在任中の流れ3、1974年の動き

 更新日/2017.3.6日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「在任中の流れ3、1974年の動き」を確認する。


(1974年の動き) 【「74年当時」】

 1.2―7日、大平外相が訪中し、5日に日中貿易協定を調印した。大平外相は、毛沢東、周恩来首相らとと会談し、日中航空協定交渉を積極的に進めた。


 1.3日、キッシンジャー国務長官が、「自国の都合だけを考える日本の試みは、産油国の価格釣り上げと消費国の原油獲得競争を煽るだけ」と批判。


【東南アジア歴訪】

 1.7日、田中首相が、フィリピン、タイ、シンガポール、マレーシア、インドネシアの東南アジア5カ国歴訪に出発(外遊交渉5、ASEAN歴訪)。

 1.8日、フィリピンのマルコス大統領と会談。マラカニアン宮殿で、マルコス大統領主催晩餐会で、最高の栄誉とされるラジャ・シカツナ勲章を授与される。

 1.9日、タイの首都バンコクで、学生の代表からタイの稲穂の贈り物を受けた。日本商品がタイの総輸入の半分近くを占め、対日赤字が毎年2億ドル(約580億円)にものぼる日本の対タイ経済政策に対する反発で、「経済侵略反対」、「タナカ、カエレ」と叫ぶ学生らの激しい反日デモに迎えられた。約5000人のデモ隊が首相一行の宿舎前に押しかけ、田中の似顔絵や日本車の模型を次々に焼いた。田中首相は、学生代表と対話する等異例の対応に臨んだが事態は収拾されなかった。タイ国王のラマ9世(プミポン大王)が乗り出し、「あなたたちの使っているマイクも日本製だ。皆が持ちつ持たれつだ」と戒め、デモが鎮静化した。

 1.10日、タイのサンヤ首相と会談。

 1.11日、シンガポールのリー・クァン・ユー首相と会談。

 1.14日、マレーシアのクアラルンプールでラザク首相と会談。

 1.15日、インドネシアのジャカルタでスハルト大統領と会談。1万人のデモ隊が暴動化し、日本大使館の国旗が引きずり降ろされ、日本車など200台以上が焼かれる騒ぎとなる。

(私論.私見)

 田中首相一行は、タイの首都バンコクとインドネシアの首都ジャカルタで激しい反日運動のデモに巻き込まれた。この背後に国際金融資本帝国主義のヤラセがあったとも伝えられている。これについては今後検証して行きたい。これを思えば、日本の左派運動も然りで、「国際金融資本帝国主義のヤラセの操作」をも勘繰らねばならない。ロッキード事件の喧騒の裏に、この種のものがあったとみてとることができるのではなかろうか。

 2010.11.11日 れんだいこ拝

 1.9日、大都市での洗剤不足騒ぎが再燃。


 1.11日、ニクソン大統領提唱の石油消費国会議に参加を決定。


 1.11日、田中政権が、自民党に対し、日台航空路線に関し、6項目からなる「外務・運輸両省案」を示した。これは日台路線をあくまで民間のローカル線と位置づけようとするものであった。その為、政府出資の半官半民企業である日本航空を外す一方で、「中華航空(台湾)」という呼称を用い、青天白日旗は単なるマークに過ぎないという日本政府の見解を発表した。「中華航空」の業務を民間代理店に委託することによって中国側の感情を和らげようとしていた。これに対して台湾は、①日台空路を民間で維持することには同意する、②「中華航空(台湾)」と呼ぶことには断固反対し、国旗(青天白日旗)も継続して使用する、③「中華航空」の羽田における営業所等を別の団体に委託することに断固反対するとの見解を明らかにした。


 1.12日、福田蔵相が、大阪で「物価は狂乱状態だ」と語る。1月の卸売物価が前年同月比で30%を越える上昇。


 1.16日、石油二次規制スタート。


 1.17日、青嵐会が、翌18日には日華懇がそれぞれ総会を開き、日本政府が党内コンセンサスを得ないまま“見切り発車”することを強く警戒し、最悪の場合は大平外相不信任案提出、国会採決での反対投票も辞さぬという方針を固めた。


 1.19日、親台湾派と青嵐会は、大平外相による中国との民間航空協定締結後における日台間における航空計画について反対を表明した。玉置和郎は、「もし政府が親台湾派議員の反対を無視した場合、外相不信任を表明するだろう」と語った。自民党内では大平外相が訪中して日中航空協定交渉に関する協議を行ったことに対し、自民党の親台湾派グループの一つである青嵐会は、「日台路線の現状に大幅な変更を加える協定を認められないとの従来の立場から党内で積極的に動いていく」と表明し、青嵐会代表世話人・藤尾正行が、大平外相と会談し、この問題について見解を聞き、結果を自民党・総会に報告した。


 1.21日、通常国会再開。


 1.23日、自民党内の会議において、藤尾正行は「日台路線に対する政府の方針は、現に中国の支配権が及んでいない台湾を事実上、中国の一省として認めるものであり、明らかに一昨年の日中共同声明を逸脱している」と政府方針に反論した。


 1.29日、坊秀男は、自民党・総務会において、現在の日台航空路をどのように処理するのか討論し、日本と台湾との間における航空サービスの現状維持を強調した。同日、自民党の外交部会と交通部会において、藤尾正行は「もし、日本政府が現行の航空協定を破壊すれば、重大な結果を招く」と語り、日台路線の堅持を主張した。


 1.30日、日韓大陸棚協定調印。


 2.1日、浜田幸一を始めとする親台湾派は、親中派の議員たちと激論を交わし、日台航空路の現状維持を呼びかけた。


 2.5日、公取委が、石油連盟と元売り12社に対し、前年10、11月の値上げ協定と生産制限が独禁法違反として破棄勧告。2.19日、最高検に告発。


 2.6日、衆院予算委で、ゼネラル石油が前年暮れの石油危機を「千載一遇のチャンス」と呼び、便乗値上げを奨励する文書を各支店に配布していた事実が暴露された。


 2.7日、自民党・総務会において、日台航空問題について7 時間以上討論するも、結論は出なかった。自民党副総裁・椎名悦三郎は大平外相の主張に対し反対を表明した。また青嵐会議員も大平案に反対し、「日本は全力で現行の航空路線を維持すべきである」と訴えた。


