角栄の左派資質と傾向について

 (最新見直し2006.12.27日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 れんだいこは、角栄に左派的資質を見る。角栄政治に左派性を観る。多くの評者はそうは見ないのだろう。自民党の単なる金権政治家として評しているように見える。特に、日共は異常なほどに角栄叩きに興じてきた。仮に日共が左派であるなら、その左派が叩く角栄が左派である訳がないということになる。しかし、眉唾せねばならない。逆に、れんだいこのように角栄を本質左派と見立てれば、その角栄を叩く日共は左派ではないということになる。どちらの見解が正しいのだろうか。世には、「どっちもどっち」で済ませられる場合と、白黒つけねばならない場合の二通りの決着のつけ方がある。「角栄の左派正、日共の左派性、どちらが真に左派なりや」問題は、白黒つけねばならない場合の論題である。

 れんだいこは、角栄を変成左派と見立てている。その角栄が首相権力を握った。角栄が首相時代、多事多難であったが内政外交とも相当なる成果を上げた。角栄こそ戦後日本が生んだ最大の有能政治家であった。その角栄にあらん限りの罵倒で臨み、政界引退を迫り、角栄政治が目指した諸事業を機能停止させるよう論調していった日共こそエセ左派性を丸出ししていると考えている。このように問う者は少ない。しかし、この観点の方がより真実性を帯びていると思っている。

 思えば不思議なものである。エセ左派の宮顕ー不破系日共は「左」の格好で現われ「右」へと誘導する。本質左派の角栄ー大平連合は「右」の格好で現われ「左」へと誘導する。政治には時にこうした如くな「本質と表見の乖離現象」が見られる。愛国・愛民族も然りである。エセ右派の売国奴エージェントが決まって愛国・愛民族を口先にする。本質愛国・愛民族派は軽々にはこれを口にしない。

 そういう意味で、我々は賢くならねばならない。賢くないと口先に騙され、こと志と違った役割を果たすように仕向けられることになる。

 2005.12.15日 れんだいこ拝


 【角栄の左派資質について】 れんだいこ 2004/03/037
 れんだいこの「共産主義者の宣言」考はいろんなところに飛び火する。ここでは角栄論に向かった。

 
角栄の左派資質は全く隠された部分であり、本人の口から云われた事は一度も無い。敗戦の焦土と化した東京に佇んだ時に去来させた「世のために何かをしなければならない」が伝えられているばかりである。

 れんだいこは、角栄の軌跡を通覧するとき、
角栄こそ権力掌握に至った土着系左派人士ではなかったか。戦後左派革命はかなり屈折した形であれかような形で結実した。そういう意味で、戦後日本の60-70年代を主導した「角栄-大平連合」はひょっとして独特の在地型社会主義運動ではなかったか、という思いを禁じえない。この観点から角栄論が考察されることは無いが、興味深いテーマである。

 角栄の左派シンパシー性を例証する逸話は数々残されている。角栄の次の言葉もその一つである。1970の安保闘争の頃、フランスのル・モンドの極東総局長だったロベール・ギラン記者が幹事長室の角栄を訪ねて聞いた。全学連の学生達が党本部前の街路を埋めてジグザグデモを繰り広げていた。「あの学生達を同思うか」。この問いに、角栄は次のように答えている。
 「日本の将来を背負う若者達だ。経験が浅くて、視野は狭いが、まじめに祖国の先行きを考え、心配している。若者は、あれでいい。マージャンに耽り、女の尻を追い掛け回す連中よりも信頼できる。彼等彼女たちは、間もなく社会に出て働き、結婚して所帯を持ち、人生が一筋縄でいかないことを経験的に知れば、物事を判断する重心が低くなる。私は心配していない」。

  早坂秘書は、著書「オヤジの知恵」の中で上述のように記し、次のように結んでいる。
 「私を指差して話を続けた。『彼も青年時代、連中の旗頭でした。今は私の仕事を手伝ってくれている』。ギランが『ウィ・ムッシュウ』と微笑み、私は仕方なく苦笑した」。

 この逸話は、日共の「トロツキスト批判、暴力学生批判」の観点と比較する時に鮮やかな対比となっている。角栄には、いわゆる全共闘運動に対して温かい眼差しがあった。日共のそれは憎悪的なものである。この食い違いはナヘンから生み出されているのだろう。漏れ伝わる毛沢東会談に於ける和やかさも注目される。毛沢東が日中共産党会談時の宮顕ー不破に見せた冷淡さと鮮やかな対比となっている。ロッキード事件に於ける新左翼系弁護士への依頼も興味深い。他にもまだまだあるが、これらの事例は何を物語っているのだろうか。

 という訳で、これはれんだいこの独壇的な個人的感慨であるが、そういう本質を持つ角栄評価は左翼人士の判別リトマス試験紙であると思っている。実際に、論者の舌をこの試験紙で湿らせて見ればよい。

 自民党タカ派系と日共系の御仁の否定的反応が一番高い結果が出てくる。そういう意味で、この両者が地下ルートで通じている可能性を詮索してみる必要があろう。れんだいこに興味深いのは日共系の方である。彼らの反角栄観が如何なる経緯で洗脳的刷り込みが形成され完遂されているのか、これを調べることも一興である。

 他にも云いたい事がある。そも、マルクス主義のどこまでマルクス主義か真偽不明のまま知識だけを肥大化させたスコラマルクス主義は、本来のマルクス主義と最も遠い地平にあるにも関わらず、エリート主義的な棲み分け格式化が左翼世界を覆っている。その対極に位置していたのが角栄ではなかったか。そういう意味で、彼らから見れば角栄はまぶしくジェラシーな存在であった。それ故にかどうか、マルクス主義スコラ派は角栄叩きに興じ鬱憤を晴らした。

