ホツマツタヱ1、アのヒマキ(天の巻)1、東西(きつ)の名と穂虫去る紋

 更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2).3.3日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 「ホツマツタヱ1、アのヒマキ(天の巻)1、東西(きつ)の名と穂虫去る紋」を確認する。「ウィキペディアのホツマツタヱ」、「」その他を参照する。  

 2011.12.25日 れんだいこ拝


【ホツマツタヱ1、アのヒマキ(天の巻)1、東西(きつ)の名と穂虫去る紋】
 きつのなと ほむしさるあや 
 東西(きつ)の名と 穂虫去る文
 (和歌姫)
 それわかは わかひめのかみ
 それ和歌は ワカ姫の神
 すてられて ひろたとそたつ 
 捨てられて 拾たと育つ
 かなさきの つまのちおゑて あわうわや  
 金(カナ)サキの 妻の乳を得て アワウワや
 てふちしほのめ 
 手打ちし初(ほ)のめ
 (子育て)
 うまれひは かしみけそなえ たちまひや 
 生れ日は 炊御食(かしみけ)供え 立ち舞いや
 みふゆかみおき はつひもち あわのうやまひ 
 三冬髪置き 初日餅 アワ(陰陽)の敬い
 ももにひな あやめにちまき   
 桃に雛(ひな) 菖蒲(あやめ)に茅巻(ちまき)  
 たなはたや きくくりいわひ 
 七夕(たなはた、棚機)や 菊栗祝い
 ゐとしふゆ をははかまきる 
 五歳冬 男(お)は袴着る
 めはかつき ことはおなおす 
 女(め)は被衣(かづき) 言葉を直す
 (アワ歌)
 あわうたお つねにをしゑて 
 アワ歌を 常に教えて
 あかはなま いきひにみうく
 アカハナマ イキヒニミウク
 ふぬむえけ へねめおこほの
 フヌムエケ ヘネメオコホノ
 もとろそよ をてれせゑつる
 モトロソヨ ヲテレセヱツル
 すゆんちり しゐたらさやわ
 スユンチリ シヰタラサヤワ
 あわのうた かたかきうちて ひきうたふ
 アワの歌 カダカキ打ちて 弾き歌う
 おのつとこゑも あきらかに
 自ずと声も 明らかに
 ゐくらむわたを ねこゑわけ
 五臟(ゐくら)六腑(むわた)を 根声分け
 ふそよにかよひ よそやこゑ 
 二十四(ふそよ)に通い 四十八(よそや)声
 これみのうちの めくりよく
 これ身の内の 廻り良く
 やまひあらねは なからえり
 病あらねば 長らえり
 すみゑのをきな これおしる         
 住吉(スミヱ)の翁 これを知る
 (方位方角の名の由来)
 わかひめさとく かなさきに
 和歌姫聡く カナサキに
 きつさねのなの ゆゑおこふ
 東西南北(きつさね)の名の 故を請う
 をきなのいわく 
 翁の曰く 
 ひのいつる かしらはひかし 
 「日の出づる 頭(かしら)は東
 たけのほる みなみるみなみ  
 猛(たけ)昇る 皆な見る南
 ひのおつる にしはにしつむ  
 日の落つる 西は煮沈む
 よねとみつ かまにかしくは ひかしらや
 米と水 釜に炊(かし)ぐは 火頭や
 にゑはなみなみ にゑしつむ
 煮え花南 煮え鎮(しづ)む
 (長生き)
 ゑかひとたひの みけはこれ
 回日(えか)一度(ひとたび)の 御食(みけ)はこれ
 ふるとしふより つきみけの ひとはもよろに
 古る年二(ふ)より 月食(みけ)の 人は百万(もよろ)に
 つきむけの ひとはふそよろ 
 月六食の 人は二十万(ふそよろ)
 いまのよは たたふよろとし  
 今の世は ただ二万年(ふよろとし)
 いきなるる みけかさなれは よわひなし
 生き慣るる 御食重なれば 齢なし
 ゆえにをんかみ つきにみけ にかきはほなや 
 故に御神 月に三食(みけ) 苦き葉穂菜や
小笠原長弘本、にかきあほなや
 みなみむき あさきおうけて なかいきの
 南向き 朝気を受けて 長生きの
 (方位方角の理)
 みやのうしろお きたといふ
 宮の後を 北と言ふ
 よるはねるゆゑ きたはねそ 
 夜は寝る故 北はネぞ
 もしひときたり ことわけん あわねはきたよ
 もし人来たり 事分(ことわ)けん 会わねば北よ
 あふはひて みなみにことお わきまえて
 会うは東(ひ)で 南に事を 弁(わきまえ)て
 おちつくはにし かえるきた
 落ち着くは西 帰る北
 ねよりきたりて ねにかえる
 北(ネ)より来たりて 寝(ネ)に帰る
 (季節と方位の理)
 きははるわかは なつあおは
 木は春若葉 夏青葉
 あきにゑもみち ふゆおちは 
 秋熟(に)え紅葉(もみぢ) 冬落葉 
 これもおなしく ねはきたに きさすひかしや 
 これも同じく ネは北に 兆(きざ)す東や
 さにさかゑ つはにしつくる
 南(さ)に栄え 西(つ)は煮鎮(にし)尽くる
 (央(を)の理)
 をはきみの くにをさむれは
 央(を)は君の 国治むれば
 きつをさね よもとなかなり 
 東西央南北(きつをさね) 四方(よも)と中なり
 (木の理)
 きはひかし はなはもみなみ
 木は東 花葉も南
 このみにし みおわけおふる
 木の実西 実を分け生(お)ふる
 きのみゆゑ きみはをめかみ
 木の実故 キミは男女(おめ)神
