角栄の官僚論、官僚操作能力について

 更新日/2019(平成31→5.1栄和元).3.14日

 田中角栄は側近に、「学者は駄目だ。世間知らずだ。それよりも役人だ」と言っていたという。角栄は、この国を動かしているのが政治家ではなく霞ヶ関の官僚であり、その官僚の優秀さと負の面の両面を熟知していた。

 角栄は、議員立法活動の過程で、日本における役人の権限の強さ、その有能さ、その習性を理解していった。許認可権、管理監督権、行政指導権、法律発案権、国家資金の分配権、徴収査察権、発注権、予算編成権等々行政の実質的な要所を握っているのが霞ヶ関官僚群であることを、徹底熟知していた。

 負の面とは、1・責任を取ろうとしない、2・行動原理は減点主義、3・先例主義で新例を嫌う、4・割拠主義、他省庁との連携は眼中に無い。5・省益縄張り意識が強い等々。これを自ら突き崩すなどということは有り得ない。

 しかし、彼らは、優れたリーダーの号令を待っている。ひとたび号令が出れば、一夜にしてA案B案C案を用意することができ、その費用対効果のほどを事細かに説明することができる。

 こうした習性を知って、役人を操作する術に長けたのが角栄である。もっとも、当然リアクションも生み出さざるを得ない。

 今日なお、角栄が官僚をカネで手なづけた論的批判が為されている。それに対しては、元通産省課長の次の指摘を聞くべきだろう。
 「カネの威力などは、所詮海面に姿を見せている氷山に似たりで、人間の行動原理の僅か六分の一ほどに過ぎない。海中にもぐっている六分の五の圧倒的部分が、人間で例えれば感情の部分らなる。結局は、この感情部分で人は動く。六分の一の海面に出ている部分をいくら押しても、人は動かない。田中角栄元首相はカネも上手に使ったが、結局は人からの好感情を集めて、強大な支持を取り付けていったということでしょう。官僚も、カネ以外の部分で田中氏への信頼感を強めていたのだと思いますよ。官僚の多くは、カネだけで買えるほど安っぽくは無い」。

 「田中大蔵大臣」時代を知る元官僚は次のように言っている。
 「とにかく、呑み込みが早かったので、仕えるのは楽だった。予算の膨大な資料が有っても、田中さんに限っては手短な資料として渡しても安心できた。また、田中さん自身も簡潔な遣り取りを好んだ。その簡潔な資料だけで、予算折衝でも、相手に何を言うべきか、妥協はどのあたりに定めるかなどが呑み込め、抜群の駆け引きを見せた。あるいは、我々の言うことにも常に耳を傾けたし、大臣としての采配はさすがに超一流と云えた。我々に取っては、親父というか兄貴分というか、大臣になってあまり時間がたたないうちから身内意識みたいなものができあがっていたのです。『ご苦労だったな』の慰労金的意味合いの金一封や、海外視察などへ出るときの餞別を貰ったことがある大臣官僚は一杯いるが、田中さんはよくこんな言葉も付け加えていた。『キミは、これくらいのカネで動く男ではなかろう』とね。決して、官僚というものを甘く見てはいなかった」。

 れんだいこが伝聞した話は次の通りである。
 概要「官僚が、甲案、乙案のいずれを採るべきかまよいことがある。この時、田中首相にお伺いを立てた。忙しい人なのでなかなか時間をつくってもらえない。移動中の首相に駆け寄り、甲案、乙案のいずれに致しましょうと判断を仰ぐ。首相は、即座にかどうかまでは分からないが、『それは乙案で行こう』と見解を述べる。驚くべきは、後々になって思慮すると田中先生の指示が極めて適切だったことが判明したことである。田中先生にはこういうところがあった。これが毎度のことであった。だから、官僚に支持された。田中先生の影響力の強さは、その能力を知るべきで金権というレベルで捉えるには実際が違いすぎる」。

 これは、角栄がロッキード事件の公判渦中での、あるスナックで、れんだいこが聞いた話である。相手は地方の役人であった。思い出したので書き付けておく。

 側近の早坂秘書は、「籠に乗る人・担ぐ人」の中で次のように書いている。
 「田中は、役人の正、負の特徴を仔細に知り、以後、手足のように彼らを動かした。役人の苦手なアイデアを提供、政策の方向を示し、失敗しても、責任を負わせることはしなかった。心から協力してくれた役人は、定年後の骨まで拾った。入省年次を寸分違わず記憶し、彼らの顔を立て、人事を取り仕切った。角栄についていれば損はない。角栄の経験、才幹と腕力、それに役人の知識、ノウハウがドッキングして、相乗効果を発揮した」。

