ホツマツタヱ1、アのヒマキ(天の巻)10

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 2011.12.25日 れんだいこ拝


【ホツマツタヱ1、アのヒマキ(天の巻)10、鹿島たち釣鯛(つりたい)の文】
 大国主、出雲を譲る―ダイコクさんとエビスさん-
 かしまたち つりたいのあや 鹿島たち 釣鯛の文
 ふそゐすす こそみゑとしの さあゑなつ  二十五鈴 九十三枝年の サアヱ夏
 かくゑしほみて ふとまにの 橘枝 しぼみて フトマニの
 しちりはやもり はけしくて シチリは家漏り(ヤモリ) 激しくて
 つねすみのくに みせしむる 西北(つね)隅(すみ)の国(イヅモ) 見せしむる 
 よこへかえりて もふさくは ヨコベ帰りて 申さくは  
 いつもやゑかき おほなむち 「出雲八重垣 オホナムチ  
 みつれはかくる ことはりか 満つれば欠くる 理か
 ぬかおたまかき うちみやと 額(ぬか)を玉垣 内宮と
 これここのゑに くらふなり これ九重に 比ぶなり」
 さきにみこもり おもいかね 先に御子守 オモイカネ   
 しなのいなほら あちのかみ 信濃の伊那洞(ほら) アチの神
 よりてななよの うなめこと よりて七代の 大嘗事(うめなこと)
 たかきねやすの いまみやに タカキネヤスの 今宮に
 たかわかみやの かふのとの 多賀若宮の 代の殿
 たかみむすひの かみはかり 高御ムスビの 神議り 
 いつもたたすは たれよけん 「出雲立たすは 誰良けん」
 ほひのみことと みないえは 「ホヒの尊」と 皆な言えば
 ほひのみことに むけしむる ホヒの尊に 平けしむる 
 しかれとほひは くにかみに 然れどホヒは 国神に
 へつらいこひて みとせまて かえことあらて  へつらい媚びて 三年まで 返言あらで 
 おおせいい みくまのやれと  オオセイイ 御熊野遣れど 
 ちちかまま かえらねはまた かみはかり 父がまま 帰らねば又 神議り 
 つかはすひとは あまくにの 遣す人は 天国の  
 あめわかひこと きわまりて 天若彦と 極まりて
 たかみむすひか かこゆみと 高御ムスビが カゴ弓と   
 ははやたまひて むけしむる ハハ矢賜ひて 平けしむる  
 このかみもまた まめならす この神も又 忠ならず
 たかてるひめお めとりつつ 高照姫を 娶りつつ 
 あしはらくにお のらんとて 葦原国を 乗らんとて(乗取る)  
 やとせふるまて かえらねは 八年経る迄 帰らねば
 ななしのききす といくたす 名無しの雉子 飛い下す
 あめわかひこか かとのまえ 天若彦が 門の前   
 かつらのすえに しわさみて 桂の末に 仕業見て      
 ほろろほろろと なくおきき ホロロホロロと 鳴くを聞き
 さくめかつけに なもなくて あめおなくやと 下侍(さくめ)が告げに 「名も無くて 天を嘆くや」と 
 わかひこか ははやおいれは むねとほり 若彦が ハハ矢を射れば 胸通り
 とひてたかみの まへにおち 飛びて高ミの 前に落ち  
 けんけんもなく ちのははや ケンケンもなく 血のハハ矢  
 たかみむすひは これおみて とかむかえしや  高御ムスビは これを見て 咎む返し矢 
 わかひこか むねにあたりて うせにしお 若彦が 胸に当りて 失せにしを   
 かえしやおそる もとおりや 返し矢恐る 本在や 
 たかてるひめの なくこえの 高照姫の 泣く声の
 あめにきこえて たらちねの 天に聞えて 父母の  
 はやちにかはね ひきとりて 早ちに屍 引き取りて
 もやおつくりて かりもかり 喪屋を造りて 仮殯(もがり)      
 おくるかわかり きさりもち 送る川雁(かり) 崩(きさり)持ち    
 にわとりはきし すすめいゐ 庭鳥掃きし 雀飯
 はとはものまさ ささきみそ 鳩は物申(まさ) 鷦鷯衣(ささきみそ) 
 とひゆふまつり からすつか 鳶木綿奉り 烏塚(からすづか、土盛り) 
 やひやよいたみ もおつとむ 八日八夜悼み 喪を務む
 たかてるのあに たかひこね 高照の兄 高彦根
 あめにのほりて もおとえは 天に上りて 喪を訪えば
 このかみすかた わかひこに うるりわけゑす  この神姿 若彦に 瓜分け得ず
 しむのもの きみはいけると よちかかり 血脈の者 「君は生ける」と 寄ちかかり
 やほたまゆらと まとふとき 「八年 たまゆら」と 惑ふ時