 (虫祓い)
 しかるのち いさわのみやに はへるとき
 しかる後 伊雑(イサワ)の宮に 侍る時
 きしゐのいなた ほをむしに 
 紀志伊(キシヰ)の稲田 穂汚(ほを)虫に 
 いたむおなけき あるかたち
 傷むを嘆き ある形 
 つくるいさわの ををんかみ
 告ぐる伊雑の 大御神
 あまのまなゐに みゆきあと
 天の真名井(まなゐ)に 御幸(みゆき)後
 たみのなけきに むかつひめ 
 民の嘆きに 向津(ムカツ)姫
 いそききしいに ゆきひらき
 急ぎ紀志伊に 行きひらき
 たのきにたちて おしくさに
 田の東(き)に立ちて 押草に
 あほくわかひめ うたよみて 
 扇ぐワカ姫 歌詠みて
 はらひたまえは むしさるお
 祓い給えば 虫去るを
 むかつひめより このうたお   
 向津姫より この歌を
 みそめおまてに たたつませ
 三十女(みそめ)を左右(まて)に たたづませ
 おのおのともに うたはしむ
 各々共に 歌わしむ
 いなむしはらふ わかのましない  
 稲虫祓う 和歌の呪(まじな)い
 たねはたね うむすきさかめ まめすめらの
 大麦小麦(たねはたね) 産むすき盛豆(さかめ) 大豆小豆(まめすめら)の 
 そろはもはめそ むしもみなしむ 
 繁葉(ぞろは)も蝕(は)めぞ 虫も厭(みな)退(し)む
 くりかえし みもむそうたひ とよませは
 繰り返し 三百六十(みもむそ)歌い 響(どよ)ませば
 むしとひさりて にしのうみ 
 虫飛び去りて 西の海 
 さらりむしさり ゑおはらひ
 さらり虫去り 穢(ゑ)を祓い 
 やはりわかやき よみかえる
 やはり若やぎ 甦(よみがえ)る
 そろにみのりて ぬはたまの よのかておうる
 繁(そろ)に実りて ぬばたまの 世の糧を得る 
 おんたから よろこひかえす 
 御宝 喜びかえす
 (和歌姫の名声)
 きしゐくに あひのまゑみや たまつみや 
 紀志伊国 天日(あひ)の前宮 玉津宮
 つくれはやすむ あひみやお くにかけとなす
 造れば康(やす)む 天日宮を 国懸(くにかけ)となす
 わかひめの こころおととむ たまつみや
 ワカ姫の 心を留む 玉津宮
 かれたるいねの わかかえる 
 枯れたる稲の 若返る 
 わかのうたより わかのくに  
 ワカの歌より 和歌の国 
 (和歌姫求愛)
 たまつのをしか あちひこお
 玉津の御使(をしか) 天智(アチ)彦を
 みれはこかるる わかひめの 
 見れば焦(こが)るる 和歌姫の
 わかのうたよみ うたみそめ
 和歌の歌詠み 歌見染め
 おもひかねてそ すすむるお
 思いかねてぞ 勧むるを
 ついとりみれは
 つい取り見れば
 きしいこそ つまおみきわに ことのねの
 「紀志伊こそ 妻を身際に 琴の音の
 とこにわきみお まつそこいしき   
 床には君を 待つそ恋しき」
 おもえらく はしかけなくて むすふやは 
 思えらく 橋架けなくて 結ぶやは
 これかえさんと かえらねは ことのはなくて
 これ返さんと 返らねば 言の葉なくて
 まちたまえ のちかえさんと もちかえり 
 「待ち給え 後返さん」と 持ち帰り
 たかまにいたり もろにとふ
 高マに至り 諸に問う
 かなさきいわく 
 金サキ曰く 
 このうたは かえことならぬ まわりうた
「この歌は 返言(かえごと)ならぬ 回り歌
 われもみゆきの ふねにあり
 我も御幸の 船にあり
 かせはけしくて なみたつお
 風激しくて 波立つを
 うちかえさしと まわりうたよむ  
 打ち返さじと 回り歌詠む
 なかきよの とおのねふりの みなめさめ
 「長き夜の 遠(とお)の眠りの 皆な目覚め
 なみのりふねの おとのよきかな 
 波乗(の)り船の 音の良きかな」 
 とうたえは
 と歌えば
 かせやみふねは こころよく あわにつくなり 
 風止み船は 快く 阿波に着くなり
 わかひめの うたもみやひお かえさしと 
 和歌姫の 歌も雅びを 返さじと
 もふせはきみの みことのり
 申せば君の 詔(みことのり)
 かなさきかふね のりうけて めをとなるなり
 「金サキが船 宣(の)り受けて 夫婦(めをと)なるなり」
 (アチヒコと和歌姫の新婚生活)
 やすかわの したてるひめと  あめはれて 
 安川(やすかわ)の 下照(シタテル)姫と天晴れて
 そのおしくさは ぬはたまの 
 その押草は ぬばたまの
 はなはほのほの からすはの
 花はほのぼの 鳥葉(からすは)の 
 あかきはひのて
 赤きは日の出
 (アチヒコと和歌姫の国治め)
 ひあふきの いたもてつくる あふきして
 檜扇(ひおうぎ)の 板もて作る 扇して
 くにもりをさむ をしゑくさ
 国守り治む 教え種(くさ)
 からすあふきは そふはなり
 鳥扇(からすおうぎ)は 十二(そう)葉なり
 ひあふきのはは みなはらふ あわのよそやそ 
 檜扇の葉は みな祓う あわ(陽陰)の四十八(よそや)ぞ 
 またみそふ みちなわすれそ
 また三十二(みそふ) 道な忘れそ
 (和歌の五七調のこと)
 はなきねは ゐなにつつる おあねにとふ
 花杵(はなきね、若姫の弟)は 五七に綴る(を) 姉に問う
 あねのこたえは あわのふし
