王)の皇子のツノガアラシト申します。父の名はウシキアリシトです。聖の君が居られると伝え聞いていたので、やまとの国に服らおうと国を出て船で穴門(山口県)に着きました」。
 「ヰツツ彦 臣に曰くは」、「この国の 君は我なり ここに居れ」、「人なり見れば 君ならず」、「新に返りて 都路と 浦島訪ね 」、「出雲経て ややここに着く」。
 穴門国のヰツツ彦が臣(ここでは私)に言うには、「この国の君(天皇)は私である。暫くここに居よ」かく申されましたが、その人なりを見ればどう見ても君(天皇)には見えませんでした。 一旦帰ることにして、都へ通じる道を探し求め、浦島を尋ね、出雲を経て、やっとこの地(敦賀)に着きました」。
 「神祀り 君ここにあり」、「故ツノガ 召して仕えば」、「忠ありて  五年に賜ふ 」、「名は任那(みまな) 上熟錦(かそみねにしき)」、「国苞(つと)に 帰るアラシト 」、「任那国 これ建初めぞ」。
 運良く、神祀りのため君(崇神天皇)がちょうどこの地に居合わせお会いすることができた。 話を聞いた君は、ツノガを召して使ってみることにした。その忠誠ぶりが認められ、五年後にはミマナの名と上熟錦(かそみねにしき)の錦織を賜った。(君(崇神天皇)の「みまきいりひこ」の名前の二文字「みま」を取って「みまな」と名付けられました)。その後、国の建国を期して帰り、任那国を建国した。
 「これの先 アメ牛に物 負せ遣り」、「アラシト行けば 牛見えず」、「翁の曰く これ推すに 」、「先に儲けて これ買わん」、「主来たりなば 価せん」、「既に殺しつ もし先で」、「価を問はば 祀る神 得んと答えよ」」、「探ぬれば 村君牛の 価問ふ」、「答えて祀る 神得んと」。
  これより先のこと、アラシトは、飴牛(あめうし・黄牛ともいい、古くは立派な牛として尊ばれた)に荷物を背負わせて進んで行ったところ、途中で牛を見失ってしまった。翁曰く「既に拾い主のものになっているでせう。買い戻すしかない。牛の持ち主と出会ったら値段をつけなさい。既に殺されているかも知れない。もし生きていたら値段の交渉になる。祀る神として牛が欲しいと答えなさい」。牛を探して尋ねていくと、村の君(長)が牛の値段を聞いてきたので、「祀る神として牛が欲しい」と答えた。
 「神の白石 持ち帰り」、「寝屋に置く石 成る乙女」、「アラシトこれと 婚がんと」、「思ひ行く間に 姫失せぬ」、「帰り驚き 妻に問ふ」、「曰く乙女は 東南に去る」、「跡を探ねて 追ひ出たり」、「船を浮めて 遂に入る」、「ヤマト浪速の ヒメコソの」、「宮より出でて 豊国の」、「ヒメコソ宮に 神となる」。
 村の君が「神の白石」を差し出したので持ち帰った。その石を寝屋(ねや)において置いていたところ、この白石が乙女に変身した。アラシトはこの乙女と結婚しようと欲し、どうしたら良いかと思案しつつ外出しているうちに乙女が居なくなった。帰ってみたら居ないのに気づいたアラシトは驚き、妻に問いただした。そうすると、乙女は東南(きつ)の方へ行ったと答えた。アラシトは行方を尋ねて追いかけて行った。船に乗り、やっと居所を突き止めて、ヤマト浪速のヒメコソ宮にたどり着いた。乙女は、その宮より出て豊国の「ヒメコソ宮に行き既に神になっていた。
 「時にアラシト 本国に(加羅国)」、「帰さに土産 奪われて」、「新羅の国と 仇起り」、「任那の使 告げ曰く」、「我が国東北に 三栄えあり」、「上中下の 国広く」、「四方三百延(のり)の 土肥えて 民豊かなり」、「今既に 新羅の仇に 治め得ず」、「矛を尋ねて 民息す」、「臣願わくは 国平けの 御使を請ふのみ」。