 
角栄は戦後の保守本流から蓮の花を咲かせた。その土壌を見る限り角栄を左翼人士とみなすことには異論があろう。だがしかし、彼の出自と政策は明らかに大衆路線を志向しており、戦後民主主義の名実ともの実践者であった。そしてその戦後民主主義は、れんだいこの観るところ「プレ社会主義」であった。その台座で活躍した角栄の能力は国際的にも通用した。空理空論を拝し、政策の現実化、物質化に向かった氏の奇跡は、手本になりこそすれその逆ではない。

 2004.3.3日現在気づいた事は何と!、角栄は、1848年マルクス・エンゲルスの共著「共産主義者の宣言」において指針された「革命の青写真10政策」の力強い推進者であったということである。

 角栄のマニュフェスト「日本列島改造論」は、奇しくもこの「革命の青写真10政策」の当代版である。興味深いことは次の事である。経済が分かり政治が分かる角栄の脳裏に発想された政策が、意図せざるとも結果的に「革命の青写真10政策」に近似したものになってしまった。そしてこの政策に基づくとき、社会は史上未曾有の活況を呈し、経済的発展をもたらした。その後の日本は、この時の諸政策の余得で生き延びているようにさえ見ることが出来る。


 もう一つの気づきも添えておく。ロシア10月革命の偉大な指導者レーニンの晩年のネップ政策は、後継者スターリンの国有化政策により日の目を見ることなく放擲された。こうしてロシア10月革命が真に目指すべきだった市場性社会主義の可能性が閉ざされた。第二次世界大戦後の社会主義圏はなべてスターリン流国有化論を社会主義の道として受け入れ政策導入して行った。その結果、見るも無残な失政となり社会的停滞を招いた。

 ところが、ただ一国、市場性社会主義の理想を手掛けた国がある。戦後日本がそれである。戦後日本は、正確には市場性資本主義を体制基盤にしており、これを市場性社会主義と云うには無理がある。ならば次のように訂正しよう。市場性資本主義を市場性社会主義に転化させる基盤整備に向う営為が実践されていった国家であったと。この論証は別サイトでするとして、ここで確認すべきことは、その牽引車が池田ー角栄ー大平ー鈴木の戦後保守本流を形成したハト派ラインの政治であったのではないかと推定することである。レーニン的ネップ政策は、戦後日本に見事に花開き、奇跡の復興と成長を実現した。つまり、レーニン的ネップ政策の有効性が証左されたということになる。

 この現象に付き、世の識者が見ようとしないのは滑稽である。他方、その後の日本政治史上、中曽根-小泉一派が反角栄政策に狂奔している姿にはおぞましいものがある。経済が分からない、政治が分からない売国エージェント人士をトップに据え付けるとかような事態となる。マスコミはこの変人をいつまで寵児し続けるのだろう。

 2004.2月の国会質疑で小泉首相は、「あなたの改革は何をしたのか」と問われ、「何をしたのかと聞くほうが間違っている。小泉改革は余計な事は何もしないという改革だ。だってそうでしょう。改革しなくて成長したら、改革意欲がなくなっちゃう。だから、改革の一番の功績は何もしなかったこと」なる珍答弁をしているとのことだ。この答弁が問題にならない我が政界は既に脳死していよう。

 但し、一つ付け加えねばならない。保守の基盤から土着型左派革命を志向した角栄のロマンは、やはり体制権力の厚い壁に阻まれ、葬り去られた。政界実力者にも葬り去られる者とのさばり続けることが出来る者がいる。その差は奈辺にありや。例えば、角栄同年の中曽根を見よ。彼は何故に権力を保持し続けることが出来るのか。彼が有能であるからなどという評論を為す者とは百年かかっても話が通じない。

 この冷厳な事実こそ体制内化からの革命の困難さを知らしめているのではなかろうか。この過程を捉え直す事を学ぶと云う。学び無き万年外在的批判は単なる稼業でしかなかろう。

 2003.7.22日、2005.12.15日再編集 れんだいこ拝

【「増田悦佐氏の角栄考」】
Re:れんだいこのカンテラ時評その17 れんだいこ 2005/02/17
 【再びれんだいこの角栄論、角栄の左派資質考】

 国会が全く機能していない。政治の貧困時代という病んでいる段階を既に通り越し、植物人間ならぬ国会と化し、病床についているのかも知れない。そういう折だからこそ角栄を学ばねばならない。

 「角栄の左派資質と傾向について」kakuei/zinnmiyaku_sahakisitu.htmに次の一文を入れた。
【「増田悦佐氏の逆さ読み角栄考」】
 株式日誌と経済展望の2004.12.17日付け『自民党の社会主義者、田中角栄は戦後日本政治の中で唯一政権奪取に成功した革命家なのだ』」「増田悦佐『高度経済成長は復活できる』を紹介している。れんだいこがこれにコメント付けるが、論旨が非常に屈折している為、順不同で拾い出してスッキリさせる。

 れんだいこは、増田悦佐氏の「高度経済成長は復活できる」を読んでいない。実は、あまりの痴愚ぶりに読む気がしないというのが実際のところである。従って、「株式日誌と経済展望」の該当文から学ぶ以外ない。それによると、増田氏は次のように云い為しているとのことである。
 「田中角栄は経済成長を敵視する社会主義革命家」にして「積極財政、拡大志向、そして利権政治の親玉として、社会主義的な思想信条とは対極に位置するように見える田中角栄」。
(私論.私見) 

