田中角栄の左派資質と傾向考 |
更新日/2016.11.19日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「田中角栄の左派資質と傾向考」をものしておく。 2005.12.15日 れんだいこ拝 |
【角栄は変成左派である】 |
れんだいこは、角栄に左派的資質を見る。角栄政治に左派性を観る。多くの評者はそうは見ないのだろう。自民党の単なる金権政治家として評しているように見える。特に、日共は異常なほどに角栄叩きに興じてきた。仮に日共が左派であるなら、その左派が叩く角栄が左派である訳がないということになる。しかし、眉唾せねばならない。逆に、れんだいこのように角栄を本質左派と見立てれば、その角栄を叩く日共は左派ではないということになる。どちらの見解が正しいのだろうか。世には、「どっちもどっち」で済ませられる場合と、白黒つけねばならない場合の二通りの決着のつけ方がある。「角栄の左派性、日共の左派性、どちらが真なりや」問題は白黒つけねばならない場合の論題である。 れんだいこは、角栄を変成左派と見立てている。その角栄が首相権力を握った。角栄が首相時代、多事多難であったが内政外交とも相当なる成果を上げた。角栄こそ戦後日本が生んだ最大の有能政治家であった。その角栄にあらん限りの罵倒で臨み、政界引退を迫り、角栄政治が目指した諸事業を機能停止させるよう論調していった日共こそエセ左派性を丸出ししていると考えている。このように問う者は少ない。しかし、この観点の方がより真実性を帯びていると思っている。 思えば政治とは不思議なものである。エセ左派の宮顕ー不破系日共は「左」の格好で現われ、「右」へ誘導する。本質左派の角栄ー大平連合は「右」の格好で現われ、「左」へ誘導する。政治には時にこうした如くな「本質と表見の乖離現象」が見られる。愛国・愛民族も然りである。エセ右派の売国奴エージェントが決まって愛国・愛民族を口先にする。本質愛国・愛民族派は軽々にはこれを口にしない。これが世の実相である。そういう意味で、我々は賢くならねばならない。賢くないと口先に騙され、こと志と違った役割を果たすように仕向けられ、これを真に受けて事を為すと、後で臍(ほぞ)を噛むことになる。そういう実例が五万とある。 2005.12.15日 れんだいこ拝 |
【角栄の左派資質について】 | れんだいこ | 2004/03/037 | ||
れんだいこの「共産主義者の宣言」考はいろんなところに飛び火する。ここでは角栄論に向かった。角栄の左派資質は全く隠された部分であり、本人の口から云われた事は一度もない。敗戦の焦土と化した東京に佇んだ時に去来させた「世のために何かをしなければならない」が伝えられているばかりである。 れんだいこは、角栄の軌跡を通覧するとき、「角栄こそ権力掌握に至った土着系左派人士ではなかったか。戦後左派革命はかなり屈折した形であれかような形で結実した。そういう意味で、戦後日本の60-70年代を主導した角栄-大平連合はひょっとして独特の在地型社会主義運動ではなかったか」という思いを禁じえない。この観点から角栄論が考察されることはないが、興味深いテーマである。 角栄の左派資質は何より、戦後に於ける国会議員選挙への登場に於いて民主党から出馬していることも注目されるべきである。その頃の新潟は、東北諸県と同じく生活貧困、農民一揆、小作争議、娘の身売り、出稼ぎ、自殺者数、洪水、地すべり、山崩れ等々の自然災害でも秀でていた。そういう劣悪な社会環境下に在ったことにより、戦後、社会党系の日農が幅を利かせていた。 但し、社会党系のそれは批判を主としており、政権を担って国政を預かり正面から事態を打開していく気概に欠けていた。角栄は、その飽き足りなさを吸収し、推され、登場していったという経緯がある。議員に当選するや、新潟県民の悲願に応えるべく、土地のインフラ整備に全力投球し、生活レベルの向上に獅子奮迅の活躍をしていった。それは新潟のみならず裏日本全体、国政全般に及び、内治優先政治家としての業績を積み重ねていった。新潟3区の住民の角栄に対する揺るぎない信頼はここに発していると思われる。 角栄の左派シンパシー性を例証する逸話は数々残されている。角栄の次の言葉もその一つである。1970年の安保闘争の頃、フランスのル・モンドの極東総局長だったロベール・ギラン記者が幹事長室の角栄を訪ねて聞いた。全学連の学生達が党本部前の街路を埋めてジグザグデモを繰り広げていた。「あの学生達を同思うか」。この問いに、角栄は次のように答えている。
早坂秘書は、著書「オヤジの知恵」の中で上述のように記し、次のように結んでいる。
