ホツマツタヱ3、ヤのヒマキ(人の巻)30

 (最新見直し2011.12.30日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「ホツマツタヱ3、ヤのヒマキ(人の巻)30、天君都鳥の文」を説き分ける。原文は和歌体により記されている。「ウィキペディアのホツマツタヱ」、「30綾 目次」、「カンタケ・都鳥の歌 神武の御世」その他を参照しつつ、れんだいこ訳として書き上げることにする。

 2011.12.24日 れんだいこ拝


【ホツマツタヱ3、ヤのヒマキ(人の巻)30、天君都鳥の文】
 カンタケ・都鳥の歌、神武の御世
 あまきみ みやことりのあや      天君 都鳥の文
 あまきみの もとはみまこの いかつちお        天君の 本は御孫の 雷(いかつち)を   
 わけてをさむる ををんかみ   別けて治むる 大御神  
 ほめてみまこは あまかみの           褒めて御孫は 天神の  
 あらはるいつと たまふなは         顕はる稜威と 賜ふ名は  
 わけいかつちの あまきみと        別雷の 天君と
 みくさもわけて あめみまこ          三種も分けて 天御孫 
 ひたりかすかと みきこもり           左春日と 右コモリ
 さつけてよよに これおつく        授けて代々に これを継ぐ  
 みをやつくしに くたるとき をしてはもちて        御祖筑紫に 降(くだ)る時 オシテ(璽)葉持ちて   
 みかかみは ひたりおしくも          御鏡は 左オシクモ 
 やゑかきは くしみかたまに さつけおき           八重垣は クシミカタマに 授け置き 
 みをやつくしに ひたるとき      御祖筑紫に 日足る時 
 かみのをしては たけひとに        神のオシテ葉 タケヒトに
 ははたまよりも かみとなる         母玉ヨリも 神となる   
 かかみはかあひ やゑかきは       鏡はカアイ  八重垣は 
 わけつちみやに あつけおく             別雷(わけつち)宮に 預け置く
 なかすねひこは やまさきに かわふねこはむ             ナガスネ彦は 山崎に 川船拒む
 ものぬしか うたんとすれは              物主が 討たんとすれば
 ゐつせみこ おそれたかより ゆくつくし    ヰツセ御子 恐れ多賀より 行く筑紫
 くしみかたまは おしくもと       クシミカ玉は オシクモと
 なかすねうては にけゆくお         ナガスネ討てば 逃げ行くを
 おひてかわちに ととまりて         追ひて河内に 留まりて 
 たけちのこりと  あうゑもろ        タケチノコリと アウヱモロ
 やまとのそふに ふせかしむ         大和のソフに 防がしむ
 ものぬしかえり  おしくもは             物主帰り オシクモは
 かわちにゆきて おしほより         河内に行きて 小塩より   
 かすかおまねき ひらおかの        春日を招き 枚岡の 
 やしろまつりて かみとなる          社祀りて 神となる
 つくしのたねこ もおをさめ            筑紫のタネコ 喪を治め  
 よかみまつりて あうゑもろ  四神祀りて アウヱモロ
 かわちおかねて をさめしむ         河内を兼ねて 治めしむ 
 おおものぬしは あわうみの         大物主は 淡海(あわうみ)の   
 おおくにみやお つくりかえ         大国宮を 造り替え
 こしねのくにも さほこみな         越根の国も 細矛皆
 たみおをさめて しつかなり                   民を治めて 静かなり   
