第一次田中内閣組閣

 更新日/2020(平成31→5.1栄和元/栄和2).1.6日

 (れんだいこのショートメッセージ)

 1972(昭和47)7.5日、自民党総裁に選出される。同7.7日、総理大臣に就任し、第一次田中内閣発足。橋本幹事長、竹下副幹事長。事実上の竹下幹事長であったと云われている。福田に入閣を求めたが、福田は拒否し、福田派からの入閣も断っている。これほどの確執が生じたということである(福田が入閣するのは、5ヵ月後の第二次田中内閣で行政管理庁長官としてであった)。以降2年5ヶ月の任期となった。

 角栄はかくて頂点に立ち、「決断と実行」をメインスローガンに掲げた。「二期六年はやらないよ。おれは人が六年でやることを三年でやる」とも云い為しており、自身満々のスタートを切った。この頃の内閣支持率60%を越している。マスコミも礼賛記事で、「小学校卒が東京帝大卒に勝った」、「今太閤」ともてはやした。



【第一次田中内閣発足】

 1972.7.7日、第一次田中内閣が発足した(1972.7.7日〜1972.12.22日)。発足時の政権ワードとして「決断と実行」を掲げた。福田派の入閣拒否となり、郵政相三池信と経済企画庁長官有田揆一が応ぜず、角栄兼任でスタートした。総裁公選のしこりであった。その後田中・福田会談で覆水を盆に帰した。首相秘書官に通産官僚・小長啓一(のちのアラビア石油社長)を抜擢した。閣僚名簿は次の通り。  

 総理・田中角栄官房長官・二階堂進/官房副長官・山下元利・後藤田正晴幹事長橋本登美三郎/法務・郡祐一/外務・大平正芳/大蔵・植木庚子郎/文部・稲葉修/厚生・塩見俊二/通産・中曽根康弘/運輸・佐々木英世/郵政・三池信(1972.7.12日〜)/労働・田村元/建設・木村武雄/自治・福田一/科学技術庁長官・原子力委員長・中曽根康弘/国家公安委員長・首都圏整備委員長・近畿圏整備長官・中部圏開発整備長官・木村武雄/総理府総務長官・沖縄開発庁長官・本名武/経済企画庁長官・有田喜一(1972.7.12日〜)/行政管理庁長官・浜野清吾/防衛庁長官・増原恵吉/環境庁長官・小山長規/法制局長官・吉国一郎/無任所・三木武夫。

内閣総理大臣 田中角栄
首相秘書官 小長啓一 通産官僚(のちのアラビア石油社長)
内閣官房長官 二階堂進
内閣官房副長官 山下元利
内閣官房副長官 後藤田正晴
幹事長 橋本登美三郎
総理府総務長官 本名武
総理府総務副長官
総理府総務副長官
法務大臣 郡祐一
外務大臣 大平正芳
大蔵大臣 植木庚子郎
通商産業大臣 中曽根康弘
文部大臣 稲葉修
厚生大臣 塩見俊二
農林大臣
運輸大臣 佐々木英世
郵政大臣 三池信
労働大臣 田村元
建設大臣 木村武雄
自治大臣 福田一
無任所 三木武夫
国家公安委員会委員長 木村武雄
行政管理庁長官 浜野清吾
近畿圏整備長官
中部圏開発整備長官
首都圏整備委員会委員長
北海道開発庁長官
防衛庁長官 増原恵吉
経済企画庁長官 有田喜一
科学技術庁長官 中曽根康弘
環境庁長官 小山長規
沖縄開発庁長官
内閣法制局長官 吉国一郎

【この時の母フメの言葉】
 この時、母フメが次のように述べている。

  「総理大臣がなんぼ偉かろうが、あれは出稼ぎでござんしてね。アニ(田中のこと)もそう思うとります。政治家なんて、喜んでくれる人が7分なら、怒っている人も3分ある。それを我慢しなきゃ。人間、棺おけに入るまで、いい気になっちゃいけねぇ、でけえこともほどほどだね」と答えている。


田中内閣の顔ぶれ考
 藤井裕久氏の二階堂進氏の秘書官入りが注目される。藤井氏は、大蔵省主計局主計官を最終役職に退官し、1977年、政界転身し第11回参議院議員通常選挙全国区に自民党公認候補として立候補し当選、2期務める。2005年、神奈川14区より衆院議員に転じる。以降、小沢一郎の側近の1人として活躍する。1993年、自民党を離党して新生党結成に参加。細川、羽田内閣で蔵相。その後、新進党を経て、自由、民主党で幹事長を務める云々。現在、民主党最高顧問。