 そんな馬鹿な言い方があるだろうか。角栄を社会主義革命家と云いなしていると思いきや「社会主義的な思想信条とは対極に位置するように見える田中角栄」とも云う。云っていることのロジックが合っていないではないか。おまけにご丁寧にも社会主義革命家の前に「経済成長を敵視する」という修飾句を付けている。

 この御仁は、史実を歪曲させ恥じないようである。且つその社会主義観もしくは語学力も根本的に狂っている。「積極財政、拡大志向、そして利権政治の親玉」という「諸悪の元凶角栄説」も陳腐だ。れんだいこは、こういう手合いがインテリ面することが許し難い。

 増田悦佐氏は更に次のように云う。
 「なぜ、田中角栄の経済政策は、『積極的な国土開発』を謳いながら徹底した反成長思想に貫かれたものだったのか。なぜ田中角栄の作った政治、経済、社会をおおう諸制度が奇蹟とまで賞賛された日本経済の成長率をその後三〇年間に及ぶ長期的な衰退に導いたのか。そして、なぜ田中角栄は失脚しても、利権社会主義の弊害が延々と日本国民を苦しめつづけているのか」。
(私論.私見) 

 このトゲトゲシイ批判は何なんだ。角栄を高度経済成長路線を敷き成功させたハト派の総帥とみるのではなく、「日本経済の成長率をその後三〇年間に及ぶ長期的な衰退に導いた」犯人と勝手に措定しているが、何の根拠でそったらことを云うのか。三木、福田、中曽根政治を論うことなく、全ての悪を角栄に帰せしめるこの論法の不純さこそ許し難い。

 「なぜ田中角栄は失脚しても、利権社会主義の弊害が延々と日本国民を苦しめつづけているのか」と問うているが、「利権社会主義の弊害」とは何なんだ。無茶苦茶なことを云う御仁だ。

 
そういう観点を見せながら、増田悦佐氏は唐突に次のようにも云う。
 「田中角栄は、単なる保守党政治家ではなく、体制内革命を成就した革命家だった。佐藤内閣をできるだけ長持ちさせ、クラウンプリンス福田赴夫の首相就任を阻止しながら行われた党中党建設、派中派建設は、革共同・革マル派もうらやむ手際の良さだった」。
(私論.私見) 

 そういう悪の代名詞の栄誉に与る角栄は、「単なる保守党政治家ではなく、体制内革命を成就した革命家だった」、「党中党建設、派中派建設は、革共同・革マル派もうらやむ手際の良さだった」。増田悦佐氏は一体何が云いたいのだろう。角栄を社会主義者として見ようとしているのかいないのか、はっきりせんかい。「革共同・革マル派もうらやむ手際の良さ」という文言の挿入もイカガワシイ。何の絡みがあるというのだ。何も分からぬ手合いがしったかぶりをして書き付けているが、よほどお前はアホだな。


 
その癖、次のようなところに着目している。ここの記述がまま受けるから、れんだいこは採りあげている。
 「都会の有権者は争点次第で投票行動も違ってくるが、いったんつかんだ地方の有権者は本人が大都市圏に移住しない限りずっと支持基盤になる。ここに眼をつけた、『地方から攻め上って都市を包囲する』選挙戦略は、毛沢東もうらやむ辺境革命理論の実践だった。

 一言で言えば、田中角栄は戦後日本政治の中で唯一政権奪取に成功した革命家なのだ。彼は政治手法を自民党の先輩代議士たちからではなく、三宅正一や小林進などの社会党の農民運動指導者から学んだと言われている」。
(私論.私見) そういう面はあるが、それがいけないことなのか評すべきことなのかお前の態度をはっきりさせんかい。

 「初当選のころの田中は、有権者との付き合い方を〃日農〃を指導していた当時の三宅正一社会党代議士から伝授されたと言います。"田中君、一票が欲しければまずそこの家に上がってお茶をごちそうになることだ。そのうえで、お茶代を置いてくるんだ"と。有権者とのスキンシップですね。それを、若き日の田中はそのまま実行した」。
 「地下タビに脚絆、昼メシどきになると握りメシを抱えて農家の縁先を借りる。"すいません。ちょっとここでメシを食わせてもらってもいいですか"。"……まア、家に入りなさい"ということになる。家に上がればしめたもので、持論を訴え、聞いてもらうことで"一票"を手にしていくことになる」(小林吉弥、『高橋是清と田中角栄-日本を救った巨人の知恵』、二〇〇二年、光文杜知恵の森文庫)。
 「つまり、田中角栄の政治手法は必然的に政治理念をも社会党系の急進農民運動の理念に変えて行ったのだ。そして、田中角栄は、地方の農民たちが抱いている大都市圏に対する劣等感と羨望の念、そしてその裏側にある『われわれは、もともと都会人に比べると非常に不利な立場にあるのだから、都会人に一泡吹かせるためなら、多少は汚い手を使ったとしても許されるはずだ』という意識を完全に共有していた」。
(私論.私見) ここも同様である。記述されていることに対して、お前はどう評しているのか態度をはっきりさせんかい。

 「しかし、田中角栄は陣笠代議士時代から議員立法を駆使して「社会的弱者」のための利権連合を着々と作り、支持基盤を拡大していった。ニクソン大統領の強硬な要求で繊維製品の対米輸出を自主規制させられた事件が、いい例だろう。佐藤内閣の通産大臣だった田中角栄は、どうころんでも憎まれ役にしかなりそうもない交渉でアメリカ側の要求をほぼ全面的に受け入れながら、独断で札束で頬をひっぱたくような巨額の補償を繊維業界にばら撒いた。結局、この交渉を通じて中小零細企業の味方のイメージを確立してしまった」。
(私論.私見) ほんにお前はヌエのようなやっちゃ。角栄の日米繊維交渉で見せた能力を評しているのか、貶しているのか、態度をはっきりさせんかい。いつも両見解を並べて見せるだけの玉虫色だな。

