田中角栄の政治姿勢

 (最新見直し2010.11.19日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 田中角栄の評価は毀誉褒貶である。評価するものにとっては「霊能的万能者」であり、批判する者にとっては「諸悪の元凶」である。このどちらの言い分に信があるのだろうか。

 れんだいこは角栄政治を次のように評したい。
 「戦後の大衆的政治家として首相の座にまで上り詰め、辣腕を振るった角栄の軌跡は、戦後日本の良質面を表象しているのではなかろうか。日本政治史上恐らくもう二度と現れることが無い最初にして最後の有能者ではなかったか。あまたの自称インテリが悪し様に罵るその姿こそ日本政治の後進性を代弁しており、この連中には漬ける薬がない」。 

 角栄の政治姿勢を一言で述べることは難しいが、敢えて言えばこうなる。
 「越後新潟に限らず『豊かでありたい』と願う考え方は、この国における戦後暫くの最大のイデオロギー(思想)であった」(小林吉弥「角栄一代」)し、「時代の良くも悪しくも両面に抜きん出た見事な体現者ではなかったか」。

 角栄こそは、M・ウェーバー云うところの政治家としての資質「政治から収入を得る必要がない」、「政治のためだけに生きる実践家」像に限りなく近いのではないのか。新野哲也氏は、「角栄なら日本をどう変えるか」の中で次のように述べている。
 「日本の金融機関と大企業の半分を乗っ取り、日本経済をウォール街の論理に切り替えるのがアメリカの最終目標だが、国益の為に邁進した角栄を悪玉に仕立て上げた現在の日本の支配階級は、その策動を撥ね付ける意地も気力も持ち合わせていないどころか、角栄とは全く逆の方向―国益を投げ出して保身と権力欲に汲々とするばかりで国益のことは端から頭にない」。

 「官に対する政の相対的な優位政治を主導し、その結果有能官僚の取り込みとそれによるリアクションが発生した」。これも角栄ならでは生起した現象であった。

 2005.5.22日再編集 れんだいこ拝



【れんだいこの角栄政治論その1、角栄の政治風景】
 角栄の政治的姿勢を三つの観点からベクトル化させることが可能である。一つは、角栄は越後新潟に生まれ育った。越後の雪国性、恒常的な出稼ぎは、太平洋側と日本海側の格差を語る。この裏日本に政策的な光を当てようとする【1・格差是正ベクトル】である。もう一つは、角栄が戦後の引き揚げ時に東京の廃墟に佇んだとき、国土の復興を地から強く意思させた。若くして実業家として頭角を著していた角栄は、その事業手法で持って今度は国を相手に改造計画を立てることになった。この土建手法による日本列島全域的な【2・国土復興ベクトル】である。付加すれば、復興後の姿として【均衡ある国土の発展ベクトル】的観点を持っていた。もう一つは、中小企業の育成に主眼を置いた【3・経済再建、民力向上ベクトル】である。

 この【1・格差是正ベクトル】、【2・国土復興ベクトル】、【均衡ある国土の発展ベクトル】、【3・経済再建、民力向上ベクトル】こそ角栄政治の原点であった。これらの政策は至極真っ当なものであり、左派的にはこれを批判するような政治論は有り得てならない。ということは、角栄の政治的姿勢は基本的に支持されるべきものだということになる。角栄を悪し様に批判してそれをすればするほど天にも昇る勢いで得意がるサヨ人士は、ここを弁論してみよ。

 敗戦期の角栄は20代後半の青春真っ盛りであったが、下積みの兵役体験を持つと同時に一代で事業の成功経験を持つ稀有な人士であった。その角栄はいち早く、戦後憲法の本質を嗅ぎ取った。憲法に規定されたアメリカン風民主主義制度によれば、「土建屋でも国会議員になれる、国会議員になれば立法権が行使できる世の中になった」こと、学閥・門閥・閨閥を持たぬ者でも成り上がって行けるドリームの可能性があることをキャッチした。これをその通りに実践することで「時代の子」となった。それは同時に、戦前の「負の時代の政治批判」をバネにしていた。
(私論.私見)
 この面は隠されており、故にれんだいこも推定する以外にない。

