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ある生命科学者の指摘。人間といえどもDNA(デオキシリボ核酸)機械と考えることに基本的に問題は無い。例えば、受精によって誕生した受精卵が、どのように発生していくか、そのアミノ酸合成からたんぱく質合成、そして組織、器官への発展まで、厳密な因果的関係に拠らない場面は全く無いと言いきれる。その意味で、受精卵は、その後の発生と発展の厳密なプログラムを宿している存在である。人間一人一人をかけがえの無い存在として捉えるのであれば、受精卵こそ、そのかけがえの無い「個」の出発点でなくてなんであろう。
この考え方は、現代科学、特に生命科学が立ち向かっている新しい境地を明示しているように思われる。
この観点に、村上氏は次のように持論を添える。そのかけがえのない個の出発点である受精卵の生成のメカニズムにおいて、卵の方は、あまり選択の余地なく決まっているとしても、どの精子が辿りついて、着床するのか、それはまさしく偶然としかいえないのではなかろうか。
何億という精子の中に畳み込まれたDNAの塩基配列は、それぞれが微妙に異なっている。それは卵の場合も同様である。人間のゲノムには30億対程度の塩基が並んでいると言われている。それを全部読み取ろうというのがヒト・ゲノム読解計画で、ほぼ解読されつつある。その結果、わかってきた事は、個人の遺伝的特性とじ結びつくDNA連鎖の差異の中で、特に一つの塩基対だけが違っているために差異が生じている場合を「一塩基多型」と云う。「スニップス」(Single Nucleotide Polymorphisms)の訳であるが、30億の中でただ一つの塩基対が、遺伝的な特性を生み出すことがあるという訳である。
受精に与る卵と精子の塩基配列の組み合わせの全てを計算するにはどんな高性能コンピューターをもってしても不可能だと言われている。それほど膨大な数の組み合わせの中の、二つとないただ一つが、受精と言う偶然によって実現する。こうして受精卵のかけがえの無さは、人間学的な考慮以前に、生命科学からも保証されつつある。生命科学は、取替えの効かない(かけがえのない)個に光を当て始めた。現代科学の最前線は、生命体の、あるいは人間の根本的な生存の拠り所である個に焦点を合わせつつある。人生哲学で云われてきた「かけがえの無い自分」という概念が、科学の中で意味を裏付けられつつある。
(2001.9.11毎日新聞村上陽一郎「新世紀の思考」、「融解する人間」意訳、国際基督教大学・科学史、科学哲学)
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