 姉の答えは 「アワ(陽陰)の節」
 (暦のこと)
 またとふ
 また問う
 はらひ みそふなり いまみそひとは
 「祓い 三十二(みそふ)なり 今三十一(みそひ)とは」
 このをしゑ あめのめくりの みむそゐゑ
 「この教え 天の廻りの 三六十五(みむそゐゑ)
 よつみつわけて みそひなり 
 四つ三つ分けて 三十一(みそひ)なり
 つきはおくれて みそたらす 
 月は遅れて 三十(みそ)足らず 
 まことみそひそ
 まこと三十一ぞ
 しかれとも あとさきかかり
 しかれども 後先かかり
 みそふかも あるまうかかふ 
 三十二日(みそふか)も ある間窺(うかが)う
 おゑものお はらふはうたの こゑあまる
 汚穢(おゑ)ものを 祓うは歌の 声余る
 しきしまのゑに ひとうまれ みそひかにかす
 敷島の上(ゑ)に 人生まれ 三十一日に活(か)す
 めはみそふ うたのかつもて わにこたふ
 女(め)は三十二日 歌の数もて ワに応(こた)う
 これしきしまの わかのみちかな  
 これ敷島の 和歌の道かな」

【(れんだいこ訳)ホツマツタヱ1、アのヒマキ(天の巻)1、東西の名と穢虫去る文】
 「ホツマツタヱ1、アのヒマキ(天の巻)1、東西(きつ)の名と穂(ほ)虫去る紋」。これを説き分ける。原文は和歌体により記されている。「ホツマツタヱ御機の初 東西(キツ)の名と穂虫去るアヤ」、「東西(キツ)の名と穂虫(ホムシ)去るアヤ」その他を参照しつつ、れんだいこ訳として書き上げることにする。
 (和歌姫)
 「それ和歌は ワカ姫の神」、「捨てられて 拾たと育つ」、「金(カナ)サキの 妻の乳を得て アワウワや」、「手打ちし初(ほ)のめ」。
 さて、和歌は日本文化の結晶ともいうべき精髄である。その和歌の道はワカ姫の神によって究められた。ワカ姫の名に因んで「ワカの歌」と名づけられ、漢字伝来以降は「和歌」の漢字が当てられて今日に至っている。そのワカ姫は、第7代天神イサナギ―イサナミの第1子として、筑波のイサ宮(茨城県真壁郡付近)でお生まれになった。この時父は40才、母は31才で、共に天の節(厄年)に当たっていた。両神は親の災厄がワカ姫にまで及ぶのではないかと心配され、「捨て子は育つ」という言い伝えに従い捨て子にした。それを、後に住江(スミヱ)の翁と称えられることになる重臣の金(カナ)サキが拾い、その妻の乳により慈しみ育てられた。二人が宝物のようにして慈しみ育てたのでワカ姫はスクスクと育っていった。

(私論.私見)

 日本語のリズムと韻が和歌を産み、その和歌がワカ姫により究められとする教えは貴重である。「ワカ姫は、第7代天神イサナギ―イサナミの第1子として、筑波のイサ宮(茨城県真壁郡付近)でお生まれになった」につき、裏づけは分からない。気になるところではある。
 (子育て)
 「生れ日は 炊御食(かしみけ)供え 立ち舞いや」、「三冬髪置き 初日餅 天(陰陽)の敬い」、「桃に雛(ひな) 菖蒲(あやめ)に茅巻(ちまき)」、「棚機(たなはた)や 菊栗祝い」、「五歳冬 男(お)は袴着る」、「女(め)は被衣(かづき) 言葉を直す」。
 日本では子供の成長に応じて数々の祝い事が為される。誕生日には炊御食(かしみけ)を供えて祝う。赤ちゃんが生まれたと聞くと、周囲のみんなが顔を覗きに来て祝う。赤ん坊を抱き合い、あやし言葉を掛ける。やがて目が見えるようになり首が座るとお披露目する。1年目の誕生日には赤飯を供えて祝う。離乳食から一般食へ切り替えの時期を迎えると箸を使って自分で食べる訓練を始める。赤子はハイハイから伝え歩き、伝え歩きからバランスを取って「立ち舞い」し始める。大人たちは「立った立った」と大喜びをして囃し立てる。やがて幼児の仲間入りの時期となる。

 三度目の冬には髪を整え児童の仲間入りする。この頃から無事の成長を祈って次のような年中行事を行う。元旦には餅を供え天地自然の神を敬い、子供の無事成長を願う。女の子なら3月3日に桃の花を飾り、可愛らしく育つようにとの願いを込めて雛祭りを行う。男の子なら5月5日に菖蒲を飾り、威丈夫に育つようにとの願いを込めて茅巻(ちまき)を供える。7月7日は七夕(たなばた)祭りを行い、9月9日は菊と栗の祝いをする。5年目の冬(11月)の祝いには男子は袴を着る。女子は被衣(かつき)を着て正装する。これを「着袴(ちゃっこ)の儀」と云う。この頃から幼児言葉を改め大人言葉に切り替えることになる。この風習は今日でも七五三の行事などに残っている。
(私論.私見)
 日本が格別に子供を大事に育ててきたことが分かる。子育ての式次第、行事が今に伝わっているのが凄いと思う。
 (アワ歌)
 「アワ歌を 常に教えて」、「アカハナマ イキヒニミウク」、「フヌムエケ ヘネメオコホノ」、「モトロソヨ ヲテレセヱツル」、「スユンチリ シヰタラサヤワ」。
 これに並行してアワ歌を教える。アワ歌とは、「アカハナマ イキヒニミウク フヌムエケ ヘネメオコホノ モトロソヨ ヲテレセヱツル スユンチリ シヰタラサヤワ」の48音の歌を云う。子供の教育はアワ歌を教えて常に歌わせることから始まる。ここで、アで始まりワで終わる四十八音のアワ歌の理を教える。アワ歌の一音一音が意味を持っており、言葉に神が宿っている。これを言霊(ことだま)と云う。
