更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2).3.3日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「ホツマツタエ/ヒナ祭りと桃の花」をものしておく。

 2020.3.3日 れんだいこ拝


【ホツマツタエ/ヒナ祭りと桃の花】
 「ホツマツタエ/ヒナ祭りと桃の花」。
 男雛・女雛の実名(いみな)は?第一話 天神四代とお雛様

 この物語は、遠い昔霧のかなたのおおよそ三千年前のお話です。天照神の日嗣(ひつぎ)の皇子(みこ)オシホミミとタクハタチチ姫(伊勢外宮・豊受神の玄孫・やしゃご)の結婚の儀を間近にひかえて、宮中は支度に追われる気忙しい毎日でした。その頃、天照神はイサワノ宮(現・伊雑宮いざわのみや。三重県磯部町)に坐して、君の御心は天下あまねく照り輝き民も豊かに暮らしていました。皇子オシホミミはタカの国府(こふ、現・多賀城市)のツボワカミヤ(壷若宮)に坐して、ヒタカミノ国(日高見国、旧・陸奥)を治めていました。

 そんなある日のことです。もうすぐ君の奥方になられるタクハタチチ姫(真名スズカ姫)の兄タカギが、君に質問をしました。これは、晴れの婚礼前に緊張を少しでも和らげて一時をくつろいでお過ごしいただこうとの配慮あってのことでした。「結婚式の時、神前で新郎新婦が交す三三九度のお神酒(みき)には、一体どんな言われがあるのでしょうか」と、居並ぶ諸神の同意を得るかのようにゆっくりとお聞きになりました。これを聞いた君はにっこりと微笑まれると、臣や司を始め大勢の諸神、諸民を前にして静かに天地創造の物語から始めました。
 「それは遠い遠い昔のことです。まだこの高天原(天体)が生まれるずっと前のこと、天も地も未だ分かれていない、もちろん太陽も月も星も生まれていない前のことです。このウツホ(宇宙)の闇を支配していたのは、混沌としたアワ、ウビ(エネルギー)のようなもので、それは限りなく巡り漂って煮えたぎり、姿も形もありませんでした。それから長い時が流れて、このウツホの闇が陰(メ)と陽(ヲ)に分かれる兆しが現われ初めました。やがてその中にアメミヲヤ神(天祖神)がお生まれになり、神が最初(うい)の一息(ひといき)をウビ煮えたぎるウツホに吹き込むと、宇宙は静かにまどかに(丸く)巡り始めて、その中心に天御柱(あめのみはしら)が立ち昇り、混沌とした宇宙はやっと姿を現わし始めました。清く軽く巡れるものは陽(ヲ・男)となって、左巻に廻り天となり太陽が生まれました。重く濁れるものは、右巻に巡り陰(メ・女)となり、このクニタマ(地球)となり、後に月を生みました。

 さてこの地球に最初にお生まれになられた神のお名前を、クニトコタチと申し、花タチバナの木を植えて理想郷トコヨの国を建国しました。クニトコタチは八人の御子を産んで、その御子達を世界の八方に派遣し、それぞれの国を建てて治めさせたので、この八人をヤモヤクダリ(八面八降)の御子といいます。後にこのヤミコ(八御子)はそれぞれの国の国王の先祖となりました。この二代目の世嗣(よつぎ)の八御子を総称してクニサッチといいます。そのいわれは、クニトコタチは始め自分同様サギリ(厳選)の道を以て全世界を一人に統治させようとしましたが、各々譲り合ってお互いを立てたので、やむなくサッチ(分割)の道で国を与え治めさせました。ト・ホ・カ・ミ・エ・ヒ・タ・メの八御子の名は、各々クニサッチの神の頭文字を表わし、たとえばトのクニサッチ、ホのクニサッチ、カのクニサッチ。。。のように呼びました。このようなわけで、この国では八(ヤ)という言葉にはたいへん尊い意味があり、ヤモトカミ(八元神)とも言って、世界の大元はこの八柱により支えられています。後にこのトホカミエヒタメの八神は、各々五人ずつ子供をもうけました。