 2.13日、訪米中の大平外相がキッシンジャー国務長官と会談。会談後、安川大使が、「48.8月の日米共同声明に天皇の49年中に訪米が明記されており、会談でも確認された」と発言し、直ぐに取り消す。安川発言は大平外相の責任追及へと広がる。2.19日、法眼外務事務次官を更迭、東郷文彦に交代。


【人材確保法成立】
 2.22日、教員人材確保法が成立した。角栄は、教育問題とりわけ公教育の重要性を認識しており、教員の地位や質の向上を目指すとして公立学校の教員給与を引き上げた。これを「人材確保法案」と云う。日教組側は、1・給与は労使交渉で決めるべきで上から一方的に決めるのはおかしい、2・3段階の給与を5段階に細分化するのは教職員の分裂を企図するもの等々という理由で反発したが、待遇改善の魅力は大きく最終的に妥協した。

 2.25日、衆院予算委で物価問題集中審議。企業・業界代表23名を参考人に呼ぶ。


 2.26日、田中首相と福田蔵相が会談。総需要抑制のため、49年度予算の上半期の公共事業繰り延べなどで一致する。


 2.28日、48年度の国民総生産が名目で112兆8700億円と初の百兆円台に。


 3.13日、参議員予算委員会で、教育の現状はノーマルでないと強い不満の意を表明するとともに、特に教職員の政治活動規制の必要性を強調し、「最初に刑事罰を盛り込んでいた教育公務員特例法が、修正で行政罰にされたことにより、憂慮された事態が随所に起っている」と、教師の政治活動に対して同法改正による刑事罰適用の考えを示唆した。この時奥野文相は、日教組を「運動方針、スケジュール闘争などから見て、階級的革命組織と受け取らざるを得ない」と決め付け、日教組を激しく攻撃した。


 3.14日、田中首相が、参議員予算委員会で、「日の丸、君が代を国旗、国歌に法制化する時機に来ている」と発言。文相も学習指導要領で義務づける方向を示唆した。


 3.18日、石油製品値上げ。


 3月中旬以降、日中航空協定の締結交渉が北京で再開された。日本政府首脳部は一方的に今回の日中交渉に臨んで早期締結への意向を示した。田中首相は、国会で同協定の批准の承認を求めるという強い決意を表明するとともに、「中国との協定を急ぐよう」改めて指示した。また、外務省筋も、一気に中国との交渉を進める考えを示した。これに対し、日華懇は党本部で総会を開き、「台湾の動向に対する外務当局の情報収集は不十分であり、慎重な措置をとらない場合は重大な事態を招く」などの不満を続出させた。


 3.30日、企業の儲けすぎを吸収する会社臨時特別税法が成立。


 4.3日、自民党福田派(八日会)の定例朝食会の後、福田赳夫は、日中航空協定問題にふれ「同協定は国交が正常化した以上、締結せざるをえないが、副作用として日台間に支障をきたすことになれば政治上の不手際になる。日台路線が途絶えれば国民の反発が出よう」と語り、日台路線擁護の姿勢を表明した。5 日にも、福田は閣僚後の記者会見で日台航空路問題について、「私が日台路線の維持をすべきだとするのは、いわば、正論であり、忠告といったものだ。日台間の空路が途絶するのは好ましくなく正しい行き方ではない」と述べ日中航空協定締結後も日台路線を維持すべきだとの考え方を重ねて明らかにした。


 4.5日、ポンピドー仏大統領の葬儀出席のため渡仏。


 4.7日、パリの米大使館邸で、田中.ニクソン会談。英・仏・西独首脳とも会談。帰路モスクワでコスイギン首相と会談。


 4.8日、京都府知事選挙で社共推薦の蜷川虎三知事が7選で当選。但し、対抗馬の自民・民社・社会党府本部右派推薦の大橋和孝に4千5百票差まで追い詰められる。京都の社会党は以降、壊滅状態に陥る。


 この日、新潟県知事選で自民党候補が勝利したほか、全国で行われた22の市長選挙戦で、大坂の河内長野市を除く21市で自民党が勝利した。


 4.10日、49年度予算、参院本会議で可決、成立。


 4.10日、藤尾正行は、自民党・総務会において、調印時の外相発表文や外務省が北京駐在の小川大使に打電した公電などを引用、この文案は台湾が心配している政治問題に触れていると述べ、「日台関係が悪化したとき外相は責任を取るか」と迫った。


 4.11日、日教組が結成以来初めての全日ストを打つ。文部大臣奥野誠亮。春闘決戦ゼネスト(4.13日まで)。


 4.11日、公共事業契約率を36%に抑制することを決定。


 4.12日、衆院内閣委で、自民が「靖国神社法案」を強行採決。


 4.13日、中航空協定案を閣議で正式決定。5.15日承認。5.20日北京で調印。


 4.16日、赤旗に、「教師は労働者であるが、教育の専門家として『聖職性』の側面を持つ」との主張を掲載。教師聖職論争展開される。


 4.16日、椎名悦三郎が、首相官邸に田中首相を訪ね、日台路線維持への配慮を要請した。


 4.18日、日華議員懇談会は、臨時総会において、北京交渉で事実上妥結した日中航空協定について協議した。この結果、「日中、日台両協定の同時達成という党議決定に反することは許されないし、このような交渉の進め方には断固反対する」との態度を決めた。


 4.19日、総務会において、藤尾正行、玉置和郎は台湾側が日台路線を廃棄した場合の党執行部の党議違反に対する責任問題などを鋭く追及した45。総務会終了後、党4 役、大平外相、灘尾弘吉の協議において、灘尾は「日中航空協定調印に際しては、台湾の沈昌煥外相が表明した意向を確認してから、慎重にやってほしい」、「現段階での調印には反対だ」と党4 役、外相に申し入れた。


 4.20日、日中航空協定が調印されると同時に、台湾政府から日台航空路線停止の声明が発表された。同日、中川一郎大蔵、渡辺美智雄農林、森下元晴通産の3 政務次官は、辞表を福田蔵相や中曽根康弘に預けて抗議した。