(私論.私見)
 子供を大事に育てつつアワ歌を教える。アワ歌は日本語48音の基本であり、その言葉に神が宿っている。これを言霊(ことだま)と云う。子供に1音ごとの意味と理を教え、幼少より精通させる必要を説いている。
 「アワの歌 カダカキ打ちて 弾き歌う」、「自ずと声も 明らかに」、「五臟(ゐくら)六腑(むわた)を 根声分け」、「二十四(ふそよ)に通い 四十八(よそや)声」、「これ身の内の 循(めぐ、廻)り良く」、「病あらねば 長らえり」、「住吉(スミヱ)の翁 これを知る」。
 アワ歌は、カダガキという楽器を打ち、琴を弾いて合わせ歌うことで修得する。これにより自ずと発音が明瞭になり言葉を正確に覚えるようになる。これにより頭脳が発達する。更に言霊が五臟六腑に沁みわたり、身体各部の24節の隅々にまで作用し、四十八声が響き伝わることにより身の内の廻りが良くなり、病気を寄せつけない丈夫な体が育まれることになる。これほどに言語教育が大切にされる。子育ての風習と言語教育が自ずと子供の情操教育に通じている。子供の頃から躾を大事にせねばならない。養父の住吉(スミヱ)の翁(金サキ)は、この理を深く知って、預かり子のワカ姫にアワ歌を徹底的に仕込みながら育てた。
(私論.私見)
 アワ歌を楽器と琴による音楽つきで歌うのが良い。これにより発音が明瞭になり、言霊が内臓の五臟六腑に沁みわたり、身体各部の24節の隅々にまで作用し、身の内の廻りが良くなり、病気を寄せつけない丈夫な体が育まれることになると教えている。
 (方位方角の名の由来)
 「和歌姫聡く カナサキに」、「東西南北(きつさね)の名の 故を請う」、「翁の曰く」、「日の出づる 頭(かしら)は東」、「猛(たけ)昇る 皆な見る南」、「日の落つる 西は煮沈む」、「米と水 釜に炊(かし)ぐは 火頭や」、「煮え花南 煮え鎮(しづ)む」。
 ワカ姫は幼い頃から才気煥発で聡明な御子に成長した。或る時、金サキに東西南北(キツサネ)の名の由来(謂れ)を尋ねた。翁は次のように説明した。「毎朝お日様が出て昇る。そのお日様の頭(かしら)が姿を現す方角を『日頭(ひがしら)』故に東と云うようになった。やがてお日様は昇り、すべてのものを明るく照らし出す。あらゆる物が『皆な見える』故に南と云う。お日様はやがて煮えたぎるような夕日を残して沈んで行く。お日様が『煮え沈む』故に西と云う。これが東、南、西の謂れですぞ」。和歌姫は目を輝かせて聞き入った。翁は続けた。「お日様の例えのみならずお米と水をお釜に入れて炊く時の火の役割でも説明することができませう。釜に火を付けると、やがてぼうぼうと火頭が立ち始めますので、これを東と云う。やがて煮え花がなみなみと立ち始めますので、これを南と云う。十分炊けると火を弱める。段々と煮え沈むので西と云う。姫よ、お分かりになりましたかな」。(北の説明はこの後で為される)
(私論.私見)
 ここで、東西南北(キツサネ)の方位の名の由来(謂れ)が開陳している。それによると、お日様の頭(かしら)が姿を現す方角を『日頭(ひがしら)』故に東。日が昇り、すべてのものを明るく照らし出す。すると、あらゆる物が『皆な見える』故に南。日が煮えたぎるような夕日を残して沈んで行く。お日様が『煮え沈む』故に西。これが東、南、西の謂れだと云う。お米と水をお釜に入れて炊く時の火の役割でも説明することができる。釜に火を付けると、やがてぼうぼうと火頭が立ち始めますので、これを東。やがて煮え花がなみなみと立ち始めますので、これを南。十分炊けると火を弱める。段々と煮え沈むので西と云う。
 (長生きの法)
 「回日(えか)一度(ひとたび)の 御食(みけ)はこれ」、「古る年二(ふ)より 月食(みけ)の 人は百万(もよろ)に」、「月六食の 人は二十万(ふそよろ)」、「今の世は ただ二万年(ふよろとし)」、「生き慣るる 御食重なれば 齢なし」、「故に御神 月に三食(みけ) 苦き葉穂菜や(小笠原長弘本、にかきあほなや)」、「南向き 朝気を受けて 長生きの」。
 食事の話しをしましたので、ついでに述べておきます。昔は良き日に1回、ご飯を炊いて食べたものです。大昔より月に2回米食する人の寿命は百万才、月に6回米飯する人の寿命は二十万才、今の世の人は米飯を常食していますので二万年しか生きられなくなってしまいました。美味しいからと食欲に任せて、米飯ばかりしていると長生きすることができません。古来よりの慣れ親しんできた食をすれば長命になります。逆は短命になります。故に、御神になるような人は、月に三回の米飯を心掛け、加えてチヨミ草という苦菜の葉や穂菜を食べるのが良いのです。更に教えれば、人は南よりのお日様の照りと気を受けることが肝要です。朝の精気を受けるのも宜しい。そうすれば長生きすることができますぞ。
(私論.私見)