 いかるあちすき たかひこね 怒るアチスキ 高彦根
 ともなれはこそ おちにとふ 「友なればこそ 遠方に訪ふ 
 われおなきみに あやまつは 我を亡き身に 誤つは
 あらけからしや はらたちと もやきりふせる あら穢らしや 腹立ち」と 喪屋斬り臥せる
 あおはかり さけてかんとお さらんとす アオハカリ 放けて神戸を 去らんとす 
 むかしなかやま みちひらく 昔中山 道拓く
 かなやまひこの まこむすめ したてるおくら 金山彦の 孫娘 下照オクラ   
 たかひこの いかりとかんと 高彦の 怒り融かんと  
 みちかうた よみてさとせり 短か歌 詠みて諭せり  
 あめなるや おとたなはたの うなかせる  「美なるや 復棚機(おとたなはた)の 促せる 
 たまのみすまる みすまるの あなたまはやみ  珠のミスマル (珠の集まり、星の集まり) ミスマルの 穴珠逸(はや)み
 たにふたわ たらすあちすき たかひこねそや 誰に二輪 垂らすアチスキ 高彦根ぞや」
 このうたに つつきもしれり この歌に 続きも知れり
 たかひこも いかりゆるめて たちおさめ 高彦も 怒り緩めて 太刀収め
 みとのみやひお さとさんと こたえのうたに 女男(みと)の雅び(和合)を 諭さんと 応えの歌に
 あまさかる ひなつめのいは たたせとひ  「天下がる ひなつめの気(い)は ただ背訪(せと)ひ 
 しかはかたふち かたふちに あみはりわたし しかはかたふち 片淵に 網張り渡し
 めろよしに よしよりこねい しかはかたふち 群(めろ)寄しに 寄し撚り捏ねい しかはかたふち」
 このうたは のちのゑにしの あふうすの  この歌は 後の縁の '合ふうすの
 かもいとむすふ ひなふりはこれ かも糸結ぶ ヒナフリはこれ
 このたひは たかみむすひの とみかれお  この度は 高御ムスビの 臣枯れを 
 のそくかとての かしまたち  除く門出の 鹿島たち
 はにすきまつる かみはかり 埴(はに)スキ奉る 神議り
 ふつぬしよしと みないえは 「フツ主良し」と 皆な言えば
 たけみかつちか すすみいて タケミカツチが 進み出で
 あにたたひとり ふつぬしか 「あに唯一人 フツ主が 
 まさりてわれは まさらんや 優りて我は 優らんや」  
 たかきいさみの みかつちや タカギ 「勇みの ミカツチや
 いつもきつきに かふつちの 出雲キツキに 頭椎(かうつち)の 
 つるきおうえて うつくまり なちりとふなり 剣を植えて うづくまり 詰(なじ)り問ふなり
 みほこりて あさむくみちお 「御誇りて 欺く道を
 ならさんと われらつかふそ  平(なら)さんと 我ら仕(つか)ふぞ
 そのこころ ままやいなやや その心 ままや否やや」
 おほなむち こたゑとわんと オホナムチ 応え問わんと  
 みほさきの つりえききすの いなせはき 美保崎の 連(つり)へ雉子の イナセハギ
 あめのこたえお とふときに 天の応えを 問ふ時に   
 ことしろぬしか ゑみすかほ 事代主が 笑す顔  
 われすすかにて たらちねに 「我涼かにて 父母に 
 ほろろなけとも ちのたゐそ ホロロ泣けども 鉤(ち)の鯛ぞ   
 さかなときるも おろかなり 肴と切るも 愚かなり
 たかまはたみの ゑみすたゐ いとかけまくそ  高マは民の 笑す鯛 いとかけまくぞ」 
 みことのり わかちちさらは 詔 我が父退らば 
 もろともの かえことなせは 諸共の 返言なせば  
 またひとり ありといふまに 「まだ一人 あり」と言う間に 
 あらはるる たけみなかたそ 現わるる タケミナカタぞ
 ちひきいわ ささけてたれか 千引き岩 捧げて「誰か
 わかくにお しのひしのひに おとさんや 我が国を 忍び忍びに 威さんや
 いてわかちから くらへんと  出で我が力 比べん」と
 とるてもいわの みかつちか 取る手も岩の ミカツチが   
 とらへてなくる あしかひの  捕へて投ぐる 葦萱(あしかび)の 
 おそれてにくる しなのうみ 恐れて逃ぐる 信濃海(諏訪湖) 
 すわといふとき かしこみて  「すわ」と言ふ時 畏みて 
 われおたすけよ このところ  「我を助けよ  この所 
 ほかえはゆかし そむかしと 他へは行かじ 背かじ」と 
 いえはたすけて たちかえり 言えば助けて 立ち帰り
 とえはことふる おほなむち  問えば応ふる オホナムチ    
 そのこのままお ふたかみえ その子のままを 二神へ   