 次に、この八面(ヤモ・世界)を嗣いで治めた三代目の神の名をトヨクンヌといいます。トヨクンヌは天命を受けて、神の子孫を君、臣、民(きみ、とみ、たみ)のミクダリ(三降・三階級)に分けて各々の役割を定めて国を治めました。この神の弟君にウケモチ(保食)という神がいました。ウケモチの神は、何とか民を豊かに繁栄させたいと望んで、ある日天にましますアメミオヤ神に一心に祈ったところ、ついに御心が通じて天からヒヨウル種(太陽と月の精気を含んだ種)が落ちてきました。この種を水辺に蒔いたところ、ウル田(水田)のゾ苗(水稲・うるち)となって、八月一日(旧暦)には稲穂もあつく実って大豊作となりました。ウケモチはこの悦びを先ず兄トヨクンヌに報告して、八房(やふさ)に実った稲を献上しました。大変喜んだトヨクンヌはこの稲穂をアメミオヤ神とアメミナカヌシ神に捧げて、先ず感謝のお祭をして、各々県主(あがたぬし)に分け与えて国に籾(もみ)を持ち帰らせて、順次民に分け与えて広めたので、稔りの秋祭を皆が楽しめるようになりました。この時から民の糧も増えて暮しも豊かになり国の平和が永く続くようになりました。諸民は、ウケモチの神をイナリ神(稲荷)と称えて、後の世まで感謝の心を伝えました。これにより八月一日には親しい人を招いてご馳走をふるまい、お互いに贈り物をして楽しむ風習が始まりました。これを八朔(はっさく・八月一日)の祝といいます。

 さて話を元に戻して、トヨクンヌの神は男女合わせて百二十人もの御子に恵まれましたが、各々がお一人でお暮らしになり、男女が一緒に暮らす夫婦(めおと)の道はまだ定まっていませんでした。こんな訳で、三代目までの神様を独神(ひとりかみ)といいます。丁度、天の真榊木(まさかき)を植え継いで、五百本目になる頃のことです。四代目を嗣いだ男神の名前をウビチニと言い、この神はスビチニと言う女神と初めてご夫婦になられて最愛の妻としました。この両神(ふたかみ)の美しい物語が雛祭の由来となり、男女の結婚制度の始まりともなりました」。

 君はここまで一気にお話になると、一息つかれて、間もなく迎えるタクハタチチ姫との生活(くらし)に思いをいたし、大層和まれたご様子でした。
 「むかし昔、コシの国(越前)のヒナルノ岳(現・日野山、越前富士)の神の宮(日野神社、福井県武生市)で、木の実をお持ちになってお生まれになった男女の御子がありました。その種を庭に植えておいたところ、三年目の三月(やよい)の三日に、百(たくさん)の美しい花が咲いて初夏になると香りの良い実が百(たくさん)なりました。花も果も百(モモ)に付いたので、この花をモモの花と名付け、実をモモの果と呼び、モモの木といいました。この若い両神(ふたかみ)の名前もモモの木と実にたとえて、男神の名をモモヒナギと名付け、女神の名はモモヒナミと名付けました。因にヒナ祭のヒナの意味は一(ヒ)から七(ナ)までで、まだ人(成人、一から十、ヒからト)になる前の若者のことです。君と呼ぶのは、桃の木(キ)と実(ミ)のことで、この時から男神の名前には木(キ)、女神には実(ミ)と付けるのが習わしになりました。(例:イサナギ、イサナミ)  

 モモヒナギとモモヒナミが人(ヒト)として立派に成人されたある年の弥生三日のことでした。この時初めて御神酒(おみき)を造り両神に奉りました。このお酒を造った神はイノクチという所のスクナミ神で、庭の竹株に雀がたくさん集まって籾(もみ)を入れるのを見ているうちに、ふと閃いて、籾を醸してにごり酒を造り、桃雛木(モモヒナギ)と桃雛果(モモヒナミ)神に、竹筒に入れて献上したところ、モモヒナギの神は大層このお酒をお誉めになり、スクナミ神にササナミという神名を新たにくだされました。このササナミ神は後にササケ山に祭られて、サケの語源となりました。この両神に捧げたお酒を、桃の木(キ)と実(ミ)にちなんでお神酒(ミキ)と名付けました。