この逸話は、日共の「トロツキスト批判、暴力学生批判」の観点と比較する時に鮮やかな対比となっている。角栄には、いわゆる全共闘運動に対して温かい眼差しがあった。日共のそれは憎悪的なものである。この食い違いは奈辺(どのあたり)から生み出されているのだろうか。漏れ伝わる毛沢東会談に於ける和やかさも注目される。毛沢東が日中共産党会談時の宮顕ー不破に見せた冷淡さと鮮やかな対比となっている。ロッキード事件に於ける新左翼系弁護士への依頼も興味深い。他にもまだまだあるが、これらの事例は何を物語っているのだろうか。 という訳で、これはれんだいこの独壇的な個人的感慨であるが、そういう本質を持つ角栄評価は左翼人士の判別リトマス試験紙であると思っている。実際に、論者の舌をこの試験紙で湿らせて見ればよい。忽ちのうちに表見左翼と真性左翼の違いを浮き彫りにするだろう。 自民党タカ派系と日共系の御仁の否定的青色反応が出てくる。そういう意味で、この両者が地下ルートで通じている可能性を詮索してみる必要があろう。れんだいこに興味深いのは日共系の方である。彼らの反角栄観が如何なる経緯で洗脳的刷り込みが形成され完遂されているのか、これを調べることも一興である。 他にも云いたい事がある。そも、マルクス主義のどこまでマルクス主義か真偽不明のまま知識だけを肥大化させたスコラマルクス主義は、本来のマルクス主義と最も遠い地平にあるにも関わらず、エリート主義的な棲み分け格式化が左翼世界を覆っている。その対極に位置していたのが角栄ではなかったか。そういう意味で、彼らから見れば角栄はまぶしくジェラシーな存在であった。それ故にかどうか、マルクス主義スコラ派は角栄叩きに興じ鬱憤を晴らした。 角栄は戦後の保守本流から蓮の花を咲かせた。その土壌を見る限り角栄を左翼人士とみなすことには異論があろう。だがしかし、彼の出自と政策は明らかに大衆路線を志向しており、戦後民主主義の名実ともの実践者であった。そしてその戦後民主主義は、れんだいこの観るところ「プレ社会主義」であった。その台座で活躍した角栄の能力は国際的にも通用した。空理空論を拝し、政策の現実化、物質化に向かった氏の奇跡は、手本になりこそすれその逆ではない。 2004.3.3日現在気づいたことは何と!、角栄は、1848年マルクス・エンゲルスの共著「共産主義者の宣言」において指針された「革命の青写真10政策」の力強い推進者であったということである。角栄のマニュフェスト「日本列島改造論」は、奇しくもこの「革命の青写真10政策」の当代版である。興味深いことは次のことである。経済が分かり政治が分かる角栄の脳裏に発想された政策が、意図せざるとも結果的に「革命の青写真10政策」に近似したものになってしまった。そしてこの政策に基づくとき、社会は史上未曾有の活況を呈し、経済的発展をもたらした。その後の日本は、この時の諸政策の余得で生き延びているようにさえ見ることができる。 もう一つの気づきも添えておく。ロシア10月革命の偉大な指導者レーニンの晩年のネップ政策は、後継者スターリンの国有化政策により日の目を見ることなく放擲された。こうしてロシア10月革命が真に目指すべきだった市場性社会主義の可能性が閉ざされた。第二次世界大戦後の社会主義圏はなべてスターリン流国有化論を社会主義の道として受け入れ政策導入して行った。その結果、見るも無残な失政となり社会的停滞を招いた。 ところが、ただ一国、市場性社会主義の理想を掲げた国がある。戦後日本がそれである。戦後日本は、正確には市場性資本主義を体制基盤にしており、これを市場性社会主義と云うには無理がある。ならば次のように訂正しよう。市場性資本主義を市場性社会主義に転化させる基盤整備に向う営為が実践されていった国家であったと。この論証は別サイトでするとして、ここで確認すべきことは、その牽引車が池田ー角栄ー大平ー鈴木の戦後保守本流を形成したハト派ラインの政治であったのではないかと推定することである。レーニン的ネップ政策は、戦後日本に見事に花開き、奇跡の復興と成長を実現した。つまり、レーニン的ネップ政策の有効性が証左されたということになる。 この現象につき、世の識者がれんだいこ的に見ようとしないのは滑稽である。他方、その後の日本政治史上、中曽根-小泉一派が反角栄政策に狂奔している姿にはおぞましいものがある。経済が分からない、政治が分からない売国エージェント人士をトップに据えつけるとかような事態となる。マスコミはこの変人をいつまで寵児し続けるのだろう。 2004.2月の国会質疑で小泉首相は、「あなたの改革は何をしたのか」と問われ、「何をしたのかと聞くほうが間違っている。小泉改革は余計な事は何もしないという改革だ。だってそうでしょう。改革しなくて成長したら、改革意欲がなくなっちゃう。だから、改革の一番の功績は何もしなかったこと」なる珍答弁をしているとのことだ。この答弁が問題にならない我が政界は既に脳死していよう。 但し、一つ付け加えねばならない。保守の基盤から土着型左派革命を志向した角栄のロマンは、やはり体制権力の厚い壁に阻まれ、葬り去られた。政界実力者にも葬り去られる者とのさばり続けることが出来る者がいる。その差は奈辺にありや。例えば、角栄同年の中曽根を見よ。彼は何故に権力を保持し続けることができるのか。彼が有能であるからなどという評論を為す者とは百年かかっても話が通じない。この冷厳な事実こそ体制内化からの革命の困難さを知らしめているのではなかろうか。この過程を捉え直すことを学ぶと云う。学びなき万年外在的批判は単なる稼業でしかなかろう。 2003.7.22日、2005.12.15日再編集 れんだいこ拝 |
【「増田悦佐氏の角栄考」】 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
Re:れんだいこのカンテラ時評その17 | れんだいこ | 2005/02/17 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