 いまあまきみの くらひなる              今天君の 位なる   
 むかしはみうゑ わけさつく         昔は御上 分け授く
 いまはなきゆえ そのつかひ           今はなき故 その使ひ
 よりてはかれは みないわく            寄りて議れば 皆曰く
 ひのかみつかひ みちをみと           「日の神使い ミチヲミと
 つきのつかひは あたねなり         月の使いは アタネなり
 ほしのつかひは あめとみと         星の使いは 天富(アメトミ)」と
 いんへたまわり みそきなす           斎瓮(いんべ、忌部)賜わり 禊なす
 ときにかしはら すへらきの          時に橿原 天皇の
 みよあらたまの としさなと はつひさやゑに              御代新玉の 年サナト 初日サヤヱに 
 うましまち とくさたからお たてまつる            ウマシマチ 十種宝を 奉る 
 あめのたねこは かみのよの   アメノタネコは 神の代の  
 ふることしるし たてまつる       古言記し 奉る 
 ななくさみそも とんとほも      七草みそも ドンド火も 
 かみありかゆも おこなわれ          神在り粥も 行われ 
 さあゑひつきと あめとみは           サアヱ (一月二十日)日嗣ぎと 天富は
 わけつちみやの つるきもち          別雷宮の 剣持ち 
 あたねはかかみ もちのほる       アタネは鏡 持ち上る    
 きみたかみくら しとねこゑ      君高御座 褥九重
 あまのたねこは しとねみゑ           天のタネコは 褥三重
 くしみかたまは しとねふゑ            クシミカ玉は 褥二重    
 ひのをみうたふ みやことり みゑおりてきく        日の臣歌ふ 都鳥 三重降りて聞く
 あわおたす あますへらきの          「天地を治す 天皇の 
 もろはとみ かすかとこもり        両(もろ)羽臣 春日とコモリ  
 きみとみの こころひとつに みやことり       君臣の 心一つに 都鳥 
 かたちはやたみ くひはきみ             形は八民 首は君
 かかみとつるき まてのはね         鏡と剣 左右の羽  
 もののへはあし かかみとみ          物部は足 鏡臣  
 つきほろふれは たみはなれ ひつきふまれす           継ぎ滅ぶれば 民離れ 日月踏まれず
 つるきとみ つきほろふれは     剣臣 継ぎ滅ぶれば
 ものふわれ よおうははるる     武士(ものふ)破れ 世を奪わるる
 やたをみは そろをうはるの     ヤタ臣は 繁(ぞろ)栄(は)ふ春の
 たみわさお かんかみるめそ     民業を 鑑みる目ぞ
 かきをみは よこまおからし     垣臣は 汚曲を枯らし
 もののふの ちからもるてそ     武士の 力守る手ぞ
 このゆえに みくさおわけて さつくるは        この故に 三種を分けて 授くるは 
 なかくひとつに なるよしお       " 長く一つに なる由を  
 あやにしるして をてつから       綾に記して 御手づから  
 ふみおみまこに さつけます       文を御孫に 授けます     
 せをりつひめは みかかみお       セヲリツ姫は 御鏡を 
 もちてかすかに さつけます            持ちて春日に 授けます
 はやあきつめは みつるきお           ハヤアキツ姫は 御剣を
 もちてこもりに さつけます    持ちてコモリに 授けます 
 みたひうやまひ みなうくる        三度敬ひ 皆受くる  
 やまとひつきの みやことりかな        ヤマト日嗣ぎの 都鳥かな 
