角栄の弔問、葬儀配慮考、角栄の気配り考

 更新日/2021(平成31→5.1栄和元/栄和3).1.31日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 角栄は冠婚葬祭、特に葬儀には細やかな心配り、気配りを見せ、そのエピソードは多数ある。

 2005.5.22日再編集 れんだいこ拝


【竹下登の父の葬儀に田中派69名が参列】
 田中派の重鎮、竹下登の父が死去したとき、飛行機をチャーターし、総勢69人の田中派の議員が人口四千人の村を訪れた。

【田中派議員の小林春一の妻の葬儀に見せた気配り】
 田中派議員の小林春一が妻を亡くし途方に暮れていた時、田中から連絡が入り事務所に向かった。田中はお悔やみの言葉をかけ、封筒を渡した。中には100万円はいっており小林はその金で立派な仏壇を特注し、田中に忠誠を誓った。

【石破二朗の葬儀の縁で長男の石破茂を政界入りさせる】
 盟友の石破二朗が死去した際に、長男の石破茂が石破家を代表する形で目白の田中邸に訪れた際に、国会議員による友人葬において葬儀委員長を務めて鳥取県民葬より多い弔問客を動員させた。友人葬が終わって目白の田中邸に訪れた石破茂に対し「君がお父さんの遺志を継いで、衆議院に出るんだ! 日本のすべてのことはここで決まるのだ」と口説き、政治家になる気がなかった石破茂を政界入りさせる気にさせた。
 2019.5.17日、夕刊フジ/政治評論家・小林吉弥「「ワシが葬儀委員長だ」 石破茂氏を参らせた父親の“田中派葬” 角栄流上司の心得」。
 【部下がついてくる!「角栄流」上司の心得】究極の人心収攬術

 「権力、カネだけで人は動かない。田中先生は、すべてに常人が及ばない発想だった。あのとき、田中先生と出会っていなかったら、私は政治家にはならなかったと思っている。私の父親の葬儀で、私の人生は決まってしまった」。石破茂。自民党幹事長、地方創生担当相などを歴任、いま「ポスト安倍」に虎視眈々(たんたん)だ。1986(昭和61)年の衆院選で初当選、田中派入りした。筆者は何度か石破に直接取材しているが、石破からこんな言葉を聞いたのは20年ほど前だった記憶がある。石破の話は、次のようなものだった。

 石破の父親、二朗は鳥取県知事15年、参院議員を7年務めた後、81年(同56年)9月に他界した。二朗は亡くなる1週間ほど前に、鳥取市内の病院に見舞いに来た田中に言った。「1つ、願いを聞いてほしい。いよいよのときは、あんたに葬儀委員長をやってもらいたい。最後の頼みだ」。田中はうなずいたが、結局、鳥取県民葬となったことで、葬儀委員長を当時の鳥取県知事に頼み、自分は友人代表として弔辞を述べるにとどめたのだった。

 ここから先が、「角栄流」である。石破が後日、県民葬でのお礼を言いに田中邸を訪れた。県民葬に3500人の出席があったと石破から聞いた後、田中はそばにいた早坂茂三秘書にこう命じたという。「青山葬儀場を予約しろ。4000人を集めるんだ。石破二朗との葬儀委員長の約束は、県民葬という筋から果たせなかったが、“田中派葬”でやる。ワシが葬儀委員長だ」。自民党葬の話も出たが、党葬になれば葬儀委員長は当時の総裁、鈴木善幸になってしまう。当時の田中派衆参議員100人超全員が発起人という、前代未聞の派閥葬が盛大に執り行われたのだった。田中は葬儀委員長として、泣きながら弔辞を読んだ。「石破君、君との約束をワシはいま、今日こうして果たしている…」。

 そして後日、改めて「田中派葬」のお礼に参上した、大学を出て三井銀行(当時)のサラリーマンとして間がなかった石破に、次のように言ったのだった。「次の衆院選に出ろ。お前が親父さんの遺志を継がなくて、誰が継ぐんだ」。常人の及ばぬ発想で、周りの人間の琴線を揺さぶり続けた田中角栄。“泣かせ所”は、波乱の人生で身についていた。人心収攬とは、私心なき度胸とうかがえる。

(私論.私見)