 「もうひとつ、田中角栄が自民党内で革命を起こそうとしていることが、なかなか周囲に感づかれなかった理由がある。自分の政権奪取能力、政策遂行能力、利害調整能力に絶大な自信を持っていた田中は、政治理念を宣伝して同志を募るという過程を省略し、たったひとりで革命[を成し遂げた。田中角栄の秘書であり越山会の統括責任者であった佐藤昭が述べているように、『毛首席には周恩来同志がいましたが、田中には周恩来さんがいなかった』(新潟日報報道部、『宰相田中角栄の真実』、一九九四年、講談社刊)のだ」。
(私論.私見) ここも同じだ。この記述は、角栄を評価しているのか、貶しているのか、態度をはっきりさせんかい。

 「角栄政権のプラスのほうに眼を転じれば、首相在任中にやってのけた功績がふたつある。日中国交回復と、ソ連共産党書記長ブレジネフに『日ソ間には北方領土という未解決の問題が存在する』と認めさせたことだ。どちらも、社会主義政権相手の仕事だった」。
(私論.私見) ここも同じだ。この記述は、角栄を評価しているのか、貶しているのか、態度をはっきりさせんかい。

 「世界中にたったひとりだったかもしれないが、一九七二年という早い時期から田中角栄政権誕生の本質を『革命家』による政権奪取と見抜いていた社会主義国指導者がいた。彼は、岩波書店の総合誌『世界』に掲載されたインタビューで以下のように答えている。

 『日本人民の闘争が強まったために佐藤反動政府は追い出され、田中政府がこれにかわりました。これは日本人民の闘争の結果だといえます。われわれは日本人民の闘争を高く評価し、それを全面的に支持します』(坪内祐三、『一九七二-「はじまりのおわり」と「おわりのはじまり」』、二〇〇三年、文塾春秋刊より引用)。当時の北朝鮮国家元首、金日成だ。まさに、『英雄、英雄を知る』と言うべき洞察力だ」。
(私論.私見) この記述の下りは面白い。金日成の角栄観は初めて教えてもらった。そういう意味で感謝申し上げよう。もっとも、お前は、これを否定的に採りあげているようだが。れんだいこは、これを「角栄の左派資質」の項に採り入れようと思う。

 総評として、増田悦佐氏はいろいろ毒づいているが、それを割り引いて読み取れば、新たな角栄像が見えてくる。その面で、増田悦佐氏の「高度経済成長は復活できる」にはそれなりの意味がある。

 「株式日誌と経済展望」管理人は、「私のコメント」で次のように述べている。
 「むしろ、田中角栄こそ日本における社会主義革命に成功した唯一の人物としてみる論こそ、今までになかった田中角栄論である。なぜ、アメリカの共和党政権が田中角栄を失脚させたのかは、もっぱら独自のエネルギー戦略を展開したからロックフェラーの逆鱗に触れたという説が有力ですが、むしろ田中角栄が日本で社会主義革命を成功させたからだと言うほうが、説得力があると思う」。
 「自民党内にこのような大派閥を形成できたのも、日本の農家などからの支持を集めたからであり、それが大都市を包囲して一気に革命へ持ってゆく手法は毛沢東の革命戦術であり、だからこそ中国やソ連も日本こそ社会主義国家の仲間としてみる要素になったのだろう。それに対して危機感を持ったからアメリカのキッシンジャーは角栄を失脚させたのだ」。
(私論.私見) 

 「株式日誌と経済展望」管理人は、れんだいこ同様に、増田悦佐氏の毒づきを割り引いて指摘された内容そのものを吟味し、角栄の左派資質を見ようとしている。それは正解だろう。但し、もっと思い切って、角栄を日本史上稀有な土着左派人士と見立て、彼の業績そのものを虚心坦懐に振り返るべきだろう。

 昨今、市場性社会主義論が云々され始めているが、その目で見れば、戦後日本とははまさに市場性社会主義体制であったのではなかろうか。実際は、政府与党を自民党が掌握し、その自民党はハト派、タカ派の混交政党であった訳だが、池田ー佐藤ー角栄ー大平ー鈴木政権時代とは、ハト派がタカ派を上手にお守りしていた時代であったのかも知れない。失われてこそ見えてくる世界ではある。

 2005.2.17日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評その18 れんだいこ 2005/02/19
 【再びれんだいこの角栄論、増田悦佐氏の角栄批判を批判する】

 
れんだいこは、「れんだいこのカンテラ時評その17」で、増田悦佐氏の著書「高度経済成長は復活できる」田中角栄観に付き「論旨が非常に屈折している」と評した。しかし、この観点では云い足りないためもう少し言及する。

 増田悦佐(マスダエツサ)のプロフィールは次の通り。「経済人 1950. HSBC証券シニア・アナリスト。建設・不動産分野に強いアナリスト。ニューヨーク州立大助教授を経てアナリストに、一橋大卒」。

 れんだいこと同じ年生まれの、角栄を廻ってまったく反対の観点の持主ということになる。れんだいこに云わせれば、その観点は、シオニズム受け狙いのお調子もんでしかない。まっそうだからもてはやされようとしているのだろう。「高度経済成長は復活できる」の発行元は「文春新書」である。ということは、立花二世として育成されつつあるということか。

