田中角栄と小佐野賢治の刎頚の友考

 (最新見直し2010.10.26日)

 ウィキペディア小佐野賢治」その他を参照する。

 1917(大正6)年、山梨県東山梨郡山村(現甲州市勝沼町山地区)の農家小佐野伊作・ひらの夫妻の長男として生まれる。生家は非常に貧しく、幼いころは自宅さえもなく村の寺の軒先を借りる生活であったといわれる。小学校へ入学すると家計を助ける為に、毎朝午前3時に起床して新聞配達を行っていた。

 1931(昭和6)年、東山梨郡東雲村(のち東八代郡祝村と合併し、勝沼町東雲)の東雲尋常小学校高等科を卒業。1933年(昭和8年)に上京し、自動車部品販売店へ就職。勤務態度は非常に真面目であったといい、三年後には店を取り仕切るようになる。その後別の店に引き抜かれ業績を上げるが翌年に倒産。

 1937(昭和12)年、身体は当時としては大きい170cmのがっしりした体躯であり徴兵検査に甲種で合格。 1938年(昭和13年)に陸軍に入隊し中国へ配属。右足に銃弾を受け負傷する。同年年末には院内でマラリアと思われる急性気管支炎のため内地送還となる。

 1940(昭和15)年、再上京、東京トヨタ自動車に入社して商売を勉強。

 1941(昭和16)年、東京芝区(現東京都港区)で自動車部品業「第一商会」を設立。軍需省から受注することに成功大儲けする。

 1943(昭和18)年、軍需省の民間無給委託(高等官二等で佐官待遇)となる。

 1945(昭和20)年、ホテル業務を開始。終戦直後の経済活動が停止し現金のない最中に、根津嘉一郎と東急グループの総帥・五島慶太が、小佐野にそれぞれ熱海ホテル、山中湖ホテル、強羅ホテルの売買を持ちかけた。小佐野はこれに応じて、先行きの見えないこれらの観光資産を買収。この強羅ホテル売買交渉を機会に売主であった五島慶太の知遇を得る。

 1946(昭和21)年、29歳の時、東京観光自動車と東都乗合自動車を東京急行電鉄(五島慶太)から譲り受けてバス事業に進出。

 1947(昭和22)年、社名を国際興業とする。

 この年、旧下総佐倉藩主(旧伯爵家)の血を引く堀田正恒娘・堀田英子(長女)と結婚した。女子学習院(後の学習院女子高等科)卒。1947年に小佐野と結婚。藤島泰輔と旧知の仲。一時期は、藤島の妻であるメリー喜多川姉弟が経営するジャニーズ事務所に融資を続けるスポンサーだった。子供はない。

 1948(昭和23)年、31歳の時、 ガソリンの不正使用の疑いでGHQにより逮捕される。同年9月重労働1年、罰金74,250円の判決を受け服役。1949(昭和24).3月に仮釈放。

 刑期後も精力的に事業を拡大。1950(昭和25)年、田中角栄が社長を務める長岡鉄道(現越後交通)のバス部門拡充に協力したのを切っ掛けに親交を深めた。

 1950(昭和25)年、正木亮弁護士の紹介で田中角栄と知り合う。角栄は次のように証言している。

 「昭和22〜23年頃、正木亮(ひろし)先生の紹介で小佐野氏を知った。特に小佐野氏と親しくなったのは、私が昭和25年に長岡鉄道の社長に就任、同社のバス部門の拡充に際して国際興行から大量に車両の提供を受けたことからです」(ロ事件検察官調書から)。

 年齢も小佐野が1歳上の同年代であり互いが互いを認め、以降、「刎頸の友」と呼ばれるほどの契りを結ぶことになる。

 正木亮(あきら)弁護士の概要履歴は次の通り。正木ひろし弁護士と混同されがちであるが別人とのことである。

 1892.3.25日、広島県佐伯郡玖波村(現・大竹市玖波)出身。1918年、東京帝国大学法科(ドイツ法)法律科卒。 1921年、監獄局入り。1935年、大審院検事。広島控訴院(現・広島高等裁判所)次席検事、前橋地方裁判所検事正などを経て1941年、司法省行刑局長。同年刑務協会(現・矯正協会)会長。1943年、司法省刑政局長。1945年、広島控訴院検事長時代に原爆に遭う。1946年、名古屋控訴院(のち名古屋高等裁判所)検事長に赴任するが公職追放により退官。 弁護士となりその後は矯正協会会長などを務め、矯正保護分野で活躍した。1947年、いずれも駆け出しの田中角栄と小佐野賢治の顧問弁護士だった関係で二人を引き合わせたとされる。1955年、「わが国の死刑存置論は欺まん的な刑法理論の上にある」と「刑罰と社会改良の会」を設立。死刑廃止論を社会運動として展開し、初めて死刑廃止問題が正面から議論される切っ掛けを作った。これは1956年、羽仁五郎らによる国会への死刑廃止法案提出にも繋がった。その後も死刑廃止運動の中心的な人物として活躍。「生命は全地球よりも重し」の言葉は有名。この他、第二東京弁護士会会長、法制審議会委員、公安審査委員会委員長、矯正保護審議会会長、憲法調査会委員などを歴任し晩年の17年間は神奈川大学教授も務めた。1971.8.22日、逝去。