 石破茂の変態性は、その後の政治履歴にある。角栄がロッキード事件に捕捉され喧騒され始めた時、橋本龍太郎が「それでも私はオヤジが好きなんだ」とスジを通したのに比較して、石破の動静が伝わらない。むしろ角栄の真の政敵である中曽根の袂に擦り寄ったのではないかと思われるれ節がある。いわゆる軍事オタクとしての石破の変身である。その後、中曽根人気が凋落し、角栄人気が沸騰し始めると、「実は私は親父の代からの田中派です」と云い始める。お粗末至極と云わざるをえまい。

 2019.5.18日 れんだいこ拝

【大石三男次という後援会の大幹部の父が亡くなった際の葬儀に見せた気配り】

 大石三男次という後援会の大幹部の父が亡くなった際、田中は葬儀に出たかったが、別の葬儀が重なったため田中は大石に電話をして葬儀を延ばせないかと尋ねた。大石は恐縮しながらも無理であると断ったが、田中は当時幹事長で激務であるにもかかわらず時間を割いて葬儀に駆けつけた。とんぼ返りする田中を見て大石は改めて田中を支援しようと誓った。


【早坂秘書の父の葬儀に見せた気配り】
 早坂氏の父親が亡くなったとき、田中角栄氏はこう言う。
 「いいか。世の中というのはね、何をもって二代目を一人前と見るかといえば、それは葬式だ。おやじの葬式をせがれがキチンと取り仕切れるか、それを見て、判断する」。

【河本派の渋谷直蔵議員の妻の葬儀に見せた気配り】
 河本派議員の渋谷直蔵の妻が死去した折、田中はすぐさま花を贈り、本葬まで一週間あると知ると、花が枯れてはいけないと本葬の日まで新しい花に、その都度に取り替えていた。これを聞いた渋谷は驚いた。

【反田中派の松野頼三の妻の葬儀に見せた気配り】
 自民党では反田中派の松野頼三の妻が亡くなった時、誰よりも早く駆けつけ、これ以降、松野はあまり田中批判をしなくなった。

【社会党委員長の河上丈太郎の葬儀に見せた気配り】
 天敵だった社会党委員長の河上丈太郎が亡くなった時、わざわざ火葬場まで出向き、12月の寒さと雨の中、2時間立ち続けて野辺の送りまで行い、社会党議員を感動させた。

【社会党議員の妻の葬儀に見せた気配り】
 社会党の某議員夫人が亡くなったとき、社会党議員の誰よりも早く田中は式場に現れ関係者を驚かせた。代議士は夫人をとても大切にしており、恩を感じた議員は田中が窮地のときは党の枠をこえて行動した。

【落選中の田中派前衆院議員、中島衛(まもる)の父親の葬儀出席に見せた気配り】
 2019.1.24日、政治評論家・小林吉弥の「【部下がついてくる!「角栄流」上司の心得】「親分力」の磨き方」の「葬祭行事で見せつけた「親分力」 “田中角栄流”上司の心得」。
 田中角栄の人との接し方の基本は、まず相手への先入観、敵対意識というものを捨ててかかるということだった。「来る者は拒まず、去る者は追わず」である。ために、各界、各層、政治的対立者もまた、多く田中のもとに“相談”に訪れたのであった。田中自身の言葉がある。「私が最も大切にしているのは、何よりも人との接し方だ。戦術や戦略じゃない。相手が私に会って、話をしていて安心感があるとか、助かったと思ってくれたら、それでいいんだ。誠心誠意で接していると、自然と人と人を結びつける、新たなキッカケが生まれるものだ」。世に言う「親分力」とは、どうやらこうした人との接し方の中で、育まれるものらしい。だから、人が集まったということのようである。

 この田中の「親分力」は、葬祭行事でしばしば発揮された。田中がとりわけ人の死に、心を込めて向かい合ったことはよく知られている。こんな「親分力」を見せつけたことがある。

 昭和56(1981)年2月28日、田中は多忙な日程をやりくりし、突如、ヘリコプターで長野県・伊那谷に舞い降りた。落選中の田中派前衆院議員、中島衛(まもる)の父親の葬儀出席と、中島の落胆と無聊(ぶりょう)をなぐさめるためであった。一方、空を飛んだ御大に対し、田中の号令一下、田中派の幹部、二階堂進、竹下登、金丸信、後藤田正晴ら7人衆が中央線茅野駅に結集した。ここから、田中の「親分力」が全開したのである。「7人衆はここから車で、中央高速に入って伊那谷に向かったのだが、実は、この高速道の開通は3日後だった。未通の高速を走るとはケシカラン話だが、日本道路公団は『視察のため』ということで許可してしまったということです。建設省は田中派の“王国”、ましてや田中の意向とあれば、公団にOKを言わすのは朝飯前だったようだ。御大以下、田中派の歴々を集めての葬儀に、中島前議員は感激に震えていました」(地元記者)。その後、中島は復活を果たし、田中派の中堅として活躍の場を得た。