 その内容たるや、「日本経済はどこで間違ってしまったか」→「誰が高度成長経済を殺したのか」→「実行犯は田中角栄」→「「弱者」をふやしたがる「黒幕」たち」→「「弱者」のための利権連合がつくった世界」→「高度成長は復活できる」という論旨展開になっているらしい。

 思うに、高度成長経済路線を好評価しつつ、角栄の日本列島改造案思想を真っ向から否定し、高度成長経済路線を殺したのは角栄なりとして、「立花流『諸悪の元凶角栄』史観」をリバイバルさせようとしている。

 しかし、それは全く転倒錯綜した史観でしかなかろう。今我々が為すべきは、立花流ないしは日共流に歪められた「諸悪の元凶角栄」史観から抜け出し、「角栄の日本列島改造案思想」を再度学ぶことである。そういう意味で、下手糞ゲテモノ本を読むよりは角栄の「日本列島改造論」そのものを読み直すほうが良い。どっかの社が再販すればよい。必ずベストセラーになるだろう。「政治圧力」無しにそれができるかどうか、それが問題だ。

 ところで、同書紹介の「アマゾン・コム」に載っている書評がこれまたひどい。いわゆるヤラセになっている。角栄批判、「朝日新聞をはじめとする進歩的なマスコミ」批判、官僚批判という定食メニューを書き付けている。

 そしてしまいにはこうなる。
 「悲劇的なのは,田中社会主体革命が温存され今日も続いているという事実である.なぜ日本だけ,バブル崩壊後 13年も低成長を続けているのか? なぜ日本だけ,GNP の倍にも上る公的債務を抱え込むことになったのか? なぜ都会のサラリーマンの生活は豊かになれないのか? こうした疑問を持つ全ての読者に必読の書である」。

 つまり、日本の現在の過膨張公的債務路線の敷設者が角栄であったと決め付けている。れんだいこは、れんだいこ論文集の「国債論」の中で、そのウソを暴いている。戦後初の国債の発行者は佐藤内閣時の福田蔵相であり、三木が推進し、中曽根が加速させ、以降とめどない垂れ流しのまま今日まで迎えている。

 この間いわゆる真性ハト派の角栄、大平、鈴木の三代に限り赤字国債発行体質を止めさせようとして懸命に漕いだ、という史実こそが確認されねばならない。付け足せば、佐藤の前の池田時代は、国債を頑として発行していない。この時、角栄は大蔵大臣の任にあった。

 それが史実なのに、なぜ逆さに描くのだろうか。立花然り、この増田然り。角栄を叩くが、角栄が地下で暗闘したタカ派、それもネオ・シオニズムに取り込まれた国際主義派=国債主義派に対しては大甘という構図になっている。それはペテンの類の論法だ。

 滑稽なことに、増田史観は、角栄を叩くあまりに角栄=体制内革命推進革命家論を展開しており、こっちの方の見解が好評という皮肉なことになっている。

 それにしても、「クラウンプリンス福田赴夫の首相就任を阻止しながら行われた党中党建設、派中派建設は、革共同・革マル派もうらやむ手際の良さだった」と記しているとのことだが、何でここに「革共同・革マル派」が出てくるのだろう。いかにも唐突だ。胡散臭い。

 
角栄と〃日農〃を指導していた当時の三宅正一社会党代議士との関わり、つまり社会党系急進農民運動との関わりを指摘している。案外知られていないがその通りである。ちなみに、角栄歿後、後援会の「越山会」票がどこに流れたのか追跡調査したところ、何と社会党へ向かっていたとのリサーチが為されている。これについては「角栄の左派資質と傾向について」kakuei/zinnmiyaku_sahakisitu.htmの
【「角栄票はどこに流れたのか」追跡調査考】に記した。

 田中角栄の秘書であり越山会の統括責任者であった佐藤昭の弁「毛首席には周恩来同志がいましたが、田中には周恩来さんがいなかった」(新潟日報報道部、『宰相田中角栄の真実』、一九九四年、講談社刊)の指摘も興味深い。二階堂がその任にあったが、役不足だった。しかし、二階堂はこれまた良い政治家だった。

 これは初耳だが、当時の北朝鮮国家元首・金日成が、「世界中にたったひとりだったかもしれないが、一九七二年という早い時期から田中角栄政権誕生の本質を「革命家」による政権奪取と見抜いていた社会主義国指導者がいた」との指摘は面白い。

 増田氏の著書「高度経済成長は復活できる」はこういうところの記述にのみ値打ちがある。思えば、皮肉なことである。しかし、読めば読むほど頭がヤラレルこういういかがわしい観点が次から次へと量産されていることになる。これに抗する逆攻勢をかけねばならぬ。どこの出版社がやってくれるのだろうか。

 2005.2.19日 れんだいこ拝

【北一輝の「日本国家改造論」との関係考】

 角栄左派説は次の点からも検討に値する。角栄は若い頃、北一輝の「日本国家改造論」を精読している。この方面の解明は手付かずであるが、角栄の心の深奥に北一輝に対する強い思い入れが合ったことは事実のようである。


【「新潟日報」のベテラン記者の証言】

 田中の死去から一年ほど経った頃、「田中角栄、ロンググッドバイ」が出た。その中に、新潟3区での田中をよく見てきた地元の「新潟日報」のベテラン記者が、こんな田中の一面を語っている。

 「権力を持ち、大派閥を構えたときの恫喝的行動はいろんな形で政治の裏表で出てきたと思うが、田中個人はとても気の小さい、テレ屋という感じの人間です。それで、私自身はあの性格からすると、根っこはハト派の涙もろい男だと今も思っている。子供が病気がちな長岡市の支持者宅に、田中は徹底的に通う。そんな話はいくらでもある。それは単に政治の集票活動ではなく、あくまで本人自身の性格から出てきているものだと思う。演技ではないね」。