【再びれんだいこの角栄論、角栄の左派資質考】
国会が全く機能していない。政治の貧困時代という病んでいる段階を既に通り越し、植物人間ならぬ国会と化し、病床についているのかも知れない。そういう折だからこそ角栄を学ばねばならない。 「角栄の左派資質と傾向について」kakuei/zinnmiyaku_sahakisitu.htmに次の一文を入れた。 |
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Re:れんだいこのカンテラ時評その18 | れんだいこ | 2005/02/19 | |
【再びれんだいこの角栄論、増田悦佐氏の角栄批判を批判する】 れんだいこは、「れんだいこのカンテラ時評その17」で、増田悦佐氏の著書「高度経済成長は復活できる」田中角栄観に付き「論旨が非常に屈折している」と評した。しかし、この観点では云い足りないためもう少し言及する。 増田悦佐(マスダエツサ)のプロフィールは次の通り。「経済人 1950. HSBC証券シニア・アナリスト。建設・不動産分野に強いアナリスト。ニューヨーク州立大助教授を経てアナリストに、一橋大卒」。 れんだいこと同じ年生まれの、角栄を廻ってまったく反対の観点の持主ということになる。れんだいこに云わせれば、その観点は、シオニズム受け狙いのお調子もんでしかない。まっそうだからもてはやされようとしているのだろう。「高度経済成長は復活できる」の発行元は「文春新書」である。ということは、立花二世として育成されつつあるということか。 その内容たるや、「日本経済はどこで間違ってしまったか」→「誰が高度成長経済を殺したのか」→「実行犯は田中角栄」→「「弱者」をふやしたがる「黒幕」たち」→「「弱者」のための利権連合がつくった世界」→「高度成長は復活できる」という論旨展開になっているらしい。 思うに、高度成長経済路線を好評価しつつ、角栄の日本列島改造案思想を真っ向から否定し、高度成長経済路線を殺したのは角栄なりとして、「立花流『諸悪の元凶角栄』史観」をリバイバルさせようとしている。 しかし、それは全く転倒錯綜した史観でしかなかろう。今我々が為すべきは、立花流ないしは日共流に歪められた「諸悪の元凶角栄」史観から抜け出し、「角栄の日本列島改造案思想」を再度学ぶことである。そういう意味で、下手糞ゲテモノ本を読むよりは角栄の「日本列島改造論」そのものを読み直すほうが良い。どっかの社が再販すればよい。必ずベストセラーになるだろう。「政治圧力」無しにそれができるかどうか、それが問題だ。 ところで、同書紹介の「アマゾン・コム」に載っている書評がこれまたひどい。いわゆるヤラセになっている。角栄批判、「朝日新聞をはじめとする進歩的なマスコミ」批判、官僚批判という定食メニューを書き付けている。 そしてしまいにはこうなる。
つまり、日本の現在の過膨張公的債務路線の敷設者が角栄であったと決め付けている。れんだいこは、れんだいこ論文集の「国債論」の中で、そのウソを暴いている。戦後初の国債の発行者は佐藤内閣時の福田蔵相であり、三木が推進し、中曽根が加速させ、以降とめどない垂れ流しのまま今日まで迎えている。 この間いわゆる真性ハト派の角栄、大平、鈴木の三代に限り赤字国債発行体質を止めさせようとして懸命に漕いだ、という史実こそが確認されねばならない。付け足せば、佐藤の前の池田時代は、国債を頑として発行していない。この時、角栄は大蔵大臣の任にあった。 それが史実なのに、なぜ逆さに描くのだろうか。立花然り、この増田然り。角栄を叩くが、角栄が地下で暗闘したタカ派、それもネオ・シオニズムに取り込まれた国際主義派=国債主義派に対しては大甘という構図になっている。それはペテンの類の論法だ。 滑稽なことに、増田史観は、角栄を叩くあまりに角栄=体制内革命推進革命家論を展開しており、こっちの方の見解が好評という皮肉なことになっている。 それにしても、「クラウンプリンス福田赴夫の首相就任を阻止しながら行われた党中党建設、派中派建設は、革共同・革マル派もうらやむ手際の良さだった」と記しているとのことだが、何でここに「革共同・革マル派」が出てくるのだろう。いかにも唐突だ。胡散臭い。 角栄と〃日農〃を指導していた当時の三宅正一社会党代議士との関わり、つまり社会党系急進農民運動との関わりを指摘している。案外知られていないがその通りである。ちなみに、角栄歿後、後援会の「越山会」票がどこに流れたのか追跡調査したところ、何と社会党へ向かっていたとのリサーチが為されている。これについては「角栄の左派資質と傾向について」kakuei/zinnmiyaku_sahakisitu.htmの【「角栄票はどこに流れたのか」追跡調査考】に記した。 田中角栄の秘書であり越山会の統括責任者であった佐藤昭の弁「毛首席には周恩来同志がいましたが、田中には周恩来さんがいなかった」(新潟日報報道部、『宰相田中角栄の真実』、一九九四年、講談社刊)の指摘も興味深い。二階堂がその任にあったが、役不足だった。しかし、二階堂はこれまた良い政治家だった。 これは初耳だが、当時の北朝鮮国家元首・金日成が、「世界中にたったひとりだったかもしれないが、一九七二年という早い時期から田中角栄政権誕生の本質を「革命家」による政権奪取と見抜いていた社会主義国指導者がいた」との指摘は面白い。 増田氏の著書「高度経済成長は復活できる」はこういうところの記述にのみ値打ちがある。思えば、皮肉なことである。しかし、読めば読むほど頭がヤラレルこういういかがわしい観点が次から次へと量産されていることになる。これに抗する逆攻勢をかけねばならぬ。どこの出版社がやってくれるのだろうか。 2005.2.19日 れんだいこ拝 |