 アラシトが本国の任那に帰る途中、土産を奪われてしまい、それが原因で、新羅との間で戦いが始まった。任那の使いが申し上げて言うには、「我が国の東北(きね)に三つの栄えているところがあります。上・中・下と国は広く、四方は三百里あり、土地も肥えており、民の生活も豊かです。現在は新羅が悪政を敷いており治め切れておりません。民は反抗する動きをしております。臣願わくは、国を安定させるべく御使を派遣して欲しいです」。
 「君臣と 議れば曰く 」、「クニフクの 孫シホノリツ これ好しぞ」、「頭の三瘤 松の君」、「背一丈五尺 八十力 勇み激しく」、「詔」、「シホノリヒコを 任那御使」、「行き外国平く 道司」、「帰れば "吉" と 姓賜ひき」。
 君(崇神天皇)が臣と謀ったところ、「クニフクの孫のシホノリツが相応しい。この者は頭に三つのこぶがあり、松の君と呼ばれている。背丈は何と一丈五尺もあり、八十人力の力持ちで、勇ましく気性の強い人物である」と相成った。詔が発せられた。「シホノリヒコを任那へ派遣する。外国を上手く平定せよ。その道司とする」。シホノリヒコが、これに成功して帰朝したので「よし」という姓を賜った。
 「六十年七月 十四日 詔」、「タケヒテル 昔捧げし 神宝」、「出雲に在るを 見まく欲し」、「タケモロズミを 遣わせば」、「神主フリネ 神祝に 筑紫に行きて」、「弟ヰイリネ 宮より出し」、「乙弟ウマシ カラヒサと子の」、「ウカツクヌ 添えて捧ぐる 」、「後フリネ 帰えてヰイリネ 責め曰く」、「幾日も待たで 何ど恐る」、「出雲は上の(上代の) 道の本」、「八百万文を 隠し置く」、「後の栄えを 思わんや」。
 みづかき宮の六十年七月十四日、詔(みことのり)がなされた。タケヒテルが昔、献上した神宝(たまがわのふみ)が出雲で保管されていると聞く。これを見たい」。君はタケモロズミを出雲に派遣した。神主のフリネは神祝に筑紫に行って留守だった。そこで弟のヰイリネが宮より出して、乙弟のウマシとカラヒサと子のウカツクヌを添えて捧げた。後日、兄のフリネが帰り、弟のヰイリネを責めて言った。「私が帰るまでなぜ待たなかったのか。なぜ、そんなに中央(やまと)の権力を恐れているのだ。出雲は教えの大元である。秘蔵の八百万の文(神事)を隠し置いているのは後々のことを考えてのことである。なぜ軽はずみなことをしたのか」と叱責した。
 「容易く出す」と 恨みしが」、「忍び殺すの 心あり」、「兄のフリネが 欺きて」、「ヤミヤの玉藻 花暦」、「行き見ん」とてぞ 誘ひ来る」、「弟頷きて 共に行く」、「兄は木太刀を 脱ぎ置きて」、「水浴び呼べば 弟もまま」、「兄まず上がり 弟が太刀 佩けば驚き」、「ヰイリネも 上がりて兄が 木太刀佩く」、「兄太刀抜きて 斬り交(か)くる」、「抜かれぬ太刀に ヰイリネは」、「闇々淵に 消え失せぬ」、「世に謳ふ歌(大いに流行る)」、「八雲たつ 出雲タケルが 佩ける太刀」、「葛多巻き あわれ錆無し」。
 いとも簡単に秘蔵の宝を渡してしまったことを恨んで、密かに兄は弟に殺意を抱いた。或る時、兄のフリネが欺いて「ヤミヤの玉藻(旬菜じゅんさい)の花暦を見に行かん」と誘い出した。弟はうなずいて一緒に行った。着くと、兄は抜けぬ細工をした木太刀を抜き置いて水浴びをした。弟も水浴びに誘った。兄がまず最初に上がり、弟の真剣を抜いた。驚いた弟のヰイリネも上がって兄の木刀を抜こうとした。そこへ兄が斬りかかってきた。ヰイリネ刀を抜くこともできぬまま殺された。世に次の歌が歌われた。「八雲たつ出雲タケルが着けた刀は、蔓(つる)を鞘(さや)に巻きつけられた錆(さび)なしの木刀だった」。