 ここで、長寿法と食事法について次のように開陳している。米食が1月に1回の時は非常に長命だった。月に2回米食する人ようになり寿命が百万才になった。月に6回米飯する人の寿命は二十万才、米飯を常食する現在は二万年しか生きられなくなってしまった。美味しいからと米飯ばかりしていると長生きすることができない。古来よりの慣れ親しんできた食をすれば長命になり、逆は短命になる。故に、御神になるような人は、月に三回の米飯を心掛け、加えてチヨミ草という苦菜の葉や穂菜を食べるのが良い。更に教えれば、人は南よりのお日様の照りと気を受けることが肝要です。朝の精気を受けるのも宜しい。そうすれば長生きすることができる云々。
 (方位方角の理)
 「宮の後を 北と言ふ」、「夜は寝る故 北はネぞ」、「もし人来たり 事分(ことわ)けん 会わねば北よ」、「会うは東(ひ)で 南に事を 弁(わきまえ)て」、「落ち着くは西 帰る北」、「北(ネ)より来たりて 寝(ネ)に帰る」。
 この原理を踏まえて宮は南向きに建てられています。宮の後ろの方角を北と云います。夜になると北の間で寝るのが宜しい。故に北をネとも云う。もし、人が来て、難しい判断が問われるような時は、既に寝ていると伝えて会うのを避けるのが良い。会うならば日の出の刻に会うべきで、日中の南の時分に判断するのが良い。これが分別を得ると云うもの。落ち着くならば西の頃が良い。帰るならば北が良い。人は北より来たりて寝に帰るとしたものです。これが一日の上手な過ごし方です。
(私論.私見)
 ここで、方位としての北について次のように開陳している。宮は南向きに建てられている。宮の後ろの方角を北と云う。夜になると北の間で寝るのが宜しい。故に北をネとも云う。もし、人が来て、難しい判断が問われるような時は、既に寝ていると伝えて会うのを避けるのが良い。会うならば日の出の刻に会うべきで、日中の南の時分に判断するのが良い。これが分別を得ると云うもの。落ち着くならば西の頃が良い。帰るならば北が良い。人は北より来たりて寝に帰るとしたものです。これが一日の上手な過ごし方です。
 (季節と方位の理)
 「木は春若葉 夏青葉」、「秋熟(に)え紅葉(もみぢ) 冬落葉」、「これも同じく ネは北に 兆(きざ)す東や」、「南(さ)に栄え 西(つ)は煮鎮(にし)尽くる」。
 今度は方位を木に例えてみませう。木は春になると若葉、夏になると青葉、秋には熟(に)え紅葉(もみぢ)となり、冬に落葉します。方位のサイクルも同じで、何事も仕舞うのは北で、日が差し始めに応じて何事かし始めるのは東です。次に高く昇ったお日様の光を一杯に受けて栄えるのが南です。それが尽きるのが西である。これが自然の循環に合わせた方位の理です。このことを知り上手に合わせるのが賢い生き方になります。
(私論.私見)
 ここで、季節と木の成長との絡み、日差しと方位の関係について次のように開陳している。木は春になると若葉、夏になると青葉、秋には熟(に)え紅葉(もみぢ)となり冬に落葉する。方位のサイクルも同じで、何事も仕舞うのは北で、日が差し始めに応じて何事かし始めるのは東。高く昇ったお日様の光を一杯に受けて栄えるのが南。それが尽きるのが西。これが自然の循環に合わせた方位の理です。このことを知り上手に合わせるのが賢い生き方であると教える。
 (央(を)の理)
 「央(を)は君の 国治むれば」、「東西央南北(きつをさね) 四方(よも)と中なり」。
 この悟りだけでは足りません。「央」(を、中)と云うものがあります。央は君の坐しますところで、君はここで国を治めます。万事が東西央南北(キツヲサネ)に分かれ四方(ヨモ)と央(ナカ)より成り立っています。国を治めるにはこの理を踏まえねばなりません。
(私論.私見) 
 ここで、「央」(を、中)の理」について次のように開陳している。方位方角として東西南北があるが、それらの中心に「央」(を、中)がある。央は君の坐しますところで、君はここで国を治める。万事が東西央南北(キツヲサネ)に分かれ四方(ヨモ)と央(ナカ)より成り立っている。国を治めるにはこの理を踏まえねばならないと教える。
 「木は東 花葉も南」、「木の実西 実を分け生(お)ふる」、「木の実故 キミは男女(おめ)神」。
 木は東、花葉は南、木の実は西と例えることができます。実は一度に実らず時節を分けて生えます。木の実の理を知りませう。木から生れた実はやがて種をつけます。人の世も木の実が分かれるのと同じです。身を分けて子が生まれます。木と実の関係は、木が男(お)神、実が女(め)神と云うことになります。以上、方位方角の理を話しましたが分かりましたか。
(私論.私見) 
 ここで、木の成長と方位との絡みについて次のように開陳している。木は東、花葉は南、木の実は西と例えることができる。これが「木の実の理」である。木から生れた実はやがて種をつける。人の世も木の実が分かれるのと同じで身を分けて子が生まれる。木と実の関係は、木が男(お)神、実が女(め)神と云うことになる。
 (虫祓い)
 「然る後 伊雑(イサワ)の宮に 侍る時」、「紀志伊(キシヰ)の稲田 穂汚(ほを)虫に」、「傷むを嘆き、ある形」、「告ぐる伊雑の 大御神」、「天の真名井(まなゐ)に 御幸(みゆき)後」、「民の嘆きに 向津(ムカツ)姫」、「急ぎ紀志伊に 行きひらき」、「田の東(き)に立ちて 押草に」、「扇ぐワカ姫 歌詠みて」、「祓い給えば 虫去るを」、「向津姫より この歌を」、「三十女(みそめ)を左右(まて)に たたづませ」、「各々共に 歌わしむ」、「稲虫祓う 和歌のまじない」。