【北一輝の「日本国家改造論」との関係考】 |
角栄左派説は次の点からも検討に値する。角栄は若い頃、北一輝の「日本国家改造論」を精読している。この方面の解明は手付かずであるが、角栄の心の深奥に北一輝に対する強い思い入れが合ったことは事実のようである。 |
【「新潟日報」のベテラン記者の証言】 | |
田中の死去から一年ほど経った頃、「田中角栄、ロンググッドバイ」が出た。その中に、新潟3区での田中をよく見てきた地元の「新潟日報」のベテラン記者が、こんな田中の一面を語っている。
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れんだいこのカンテラ時評bP075 投稿者:れんだいこ 投稿日:2012年11月22日 |
角栄とは何者だったのか、「角栄票はどこに流れたのか追跡調査」考 田中角栄とは何者だったのか、どう評するべきかにつき、その左派資質と傾向について注目し言及しているのは、今のところれんだいこの独壇場の感がある。本稿は、これを補足するものである。 付言しておけば、れんだいこは、角栄を左派的に見るのを通り越して、縄文人的叡智の霊能者の一人と見なしている。系譜的には出雲王朝の大国主の命の現代版と位置づけている。早坂秘書はスサノウの命になぞらえていたが半端である。日本古々代史の知識不足のせいで、早坂秘書の真意は大国主の命の系譜であることが云いたかったのではないかと思っている。早坂秘書が、スサノウの命になぞらえる形で縄文人的叡智の霊能者の一人として角栄を見なしていた観点が慧眼であったと思っている。 もとへ。小林吉弥氏が著作「角栄一代」の冒頭で、「『革新政治家』だった角栄」として衝撃的な記事を掲載している。角栄の政界引退後の新潟3区の約18万の角栄票の流れを追っている。その追跡により主として社会党に流れたことを明らかにしている。 角栄は、1985(昭和60)年、竹下らの創政会発足直後、脳梗塞で倒れ入院。言語障害や行動障害が残り、以降政治活動が不可能になった。1989(平成元)年、娘婿の直紀が次期総選挙への田中角栄の不出馬を発表した。迎えた1990(平成2).2.18日の総選挙で、事前の予想に反して社会党の新人・目黒吉之助氏が9万4107票でトップ当選した。自民党前職の渡辺秀央が7万2263票で2位、同じく自民党前職の星野行雄が6万9832票で3位、同じく自民党前職の桜井新6万6860票で4位、同じく自民党前職の村山達雄が6万4468票が5位、社会党前職の坂上富男は次点に泣いた。この結果は、角栄票が自民党よりもより多く社会党シンパシーの者達に支えられていたことを証左していると分析している。 この分析を更に補強してみたい。史実的に見て、角栄は元々旧日農(日本農民組合)系に支えられて誕生した国会議員であり、この線が根強く保持されていた。「角栄票はどこに流れたのか追跡調査」はそのことを判明させたことになる。日農とは左派系の農民運動団体であり、戦後1947年に賀川豊彦や杉山元治郎らの指導者によって結成され、全国各地で起きていた小作争議を指導することで勢力を伸ばしていた。新潟は江戸時代から農民一揆が少なからず起きていた土地柄であったから日農運動が浸透し易い素地があり、新潟三区では戦後初の選挙から社会党系の候補が常時2名ないし3名当選していた。 戦後の普通選挙制を見て代議士を目指すことになった角栄は、最初は進歩党から立候補し落選、次に民主党から立候補し当選したが、その政治理念は「民主政治と経済復興による国家の廃墟からの再建」であり、農地改革後の日農運動の利害ともほぼ一致していた。こういう土壌の一致によってか、戦前からの農民運動の闘士で、何度も警察に逮捕されていた経歴を持っており、当時の地元の日農運動を指導していた社会党の三宅正一代議士に目をかけられ、選挙戦のイロハから教えを受けている。以降、角栄と三宅は互いに心を許し且つ畏敬し合う関係になった。三宅が落選して以降は終生に亘って、三宅の知らぬまま生活の面倒を見ると云う美談を遺している。 角栄の代議士生活が順調に歩を進めるに連れて、やがて日農指導者が各地に越山会を結成し核となっていった。農民運動の闘士たちは、「飯も食えない、子供を大学にも出せないという悲しい状態を解決するのが政治の先決だ」という角栄の発想に共鳴し、越山会のリーダーとなりエンジン役になっていった。日農のリーダー等は、「政治家としての筋は今ひとつ分からぬが仕事はできる」、「オイ、あの田中ってのは若いがなかなか見どころがあるぞ」、「田中は面倒を見てくれる」と角栄を評価し、以降の政治行動を一蓮托生にさせていった経過がある。 その好例が江尻勇・氏の例である。江尻氏は、ニ田村役場に勤めていたが、戦後間もなく戦争事務を執っていたという理由で役場を辞めさせられた。