田中角栄と田中清玄の地下提携考

 更新日/2017.1.14日

【角栄-清玄の両田中の繋がり考】 れんだいこ 2004/08/07
 2004.6.28日、戦後戦後にわたる政界の黒幕的な存在として知られている四元義隆(よつもと・よしたか)氏が老衰のため逝去した(享年96歳)。

 四元氏の履歴は次の通り。鹿児島県出身。東京帝国大法科(現東京大法学部)在学中から右翼国粋主義思想を強め、遂に政財界要人暗殺計画にまで至った。1932(昭和7)年、井上準之助元蔵相らが暗殺された血盟団事件に連座して殺人罪で懲役15年の実刑判決を受け服役した。

 恩赦で出獄後、近衛文麿元首相の書生や鈴木貫太郎首相の秘書を務めた。戦後も歴代首相の「陰の指南役」となり、鈴木貫太郎、吉田茂、池田勇人、佐藤栄作、中曽根康弘、細川護煕との繋がりが認められる。1955年に三幸建設工業(東京都中央区)の社長に就任。2000年から会長となり、2003.4月に退任した。乱脈経営で破綻(はたん)した旧安全信組の非常勤理事も務めていた。

 特に親しく接したのは中曽根氏であった。在任中「ご意見番」と呼ばれ、一緒に座禅を組むなど精神的支えとなった。85年8月の靖国神社公式参拝の際のアドバイスでも知られている。その後も、政治の舞台裏で活躍し、細川護煕元首相との繋がりが認められる。細川氏の別荘「近衛山荘」(神奈川県湯河原町)の光熱費を三幸建設工業が一時期負担していた間柄であり、1994.4月に辞任表明する2日前、中山素平、平岩外四両氏とともに東京都内のホテルで会い、退陣を進言した、とのことである。細川の突然の政権投げ出しの背景にこういう史実があったとは。

 れんだいこはこれらのことから次のことを悟る。問題は次のことである。れんだいこが敬愛する「田中角栄とはそりがあわず」、どちらが忌避したのか定かでないが「陰の指南役」の座を降りている。れんだいこはこのことに注目したい。一体、四元義隆とは如何なる人物であったのか、田中角栄とは如何なる人物であったのか。四元氏を取り上げるのはこのサイトの趣旨ではないので角栄につきコメントする。

 れんだいこには、この一事からして角栄のハト派としての濃厚なイデオロギー性が認められるように思われる。角栄のブレーン、取り巻き立ちはいざ知らず、不肖の門下生達が失念しているのがこの角栄のハト派としての濃厚なイデオロギー性では無かろうか。それは種々の理由で当人も隠匿していたが、であるだけに弟子達は阿吽の呼吸で会得すべきことではなかったのか。

 目下、かっての鉄の軍団田中派を割ることで褒めそやされた竹下派の末裔橋本派が苦境に陥っている。この連中は、角栄のこの方面での継承を見事なまでに放擲している無能集団である。唯一継承したのが金権政治だけという腐敗を示しており、その線で青木が未だに醜悪な猿真似し続けようとしている。れんだいこに云わせれば、派閥の時代が終わったのではない、竹下-橋本派が変調無能集団故にその生命力を歴史的に終焉させた、というただそれだけのことのように思われる。

 ところで、角栄政治の時代、四元に代わる政治指南役の地位に就いていたのは誰だろうか。れんだいこには見えてくる。推測するところ、田中清玄がその役に就いていたのではなかろうか。史実上根限り伏せられているがその可能性が強い。これについては今後探索していくつもりである。

 して、田中清玄とは何者か。彼は、戦前の「武装共産党」時代の日共委員長でありこれを指導した。今日の宮顕-不破系日共党中央から最も悪し様に総括されているが、田中清玄委員長時代の日共はその後の活動に有益な種をあちこちに蒔いており党勢を正成長させている。そういう意味で評価されるべき委員長である。今日の日共党史はかような肝心なところを逆さに記述する。結局、史実を知らされていないから、党員達はいかようにも誤魔化されてしまう。

