小長啓一角栄秘書官考

 更新日/2021(平成31→5.1栄和元/栄和3).1.31日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、小長啓一秘書官考をものしておく。

 2010.11.03日 れんだいこ拝


【「吉永祐介副部長と小長啓一角栄秘書官との奇妙な確執」考】
 小長啓一氏(こなが・けいいち)の経歴は次の通り。

 1953年(昭28年)3月岡山大法文卒、通産省入省、70年企業局立地指導課長、71年7月に田中角栄通産相の秘書官、72年から田中首相秘書官、82年産業政策局長、84年通産省事務次官、86年通産省を退官。91年にアラビア石油社長。岡山県出身。
 ロッキード事件を廻って、「吉永祐介副部長と小長啓一角栄秘書官との奇妙な確執」があり、歴史の摩訶不思議なところとして興味深いので考察しておく。

 二人は岡山の旧制第六高等学校の同期である。戦後の学制改革で六高の文科は岡山大学法文学部となり、昭和28年に卒業している。共に一、二を争う秀才でライバルの間柄であった。両者の輝かしい履歴を確認しておく。

 吉永祐介氏は、1932年2月14日生まれ。飛び級により5年制の旧制西大寺中学校(現・西大寺高校の前身)を4年で終え、旧制第六高等学校に入学。後の通産事務次官・小長啓一が同窓にあたる。戦後、同大学が新制岡山大学に転じ、その1期生として法文学部に入学する。在学中に司法試験に合格し、1955(昭和30)年に法務省に入省し検事任官。東京地検特捜部に通算約14年在籍した。多くの疑獄操作に関わり、ロッキード事件をもっとも長期間にわたって担当することとなった。吉永は捜査段階から主任検事として同事件に取り組み、東京地検では副部長をつとめた。裁判でも初公判から立会い、最高検検事となった後も同事件捜査の指揮をとった。その際、新聞記者に対して「黙れ」、「とにかく今後P3Cと書くことはならん」、「違反したら地検の会見には出させない」と脅している。これにより翌日からP3Cが紙面からきれさっぱり消えたという。また、実質的な司法取引による刑事免責を与えられたロッキード社幹部のコーチャンの証言について、「米国人は聖書に手を置いて証言するから嘘は言わない」と新聞記者に言ったと云う。この時の功労が認められ、1993.12月に第18代検事総長に就任している。それまでの検事総長は東大、京大学閥で占められてきており、地方大学出身の検事総長就任は法務官僚世界の慣例を破ったことになる。検事総長時代、オウム真理教やゼネコン汚職などの事件の捜査を指揮している。1996年退官、弁護士。2004(平成16)年、瑞宝大綬章受章。2013(平成25).6.23日、吉永祐介元検事総長が肺炎のため亡くなった(享年81歳)。

 小長啓一氏は、1930年12月12日、岡山県備前市生まれ。関西中学中退、陸軍幼年学校を経て、旧制西大寺中学卒業、旧制第六高等学校から新制岡山大学に転じた同大学の1期生として文学部法学科に入学する。同期には吉永祐介(検事総長)、奥山雄材(郵政事務次官)がいた。在学中に国家公務員六級職(法律職)試験と司法試験に合格。1953(昭和28)年、卒業と同時に通商産業省に入省。同期には真野温(通産省基礎産業局長、住友電気工業顧問)、若杉和夫(通商産業審議官、石油資源開発顧問)、原田稔(高圧ガス保安協会顧問)、宮本二郎(科技庁官房長、eco21副会長)、和田裕(防衛庁装備局長、パトリス社長)などがいる。1971(昭和46)年、田中角栄通産相の秘書官に抜擢され、日米繊維交渉で獅子奮迅の働きをする田中運輸相に惚れる。田中角栄著「日本列島改造論」のゴ-ストライターと云われる。田中政権が発足すると内閣総理大臣秘書官に登用された。角栄の資源外交のブレーンの一人。1984年6月、東大出身者が当たり前の中、地方大学出身者としては初めて通産事務次官にまで上り詰めた(86年6月まで)。通産省退官後、1989年、アラビア石油に入社し、取締役副社長を経て、1991年に社長に就任している。その後、2003年、AOCホールディングス㈱社長、20004年、同社相談役。20005年、財団法人経済産業調査会会長。2007年2月、弁護士登録。2008年、東京急行電鉄取締役。2008年、財団法人麻布研修センター(現・産業人材研修センター)理事長。2012年、島田法律事務所入所。東京岡山県人会会長を長らく務める。