 わかこさりにき われもさる  「我が子退りにき 我も退る
 いまわれさらは たれかまた 今我退らば 誰か亦
 あえてなれなん ものあらし 敢えて平れなん 者あらじ
 わかくさなきの このほこに 我が草薙の この矛に
 ならしたまえと いひてさる  平らし給え」と 言ひて退る
 さかふはきりつ まつらふは 逆ふは斬りつ 服(まつら)ふは
 ほめてもろかみ ひきいつつ 褒めて諸神 率いつつ
 あめにかえれは こふのとの 天に返れば 代の殿   
 まつりおとりて みことのり  政りを執りて 詔
 なんちふつぬし あわうわの  「汝フツ主 アワウワの
 とふるみちひき さかんなり  徹る導き 盛んなり 
 またみかつちは かしまたち またミカツチは 鹿島直ち  
 いつおあらはす もののへの  '稜威を現す 物部の
 なんたやわらに もとすより 灘和らに 戻すより   
 たまふかんへは かしまかみ 賜ふ神部は 鹿島神」   
 ときにまつらふ おほなむち  時に服ふ オホナムチ 
 ももやそかみお ひきゐきて 百八十神を 率い来て
 まめもひかけの なんたあり 忠も日陰の 灘あり
 たかみむすひの たたしゑた 高御ムスビの 立たし枝
 ことわりあれは みことのり  理あれば 詔
 たまふあそへの あかるみや 賜ふアソベの アカル宮  
 あふゆおうくる おほなむち 天映(あふゆ)を受くる オホナムチ
 あかるあそへの うもとみや 散るアソベの ウモト宮  
 つくるちひろの かけはしや 造る千尋の 掛橋や
 ももやそぬゐの しらたてに 百八十縫いの 白楯に
 うつしくにたま おほなむち 顕国魂(うつしくにたま) オホナムチ  
 つかるうもとの かみとなる  津軽ウモトの 神となる
 ほひのみことお もとまつり  ホヒの尊を 元祀り
 たかみむすひの おをんこと 高御ムスビの 大御言 
 なんちものぬし くしひこよ  「汝物主 クシヒコよ  
 くにつめとらは うとからん  国つ女娶らば 疎からん 
 わかみほつひめ つまとして 我がミホツ姫 妻として   
 やそよろかみお つかさとり 八十万神を 司り  
 みまこおまもり たてまつれ 御孫を守り 奉れ」
 たまふよろきは なめことの 賜ふヨロギは 嘗事(医薬事) の 
 ちくさよろきの なおたたす  千草万木の 名を立たす    
 このみやしれは よよのため  この宮領れば 代代のため
 やめるおいやす みちおわけ 病めるを癒やす 道を分け  
 よつきはひとり よろきまろ 世嗣は一人 ヨロキマロ
 みほひこのつま すゑつみか ミホヒコの妻 スヱツミが   
 いくたまよりめ そやこうむ  イクタマヨリ姫 十八子生む
 こしあちはせの しらたまめ  越アチハセの 白玉姫     
 そやのひめうむ みそむたり 十八の姫生む 三十六人 
 ゆたねひたせは みことのり ゆだね養せば 詔
 たまふをしては こもりかみ  賜ふヲシテは コモリ神  
 せみのおかわに みそきして セミの小川に 禊して
 ちのわにたたす みなつきや 茅の輪に立たす 六月や
 たみなからふる はらいなりけり  民長らふる 祓なりけり
 みよものぬし みこのなうた 【三代物主 御子の名歌】
 こもりこの あにはかんたち つきつみは コモリ子の 兄はカンタチ 次ツミハ
 よしのみこもり よつはよて ヨシノミコモリ 四つはヨテ
 つきはちはやひ こせつひこ 次はチハヤヒ コセツヒコ
 ななはならひこ やさかひこ 七はナラヒコ ヤサカヒコ
 ここはたけふつ そはちしろ 九はタケフツ 十はチシロ
 そひはみのしま そふおおた 十一はミノシマ 十二 オオタ
 つきはいわくら うたみわけ  次はイワクラ ウタミワケ 
 つきのみこもり そむさきす 次のミコモリ 十六サキス
 つきはくわうち おとまろそ  次はクワウチ オトマロぞ
 ひひめはもとめ たまねひめ 一姫はモトメ  タマネ姫 
 いそよりひめに むれのひめ イソヨリ姫に ムレノ姫
 みはおりひめや すせりひめ ミハオリ姫や スセリ姫
 みたらしひめに やゑこひめ ミタラシ姫に ヤヱコ姫
 こゆるきひめに しもとひめ コユルキ姫に シモト姫
 みちつるひめや はもみひめ  ミチツル姫や ハモミ姫
 むめちるひめに あさひめや ムメチル姫に アサ姫や
 はさくらひめと わかねひめ ハサクラ姫と ワカネ姫
 あわなりひめと とよりひめ アワナリ姫と トヨリ姫