 4.21日、新潟知事選で君健男参院議員が初当選。


 4.21日、過去15 年間にわたり日台双方の航空企業により運行されてきた日台航空路線は、完全に断絶された。このため、中華航空は台北―東京・大阪の飛行(週21 便)を停止し、東京経由台北―ソウル間の飛行も中止した。同時に、東京経由の台湾―アメリカ空路を運行している中華航空機はグアム・ホノルル経由に変更せざるを得なかった。一方、日本航空は台北の運航(週17 便)を停止したほか、台北経由香港、マニラ線(週20 便)の台北寄航も中止した。従来、台北航空情報区(FIR)を通過して東南アジア各地点への運航を行っていた日本航空機は、台湾を大きく、南に迂回し、距離で約540 キロ、時間にして40 分の回り道運航を強いられた。日台双方にとって航空路線断絶によって生じた損失は大きかった。


 4.22日、日華懇は、日台航空路線断絶を招いたことは、党議違反で国益に反すると、大平外相と党4 役の責任追及を決定した。


 4.23日、政調審議会、外交調査会などの合同会議で、中川一郎、中尾栄一、浜田幸一らと、福田派の坊秀男らが一斉に大平外相を攻撃した。灘尾弘吉、船田中ら日華懇の長老たちは、協定の批准を延ばせと要求した。


 4.26日、政府、自民党執行部が協定を国会に提出した。


 5.1日、48年の長者番付で、上位100名のうち97名が土地成り金。


 5.7日、衆議院本会議通過の際には、岸信介、灘尾弘吉、船田中ら親台湾派80 名が欠席した。以上のように、日台航空路線問題をめぐり、親台湾派は、最後まで政府・自民党に、中共の要求を入れて、同路線を断絶する危機を防止するよう忠告、勧告を繰り返したのであった。彼らは、日本政府の対中友好姿勢に対して激しく非難し、日台関係のバランスを保つよう、政府に慎重な対中姿勢を要求した。一方では、台湾への同情と支持の立場に立ち、さらに実際に国会議員訪台団を組み、台湾を訪問した。ゆえに、日本外務省は親台湾派の役割を重視せねばならず、日台航空路線の問題は、政府の重要な課題となった。


 5.8日、共産党中総で、市民道徳の必要性が強調される。


 5.11日、全国遊説始める(7.6日まで)。田中首相は、遊説第一声に徳島に乗り込んだ。「田中の押す後藤田」対「みきの押す九次米」戦争が始まっていた。


【「5つの大切、10の反省」を提唱】

 5.13日、日本武道館で「田中総理を励ます新潟県人の集い」が開かれた。その場で、徳育のための「5つの大切、10の反省」を提唱した。

 「5つの大切」

 人間を大切にしよう。
 自然を大切にしよう。
 時間を大切にしよう。
 モノを大切にしよう。
 国、社会を大切にしよう。

 「十の反省」

 友達と仲良くしただろうか。
 お年寄りに親切にしただろうか。
 弱い者いじめをしなかっただろうか。
 生き物や草花を大事にしただろうか。
 約束は守っただろうか。
 交通ルールを守っただろうか。
 親や先生など、人の意見をよく聞いただろうか。
 食べ物に好き嫌いを言わなかっただろうか。
 人に迷惑をかけなかっただろうか。
10  正しいことに勇気を持って行動しただろうか。

 「周年行事関係資料2」は、田中首相の教育政策について次のように評している。
 「田中首相が、現代教育は『知恵太り、徳やせ』と批判、道徳教育強化のため、義務教育段階での『5つの大切』、『10の反省』の徳目を提唱する。義務教育諸学校の教職員人材確保に関する特別措置法を公布。教頭職の法制化。都教委が小中学校段階に就学希望の心身障害児全員の入学を決定(全国初)。高校への進学率が90%を超える」。
(私論.私見) 「5つの大切、10の反省」考
Re:Re3:れんだいこのカンテラ時評213 れんだいこ 2006/09/13
 【「5つの大切、10の反省」考】

 久しぶりに角栄物に関心を移した。こたびは、1974.5.13日、田中首相が、「田中総理を励ます新潟県人の集い」で、徳育のための「5つの大切、10の反省」を提唱したことに関して思案してみた。れんだいこの学生時代のことであり、うっすらと記憶がある。当時のれんだいこは、宮顕系執行部の日共理論に毒されていたので、政府自民党権力の戯言と聞き流してしまった。

 この感覚は今でも為されているようで、ネット検索で調べると、同様見解が発見できる。例えば、「反省から飛翔へ」は、次のように評している。
 「5つの大切、10の反省」というのが田中内閣のときだされて、失笑をかっていたのを思い出すが云々」。
 「あんたに言われる筋合いがないという意見になりますね」。

 「教育改革に関する私見」は、次のように評している。
 「池田・佐藤内閣当時の『期待される人間像』、田中内閣の『5つの大切、10の反省』もお題目としては結構だが、そこに政治の影や国家要請が見え過ぎると、国民の側はかえってしらけてしまう」。

 「日教組『教育基本法』メールマガジン No,5  2003.5.22」は、、次のように評している。
 「『教育基本法は25年前思い切って全面改正しておけばよかった』と発言した田中角栄首相は、1974年『5つの大切、10の反省』を提唱しました」。
 「これは、高度成長で経済大国になった日本人の、国民としての自覚を促そうとしたもののようです。この提唱も田中首相本人の金脈問題やロッキード事件で、やがて忘れ去られてしまいました」。

 今、れんだいこは、違う受け取りをしている。どこに間違いがあったのかに気づいている。それは、政府自民党与党権力を非弁証法的に「権力=悪」と規定して、批判一辺倒運動に堕してきたことに原因が有るのではないかと思っている。

 そういう安逸批判している社共運動は、「口先批判、裏通じ」の万年野党運動でしかなく、それこそ気楽な稼業に過ぎず、最も恥ずべき運動ではなかろうか。戦後政治闘争の最大最深のものは実は、政府自民党与党権力内に於けるハト派とタカ派の抗争であった。この熾烈さに比べれば、社会党、共産党、新左翼諸党派のそれは懐柔され過ぎており、せいぜいコップの中の児童芝居劇に過ぎない。一応党派間抗争は除外しておくけども。

