ホツマツタヱ3、ヤのヒマキ(人の巻)31

 (最新見直し2011.12.15日)

 (れんだいこのショートメッセージ)

 ここで、「ホツマツタヱ3、ヤのヒマキ(人の巻)31、直入神 三輪神の綾」を説き分ける。原文は和歌体により記されている。「ウィキペディアのホツマツタヱ」、ホツマツタヱ 31綾」その他を参照しつつ、れんだいこ訳として書き上げることにする。

 2011.12.24日 れんだいこ拝



【ホツマツタヱ3、ヤのヒマキ(人の巻)31、直入神 三輪神の綾
 なおりかみみわかみのあや 直り守 三輪神の文
 かしはらの やほをやゑあき 橿原の 八穂 ヲヤヱ秋
 すへしかと たかくらしたか 総使人(すへしかと) 高倉下が
 ややかえり つけもふさくは やや帰り 告げ申さくは
 とみむかし みことおうけて 「臣昔 御言を承けて
 とくにより つくしみそふも 遠(と)国より 筑紫三十二も
 やまかけも めくりをさめて 山陰も 巡り治めて
 こしうしろ やひこやまへに 越後 弥彦山辺に
 つちくもか ふたわるゆゑに 土蜘蛛が 塞(ふた)わる故に
 ほこもちひ ゐたひたたかひ 矛用ひ 五度戦ひ
 みなころし ふそよをさむと 皆殺し 二十四治む」と
 くにすへゑ ささくれはきみ     国統絵 捧ぐれば君
 たかくらお きのくにつこの おおむらし 高倉を 紀の国造の 大連
 ふそとしさみと こしうしろ   二十年サミト 越後 
 はつほをさめす またむかふ 初穂納めず また向ふ 
 たかくらしたは たちぬかす 高倉下は 太刀抜かず
 みなまつろえは みことのり 皆服えば 詔
 たかくらほめて くにもりと をしてたまわる  高倉褒めて 国守と ヲシテ賜わる
 やひこかみ なかくすむゆゑ 弥彦神 長く住む故
 いもとむこ あめのみちねお 妹婿 アメノミチネを
 くにつこと きのたちたまふ 国造と 紀の館賜ふ
 ふそよとし きみよつきなし 二十四年 君世嗣ぎなし  
 くめかこの いすきよりひめ おしもめに  久米が子の イスキヨリ姫 乙侍(おしもめ)に 
 めせはきさきに とかめられ  召せば后に 咎められ 
 ゆりひめとなり とのいせす ユリ姫となり 殿居せず 
 きさきはらみて あくるなつ  后孕みて 明くる夏  
 かんやゐみみの みこおうむ いみないほひと 神ヤヰミミの 御子を生む 諱(いみ名)イホヒト
 ふそむとし まつりみゆきの やすたれに   二十六年 祀り御幸の ヤスタレに   
 かぬかわみみの みこうみて いみなやすきね      カヌカワミミの 御子生みて 諱ヤスキネ
 さみゑなつ やひこのほりて をかむとき  サミヱ夏  弥彦上りて 拝む時   
 あめのさかつき かすいたる      天の盃 数至る 
 すへらきとわく むかしゑす いまのむいかん  天皇問わく 「昔得ず 今飲む如何」
 そのこたえ わかくにさむく     その答え 「我が国寒く
 つねのめは おのつとすけり 常飲めば 自づと好けり」
 きみゑみて なんちはみきに わかやきつ  君笑みて 「汝は酒に 若やぎつ 
 さかなにたまふ おしもめそ  酒肴(さかな)に賜ふ 乙侍ぞ 
 なそなのをとに はたちめと   七十七の男に 二十女」と 
 こしにとつきて をめおうむ              越に婚ぎて 男女を生む
 さきにさゆりの はなみとて 先にサユリの 花見とて 
 きみのみゆきは さゆかわに ひとよいねます 君の御幸は サユ川に 一夜寝ねます
 くめかやの いすきよりひめ 久米が家の イスキヨリ姫
 かしはてに みけすすむれは 膳方(かしはで)に 御食勧むれば
 すめらきは これおめさんと つけのみうたに   天皇は これを召さんと 告げの御歌に
 あしはらの しけこきおやに すかたたみ  「葦原の 繁こき小屋に 菅畳 
 いやさやしきて わかふたりねん  いやさや敷きて 我が二人寝ん」
 これにめし つほねにあるお これに召し 局にあるを
 たきしみこ ふかくこかれて タギシ御子 深く焦れて 
 ちちにこふ うなつきうはふ  父に請ふ 頷き奪ふ
 ちちかよふ あやしきとめお さとるひめ  父が呼ぶ 怪しき留めを 悟る姫   
 みさほつすうた 操連(つず)歌
 あめつつち とりますきみと なとさけるとめ  「天つ地 娶ります君と 何ど割けるとめ」
 たきしみこ すすみこたえて タギシ御子 進み応えて
 にやおとめ たたにあはんと わかさけるとめ  「にや乙女 直に会わんと 我が割けるとめ」
 やわなきお おつてといえは みこもさる  和なきを 「追って」と言えば 御子も去る 
 ことめかつくる くしみかた   異侍(ことめ)が告ぐる クシミカタ 
 きみにもふさく しむのはち 君に申さく 「血脈の恥」 
 きみうなつきて ひそかにし  君頷きて 密かにし 
 このたひたまふ をしもめは このゆりひめそ  この度賜ふ 乙侍は このユリ姫ぞ
 としさみと うつきはつひに 年サミト 四月初日に
 わきかみの ほほまのおかに 掖上(わきかみ)の 頬間(ほほま)の丘に
 みゆきして めくりのそめは 御幸して 巡り望めば
 あなにえや ゑつはうつゆふ まさきくに  「あなにえや 得つは打つ木綿(ゆふ) 真幸(まさき)国 
 かたちあきつの となめせる これあきつしま 形蜻蛉(あきつ)の となめせる これ秋津島
 あまかみは やまとうらやす 天神は ヤマトうら安
 こゑねくに やまとひたかみ 越根国 ヤマト日高見
 そこちたる しわかみほつま 細矛千足(そこちたる) 磯輪上(しわかみ)ホツマ
 おおなむち たまかきうちつ  オオナムチ 玉垣内方
 にきはやひ そらみつやまと  ニギハヤヒ 空見つヤマト」
 よそふとし はつみかきみゑ 四十二年 一月三日キミヱ
 かぬなかわ みみのみことお よつきみこ   「カヌナ川 ミミの尊を 世嗣ぎ御子 
 かかみのとみは うさまろと   鏡の臣は 宇佐マロと 
 あたつくしねは ものぬしと   アタツクシネは 物主と 
 みこのもろはそ  御子の両羽ぞ
 くにまつり みけなへもふす  国政り 御食供(な)へ申す 
 をもちきみ ともにたすけよ  ヲモチ君 共に助けよ」
 なそむとし むつきのもちに みことのり   七十六年 一月の十五日に 詔
 われすてにをひ まつりこと   「我既に老ひ 祀り事 
 なおりなかとみ ものぬしの    直り中臣 物主の  
 をやこのとみに まかすへし   親子の臣に 任すべし 
 もろとみこれと わかみやお  諸臣これと 若宮を
 たてよといひて うちにいり  立てよ」と言ひて 内に入り
 やよいそきやゑ かみとなる  三月十日キヤヱ 神となる 
 あひらつひめと ものぬしと  アヒラツ姫と 物主と
 かしはらみやに はんへりて  橿原宮に 侍りて   
 なかくもにいり いきますの ことにつとむる   長く喪に入り 生き坐すの ことに務むる
 あめたねこ くしねうさまろ 天タネ子 クシネ宇佐マロ
 わかみやに おくりはかれは  若宮に 送り議(はか)れば
 たきしみこ ひとりまつりお とらんとす  タギシ御子 一人祀りを 執らんとす 
 なおりみたりは わかみやに とえとこたえす   直り三人は 若宮に 問えど答えず
 もにいりて もろはにまかす 喪に入りて 両羽(もろは)に任す
 みおくりも こはみてのはす 御送りも 拒みて延ばす
 たきしみこ ふたおとおたつ タギシ御子 二弟を絶つ
 うねひねの さゆのはなみと みあえして  畝傍峰(うねひね)の サユの花見と 御饗(みあえ)して 
 むろやにめせは ゐすすひめ  室屋に召せば ヰスズ姫 
 うたのなおしお こはしむる  歌の直しを 請わしむる
 わかみやふたお とりみれは いいろよむうた   若宮札を 取り見れば 気色(いいろ)詠む歌
 さゆかわゆ くもたちわたり うねひやま  「サユ川ゆ 雲立ち渡り 畝傍山 
 このはさやきぬ かせふかんとす  木の葉さやぎぬ 風吹かんとす」
 うねひやま ひるはくもとゐ 「畝傍山 昼は雲訪い
 ゆふされは かせふかんとそ このはさやきる  夕されば 風吹かんとぞ 木の葉さやぎる」
 わかみやは このふたうたお かんかえて  若宮は この二歌を 考えて