【「角栄票はどこに流れたのか」追跡調査考】

 小林吉弥氏が著作「角栄一代」の冒頭で、「『革新政治家』だった角栄」として衝撃的な記事を掲載している。角栄の政界引退の後の角栄票の流れを追って、新潟3区の約18万票を常時維持していた角栄票が、主として社会党に流れたことを明らかにしている。それは平成2.2.18日の総選挙であったが、事前の予想に反して、社会党の新人・目黒吉之助氏が9万4107票でトップ当選した。2位の渡辺秀央(自前)が7万2263票、3位の星野行雄(自前)が6万9832票、4位の桜井新(自前)が6万6860票、5位の村山達雄(自前)が6万4468票、社前の坂上富男は次点に泣いた。この結果は、角栄票が自民党よりもより多く社会党シンパシーの者達に支えられていたことを証左している。

 これを更に分析すれば、角栄票が旧日農(日本農民組合)系に支えられていたことが明らかにされたことになる。これは史実とも照合している。日農とは、左派系の農民運動団体で、戦後1947年に賀川豊彦や杉山元治郎らが指導者となって結成され、全国各地で起きていた小作争議を指導することで勢力を伸ばしていた。新潟では江戸時代から農民一揆が少なからず起きていた土地柄であったから、日農運動が浸透し易い素地があった。実際に、新潟三区では、戦後初の選挙から社会党系の候補が2名ないし3名当選していた。

 戦後代議士を目指すことになった角栄は、進歩党→民主党から立候補したが、角栄の政治理念は「民主政治と経済復興による国家の廃墟からの再建」であり、農地改革後の日農運動の利害ともほぼ一致していた。こういう土壌の一致によってか、戦前からの農民運動の闘士で、何度も警察に逮捕されていた経歴を持っており、当時の日農運動を指導していた社会党の三宅正一代議士から目をかけられ、選挙戦のイロハから教えを受けている。以降、角栄と三宅は互いに心を許し且つ畏敬し合う関係になった。三宅が落選して以降終生に亘って、三宅の知らぬまま生活の面倒を見ている。

 やがて日農指導者が各地に越山会を結成し核となっていく。農民運動の闘士たちは、「飯も食えない、子供を大学にも出せないという悲しい状態を解決するのが政治の先決だ」という田中の発想に共鳴し、越山会のリーダーとなりエンジン役になっていった。ここには、日農のリーダー等は、「政治家としての筋は今ひとつ分からぬが、仕事はできる」、「オイ、あの田中ってのは若いがなかなか見どころがあるぞ」
「田中は面倒を見てくれる」と角栄を評価し、以降の政治行動を一蓮托生にさせていった経過がある。

 その好例が江尻勇氏の例である。江尻氏は、ニ田村役場に勤めていたが、戦後間もなく戦争事務を執っていたというカドで役場を辞めた。同時に日農系の社会党代議士となっていた三宅正一の応援に回ったが、昭和26年頃田中と話をする機会があり、「あんたは社会党をどう考えているのか」と詰問したところ、角栄は顔を真っ赤にして、「バカな。社会主義では、これから先は通らない。先の読めるのは保守党だ」。これを機に江尻は社会党から離れ、以降40年に及ぶ歳月を田中一辺倒に捧げ、田中の地元刈羽町の越山会会長として殉じ、町長にもなった。平成元年10月の田中引退に合せて、30余年にわたった町長職を辞している。

 平石金次郎もその好例である。平石氏は岩塚製菓の創立者であるが、元々熱心な社会主義者であった。戦後の混乱期を社会党の応援に奔走するが、社会党議員は理念は語るが具体策を持とうとせず、そうしたスローガン一辺倒主義の空理空論に失望し、「理屈をこねるより、今日喰う飯が先だ」として越山会に入った。後に越路町(現越路市)の町長を務め、よく目白に陳情に出向くことになる。


【「学生運動上がり」の登用考】

 角栄はどうも「学生運動上がり」を重宝にしていた形跡がある。早坂記者の秘書入りのエピソードもこれを物語っている。早坂茂三氏は早稲田大学時代全学連の有能なオルガナイザーの一人であり、卒業後東京タイムズ記者をしていた。昭和38.12.2日、その早坂氏を田中が秘書になってくれないかとスカウトしている。

 この時の言葉が次のような角栄節であった。

 「俺はお前の昔を知っている。しかし、そんなことは問題じゃない。俺も本当は共産党に入っていたかも知れないが、何しろ手から口に運ぶのに忙しくて勉強するひまが無かっただけだ」「俺は10年後に天下を取る。お互いに一生は1回だ。死ねば土くれになる。地獄も極楽もヘチマも無い。俺は越後の貧乏な馬喰の倅だ。君が昔、赤旗を振っていたことは知っている。公安調査庁の記録は全部読んだ。それは構わない。俺は君を使いこなせる。どうだ、天下を取ろうじやないか。一生一度の大博打だが、負けてもともだ。首までは取られない。どうだい、一緒にやらないか」(早坂茂三「鈍牛にも角がある」106P)。

 斎藤隆景(新潟県南魚沼郡六日町で「斎藤記念病院」を経営)もその例である。元「全共闘」闘士で、一転「田中イズム」のとりこになったことから田中角栄の懐に飛び込み、その後、長く目白の田中邸への出入り自由となった。