 「カラヒサは 甥ウカツクヌ 連れ上り」、「君に告ぐれば 吉備彦と」、「タケヌワケとに 詔」、「フリネ討たれて 出雲臣」、「恐れて神の 祀りせず」、「ある日ヒカトベ 若宮に」、「告ぐる我が子の この頃の歌」、「玉藻繁つ 出雲祀らば まくさまじ」、「神代(かみよ)御使フリ ネ神鏡」、「三十九宝の 神殻(みから)主」、「だに罷(み)くくり霊(み) 魂沈か」、「うまし御神は 神殻主やも」、「歌の謂 神の告げかと 君に告げ」、「出雲祀れと 詔」。
 カラヒサ(うましからひさ、殺されたヰイリネの弟)は、甥(おい)のウカツクヌを一緒に連れて上京し、君(崇神天皇)に報告した。吉備彦とタケヌワケとに詔があり、二人はフリネを討った。その結果、出雲の臣たちは恐れて神の祀りをしなくなった。この頃のある日、ヒカトベが若宮(皇太子:後の垂仁天皇になる)にこの頃流行っている「我が子」(乙女)の歌を伝えた。「玉藻繁つ 出雲祀らば まくさまじ。日夜見御使フリ(病むことは無いだろう) ネ神鏡。三十九宝の 神殻主 だに罷(み)くくり霊(み) 魂沈か うまし斎上は 神殻主やも」。皇太子は、この歌を聞いて、これは神のお告げであるかもしれないと君に告げた。君は、「出雲祀れ」と詔をくだした。
 「六十二年キナトの 七月」、「キミトはツヤヱ 詔」、「民業は基 頼む床」、「河内狭山は 水足らず 」、「業怠れば 生業の」、「ために依網(よさみ)と 苅坂(かりさか)と」、「反折(かえおり)の池  掘らんとて」、「桑間の宮に 御幸なる」。
 みづかき宮の六十二年(ホツマ暦「きなと」の年)七月(ホツマ暦「きみと」の月)、初めての日(ホツマ暦「つやえ」の日)に詔があった。「民業の基は床にある。河内狭山は水不足に悩んでいる。対策を怠ると生業に関わる。民の為に依網(よさみ)と苅坂(かりさか)と反折(かえおり)の池を掘れ」。君は桑間の宮に御幸された。
 「六十五年七月 任那国 」、「ソナカシチして 貢なす その道程は」、「筑紫より 北へ二千延」、「海隔て 新羅の西南ぞ」。
 みづかき宮の六十五年七月、任那の国のソナカシチが貢物を持ってきて献上した。任那への道のりは筑紫より北へ二千里、海を隔て、新羅の西南にあたる。
 「六十八年 十二月ヲナヱは」、「五日ネアヱ  君こと切れて」、「もの言わず 寝ます如し」、「明くる年 ネヤヱ一月二日」、「天地日月 御世新玉(みよあらたま)の」、「一月十一日 神上りぞと」、「世に告れて 君と内臣 喪罷(もは)に入り」、「外の臣やはり 祀り事」。
 みづかき宮の六十八年十二月のヲナヱの最初の月の五日のネアヱの日に、君は息が途絶えて物を言うことができなかった。寝ているかのようであった。明くる年、ネアヱの一月二日、天日嗣(即位の礼)が行なわれ御世が改まった。(十一代崇神天皇から十二代垂仁天皇の代になった)。 一月十一日、先帝(崇神天皇)が神になられたと世に知らせた。君(垂仁天皇)と内臣は喪に服し、外の大臣たちも同じように祀り事を執り行った。
 「十月十一日に 骸を 山辺に送る」、「この君は 神を崇めて 穢病治し」、「三種宝を 新むる」、「その言宣は 大いなるかな」。
十月(かんな)十一日にご遺体を山辺にお送りした。この君(崇神天皇)は、神を崇めて、疫病を退治し、三種の神器を新たに作り直した。その詔には威厳があった。





(私論.私見)