 1976年、ロッキード事件が勃発すると、かっての同郷ライバルが片や東京地検副部長として角栄を追い詰めて行く、片や小長は角栄の片腕として敏腕を振うことになった。これが歴史の悪戯(いたずら)となった。


 2013(平成25).6.23日、吉永祐介元検事総長が肺炎のため亡くなった(享年81歳)。病気のため長く自宅療養を続けていた。週刊文春2013年7月11日号が、小俣一平(元NHK社会部記者・東京都市大学教授)の次のような一文を載せている。これを転載しコメントしておく(「吉永元検事総長を最も知る元記者が明かす 「最後の言葉」(週刊文春)」)。

 「(2013(平成25)年)6月23日、吉永祐介元検事総長が肺炎のため亡くなった。81歳だった。『上からやれなきゃダメだね』。病気のため、長く自宅療養を続けていた吉永氏と会話らしい会話ができたのは、2010年1月16日が最後だった。この前日、陸山会事件で小沢一郎代議士の元秘書、石川知裕代議士(当時)が逮捕されていた。私がロッキード事件を引き合いに捜査の感想を聞くと、吉永氏はそう語ったのだ。当時、すでに言葉を繋ぐことも難しい状態だったが、『ロッキード』という言葉には、はっきり反応するのが不思議だった。吉永氏の読み通り、『上=小沢氏』を逮捕できなかっただけでなく、捜査の不始末が次々に発覚。その後の特捜検察の体たらくはご存知の通りだ。吉永氏は、主任検事を務めたロッキード事件で田中角栄元首相をいきなり外為法違反で逮捕した。『頂上作戦』と呼ばれる、トップから摘発して行く独自の手法だった。

 その後の吉永氏の検察人生は波瀾万丈だった。東京地検検事正の時にはリクルート事件の陣頭指揮をしたものの、東京の主要ポストには残れず、後は広島、大阪各高検検事長と、お決まりの“上がりポスト”に就いた。ところが、92年の金丸信自民党副総裁(当時)の政治資金規正法違反事件で風向きが変わる。検察が金丸氏を事情聴取もせずに略式起訴したことで、検察への批判の声が噴出したのだ。当時、週刊文春も、『吉永氏を東京に戻し、検察を立て直せ』との論陣を張った。そうした声が翌年の吉永検事総長誕生の流れを作った。

 吉永氏が広島高検検事長の時のことだ。もう先が見えたといささか落胆していた吉永氏に、私は『絶対総長になれますよ。あきらめないで』と励まし続けた。その時、ヒマラヤ取材の際にエベレスト5合目で買ったマニ車をプレゼントした。これは1人1つしか買えない仏具で、1回回せば1回お経を読んだことになる。『回しながら願いごとを唱えれば、必ず叶う』と言うと、吉永氏は満面に笑みを湛えながら、『総長になる。総長になる』と演(や)ってみせた。そういう少年のような気質を持った『鬼検事』だった」。
(私論.私見)
 咎めこそあり褒められるべきものない吉永祐介元検事総長に対し、かくも提灯「鬼検事論」を述べる者は誰ぞと問えば、元NHK社会部記者にして天下りで東京都市大学教授に治まっている小俣一平だと。類は友を呼ぶ法理からすれば似た者同士がよるのは致し方ないとはいえ晩年に至ってなおこの程度しか評しえないとはお粗末としか言いようがない。

 2013.7.8日 れんだいこ拝

【歴史の奇妙な縁としての吉永祐介、小長啓一同窓考】
 「★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK84」の 韃靼人氏の 2010 年 4 月 17 日日付投稿「れんだいこのカンテラ時評711 、2010/04/16、戦後憲法体制と角栄、そのハト派的意義考(角栄の内治主義的政治の特質考)」。
 角栄の政治家論、陳情政治論、政治資金論を確認したついでに角栄政治論そのものを確認しておくことにする。世上に意図的故意に流布されている立花式諸悪の元凶論とは大きく面貌を変えるであろう。なぜ今、角栄を問うのかと云うと、鳩山政権に聞かせたいからである。この思いが通じるだろうか。政治には常に針路をどちらに取り、どう舵を切るのかが問われる。困った時にはカク頼みが良いのではなかろうか。

