指導者の要件、角栄に学べ論 |
(最新見直し2005.4.20日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
一般に、指導者の要件は次のように解析できるのではなかろうか。これは政界のみならず実業界にも地域の世話役にもいわゆる組織のあるところの普遍原則であるように思われる。指導者には、1・諸事処世能力、2・指導力、統率力、3・先見性、予知能力、4・青写真指針能力、5・人格識見力、6・責任能力とそれを引き受けようとする覚悟、7・人材登用能力、8・環境改変、時代変革力、9・公明正大、権力を乱用しない自制能力等の資質及び能力が必要とされるのではなかろうか。 この評価点が高いほど良き指導者足りえて、逆に低いほど悪しき指導者ということになる。もとより、以上の諸点が万能的に評価されるほどの名指導者を願うことと叶うこととは別の話である。又、必ずしも個人に期待する必要もないと思われる。集団指導体制に対する評価もあり得る訳で、その場合は機関運営主義の原理原則と運営能力が問われることになるであろう。 日本左派運動のアキレス腱は、これらの面で良き指導者に恵まれていないところにあるのではなかろうか。このことは個々の指導者の誠実さ、能力をなじろうとするものでは無い。むしろ、そのように献身的に活動に一生を奉げた人士の輩出にも関わらず、政治的状況が芳しくない原因を探ろうとして敢えて厳しく問いたい訳である。どうやら、成功体験を持っていないマイナー族による左派運動内に縄張り合おうとする風潮が、全てを無に帰しているのではなかろうか。そこで、乾坤一擲の新視点を創造し、提供してみたい。 日本左派運動の主役マルクス主義運動が西欧から生まれたことに関係して、滅法西洋事情に通じている者は多い。滑稽なのは、そういう人士がわが国のことになるとからきし駄目という者も多い。そういうのありだろうか。言語、風習、習慣等々の文化圏の異なるものが、あたかも活写し得るような西洋通であること自体何がしか変調ではなかろうか。そのエネルギーをどうか我が日本史にも費やして欲しいとか思う。 さて、そういう観点で参考になるのは、遠い昔から順に云えば聖徳太子の政治改革がある。しかし、資料の精密さの点で覚束ない。次に、平氏−源氏の武家政権登場政変史もあるが同様に覚束ない。次に、織田-豊臣-徳川の統一政権誕生史もあるが、やはり覚束ない。近いところで幕末志士活動から明治維新の政変史がある。これは是非マスターすべきだろう。少なくともロシア十月革命史に通じる能力をこちらにも運ぶべきであろう。 その他いろいろあるが、れんだいこは、田中角栄の研究を推挙したい。れんだいこ資料として「田中角栄」を作成しているので、その泉から湧き出る豊かな知恵を学ばれれば良いと思う。世上で流布されている角栄像は全く凡論であることに容易に気づくように書き上げているつもりである。未だ未整理であるが、政治論、組織論、処世論、語録どれから学んでも腹の足しになることばかりであろう。 これを初等的にマスターするところからしか実のある運動は生まれないと確信する。田中角栄を学ぶことのもう一つの意義は、承知のように胡散臭いロッキード事件でやられたが、ここに権力構造の凝縮されたものが垣間見えており、現代において政治を志す者には必須の知っておくべきことが宝庫のように見え隠れしていると思われるからである。 政治運動も一つの事業である。これを首尾よく為さしめるには広汎に獲得された素養が要るというのがれんだいこ観点だ。角栄論がその格好教材であることを敢えて注進したい。 2002.5.4日 れんだいこ |
(私論.私見)