 すへみそむかみ こたからそこれ  総三十六神 子宝ぞこれ
 かつてかみ よつきゑるうた   【カツテ神 寄継ぎ得る歌】
 かつらきの ひとことぬしか すゑつみか  カツラキの 一言主が スヱツミが
 やすたまとうむ かつきまろ いみなやすひこ ヤスタマと生む カツキマロ 諱ヤスヒコ
 みほひこと こことむすひの つたゑうけ  ミホ彦と ココトムスビの 伝え受け
 みうちにおれは ををんかみ 御内に居れば 大御神
 をしてたまわる かつてかみ ヲシテ賜わる カツテ神
 これもよつきの うたのみちかな これも世継ぎの 歌の道かな

鹿島たち 釣鯛の文
 「二十五鈴 九十三枝年の サアヱ夏」、「橘枝 しぼみて フトマニの」、「シチリは家漏り(ヤモリ) 激しくて」、「西北(つね)隅(すみ)の国(イヅモ) 見せしむる」、「ヨコベ帰りて 申さくは」、「出雲八重垣 オホナムチ」、「満つれば欠くる 理か」、「額(ぬか)を玉垣 内宮と」、「これ九重に 比ぶなり」」。
 時は二十五鈴九十三枝(フソイスズコソミヱ)年のサアヱ(三十七)夏の日、カグノ宮(香具宮)の庭に国政を占うために植えられた橘の木の一枝が突然枯れる凶事が起こった。早速宮中では諸神が集いフトマニ(太占)を占うとシチリ歌の大凶の卦を引いて、「家漏り(ヤモリ)が激しい」とありました。この意味は、風激しく大樹も折れ、天に叛いて国家を危うくする謀反があるとの危急を告げる内容でした。神議(カミバカリ)の末、西北(ツネ)の隅の国の出雲に伝令した。ヨコベ(検察官)の復命報告は、「出雲八重垣のオオナムチ(大己貴)が国土経営の陰りを見せ始めている証拠です。月が満つればやがては欠ける理(ことわり)通りです。宮の額表(ヌカ)を名を使い玉垣内宮としており、天照神の大内宮に匹敵する雄大な九重(ココノエ)の大宮殿を築いております」。
 「先に御子守 オモイカネ」、「信濃の伊那洞(ほら) アチの神」、「よりて七代の 大嘗事(うめなこと)」、「タカキネヤスの 今宮に」、「多賀若宮の 代の殿」、「高御ムスビの 神議り」、「出雲立たすは 誰良けん」、「ホヒの尊」と 皆言えば」、「ホヒの尊に 平けしむる」、「然れどホヒは 国神に」、「へつらい媚びて 三年まで」。
 以前、オモイカネ(思兼命)は、妻シタテル姫(アマテル神の姉)と共にヤスカワ宮(野洲川、滋賀県)で東宮(皇太子)オシホミミの御皇子守(ミコモリ)役をしていたが、死後アチノ神(阿智神社、伊那郡阿智村、長野県)の神名を送られて信濃のイナホラ(伊那洞)に葬られ神上がった。このような事情により、タカミムスビ(高皇産霊)のタカキネは急遽七代目継承を祝うウナメゴト(大行事)を執り行った後、ヤス川辺にイマミヤ(今宮)を新しく建ててオモイカネの後を引き継ぎ、タガ(多賀)若宮(オシホミミ)のコフノトノ(御守護殿)に就任した。丁度この時、タカミムスビは新築なった今宮に於て緊急に諸神を集め神議を再開した。この席で早速ヨコベから出雲のオオナムチの近況が皆に伝えられ、「出雲を糺(ただ)しに向ける勅使は誰が良かろう」と問うた。異口同音に「ホヒノミコト(天穂日命・アマテル神の御子、出雲大社初代祭司、出雲国造家の祖)」と皆が云い、ホヒノミコトを出雲鎮撫に向けることになった。しかれどもホヒはオオナムチの人柄と豊かな国ぶりにひかれ、へつらいこびて三年経っても復命しなかった。
 「返言あらで オオセイイ」、「御熊野遣れど 父がまま」、「帰らねば又 神議り」、「遣す人は 天国の」、「天若彦と 極まりて」、「高御ムスビが カゴ弓と」、「ハハ矢賜ひて 平けしむる」、「この守も又 忠ならず」、「高照姫を 娶りつつ」、「葦原国を 乗らんとて(乗取る)」、「八年経る迄 帰らねば。
 しからばと今度はホヒの息子のオオセイイ・ミクマノ(大背飯三熊)を派遣したものの、やはり父の言い成りになって行ったまま帰らず復命しなかった。再度の神議の結果、アマクニタマ(金山彦の子、天国玉、現・南宮神社、岐阜県)の御子のアメワカヒコ(天稚彦神社、滋賀県)以外なしと決定し、タカミムスビはアメワカヒコに任務の貫徹と成功を祈願して、特にカゴユミとハハヤ(祭祀用、鹿を射る大形の弓と大蛇を射る矢)を賜い出発させた。しかしながらこの神も又天命に叛いて忠義を守らず、あろうことかオオナムチの娘のタカテル姫(高照神社、中津軽郡、青森)と結婚して住みついてしまい、葦原中国を乗っ取ろうと野心を抱いてか八年経っても復命しなかった。