【れんだいこの角栄政治論その2、普通選挙選出代議士】

 角栄の議員活動はこの基盤の上に花開いていくことになった。代議員選出の普通選挙制度の仕組みは、個々の有権者の力は弱くても、層としての有権者となるとこれは大いなる権力であった。角栄はこのことを的確に見抜き、当然の如く有権者の関心に応えることから議員活動を出発させた。これは他に何ら権力を持たなかった角栄ならではに見えた虚心坦懐な絵図面ではなかったか。

(私論.私見)
 角栄は選挙に強かった。このことの政治史的意味が見過ごされがちで有るが、普通選挙制度下の代議員政治家の要素として重要なことではなかろうか。角栄は、自らの選挙区のみならずあらゆる選挙区事情に精通していた。このことは誉れであっても批判されることではなかろう。この面での考察は、「議会政治家の申し子としての角栄」の項に記した。

【れんだいこの角栄政治論その3、金権利権政治家】
 金権政治というのは角栄が始めたものではなかろう。明治の文人の斎藤緑雨は既に次のように記している。
 「代議士は最もよく民意を代表する者なり、衆人は曰く金が欲しい、故に代議士は曰く、金が欲しい、理の当然ならずや」。

 角栄にとって金権力はどのような意味を持っていたのかは別に考察するとして、角栄の金権政治批判する者は我が身の清廉潔白を証しつつそれを為さねばなるまい。自身が金権にまみれていたり望んでまみれようとしている者が、自身の腹立ちを角栄に向けて放つのはいただけれない。斎藤緑雨の明快な指摘の方が面白みがあってはるかに上等だろう。


 こうした角栄の確固とした政治姿勢による議員活動は、新潟県に多くの補助金をもたらす事になった。常に全国5位から4位に位置する国庫金を引き出すことに成功した。これをもっては補助金政治と云われている。主に土木事業に費やされたことから土建政治家とも云われている。
(私論.私見)
 普通に読み取れば、角栄政治が選出母体地元への恩返し政治であり、その際経済中心の実利主義にあったということである。「経済中心の実利主義による地元への恩返し政治」は果して批判されることであろうか。これを逆に問えば、地元無視の中央スター政治がそれほど評価されることだろうか、ということになる。れんだいこの結論は記すまでも無い。

【れんだいこの角栄政治論その4、暴力団との直接的盟約関係不存在】
 角栄と広域暴力団との直接的関係は認められない。
(私論.私見)
 そういう意味でも評価に値しよう。この面での角栄論は全く為されていないが、稀有事例のように思われる。ちなみに、岸、中曽根、小泉を見よ。戦後タカ派と云われる連中は広域暴力団との親交が認められ過ぎている。

【れんだいこの角栄政治論その5、党人政治家】

 経歴と風貌から「元帥」と呼ばれていた佐藤派の長老木村武雄の弁は次の通り。

 「日本は、官僚に任せておったら駄目だ。従って、これからは、福田じゃ、駄目だね。真の政党政治実現のためには、田中のような元気のいいのじゃないと駄目だ。官僚がなぜ悪いか。自分の保身ばかり考えているだろう。根っからの政党人でない者に、本当の政治ができるわけがないよ」。
(私論.私見)
 れんだいこも実にそう思う。

【れんだいこの角栄政治論その6、実質社会主義

 角栄の万事実質主義思考は次の言葉によく現れている。1982年「早稲田大学某サークルに呼ばれた折の講演内容が語り継がれている。

 「子供が十人おるから羊かんを均等に切る。そんな社会主義や共産主義みたいなバカなことは云わん。君、自由主義は別なんだよ。羊かんをチョンチョンと切ってね、一番ちっちやい奴にね、一番でっかい羊かんをやる。そこが違う。分配のやり方が違うんだ。大きな奴には、『少しぐらい我慢しろ』といえるけどね。生まれて3、4才のはおさまらんよ。そうでしょう。それが自由経済云々」(新野哲也「誰が角栄を殺したのか」145P)。
(私論.私見)
 れんだいこがこれにコメントする。角栄はここで、機械的均等分配式社会主義、共産主義を批判しているが、社会主義、共産主義が機械的均等分配式を予定しているように説く左派モンが居るとすればそれはニセモノで、本来は角栄の「それが自由経済云々」の方こそ正統の社会主義、共産主義論である。ということは、角栄こそ社会主義、共産主義論をぶっており、世上の社会主義、共産主義屋の方がいかがわしい社会主義、共産主義論を言説しているという滑稽なことになる。