 仮にそういう風に見たてるとする。今れんだいこは、ハト派政治を、特に「角栄ー大平同盟」の政治を、在地型社会主義運動の可能性を秘めた世にも稀な善政であったと判じている。それ故に、現代世界を牛耳る国際金融資本ネオ・シオニズム奥の院の鉄の号令一下で処断されたと思っている。キッシンジャーがこの役割を担い、三木と中曽根が呼応した。

 これを裏から促進したのが、特に宮顕ー不破ラインが牛耳る日共であった。宮顕ー不破ラインの日共は、ハト派には容赦ない批判を浴びせ、タカ派とは手加減批判ないしは是々非々運動を展開してきた。そういう史実ばかりを見せている。日共がましな左派政党であるなら奇妙なことであろう。エセ左派サヨが牛耳るとこういう変態運動が罷り通る。ここに日本左派運動の悲劇と貧困の根源がある。れんだいこは、そう見立てている。

 それはともかく、この時角栄が掲げた「5つの大切、10の反省」の各徳目は、今こそ瑞々しい。れんだいこが判ずるのに、在地型社会主義の有能士育成の要件を記している感さえある。「5つの大切」の「人間、自然、時間、モノ、国、社会を大切にしよう」を思案するのに、もっともなことではないか。

 「十の反省」の「友達と仲良くしただろうか」、「お年寄りに親切にしただろうか」、「弱い者いじめをしなかっただろうか」、「生き物や草花を大事にしただろうか」、「食べ物に好き嫌いを言わなかっただろうか」は、現在の荒れる学校、社会、無気力児童等々を考えると、まことに適切な教育徳目ではなかろうか。これを実践していれば、今流行の犯罪は大きく減ずるだろう。

 「約束は守っただろうか」、「交通ルールを守っただろうか」、「親や先生など、人の意見をよく聞いただろうか」、「人に迷惑をかけなかっただろうか」は、社会性能力の欠如が甚だしい今日を考えると、まことに適切な教育徳目ではなかろうか。「正しいことに勇気を持って行動しただろうか」となると、まことにその通りではなかろうか。今この精神が細りに細っており、時流才覚のみ磨けとばかりの風潮が横行している。誘導されている。

 れんだいこは、現下のシオニスタン政治家による、よりシオニスタン化の為の教育「改革」を厭い抵抗する。彼らが今後何を云うのかを、角栄が指針させた「5つの大切、10の反省」に照らして判断しようと思っている。恐らく、愛国心だの国防心だの唯々諾々精神だの、強い者に巻かれろ等々を涵養せんとするだろう。その時、田中政権が指針させた教育徳目との違いを際立たせ、批判しようと思う。

 愛国心を云うのなら愛国できるような国づくりをせねばならない。そうすれば自ずと愛国心が育つであろう。愛国心というのは民間的自生的に育てるのが望ましいのではなかろうか。国防心を云うのなら国際協調、国際反戦平和に精出す過程で云わねばならない。わざわざ緊迫政争化するように仕向けて国防心を煽るのは卑怯邪道だろう。現に憲法前文が良いこと云っているではないか。軍事利権屋が悦ぶだけではないか。

 唯々諾々精神や強い者には巻かれろを云うのなら、よりましな世の中を創るための権力の暴走を止める抵抗精神の必要をも言い返したい。内部告発の勇気を尊重したい。オンブズマンの役割も高めたい。政治意識の涵養の重要さを指摘したい。無知なままの唯々諾々は大いに危険であることを指摘したい。

 その点で、「5つの大切、10の反省」は誰が作ったのか、わめかず、しっとりと必要事を示唆している。ご時世柄今こそ必要と思う。この教育は、シオニスタン政治家、教育家ではやれない。己自身恥ずるところが多すぎるから。

 そういう、「5つの大切、10の反省」を、れんだいこがかの時聞き流したのは、れんだいこの方がおぼこかったからで、聞き分けの知恵がなさ過ぎたからである。今なら、それは良い提案をしなさる、ぜひやってくれと御意するであろう。

 道に迷えば、角栄に帰れ。政治は特にそうだ、角栄に学べば教えられる。反すれば要諦を失う。角栄ならどうするだろうと考えたほうが、よほど為になる。偉大な者は死してなお生きている。歴史を学ぶとはそういうことでもあると思っている。

 2006.9.13日 れんだいこ拝
 2013(平成25)年夏、中日新聞相談役の宇治敏彦氏が自著「実写1955年体制」(第一法規)を刊行し、「田中角栄首相の政策づくりやゴーストライターを務めた時期があった」と証言している。「5つの大切、10の反省」もそうだと証言している。

 5.13日、経団連会長に土光敏夫が就任。


 5.15日、田中首相が、参院決算委で、「5つの大切、10の反省」批判に対し、「子供達に具体的に分かり易く教えることは必要だ。教育勅語には人倫の大本を示した部分があり、お互いもう一度考える必要がある」と答弁した。


 5.15日、承認された。


 5.26日、田中首相が、遊説先の札幌で、再び小選挙区制に意欲発言。


 5.27日、国土利用計画法、参院本会議で共産党を除く賛成多数で可決、成立。


 6.3日、第72通常国会閉幕。


 6.6日、発電用施設周辺地域整備法、電源開発促進税法公布。角栄が立案に参画。


 6.11日、槙枝元文・日教組委員長が、4.11統一ストで地方公務員法違反容疑で逮捕される。


【第10回参院選公示】

 6.14日、第10回参院選公示。角栄は人気挽回と長期政権の体制固めに賭けた。この選挙で角栄は、ヘリコプターで全国200箇所を飛びまわりフル回転する。この時の選挙で、三木のお膝元の選挙区の徳島で、「九次目健太郎対後藤田正晴」戦争。三木派の現職議員九次米健太郎が公認に漏れ、田中の息のかかった後藤田正晴が公認された。中央政界での田中と三木の代理戦争となり、「三角代理戦争」といわれた。空前の金権選挙が展開され、「五当三落」(選挙資金が5億円なら当選するが、3億円なら落選)という言葉が生まれた。