 「名無しの雉子 飛い下す」、「天若彦が 門の前」、「桂の末に 仕業見て 」、「ホロロホロロと 鳴くを聞き」、「下侍(さくめ)が告げに 「名もなくて 天を嘆くや」と」、「若彦が ハハ矢を射れば 胸通り」、「飛びてタカミの 前に落ち」、「ケンケンもなく 血のハハ矢」、「高御ムスビは これを見て 咎む返し矢」、「ワカヒコが 胸に当りて 失せにしを」、「返し矢恐る 本在や」。
 事ここに至りあらゆる手立ても尽き、最後の手段として名無しのキギス(雉・きじ、隠密)を密かに放ってアメワカヒコの動静を探らせた。ワカヒコの屋敷の門前で、桂の大木の根元に隠れて様子を窺(うかが)っていたキギスは、ワカヒコの様子を見て、ホロロホロロと鳴いた。その鳴き声を聞きつけた下侍(さくめ、探女)がワカヒコに告げた。ワカヒコはキギスに、「名も無き密者の分際で何故に天を嘆くのか」と罵り、タカミムスビから賜った誓いのハハヤをキギスに向けて射れば、矢はキギスの胸を貫通して天空高く飛び去り、タカミムスビの前に落ちた。「ケンケンもなく 血のハハ矢」。タカミムスビはこの血塗られたハハヤを見るなり、咎(とが)めの返し矢を射返すと矢は再び飛び去ってワカヒコの胸に命中し、あえなく死んでしまった。これが”返し矢は恐る”という故事の由来となった。
 「高照姫の 泣く声の」、「天に聞えて 父母の」、「早ちに屍 引き取りて」、「喪屋を造りて 仮殯(もがり)」、「送る川雁 崩(きさり)持ち」、「庭鳥掃きし 雀飯」、「鳩は物申(まさ) 鷦鷯衣(ささきみそ)」、「鳶木綿奉り 烏塚(からすづか、土盛り)」、「八日八夜悼み 喪を務む」。
 タカテル姫の嘆き悲しむ泣き声が天にも聞こえて、ワカヒコの父母は急ぎ遺体を引取り、美濃に息子を祭る喪屋(もや)を造って仮殯(かりもがり、喪山古墳、岐阜県)した。葬儀は親族が皆、鳥の姿に身をやつして夜っぴて行われた。川雁(かわかり)が送り役、庭鳥が掃き役と雀飯を捧げる役、鳩は物申(まさ)役、鷦鷯衣(ささきみそ)は鳴き役、鳶は木綿奉り役、烏は塚役。アメワカヒコの葬儀は八日八夜惜しまれながら喪が務められた。
 「高照の兄 高彦根」、「天に上りて 喪を訪えば」、「この神姿 若彦に 瓜分け得ず」、「血脈の者 君は生けると 寄ちかかり」、「八年たまゆらと 惑ふ時」、「怒るアチスキ 高彦根」、「友なればこそ 遠方に訪ふ」、「我を亡き身に 誤つは」、「あら穢らしや 腹立ち」と 喪屋斬り臥せる」、「アオハカリ 放けて神戸を 去らんとす」。
 この葬儀にタカテル姫の兄のタカヒコネ(オオナムチの次男ステシノ・アチスキタカヒコネ)が天にやって来て弔問に訪れた時の事。タカヒコネの神姿が今は亡きワカヒコに余りにもそっくりで、丁度それは瓜を二つに割って合わせた様に似ていた。身内の者達はタカヒコネの姿を見るなり、八年近く再会していないワカヒコが帰って来たと思い込み、「君は生きていた。生きていたんだ」とタカヒコネによじかかり「八年ぶりの奇遇」と言いつつ感極まってまとわりついた。この予期せぬ異変に当惑し、ついに怒りが爆発したタカヒコネは、「友と思えば遠路はるばる弔問に来たものを、我を死者と間違えるとは何とけがらわしや、腹立たしい」と言うや、いきなり腰に帯たアオバカリ(青葉刈)の剣を抜いて喪屋を切り伏せてしまい、抜いた剣をひっさげたまま神戸(かんど・葬場の門)を立ち去ろうとした。
 「昔中山 道拓く 」、「金山彦の 孫娘 下照オクラ」、「高彦の 怒り融かんと」、「短か歌 詠みて諭せり」、「美なるや 復棚機(おとたなはた)の 促せる」、「珠のミスマル (珠の集まり、星の集まり) ミスマルの 穴珠逸(はや)み」、「誰に二輪 垂らすアチスキ 高彦根ぞや」。
 この時、昔し中山道を最初に切り開いて開通させたカナヤマヒコ(金山彦)の孫娘のシタテルオグラ姫(天国玉の娘・巨椋神社、小倉神社祭神、京都府。大倉神社祭神、奈良県)は、何とかタカヒコネの怒りを和らげようと短い和歌を詠んで諭(さと)した。「天(あめ)なるや 乙棚機(おとたなばた)の 促(うなが)せる 珠(たま)の御統(みすまる) 御統(みすまる)の 穴珠早(あなたまはや)み 谷二(たにふた)は 足らずアチスキ タカヒコネぞや」(昔、私がワカ姫の居られたアメヤスカワ宮で機織をしていた頃、首にかけた御統(みすまる・ネックレス)が棚機(たなはた)の音に促されるように、胸の谷間を左右に揺れ動いたものです。今又、貴方に会えて私の胸の動悸は増々早まり穴珠は二つの谷間を激しく揺れ動いています。私の心を満たしてくれるタカヒコネ様よ)。