 さゆにそこなふ ことおしる サユに害(そこな)ふ ことを知る
 かんやゐみこに ものかたり   神ヤヰ御子に 物語り  
 むかしきさきお おかせしも   「昔后を 犯せしも   
 をやこのなさけ うちにすむ 親子の情け 内に済む 
 いまのまつりの わかままも   今の政りの わがままも 
 とみにさつけて のくへきお  臣に授けて 退くべきを
 またいらふこと いかんそや  また弄(いら)ふこと 如何ぞや  
 あにかこはみて おくりせす  兄が拒みて 送りせず 
 われらまねくも いつわりそ  我ら招くも 偽りぞ 
 これはからんと わかひこに ゆみつくらせて これ図らん」と 若彦に 弓作らせて 
 まなうらに まかこのやしり きたわせて   マナウラに マカゴの鏃(やじり) 鍛わせて
 かんやゐみこに ゆきおはせ  神ヤヰ御子に 靫(ゆき)負わせ  
 ぬなかわみこと ゑといたる  ヌナカワ尊 兄弟至る  
 かたおかむろの たきしみこ  片丘室の タギシ御子 
 おりにひるねの ゆかにふす   折に昼寝の 床に臥す  
 すめみこやゐに のたまふは  皇御子ヤヰに 曰(のたま)ふは  
 ゑとのたかひに きしらふは あつくひとなし 「兄弟の互ひに 軋(きし)らふは あつく人なし
 われいらは なんちゐよとて 我入らば 汝射よ」とて
 むろのとお つきあけいれは あにいかり  室の戸を 突き開け入れば 兄怒り   
 ゆきおひいると きらんとす   「靫負ひ入る」と 斬らんとす 
 やゐみこてあし わななけは ヤヰ御子手足 慄(わなな)けば 
 すめみこゆみや ひきとりて  皇御子弓矢 引き取りて 
 ひとやおむねに ふたやせに あててころしつ  一矢を胸に 二矢背に 当てて殺しつ
 おもむろお ここにおさめて みこのかみ   骸(おもむろ)を ここに納めて 御子の神 
 かんやゐはちて うえなひぬ  神ヤヰ恥ぢて 諾(うえなひ)ひぬ    
 といちにすみて いほのとみ  十市に住みて いほの臣 
 みしりつひこと なおかえて   ミシリツ彦と 名を代えて
 つねのおこなひ かみのみち  常の行ひ 神の道
 あにかまつりも ねんころにこそ    兄が祀りも 懇ろにこそ
 にいみやこ かたきにたてて 新都 葛城に建てて
 みやうつし ここにむかへる  宮遷し ここに迎へる
 ときあすす ももみそよとし 時天鈴 百三十四年
 つあとはる はつひさなゑの ことほきし  ツアト春 初日サナヱの 寿(ことほぎ)し 
 すえひかさやゑ わかみやの   末一日サヤヱ 若宮の    
 いみなやすきね としゐそふ  いむ名ヤスキネ 歳五十二   
 あまつひつきお うけつきて    天つ日嗣ぎを 受け継ぎて 
 かぬかわみみの あまきみと  カヌカワミミの 天君と   
 たかおかみやに はつこよみ  高丘宮に 初暦 
 かみよのためし みかさりお たみにおかませ  神代の例(ためし) 御飾りを 民に拝ませ
 ははおあけ みうえきさきと 母を上げ 御上后と
 なかつきの ふそかつみゑに おもむろお   九月の 二十日 ツミヱに 骸を 
 かしおにおくり よそほひは  白檮尾(かしお)に送り 装ひは 
 あひらつひめと わにひこと   アヒラツ姫と ワニ彦と 
 とはすかたりお なしはへる   問わず語りを 為し侍る  
 きみとみともに ほらにいり かみとなること  君臣共に 洞に入り 神となること 
 あすききて おひまかるもの みそみたり   翌日(あす) 聞きて 追ひ罷る者 三十三人 
 よにうたううた  世に謳う歌
 あまみこか あめにかえれは みそみおふ  「天御子が 天に還れば 三十三追ふ
 まめもみさほも とほるあめかな   忠も操も 通る天かな」
 ふとしはる みすすよりひめ うちつみや 二年春 ミスズヨリ姫 内つ宮
 しきくろはやか かわまため おおすけきさき 磯城クロハヤが カワマタ姫 大スケ后
 あたかまこ あたおりひめは すけきさき  アダが孫 アダオリ姫は スケ后  
 かすかあふゑの もろかめの   春日合ふ江の 守が女の
 いとおりひめお ここたへに  イトオリ姫を ココタヘに 
 みこなかはしの をしてもり   御子長橋の ヲシテ守  
 かたきくにつこ つるきねか  葛城国造 ツルギネが
 めのかつらひめ うちきさき   女のカツラ姫 内后 
 いとかつらより しもきさき  妹カツラヨリ 下后 
 あめとみかめの きさひめも  天富が女の キサ姫も 
 しもきさきまた ことめみそ 下后また 異侍三十
 はつきはつひに みことのり    八月初日に 詔
 われきくむかし おおなむち   「我聞く昔 オオナムチ 
 ことなすときに みもろかみ   事為す時に 三諸神 
 われあれはこそ おおよその ことなさしむる    我あればこそ おおよその 事為さしむる
 さきみたま またわさたまは わにひこそ  幸御魂 また業魂(わざたま)は ワニ彦ぞ
 かれおおなむち つきとなす   故オオナムチ 嗣となす  
 みたひめくりて ことなせは  三度廻りて 事為せば
 ひとりわかれて みたりめの  一人別れて 三人目の
 わにひこまてか みわのかみ  ワニ彦迄が 三輪の神」
 よよすへらきの まもりとて  代々天皇の 守りとて  
 なかつきそひか まつらしむ  九月十一日 祀らしむ   
 あたつくしねに おおみわの かはねたまわる アタツクシネに 大三輪の 姓賜わる
 わにひこは ももこそふほそ ワニ彦は 百九十二穂ぞ
 つくしより みゆきおこえは  筑紫より 御幸を請えば
 みかわりと なおりなかとみ くたらしむ  御代りと 直り中臣 下らしむ    
 とよのなおりの あかたなる  豊の直りの 県なる   
 みそふのぬしも のりおうく  三十二の主も 法を受く   
 さきにさみたれ むそかふり  先に五月雨 六十日降り   
 さなえみもちに いたむゆえ  稲苗みもちに 傷む故  
 つくるをしかと いなおりの  告ぐる御使人 稲直りの   
 はらひかせふの まつりなす  祓ひカセフの 祀りなす 
 ぬしらつとめて をしくさの  主ら務めて 押草の  
 まもりになえも よみかえり  守りに苗も 甦り    
 みあつくなれは にきはひて  実厚くなれば 賑わいて 
 かれにほつみの まつりなす  故に穂実(ほつみ)の 祀りなす    
 それよりたみの うふすなと まつるすみよし  それより民の 産土と 祀る住吉
 ものぬしと なかとみあわせ なおりかみ    物主と 中臣合わせ 直り神  
 うさにいとうの みめかみや   宇佐にイトウの 三女神や
 またあまきみは ひこゆきお   また天君は 彦ユキを  
 まつりのをみの すけとなす  祀りの臣の 輔となす 
 よさやゑうつき いほみさる  四(年) サヤヱ四月 斎臣(いほみ)去る
 みしりつひこの かみとなる  ミシリツ彦の 神となる
 さやとなかもち きさきうむ  サヤト九月十五日 后生む
 いみなしきひと たまてみこ  諱シギヒト タマテ御子
 むほねしゑふゆ いとおりめ  六年ネシヱ冬 イトオリ姫  
 うむいきしみこ すけとなる  生むイキシ御子 スケとなる    
 ふそゐさあとの むつきみか  二十五(年) サアトの 一月三日 
 しきひとたてて よつきみこ いまふそひとし シギヒト立てて 世嗣御子 今二十一歳
 しもそよか あめたねこさる ももやそな  十一月十四日 天タネ子去る 百八十七歳 
 おもむろおさむ みかさやま  骸納む 三笠山 
 かすかのとのに あひまつる  春日の殿に 合ひ祭る   
 みかさのかはね うさまろに  三笠の姓 宇佐マロに   
 たまひてたたゆ みかさをみ  賜ひて称ゆ 三笠臣
 みそむほさつき そかねなと  三十六年 五月 十日ネナト 
 すへらきまかる やそよとし  天皇罷る 八十四歳 
 わかみやそのよ もはにいり   若宮その夜 喪衣に入り  
 よそやよいたり いさかわに  四十八夜至り 率川に 
 みそきのわぬけ みやにいつ   禊の輪抜け 宮に出づ  
 みうえのとみは かみまつる  御上の臣は 神祀る  
 わかれつとむる わかみやの  分れ勤むる 若宮の  