 6.18日、鋼材値上げ。新日鉄など高炉6社がやや愚痴需要向け7品種を平均16.9%(トン当たり7900円)値上げ。


 6.25日、国土利用計画法公布。角栄が立案に参画。生産者米価28.1%上げ。


【国土庁発足】
 6.26日、国土庁発足(初代長官・西村英一)。角栄が立案に参画。ブレーンは下河辺淳。

 6.28日、国税庁が会社臨時特別税の適用状況発表。3月期決算の1200余社の超過利得は612億円。


【中央選管委員長が「企業ぐるみ選挙」告発】
 この時「企業ぐるみ選挙」が問題とされた。7.2日、中央選挙管理会委員長の掘米正道(社会党書記、党政策審議会事務局次長)が記者会見を開き、異例の委員長見解を発表した。「企業ぐるみ選挙が、雇用や取引関係を通じて、何らかの強制を伴えば、思想・信条の自由、投票の自由の原則が阻害される恐れがある。この際、関係者は良識ある行動を取られるように要請する」。これが流れを変えた。7.4日、橋本自民党幹事長が、堀米中央選管委員長発言を東京地検に告発。

 7.4日、田中首相が、「区教育正常化のため教師の宣誓を参院選後に検討」と発言。


【第10回参院選】

 7.7日、第10回参院通常選挙(「七夕選挙」)。投票時間を1時間延長、投票率73.23%で史上最高。開票結果は自民党惨敗。公認当選者62名(全国区19、地方区43)となり、改選前より8議席減らし、改選議席の過半数を割り、与野党議席差7で保革伯仲時代に入る(自民62、社会28、公明14、共産13、民社5、諸派1、無所属7)。この時、鳩山威一郎・山東昭子(32歳)が初当選している。注目の徳島阿波戦争は、田中派の後藤田正晴が三木派の久次米健太郎に敗れた。19万6210票対15万3388票。これが後々のしこりとなる。自民党は、補欠当選2名と無所属当選1名を加えて、辛うじて過半数126を維持した。社会党は3、公明党は1議席増・民社党は1議席減。共産党は全国区8名、地方区5名当選。先の衆院選に続いて大躍進し9議席伸ばした。

 7.8日、自民党の橋本幹事長が敗北宣言。

 7.9日、田中首相は、記者会見で、金権、企業ぐるみ選挙への批判について次のように述べる。

 「政治に金がかかりすぎるのは問題で、この選挙を契機に政党中心の選挙に改める方向で内外の考え方をまとめる努力をすべきだ」。

 7.12日、選挙後、三木副総理が田中首相を批判して辞任。「問題の根本は、政策以前の政治道義、政治姿勢につながる党の近代化問題である。---政治資金の集め方、使い方も改革しなければならない」。


 7.13-16日、保利行管長官が連日連夜、福田蔵相の造反を慰留する。


 7.18日、続いて福田蔵相が辞表提出。2時間後、保利行管長官も閣外へ。「田中-福田のパイプ役のつもりだったが、福田を引き止めることができなかった。これ以上、閣僚にとどまるわけにはいかない。決して福田に殉じるわけではない」。自民党の最大政治資金源となっている経団連が、自民党への献金打ち切り宣言で、「三木、福田、保利の下野戦略」を支援した。これにより田中政権に赤信号が点滅する。


 7.24日、第73回臨時国会始まる。


 7.26日、参院議長に河野謙三を再選。


 7.26日、人事院が、公務員給与の平均18.62%(2万1385円)引き上げを勧告。既に実施の月額本給10%の暫定支払いを合わせると29.64%と空前のベア。


 7.31日、衆議院で内閣不信任案、参議院で首相問責決議案が出され、ともに否決される。


 「文芸春秋」9月号誌上で、自民党衆院議員・石原慎太郎氏が、「君、国売り給うことなかれ」というタイトルで、「そもそもが当初からインプットの狂ったコンピューターつきのブルードーザーの暴走」だったと角栄批判論文を投稿。


 8.1日、自民党は、党近代化の道をさぐる正式機関として、副総裁・椎名を会長とする「党基本問題・運営調査会」を設置し、10月末を目途に派閥解消や選挙制度、政治資金のあり方、総裁選挙制などで「実行可能な具体案」をまとめることになった。


 8.8日、ニクソン大統領がウォーターゲート事件で辞任。8.9日ジェラルド.フォードが第38代大統領に就任。副大統領はネルソン・A・ロックフェラーが指名された。全閣僚が留任。


 8.8日、経団連会長の土光敏夫が首相官邸を訪れた。


 8.14日、韓国、金大中事件の捜査打ち切り通告。


 8.15日、朴大統領狙撃される。在日韓国人の文世光に狙撃され、陸英修夫人が死亡した。


 8.19日、朴韓国大統領夫人の葬儀参列のため訪韓。


 8.21日、48年度末の国鉄累積赤字は1兆5955億円。


 9.1日、北太平洋上で出力上昇中の原子力船むつで放射能漏れ。むつの流浪始まる。


 9.6日、消費者米価32%引き上げ。


 9.8日、フォード大統領が、ニクソン前大統領の特赦を決定。


【田中首相が中南米のメキシコ、ブラジル、米国、カナダの4カ国歴訪】

 9.12日、田中首相が中南米のメキシコ、ブラジル、米国、カナダの4カ国歴訪に出発(外遊交渉6)。

 9.14日、メキシコ訪問。日本メキシコ学院の設立のための援助資金を持ち、 エチェベリア大統領(当時)との会談の結果、「両国民の相互理解のために画期的な重要性を有するものであって、早期建設を支援する」旨の共同声明を発表。