【側近の証言考】

 角栄は、大衆の中から出自したことによってか、弱いものを見る眼が優しく、一時的には保守政党のドンではあったが、心情的に容共主義のところがあった。野党との対決ばかりではない政策的なすり合せを得意とした。最も身近に接していた早坂秘書は、「田中角栄は、戦後デモクラシーの大波の中から生まれてきた人民の子だったと思う。申し子です」と云いきっている。国家老と言われた本間幸一も又「田中は革新政治家だった」と証言している。事実、新潟3区における角栄の台頭は、それまでの地元の旦那衆政治を駆逐した。

 早坂「怨念の系譜」は次のように記している。

 「越後の百姓は昔、貧乏でメシもロクに食えなくてなぁ。本当なら俺も日農に入って、小作争議の先頭に立ちところだった。それをしなかったのは、手から口へメシを運ぶのに忙しくて、旗を振る暇がなかったからさ」。

【フランスのル・モンド記者の証言】
 早坂秘書は、著書「オヤジの知恵」の中で次のように記している。1970の安保闘争の頃、フランスのル・モンドの極東総局長だったロベール・ギラン記者が幹事長室の角栄を訪ねて聞いた。全学連の学生達が党本部前の街路を埋めてジグザグデモを繰り広げていた。ギランが「あの学生達を同思うか」と尋ねたところ、角栄は次のように答えている。。
 「日本の将来を背負う若者達だ。経験が浅くて、視野は狭いが、まじめに祖国の先行きを考え、心配している。若者は、あれでいい。マージャンに耽り、女の尻を追い掛け回す連中よりも信頼できる。彼等彼女たちは、間もなく社会に出て働き、結婚して所帯を持ち、人生が一筋縄でいかないことを経験的に知れば、物事を判断する重ギランが「ウィ・ムッシュウ」と微笑み、私は仕方なく苦笑した。心が低くなる。私は心配していない」。私を指差して話を続けた。「彼も青年時代、連中の旗頭でした。今は私の仕事を手伝ってくれている」。

元社会党の委員長・河上丈太郎の葬儀に見せた角栄の礼節

 昭和40年、元社会党の委員長であった河上丈太郎の葬儀の際、わざわざ火葬場まで出向き、師走の雨の中を二時間も立ち尽くして見おくって入る。


全逓労組の闘士・宝樹文彦スカウト事情考
 1957 (昭和32)年、角栄39歳のときの7.5日岸内閣就任5ヵ月後の第一次岸内閣改造で、郵政大臣に就任。戦後最年少の大臣となった。その翌日全職員への大臣訓示の後、全逓労組の委員長・野上元、副委員長・宝樹文彦、書記長・大出俊の三役が押しかけてきた。前夜、全逓の看板を取り外すよう指示した新大臣に抗議するためであった。三人は、「大臣が無断で組合の看板を取り外したのは窃盗だ!」と息巻いたところ、角栄は次のように応酬している。
 「どこの国に大家より大きい表札を掛けている店子(たなこ)があるか、第一、君達は郵政省の中に全逓信労働組合という看板を掛けておきながら、家賃を払っているのか」と言い返した。続けて、「変なことはツペコベ云わんが、私はそういうところから正すよ。正すべきは正す。しかし、私にも労働の経験があり、労働組合に妙な先入観は持っていない。日本の労働運動を理想的なものにしたい。だから、どんなことでも協力するし、努力もする云々」(「歴代郵政大臣回顧録」より)。

 この角栄節は全逓の闘士の度肝を抜いた。これが全逓との第一回の会談となり、これをきっかけに定期的な会談を持つことになった。角栄が郵政大臣に就任したこの頃は、郵政省と全逓とが悶着の沸点期で全逓の闘争指令が出されている最中であった。歴代の郵政大臣は全逓幹部と正面から話し合うことはせず、逃げ回るだけであった。労使の不正常な関係は日常化していた。

 田中郵政大臣と全逓との定期会談が軌道に乗った直後、全逓側は「三役だけでなく、できるだけ多くの組合員と会って欲しい」との要望を受け入れ、事務当局の反対を押し切って、皮切りとして50名の組合員と会談を持った。「鉢巻を取れ、取らないの鉢巻論争」になってしまったが、大臣が全逓組合員と会談に応じたという効果の波及のほうが大きく、以降次第に気心を通わせあい、懸案の仲裁裁定問題や、夏期闘争も円満に解決されていくことになった。秋期闘争や年末闘争も例年よりも早く妥結しスムーズに解決されていくことになった。

 当時の全逓副委員長・宝樹文彦は次のように述懐している。
 「省内の派閥をあっという間に片付け、春闘の責任を問う全逓処分もこれまでにない厳しいものを打ち出したが(全逓労組幹部7名の解雇、297名の停職他組合員の約1割にも及ぶ大量処分)、全逓との労使関係正常化を成し遂げている。まぁ交渉のやりがいのある相手だった」。

【軍隊時代の上官細井宗一とのその後の奇縁考】
 サイト元は、法政大学教授にして大原社会問題研究所専任研究員・副所長の五十嵐仁・氏の「転成仁語」の「津本陽『異形の将軍−田中角栄の生涯(上・下)』幻冬舎、2002年、を読んで 」。出典は、水野秋・氏の「太田薫とその時代、上、188頁」。

 田中角栄の軍隊時代の上官に細井宗がいた。細井は、戦後、国鉄労働者として労働運動のなかで頭角を現し、左派の「革同」のリーダーとなる。その関係もあって、戦後も親交があったといわれている。水野秋・氏の「太田薫とその時代、上、188頁」に次のように記されている。
 「糸魚川に生まれながら新潟地方とは隣の北陸池本(金沢)から中央執行委員に選出された細井宗一は、戦時中、陸軍予備士官学校を出て満州に派遣されていた。あの『日本列島改造論』を提唱し、ロッキード事件で失脚した田中角栄が応召兵として細井の部下になっていたことは有名なエピソードで、後年、自民党の大幹部になった田中が細井を招き、『どうです。労働運動なんか辞めて私といっしょに、この国の再生のためにやりませんか』と誘いをかけ細井を苦笑させたという一幕もあった。その細井が共産党に入り国労革同のエースとして例年の総評大会で左派を代表する発言をするようになったことは、戦時中の自らの行動に対する反省によるものといわれていた云々」。