 ひのをみは しるしのみはこ たてまつる       日の臣は 璽の御筥 奉る  
 あたねはかかみ あめとみは やゑかきもちて        アタネ(月の臣)は鏡 天富は 八重垣持ちて
 あめたねこ くしみかたまに さつくなり      アメタネコ クシミカ玉に 授くなり
 きみとみもとの しとねしく             君臣元の 褥敷く   
 とみももつかさ ことほきし よろとしうたふ      臣百司 言祝し 万歳歌ふ    
 みかかみは ゐそすすひめに     御鏡は ヰソスズ姫に
 やゑかきは あひらつひめに     八重垣は アヒラツ姫に
 みしるしは きみのみにそえ     御璽は 君の身に添え
 みくさとも うちつのみやに をさめます      三種とも 内つの宮に 納めます   
 はらみのためし うちみやと たたゆもとなり       原見の例 内宮と 称ゆ本なり 
 みかさりお たみにおかませ     御飾りを 民に拝ませ
 ねのつきに あゆきわすきの みやつくり    十一月に 天ユキ地スキの 宮造り
 もとあけあわの かみまつり             元明天地の 神祀り(大嘗会)  
 たねこくしたま まてにあり             タネ子クシ玉 左右にあり  
 みけなへまつり もふすをみ       神饌供(な)え祀り 申す臣
 うましものへと とおまもる           ウマシ物部と 門を守る   
 みちをみくめと みかきもり        道臣久米と 御垣守 
 かんのとことは いんへとみ             神の祝詞(とこと)は 斎瓮(忌部)臣
 つきはるそひか みことのり                次春十一日 詔
 おもえはまめは うましまち よよものへつけ       「思えば忠(まめ)は ウマシマチ 代々物部継げ 
 みちをみは のそみのままに       道臣は 望みのままに
 つきさかと くめのところお たまふなり      築坂と 久米の所を 賜ふなり
 うつひこかこと ふねとはに やまとくにつこ        ウツ彦が殊 船と埴 大和国造
 おとうけし たけたあかたし     弟ウケシ 猛田県主
 くろはやは しきのあかたし     クロハヤ(弟シギ) は 磯城(しき)の県主
 あめひわけ いせのくにつこ     天日別 伊勢の国造
 あたねかみ かものあかたし     アタネ守 賀茂の県主
 かつてまこ つるきねかつき くにつこそ      カツテ孫 ツルギネ葛城(かつき) 国造ぞ 
 やたからすまこ かとのぬし     八タカラス孫 葛(かど)野主」
 みほのさみたれ よそかふり            三穂の五月雨 四十日降り  
 ゑやみはやりて いねみもち        疫病(えやみ)流行りて  稲みもち  
 きみにつくれは あめたねこ         君に告ぐれば  天タネ子 
 くしみかたまと やすかわの かりやにいのり            クシミカ玉と 安川の 仮屋に祈り
 ときゑやみ なおるといねの いたみさる      時疫病 直ると稲の 痛み去る
 なおりのはらひ おこなえは         直りの祓ひ 行えば  
 ゑやみもなおり いねなおる ゆえみことのり          疫病も直り 稲直る 故詔
 わにひこか みをやくしひこ いさめいる      「ワニ彦が 御祖クシ彦 諌め入る
 なおきにたまふ やまとかみ          直きに賜ふ ヤマト神   
 みよわのなおき いさおしに        三代輪の直き 功に 
 なおりものぬし かみたまふ           直りモノヌシ  神賜ふ   
 たねこもみをや わかひこか        タネ子も御祖  若彦が 
 なおきかかみの ことつけは      直き鏡の こと継げば    