【れんだいこの角栄政治論その7、実質民主主義】

 角栄は、民主主義、民主政治の重要性について次のように述べている。

 「民主政治というものは、一つ一つの政策が、どんなに立派でも、国民の理解と支持が無ければ、政策効果はあがらない。これが民主政治の基本だ。これからのリーダーは、党のリーダーであるだけでなく、国民的リーダーでなければならない。だから党内において、公選で当選することはもちろんだが、同時に国民投票でも勝ち得る人が望ましい。その為には、まずバックボーンが必要であり、保守党の理念と政策を国民にアピールしていける能力がいる。もう一つは、スピーディーに会議をマネジメントできる能力も必要だとは思う。昔のように、人に任せておけば、お役目が勤まるという単純な情勢ではない。世は超音速ジェット機(SST)の時代−だからSSTの操縦はできなくても、せめてSSTの構造を理解する能力は欲しい。音速の何倍ものスピードで飛ぶ編隊飛行の指揮が取れ、指示が出せるような能力がないと、国民の利益と安全を保障することができない」(現代政治研究会「田中角栄 その栄光と挫折」)。
 「民主政治は、政策の一つ一つが立派でも、国民の支持がなければなりません。私は党員の皆様とともに、国民の支持を求めて前進するつもりで有ります」(角栄の新総裁挨拶の一節)

 2002.5.18日付読書録214小室直樹『痛快!憲法学』(集英社インターナショナル、2001年)」に次のような興味深い内容が記されているので転載しておく。
 小室直樹著「痛快!憲法学」の【第12章 角栄死して、憲法も死んだ】

 大正デモクラシーまではうまくいっていた日本のデモクラシーは、国民、議会、マスコミが軍を支持することにより死んだ。デモクラシーを殺したのは結局デモクラシーだったのである。戦後、憲法が死んだのは田中角栄が死んだからである。第一に、田中角栄は議員立法を数多く手がけたデモクラシーの権化だった。第二に、ロッキード裁判では、刑事免責が行われ、反対尋問が無視されるという憲法・刑事訴訟法違反が相次いだ。
 評者コメント

 小室直樹は、田中角栄こそデモクラシーの権化であり、彼が死んだ時点で日本の憲法は死んだと述べる。しかし、戦後、デモクラシーが生きていたのは田中角栄が生きていたからだというのは誇張が過ぎよう。ましてや田中角栄は、現在の金権政治を作り出すもととなったような人である。 どうも小室直樹は、難しいことを分かりやすく説明するのはうまいのだが、自説は眉唾が多いような気がする。
(私論.私見)
 相反する両者の見解はどちらに軍配を挙げるべきだろうか。れんだいこは、小室氏の観点を採りたい。評者のそれは、小室氏の観点を理解し損ねていよう。「田中角栄は、現在の金権政治を作り出すもととなったような人である」という見立ては、「諸悪の元凶角栄説」ともみなせるものだが陳腐すぎよう。

 小室氏は、金権政治の要因を角栄に求めない。むしろ、民主主義という政治理念、制度、機構の中に不可避的に織り交ざっているものであるとして、民主主義は歴史的に歩一歩獲得されたものであり、いいとこばかりではないが相対的に有り難いものである、と述べているのではなかろうか。従って、いいとこ取りは無く、金権政治という負をも抱え込む民主主義の秀逸性を相対的に認めるべきであると受け取るべきであるということになる。そういう指摘をするところに小室氏の所論が精彩を放っている所以が有るのではないのか。

 小室説によれば、角栄の金権は、民主主義の政治理念、制度、機構からもたらされているものであり、角栄はむしろそれを合法則的合理的に駆使した結果として金権政治に至っているのだという目線を持つべきだということになろう。そういう意味で、評者の「中角栄は、現在の金権政治を作り出すもととなったような人である」なる批判は、小室氏の所論を読みはすれども何も学んでいないに等しい。

【れんだいこの角栄政治論その8、権力志向】

 透徹したリアリズムの世界に棲む角栄は、力を欲し、権力を目指した。「田中型政治を数による支配とよく言ったね。これは天に唾する言葉だ。多数を握らずに何ができるのか。その批判は論評に値しない」、「角栄がね、多数派を握る為に駆使した手法はカネとポスト。この二つを強力な媒介にしてね、自民党の人心、これを集めることにあった」(早坂茂三秘書)とある通りである。「敵と味方の峻別と懐柔」、自派閥強化に向けて清濁合せ呑んでいった。この対極に政治権力を悪と考える自由主義者、あるいは又クリーン政治家(三木武夫・市川房枝・青島幸男)が位置し、その他権益的権力の裡に生息する者、只の利権にぶら下がる者、角栄を目指しつつ凡そ器量の至らない者等々が蠢くことになった。