日農系の社会党代議士となっていた三宅正一の応援に回ったが、1951(昭和26)年頃、角栄と話しをする機会があり、「あんたは社会党をどう考えているのか」と詰問したところ、角栄は顔を真っ赤にして、「バカな。社会主義では、これから先は通らない。先の読めるのは保守党だ」。角栄の放つオ―ラに負けたのか、これを機に江尻は社会党から離れ、以降40年に及ぶ歳月を角栄一辺倒に捧げ、地元刈羽町の越山会会長として殉じ、町長になる。平成元年10月の田中引退に合せて、30余年にわたった町長職を辞している。 平石金次郎もその好例である。平石氏は岩塚製菓の創立者であるが、元々熱心な社会主義者であった。戦後の混乱期を社会党の応援に奔走するが、社会党議員は理念は語るが具体策を持とうとせず、そうしたスローガン一辺倒主義の空理空論に失望し、「理屈をこねるより今日喰う飯が先だ」として越山会に入った。後に越路町(現越路市)の町長を務め、目白陳情に足しげく通うことになる。 こういう検証をもっと丹念にしたいが資料が手元にないので、これ以上は分からない。恐らくもっとたくさん出て来ると思っている。衆知のように角栄は自民党の実力者として自己形成し、早くより頭角を現し、要職を経て遂に首相の座を射止める。その間の権力闘争に於いて角栄式の資金調達と分配を余儀なくされたところを評して、政権末期の頃から金権帝王、諸悪の元凶として評され始め、やがてロッキード事件でトラ挟みに遭う。ロッキード社よりの5億円贈収賄容疑を徹底否認し公判闘争に向かうが、その政治活動を大きく殺がれ、最終的に政治能力を封殺されることになったのは衆知の通りである。それは、れんだいこが評せば、国家的に見てあたら惜しい千年に一人の傑物の政治的絞殺劇であった。 本稿を急きょ書きたくなったのは、小沢どんの政治能力と履歴がこれにダブルからである。もとより、小沢どんを角栄と比して角栄ほどには左派的ではないにせよ、大国主の命的超能力の持主とは思えないにせよ、共通して同じような日本原人的叡智の霊能者の風情が見て取れる。東北日高見の国の血筋を引いているのも頼もしい。れんだいこが、小沢氏を、西郷隆盛を除いては被せない小沢どんと評する所以の有能者にして且つ実直さがある。何より現代政治家の中で角栄の薫陶を受けた第一人者であることが頼もしい。それ故の迫害を蒙る訳であるが、一市井人ならいざ知らず政治家なら本望と云うべきだろう。この辺りのことが分からず国を売ってまで立身出世に汲々とする政治家ばかりの今日の方がオカシイと思うだけのことである。 本稿の締めはこうなる。角栄は無論のこと小沢どんをも諸悪の元凶として評することで左派ぶるエセ左派が今も多い。賢明な者は既に耳目を洗って角栄を再評価し、その流れで小沢どんをも高く評価しているが、未だに頑迷な左派もんが多い。手前らが日本政治史上何の有益な貢献ができなかった癖に、壊れたテープレコーダーのように角栄と小沢どんを悪しざまに云うことで左派ぶっている手合いが未だに多い。れんだいこは、こういう手合いに漬ける薬を調合中である。未だ開発できていないが、そのうち世論の流れも変わるだろうと信じている。 もとへ。その小沢どんが身命を賭して最後の大勝負に向かっている。この時、安上がりにして下手なイデオロギーを振りまわして立ち向かうようなことはなさらないで、願わくばオリーブの木に止まってくれるよう祈る。敵は多勢ながらオールニセモノばかりである。ワシントンへのお供えを競争している感がある。これに比すれば小沢どんを代表とする国民生活第一党は少数ながら真の愛国愛民派である。手を貸すとすれば小沢オリーブ以外にはありえまい。 jinsei/ |
【「学生運動上がり」の登用考】 | |
角栄はどうも「学生運動上がり」を重宝にしていた形跡がある。早坂記者の秘書入りのエピソードもこれを物語っている。早坂茂三氏は早稲田大学時代全学連の有能なオルガナイザーの一人であり、卒業後東京タイムズ記者をしていた。昭和38.12.2日、その早坂氏を田中が秘書になってくれないかとスカウトしている。
斎藤隆景(新潟県南魚沼郡六日町で「斎藤記念病院」を経営)もその例である。元「全共闘」闘士で、一転「田中イズム」のとりこになったことから田中角栄の懐に飛び込み、その後、長く目白の田中邸への出入り自由となった。 |
【側近の証言考】 | |
角栄は、大衆の中から出自したことによってか、弱いものを見る眼が優しく、一時的には保守政党のドンではあったが、心情的に容共主義のところがあった。野党との対決ばかりではない政策的なすり合せを得意とした。最も身近に接していた早坂秘書は、「田中角栄は、戦後デモクラシーの大波の中から生まれてきた人民の子だったと思う。申し子です」と云いきっている。国家老と言われた本間幸一も又「田中は革新政治家だった」と証言している。事実、新潟3区における角栄の台頭は、それまでの地元の旦那衆政治を駆逐した。
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【フランスのル・モンド記者の証言】 | |
早坂秘書は、著書「オヤジの知恵」の中で次のように記している。1970の安保闘争の頃、フランスのル・モンドの極東総局長だったロベール・ギラン記者が幹事長室の角栄を訪ねて聞いた。全学連の学生達が党本部前の街路を埋めてジグザグデモを繰り広げていた。ギランが「あの学生達を同思うか」と尋ねたところ、角栄は次のように答えている。。