 清玄は戦後は国士となり、主として民族派的経済活動に活躍した。そういう中にあって60年安保闘争を領導したブント全学連運動に血が騒ぎ、良き理解者であり相談役ともなった。これに対し、その頃日共党中央を掌握していた宮顕一派は、60年安保闘争後狂ったように清玄批判を開始する。田中清玄を右翼としてのみ描き出し、「その右翼から資金を得ていたブント運動の非」を太鼓叩いて煽っていった。ブント全学連運動は人民史的財産であるが、これを叩くことに戦闘的になる。日共はこういう悪行を繰り返す。

 70年代の悪行は、ロッキード事件に見舞われた角栄の徹底追撃であった。その詳細は省くが、こうして日共は田中清玄-角栄ラインを徹底攻撃していった史実が刻印されている。その政治的作用は戦後日本の良質なハト派政治を解体させ、剥き出しのタカ派時代を呼び水したのではなかったか。宮顕-不破式日共運動の真の犯罪はこの辺りに認められる、とするのがれんだいこ史観である。

 以上アウトラインを書き付けておく。これを読まれた方はどういう感慨を覚えられるであろうか。愚説として一蹴されるのだろうか。

 2004.8.7日 れんだいこ拝

Re::れんだいこのカンテラ時評834 れんだいこ 2010/10/27
 【角栄-清玄の両田中の繋がり考改訂版】

 田中角栄と田中清玄の関係についての貴重な記述を得たので記しておく。「松岡正剛の千夜一冊」の「第千百十二夜【1112】2006年2月20日」の「田中清玄・大須賀瑞夫『田中清玄自伝』1993 文芸春秋」が次のように記している。

 「田中角栄が首相になってからは、北海油田の開発参加権利をめぐって動いた。日本が北海油田に参加して開発して採取した石油をアメリカに渡す代わりに、アラスカのノースポール油田とBP(ブリティッシュ・ペトロリアム)とエクソンが掘っている油田に日本を参加させろというスワップ方式の提案だった。BPのアースキン卿も賛同した。これは失敗した。事前に情報が漏れたためだった。田中はその漏洩が日本精工社長をやっていた今里広記だと睨んでいるようである。〔彼はもともと株をやっていたですからね。この話を利用して一儲けを企んだんですよ。株をやる奴は当時も今も考えることは同じですよ〕。田中はこうも言っている、〔日本には政治家はだめだけれど、財界人はいいという考えがあるけれど、これは間違いです。政治家と同じです。甘さ、のぼせ上がり、目先だけの権力欲。それを脱していない〕。田中が認めた財界人は、池田成彬、松永安左エ門、経済同友会の代表幹事をつとめて新自由主義を唱えた木川田一隆、大原総一郎、土光敏夫くらいなものだったようだ」。

 他にも「戦後経済史 あの時の真実」(日経社、1988年初版)に次のような記述がある。概要「田中清玄:インドネシアから石油を引いてくるのに駈けずり回っていた頃、『君は何か得るところがあるのか』、田中角栄さんはそう言ったな。『自分の活動で使った借金さえ返せればそれでいい』と言ったら、『うーん、それでいいのか。それにしても清玄さん、あんたは国士だなぁ。おれんところへ来るのは全部利権屋だ。何ぼ儲けるとか、そんなのばっかりだよ。俺はあんたのような人物を待っておったんだよ』と言っていた」。

 清玄の次のような角栄評が遺されている。「(田中元首相との付き合いを聞かれて)田中さんは確かに天才的な人でしたね。今日でも田中さんに対してはいい人だし、そもそも俺はあのロッキード事件というのは、アメリカの差し金と信じているから、何とか名誉回復もしてあげたいと思っています。ただ惜しむらくは田中さんの周りには、知性のある人は一人もいなかった。早大雄弁会の竹下や、金丸程度が関の山だ」。