 まつりこととる とみはあらたそ 政事執る 臣は新たぞ
 ときあすす ももなそねあと あふみみか   時天鈴 百七十ネアト 七月三日 
 みこしきひとの としみそみ   御子シギヒトの 年三十三   
 あまつひつきお うけつきて  天つ日嗣ぎを 受け継ぎて
 たまてみあめの すへらきみ  タマテミ天の 皇君   
 むかしここなの はなみとて  昔菊の 花見とて  
 みすすよりひめ かわまため  ミススヨリ姫 カワマタ姫  
 しきくろはやか たちにゆき  磯城クロハヤが 館に行き     
 みこうまんとし みかやめる  御子生まんとし 三日病める  
 ときめをときて これおこふ   時夫婦来て これを請ふ    
 きみにもふして たまてひこ  君に申して タマテヒコ   
 かかえとりあけ やすくうむ  抱え取り上げ 易く生む    
 しきかやあさひ かかやけは  磯城が家朝日 輝けば  
 たまてかみなお すすめいふ  タマテが御名を 進め言ふ  
 かはねおとえは をはこもり めはかつてひこ  姓を問えば 男はコモリ 女はカツテ彦
 たまふなは わかみやのうし もりのとみ  賜ふ名は 若宮の大人(うし) 守の臣 
 こもりかつての ふたかみお よしのにまつり コモリカツテの 二神を 吉野に祀り  
 ははおあけ みうゑきさきと 母を上げ 御上后(みうゑきさき)と
 なれみなも いみなもそれそ 慣れ御名も 諱もそれぞ
 かんなそか おもむろおくる つきたおか  十月十日 骸送る 桃花烏田(つきた)丘 
 きみゑのしはす かたしほの うきあなみやこ   キミヱの十二月 片塩の 浮孔(うきあな)都 
 きみとはつ ぬなそひめたつ うちつみや  キミト初(一月) ヌナソ姫立つ 内つ宮   
 これはくしねか おふえもろ    これはクシネが オフエモロ 
 ぬなたけめとり いいかつと ぬなそうむなり ヌナタケ娶り イイカツと ヌナソ生むなり
 しきはえか かはつめすけに 磯城ハエが カハツ姫スケに
 これのさき おおまかいとゐ なかはしに   これの先 オオマがイトヰ 長橋に  
 うむみこいみな いろきねの とこねつひこそ 生む御子諱 イロキネの トコネツヒコぞ
 かれうちお おおすけとなす 故内(侍)を 大スケとなす
 かわつひめ うむみこいみな  カワツ姫 生む御子諱
 はちきねの しきつひこみこ  ハチキネの シギツ彦御子
 よほつやゑ うつきそゐかに 四年ツヤヱ 四月十五日に
 ぬなそひめ うむみこいむな  ヌナソ姫 生む御子諱
 よしひとの おおやまとひこ すきともそ  ヨシヒトの 大ヤマト彦 スキトモぞ
 たけいいかつと いつもしこ なるけくにをみ タケイイカツと 出雲シコ なるケクニ臣 
 おおねとみ なるいわひぬし オオネ臣 なる斎主
 むほをしゑ むつきそゐかに 六穂ヲシヱ 一月十五日に
 うちのうむ いむなときひこ くしともせ 内(宮)の生む 諱トキヒコ クシトモセ
 そひのはつみか よしひとの  十一年の一月三日 ヨシヒトの 
 いまやとせにて よつきみこ    今八歳にて 世嗣御子   
 みそやさみゑの しはすむ すへらきまかる  三十八年 サミヱの 一二月六日 天皇罷る 
 わかみやの もはいりよそや ほきもなし   若宮の 喪衣入り四十八 祝(ほぎ)もなし
 いさかわみそき みやにいて まつりこときく   率(いさ)川禊ぎ 宮に出で 政り事聞く
 とみわけて うきあなのかみ みあえなす  臣分けて ウキアナの神 御饗(みあえ)なす
 あきおもむろお うねひやま  秋骸を 畝傍山
 みほとにおくる としななそなり   御陰(みほと)に送る 歳七十なり
 ときあすす ふもやほさみと きさらよか   時天鈴 二百八穂サミト 二月四日
 ねあゑわかみや としみそむ  ネアヱ若宮 歳三十六  
 あまつひつきお うけつきて  天つ日嗣ぎを 受け継ぎて
 おおやまとひこ すきともの   大ヤマト彦 スキトモの 
 あめすへらきと たたえます  天皇と 称えます 
 あめののりもて おかませて   天の法以て 拝ませて  
 まかりおこよみ あらためて マカリオ暦 改めて 
 みをやおくりの ほつみひと  御親送りの 八月一日と 
 しわすのむかと もはにいり  十二月の六日と 喪衣に入り
 なかつきそみか ははおあけ みうえきさきと 九月十三日 母を上げ 御上后と  
 むつきゐか かるまかりおの にいみやこ 一月五日 軽曲峡(かるまかりお)の 新都    
 うつしきさらき そひにたつ  遷し二月 十一日に立つ
 あめとよつひめ うちつみや  天豊津姫 内つ宮   
 しきゐてかめの ゐつみすけ  磯城ヰデが姫の ヰヅミスケ    
 ふとまわかかめ いいひめお ここたへゐとし  フトマワカが姫 イイ姫を ココタヘ五年    
  
 やよひゆみ すみえにみゆき 三月弓張(ゆみ、七日) 住吉に御幸
 みるおみて うちのうむみこ 海松(みる)を見て 内(宮)の生む御子
 かゑしねの いみなみるひと  カヱシネの 諱ミルヒト
 うちのちち いきしおをきみ   内(宮)の父 イキシ親君
 いいひめか たけあしにうむ イイ姫が タケアシに生む
 たちまみこ いみなたけしゐ タヂマ御子 諱タケシヰ
 ふそふとし きさらつしとは そふをしゑ   二十二年 二月ツシトは 十二日 ヲシヱ   
 かえしねみこお よつきなる ことしそやなり   カエシネ御子を 世嗣なる 今年十八歳なり
 みそよとし なかつきやかに きみまかる   三十四年 九月八日に 君罷る     
 わかみやかみに つかえんと  若宮神に 仕えんと  
 もはひとほまて みあえなす  喪衣一穂まで 御饗なす  
 いきますことく あくるふゆ  生き坐す如く 明くる冬   
 おくるうねひの まなこたに  送る畝傍の 真名子谷   
 なそよにまして おくるとみ とはすかたりや  七十四に坐して 送る臣 問はず語りや   
 わかきみも おくりおさめて みなかえします 若君も 送り納めて 皆帰します 
 ときあすす ふもよそみとし つみゑはる  時天鈴 二百四十三年 ツミヱ春   
 むつきつうゑは こかきしゑ   一月ツウヱは 九日キシヱ
 あまつひつきお うけつきて  天つ日嗣ぎを 受け継ぎて
 かゑしねあめの すへらきみ かさりおかませ カヱシネ天の 皇君 飾り拝ませ     
 うつきゐか みうゑきさきと ははおあけ  四月五日 御上后と 母を上げ   
 かたきわきかみ ゐけこころ みやこうつして 葛城掖上(わきがみ) 池心 都遷して    
 はつとしに いつしこころお  初年に イツシココロを
 けくにとみ きみとしみそひ  ケクニ臣 君年三十一
 さかいおか わかみやのとき 境岡 若宮の時
 わかはゑか ぬなきめはすけ ワカハヱが ヌナギ姫はスケ
 さたひこか めのおおゐめは なかはしに  佐太彦が 姫のオオヰ姫は 長橋に  
 をしてあつかふ かりすけよ   ヲシテ扱ふ 仮スケよ   
 うちはへむたり しもよたり あおめみそたり 内侍六人 下(侍) 四人 青侍三十人
 ふそことし きしゑはつみか きさきたつ  二十九年 キシヱ一月三日 后立つ  
 よそたりひめの としそゐそ  ヨソタリ姫の 歳十五ぞ   
 むかしやひこに ゆりひめお   昔弥彦に ユリ姫を 
 たまえはうめる あめゐたき   賜えば生める アメヰダキ 
 このあめおしを まこむすめ よそたりはこれ   子のアメオシヲ 孫娘 ヨソタリはこれ
 みそひとし うちみやのあに  三十一年 内宮の兄
 おきつよそ なるけくにとみ オキツヨソ なるケクニ臣
 よそゐとし さつきそゐかに きさきうむ  四十五年 五月十五日に 后生む   
 いむなおしきね あめたらし ひこくにのみこ いむ名オシキネ アメタラシ ヒコクニの御子
 よそことし きみゑはつひに きさきうむ  四十九年 キミヱ初日に 后生む 
 いむなおしひと やまとたり ひこくにのみこ   いむ名オシヒト ヤマトタリ ヒコクニの御子
 うむときに あさひかかやき 生む時に 朝日輝き
 むそやとし むつきそよかに   六十八年 一月十四日に
 おしひとお わかみやとなす としはたち  オシヒトを 若宮となす 歳二十