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【元社会党の委員長・河上丈太郎の葬儀に見せた角栄の礼節】 |
1965(昭和40)年、元社会党の委員長であった河上丈太郎の葬儀の際、わざわざ火葬場まで出向き、師走の雨の中を二時間も立ち尽くして野辺の送り、更に火葬場まで見おくっている。 |
【全逓労組の闘士・宝樹文彦スカウト事情考】 | ||
1957 (昭和32)年、角栄39歳のときの7.5日岸内閣就任5ヵ月後の第一次岸内閣改造で、郵政大臣に就任。戦後最年少の大臣となった。その翌日全職員への大臣訓示の後、全逓労組の委員長・野上元、副委員長・宝樹文彦、書記長・大出俊の三役が押しかけてきた。前夜、全逓の看板を取り外すよう指示した新大臣に抗議するためであった。三人は、「大臣が無断で組合の看板を取り外したのは窃盗だ!」と息巻いたところ、角栄は次のように応酬している。
この角栄節は全逓の闘士の度肝を抜いた。これが全逓との第一回の会談となり、これをきっかけに定期的な会談を持つことになった。角栄が郵政大臣に就任したこの頃は、郵政省と全逓とが悶着の沸点期で全逓の闘争指令が出されている最中であった。歴代の郵政大臣は全逓幹部と正面から話し合うことはせず、逃げ回るだけであった。労使の不正常な関係は日常化していた。 田中郵政大臣と全逓との定期会談が軌道に乗った直後、全逓側は「三役だけでなく、できるだけ多くの組合員と会って欲しい」との要望を受け入れ、事務当局の反対を押し切って、皮切りとして50名の組合員と会談を持った。「鉢巻を取れ、取らないの鉢巻論争」になってしまったが、大臣が全逓組合員と会談に応じたという効果の波及のほうが大きく、以降次第に気心を通わせあい、懸案の仲裁裁定問題や、夏期闘争も円満に解決されていくことになった。秋期闘争や年末闘争も例年よりも早く妥結しスムーズに解決されていくことになった。 当時の全逓副委員長・宝樹文彦は次のように述懐している。
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【軍隊時代の上官細井宗一とのその後の奇縁考】 | |
サイト元は、法政大学教授にして大原社会問題研究所専任研究員・副所長の五十嵐仁・氏の「転成仁語」の「津本陽『異形の将軍−田中角栄の生涯(上・下)』幻冬舎、2002年、を読んで
」。出典は、水野秋・氏の「太田薫とその時代、上、188頁」。 田中角栄の軍隊時代の上官に細井宗がいた。細井は、戦後、国鉄労働者として労働運動のなかで頭角を現し、左派の「革同」のリーダーとなる。その関係もあって、戦後も親交があったといわれている。水野秋・氏の「太田薫とその時代、上、188頁」に次のように記されている。
このエピソードは角栄と戦後国鉄労働運動の指導者との接点を物語っており、ある種の信頼関係が媒介していたことを窺うべきではなかろうか。 |
【困ったときの新左翼系弁護士スカウト事情考】 |
ロッキード裁判の二審から、田中・榎本弁護団には新左翼系とつながりが深い弁護士が複数参加した。一人は石田省三郎で、石田はそれまでも新左翼系の事件の弁護を数多く手がけており、日石ピース缶爆弾テロ事件で、検察側の構図を覆して無罪を勝ち取っている。その石田を角栄は三顧の礼を尽くして弁護団への参加を依頼した。一人は小野正典で、小野はよど号事件や成田空港事件などを手がけてきている。一人は渋谷まり子で、渋谷は女性解放運動に取り組んできていた。一人は倉田哲治で、倉田は免田事件など数々の冤罪事件と取り組んできていた。 石田も倉田も、弁護団に加わるまでは、世論と同じく『悪質な金権政治家』と見なしていたが、実際に知りあってみて、その人となりを高く評価するようになった。 |
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本当に困った時、角栄は何と新左翼系の弁護士の能力に期待した。日共系は角栄政界追放派であるから問題外であった。しかし、新左翼系の弁護士が期待された能力を発揮したようには見えない。これは何を物語るのだろうか。 |
【タカ派の寵児として登場した石原慎太郎に対する冷たい眼差し考】 | |
角栄がいわゆるタカ派に見せる冷淡な眼差しは次のようなものであった。 昭和43年、石原慎太郎は300万票で参院全国区トップ当選で、政界入りした。時に田中が自民党幹事長だった。新調の議員バッジをつけ、初登院した石原は、幹事長室に乗り込み、威勢良く田中にこうブチ上げた。「自民党の広報活動はなっていない」、「自由新報の編集はなっていない」、「自民党本部の職員は削減すべし」。黙って聞いていた田中は、一言次のように言った。
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これを解説すると、石原氏のはぎれの良い物言いは、田中に言わせれば「論」である。「論」はえてして批判する当のものの歴史を無視しがちである。そういう書生論は云うほうは格好良くても現実は一歩一歩の歩みであり、世の中はそのように進んでいる。そのことを角栄流にピシャリと言い当てていたということになる。石原の奇論を一蹴した角栄の凄みがここにある。今は角栄ほどの見識を持つ者が居ないから、石原程度の者が逆に幅を利かせている。 2005.10.15日再編集 れんだいこ拝 |