 このエピソードは角栄と戦後国鉄労働運動の指導者との接点を物語っており、ある種の信頼関係が媒介していたことを窺うべきではなかろうか。

【困ったときの新左翼系弁護士スカウト事情考】
 ロッキード裁判の二審から、田中・榎本弁護団には新左翼系とつながりが深い弁護士が複数参加した。一人は石田省三郎で、石田はそれまでも新左翼系の事件の弁護を数多く手がけており、日石ピース缶爆弾テロ事件で、検察側の構図を覆して無罪を勝ち取っている。その石田を角栄は三顧の礼を尽くして弁護団への参加を依頼した。一人は小野正典で、小野はよど号事件や成田空港事件などを手がけてきている。一人は渋谷まり子で、渋谷は女性解放運動に取り組んできていた。一人は倉田哲治で、倉田は免田事件など数々の冤罪事件と取り組んできていた。

 石田も倉田も、弁護団に加わるまでは、世論と同じく『悪質な金権政治家』と見なしていたが、実際に知りあってみて、その人となりを高く評価するようになった。

(私論.私見) 新左翼系弁護士の限界考

 本当に困った時、角栄は何と新左翼系の弁護士の能力に期待した。日共系は角栄政界追放派であるから問題外であった。しかし、新左翼系の弁護士が期待された能力を発揮したようには見えない。これは何を物語るのだろうか。

 2005.4.20日 れんだいこ拝


【タカ派の寵児として登場した石原慎太郎に対する冷たい眼差し考】
 角栄がいわゆるタカ派に見せる冷淡な眼差しは次のようなものであった。

 昭和43年、石原慎太郎は300万票で参院全国区トップ当選で、政界入りした。時に田中が自民党幹事長だった。新調の議員バッジをつけ、初登院した石原は、幹事長室に乗り込み、威勢良く田中にこうブチ上げた。「自民党の広報活動はなっていない」、「自由新報の編集はなっていない」、「自民党本部の職員は削減すべし」。黙って聞いていた田中は、一言次のように言った。
 「君の話は分かった。しかし、人間は木の股から生まれてくるのではない。人には歴史がある」。

(私論.私見)

 これを解説すると、石原氏のはぎれの良い物言いは、田中に言わせれば「論」である。「論」はえてして批判する当のものの歴史を無視しがちである。そういう書生論は云うほうは格好良くても現実は一歩一歩の歩みであり、世の中はそのように進んでいる。そのことを角栄流にピシャリと言い当てていたということになる。

 石原の奇論を一蹴した角栄の凄みがここにある。今は角栄ほどの見識を持つ者が居ないから、石原程度の者が逆に幅を利かせている。

 2005.10.15日再編集 れんだいこ拝

【角栄の実質社会主義的分別考】
 田中角栄の思想、人となり」に記したがここでも採り上げる。昭和48年の総理大臣時の全国勤労青少年会館の開館式での角栄の挨拶はこうである。
 「ただ単に、青少年時代を学生として、思うばかりはばたける、好きなことをし放題にできることが楽しいかと言うと、私は必ずしもそうではないと思っている。お互い一人一人、皆、生まれ育つ環境も違いますから、いろいろな社会にいろいろな生き方をして育ってくる訳でありますが、私はその中で勤労というものがいかに大切であるか、勤労と言うことを知らないで育った人は不幸だと思っています。

 本当に勤労をしながら育った人の中には、人生に対する思いやりももあるし、人生を素直に見つめる目もできてくるし、我が身に比べて人を見る立場にも成り得る訳でありまして、私はそれは大きな教育だと、また教育だったと考えている。本当に病気をしてみなければ病気の苦しみが分からないように、本当に貧乏なければ貧乏の苦しみは分からないと言う人がありますが、勤労しない人が勤労の価値を論ずることはできない。勤労をしない人が、どうして勤労の価値を評価することができるでしょうか。

 勤労は生きるための一つの手段でしかないという考え方が、このところ充満しつつあるような気がします。もしあるとすれば、それは政治の責任かなとも思います。私も、かっては勤労青年だった。朱きの『偶成』という詩に、『少年老いやすく学成り難し、一寸の光陰軽んずべからず、池とう春草の夢、階前の梧葉既に秋声』というのがあります。また、何人が詠んだ詩か知りませんが、『大仕事を遂げて死なまし、熱情の若き日はまた来はせじ』と、これらは皆、勤労少年の時自信を失う時には、国家や民族の危機と考える必要がある」。

 次のような言葉も残している。

 「雪は金持ちの屋敷にも、貧乏人の庭にも、平等に降り積もる」。

(私論.私見)

 
角栄の勤労哲学ないしは処世哲学が披瀝されているが如何に社会主義的なものであるかが分かろう。こういう真の意味での社会主義的政治家を叩きに叩くことに狂奔したのが宮顕ー不破系日共党中央だった。れんだいこが、宮顕ー不破系日共党中央の放逐ないしは日共に代わる左派政党の立ち上げを喫急要請している理由が分かろう。ここのところが全く理解されないところに目下の日本左派運動の貧困があると云うべきだろう。

 2006.12.27日 れんだいこ拝




(私論.私見)