 あすおしきねお をきみとし かすかおたまふ 翌日オシキネを 親君とし 春日を賜ふ
 やそみとし あきはつきゐか  八十三年 秋八月五日
 きみまかる としももそみそ 君罷る 歳百十三ぞ
 とみきさき みなととまりて もにつかふ 臣后  皆留まりて 喪に仕ふ   
 みこかみまつる としみそゐ  御子神祀る 歳三十五
 をやにつかえて たみをさむ  親に継がえて 民治む  
 かれあにをきみ うえなひて  故兄親君 諾(うえな)ひて  
 そのこおおやけ あわたおの  その子オオヤケ アワタオノ
 かきもといちし そとみまめ カキモトイチシ 十臣忠  
 きみとしことの はつきゐか  君年毎の 八月五日 
 やよのもまつり まことなるかな   八夜の喪祀り 誠なるかな
 ときあすす みもふそむとし はつのなか   時天鈴 三百二十六年 一月の七日 
 あまつひつきお うけつきて   天つ日継ぎを 受け継ぎて 
 たりひこくにの あまつきみ  タリヒコクニの 天つ君
 いむなおしひと くらひなる     いむ名オシヒト 位成る
 かさりおたみに おかませて    飾りを民に 拝ませて 
 しきなかはゑか なかひめお おおすけきさき 磯城ナガハヱが ナガ姫を 大スケ后
 とちゐさか ひこかゐさかめ うちきさき  十市ヰサカ ヒコがヰサカ姫 内后 
 なかはしにて をしてもり すへてそふなり   長橋に居て ヲシテ守 総て十二なり
 ふとしふゆ むろあきつしま にいみやこ  二年冬 室秋津島 新都 
 そひほむれくも ほをむしお つくれはきみの      十一年叢雲 蝕虫を 付くれば君の  
 みつからに はらひかせふの まつりなす  自らに 祓ひカセフの 祀りなす 
 かれよみかえり みつほあつ  故甦り 瑞穂充つ
 よりてほつみの まつりなす  よりて果実の 祀りなす 
 ふそむとしはる きさらそよ   二十六年春 二月十四日 
 かすかをきみの おしひめお  春日親君の オシ姫を  
 いれてうちみや ことしそみ    入れて内宮 今年十三   
 みそみとしのち はつきそよ  三十三年後 八月十四日
 おくるみうえの おもむろお  送る御上の 骸を   
 はかたのほらに おさむなり    博多の洞に 納むなり 
 とみめのからも みなおさむ  臣侍(とみめ)の骸も 皆納む
 いきるみたりも おひまかる あめみこのりや  生きる三人も 追ひ罷る 天御子法や
 ゐそひとし なかつきはつひ きさきうむ  五十一年 九月初日 后生む  
 いむなねこひこ おおやまと ふとにのみこそ いむ名ネコヒコ 大ヤマト フトニの御子ぞ
 なそむとし はるむつきゐか  七十六年 春一月五日
 ねこひこの としふそむたつ よつきみこ     ネコヒコの 歳二十六立つ 世嗣御子 
 こそふとしはる するかみや  九十二年春 駿河宮 
 はふりはらのゑ たてまつる  ハフリハラの絵 奉る   
 みこもふせとも きみうけす  御子申せども 君受けず
  
 みよももふとし むつきこか 御世百二年 一月九日 
 きみまかるとし  ももみそな  君罷る歳 百三十七 
 みこもはおさむ よそやのち    御子喪衣収む  四十八後  
 わかみやにいて まつりこと 若宮に出で 祀り事
 なかつきみかに おもむろお  九月三日に 骸を   
 たまてにおくり ゐたりおふ  玉手に送り 五人追ふ  
 ともにおさめて あきつかみかな   共に納めて 秋津神かな

【ホツマツタヱ3、ヤのヒマキ(人の巻)31、直入神 三輪神の綾
 直り守 三輪守の文
 「橿原の 八年 ヲヤヱ秋」、「総使人(すへしかと) 高倉下が」、「やや帰り 告げ申さくは」、「臣昔 御言を承けて」、「遠(と)国より 筑紫三十二も」、「山陰も 巡り治めて」、「越後 弥彦山辺に」、「土蜘蛛が 塞(ふた)わる故に」、「矛用ひ 五度戦ひ」、「皆殺し 二十四治むと」、「国統絵 捧ぐれば君」、「タカクラを 紀の国造の 大連」。
 橿原宮即位八年ヲヤヱの秋、統率勅使(すべしかど)の高倉下がやっと帰ってきた。そして、君(神武天皇)に報告した内容は、「臣(とみ、高倉下)は昔、君の詔(命)を受けて遠くの国を巡り、筑紫に遠征し(九州の)三十二県、 次に山陰(やまかげ)を巡り治めてきました。その後、越後(こしうしろ)に行ったところ、弥彦の山辺に土蜘蛛がたむろしていましたので、矛を用いて武力で五度にわたる戦いを交えて敵を皆殺しにしました。これにより、二十四県の県主とその民を治めることができました」。無事治めてきた全国の縣の絵地図を作って奉呈したところ、君は高倉下の労を称えて紀伊国(和歌山県)の国造に取り立てて大連(おおむらじ)の称号を与えた。
 「二十年サミト 越後 初穂納めず」、「また向ふ 高倉下は 太刀抜かず」、「皆服えば 詔」、「高倉褒めて 国守と ヲシテ賜わる」、「弥彦守 長く住む故」、「妹婿 アメノミチネを」、「国造と 紀の館賜ふ」。
 橿原宮二十年サミトの年、越後が初穂(年貢米、税金)を納めなかった。そこで、再び高倉下が鎮圧に向かい、今回は一度も剣を抜かずに説得により相手を服らわすことができた。この報告を受けて、君(神武天皇)は詔を発した。高倉下を誉めて、今度は越後の国守という地位に取り立て、ヲシテを賜われた。高倉下は弥彦守となり、越後の国守として現地に永く住んことになった。その為、妹婿のアメノミチネを紀伊国の国造役として紀伊国の高倉下の館を賜われた。
 「二十四年 君世嗣無し」、「クメが子の イスキヨリ姫 乙侍(おしもめ)に」、「召せば后に 咎められ」、「ユリ姫となり 殿居せず」、「后孕みて 明くる夏」、「カンヤヰミミの 御子を生む 斎名イホヒト」。
 橿原(かしはら)宮二十四年(神武二十四年)、君(神武天皇)にはまだ世継ぎ皇子がいなかった。橿原(かしはら)の久米の娘のイスキヨリ姫を乙侍(おしもめ)の后に召そうとしたら、中宮のいそすず姫に咎められた。そのため、ユリ姫と名前を変え、殿中には入れられず久米の館でこっそりとお忍びで交わっておられた。翌年の夏、后が孕み、カンヤヰミミの御子を産んだ。いむ名をイホヒトと云う。
 「二十六年 祀り御幸の ヤスタレに」、「カヌカワミミの 御子生みて 斎名ヤスキネ」。
 橿原(かしはら)宮二十六年、君は、ヤスタレに祀りごとがあって御幸された。その時、カヌカワミミの御子をお生みになられた。いみ名をヤスキネと名付けた。
 「サミヱ夏 ヤヒコ上りて 拝む時」、「天の盃 数至る」、「皇問わく 「昔得ず 今飲む如何」、「その答え 「我が国寒く」、「常飲めば 自づと好けり」、「君笑みて 汝は酒に 若やぎつ」、「酒肴(さかな)に賜ふ 乙侍ぞ」、「七十七の男に 二十女と」、「越に婚ぎて 男女を生む」。
 サミヱ夏、ヤヒコ神となった高倉下が上京して君に拝謁した。天の酒盃の杯も重なった。皇(すべらぎ、神武天皇)が問うた。「汝(高倉下)は昔はそれほどお酒が飲めなかったのに、今こんなに飲めるようになったのはどうしたことだ」。高倉下の答は、「我が国(越後)は寒く、常についつい飲むようになってしまい、自然と強くなってしまいました」。君は微笑みながら、「汝(高倉下)は酒のおかげで若くなり男前になったものだ。君が高倉下に酒の肴にと賜った乙侍(おしもめ、久米の娘のいすきより姫、今はゆり姫となった絶世の美人)のお陰だろう」。高倉下は七十七の高倉下に二十の娘が越に婚いで一男一女をもうけた。(後にこの子供の何代か先の子孫の「よそたり姫」が人皇五代の孝昭天皇の中宮になる)
 「先にサユリの 花見とて」、「君の御幸は サユ川に 一夜寝ねます」、「クメが家の イスキヨリ姫」、「膳方に 御食勧むれば 」、「皇は これを召さんと 告げの御歌に」、「葦原の 繁こき小屋に」、「菅(清)畳 いやさや敷きて 我が二人寝ん」。
 以前の事。サユリ(山ゆり)の花見に、君(神武天皇)はさゆ川に御幸され一夜寝られた。久米の館のイスキヨリ姫が食の御饗(みあえ)の席で、膳方(かしわで)で食事を勧められた。皇(すべらぎ、神武天皇)はイスキヨリ姫を気にいり召したいと、歌を作って告白した。「葦原の 繁こき小屋に 菅畳 いやさや敷きて 我が二人寝ん」(葦原が深く繁げった小さな家で清々しい(真新しい)畳に、いや(弥)紗綾(絹織物)を敷いて、我ら二人で寝ましょう」。