【角栄の実質社会主義的分別考】 | ||
「田中角栄の思想、人となり」に記したがここでも採り上げる。昭和48年の総理大臣時の全国勤労青少年会館の開館式での角栄の挨拶はこうである。
次のような言葉も残している。
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角栄の勤労哲学ないしは処世哲学が披瀝されているが如何に社会主義的なものであるかが分かろう。こういう真の意味での社会主義的政治家を叩きに叩くことに狂奔したのが宮顕ー不破系日共党中央だった。れんだいこが、宮顕ー不破系日共党中央の放逐ないしは日共に代わる左派政党の立ち上げを喫急要請している理由が分かろう。ここのところが全く理解されないところに目下の日本左派運動の貧困があると云うべきだろう。 2006.12.27日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評629 | れんだいこ | 2009/11/28 |
【「田英夫がもらした『秘話』」考】 2009.11.28日付け毎日新聞の「近聞遠見」の「田英夫がもらした『秘話』」コラムを批評しておく。執筆者の岩見は、毎日新聞東京本社編集局顧問(政治担当)とのことである。最近テレビにもちょくちょく出ているので向うは知らないが、こちらは知っている仲である。岩見はちょくちょく角栄を採り上げるので、角栄教のれんだいことしてはどうしてもアンテナが働き目を通すことになる。もっとも、岩見のそれは難癖調の角栄譚なので、義憤なしには読めないことが多い。 ジャーナリストで角栄を称揚し切ったのは、戸川猪佐武であった。戸川は読売新聞政治部記者上がりの政治評論家で、その後の読売を仕切ることになるナベツネが中曽根シンパであるのに対し角栄シンパとして終始一貫した。不朽の名作、吉田茂から鈴木善幸に至るまでの保守政界の内幕を描いた実録政治小説「小説吉田学校」全八巻をものしている。その戸川は、角栄をはがいじめしたロッキード事件の胡散臭さを厳しく批判して活動していたさなかの1983.3.18日、映画化された「小説吉田学校」の試写会、続く竹下登のパーティなどに参加した直後、翌日未明に急逝した(享年59歳)。死因について腹上死説が流されるなど名誉を汚されている。角栄を擁護した者はこうなるという見せしめの一つであろう。れんだいこは、大いに戸川猪佐武の死因に不審を抱いている。ただ確かめようがない。 その点、これから述べる岩見は対比的で、角栄を採り上げながらくさす手法でジャーナリストとしての遊泳の才を見せている。他方、中曽根、小泉を名宰相として持ち上げ、席を同じくして会食したことを栄誉と思う与太もんぶりを自ら語る俗物性を、そうは思わず得意げに語ることでも知られている。たいこ腹をさすりながら世相の貧困問題、政治の貧相に言及する芸を披瀝し続けている。同じ毎日新聞政治部上がりの三宅久之と双壁のお銚子もんぶりを発揮しているふふふ。 もとへ。その岩見が貴重な裏話を披瀝している。それによると、先日86歳で亡くなった田英夫が、今から30年ばかり前の社民連代表に就任した頃の1971年、佐藤政権末期の田中通産相の大臣室を訪ねたところ、快く迎え入れられ、去り際にさりげなく田のスーツの内ポケットに札束を押し込み、受け取るべきか逡巡している田に「カネはあって邪魔にならんよ」と云われ、そのまま辞去した。札束は100万円だった云々。 さて、これをどう評するべきか。岩見は、「戦後政治のひとコマである貴重な証言の開陳」と自負しつつ、首相の座が間近の保守実力者が現金を渡す行為は、「もしその時点で暴露されていたら、田中は首相のチャンスを失っていただろう」、「戦後60年余の政界は、カネを媒介にした<ぬるま湯>の世界だったことを改めて思わないわけにはいかない。その祭司が田中角栄だった」と批判する。「民主党政権に切り替わっても、残滓(ざんし)があるのではないか」と、金権元凶角栄論で締めくくっている。 この凡庸さが、ジャーナリストとしての長生きの秘訣のように思えてくる。阿呆には阿呆に似合いの受取しかできない見本みたいな評論である。政治家であれ、官僚であれ、ジャーナリストであれ、この種の阿呆が幅を利かせ始めると世の中ろくなものにならない。れんだいこが、この裏話の政治史的意義を書きつけておく。 角栄が、社民連代表に就任したばかりの田代表に100万円の祝儀をプレゼントしたのは、角栄政治の本質としての親社民連性を物語っている。角栄亡きあとの角栄票の行方を調査したところ、かなりの票が社会党に流れていたとの調査がある。そういう目で見れば、代議士始発の頃の角栄の選挙区耕作は、単に旧来の保守票を取り込んだのではなく、社会党系農民を支持者にして行った形跡が認められる。当時の社会党候補者が角栄に惚れ、積極的に越山会の中核になって行った流れがある。 れんだいこは、これを角栄政治のハト派性と評している。この観点から見れば、角栄こそ戦後政治家のうち頭抜けた、保守系偽装の実は縄文系革命家ではなかったかと思われる。盟友大平正芳も出自平農民であり、角栄ともども階層的には左派シンパシーを持ちやすい「階級的存在」であることが分かる。滑稽なことに、共産党、社会党の幹部こそ出自小ブルの「階級的存在」であることが分かる。