田中派の相続人たち

【田中派の相続人たち考】
 鉄の軍団と云われた田中派は、「竹下ー金丸連合」の裏切りに拠って切り崩された。最大派閥なのに総裁を出せない鬱屈と焦りが、竹下派の創世会を作り出していった、と云われている。角栄は激怒したが既に遅かった。創世会発起人に小沢、羽田の子飼いが名を連ねていたことに驚き、失望した様子が伝えられている。

 れんだいこ史観に拠れば、「竹下ー金丸連合」により創出された経世会は、変調軟弱ハト派として存立していくことになる。その後竹下登は約束通りと云うべきか首相になるが、彼が死して後出版された竹下論の著名は「我万死に値す」であった。これは誰が名付けたかは分からないが、竹下政治の軌跡の本津を見事に言い当てているように思われる。

 角栄に最後まで忠勤を励んだのは、二階堂、**であった。これを忠勤派にして真性ハト派。

 小沢、羽田、その他は、創世会合流後、「竹下ー金丸連合」と袂を分かっている。準真性ハト派。小沢一郎「小沢一郎さんですか? 発想なんかは比較的田中に近いかなとは思います。でもね、人情、人の意見を聞くという側面では、田中の比較ではないですよ。田中の苦労した人生とは違いますからね。彼は二世議員です」(佐藤昭子)。

 田中真紀子。




(私論.私見)