 「これに召し 局にあるを」、「タギシ御子 深く焦れて 父に請ふ」、「頷き諾ふ 父が呼ぶ」、「怪しき留めを 悟る姫」、「操連歌」、「天つ地 娶ります君と 何ど割ける止」、「タギシ御子 進み応えて」、「熟乙女 直に会わんと 我が割ける止」。
 イスキヨリ姫は君(神武天皇)の局(つぼね)になられた。その後、タギシ御子(神武天皇が九州時代に娶った「あびらつ姫」との子供)が、イスキヨリ姫に深く恋焦がれてしまい、イスキヨリ姫の父親の久米に自分の思いを訴え姫との仲立ちを迫った。久米の父は仲立ちを承諾しイスキヨリ姫を呼んだところ、様子に気づいたイスキヨリ姫は操のつづ歌を作って父に差し出した。「天つ地 娶ります君と 何ど割ける止」(私と天皇とは太陽と月の関係で一体になっています。もう離れることは出来ません。どうして、私たちの間を割けることができましょうか。なぜ、私たちの間の関係を壊そうとするのですか」。タギシ御子は、即座に返歌した。「熟乙女 直に会わんと 我が割ける止」(にや乙女よ。ただただ会わんと貴方に会いに来たのです。我が思いを誰が何で止めることができませう。これほど恋焦がれていることを分かってください」。
 「和無きを 追ってと言えば 御子も去る」、「事(こと)侍(め)が告ぐる」、「クシミカタ 君に申さく シムの恥」、「君頷きて 密かにし」、「この度賜ふ 乙侍は このユリ姫ぞ」。
 ゆり姫の操と忠義の心を知ったゆり姫の父は、たぎし皇子に、やむなく、追って返事をしましょうと返事するのがやっとでありました。たぎし皇子もあきらめて帰りました。この「タギシ皇子」の一件を、侍女が告げ、クシミカタ(右大臣)が君に知らせた。「この件は、身内の恥(子の恥でもあり、親の恥でもある)です」。君も、内密にすることを承諾した。こういう経緯で高倉下(弥彦神)に賜われた乙侍(おしもめ)がユリ姫である。
 「年サミト 四月初日に」、「掖上(わきかみ)の 頬間(ほほま)の丘に」、「御幸して 廻り望めば」、「あなにえや 得つは打つ木綿(ゆふ) 優(まさ)き国」、「形蜻蛉の 交尾(となめ)せる これ蜻蛉洲(あきつしま)」、「天神は ヤマト心(うら)安」、「越根国 ヤマト 日高見」、「ソコチタル 磯輪上(しわかみ)ホツマ」、 「オオナムチ 玉垣内方」、「ニギハヤヒ 空回つヤマト」。
 翌年(神武二十八年)サミトの年、四月一日、わきかみ(奈良県御所市、国見山)の頬間(ほほま)の岡」に御幸され、大和の国を見渡して感激され、次のように仰せられた。「ああ、何と素晴らしい国であろうか。 私が得た(治める)国は何と素晴らしい国であろうか。「ゆう」(木綿)を打つ音があちこちから聞こえてくる。幸多き真幸国である。国の形は真ん中で全てが結びついており蜻蛉(あきつ)とんぼが丸く交尾しながら飛んでいるのとおなじようだ。我が蜻蛉洲(あきつしま、秋津洲)である。天神(あめかみ)は、ヤマトは浦裏まで心安く静かで恵み多い。越根国、ヤマト、日高見、山陰(そこ)、ちたる(関東地方)、磯輪上ホツマ(そびえ立っている富士山)、オオナムチ(大国主)の玉垣の内つ宮(出雲を示す)、ニギハヤヒが歌った『空みつヤマト』。全てが素晴しい」。
 「四十二年 一月三日キミヱ」、「カヌナカワ ミミの尊を 世嗣御子」、「鏡の臣は ウサマロと」、「アタツクシネは モノヌシと」、「御子の両羽ぞ」、「国政り 神饌供(みけなへ)申す」、「ヲモチ君 共に助けよ」。
 神武四十二年新年の正月三日キミヱ、詔。「カヌナカワの御子(神武天皇の三番目の皇子)を世継ぎ御子に定めた。鏡の臣(左大臣)はウサマロ、「アタツクシネ(右大臣)は大物主(七代目)になり、皇子を補佐する両翼(左大臣・右大臣)が決められた。この両翼の左大臣・右大臣が国祀り(国政)をし、神饌供(みけなへ)(食事の席で政治を語る臣・役職)を取り仕切るヲモチ君であり共に助け合わねばならない」。
 「七十六年 一月の十五日に 詔」、「我既に老ひ 政事」、「直り中臣 物主の」、「親子の臣に 任すべし」、「諸臣これと 若宮を」、「立てよと言ひて 内に入り」、「三月十日キヤヱ 神となる」。
 私(神武天皇)は既に年老いてしまったので、これからの祀りごとは直り中臣(うさまろ四代目、左大臣、春日)と物主の親子の臣(右大臣、大物主六代目のくしみかたま)と大物主七代目のあだつくしねと)に任せなさい。「諸臣よ。このこと(政治は左大臣右大臣に任せなさい)と若宮(かぬかわみみ皇子:後の綏靖天皇)を助けて立てよ」と言われて内殿に入って(こもって)、三月十日キヤヱの日に神となった(お亡くなった)。
 「アヒラツ姫と 物主と」、「橿原宮に 侍りて」、「長く喪に入り 生き坐すの 如(こと)に務むる」、「アメタネコ クシネウサマロ」、「若宮に 送り議(はか)れば」、「タギシ御子 一人政を 執らんとす」、「直り三人は 若宮に 問えど答えず」、「喪に入りて 両羽(もろは)に任す」、「御送りも 拒みて延ばす」。 

 和仁估安聰写本。小笠原写本は、「あびらつひめと ものぬしと かしはらみやに はんべりて なかくもにいり いきますの ごとにつとむる」。
 アヒラツ姫(九州時代の妃)と六代目物主である「くしみかたま」は一緒に橿原宮の帳(とばり)の内裏(だいり)に入り、長く喪に服した。あたかも君がまだ生きておられるかのようにお仕えした。アメタネコとクシネとウサマロの三人の直り三臣(なおりみたり)は若宮(たぎし皇子)に葬送の儀について相談された。 しかし、タギシ御子は一人で政事を執ろうとされた。(自分より年下で腹違いの「かぬかわみみ皇子」を世継ぎ皇子にされたため、タギシ御子は長男であるというプライドが許せなかったであろうことが窺える)  直り三臣の三人は若宮(たぎし皇子)に問うたがが返事がなかった。 タギシ御子は自らは喪に入り、政事は両翼の臣に任し、君(神武天皇)の葬送も拒否して延び延びになった。
 「タギシ御子 二弟を絶つ」、「畝傍峰(うねひね)の サユの花見と」、「御饗(みあえ)して 室屋に召せば」、「ヰスズ姫 歌の直しを 請わしむる」、「若宮札を 取り見れば 気色(いいろ)詠む歌」、「サユ川ゆ 雲立ち渡り」、「畝傍山 木の葉さやぎぬ 風吹かんとす」、「畝傍山 昼は雲訪い」、「夕されば 風吹かんとぞ 木の葉 さやぎる」。
 タギシ御子は密かに腹違いの弟二人を殺そうと陰謀を企んだ。うねび山の麓の「さゆ川」に「さゆり」の花見の宴を開き、室屋(竪穴住居)に招いた。ヰスズ姫は不審に思い、二人の息子に危険が迫っていることを知らせるために、歌の直し(添削)を乞う(頼む)ふりをして、若宮(息子)に歌見札を渡した。歌見札を取ってみたところ、いろいろな意味にとれる歌が記されていた。「サユ川ゆ 雲立ち渡り 畝傍山 木の葉さやぎぬ 風吹かんとす」(「さゆ川」より、暗雲が立ち渡り、うねび山の木の葉がさやぎ不穏(不吉な)な風が吹こうとしています)、「畝傍山 昼は雲訪い 夕されば 風吹かんとぞ 木の葉 さやぎる」(うねび山 昼は雲が立ち込めていて 夕方になると風が吹きだして木の葉がざわつき不穏です。(二つ目の歌の内容です)。
 「若宮は この二歌を 考えて」、「サユに害ふ ことを知る」、「カンヤヰ御子に 物語り」、「昔后を 犯せしも」、「親子の情け 内に済む」、「今の政の わがままも」、「臣に授けて 退くべきを」、「持た弄(いら)ふこと 如何ぞや」、「兄が拒みて 送りせず」、「我ら招くも 偽りぞ」、 「これ図らんと ワカヒコに 弓作らせて」、「マナウラに マカゴの鏃 鍛わせて」、「カンヤヰ御子に 靫(ゆき)負わせ 」、「ヌナカワ尊 兄と至る」。
 若宮(皇太子のかぬかわみみ皇子」、三男)は、この二つの歌を読んで考えた末、サユ川で殺りくが迫っていることを悟った。そこで、カンヤヰ御子(二男)に耳打ちして話した。「昔、兄のたぎし皇子は、君(神武天皇)の后であった「いすきより姫」(後の「ゆり姫」)を犯そうと企んで失敗し、親子の情け(一族の恥)で内内に済んだ過去がある。今は政事を我がものにしようと我がままに振舞っている。本来ならば、政治は臣に任せて身を引くべきところ、政治を自分で弄んでいる。これはどうすべきか。兄(たぎし皇子)は葬儀を拒んで未だ行なえていない。今日、我々を招くのも陰謀ではないか。こうなればこちらから反逆しよう」。こうして、ワカヒコ(弓削若彦)」に弓を作らせた。マナウラ(天津真浦:刀作り)」には特別鋭いマカゴの鏃を造らせた。カンヤヰ御子にはこの弓矢を入れた靫(ゆき)を背負わせて、ヌナカワ尊とこの兄弟は「たきし皇子」のいる「かたおかむろ」(奈良県香芝市)に向かった。