 ワカ姫は成人して伊雑の宮(現三重県志摩郡)にお仕えしていました。この時、紀志伊国(和歌山地方)の稲田でホヲムシ(いなご)の大発生があり、稲穂の生育が悪くなりました。嘆き悲しんだ民の使者が、何とかして欲しいと告げるために大御神のおられる伊雑宮にやって来ました。あいにく大御神は天のマナヰ(京都府宮津)に行幸された後で留守でした。代わって正后の向津姫が被害の状況と民の嘆きをお聞きになり、ワカ姫を伴って急ぎ紀志伊国に行きました。ワカ姫が、古の教えにしたがって田の東に立って押草を桧扇(ひあふぎ)で扇ぎながら祓いの歌を詠んだところ、虫が去り始めました。向津姫が、三十人の侍女を田の左右に立たせ、ワカ姫の詠う歌を一緒に歌わせました。これが稲虫を祓うまじない歌です。
 「田の種、畑の種、産むすき、盛豆(さかめ)、大豆(まめ)、小豆(すめら)の繁る葉を蝕(は)んでいる虫たちよ、それ以上蝕んではいけません。一斉に立ち去りなさい」。歌を繰り返すこと三百六十回、声を合わせ大声で歌わせ響(とどろ)かせたところ、虫は西の海の方へ飛び去って行きました。こうして穢(え)を祓ったところ、稲は生気を取り戻して元のように若々しくよみがえり、その年の稲はたわわに稔り、大いに収穫できヌバタマの世の糧を得ることになりました。古来からの「稲虫を祓うまじない歌」は効能あらたかで、皆がこの宝物に喜びかえりました。ワカ姫の祓いの呪力が試され霊能者としての評判が立つことになりました。
(私論.私見) 
 ここで、ワカ姫の成人後の様子が語られている。大御神のおられる伊雑の宮(現三重県志摩郡)に仕えていた時、紀志伊国(和歌山地方)の稲田でホヲムシ(いなご)の大発生があり、何とかして欲しいと民の陳情があったが、あいにく大御神は天のマナヰ(京都府宮津)に行幸された後で留守であったので、大御神の正后の向津姫がワカ姫を伴って急ぎ紀志伊国に行った。ワカ姫が、古の教えにしたがって田の東に立って押草を桧扇(ひあふぎ)で扇ぎながら稲虫を祓うまじない歌を詠んだところ虫が去り始めた。向津姫が、三十人の侍女を田の左右に立たせワカ姫の詠う歌を一緒に歌わせた。かくワカ姫の霊能力を記している。
 (和歌姫の名声)
 「紀志伊国 天日(あひ)の前宮 玉津宮」、「造れば康(やす)む 天日宮を 国懸(くにかけ)となす」、「ワカ姫の 心を留む 玉津宮」、「枯れたる稲の 若返る」、「ワカの歌より 和歌の国」。
 紀志伊国には天照大神の天日宮(アヒミヤ)が置かれていました。その前宮として玉津宮(玉津島神社)が造営され、諸国を結ぶ国懸けとしていました。名声を高めた和歌姫はこの玉津宮に住むことになりました。和歌姫は、枯れた稲を若返らせた和歌の国の和歌姫と讃えられ、この故事により紀志伊国は和歌の国と云われるようになりました。
(私論.私見) 
 紀志伊国には天照大神の天日宮(アヒミヤ)が置かれていた。その前宮として玉津宮(玉津島神社)が造営され、諸国を結ぶ国懸けとしていた。名声を高めた和歌姫はこの玉津宮に住むことになった。和歌姫は、枯れた稲を若返らせた和歌の国の和歌姫と讃えられ、この故事により紀志伊国は和歌の国と云われるようになった。
 (和歌姫求愛)
 「玉津の御使(をしか) 天智(アチ)彦を」、「見れば焦(こが)るる 和歌姫の」、「和歌の歌詠み 歌見染め」、「思いかねてぞ 勧むるを」、「つい取り見れば」、「紀志伊こそ 妻を身際に 琴の音の」、「床には君を 待つそ恋しき」、「思えらく 橋架けなくて 結ぶやは」、「これ返さんと 返らねば 言の葉なくて」、「『待ち給え 後返さん』と 持ち帰り」、「高マに至り 諸に問う」。
 次に、和歌姫の恋の話を伝えることにする。玉津宮に住まいする和歌姫は、伊雑宮の勅使として遣わされていたアチ彦に一目惚れし、思いは日毎に募まり、或る時、和歌を詠んでウタミ(短冊)にしたため手渡した。アチ彦が目を通すと、歌文には「紀志伊こそ、妻を身際に琴の音の、床に吾君を待つそ恋しき」(去年、この紀志伊国で初めて貴方様にお会いした途端に、琴の音のように胸は高鳴り、床に着いても寝付かれず、いとしい貴方様をお待ちしています、それほどに恋い焦がれています)。大胆直情な愛の告白だった。アチ彦にとって和歌姫は二人といない素晴らしい女性にして願ってもない恋文だったが、仲人を立てずの突然の求愛であったここと直ぐに返す言葉が見つからなかった為、「待ち給え、後に返さん」(待って下さい。後日、必ずお返事をします)と述べ、歌文を持ち帰った。伊雑の宮に帰り着いたアチ彦は、高マで諸神に相談した。
(私論.私見) 
 ここで、和歌姫の天智(アチ)彦との恋愛の様子が明らかにされている。玉津宮に住まいする和歌姫は、伊雑宮の勅使として遣わされていたアチ彦に一目惚れし、或る時、和歌を詠んでウタミ(短冊)にしたため手渡した。アチ彦が目を通すと、歌文には「紀志伊こそ、妻を身際に琴の音の、床に吾君を待つそ恋しき」(去年、この紀志伊国で初めて貴方様にお会いした途端に、琴の音のように胸は高鳴り、床に着いても寝付かれず、いとしい貴方様をお待ちしています、それほどに恋い焦がれています)。大胆直情な愛の告白だった。アチ彦にとって和歌姫は二人といない素晴らしい女性にして願ってもない恋文だったが、直ぐに返す言葉が見つからなかった為、「待ち給え、後に返さん」(待って下さい。後日、必ずお返事をします)と述べ歌文を持ち帰った。伊雑の宮に帰り着いたアチ彦は、高マで諸神に相談した。