 葬儀への対応は、人の琴線に最も響くものである。部下の近親者の葬祭行事には、上司は一肌脱ぐぐらいの気持ちで接してやりたいものだ。親身な「親分力」に、以後の部下の見方は変わってくるはずである。


【大手会社の社長の妹の葬儀に見せた気配り】
 大手会社の社長が妹を亡くしたとき、田中は誰よりも早く花輪を届け、花が枯れたら故人もかわいそうだということで毎日花を取り替えさせて、関係者を感動させ涙させた。

【衆参両院の事務局の職員に対する気配り】
 2019.5.10日夕刊フジ配信「そんなことをした首相は一人もいなかった 些細な中で生まれる人の“信望” 角栄流上司の心得」。
 【部下がついてくる!「角栄流」上司の心得】究極の人心収攬術(7)

 「信望」という言葉がある。信用と人望を意味し、大それた出来事の中で生まれることもあるが、むしろ些細(ささい)な日常の振る舞いの中で生まれる方が多いのである。田中角栄は首相在任中の衆参本会議場で、次のようなエピソードを残している。

 衆参の本会議場を見学、あるいはテレビなどで見た人はお分かりかと思うが、議員席から見て議長席のやや下、左右に大臣席が並んでいる。左側の一番右端が、首相の“定席”である。一方、大臣席の後ろ一列に座っている人たちを知る人は少ないと思われる。衆参両院の事務局の職員である。衆参とも、向かって左の大臣席の後ろには事務次長ほか各部長、右の大臣席の後ろは議事録の職員と決められている。さて、本会議が始まると、議場横の出入り口から、首相以下、各大臣が入ってくる。首相は席に着くために、事務局職員の席の前を通ることになる。田中派担当記者が、こんな話をしてくれたことを思い出すのである。「田中首相は事務局職員の前を通るとき、例の右手を挙げ、必ず、『ご苦労さん』と声をかけていた。事務局のベテラン職員に聞いても、それまでに、そんなことをした首相は一人もいなかった。会釈すらなかったそうです」、「このため、事務局職員は歴代首相を『○○先生』と姓で呼んでいたが、田中首相だけは『角栄先生』と名前で呼ぶ者が少なくなかった。親しみと敬意からだった。その後、この話を耳にして、中曽根康弘首相がマネをした。もっとも、『ご苦労さん』はなく、会釈だけだったらしい」。

 衆参両院の事務局職員は、法案が本会議での議題になるまで、議員たちの大変な“陰の力”になっている。法案が衆参両院に提出されると、次に委員会に付託され、審議、議決があって初めて本会議の議題となる。職員たちはすべてに不備はないかと、1本の法案に神経の休まるところがないのである。その苦労ぶりを、議員立法33本という離れ業をやってきた田中は、苦労人だっただけに身に染みて分かっていたということだった。事務局職員たちへの、こうした田中の心配りは、「信望」として多くの議員間にも伝わった。これが、首相退陣後“混迷”した田中派の、長らくの結束の大きな要因となっていたのだった。人の「信望」は、些細なことの中で生まれることを心すべきということである。=敬称略(政治評論家・小林吉弥)