存在が意識を決定するという法理にならう限り、戦後保守本流のハト派が実は左派、左派政党指導者が単なる駄弁家であったと云う構図が見えてくることになる。 その角栄は、誰に教わったのではない闘争戦略戦術として中間地帯論なるものを会得していた。これはつまり、政治目的を達成するためには、味方を多く敵を少なくせねばならない。その為に中間層を引きつけなければならないとするものであった。次のように述べている。 「第一は、できるだけ敵をへらしていくこと。世の中は、嫉妬とソロバンだ。インテリほどヤキモチが多い。人は自らの損得で動くということだ。第二は、自分に少しでも好意をもった広い中間層を握ること。第三は、人間の機微、人情の機微を知ることだ」。 「山頂をきわめるには、敵を減らすことだ。好意をもってくれる広大な中間地帯をつくることだ」。 概要「世の中は、白と黒ばかりでは無い。敵と味方ばかりでもない。その真ん中にグレーゾーン(中間地帯)があり、これが一番広い。そこを取り込めなくてどうする。天下というものは、このグレーゾーンを味方につけなれば、決して取れない。真理は常に中間にありだ。このことを知ることが大事だ」。 「相手が立ち上がれなくなるまでやっつければ、敵方の遺恨は永遠に去らない。対立関係にあっても、徹底的に論破してしまっては、相手が救われない。土俵際には追い詰めるが、土俵の外に押し出してしまう必要はないんだ」。 「田社民連代表に100万円プレゼント」は、角栄の中間地帯論に基づく親左派性の為せる技であった。こう受け取るのでなければなるまい。岩見如きは、金権角栄の又一つの例証譚として受け取るのであろうが、この程度のジャーナリストをして社の重鎮顧問としている世相を嘆くべきではなかろうか。これは何も毎日新聞社に限ったことではない。朝日も陳腐、読売、産経はシオニスタン極道、最近の日経然りという構図にある。これを如何せんか。 それにしても、角栄の政権取り運動こそ実は戦後左派運動の捩じれた精華であった。故に、日中国交回復交渉時に、毛沢東−周恩来との秘密会談では肝胆相照らした。野坂、宮顕は毛嫌いされていたのに。今にして、その角栄を葬った側の連中を胡散臭い奴ばかりと思う。驚くことに、社会党、共産党のみならず革マル、中核まで打倒角栄にシフトしていた。当時の資料が開示されていないが、開示させればこのことを確認できるであろう。れんだいこが長い間、居所がないというのも分かるではないか。 2009.11.28日 れんだいこ拝 |
【早坂秘書の理想的経営者像論考】 | |
「★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK76」の 明るい憂国の士氏の2010.1.1日付け投稿「御手洗会長、これが亀井大臣が言った『社員にやさしい日本的経営だ!』」を転載しておく。角栄の社会主義論ではなく、角栄秘書の早坂氏のそれであるが、間接的傍証ぐらいにはなるだろう。少なくとも、角栄的社会像との親和性を嗅ぎ取るぐらいは許されるだろう。それにしても良い話だ。
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【毛沢東、周恩来が認めた「同志角栄」考】 |
角栄の左派的資質窺わせる決定版は、中共政権の首脳・毛沢東、周恩来が見せた眼差しであろう。これについては「毛沢東―角栄会談秘話、角栄の悲劇性予見」で考察する。これに補足しておけば、毛沢東の日本共産党指導者の徳球、野坂、宮顕に対する態度が興味深い。これを結論から論ずると、毛沢東の徳球観は同志的である。野坂に対しては相手にしていない。宮顕に対しては毛嫌いしており敵性的である。そして角栄に対して同志的と云う態度を見せている。これを論証するのは又の機会に譲ることにする。 これはどういうことであろうか。れんだいこには何ら解せないものがない。毛沢東から見て、感性的にも政治的にも徳球、角栄は同志であった、野坂、宮顕は異分子であったと云うことである。ところが、日本左派運動内の通説では逆に徳球が罵倒され、野坂、宮顕を名指導者とする論調に立つ。角栄は諸悪の元凶視されている。日中左派戦線で評価が割れていることになるが、これはどういうことだろうか。れんだいこは、毛沢東観点の方が正しく日本左派運動の観点の方が歪んでいると見る。但し、毛沢東を絶対視するつもりはない。れんだいこの毛沢東論は建国前に於いて最も有能であり、建国後において経済指導に失敗し凡庸になったと見立てている。その点で、戦後日本を経済的にも政治的にも名指導する田中角栄に一目も二目も置いていたのではなかろうかと思われる。そういう意味で、毛沢東の人物論は終始概ね正鵠であったと見る。 この観点に立つと、日本左派運動の貧相な見識こそ恥ずべきと云うことになる。宮顕系日共党中央の反徳球論、反角栄論ほど左派運動に有害なものはない。彼らは、共産党中央の座イスから終始反革命を指導し続けていることになる。これが、日本左派運動失速の過半の原因ではなかろうか。日本を真に支配する勢力が日共を上手に操っていると云うことにもなる。通りで政局のここ一番で自民党内タカ派と日共が論調を一致させる筈である。このことが何ら不思議ではなくなる。誰かこの認識を共にせんか。 2010.10.24日 れんだいこ拝 |
(私論.私見)