 「片丘室の タギシ御子」、「折に昼寝の 床に臥す」、「皇御子ヤヰに 宣給ふは」、「兄弟の互ひに 軋(きし)らふは 関(あつ)く人無し」、「我入らば 汝射よとて」、「室の戸を 突き開け入れば 兄怒り」、「靫(ゆぎ)負ひると 斬らんとす」、「ヤヰ御子手足 慄(わなな)けば」、「皇御子弓矢 引き取りて」、「一矢を胸に 二矢背に 当てて殺しつ」。
 片丘室に居たタギシ御子はその時、昼寝の最中で、床に伏して(寝て)いた。皇御子(天皇になられる皇子、かぬなかわ皇子)がヤヰ(かんやい皇子)に言うには、兄弟でお互いに張り合う(競り合う)のは「関(あつ)く人無し」。我が(すべ皇子)がまず先に室に入るから、汝が射殺せと言って、室の戸を突き上げて乱入した。目を覚ました兄(たぎし皇子)は「靫(ゆき)を背負って踏み入れるとは不届き者め」と怒って剣を抜いて二人に斬りかかってきた。ヤヰ御子(かんやい皇子)は手足がガタガタ震えてしまい何もできなかった。とっさに、皇御子(かぬなかわ皇子)が弓矢を引き取って、一つ目の矢を胸に、二つ目の矢を背中に命中させて殺した。
 「骸を ここに納めて」、「御子の神 カンヤヰ恥ぢて 諾(うえなひ)ひぬ」、「十市に住みて 斎の臣」、「ミシリツヒコと 名を代えて」、「常の行ひ 神の道」、「兄が祀りも 懇ろにこそ」。
 後に、死骸(たぎし皇子)をこの地に手厚く葬り、皇子神社(みこのかみやしろ)を建ててお祀りした。「かんやい皇子」は自分の不甲斐なさを恥じ、自ら身を引いて、十市(奈良県磯城郡多付近十市町)に住んで斎(いほ)の臣ミシリツヒコと名前を変えて、生涯を神の道に身を置いて、兄(たぎし皇子)の御霊(みたま)をねんごろにお祀りした。
 「新都 葛城に建てて」、「宮遷し ここに迎へる」。
 新しく都を葛城(かたき、かつらぎ)に建立し、遷都して、ここに新しく天皇を迎えた。
 「時天鈴 百三十四年」、「ツアト春 初日サナヱの 言祝し」、「末一日サヤヱ 若宮の」、「いむ名ヤスキネ 歳五十二」、「天つ日継ぎを 受け継ぎて」、「カヌカワミミの 天君と」、「高丘宮に 初暦」、「神代の例(ためし) 御飾りを 民に拝ませ」、「母を上げ 御上后と」。
 あすす歴の百三十四年ツアト春、元旦(初日)サナヱの日、祝賀(寿、ことほぎ)し、二十一日(末の一日)サヤヱの日、 若宮のいむ名ヤスキネは五十二才になり、天つ日嗣を受け継いだ。カヌカワミミ(綏靖天皇)の天君として即位し、高丘宮元年の初暦が始まった。 神代の先例に則って、御飾り(三種の神器)を民に拝ませた。先帝の母(いそすず姫)を太政皇后に格上げした。
 「九月の 二十日ツミヱに」、「骸を 白檮尾(かしお)に送り」、「装ひは アヒラツ姫と ワニヒコと」、「問わず語りを 為し侍る」、「君臣共に 洞に入り 神となること」、「翌日(あす) 聞きて 追ひ罷る者 三十三人」、「世に謳う歌」、「天御子が 天に還れば 三十三追ふ」、「忠も操も 徹る天かな」。
 綏靖元年九月(菊栗月、菊な月)の十二日ツミヱの日、神武天皇の「おもむろ」(死骸)を白檮尾(かしお、うねび山東北白檮尾)の陵に埋葬した。神武天皇の葬送のその時の状況(装い)はアヒラツ姫とワニヒコが無言でかしこまってつき従い、君の亡きがらと臣は共に洞に神になった(臣は生きたまま殉死されました)。 あくる日、お二人の殉死を聞いて、待女や従者たちは次々と君の後を追って殉死したものは三十三人。 このとき、世の人々が唄った歌。 「」(天皇子(あまみこ)が天(あめ)に帰れば三十三(みそみ)人が後を追った。天まで通る忠(まめ)と操であることよ)。
 「二年春 ミスズヨリ姫 内つ宮」、「磯城クロハヤが カワマタ姫 大スケ后」、「アダが孫 アダオリ姫は スケ后」、「春日合ふ江の 守が女の」、「イトオリ姫を ココタヘに」、「御子長橋の ヲシテ守」、「葛城国造 ツルギネが」、「女のカツラ姫 内后」、「妹カツラヨリ 下后」、「アメトミが女の キサ姫も」、「下后また 異侍三十」。
  綏靖二年の春、ミスズヨリ姫が内宮(うちつみや)になった。磯城(信貴)のクロハヤのカワマタ姫が大典侍后(おおすけ妃)になった。アダの孫のアダオリ姫はスケ妃になった。春日合ふ江の守の娘のイトオリ姫が菊妙(ここたえ)役になった。そして、御子長橋のヲシテ守役になつた。葛城国造ツルギネの娘のカツラ姫内妃になった。カツラ姫の妹のカツラヨリ姫が下妃になった。アメトミの娘のキサ姫も下妃になった。そのほかに待女(女官)が三十人いた。
 「八月初日に 詔」、「我聞く 昔 オオナムチ」、「事為す時に 御諸神」、「我あればこそ おおよその 事為さしむる」、「先霊魂 また業魂(わざたま)は ワニヒコぞ」、「故オオナムチ 嗣となす」、「三度回りて 事為せば」、「一人別れて 三人目の」、「ワニヒコ迄が 三輪の神」、「代々皇(すへらき)の 守りとて」、「九月十一日 祀らしむ」、「アタツクシネに オオミワの 姓賜わる」、「ワニヒコは 百九十二歳ぞ」。
 綏靖三年の一月元旦、詔。「私(綏靖天皇)は昔聞いたことがある。それは、オオナムチは、いろいろな事を為すとき御諸神が働いた。「天の声で、御諸神が、自分が働いて陰で支えるから、おおよその事が為し遂げられるのだ。私は先御霊(さきみたま、先祖神)である。また、いろいろなことをする技(術)御霊はワニヒコ(くしみかたまの命)の働きによる。 故に、オオナムチ(大物主)を世継ぎと為す」。オオナムチは三度(三代)にわたって国のために尽くし、「一人別れて」三人目のワニヒコ(くしみかたまの命)までが三輪の神となった。三輪の神は、代々皇(すへらき)の の守護神である。九月十一日、この祭神を祀らせた。アタツクシネ」(七代目大物主)に大三輪(おおみわ、大神神)の姓を賜わった(今までは「みわのかみ」)。ワニヒコは百九十二才だった。
 「筑紫より 御幸を請えば」、「御代りと 直り中臣 下らしむ」、「豊の直りの 県成る」、「三十二の主も 範を受く」、「先に五月雨 六十日降り」、「稲苗みもちに 傷む故」、「告ぐる御使人 穢直りの」、「祓ひカセフの 祀りなす」、「主ら務めて 押草の」、「守りに苗も 甦り 」、「実厚く成れば 賑わいて」、「故に果実の 祭りなす」、「それより民の 産土と 祭る住吉」、「物主と 中臣合わせ 直り神」、「宇佐にイトウの 三女神や」、「また天君は ヒコユキを」、「政の臣の 輔となす」。
 筑紫(九州)より御幸の要請があったので、天皇(綏靖天皇)の身代わりに直り中臣を派遣した。これにより、豊前、豊後(現在の大分県、一部福岡県)の直りの縣が成り、三十二の主が支配下に入り、範(のり)を受けるようになった。これより先、五月雨が六十日間、降り続いた。そして、早苗(さなえ)が稲熱病になって傷んでしまった。その為、御使人が稲直りの風吹(かぜふ)の祓いの祀りをした。自ら主を務め、押し草を守る祈りをしたら苗も蘇えり実が厚く熟し、収穫の時期を迎え賑わった。これにより「ほづみのまつり」(秋祭り、八朔の祭り:八月一日)をすることになった。これ以降、民(たみ、国)の産土を祀ることになった。住吉と物主と中臣の三神を合わせて土地の直り神とした。

 また、宇佐(宇佐八幡)では氏神様としてイトウの三女神(天照大神の宗方三女神、たけこ、たきこ、たなこ)を祀った。(三女神(みめかみ)は宗方三女神とも言う。別名「おきつしま姫」、「えつのしま姫」、「いちきしま姫」のこと。三女神は天照大神と「こます姫はやこ」との娘になっているが、実際は「そさのう」の子供であったと疑われ、三人は、そのため、宇佐に流された。そこで天照大神のお妃の一人、宗方のご出身の「とよ姫」が三女神を育てられ、大人になって、母「こます姫はやこ」が浮気をして出来た子供と知らされ、自らの身の汚れを掃うために「かだがき」(琵琶の原点)を持って全国を遍歴の旅に出た。なお、ここでの「いとう」には愛しく思うという意味と世の中を厭うという二つの意味が含まれている)。

 次に天君はヒコユキ(「にぎはやし」の子供の「うましまじ」の次男:旧事紀より)を政りの臣」の輔(すけ、補佐」とした。