 「この歌に 続きも知れり」、「高彦も 怒り緩めて 太刀収め」、「女男(みと)のミヤビ(和合)を 諭さんと 応えの歌に」、「天下がる ひなつめの気(い)は ただ背訪(せと)ひ」、「しかはかたふち 片淵に 網張り渡し」、「群(めろ)寄しに 寄し撚り捏ねい しかはかたふち」、「この歌は 後の縁の '合ふ失すの」、「かも糸結ぶ ヒナフリはこれ」。
 この歌を聞いた身内の者はやっと我に返るとアチスキタカヒコネが現に来てくれたことを悟り、タカヒコネも怒りをゆるめて剣を納めた。タカヒコネはなんとか冷静を装うと正しい求愛方法を教えようと答えの歌を詠んだ。「天下(あまさ)がる鄙詰(ひなづ)めの意は 唯(ただ)、背訪(せと)い しかわ片淵(かたふち) 片淵(かたふち)に 網(あみ)張り渡し 女郎(めろ)良しに 由(よし)より来(こ)ねいしかわ片淵」(田舎者(私)がやって来た真の目的は、唯々親友の喪を訪いに来たのに、しかるに貴女は川の片淵にいて、一方的に網を張り渡して、これは女子の我儘(わがまま)です。恋愛目的で来たのではありません。ちゃんと仲人を立てて求愛して下さい。お姫様、片手落ちですよ()。 この男女の恋歌は、後々までも縁結びの先例として鴨糸(かもいと・鴨居と)結ぶ古代歌曲の「雛振り(ひなぶり)」として後世まで伝えられた。(注)沖つ鳥 鴨(かも)着く島に 我が居(い)寝し 妹は 忘らじ 夜の事々を(ヒコホホデミからトヨタマ姫に贈った歌)
 「この度は 高御ムスビの 臣枯れを」、「除く門出の 鹿島たち」、「埴(はに)スキ奉る 神議り」、「フツ主良しと 皆言えば 」、「タケミカツチが 進み出で」、「あに唯一人 フツ主が」、「優りて我は 優らんや」、「タカギ勇みの ミカツチや」、「出雲キツキに 頭椎(かうつち)の 剣を植えて」、「うづくまり 詰(なじ)り問ふなり」、「御誇りて 欺く道を」、「平(なら)さんと 我ら仕(つか)ふぞ」、「その心 ままや否やや」。
 今般は、タカミムスビの臣枯れを除く門出の鹿島たちとなった。宮の境内には埴(はに)スキを奉り、神議(かみばかり)した。タカミムスビの出雲征伐という固い覚悟を実行する適任者選びに議論は白熱し、やがて武断派の「フツヌシ(経津主、香取神宮祭神、千葉県)が良し」と皆の意見が一致した。この時、タケミカヅチ(武甕槌、鹿島神宮祭神、茨城県)が進み出て、「なんでフツヌシ唯一人だけ武勇に勝(まさ)りて、我は勝らないのか」。これを受け、タカギが、「この勇猛なミカツチも共にせよ」。こうして、フツヌシとミカヅチの二神は出雲征伐の命を受け、供の物部を大勢引連れて鹿島立ちし葦原中国へと遠征した。出雲の杵築宮(きつき 現・出雲大社)に着くや二神は、宮前でカフヅチ(頭椎)の剣を大地に刺してうずくまり、威圧的な態度でなじり問うた。「自ら誇って国を欺く行為を糺(ただ)し明(あか)さんと、我等二神は遣わされた。さあ、その心はまま(了承)や、否(拒否)や、返答しろ」。
 「オホナムチ 応え問わんと」、「美保崎の 連(つり)へ雉子の イナセハギ」、「天の応えを 問ふ時に」、「事代主が 笑す顔」、「我涼かにて 父母に」、「ホロロ泣けども 鉤(ち)の鯛ぞ」、「肴と切るも 愚かなり」、「高マは民の 笑す鯛 いとかけまくぞ」。
 オオナムチは、突然降って沸いたこの緊迫した状況を計りかね、先ずはミホザキ(美保神社、祭神 事代主・三穂津姫)で鯛釣りをして楽しんでいる事代主(コトシロヌシ、オオナムチの長男クシヒコ)のところに雉子(伝令)のイナセハギ(伊奈西波岐神社、島根県)を走らせ判断を仰いだ。コトシロヌシはエミス顔(恵比須様の語源)で曰く、「我が心は常にスズカ(鈴明)です。父母にお伝え下さい。事ここに及んでホロロと泣けども私達はもう釣針に掛かった鯛も同然です。魚の様に切られ料理されるのは愚かな事です。高マは民のエミス鯛で最高にして賢くも尊い所です」。
 「詔 我が父退らば」、「諸共の 返言なせば」、「まだ一人 あり」と言う間に」、「現わるる タケミナカタぞ」、「千引き岩 捧げて「誰か」、「我が国を 忍び忍びに 威さんや」、「出で我が力 比べん」と」、「取る手も岩の ミカツチが」、「捕へて投ぐる 葦萱(あしかび)の」、「恐れて逃ぐる 信濃海(諏訪湖)」、「すわと言ふ時 畏みて」、「我を助けよ  この所」、「他へは行かじ 背かじ」と」、「言えば助けて 立ち帰り」。