 9.15日、南米リオに到着する。

 9.18日、ブラジル首脳会談。この時、角栄はブラジル側にセラード農業開発協力事業という共同の農業開発プロジェクトを提案し、これを契機として事業が始まる。事業計画は、田中首相が支援を約束してから約5年の準備期間を経て「日伯セラード農業開発協力事業」の監督・調整機関として日伯合弁会社が設立され、国際協力事業団(現JICA)が出資する形で、2001年までの21年間、3期に分けて実施された。国際協力事業団(現JICA)を通じて多数の農業専門家の派遣や農家の入植などにより約600億円の資金が投じられプロジェクトが遂行された。熱帯サバンナ地帯の約面積2億ヘクタール(日本の約5倍ほどの面積)の潅木林地帯で土地の土壌改良による穀物栽培の開拓が行われた。一大穀倉地帯に変貌させ、今日ではブラジルはトウモロコシや大豆の生産・輸出大国となっている。JICAのセラード農業開発プログラムは、日本のODA事業の中でも極めて規模の大きな事業となり、世界の食料供給基地をアメリカとブラジルの二極化することに貢献した。現在、この経験を生かしてブラジルと日本によるアフリカ支援へと繫がっている。(「熱帯サバンナ開発にみる食料安全保障」参照)


【角栄対フォードの日米首脳会談】
 9.21日、ワシントンで新任のフォード大統領と会談。キッシンジャー国務長官が同席し鞘当する。「歴代首相の訪米で、こんなに静かな光景は一度もなかった」と特派員が伝えるほどの、アメリカ側は冷たい対応をした(中野士朗「田中政権・886日」、221P)。田中・フオードの首脳会談は、わずか1時間で終わった。

【カナダ訪問】

 9.23日、カナダ入りし、9.24日、オタワのナショナル・プレスクラブで記者会見し、次のように述べた。

 「石油価格上昇によって影響を受けるのは、石油消費国だけではない。外資の乏しい開発途上国はもつと深刻だ。彼らは肥料の値上がりによってもたらされる食糧不足に直面している。石油問題は、単なるエネルギー問題ではなく、世界の食糧問題であるから、全ての国が相談して、平和的五あり的な処理をしなければならない」。

 9.25日、カナダのトルドー首相と会談。9.27日、帰国。


 9.19日、椎名特使が訪韓。


 9.22日、日本の人口が1億1千万人に。


 9.28日、48年政治資金収支報告で、史上最高の678億9千万円。自民は倍増の186億円。


 9.29日、日中定期航空便スタート。


 10.8日、佐藤前首相に74年度ノーベル平和賞。


【「文芸春秋11月号」が、角栄批判特集】
 10.9日、月刊「文芸春秋」11月号で、立花隆「田中角栄-その金脈と人脈」、児玉隆也の「寂しき越山会の女王」が掲載された。立花隆のレポートは田中金脈を徹底追及しており、ニクソン米大統領のウォーターゲート事件を追及し、失脚に追い込んだワシントン・ポストの二人の記者ボブ・ウッドワードとカール・バーンスタインのキャンペーン記事に匹敵する調査報道となった。これが以降の田中政界追放の狼煙となった。ニュースウィーク、ワシントンポストが角栄の政治資金問題を報道し始め、「田中首相が外人記者クラブで記者会見」後、「マスコミ全社」が囃したてて行くことになる。

 太田龍・氏は、著書「ユダヤ世界帝国の日本侵攻戦略」の中で次のように記している。

 「我が国を代表とする総合雑誌としてステータスの高い月刊文芸春秋誌が、ジャーナリスト立花隆・氏の『田中金脈の追及』を掲載した。これは、立花隆個人の才覚で為しうる仕事ではないと私は考える。何者かが立花氏を躍らせたのだ。立花氏は、人形芝居の人形のようなものであろうか。舞台裏でこのジャーナリストを動かしたのは誰か?」。

 立花隆の「田中角栄-その金脈と人脈」は「共同編集の賜物」であったことが判明しつつある。「立花式編集方法」については「立花の執筆手法について」で考察する。これによれば、「『田中角栄-その金脈と人脈』は、立花の名を冠した取材、調査のプロジェクトチーム20名の仕事だった」ということになる。これにつき、新野哲也氏の「誰が角栄を殺したのか」192Pは次のように記している。
 「文芸春秋の『田中金脈研究』の元資料が英文であり、出所は当時田中外交に不安感を持っていた韓国KCIAからだとの情報があったと田原が述べていることは注目されて良い」。

 太田龍・氏の指摘も新野哲也氏の指摘も鋭い。

【佐藤昭本人のこの時の衝撃、憤懣】
 佐藤昭本人の手記が、この時の衝撃、憤懣を次のように記している。
 「昭和49年10月10日(木)」晴。「田中角栄研究―その金脈と人脈」を掲載した文芸春秋11月号が発売。ゲラの段階で記事を読み、怒りがこみあげる。田中は総理と云う公人だ。金脈だか人脈だかを追及されても仕方ない面もある。ところが、大変なおまけがついている。『淋しき越山会の女王』という記事。な私のことまで書かれなければならないのか。個人のプライバシーも何もない」(「私の田中角栄日記」)。

 10.11日、福田前蔵相が、福田派研修会で、「我々の闘いは、---田中総理によって腐食されつつある国家と、民族の危機を救うための闘いである」と決意表明した。


 10.22日、社会党議員が、参院大蔵委で、「文春」記事を元に田中金脈を追及。


【田中首相が外人記者クラブで記者会見
 10.22日、特集が出た直後、田中首相は、東京外国特派員協会の外人記者クラブ(丸の内)で記者会見した。会見直前、「文芸春秋11月号」の立花論文やその関連資料の英訳版が何者かによって特派員たちに配布され、会見のテーマは「金脈問題」に関する質問攻めの場になった。ハンガリア通信記者でクラブ副会長のベラ・エリアス記者が田中の紹介をしながら皮肉り続けている。5分ほどのスピーチの後、矢継ぎ早に質問の矢が放たれた。質問は「文芸春秋記事」に集中し、「財産を公表するつもりはないか」、「文春記事の正確さを認めるか」、「告訴するつもりはないのか」等々、一種査問委員会のような雰囲気となった。

 この外国人記者クラブでの会見で、日本のメディアが一斉に動き出した。宮崎学氏の「民主主義の原価」には、「いわば外圧をきっかけに、日本のマスコミが一気に金脈報道に乗り出したのだ。R氏は、この記者会見を仲介したのは共同通信記者だったが、その記者はCIAのエージェントであったと話している」とある。 