 なおりなかとみ かみたまふ ともにつくへし        直り中臣 守賜ふ 共に継ぐべし」   
 よほきさら ねうゑのきなゑ みことのり      四年二月 ネウヱのキナヱ 詔
 みをやのかみの みやことり          「御祖の神の 都鳥
 わかみおてらし あたむけて           我が身を照らし 仇平けて
 みなをさむゆえ あめとみに           皆治む故 天富に  
 かもおうつさせ みをやかみ       賀茂を遷させ  御祖神 
 まつるはりはら とりみやま           祀る榛(はり)原 鳥見山   
 あたねおかもの たけすみの         アタネを賀茂の タケスミの
 まつりつかせて くにつこそ            祀り継がせて 国造ぞ」
 むつきそひかは あかためし     一月十一日は 県召し
 みきおたまはる はしめなるかな           御酒を賜はる 肇(はじ)めなるかな

【ホツマツタヱ3、ヤのヒマキ(人の巻)30、天君都鳥の文】
 天君 都鳥の文
 「天君の 本は御孫の」、「雷を 別けて治むる」、「大御神 褒めて御孫は」、「天神の 顕はる稜威と」、「賜ふ名は 別雷の 天君と」、「三種も分けて 天御孫」、「左春日と 右コモリ」、「授けて代々に これを継ぐ」。
 天君の大元は天照大神の御孫のニニキネは天照大神から災いの元である「雷」(いかづち)を「火」と「水」に分けて治めた。(天照大神の御孫ということより、「天孫ににきね」と言われている) 天照大神は、功績を誉めて、御孫の「ににきね」は、天神の稜威を顕せとの願いから別雷の天君という名前を賜われた。天皇を嗣(引継)がれるときは、天(天照大神)の御孫には神璽(かみおしで)と左大臣の春日の神には鏡と右大臣のコモリの神には剣と三種の神器を分けて、代々受け継がれてきた。
 「御祖筑紫に 降(くだ)る時 オシテ(璽)ハ持ちて」、「御鏡は 左オシクモ」、「八重垣は クシミカタマに 授け置き」、「御祖筑紫に ひたる時」、「神のオシテハ タケヒトに」、「母タマヨリも 神となる」、「鏡はカアイ  八重垣は」、「別雷(わけつち)宮に 預け置く」。
 御祖神(うがやふきあわせず:神武天皇のお父さん)が筑紫に下ったときも、神璽(かみおしで)ハを大事に持って肌身から離すことはなかった。御鏡は左大臣の「おしくも」に授け置いた。八重垣の剣は右大臣の「くしみかたま」に授け置いた。御祖神が筑紫でお亡くなりになるとき、神の璽(おしで)ハはタケヒト(後の神武天皇)に授けた。そうこうしているうちに神武天皇の母である「たまより姫」も神となられた(お亡くなりになった)。鏡は、河合(河合神社、下賀茂神社摂社:かもみおや:「うがやふきあわせず」を祭る)に預けた。八重垣の剣は、「わけつち宮」(上賀茂神社:天孫ににきねを祭る)に預け置いた。
 「ナガスネヒコは 山崎に 川船拒む」、「物主が 討たんとすれば」、「ヰツセ御子 恐れ多賀より 行く筑紫」、「クシミカタマは オシクモと」、「ナガスネ討てば 逃げ行くを」、「追ひて河内に 留まりて」、「タケチノコリと アウヱモロ」、「大和のソフに 防がしむ」、「物主帰り オシクモは」、「河内に行きて 小塩より」、「春日を招き 枚岡の」、「社祀りて 神となる」。
 ナガスネヒコは山崎の関所を抑え、川船の通航を全て止めた。多賀(滋賀県)で政治をとっていた物主(六代目大物主・くしみかたま命:神武天皇右大臣)がナガスネヒコを討とうとしたら、ヰツセ御子(多賀親王:うがやふきあわせずの長男、神武天皇は四男)は恐れて、多賀(滋賀県)より九州の筑紫に逃げた。クシミカタマ(六代目大物主・神武天皇右大臣)はオシクモ(春日大社の「あめのこやね」の若宮)と一緒にナガスネヒコを討って出たら、逃げて河内(大阪府)へ行き、これを追いかけた。タケチノコリとアウヱモロ(春日系県主)が大和に沿ったソフで防衛に当たった。大物主が帰り、オシクモは河内に行き、小塩より春日の神(あめのこやね)の御霊を招いて(移して)、牧岡(東大阪市出雲井町)で先祖神を祀り、そこで神になった。