 参考までに正木ひろし弁護士の―履歴は次の通り。
 戦前より軍国主義批判を繰り広げ、戦時中には官憲による拷問を告発した「首なし事件」で有名となった。戦後もプラカード事件、三鷹事件、八海事件、チャタレイ裁判、菅生事件、三里塚事件、丸正事件など多くの反権力裁判、冤罪裁判に関与した反骨の弁護士である。著書多数。1953年に起こった「八海事件」の弁護を担当し、「八海事件」について書いた著書「裁判官」はベストセラーとなり、「真昼の暗黒」という題名で映画化された。

 1961年、44歳の時、山梨交通会長に就任。

 1966年、49歳の時、富士屋ホテルの経営権を握る。

 1969年、52歳の時、十和田観光電鉄買収。1973年、56歳の時、シェラトン・パレス・ホテルを取得。1974年、57歳の時、シェラトン・ワイキキ、ロイヤル・ハワイアン、シェラトン・マウイの3ホテル取得。

 1973年、勧告の朴政権から勲章を贈られている。済州島の開発を許可されたという。

 1976(昭和51)年、ロッキード事件に絡み衆議院予算委員会に第1回証人として全日空社長の若狭得治、丸紅の伊藤博とともに出頭。ここで小佐野が何度も口にした「記憶にございません」は、この年の流行語となった。(衆議院予算委員会1976年2月16日議事録) 

 日本共産党の赤旗特捜班が「日本の黒幕 小佐野賢治の巻 上」(新日本出版)を出版。以降全4冊。

 1977(昭和52)年、国会証言が議院証言法違反に問われ起訴される。

 1981(昭和56)年、懲役1年の実刑判決が下される。判決言い渡し翌日、控訴する。

 1985(昭和60)年、帝国ホテル会長職に就任。犬丸一郎を、帝国ホテルのメインバンクである第一勧業銀行の反対を押し切り社長昇格させる一方、第一勧業銀行出身の藤居寛を副社長に就任させた。

 最晩年、昭和の再建王と称される坪内寿夫に、自らが保有する造船会社(三重造船)の再建を依頼し、具体的なことまで決まり、あとは契約だけのところまできていたが、咄嗟の判断で坪内が手を引いた。そのときのストレスが原因で死去したといわれる。

 1986(昭和61).10.27日、入院先の虎の門病院で死去(享年69歳)。すい臓ガンの手術を受けていたが、直接の死因はストレス性潰瘍だったという。戒名は大乗院殿興栄経国宗賢日治大居士。控訴中だったロッキード裁判もこれにより公訴棄却となった。

 遺産のうち美術品は美術館に寄贈され、また山梨県の発展を目的とした小佐野記念財団が設立されている。


【虎の門事件考】
 ニューエンパイヤモーター鰍ヘフォード車の東京地区における輸入販売業者であり、戦後の1949年、本社を東京都港区虎ノ門の旧虎の門公園跡地約1100坪余り(現虎ノ門三井ビル敷地)に置いた。GHQの肝煎りで東京都から4年間の期限で借用した土地であった。ところが、1950(昭和25)年度の会計検査院決算検査報告で、東京都が国有地を民間企業に貸し出すこと自体が不当であるとして摘発された。1953.1月末に使用期限が切れたが、借地権を主張して立ち退かず、争いが法廷に持ち込まれた。1963.10.1日、「被告は本物件を買受けた後は被告自らこれを所有しかつ利用するものとする」という条件付で虎の門公園跡地約1100坪余りの国有地の払い下げを11億2千万余で受けた。この時期の大蔵大臣が小佐野の刎頚の友、田中角栄であった。

 10.10日、同社は突然「エンパイヤ興業株式会社」に社名変更、更に同日付でまた前と同じ名前の「ニューエンパイヤモーター株式会社」を新設、旧会社の従業員を全て新しい「モーター」に移籍させた。土地の払い下げを受けた「興業」は定款に不動産の売買斡旋業などを追加、翌1964.5.13日、朝日土地興業に27億円で全株譲渡、吸収合併された。これは、「払い下げ国有地5年間転売禁止」の網をかいくぐって、会社譲渡の形を取った事実上の土地売買が行われたことを意味する。この時のニューエンパイヤの全株を保有していたのが国際興業(会長・小佐野賢治)であった。新会社になったニューエンパイヤモーターはこの後、東京都目黒区目黒本町に本社を移し営業を継続した。

 衆議院議員・田中彰治がこの問題を恐喝し、2億4千万円の手形決済を延期させられた。1966.5月、田中彰治議員は恐喝罪で逮捕された。


 田中彰治の概要履歴は次の通り。

 1903.6.18日、新潟県新井市(現妙高市)出身。1949年、第24回衆議院議員総選挙に新潟4区から民主自由党公認で立候補し初当選。その後、所属政党が自由党→鳩山自由党→自由党→日本民主党と変わり、1955年の自由民主党結党に参加、河野派に所属する。決算委員長、自由民主党新潟県支部連合会会長などを歴任。政界のマッチポンプの異名をとる権謀術数で知られた。1966年、いわゆる黒い霧事件で失脚し自民党を離党、9月、議員を辞職。1974年、東京地裁で有罪判決を受け、控訴。1975.11.28日、肝硬変にて死去。


 参考文献
  • 第38回国会 決算委員会虎の門公園地に関する小委員会議事録第2号(昭和36年5月30日)
  • 第70回国会 決算委員会議事録第1号(昭和47年10月27日)





(私論.私見)