 時は春、満開の桃の花の下で盃に酒を酌み、先ず男神が女神にすすめて女神が先に、逆さに写った月影をそおっと飲み、後に男神が飲んでお二人は床に入られ交わりました。これを、トコミキ(床神酒)と言います。お二人の愛の交わりは大層熱く、室に閉じ籠ったまま三日目の朝ようやく姿を現わしました。たぎりつきせぬ情熱を冷まそうと清流で寒川(さむかわ・氷川)を浴びた時、二人の情熱は完全に燃えて昇華していきました。その折に、袖を大(ウ)そう濡らしてしまわれたのが男神、少(ス)々濡らされたのが女神。それ以来、男神の名をウビチニ(大きくちびる)、女神をスビチニ(少しちびる)と名付けました。このウビチニとスビチニ神の愛の炎は高く天に昇って、これも古い伝えにある天地創造の頃のウビが煮えたぎる様を彷彿させるものでした。  

 この様に多い(ウ)少ない(ス)を表わすウ・スのお名前の両神の美しいお姿は、男神は冠(かむり)をかぶり大袖を召し、袴をはいていました。女神は小袖に上被衣(うわかつぎ)を召して、二人立ち並ぶお姿(立ち雛)は雛形(ひながた)として、永く今日まで伝えられています。この時、両神にならって八十人の有力な神様達も皆妻を娶り、結婚式を祝うようになりました。この後、諸民も皆妻を定めて夫婦となり、この時結婚の風習が天下の法(のり)と定まりました。

 三年後の弥生の三日を記念して、ここに三三九度のしきたりがうまれました。この日の宵に花の下でお神酒を酌み交わした盃に、月が逆さに写り映えるのを楽しんで飲みほしたところから盃(さかずき・逆月)の言葉もうまれました。人々はこのサカズキを生んだ両神をヒナガ岳の神として末永く称えました」。

 君はこの後、五代、六代、七代の天神のお話に移っていきました。
 第二話 少彦名(スクナヒコナ)と雛祭り

 大国主の本当のお名前をヤシマシノミノオオナムチといいます。生まれながらにして、優しい性格の持ち主で、人々の信望も厚く、国土経営にも優れた手腕を発揮しました。雨の多い冷害の年も、台風による被害にも、日照り続きの乾ばつにも人々を飢えから守るための倉には、備蓄米が満ち満ちて国は平和を謳歌していました。そんなある日、オオナムチが農業指導のために大国の郷(さと、現・豊郷、愛知川町付近、滋賀県)を巡視していた折、湖の彼方から鏡を舳先(へさき)に付けた舟が近ずいてくるのに出合いました。オオナムチが供の者に、「あれは何者か」と、聞きますが誰も答えられませんでした。その時一人クエヒコ(大神神社、摂社クエヒコ神社、奈良県)という者が進み出て申し上げるには、「あの者は、カンミムスビ(タカミムスビ六代目、白山神社祭神)の千五百人もある御子の中でどうしようもない落ちこぼれの、教えの指をもれ落ちたスクナヒコナでございます」と、答えました。これを聞いたオオナムチは思うところあって、スクナヒコナを丁重に迎えると手厚く恵んで、供に力を合わせて一緒に諸国を巡り国民の糧となる水田開発に努め、養蚕や裁ち縫いの技術を女性達に教え広めて国土経営に尽くしました。又、病める者のためには薬草を栽培して、時には人間にとどまらず鳥や獣の病気も治して愛情を注ぎました。ある時は、稲子(いなご)の大量発生の報を聞くとどんな遠方へも一緒に馬で駆けつけて、オシ草(玄人)と言う薬草で虫祓いをして民の糧を守りました。この様に、一見順風満帆の二人の国造りにも、満れば欠けるのたとえがあるように、暗い人生を暗示するかのような、むら雲がおおい始めるのを誰が知りえたでしょうか。