 (回り歌返し)
 「金サキ曰く」、「この歌は 返言(かえごと)ならぬ 回り歌」、「我も御幸の 船にあり」、「風激しくて 波立つを」、「打ち返さじと 回り歌詠む」「長き夜の 遠(とお)の眠りの 皆目覚め」、「波乗(の)り船の 音の良きかな と歌えば」、「風止み船は 快く阿波に着くなり」、「和歌姫の 歌もミヤビを 返さじと」、「申せば君の 詔(みことのり)」、「金サキが船 宣(の)り受けて 夫婦(めをと)なるなり」。
 この時、和歌姫の養父でもある金サキが、「和歌姫ほどの者を恋焦がらせるアチ彦殿はよほど幸せ者ですぞ。ところで、アチ彦殿のお気持ちはどうなのですか」と問い、アチ彦は「願ってもないこと」と伝えた。これを受けて金サキが云った。「この歌は容易には返言できぬ上から読んでも下から読んでも同じ回り歌になっております。回り歌には回り歌で返さねばなりません。かといって、かなり難しい技です。宜しければ私の歌を捧げませう」。私がかって行幸の随行で舟に乗っていたとき、風が激しく波が荒くなって危険が迫ったのを何とか打開せんと願って詠んだ歌です。「長き夜の、絶の眠りの皆目覚め、波平り船の音の良きかな」。この歌を詠んだところ、風は止み舟は無事に阿波に着くことができました。念願叶う目出たい縁起の良い歌です。金サキとアチ彦の遣り取りをお聞きになっていた天照神は勅を発せられた。「金サキの出した助け舟を乗り受けて夫婦になったら良いではないか」。こうしてアチ彦は晴れて和歌姫と結婚することになった。
(私論.私見) 
 ここで、和歌姫の養父でもある金サキが登場し、アチ彦の回り歌返しに協力する。金サキとアチ彦の遣り取りをお聞きになっていた天照神が、アチ彦とワカ姫が夫婦になることを勧め、二人は結婚することになった。
 (アチ彦と和歌姫の新婚生活)
 「安川(やすかわ)の 下照(シタテル)姫と 天晴れて」、「その押草は ぬばたまの」、「花はほのぼの 鳥葉(からすは)の 赤きは日の出」。
 アチ彦と和歌姫は、滋賀の近江のヤスカワに新居を構え、和歌姫は下照姫の名を賜り、アチ彦は先の一件によってオモイカネという神名でよばれるようになった。二人は新婚生活を始めた。その様子が和歌で次のように語られている。「その押草はぬばたまの、花はほのぼの 明らす花の 赤きは日の出」。
(私論.私見) 
 ここで、アチ彦とワカ姫の熱々の新婚生活が伝えられている。ヌバタマはヒアフギとかカラスアフギとも呼ばれるあやめ科の多年生植物で、ヌバタマの葉は、扇の要部分のように茎を中心にして左右対称に重なり合って出る。その花はほのぼのとした紫色の花弁で、その実は赤く、四つに割れて中から真っ黒の種が顔を 覗かせる。古来ヌバタマには災厄を祓う呪力があると云われており、ヌバタマの種は夜を、花は夜明けを、結実は日の出を象徴し、その実は太陽のように真っ赤に染まり、熟し切ると色褪せて中に夜を宿すようになる。
 (アチヒコと和歌姫の国治め)
 「檜扇(ひおうぎ)の 板もて作る 扇して」、「国守り治む 教え種(くさ)」、「鳥扇(からすおうぎ)は 十二(そう)葉なり」、「檜扇の葉は みな祓う あわ(陽陰)の四十八(よそや)ぞ」、「また三十二(みそふ) 道な忘れそ」。
 二人は、古来よりの教えに則り、呪力を持つとされている檜扇(ひおうぎ)の 板で作った扇による託宣に従い国を治めた。この鳥扇(からすおうぎ)は12葉より成り、悪しきを祓う御教えを伝えている。檜扇の葉は、あわ歌の四十八種の教え、三十二(みそふ)の道に従って悪しきを祓う御教えを伝えている。この道をしっかりと守らねばなりません。
(私論.私見) 
 ここで、アチ彦とワカ姫の二人が、古来よりの教えに則り、呪力を持つとされている檜扇(ひおうぎ)の板で作った扇による託宣に従い国を治めた。この鳥扇(からすおうぎ)は12葉より成り、悪しきを祓う御教えを伝えている。檜扇の葉は、あわ歌の四十八種の教え、三十二(みそふ)の道をしっかりと守ってに悪しきを祓う御教えの体得に精進している様が伝えられている。

 (和歌の五七調のこと)

 「花杵(はなきね、和歌姫の弟)は、五七に綴る(を) 姉に問う」、「姉の答えは アワ(陽陰)の節」。
 最後にもう一つ、和歌の道を伝えておく。和歌姫は既に立派な大人に成長し、和歌の第一人者にもなっていた。和歌姫には上からワカヒト(天照神)、モチキネ(月読神)、ハナキネ(ソサノヲの命)の三人の弟がいた。ある時、和歌姫の末弟のハナキネ(花杵)が、文章や和歌を五七に綴るのはなぜかを問うた。和歌姫は、「あわ(陽陰)の節」の理に従っていると答え、五七調が「あわ(陽陰)の節」のリズムに合い、陽陰の四十八に通じていることを簡潔に教えられた。
(私論.私見) 
 ここで、和歌姫の兄弟姉妹のワカヒト(天照神)、モチキネ(月読神)、ハナキネ(ソサノヲの命)のうち、末弟のハナキネ(花杵)が、ワカ姫に和歌が五七に綴る理由を問い、ワカ姫が、それは「あわ(陽陰)の節」の理に従っていると答え、五七調が「あわ(陽陰)の節」のリズムに合い、陽陰の四十八に通じていることを教えている。かく知る必要があると記していることになる。