 コトシロヌシの詔「我が父が出雲を去るならば、私も一緒に国を去ります」。かくコトシロヌシからの返事が届けられた。「実はまだ我が子が一人有ります」と言ううちに現れたのがタケミナカタ(祭神 建御名方、諏訪大社、長野県)だった。タケミナカタはチビキイワ(千人で引く程の大岩)を高々と両腕に捧げもって曰く、「忍び忍びに陰謀をめぐらし汚い手で我が国を奪う気か。堂々と出て来て我と力競べしてみろ」。この言葉を待っていたかの様にタケミカヅチは、大岩の如き両手をぬっと延ばすとチビキ岩を素早く奪い取り、あたかも葦芽(あしがい)の様に軽々と投げ飛ばした。これを見たタケミナカタは恐れをなして逃げ出し、走りに走ってシナノ海(現・諏訪湖、長野県)まで辿り着いた。最後の一戦を交えようとするまさにスワというその時、タケミナカタは急に畏まり、「我を助けよ、この所から他へは行かじ、今後は命令に背かじ」と誓ったので、タケミカヅチはこれを許し助けて、直ちにこの誓いを携えて急ぎ出雲に取って帰った。
 「問えば応ふる オホナムチ」、「その子のままを 二神へ」、「我が子退りにき 我も退る」、「今我退らば 誰か亦」、「敢えて平れなん 者あらじ」、「我が草薙の この矛に」、「平らし給えと 言ひて退る」。
 二神は、オオナムチに出雲譲りの決断を迫った。オオナムチは二人の子供達の言うままを二神に伝えて降伏した。曰く「我が子が去るというのなら我も去る。しかし今、我れ去るにあたり誰かまた力づくで叛(そむ)く者がないとはいえないので、我が降伏の証しにクサナギ(草薙)のこの矛を用いて国を平定して下さい」。かく宣べて二神に矛を丁重に捧げた後、静かに去って行った。
 「逆ふは斬りつ 服(まつら)ふは」、「褒めて諸神 率いつつ」、「天に返れば 代の殿」、「政りを執りて 詔」、「汝フツ主 アワウワの」、「徹る導き 盛んなり」、「またミカツチは 鹿島たち 稜威を現す」、「物部の 灘和らに 戻すより」、「賜ふ守部は 鹿島神」。
 二神は国中の抵抗する者等を切りつつ帰順する者には褒美を与え取り立てつつ、天マに帰って代の殿のタカミムスビに戦勝報告した。タカミムスビは、一件落着を見た出雲帰順に関する政事(まつり)を執り、詔となった。「汝(なんじ)フツヌシよ、天神地祇(てんじんちぎ・アワウワ)の導きを良く守り神威(しんい)を高揚してくれた。又、ミカツチは鹿島を立って以来、皇家の稜威チ)を示すことに成功した。物部の者たちを柔軟に諭して帰順させ服属せしめた。この功により神部として鹿島神の名を賜う」。
 「時に服ふ オホナムチ」、「百八十神を 率い来て」、「忠も日陰の 灘あり」、「高御ムスビの 立たし枝」、「理あれば 詔」、「賜ふアソベの アカル宮」、「天映(あふゆ)を受くる オホナムチ」、「散るアソベの ウモト宮」、「造る千尋の 掛橋や」、「百八十縫いの 白楯に」、「顕国魂 オホナムチ」、「津軽ウモトの 神となる」、「ホヒの尊を 元政り」。
 この時、オオナムチは配下の百八十神を引き連れて来て、「忠も日陰の 灘あり」。タカミムスビがいろいろ質したが、オオナムチの返答は理にかなっていた。詔により、津軽のアソベのアカル宮(現・岩手山神社、祭神 顕国魂 うつしくにたま神、オオナムチの別名、中津軽郡、青森県)を天恩(アフユ)により賜った。供の百八十神はアソベのウモト宮(天日隅・阿曽部岳の大元宮)に分散した。力を合わせて助け合い白楯(しらたて)になり、それぞれの国を再開発して良田を広げた。国を移された御魂の意から顕国魂(うつしくにたま)と称えられたオオナムチは後に津軽ウモトノ神(東日隅大元神)となり神上がった。アマテル神はホヒノ命をオオナムチの元の杵築宮(きつき、現・出雲大社)の初代祭司に定めて祀らた。
 「高御ムスビの 大御言」、「汝物主 クシヒコよ」、「国つ女娶らば 疎からん」、「我がミホツ姫 妻として」、「八十万神を 司り」、「御孫を守り 奉れ」、「賜ふヨロギは 嘗事(医薬事) の」、「千草万木の 名を立たす」、「この宮領れば 代代のため」、「病めるを癒やす 道を分け」。
 ここでタカミムスビからオオナムチの子のクシヒコ(事代主)に大御言があった。「汝、物主クシヒコよ。もし国(出雲)の女性を娶(めと)る様なら我々との仲が(うと)くなってしまう。我が娘のミホツ姫(三穂津)を妻として八十万の神々を司(つかさど)り、御孫(みまご)を守護して奉れ」。この時、ヨロギの宮(與呂伎神社祭神 子守神、勝手神、高島郡、滋賀県)を賜り、嘗事(医薬事) の発祥の地となった。クシヒコはこの地に薬用植物園を開き、千種の草々や万の木々を植えて、一木一草に至るまで噛み潰し嘗めて薬効を調べると同時に分類して薬草名を定めた。このクシヒコ領のヨロギノ宮は、代々多くの病める人々ために薬を与えて病を癒し、時には鳥や動物の病も治して古代和方の基礎を築いた。