 「四(年) サヤヱ四月 斎臣(いほみ)去る」、「ミシリツヒコの 神となる」。
 綏靖四年サヤヱの四月、斎臣(いほみ)が亡くなった。弟をたてて身の程を知ったミシリツヒコの神となられた。
 「サヤト九月十五日 后生む」、「斎名シギヒト タマテ御子」。
 サヤトの年九月十五日、中宮の「みすずより姫」が生んだ御子はいむ名シギヒトでタマテ御子。
 「六年 ネシヱ冬 イトオリ姫」、 「生む イキシ御子 スケとなる」。
 綏靖六年ネシヱの冬、イトオリ姫がイキシ御子を生み、すけ妃に昇格した。
 「二十五(年) サアトの 一月三日」、「シギヒト立てて 世嗣御子 今二十一歳」。
 綏靖二十五年のサアトの一月三日、シギヒトを立てて世継ぎ御子にした。御年は今年二十一才。
 「十一月十四日 アメタネコ去る 百八十七歳」、「骸納む 御笠山」、「春日の殿に 合ひ祭る」、「ミカサの姓 ウサマロに」、「賜ひて称ゆ ミカサ臣」。
 その年の十一月十四日、アメタネコが亡くなつた。享年百八十七歳。遺体を御笠山に納めた。春日の殿(春日神社)に一緒に祀った。四代目三笠臣の姓をウサマロに賜わり、三笠臣と称えられた。
 「三十六年 五月 十日」、「皇罷る 八十四歳」、「若宮その夜 喪罷に入り」、「四十八夜至り 率川に」、「禊の輪抜け 宮に出づ」、「御上の臣は 神祀る」、「分れ勤むる 若宮の」、「政事執る 臣は新たぞ」。
 綏靖三十六年五月十日ネナトの日、皇(すべらぎ)がお亡くなりになられた。若宮(皇太子、たまで皇子、実名しぎひと)はその夜から裳喪に入り、四十八日目の夜まで服した。喪明けの四十九日に率川(いさかわ)に入り、禊の「わぬけ」をして汚れを祓い身を清め、宮中に出た。今までの臣(御上の臣)は亡くなられ神となった皇を祀ることに専念した。 若宮(新しい安寧(あんねい)天皇「たまでみ」)の祀り事を仕切る臣は全て新たになった。
 「時天鈴 百七十ネアト 七月三日」、「御子シギヒトの 年三十三」、「天つ日継ぎを 受け継ぎて」、「タマテミ天の 皇君」。
 時はあすず歴の百七十年ネア)の七月(あふみ月)三日、皇子シギヒト、年は三十三才。天つ日嗣を受け継いで、タマテミの天の皇君になられた。
 「昔菊の 花見とて」、「ミススヨリ姫 カワマタ姫」、「磯城クロハヤが 館に行き」、「御子生まんとし 三日病める」、「時夫婦来て これを請ふ」、「君に申して タマテヒコ」、「抱え取り上げ 易く生む」、「磯城が家朝日 輝けば」、「タマテが御名を 進め言ふ」、「姓を問えば 男はコモリ 女はカツテヒコ」、「賜ふ名は 若宮の主 守の臣」、「コモリカツテの 二神を 吉野に祀り」、「母を上げ 御上后(みうゑきさき)と」、「慣れ御名も いむ名もそれぞ」。
 昔、菊栗(ここな)の花見(九月九日)のとき、中宮のミススヨリ姫がカワマタ姫と磯城クロハヤの館に行った時に、御子がまさに生まれようとして、三日間苦しんで病んでおられた。その時、夫婦ものが来て、陣痛の叫び声を聞きつけて、君(天皇)に取り上げさせてくださいと出産の手助けを申しあげたところ、夫の方のタマテヒコが赤子を抱え取り上げ、出産することができた。磯城クロハヤ館には朝日が差し込んで輝いた。君が、タマテヒコに御名を賜えようとして改めて名前を問えば、男はコモリ、女の方はカツテヒコと名乗った。賜われた名前は「若宮の主のま守の臣」。コモリとカツテの二神を吉野に祀った。先帝の母を上げ、太政皇太后として祀った。名前もいむ名もそれぞれ祀った。
 「十月十日 骸送る 桃花烏田丘」 
 十月(神々が並びいる月)十日、ご遺体(二代目綏靖天皇)を桃花烏田丘(奈良県橿原市畝傍山のふもと)に送った。
 「キミヱの十二月 片塩の 浮孔(うきあな)都」、「キミト一月 ヌナソ姫立つ 内つ宮」、「これはクシネが オフエモロ ヌナタケ娶り」、「イイカツと ヌナソ生むなり」、「磯城ハエが カハツ姫スケに」、「これの先 オオマがイトヰ 長橋に」、「生む御子いむ名 イロキネの トコネツヒコぞ」、「故内(侍)を 大スケとなす」、「カワツ姫 生む御子いむ名」、「ハチキネの シギツヒコ御子」、 「四年ツヤヱ 四月十五日に」、「ヌナソ姫 生む御子いむ名」、「ヨシヒトの オオヤマトヒコ スキトモぞ」、「タケイイカツと イツモシコ なる ケクニ臣」、「オオネ臣 なる斎主」、 「六年 ヲシヱ 一月十五日に」、「内(宮)の生む いむ名トキヒコ クシトモセ」。
 キミヱ年の十二月、片塩の浮孔(うきあな)宮を都とした。キミトの正月、ヌナソ姫が中宮に立たれた。ヌナソ姫は、(あだつ)くしね」(七代目おおものぬし)のオフエモロ(東大阪市,平牧(ひらおき)神社の神主)の娘のヌナタケ姫を娶り、イイカツとヌナソ姫を生んだものである。磯城ハエ(奈良県桜井市の豪族)の娘のカハツ姫がすけ妃になった。(かわず姫は安寧天皇の二番目のお妃になる) これ以前の話であるが、オオマの娘のイトヰ姫が長橋で生んだ御子は実名イロキネでトコネツヒコと云う。これにより、お妃のイトヰ姫は(子供が生まれたので)内(侍)から大スケに格が上がつた。(イトヰ姫は安寧天皇の三番目のお妃になる) カワツ姫が生んだ御子は、実名ハチキネでシギツヒコ御子と云う。安寧四年ツヤヱ年の四月(卯の花の月)十五日、ヌナソ姫(中宮)が生んだ御子は実名ヨシヒトのでオオヤマトヒコスキトモと云う。(後の四代目の懿徳(いとく)天皇になる) タケイイカツとイツモシコはケクニ臣(天皇と食事を取られ国政を語る臣、今の官房長官のようなもの)になった。オオネ臣は斎主(いわいぬし)(神を祀る専門の神職)に抜擢された。安寧六年 ヲシヱの年一月十五日、内宮(ぬなそ姫)が(二人目に)生んだ皇子の実名がトキヒコクシトモセと云う。
 「十一年の一月三日 ヨシヒトの」、「今八歳にて 世嗣御子」。
 安寧十一年の正月三日、ヨシヒト(おおやまとすきとも、四代目の懿徳(いとく)天皇になる)が今八才で世継ぎ皇子(皇太子)になった。
 「三十八年 サミヱの 一二月六日 皇罷る」、「若宮の 喪罷入り四十八 祝も無し」、「率川禊ぎ 宮に出で 政事聞く」、「臣分けて ウキアナの神 敬えなす」、「秋骸を 畝傍山」、「御陰に送る 歳七十なり」。
 安寧三十八年サミヱ年の十二月六日、すべらぎ(安寧天皇)がお亡くなりになられた。若宮(実名「よしひと」で「おおやまとすきとも」(四代目の懿徳(いとく)天皇になる)は喪に服すこと四十八日目の夜まで続いた。この間、祝いごとはなかった。喪が明けると率川(いさかわ、春日山からサホ川までの川、大和川の源流)で禊ぎをした後、宮に出て政り事を聴いた。 臣を先帝の大臣と新しい大臣を切り離し分けて、ウキアナの神を敬った。秋、八月一日、ご遺体を畝傍山の御陰陵にお送りした。亡くなった年は七十才。
 「時天鈴 二百八年サミト 二月四日」、「ネアヱ若宮 歳三十六」、「天つ日継ぎを 受け継ぎて」、「オオヤマトヒコ スキトモの」、「天皇と 称えます」、「天の法以て 拝ませて」、「マカリオ暦 改めて」、「御親送りの 八月一日と」、「十二月の六日と 喪罷に入り」、「九月十三日 母を上げ 御上后と」。
 時、あすず歴二百八年サミト年の二月四日ネアヱの日、若宮(四代懿徳天皇「おおやまとひこ・すきとも」)は、年は三十六才で天つ日嗣を受け継いで皇位を継承し、オオヤマトヒコスキトモ(四代懿徳天皇)と称えられた。天の典に則って民に三種の神器を拝ませた。マカリオ宮に遷都し、年号をマカリオ暦に改めた。 「みおや」(先祖神:安寧天皇)をお送りする供養は八月一日(ほつみひと)と十二月六日(亡くなった日)に行なわれた。九月十三日、先帝の母(ぬなそ姫)を太政皇后に格上げした。
 「一月五日 軽曲峡(かるまかりお)の 新都」、「遷し二月 十一日に立つ」、「アメトヨツ姫 内つ宮」、「磯城ヰデが姫の ヰヅミスケ」、「フトマワカが姫 イイ姫を ココタヘ五年」。
 一月五日、軽曲峡(かるまかりお)に新しい都を移した。二月十一日、アメトヨツ姫を中宮に立てた。磯城のヰデの娘のヰヅミ姫」をスケ妃にした。フトマワカが姫の娘のイイ姫をココタヘという役目にした。
 「三月七日 住吉に御幸」、「海松を見て 内(宮)の生む御子」、「カヱシネの いむ名ミルヒト」、「内(宮)の父 イキシ親君」、「イイ姫が タケアシに生む」、「タヂマ御子 いみ名タケシヰ」。