 。。出雲の国譲り。。ついに、オオナムチは、いわれなく諸悪の根源として宮中から攻撃され、国を追われて最北の地、津軽に追放されてしまいました。

 この事件があってからのスクナヒコナは一人オオナムチと離れて、アワ国(現・滋賀県)に伝わるカダの楽器を一心に習得すると、あまりにも献身的に、あまりにも国に思いを託した自分の生き方をすべて捨て去り、心の苦しみを背負ったまま諸国流浪の行脚に身をやつしました。津々浦々を巡り歩いてカダ楽器で弾き語る物語は、いつも決まって人の心が美しく優しく輝いていた天神四代のヒナ祭りの物語でした。人々が忘れ去っていたヒナ祭りの物語を全国に教え広めて、やがて年老いるとついに和歌の国のカダの浦に一人至り、ウビチニ・スビチニの微笑む雛の国へと神上がりました。

 今日でも人々は、あまりにも一途で、あまりにも壊れやすかったスクナヒコナの人柄を知ってか知らでか、アワシマ神(注・アワの国に出現した神)としてご当地の淡島神社(別名 加太神社、和歌山市)にお祭りしています。毎年弥生の三日になると、全国各地から持ち寄った雛人形を社前に奉納し、雛流しの神事を盛大に祝ってスクナヒコナを偲んでいます。
 第三話 結婚三日目朝の祝い歌

 これはヒコホホデミとトヨタマ姫の鹿児島宮(現・鹿児島神宮祭神カモハデズミ)で結婚式後の三日目朝のお話しです。

 トヨタマ姫の兄トヨズミヒコ(弟タケズミヒコは下鴨神社祭神、京都)は、今回新たに定まった六人の局(つぼね)達に、各々桃の花をあしらった揃の玉笠をかぶらせ、皆の手には木の玉椀(たままりも)に水を張って持たせると、いよいよ結婚三日目の朝、新婚ホヤホヤの二人が部屋から出てくるのを待ちました。やっと手を取り合って先に現われたヒコホホデミに、六人の局達は一斉に水を降り注いで声をそろえて歌いはやしました。
モモヒナギ  交合(まじばい)後の  三日の日の
川水浴びて  ウビチニの  上(神)から下(シモ・民)へ
花婿(はなむこ)に水  まいらせう  まいらせう
 この時、九州の三十二県の県主達(あがたぬし)も諸民と一緒になって声を揃えて、この祝い歌を唱いはやして、ついには万歳万歳(よろとし、よろとし)の喜びの声が輪となって国中に広がってゆきました。終り

 出典 ホツマツタエ(国立公文書館蔵) 秀真(ほつま)政傳紀(和仁估安聰訳述)
     訳/高畠精二

 1013.1.11日、「ホツマツタエのおもしろ記事(4)ひなまつり」。
 ホツマは伝える。初めに地球へ降誕した神はミナカヌシ (天御中主神) であった。ミナカヌシは地球に万子を生み、「ト・ホ・カ・ミ・ヱ・ヒ・タ・メ」の八御子を世嗣として、地上の八方に下らせて治めさせる。その次に「キ・ツ・ヲ・サ・ネ」「ア・ミ・ヤ・シ・ナ・ウ」の、ウマシアシガヒヒコヂ神 (可美葦牙彦舅神) の十一神が世を治める。それを八方のクニサツチ (国狭槌尊) が継ぎ、さらにその御子のトヨクンヌ (豊斟渟神) が世の治めを引き継いだ。彼らは肉体をもった人間として地球に生まれているのだが、現在の人間とは大きく異なっている。まず彼らは男女の区別がなく陽陰両性をを併せ持った人間だった。だから子供を生むといっても男女の結合による生殖ではなく、いわば単性生殖だったのである。また彼らは数百万年の寿命をもっていた。(寿命は時代が下るにつれて短縮していったが。)ミナカヌシからトヨクンヌまでを総称してクニトコタチ (国常立尊) と呼ぶ。また彼らの時代をトコヨ (常世) といい、ミナカヌシ降誕以来3,000万年におよんだ。ここで大きな変化が訪れる。トヨクンヌの世嗣となったウヒヂニ (泥土煮尊) は、陽陰両性ではなく男性として生まれてきたのである。ウヒヂニは、越前国の日野山の山頂の宮に木の実をもって生まれてきた。同じ頃、スヒヂニ (沙土煮尊) は女性として生まれてきていた。