 「おれから仕掛けたけんかはない。天に唾したことは一度もない。これが口癖でした」(佐藤昭子)とある角栄であるが、国内の喧嘩では常に勝ちつづけてきた角栄であったが、思わぬところから刺客がやってきた。その詳細は「ロッキード事件」考による。

 こうした角栄の政治姿勢に対して、小室直樹氏は次のように評している。

 「角栄こそ、唯一の立憲政治家、唯一のデモクラシー政治家だ。為政者の使命は、議会をフルに機能させ、活発な議論により立法を行い、官僚を自在に操縦することにある」と高く評価している。しかし、こうした真実の角栄像に迫ることなく、第四権力たるマスコミの音頭は、角栄政治を「ただの金権政治、その元凶として葬ってしまった」。
(私論.私見)
 政治に於ける権力志向の反対は、万年野党であろう。その万年野党組が正義面して角栄批判に興じるのもええ加減にせねばなるまい。

【れんだいこの角栄政治論その9、弁証法思考】

 ここに角栄の政治姿勢を物語る好例の遣り取りがある。1969(昭和44).5月の毎日新聞社主催の国会方式安保討論。自民党・田中角栄、社会党・江田三郎、石橋政嗣、民社党・佐々木良作、曽弥益、公明党・矢野じゅん也、黒柳明、共産党・宮本顕治(宮顕)、不破哲三らの論客が参加した。この時、「角栄の弁証法的思考と宮顕の硬直思考との遣り取り」の典型例が残されている。

 宮顕が、戦前の対中国戦争、第二次世界大戦に対する評価の問題を持ち出し、戦前の政府も戦後の保守政権も、同じ政治、資本主義体制の延長線上にあるのではないかと戦後自民党政治の同質性の非をまくしていたところ、角栄は途中から遮り次のように切り返している。

 「当時は、自ら国際紛争をいつも巻き起こしたんですから、これは行き過ぎであったことは、もういうを待たない。しかし、そういう戦前の日本の政治体制と、戦後の自由民主党とは全く関係の無いものだ。それは我々は、戦後新しい憲法の下で選挙で出てきたんですし、しかも直接選挙でやったんですね。大命降下でもってやっている訳ではないし、そんなことまで一緒にするなんて話にならん」。

 宮顕はこれに喰いついて、占領下の国会で共産党の河上貫一が安保条約反対の演説をして除名されたことを取り上げ、そこに反共主義が存在するのではないか、と反論した。角栄は次のように再反論している。

 「戦後の日本は、やはり世界でもって最高の部類の民主主義を実践しておる国だと誇ってもいいと思います。それは民主主義の発展の過程において四分の一世紀の短い間にかかる民主政治を完成してきたんだから、その過程における一コマのことである。あなたの見方もあるが、私の方から言うと、少なくとも院議が決定したものでもって、議会民主主義を守る以上は、国会議員として院議が決まったなら、その院議に従うことが正しかったんじやないですか」。

 宮顕は「それは形式論で、問題の中身のことを言っているんですよ」と笑いながら言った。角栄は次のように答えている。

 「そのときのことから言うと、それはまぁ、その当時は占領軍の治下にあって、いろんな問題があったでしょう。憲法に優先する占領軍の権限が存在したあの当時から、だんだんと今日のような『日本人が日本人のために行う政治』という民主政治の形態までやっと育ってきたんですから。15年も前のことを言っている」。
(私論.私見)
 この遣り取りは興味深い。れんだいこに云わせると、宮顕の方が硬直図式系公式主義的ご都合論を振り回している。戦後型保守本流の雄として台頭してきた角栄の方が弁証法的歴史観を披瀝しており、何とも対照的な差が顕著に見える。驚くことにと云うべきか、角栄の方が弁証法的思考をしているということである。れんだいこには、角栄の方がマルクス主義者としての資質ありと見る。滑稽な話ではなかろうか。

 角栄のハト派的側面は、「戦後憲法体制と角栄、そのハト派的意義考」に記した。





(私論.私見)