 「世嗣は一人 ヨロキマロ」、「ミホヒコの妻 スヱツミが」、「イクタマヨリ姫 十八子生む」、「越アチハセの 白玉姫」、「十八の姫生む 三十六人」、「ゆだね養せば 詔」、「賜ふヲシテは コモリ神」、「セミの小川に 禊して」、「茅の輪に立たす 六月や」、「民長らふる 祓なりけり」。
 クシヒコの妻ミホツ姫は一男子を授かった。幼名をヨロギマロと称し、いみ名をミホヒコと名付け、後に三代目オオモノヌシと成った。ミホヒコはスエズミ(陶荒田神社、堺市、大阪府)の娘イクタマヨリ姫を妻として十八子を生んだ。又、コシアジハセ(阿治波世神社、祭神 阿治波世神、所在不祥、推定鯵引山、丸岡、福井県)の娘シラタマ姫を妻として十八姫を生んだ。合計三十六人の大勢の子供達は皆天から委ねられた賜物と、常に身を浄めて大切に養育して皆立派に成長させ、詔によりコモリ神(俗に子守明神と呼ばれる、吉野水分神社、奈良県)の神名を賜った。コモリ神は毎年蝉(せみ)の鳴き始める六月末になるとセミノ小川(瀬見の小川、糺すの森、賀茂御祖神社、京都市)で禊(みそぎ)をして茅の輪をくぐり、この祓いの儀式が後々までも国民の長寿を得る茅の輪くぐりの祓いとなっている。
 【三代物主 御子の名歌】
 「コモリ子の 兄はカンタチ 次ツミハ」、「ヨシノミコモリ 四つはヨテ」、「次はチハヤヒ コセツヒコ」、「七はナラヒコ ヤサカヒコ」、「九はタケフツ 十はチシロ」、「十一はミノシマ 十二オオタ」、「次はイワクラ ウタミワケ」、「次のミコモリ 十六サキス」、「次はクワウチ オトマロぞ」、「一姫はモトメ  タマネ姫」、「イソヨリ姫に ムレノ姫」、「ミハオリ姫や スセリ姫」、「ミタラシ姫に ヤヱコ姫」、「コユルキ姫に シモト姫」、「ミチツル姫や ハモミ姫」、「ムメチル姫に アサ姫や」、「ハサクラ姫と ワカネ姫」、「アワナリ姫と トヨリ姫」、「総三十六神 子宝ぞこれ」。
 三世(ミヨ)モノヌシ御子の名の歌 (スエツミの娘イクタマヨリ姫との十八子)

 コモリ子の 兄(第一男子名)はカンタチ 次(男)ツミハ(三男)ヨシノミコモリ 四(男)つはヨテ 次(五男)はチハヤヒ(六男)コセツヒコ 七(男、ナナ)はナラヒコ (八男)ヤサカヒコ 九(男、ココ)はタケフツ 十(男、ソ)はチシロ 十一(男、ソヒ)はミノシマ 十二(男、ソフ)オオタ 次は(十三男)イワクラ (十四男)ウダミワケ (十五男)ツキノミコモリ (十六男、ソム)サギス 次(十七男)はクワウチ (十八男)オトマロぞ(コシアヂハセの娘シラタマ姫との十八女)

 一女(ヒヒメ)はモトメ (次女)タマネヒメ (三女)イソヨリヒメに(四女)ムレノヒメ (五女)ミハオリヒメや (六女)スセリヒメ(七女)ミタラシヒメに (八女)ヤヱコヒメ (九女)コユルキヒメに(十女)シモトヒメ (十一女)ミチツルヒメや (十二女)ハモミヒメ(十三女)ムメチルヒメに (十四女)アサヒメや (十五女)ハサクラヒメと(十六女)ワカネヒメ (十七女)アワナリヒメと (十八女)トヨリヒメ 総べて三十六神の子宝は以上の如くです。
 【カツテ神 寄継ぎ得る歌】
 「カツラキの 一言主が スヱツミが」、「ヤスタマと生む カツキマロ 諱ヤス彦」、「ミホヒコと ココトムスビの 伝え受け」、「御内に居れば 大御神」、「ヲシテ賜わる カツテ神」、「これも世継ぎの 歌の道かな」。
 カッテ神(勝手神社、吉野山、奈良県)世嗣(よつぎ)得る歌

 カツラギの ヒトコトヌシが スエツミが (娘)ヤスタマ(姫)と生む カツキマロ イミナ(実名)ヤスヒコ。 ミホヒコとココトムスビの 伝え受け 宮内(ミウチ)に居れば オオンカミ オシデ賜る カッテ神 これも世嗣の 歌の道かな。

 葛城山に住む一言主神が、スエツミ(隅祇)の娘ヤスタマ姫を娶り生まれた子の名はカツキマロで、実名をヤスヒコと云う。ヤスヒコは成長後道を深く欲し、ミホヒコ(子守神・右大臣)とココトムスビ(春日殿・左大臣)の家伝のアメナルミチ(天成道)を授かり、後にイサワのオオウチ宮に仕えている時、アマテル神からカッテ(勝手)神の神璽を賜りました。これも世嗣の歌の道であります。





(私論.私見)