 (暦のこと)
 「また問う『祓い 三十二(みそふ)なり 今三十一(みそひ)とは』」、「この教え 天の廻りの 三六十五(みむそゐゑ)」、「四つ三つ分けて 三十一(みそひ)なり」、「月は遅れて 三十(みそ)足らず まこと三十一ぞ」、「しかれども 後先かかり」、「三十二日(みそふか)も ある間窺(うかが)う」、「汚穢(おゑ)ものを 祓うは歌の 声余る」、「敷島(しきしま)の上(ゑ)に 人生まれ 三十一日に活(か)す」、「女(め)は三十二日 歌の数もて ワに応(こた)う」、「これ敷島の 和歌の道かな」。
 ハナキネ(花杵)は質問を続けた。「祓いの歌は32音のはずなのに、いま31音の歌が多く詠まれるのはどうしてですか」。和歌姫は今度は懇切丁寧に答えた。「天の廻り(地球の公転周期)は365日です。これが春夏秋冬の四季に分かれています。四季はそれぞれに三つ(上旬、中旬、下旬)に分かれ、そうすると一月は31日になります。月の満月から満月迄の満ち欠けの周期は30日足らずですが、本当は31日と知るべきです。人の生命リズムは太陽と月の運行の支配を受けています。この1日の違いは太陽と月の運行の差によります。後が先にかかると時に32日になることもあります。この辺りは微妙な問題です。女性の月経リズムは月の支配を受けております。女性特有の汚穢物を祓うには31音では声が余ります。敷島の人は皆な太陽の運行に従って31日周期の生命リズムで生きています。女性は32音の歌をもって穢(え)を祓います。お宮参りの日を男は31日目、女は32日目とするのは、この生命リズムに従っているのです。和歌は地球を取り巻く天体の回転運動に和しているのです。これが敷島の和歌の道の理なのです」。
(私論.私見) 
 ここで、暦について要点が教えられている。ハナキネ(花杵)が質問を続け、「祓いの歌は32音のはずなのに、いま31音の歌が多く詠まれるのはどうしてですか」と問う。ワカ姫は次のように述べている。「天の廻り(地球の公転周期)は365日。これが春夏秋冬の四季に分かれている。四季はそれぞれに三つ(上旬、中旬、下旬)に分かれ、そうすると一月は31日になる。月の満月から満月迄の満ち欠けの周期は30日足らずであるが本当は31日。この1日の違いは太陽と月の運行の差による。人の生命リズムは太陽と月の運行の支配を受けている。女性の月経リズムは月の支配を受けている。敷島の人は皆な太陽の運行に従って31日周期の生命リズムで生きている。女性は32音の歌をもって穢(え)を祓う。和歌は地球を取り巻く天体の回転運動に和している。これが敷島の和歌の道の理なのです」。

 【れんだいこ解説)】
 「ホツマツタヱ1、アのヒマキ(天の巻)1は「東西(きつ)の名と穂(ほ)虫去る紋」と題してホツマ伝えの巻頭に相応しい幾つもの最重要なことを伝えている。最初に、和歌姫が登場し、和歌の道は日本文化の粋とも云うべきもので、和歌姫の神によって究められたことを知らせている。次に和歌姫の生い立ちから、育てられ方、成人後の活躍の様子が記されている。この下りで、日本に於ける子育ての風習、儀式を知ることができる。日本が昔から子供を大事にしており、嬰児の頃より格別の愛情を注いでいることが分かる。次いで、和歌が、天地自然の理を踏まえた「アワの48音」からなる日本言語を自由自在に五七調で詠うものであり、歌であると同時に思想であり感情表現であり諸々の御教えになっていることを明らかにしている。ホツマ伝えは、このことを最初に説いており、この両者が究めて重要なものであることを知らせている。

 続いて、東南西北央の方位方角の由来を伝えている。次に、食と長生きの相関を伝えている。次に、方位方角の理、季節の理、央(を)の理、木の理を説いている。次に、虫祓いを伝え、和歌姫が和歌の呪術により虫を退散させた霊能力の持主であることを伝えている。和歌姫の名声が高まり、紀志伊国の天日(あひ)の前宮の玉津宮に住むようになったこと、その時、天智(アチ)彦に求愛した様子が伝えられている。恋文が廻り歌で綴られており、金サキの助けを得て返歌されたことが伝えられている。君の詔(みことのり)によりアチ彦と和歌姫が夫婦となり、新婚生活の後、仲良く国治めしたことが伝えられている。後段の和歌の道の下りによると、日本がこの時既に正確な暦を持っており、しかも太陽暦であったことが分かる。その太陽暦を芯として太陰暦を重ねていたことが分かる。最後に、花杵(はなきね、和歌姫の弟)の質問に応えて、和歌姫が和歌の極意を説明している。和歌が宇宙の法則と照応しており、この時代に既に一年を365日、一月を30日とする日本暦法が確立されていたこと、女性の月経が月の周期に順応しており、正確な暦とずれがあることを教えている。以上は、まさに縄文日本の思想の根本であり、その中心に和歌の道があったことを伝えている。これは天照大神の御代の前の話しである。驚倒すべき内容のように拝させていただく。

 2012.2.28日 れんだいこ拝





(私論.私見)