保守長期政権と対米協調
 出典元を失念したが、次のような評が為されている。
 岸内閣にかわった池田勇人内閣は、<寛容と忍耐>をとなえて革新勢力との真正面からの対立をさけながら、<所得倍増>をスローガンに経済の高度成長を促進する政策をとった。また政府は、<政教分離>の方針のもとに中華人民共和国との貿易拡大をはかり、1962年には準政府間貿易の取決めが行われた。1964年に成立した佐藤栄作内閣は、日本と大韓民国との間の正常化をはかるため、会談の妥結を急ぎ、1965年に日韓基本条約および諸協定を結んだ。ついで、南方領土の回復が大きな外交問題となった。沖縄は戦後、アメリカの軍政下にあり、極東の軍事拠点としての役割を負わされてきた。しかし、基地拡張のための土地収用や人権侵害事件をきっかけに、1969年佐藤首相は訪米し、安保体制堅持・自衛力漸増とともに、沖縄の施政権返還をうたった日米共同声明を発表した。また翌年には、安保条約の固定期限が終了したが、政府は同条約を自動的に延長した。軍事基地存続をふくむ沖縄の日本復帰は、1972年5月に実現した。保守合同以来、自由民主党はたえず国会議席の絶対多数を占め、対米協調と経済成長を基本政策として、池田・佐藤両長期政権を維持してきた。

 これに対する野党側では、日本社会党から民主社会党の分立に続いて、新しく公明党が結成され、日本共産党が進出するなど、多党化傾向が進んだ。さらに従来の革新政党を批判して、学生などの新左翼が激しい運動をくりひろげた。 1970年以降も自由民主党の政権担当が続いた。1972年に佐藤内閣にかわり田中角栄内閣が成立した。田中内閣は日中国交回復に熱意を示し、ニクソンに続いて田中首相が訪中、日中共同声明によって国交を正常化した。田中内閣は高度政策を促進する政策をすすめたが、1973年の石油危機をきっかけにインフレが進行し、経済政策は混乱した。そうしたなかで1974年末、田中首相の政治資金と個人資金にからむ疑惑から田中内閣は総辞職し、三木武夫内閣が成立した安全成長、自由民主党の体質改善をめぐる汚職事件<ロキード事件>が暴露され、党内抗争激化のなかで、福田赳夫内閣に交代した。

政権発足直後の田中の気概の言葉
 第1次田中内閣を成立させた直後、田中は秘書の佐藤昭子にこう漏らしている。
 意訳概要「内閣はできたときに最も力がある。オレは(総裁)2期6年はやらない。1期3年で人の2期分働いてみせる。総理になるということは、銃口の前に立つことだ。仕事をすれば、批判が生まれる。それは当然のことだ。しなければ責任回避を見抜かれ、叱る声さえも出なくなる。私の人気が悪くなってきたら、あぁ田中は仕事をしているんだと、まァこう思っていただきたい」。
 「田中首相の誕生は多くの人たちに好意的に受け止められたようです。『小学校卒の首相』『庶民派宰相』と世の中の人たちの期待も高いものがありました。支持率は60%にもなりました。非常に高い支持率でして、これは約20年後、1993年に細川護熙さんが政権をとるまで破られることはありませんでした」。
 「ただ、田中さんは支持率が高いからといって傲慢になるような人ではありませんでした。『俺は今太閤(たいこう)と呼ばれている。首相に就任した今が政治権力の絶頂期だ』との認識はお持ちだったようですが、だからこそ『最も支持が強い時に、最も難しい問題をやる』と考えておられたようです。そして着手されたのが日中国交正常化だったのです。田中さんは日中国交正常化を自分の政権でやることを『決断』され『実行』に移されました」。

政権発足直後、小長啓一氏起用
 第1次田中内閣を成立させた直後、田中は小長啓一氏を起用している。
 「田中さんが第64代の首相になられたのは1972年7月7日。通産相の秘書官だった私はテレビで田中さんが総裁選で勝ったことを確認すると『激務から解放される』と一息ついたような気になったのを覚えています。しかし、その後、田中さんから『やってもらいたいことがある。引き続きよろしく頼む』との連絡があり驚きました」。
 「私が『何を担当するのですか』と尋ねましたところ、田中さんから『何、言ってるんだ。日本列島改造論に決まっているじゃないか』と叱られました。今思えば田中さんの著書である『日本列島改造論』ができるまで私は田中さんのレクチャーをその場でじっくりと聞いていましたから『日本列島改造論』を具体的な形にする際に私が役立つのでは、と思ってくださったのではないでしょうか」。





(私論.私見)