 (注:ウヒヂニ・スヒヂニは、どちらもトヨクンヌの御子だと推測されるが、ホツマツタエには明記はされていない。兄妹だったと考えるべきだろうか。)

 ウヒヂニが生まれ持って来た木の実を、宮の庭に植えると三年後の三月三日に、花と実が百々 (たくさんの意) 成ったので、その木を「モモ (百々・桃)」と名付け、ウヒヂニ・スヒヂニの幼名をそれぞれ「モモヒナキ」「モモヒナミ」とした。「モモ (百々)」は「豊富」の意に加えて「三・三」の意味もある。「ヒナ (雛)」は「未熟」「青春」の意。「キ (木)」と「ミ (実)」は、それぞれ「陽・男」と「陰・女」を意味する。

 琵琶湖の南岸地域を治めるスクナミ (少名御神) という守が、初めて酒をつくる。モモヒナキとモモヒナミが成人した後の三月三日、これを御酒 (ミキ) として献上する。二人は、宮の庭に植えた桃の花の下で、その酒を酌み交わす。器に注いだ酒に逆さの月が映り、優雅な雰囲気を醸し出す。まずモモヒナミが飲み、気分が高揚する。次にモモヒナキが飲む。(三三九度) そして夢心地の二人はついに結ばれるのであった。身も心も燃え上がった二人は翌朝、その熱さを川の水で冷ます。そこでモモヒナキは衣の袖を大きく水に浸して濡らす。モモヒナミは袖を小さく濡らす。これにより二人はそれぞれ、ウヒヂニ (大浸濡) とスヒヂニ (小浸濡) に名を改めたのである。この時の二人の装束が雛人形のモデルとなっている。男は、冠と大袖と袴。 女は、小袖と上被衣 (うわかづき)。君 (キミ) というのは天皇を指す言葉だが、これの源はモモヒナキとモモヒナミの夫婦である。男女一対で君 (キミ) なのである。また天皇のことをウズ (珍) とも表するが、これもやはりウヒヂニとスヒヂニが本源なのである。この一対のキミに倣い、諸臣も諸民も結婚するようになった。

 世の人に男女が生じたこと、また男女が和合して子を生むということを、人間は当前のことと思っている。雛祭とは、男女が和合でき、しかもそれが繁栄をもたらすいう喜びを、改めて思い起こし、尊ぶ祭なのである。

 ずっと時代は下って、雛祭の精神が世から失われつつあった頃、オオナムチと別れたスクナヒコナ (少彦名命) は諸国を巡り、カダカキの演奏に合わせて、美しい雛祭の由来を語り広めた。最後は加太の浦に至り、そこで世を去る (淡島願人・淡島殿)。スクナヒコナと雛祭の関係は、和歌山市の加太淡島神社 (カダアワシマジンジャ) に垣間見ることができる。雛祭にまつわる「桃」「御酒」「三三九度」「雛人形」などが、現在もまったく失われずに残っているというのは、ある意味驚異的だと思う。ウヒヂニ・スヒヂニの時代というのは太古と言える時代であり、2000年や3000年前というレベルでは無いからである。これはスクナヒコナの功績だろうか。

 参考サイト:http://gejirin.com/hotuma02.html
 天神4代のおふたりは、ヒナルノ岳(現在比定地のひとつ:福井県越前市萱谷町の日野山)の麓にある神宮(日野神社)の庭に二人で木の実を植へ、芽生えて三年後に花を咲かせ夏に実をつけた。たくさんの実がなったので百(もも)の木と名付けられた。桃の節句の由来で御座います。 赤坂研究会代表の今村聡夫は、相模一宮寒川神社のご祭神をウヒチニ・スヒチニの夫婦大神であらうと詳細な論考をあげてをられます。 十数基の神輿が集結し、浜降りの神事をおこなう寒川神社の浜降り祭りは、海の日に開催、今年もまもなくで御座います。
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