 懿徳(いとく)五年三月七日、住吉(住吉神社:現大阪市大和川下流付近)に御幸された。海松(みる、海藻)を見て、中宮「あめとよつ姫」が生んだ御子の名前はカヱシネでいむ名ミルヒトと云う。(このミルヒトは後の孝昭天皇になる) 中宮「あめとよつ姫」の父はイキシ親君と云う。三番目のお妃イイ姫がタケアシで生んだのがタヂマ御子、いむ名をタケシヰと云う。
 「二十二年 二月ツシトは 十二日ヲシヱ」、「カエシネ御子を 世嗣なる 今年十八歳なり」。
 懿徳二十二年二月ツシトの十二日ヲシヱ、カエシネ御子を世継ぎにした。今年十八才。
 「三十四年 九月八日に 君罷る」、「若宮神に 仕えんと」、「喪罷一年まで 敬えなす」、「生き坐す如く 明くる冬」、「送る畝傍の 真名子谷 」、「七十四に坐して 送る臣 問はず語りや」、「若君も 送り納めて 皆帰します」。
 懿徳三十四年九月八日、君(おおやまとひこ・すきとも・四代懿徳天皇)はお亡くなりになられた。若宮(「かえしね」実名「みるひと」孝昭天皇)は、神にお仕えしようとして喪に一年間服した。まだ生きておられるかのように御会えをされた。 あくる年の冬、ご遺体を畝傍山(うねび)の真名子(まなご)谷に葬った。七十年在世された。送る臣は問わず語らず無言のまま先帝と心を同じくした者、自ら洞に入って殉死された。若宮が送りおさめて(見納めて)、みなを天へ返した。
 「時天鈴 二百四十三年 ツミヱ春」、「一月ツウヱは 九日キシヱ」、「天つ日継ぎを 受け継ぎて」、「カヱシネ天の 皇君 飾り拝ませ 」、「四月五日 御上后と 母を上げ」、「葛城掖上 池心 都遷して」、「初年に イツシココロを ケクニ臣」、「君年三十一 境岡」。
  時は、あすず歴の二百四十三年、ツミヱ春、正月ツウヱの九日キシヱ、天つ日嗣を受け継ぎ、カヱシネが天の皇君(すべらぎ君)になられて、三種の神器を民に拝ませた。 四月五日、先帝の母(あめとよつ姫)を太政皇后に格上げし、葛城掖上の池心(かたきわきがみのいけこころ)宮に新しく都を移した。 孝昭元年、イツシココロをケクニ臣に任命した。天君の年は三十一才。「境岡」(さかいおか)。
 「若宮の時 ワカハヱが ヌナギ姫はスケ」、「サタヒコが 姫のオオヰ姫は 長橋に」、「ヲシテ扱ふ 仮スケよ」、「内侍六人 下(侍) 四人 青侍 三十人」。
 天君がまだ若宮(皇太子)であった時、ワカハヱの娘のヌナギ姫がスケ妃になった。サタヒコの娘のオオヰ姫は長橋で神璽(おしで)を扱う仮のスケ妃になった。その他に、内女(内侍)は六人、おしも女(下女)は四人、女官(青女)たちは三十人いた。
 「二十九年 キシヱ一月三日 后立つ」、「ヨソタリ姫の 歳十五ぞ」、「昔ヤヒコに ユリ姫を」、「賜えば生める アメヰダキ」、「子のアメオシヲ 孫娘 ヨソタリはこれ」。
孝昭二十九年、キシヱの年の正月三日、妃(中宮)をたてた。ヨソタリ姫の年は十五才。 昔、神武天皇が弥彦神(たかくらした)にユリ姫を賜わった時、生まれたのがアメヰダキの子のアメオシヲであり、その孫娘がこのヨソタリ姫である。
 「三十一年 内宮の兄」、「オキツヨソ なるケクニ臣」。
 孝昭三十二年、内宮(よそたり姫)の兄のオキツヨソがケクニ臣臣に任命された。
 「四十五年 五月十五日に 后生む」、「斎名オシキネ アメタラシ ヒコクニの御子」。
孝昭四十五年五月十五日、妃(中宮よそたり姫)が皇子を生んだ。実名オシキネでアメタラシ ヒコクニの御子。
 「四十九年 キミヱ初日に 后生む」、「斎名 オシヒト ヤマトタリ ヒコクニの御子」、「生む時に 朝日輝き」。
孝昭四十九年、キミヱの年元旦に妃(よそたり姫)が(二人目の)皇子を生んだ。実名オシヒト、ヤマトタリ ヒコクニの御子。生まれた時、朝日が輝いた。(後に世継ぎ皇子になる)
 「六十八年 一月十四日に」、「オシヒトを 若宮となす 歳二十」、「翌日オシキネを 親君とし 春日を賜ふ」。
 孝昭六十八年一月十四日、次男のオシヒトを若宮(立太子礼)にした。年は二十。後日、長男のオシキネを親君(おきみ)として春日姓を賜われた。
 「八十三年 秋八月五日」、「君罷る 歳百十三ぞ」、「臣后  皆留まりて 喪に仕ふ」、「御子神祀る 歳三十五」、「祖に継がえて 民治む」、「故兄親君 諾(うえな)ひて」、「その子オオヤケ アワタ・オノ」、「カキモト・イチシ 十臣忠」、「君年毎の 八月五日」、「八夜の喪祭 誠なるかな」。
 孝昭八十三年秋の八月五日、君(「かえしね」実名「みるひと」孝昭天皇)がお亡くなりになられた。年は百十三才。臣と妃は皆、喪に服し仕えた。皇子(皇太子、実名「おしひと」、「やまとたりひこくに皇子」)が、亡くなられ神となられた孝昭天皇を祀った。皇子の年は三十五才。祖法の伝統を受け継いだので民を治めることができた。しかるが故に、兄の春日親王は、弟のやり方に納得した。春日親王の子のオオヤケ、アワタ、オノ、カキモト、イチシらの十臣忠が支えた。君は毎年八月五日、八夜にわたる喪祀りを執り行い、誠だった。
 「時天鈴 三百二十六年 一月の七日」、「天つ日継ぎを 受け継ぎて」、「タリヒコクニの 天つ君」、「いみ名オシヒト 位成る」、「飾りを民に 拝ませて」、「磯城ナガハヱが ナガ姫を 大スケ后 」、「十市ヰサカ ヒコがヰサカ姫 内后」、「長橋に居て ヲシテ守 総て十二なり」。
  時、あすず歴三百二十六年、正月の七日、天つ日嗣を受け継いだ。 タリヒコクニの天君が即位された。いみ名オシヒト。(孝安天皇になる)天皇の位である三種の神器を民に拝ませた。ります。磯城(しぎ)のナガハヱの娘のナガ姫が大スケ后になった。 十市ヰサカ彦のヰサカ姫が内妃になり、長橋に住まわれて神璽(おしで)を扱う役を担った。 孝安天皇のお妃は全て揃って十二名おられた。
 「二年冬 室秋津島 新都」。
 孝安二年の冬、室秋津島に遷都した。
 「十一年叢雲」、「蝕虫を 告ぐれば君の 自らに」、 「祓ひカセフの 祀りなす」、「故甦り 瑞穂充つ 」、「よりて果実の 祀りなす」。
 孝安十一年、むら雲が太陽をさえぎり、稲穂虫が大発生したという訴えがあった。それを聞いて、天皇自らお祓いをして、風吹(かぜふ)の祀りをした。 お陰で稲穂は再び元気に蘇えり、豊作になった。これにより果実の祀りをするようになった。
 「二十六年春 二月十四日 」、「春日親君の オシ姫を」、「入れて内宮 今年十三」、「三十三年後 八月十四日」、「送る御上の 骸を」、「博多の洞に 納むなり」、「臣侍(とみめ)の骸も 皆納む」、「生きる三人も 追ひ罷る 天御子法や」。
 孝安二十六年春二月十四日、春日親君の娘のオシ姫を内宮にいれた。今年十三才。三十三年後、八月十四日、御上(先帝:「かえしね」実名「みるひと」孝昭天皇)のご遺体を博多(奈良県御所市)の洞(ほら)に納めた。天君にお仕えした臣や女官たちの亡きがらも一緒に納めた。生きていた三人も後を追って亡くなり(追い枯れ)納められた。天御子法による。
 「五十一年 九月初日 后生む」、「いみ名ネコヒコ オオヤマ フトニの御子ぞ」。
孝安五十一年九月一日、妃(「おし姫」)が待望の御子を生んだ。御子の名はいみ名ネコヒコでオオヤマ フトニの御子と云う。(後の孝霊天皇になる)
 「七十六年 春一月五日」、「ネコヒコの 歳二十六立つ 世嗣御子」
 孝安七十六年新春一月五日、皇子のネコヒコの年が二十六才の時、世継ぎの御子になられた。
 「九十二年春 駿河宮」、「ハフリハラの絵 奉る」、「御子申せども 君受けず」。
 孝安九十二年春、駿河宮のハフリ(神主、祝主)がはらみやま(現富士山)の絵を奉った。皇子ネコヒコ(後の孝霊天皇)は受け取るよう申したが、君(「おしひと」孝安天皇)は受け取らなかった。
 「御世百二年 一月九日」、「君罷る歳 百三十七」、「御子喪罷収む  四十八後」、「若宮に出で 政事」、「九月三日に 骸を」、「玉手に送り 五人追ふ 」、「共に納めて アキツ神かな」。
 御世は孝安百二年一月九日、君(「おしひと」孝安天皇)はお亡くなりになられた。年は百三十七才。 皇子「ねこひこ」(後の孝霊天皇)は喪に服した。四十八夜の後、若宮に入り政事をした。 九月三日に、ご遺体を玉手に送り埋葬した。 五人のお供の方が後を追って(生きたまま)一緒に埋葬された。アキツ神となった。





(私論.私見)