 田中首相の予想を超える「査問会見」となり、しどろもどろの弁明となった。次のように述べている。
 「一言で言うと、私は経済界の出身であり、政治に支障のない限り経済活動をしてきた。記事で個人の経済活動と公の政治活動が混交されていることは納得いかない。米国だけでなく、政治家が国民の支持と理解を得るためには、プライバシーの問題をある意味で制限されることは承知している」。

 10.24日、自民党の党基本問題・運営委員会、財界の議会政治近代化委員会が自民党改革案を提出、提言。


 10.25日、外遊挨拶のため、前尾、河野衆参両院議長と会談。河野氏が記者会見で、「総理は元気な様子であったが、現在の政局を深刻に受け止めているのは間違いない。私の見たところハラは固まっているようだ」と述べ、田中首相の早期退陣を示唆した。翌10.26日の新聞各紙朝刊が一斉に田中-河野会談をトップに掲げ、「首相、辞任表明か」見出しの記事を掲載した。


 10.28日、田中首相がニュージーランド、オーストラリア、ビルマ三カ国歴訪(外遊交渉7)。道中、硫黄島とガダルカナル上空で黙祷を捧げ、次のように述べた。
 「戦争の時は、何度も死線を越えて来たんだ。満州では大病を患って、後送に後送を重ねて、とうとう仙台の病院にまで送り込まれた。生死を危ぶまれたんだから、あの頃のことを思えば、今は何と云うことはない」。

 10.29日、ニュージーランド(ローリング首相)。11.3日、オーストラリアのウイットラム首相。11.7日、ビルマのネ・ウィン大統領と会談。11.8日深夜11時50分、帰国。


 10.30日、共産党不破書記局長が、「反田中政権の保守派を含めた暫定的政権」構想打ち出す。「保守政治家を含む選挙管理内閣構想」を発表。


 11.10日、首相が、三木、福田と個別に会談。内閣改造への協力を要請が拒否される。


 11.11日、第2次田中内閣第2次改造。金脈問題で記者会見を開き次のように釈明した。
 「私は自分で仕事をしながら、20代で政界へ入り、今日に至っている。その後ひたむきに努力してきた。伝えられように政治と経済を混交したり、指弾を受ける行為をやった覚えはない」。
 「調べればすべて明らかになることだ。地位利用はない。やったなら、総理や代議士の地位を去る」。

 11.12日、衆議院法務委などで金脈問題追及される。


【フォード米大統領来日直前のキッシンジャー大統領補佐官の内政干渉】
 1974年11月12日付の国務省会議録(秘密)によると、国務長官も兼務していたキッシンジャー大統領補佐官はフォード大統領訪日を直前に控えた国務省会議で、次のような田中首相辞任見通しを語っている。
ハビブ国務次官補
(東アジア・太平洋担当)
日本の内閣は厳しい状況だ。フォード大統領訪日後に、田中(角栄)首相は辞任するだろう。
キッシンジャー国務長官 大統領訪日で何を達成するのか。
ハビブ国務次官補 訪日自体が一つの目標達成だ。大きなインパクトがある。訪問を取りやめたら、政治的に大きな影響が出る。
キッシンジャー国務長官 田中(首相)にそれほど関心があるわけではない。
ハビブ国務次官補 彼が辞めても涙を流すことはない。彼は退屈な首相だった。
キッシンジャー国務長官 日本の標準に照らしてみてもうそつきだ。
(私論.私見)
 2006.5.26日付けで解禁された米公文書により明るみになったが、とんでもない内政干渉秘史であろう。

 11.17日、滋賀県知事に革新の武村正義が、保守現職を破って当選。


【フォード米大統領来日、フォード米大統領帰国後に首相辞意表明】
 11.18日、フォード米大統領来日、東京.迎賓館で田中.フォード会談。11.20日、日米共同声明。フォード米大統領帰国後に首相辞意表明。

 佐藤昭の「私の田中角栄日記」は次のように記している。
 「田中はフォード大統領が帰国した直後に、総理大臣辞任を決めていた。辞意表明は内閣改造から僅か二週間後のこと。田中が辞任を決意した理由は様々だったと思う。健康問題、金脈問題の追及----さらに恐らくその最大の理由は愛娘・真紀子さんの強力な意思ではなかったか」。

【英外務省の機密文書】

 11.21日、当時の田中角栄首相が金脈問題で辞任した際、英国政府が「日本政府は重大な政治決断をするのが困難な状態が続く可能性がある」と懸念を深めていたことが、2005.1.1日、公開された英外務省の機密文書で明らかになった。

 田中首相の金脈問題は同年十月、月刊誌「文芸春秋」が「田中角栄研究」を掲載して表面化。政局混迷の中で田中首相は十一月二十六日に辞意を表明し、十二月に内閣総辞職となった。公表されたのは、辞意表明の前後に出された在日英国大使館と英外務省極東局の間でやりとりされた一連の公電。

 11.21日付で大使館当局者が極東局に送った書簡は、概要「近い将来の首相辞任へに向けて合意が進んでいるようだと分析。辞意表明が25日か26日になると予測し、ほぼ的中した。11.29日付の極東局の書簡は、前年来の石油ショックなど緊急課題が山積していた中で、首相辞任後の政局混乱などで、日本政府の政治決断力が低下することに懸念を表明していた。


【田中内閣辞任声明】
 11.26日、内閣改造から2週間後、田中首相が首相官邸に椎名副総裁、二階堂幹事長、鈴木総務会長、山中政調会長を呼び退陣表明。在任期間886日、2年4ヶ月で終わった。金脈追求で行き詰まる。「政局の混迷を招いた」として正式に辞意を表明。

 竹下官房長官が、「私の決意」と題するメッセージを代読した。
 概要「私は、フォード大統領の来日という、わが国にとって、まさに歴史的な行事が、つつがなく終了し、日米友好の礎が一段と固まったこの機会に、内閣総理大臣及び自由民主党総裁を辞任する決意をいたしました。政権を担当して以来、2年4ヶ月余、私は決断と実行を肝に銘じ、日本の平和と安全、国民生活の安定と向上のため全力投球を続けてまいりました。しかるところ、最近における政局の混迷が少なからず私個人に関わる問題に端を発していることについて、私は国政の最高責任者として政治的、道徳的責任を痛感しております。