 「筑紫のタネコ 喪を治め 四神祭りて」、「アウヱモロ 河内を兼ねて 治めしむ」、「大物主は 央海(あわうみ)の」、「大国(主)宮を 造り替え」、「越根の国も サホコ皆」、「民を治めて 静かなり」、「今天君の 位成る」、「昔は御神 分け授く」、「今はなき故 その使」、「寄りて議れば 皆曰く」、 「日の神使い ミチヲミと」、「月の使いは アタネなり」、「星の使いは アメトミと」、「斎瓮(いんべ)賜わり 禊なす」。
 筑紫のタネコ(あめたねこ、三代目のあめのこやね)が喪を納めて四神を祀った。アウヱモロには河内(縣主、国神)も兼ねて治めさせた。六代目大物主(くしみかたまの命)は淡海(近江)の「おおくに宮」(豊みつ神社)を造りかえた。越の国(越後、越中、越前)、根の国(金沢・北陸)も「さほこ」(山陰)も皆、民を治めて平穏(静か)であった。こうして今、天君が位についた。昔は先帝自らが「神の璽(おしで)」を日嗣皇子(天皇の位を引き継ぐ皇子)に、鏡を左大臣に、剣を右大臣に、分け授けた。しかしながら、分け与える先帝(神武天皇のお父さん、「うがやふきあわせず」)が九州で既に亡くなられていたので、その代わりをする使者について(役割分担を)相談したところ、皆、異口同音に答えて曰く、「日の神の使者はミチヲミに、月の使者はアタネに、星の使者はアメトミにしましょう「」。三人の使者は「いんべ」(韻部:神を祭る役)を賜わり、禊ぎをして、儀式に臨んだ。
 「時に橿原 皇の」、「御代新玉の 年サナト 初日サヤヱに」、「ウマシマチ 十種宝を 奉る」、「アメノタネコは 神の代の」、「古言記し 奉る」、「七草みそも ドンド火も」、「神在り粥も 行われ」。
 時は正に、橿原(かしはら)の天皇の御代の元年に改まった。年は「さなと」(ほつま歴 58/60後の辛酉かのととり)の「さやえ」(ほつま歴 17/60後の庚辰かのえたつ)の月の初日、元旦、ウマシマチ(「にぎはやひ」と「ながすねひこ」の妹「みかひみや姫」との間に生まれた子)が十種の神宝を奉った。次に、アメノタネコ(かすがの臣)は、新年のお祝いに神代の古事来歴を記したもの(「みかさふみ」を編纂した「くしなずおおかしま命」と思われる)を奉った。七草粥(七日)も済み、どんど焼き(十五日)も、粥占(かゆうら)の神事も行なわれた。
 「サアヱ日継ぎと アメトミは」、「別雷宮の 剣持ち」、「アタネは鏡 持ち上る」、「君高御座 褥九重」、「アマノタネコは 褥三重」、 「クシミカタマは 褥二重」、「日の臣(ミチヲミ) 歌ふ 都鳥 三重下りて聞く」。
 サアヱの日、日嗣(ひつぎ、神武天皇が正式に皇位を引き継ぐ儀式)がとり行われた。アメトミ(星臣)は分別雷宮(賀茂別雷)に預けてあった八重垣の剣を持ち来たり、アタネ(月の使い)は河合宮(下賀茂神社)に祭ってあった鏡を持って上京した。君(神武天皇)は高御座(たかみくら)に入られ、褥(しとね、敷物)を九段敷いてお座りになられた。(九重の君:天皇、九重の都:京都を示すようになった) アマノタネコ(左大臣)は褥(しとね、敷物)を三段、クシミカタマは(右大臣)は褥(しとね、敷物)を二段敷いてお座りになられた。(このことから、左大臣の方が右大臣より上位であったことが分かる) 日の臣役のミチヲミが都鳥の歌を唄い、君(神武天皇)は、褥(しとね、敷物)を三重(三枚)降りて(外して)お聞きになられた。(無心になってお聞きになりました) 