 2005.4.20日 れんだいこ拝

 政治評論家・小林吉弥氏の「田中角栄 侠(おとこ)の処世bQ2」(週刊実話2016.6.16日号62p)の一部を転載しておく。
 「日本の政治は中央、地方を問わず、良くも悪しくも役人(官僚)の協力がなければ10センチも前へ進まないようにできている。現実である。明治維新の太政官布告以来の我が国の官僚制度は、世界に冠たるものと言ってよい。官僚は頭脳明晰、完璧な法律知識を持ち、幹部クラスともなれば国家経営のあらゆる歴史が頭に入っており、問題が起ったときの対応ノウハウもすべて掌握しているという優秀さである。一方で、能力なしと見際メタ政治家とは内心で一線を引いているのが常だ。つまり政治家側にとっては、ある意味、部下であるこの官僚をコントロールするのは至難のワザと言っていいのである。ところが、戦後政治家の中でも田中角栄だけは『別格』だった。田中以上にそうした官僚をうまく使った政治家はいないというのが、定理になっている。歴代の大物政治家、事務次官や局長経験の官僚の多くが、まず否定しない。だからこそ、田中による前回記した戦後復興の基礎を固めた道路三法など33本の議員立法も、官僚の抵抗を排除して成立させることができたということになる。官僚の協力がなければ、成立などはなかったということである。

 なぜ田中は、官僚使いの名手とされたのか。20数年前になるが、筆者は当時、田中の秘書だった故・早坂茂三(後に政治評論家)から、こういう言い回しで話を聞いている。『要するに、官僚は田中の超頭脳、政治力に平伏したということだ。その上で、この男となら日本の再建の為に肩を組めると認めたからだ。また、田中は、一方で官僚の属性も知り尽くしていたことが大きい。彼らは優秀ではあるが、時代の変化に対応する法適用となると融通が利かない。最後の責任を負わされることも嫌う。官僚の人生観は、役所と退職後の就職先がセット、ということなども熟知していた。為に、田中は法適用の知恵を与えた上で、結果責任はすべて自分が背負ったし、退職後の就職の面倒などもよく見た。田中と官僚の稀有な連帯感が成立していたからと言っていいだろう』。(以下略)」。

【大蔵省主税局税制第1課長だった山下元利の窮地を救う】
 2018.10.18日、「【部下がついてくる!「角栄流」上司の心得】「抜け道」伝授能力」の「田中角栄氏、税制第1課長を救った「獣道」 本当に困った相手には敵味方問わず…」。
 部下、自分の親しい人間が行き詰まった。ニッチもサッチもいかず、もはやお手上げだ。それを見て何ができるか。田中角栄が打つ「抜け道」は、時にリスクも伴う「獣道(けものみち)」であった。「獣道」とは、山や森で、サルやシカ、イノシシなどの動物が通ることで、自然につけられた道だ。人が山や森で迷ったら、この道をたどっていけば命を落とさずに済む。動物たちは、この道をたどり餌を求めて人里に出てくるからである。この“手”で助けられた、のちに田中派幹部となる山下元利元衆院議員とのエピソードがある。

 昭和38(1963)年暮れ、当時、大蔵省主税局税制第1課長だった山下は、責任者として翌年度の所得税法改正案をまとめ上げた。これは閣議決定され、国会に提出された。ところが、何と根幹の税率表の数字が間違っていたのである。時に、田中は大蔵大臣であった。原因は、コンピューターの取り扱いミスだったが、野党に問題化されれば法案はすっ飛びかねない。同時に、責任問題に波及して、田中大臣のクビも飛びかねない。山下は体重90キロの巨体を丸めるようにして、辞任覚悟で大臣室の田中に頭を下げにいった。激しやすい性格からカミナリが落ちると思っていると、田中はむしろ、ほほ笑むように言ったのだった。「心配するな。大きな問題じゃない。『日本のソロバンが、かのコンピューターのミスを発見した』ということにしておけばいいんだ」。田中が得意の野党対策で、どう裏で手を打ったかは定かではない。ただ、改正案は問題化せずに成立、山下のクビもまたつながった。

 山下はその後、自らリスクを背負いながらも「親分力」で切り抜けてくれた田中に心酔、田中の信頼を得るかたちで、のちに大蔵省を退官、衆院議員として田中派入りした。その後、田中が首相となり、やがて退陣、田中派の大半が竹下登のもとに流れていくのを尻目に、山下は後藤田正晴らとともに、それに加わらず、田中派の“孤塁”を守り続けたのであった。やはり、後に田中派の幹部となる渡部恒三元衆院副議長が、筆者にこう言っていたのを思い出す。

 「オヤジ(田中)は、山下さん以外にも、本当に困った相手には、敵味方、与野党問わず助けていた。時には、そんなリスクを背負って大丈夫かといった『獣道』さえ教えていた。“生きるための知恵”を教えていたということだ。こうした絆は、何よりも強いことを、オヤジはたたき上げの人生の中で身につけていたということだろう」。敬称略(政治評論家・小林吉弥)





(私論.私見)