 一人の人間として考える時、私は裸一貫で郷里をたって以来、一日も休むことなく、ただ真面目に働き続けてまいりました。顧みまして、いささかの感慨もあります。しかし、私個人の問題で、かりそめにも世間の誤解を招いたことは、公人として、不明、不徳のいたすところであり、耐え難い痛苦を覚えるのであります。私は、いずれ真実を明らかにして、国民の理解を得てまいりたいと考えております。

 今、国の内外には緊急に解決すべき課題が山積しております。政治には瞬時の停滞も許されません。私が、厳粛に、かつ淡々として自らの進退を明らかにしたゆえんも、ここにあります。わが国の前途に思いをめぐらす時、私は一夜、ハイ然として大地を打つ豪雨に心耳をすます思いであります。自由民主党は、一日も早く、新しい代表者を選出し、一致結束して難局を打開し、国民の負託にこちえるべきであります。私も政治家の一人として、国家、国民のため、さらに一層の献身をいたす決意であります」。

 角栄は、秘書官に囲まれながら、首相官邸執務室のテレビ見入った。ポロポロ涙を流しながら、竹下の代読が終わると早坂秘書に次のように語った、と云われている。
 「ボヤだと思っていたんだが、まるでヤマトタケルの命が、枯野で火に囲まれたようなものだ。草薙の剣を振るえば血路を開けんこともなかったが、世の中できることと、できないことがある」。

 「週間読売49.12.14日号」に次のような角栄の談話記事が載っている。

 「私自身だけのことであれば、古い話だし、いかようにも応戦できる。しかし党は割ってはいけない。これが私が決意をした、最大の動機だ」。
 角栄は、この時期の心境をこう語っている。
 「総理なんていうのは、まぁ1回やれば結構だ。あれは血圧と血糖値ばかり上がる商売だ。衆議院、参議院、予算委員会と朝から晩まで缶詰にさせられる。そして入れ替わり立ち代わり、相手代われど主代わらずで、俺を怒らせよう、怒らせようと仕掛けてくる。あれに耐えるのは人間わざじゃない。終わったらウイスキーをがぶ飲みして、ストンと寝るようにしなけりゃ身が持たん」。

 河野洋平らが離党して新自由クラブを結党。


 後継総裁選びが難航した。「三角大福」と云われていた福田、大平、三木、中曽根が予想された。調停役は副総裁の椎名悦三郎。途中椎名暫定政権が構想されたが、公選を主張する大平が反対し、概要「話し合いという妖怪が、ウロウロしている。椎野さんもやる気があるようだ。行司がマワシを付けて土俵に上るらしい。産婆が自分もお産すると言い出した」と面白おかしく党内に駆け巡り、その芽も潰えた。


 11.30日、椎名副総裁は、党内四大派閥の長の三木、大平、福田、中曽根の4実力者を呼び、五者会談を開いた。「今夜もう一晩真剣に考え、私なりの結論を出す」と述べてその日の会談を終えた。


 12.1日、改めて五者会談が開かれ、椎名の裁定で三木が指名された。椎名は、「国家、国民のため神に祈る気持ちで考え抜きました。もはや議論の余地がない。新総裁を私が選定させていただく。新総裁にはこの際、政界の長老である三木武夫君が最も適任であると確信し、ご推挙申し上げます」と、「三角大福」を前に声明文を読み上げた。三木は、「青天の霹靂だ。予想だにしなかった」と述べ受諾した。これを「椎名裁定」と世に云う。


 12.4日、自民党両院議員総会で、椎名裁定により、三木武夫を次期総裁に選出する。


 12.9日、三木内閣発足。中曽根幹事長。永井道雄文部大臣。


 12.9日、臨時閣議が開かれ、田中内閣総辞職。三木内閣が誕生した。党の役職人事では、自民党副総裁に椎名悦三郎、幹事長に中曽根康弘、総務会長に灘尾弘吉、政調会長に松野頼三と、幹事長以外は親台湾派が指名された。また閣僚も20 人の閣僚中、7 人が親台湾派であった。


 12月、統一労組懇結成。共産党系の労組団体。20単産。全国47都道府県統一労組懇。組織人員約150万人。「総評を民主的、革新的に強化するという党の方針に基づいて」総評内の日共系労組の横断連絡組織として結成された。かっての産別会議的な階級的ナショナル.センターとしての確立を目指すべきの動きと、総評強化路線の一環として位置させて置くべきとの動きの理論的野合。上田は、元々統一労組懇結成には時期尚早論で反対。宮本と秘書グループのイニシアチブで進められた。


 12.27日、永井文部大臣と槙枝日教組委員長が第一回の会談を持つ。人材確保法案によって決められた給与増額分の公平な配分、入試地獄.詰め込み教育の解消、スト処分教員の処分撤回等々が議題となった。この両者会談は以降定期的に続くことになる。


 12.28日、共産党と創価学会の間で「十年協定」調印。


【辞任の年の田中派忘年会での書く英スピーチ】
 年末、角栄は、田中派の忘年会の席上で次のように述べている。
 「田中角栄であります。エー、今年は皆さんに、大変ご迷惑を掛けました。人間には良い年もあり、悪い年もある。しかし、私には、今年は必ずしも良くなかったッ。皆さんッ、将来の日本はね、決して昨年の石油ショック以来、ずっと低迷しているような国ではありません! まぁねぇ、私は総理を辞めて、1ヶ月で体重は5キロ増えた。あんまり太るので、今月から三食を二食にして朝飯を止めたが、まだ太る。それだけに、総理大臣は大変な職責だったんだなァと思います。まァ、とにかく皆さんのご支援とご理解で、二年半にわたり内閣をつとめさせていただいた。

 私は、そのォ、(大蔵大臣就任以降)12年間ずっと走り続けてきたが、たまには休まねばなりません。家の中を治められないということでは、自ら責任を取るほかはない。まァ、ねェ、皆さんも、田中と云う、つまらん奴を友人に持ったと、エー、自らの不明をもって許していただきたい。私はもはや芸者を辞めて、女中頭になったようなもんだ。いったんお座敷を引いたからには、再び出ることはないッ。そうはいかんのです」。




(私論.私見)