 「天地を治す 天皇の」、「両羽臣 春日とコモリ」、「君臣の 心一つに 都鳥」、「形は八民 頭は君」、「鏡と剣 左右の羽」、「物部は足 鏡臣」、「継ぎ滅ぶれば 民離れ 日月踏まれず (恵みの日月も世に留まらず) 」、「剣臣  継ぎ滅ぶれば」、「モノフ破れ 世を奪わるる」、「ヤタ臣は 繁栄ふ春の」、「民業を 鑑みる目ぞ」、「垣臣は 汚曲を枯らし」、「モノノフの 力守る手ぞ」、「この故に 三種を分けて 授くるは」、「長く一つに和る 由を」、「文に記して 御手づから」、「文を御孫に 授けます」。
 「天地(あわ)を治(た)す(天下を治める)天皇(あめすべらぎ)の両翼臣の春日とコモリが、君臣の心を一つにして政事を行ない都鳥の如くするが良い。都鳥の身体は八民(やたみ)を表し、頸(くび)は君(天皇)。鏡(左大臣)と剣(右大臣)は両翼の羽を担っている。物部(大物主家が統率する武人たち)は国を支える足である。鏡の臣(左大臣)が代々継がれなくなって滅びれば、民意が皇室から離れ、日嗣が踏まれなくなる(天皇の皇位継承が出来なくなり、皇室が滅びます)。剣の臣(右大臣)が代々継がれなくなって滅びれば、物部(武人たち)は仲間割れし、王朝がが奪われることになる。ヤタ臣(鏡臣)は 繁栄ふ春の来るように民業を監督する目でありまする。かき臣(八重垣の剣の臣)は、邪悪(悪党)を懲らしめ、物部(武人)の力で平和を守る手であるまする。この様に、三種の神器(神璽(勾玉)、鏡、剣)を分けて授けるのは、未来永劫に亘り御代が続くのを願ってのことでありまする。その昔、これを文章に記して、天照大神自ら御孫(ににきね)に授けたものである」。
 「セヲリツ姫は 御鏡を」、「持ちて春日に 授けます」、「ハヤアキツ姫は 御剣を」、「持ちてコモリに 授けます」、「三度敬ひ 皆受くる」、 「ヤマト(日本) 日継ぎの 都鳥かな」、「日の臣は 璽の御筥 奉る」、「アタネ(月の臣)は鏡 アメトミは 八重垣持ちて」、「アメタネコ クシミカタマに 授くなり」。
 天照大神の中宮の「せおりつ姫:別名むかつ姫」(伊勢神宮内宮、あらまつり神社)は、御鏡を持って(天照大神に代わって)「かすが」(左大臣)に授けた。「はやあきつ姫」(別名、潮のやもあいこ、天照大神のすけ妃、「かなさき」(住吉)の神の娘)は八重垣剣を持って(天照大神に代わって)大物主の「こもり」に授けた。三礼をもって(三拝して)それぞれ(神璽、鏡、剣)を受け取った。「かんやまといわわれひこ」の即位の礼を示した、大和の日嗣(新しく天皇の下で一心になった)の都鳥の歌です。「日の臣」(太陽の使い)役の「みちおみ」は、「しるし」(神璽)の御筥(箱)を君(天皇)に奉った。「あたね」(月の使い)は鏡を、「あめとみ」(星の使い)は八重垣の剣を持って、それぞれ、「あめたねこ」と「くしみかたま」に授けた。
 「君臣元の 褥敷く」、「臣百司 言祝し 万歳歌ふ」、「御鏡は ヰソスズ姫に」、「八重垣は アヒラツ姫に」、「御璽は 君の身に添え」、「三種とも 内つの宮に 納めます」、「ハラミの例 内宮と 称ゆ本なり」、「御飾りを 民に拝ませ」。
 君(神武天皇)と臣たちも殿中で、褥(しとね、敷物)を元に戻して座った。臣も百官(大勢の司、役人)たちは祝福の言葉をかけ、万歳を斉唱した。御鏡は神武天皇の中宮の「いそすず姫」(たたらいそすず姫、通称いすず姫:「くしみかたま命」の妹)に預け、八重垣の剣は神武天皇の九州時代の妃「あびらつ姫」に預け、神の「しるし」(神璽)は、君(神武天皇)が肌身離さずお持ちになられた。この三種(みくさ)の神器は、一旦内宮に納めた。この儀式はハラミの宮の前例と同じ即位の礼をそのまま再現した。この場所を内宮と称え、本としている。御飾り(三種の神器)を民(国民)に拝ませた。
 「十一月に 天ユキ・地スキの 宮造り」、「元明天地の 神祀り(大嘗会)」、「タネコクシタマ 左右にあり」、「神饌供え祀り 申す臣」、「ウマシモノベと 門を守る」、「ミチヲミクメと 御垣守」、「神の宣言(とこと)は 斎瓮臣(アメトミ)」。