 2020.11.12日、(聞き手は前野雅弥)「人との縁つなぐ田中角栄の凄み 元秘書官小長氏の証言」。
 田中角栄の通産大臣、首相時代(1971〜74年)に秘書官を務めたことで知られる通産官僚、小長啓一氏。「官僚とはパブリック・サーバント(国への奉仕者)」を自負、角栄氏とともに過ごした小長さんの半生をまとめた『小長啓一の「フロンティアに挑戦」』(村田博文著、財界研究所)が刊行された。角栄氏とのふれ合いを通して送ろうとしたメッセージは何だったのか。小長氏に聞いた。
 亡くなった後もつなぎ続けた縁
 ――著書では角栄さんの意外なリーダー像を浮き彫りにされていますね。
 「一般的に田中さんは『コンピューター付きブルドーザー』と言われ、強引に物事を進めるイメージがあるかもしれません。確かに強力なリーダーシップを持った政治家であったことは事実です。しかし、田中さんの本当の凄(すご)みは人との縁をつないでいく力です。この力こそ田中さんのリーダーシップ力の源泉であることを、この著書を読んでいただいたみなさんに知っていただければと思います」。
 「田中さんはいったんつないだ縁をとても大切にしつなぎ続けていく。その人が亡くなった後もです。田中さんが通産大臣だった時、こんなことがありました。ある朝、田中さんが秘書官の私にこう言うのです。『おい、小長君、今日は誰かの葬式がなかったかね』。驚きました。確かにお葬式があったのです。しかし、この日は産業構造審議会という重要な会議の日でした。それに出席してもらうスケジュールを組んでいたのです。そう説明すると田中さんは静かにこう話してくれました『これが結婚式なら君の判断は正しい。日を改めて祝意を伝えればいい。だが葬式は別だ。2度目はない』。縁を大事にする人でした」。
 誠心誠意、人と付き合う
 ――田中さんは学閥も閨(けい)閥もない。どうやって縁を結んでいかれたのでしょうか。話術やお金の力という人もいますが。
 「誠実さです。田中さんは誠心誠意、人と付き合う。そこが素晴らしい人でした。今は情報技術(IT)全盛期、オフィスで隣の人とコミュニケーションをとる場合もメールを使う時代です。もちろんITを活用することはいいですが『ここぞ』という時はバッと裃(かみしも)を脱いで裸になって相手と向き合う、その真剣さと真摯さが相手を動かすのです」。
 「大蔵大臣に就任した際の『私は高等小学校卒。諸君は全国から集まった秀才』の演説はまさにその典型例でしょう。胸襟を開いて『大臣室の扉はいつでも開けておくから我と思わんものは誰でも訪ねてきてくれ。上司の許可はいらん』と言われれば心が動かない人はいないでしょう」。
 ――小長さんと田中さんの縁も不思議ですね。
 「後で聞かされた話ですが、1971年7月、佐藤栄作内閣の改造が決まった時、ある取り決めが通産省幹部の間でなされたそうです。それはこうです。『それまで通産大臣だった宮沢喜一さんが変わり、若い大臣が来た場合は、秘書官も現在の昭和32年(1957年)より若返らせ昭和35年(1960年)から出す。その逆なら秘書官もベテランをあて昭和28年(1953年)入省組とする』」。
 「結果的に宮沢さんよりもキャリアの長い田中さんだったので昭和28年入省の私が自動的に秘書官となりました。それまで田中さんと特別な縁があったわけではない。しかし、ここで田中さんと出会った。そのおかげで後の私の人生がブラッシュアップされていくことになります」。
 ――通産省を辞めようかと思ったこともあるとか。もし辞めていれば田中さんとの縁もなかった。
 「大学で日本がなぜ第2次世界大戦に追い込まれていったのか、あの失敗を繰り返さず日本が発展していくにはどうすべきなのか、を徹底的に研究しました。そこで得た結論が貿易立国。これで国を立てていくしかないと確信、通産省に入省しました。ところが配属になったのは特許庁。特許庁は専ら法律行政をやるところで貿易立国の仕事とは縁遠い。学生時代に司法試験に受かっていましたし、そのまま役所に残るかちょっと迷う時期もありました。そんな時、通産省の仲間たちが『僕たちは学生時代、法律しか勉強してこなかった。こんな時だからこそケインズを原書で読んで勉強しよう』とい言いだしました。『やっぱり通産省はいい気風だなあ』と思い直しとどまることにしました」
 一番好きな言葉「努力なくして天才なし」
 ――良い縁をもらい人生を豊かにしていくコツは何でしょうか。
 「努力だと思います。田中さんが一番好きな言葉は『努力なくして天才なし』でした。田中さんは33本の議員立法をつくった人ですが、作ろうとする法律が関係しそうな条文を六法全書からとりだして、おなかのなかにのみ込んだんじゃないかというくらい徹底的に勉強していました。そんな田中さんの姿勢に若手官僚たちもひきつけられました。徹底的に議論をして一緒になって法案をつくっていくうちに田中さんと根っこから同志的な関係になっていきました。だから、通産大臣だった田中さんが『日本列島改造論』を書いた時にもオール霞が関で応援し最新のデータを出してくれたのです」





(私論.私見)