 歴史は妙な縁を取り持つ。ロッキード事件の際に調子こいた捜査主任検事にして、後に第18代検事総長の座を射とめる吉永祐介は1932年の岡山県岡山市生まれである。他方、通産省随一の俊英の評価を得て後に角栄秘書、アラビア石油社長となった小長啓一は1930年の岡山県備前市生まれである。二人は共に東大入学が保証付きであったところ地元の岡山大学に請われて進学した誉れの同期であり、在学時より双璧の秀才として並び称されていた。その二人が後年、角栄を廻って真反対の立場に立つことになる。滅多にあることではなかろう。

 れんだいこは、同じ秀才ながら吉永はどこにでもいる本質的に利巧バカであり、小長こそ滅多と居ない真正の秀才ではなかろうかと受け止めている。一度お会いしたいのだが、誰か労を取ってくれないだろうか。そういう訳で吉永については関心がない。角栄師事派の小長氏は、角栄を次のように評している。「田中さんが節々でやらせたことは後世の歴史家から必ずや高い評価を受けるときが来ると思っています」。 れんだいこは小長氏の眼力に誼を通じる。れんだいこの見るところ、角栄はそのどれもに卓越した政治的先見性、決断力、独創的で高度な政治哲学をもっていた。こう確認すべきではなかろうか。

 こう確認しないと、あまたの有能官僚が角栄に靡いた史実が理解できない。低脳評論家は、角栄がカネの力で官僚を手なづけたと何の疑問もなく云う。バカなことを云うでない。カネの力で籠絡される官僚が居たとしてもそれは低脳のシオニスタン官僚止まりであり、優秀な官僚ともなると人物の値踏みによってしか動くまい。普通に考えれば分かることが、巷の角栄論には通じない。

 ところで、ロッキード事件の立役者たる立花は「田中真紀子研究」の中で次のように記している。「今の日本の政治に起きていることを本当に理解しようと思ったら、さまざまな意味で、角栄政治、角栄の時代に立ち戻ってみる必要があるということである。そこまで立ち戻ってみないと、小泉改革がなぜ必要になったのかわからないし、小泉改革がなぜうまくいかないのかも分からない」。

 この観点は丁度、れんだいこと反対の立場から、「角栄政治、角栄の時代」を見つめなおそうとしている点で興味深い。角栄政治には、「戦後憲法体制上のハト派的首領」という政治史的な偉業があり、この面での分析を欠いては評せない。にも拘わらず、角栄政治は、立花―日共―マスコミを始めとした自称インテリ派によって金権政治の諸悪の元凶として非難され、政界訴追されていった。

 日共に限って云えば、エセ左派運動の為すことはいつも変調である。れんだいこが日共問題に深く言及する所以がこにある。日共式運動を左派運動などと思っている間中、日本左派運動はマガイモノに耽り続けることになるだろう。もうエエカゲンに終わらせなければなるまい。そうなると、少なくとも六全協より語らねばならない。と云って見ても、六全協そのものを知らないレベルではどうにもならない。

 もとへ。この間、角栄政治の戦後政治史的位置づけや学問的分析が為されることなく今日に至っている。そこで、れんだいこが角栄論に挑んでいる。いつか次の世代の誰かが継承してくれるだろう。角栄が見直され、真に偉大な且つ独裁化することのないシャイな政治家であったことが共認される日が来るだろう。西郷隆盛論然り、歴史は重要な箇所で大きく歪曲されている気がしてならない。

 角栄政治の概要は「田中角栄の政治姿勢」に記したので参考にしていただくとして、ここではハト派的側面に絞って考察してみることにする。題名を「戦後憲法体制と角栄、そのハト派的意義考(角栄の内治主義的政治の特質考)」と命名する。要するに、角栄政治とは何かという課題である。以下、角栄の内治主義的政治の特質その1、社会基盤整備行政。角栄の内治主義的政治の特質その2、反防衛族的軍事費支出抑制と題して考察する。

 該当サイトは「戦後憲法体制と角栄、そのハト派的意義考(角栄の内治主義的政治の特質考)」
 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/kakuei/sisosiseico /kakueiseijinohatohaco.htm)

 2005.9.11日、2010.4.16日再編集 れんだいこ拝  






(私論.私見)