 十一月に、天(あ)の「ゆき」(悠紀)宮と地(わ)の「すき」(主基)宮を作り、元明天地の四十八神(あわのかみ)を祀った。タネコとクシタマが左右(まて)の臣を務めた。神饌供え祀りを担当したウマシモノベは宮城の外を守る任務についた。神への祝詞を挙げたのは斎瓮臣(アメトミ)だった。
 「次春十一日 詔」、「思えば忠(まめ)は ウマシマチ 代々モノベ継げ」、「ミチヲミは 望みのままに」、「築坂と 久米の所を 賜ふなり」、「ウツヒコが殊 船と埴(海路案内と香具山の埴) 大和国造」、「弟ウケシ 猛田県主」、「クロハヤ(弟シギ) は 磯城(しき)の県主」、「アメヒワケ 伊勢の国造」、「アタネ守 賀茂の県主」、「カツテ孫 ツルギネ葛城(かつき) 国造ぞ」、 「ヤタカラス孫 葛野主」。
 翌年の新春の十一日、君(神武天皇)は詔をされた。「思えば、ウマシマチの忠義(まめ)があったからこそこの平和な新春を迎えられたので、代々、物部の役職を継ぎなさい。ミチヲミには汝の望み通り築坂と久米の地を与えよう。ウツヒコ(しいねづひこ)は大和の国造(くにつこ)に任命する。弟のウケシは猛田(宇陀郡多気)の県主に、クロハヤ(ウケシの弟シギ)には磯城(しき)の県主に、アメヒワケは伊勢の国造(くにつこ)に、アタネ守は賀茂の県主に、カツテ孫の ツルギネは葛城(かつき、かつらぎ)の国造に、ヤタカラス孫は葛野主にする」。
 「三年の五月雨 四十日降り」、「穢病流行りて  稲みもち」、「君に告ぐれば  アメタネコ」、「クシミカタマと 安河の 仮屋に祈り」、「時穢病 直ると稲の 痛み去る」、「直りの祓ひ 行えば」、「穢病も直り 稲直る 故詔」、「ワニヒコが 上祖クシヒコ 諌め入る」、「直きに賜ふ ヤマト神」、「三代還の直き(クシヒコ・コモリ・ワニヒコ) 功に」、「直りモノヌシ  守賜ふ」、「タネコも上祖  ワカヒコが」、「直き鏡の 殊継げば」、「直り中臣 守賜ふ 共に継ぐべし」。
 三年目の五月雨(さみだれ)が四十日間降り続いた。そのため、疫病が流行り、稲は稲熱病になってしまった。この状況を、君(神武天皇)に告げたところ、「あめたねこ」と「くしみかたま」の両大臣は「やす川(滋賀県、守山市付近」に赴き、仮宮を建ててお祈りした。そうすると、疫病も直り、傷んでいた稲も立ち直った。「直りの祓い」(風生に祓い)を行なったところ、疫病も直り、稲も元通りに直った。そこで、君(神武天皇)は詔をした。「わにひこ」(くしみかた)の先祖神の「くしひこ」(ことしろぬし、えびす)は勇気ある「なおき」(忠義)の「いさめ」(諌言、身を引いた)により、天照大神から「やまと神」の名を賜わった。三度に亘る(三世代に亘って)実直な功を称えて、直り物主神の名を賜った。(大神神社(おおみわ神社)の語源になっている) また、「あめたねこ」も先祖の「わかひこ」(あめのこやね)が(正しいことを告げた)直き鏡の忠告の功により、「直りなか臣(国を直す)」神の名を賜わった。共に、子子孫孫継いで行くべし」。
 「四年二月 ネウヱのキナヱ 詔」、「御祖の神の 都鳥(ここでは鴨)」、「我が身を照らし 仇平けて」、「穢治む故 アメトミに 賀茂を写させ」、「 (別雷・河合の宮) 御祖神 祀る榛原 鳥見山」、「アタネを賀茂の タケスミの」、「政り継がせて 国造ぞ」、「一月十一日は アガタ (県主)召し」、「御酒を賜はる 肇めなるかな」。
 神武即位、四年二月、ネウヱのキナヱの日に詔があった。「御祖神:神武天皇のお父さん、うがやふきあわせず」は都鳥のように、我が身を照らして、敵も振り向かせることが出来、皆を治めることが出来た。よって、「あめとみ」(星の使い、即位の礼の時)に「かも」(御祖神:下賀茂神社)を「はりはら」(奈良県)の「とりみ山」(とりやま)に移させて祀った。そして、「あたね」(月の使い)に「かもたけずみ」(豊玉姫の兄)の祭りを継がせて国造(くにつこ)に任命した。一月十一日は、県主を召して(呼び出して)、天盃を賜わる習わし(儀式)になった。





(私論.私見)