 清玄と角栄の会話の一端が紹介されている。清玄が角栄に対して次のように鋭く財界批判している。概要「(三井物産の池田芳蔵を評して)財界人などといっても、この手合いはこんな程度ですよ。恥じということを知らん。あんな連中は利権の絡んだところ以外は、動きませんよ。同じ三井の池田だけど、成彬先生と芳蔵では全然違います。釣鐘に提灯だ。役人達はあんた(田中角栄のこと)の役所の両角良彦次官と小長啓一秘書官を除けば後はみんな敵側だ。商社に至っては、目先の利益で動くだけでとても話しにならん」。

 「それから俺はもう今里という人間は一切相手にしなくなった。彼はもともと株をやっていたですからね。この話を利用して一儲けを企んだんですよ。今と同じです。今里はその後死んだが、俺が財界そのものを信用しない理由はそれだ。それが吉田四天王の一人だよ。自分のことだけだ。日本の国には政治家はダメだけど、財界人はいいという考えがあるけど、これは間違いです。政治家と同じです。甘さ、目先だけの権力欲。それを脱しきらなければ、日本人は本当の意味で世界の人たちから尊敬されません。日本になりきり、アジアになりきり、宇宙になりきる、そういう人が今政界でも財界でも、求められているんじゃないでしょうか。三井の池田成彬さん、松永安左エ門さん、それとモンペルラン・ソサイエティーでいろいろご協力いただいた木川田一隆さん、大原総一郎さん、石油の時には土光敏夫さん。いずれも第一級のエコノミストでした。私がお付き合いいただいた財界人たちは、財界人であること以前に、いずれもまず人間として大変立派な人格者であり、また豊かな知性と優れた見識を持つ知識人でした。金を儲けさえすれば良しとする昨今の財界人とは全然違います。社会は豊かに、暮らしは質素にというのが土光さんのモットーでしたが、今それだけのことを実践している人が誰かおりますか。口で言うのは簡単ですが、実行してみせなきゃ」。

 これらによると、「田中角栄と田中清玄の良好な関係」ぶりが知れる。一回りも年長の田中清玄の方がへりくだっているようにも見える。あの人に媚びを売らない清玄がである。角栄の貫禄の凄さを窺うべきではなかろうか。

 れんだいこは、「田中角栄と田中清玄の良好な関係」は伏せに伏せられている裏史実とみなしている。両者の親密さの確認が何故に重要かと云うと、角栄政治の左派的傾向が立証されるからである。通俗的な理解では、日共が諸悪の元凶として角栄を叩きに叩き続けたので、「戦前来の正義の党」として共産党を素朴に畏敬する系譜の者から見れば、角栄ほど悪い奴は居ないと未だに洗脳されている者が居るのも致し方ない。しかしながら、「田中角栄と田中清玄の良好な関係」のプリズムを持ちこむと、角栄諸悪元凶説は途端に曇り始める。れんだいこの言を聞けば途端にガラス細工がもろくも崩れる如くになる。

 田中清玄は、戦後は民族系右翼として政界に暗躍した。専ら米奴系の児玉一派と対抗していた。この辺りを正確に知る必要がある。田中清玄とは何者か。彼は、戦前の「武装共産党」時代の日共委員長であり、弾圧に告ぐ弾圧で壊滅寸前の困難な時代に委員長を引き受け指導した。戦後は国士となり且つ資源系経済活動に活躍した。そういう中にあって60年安保闘争を領導したブント全学連運動に血が騒ぎ、良き理解者であり相談役ともなった。

 これに対し、その頃日共党中央を掌握していた宮顕一派は、60年安保闘争後狂ったように清玄批判を開始する。田中清玄を右翼の親玉として描き出し、「その右翼から資金を得ていたブント運動の非」を太鼓叩いて煽っていった。60年安保闘争を領導したブント全学連運動は人民史的財産であるが、これを叩くことに狂奔した。日共はこういう悪行を諸戦線で執拗に繰り返している。こういうペテンにやられる方もやられる方であろうが。

 日共史では福本時代、武装共産党時代、戦後の徳球時代が揃って否定的に記述されているが、れんだいこ史観では逆になる。福本時代は、マルクス主義の諸論説を日本左派運動が初めて土着化させようと自主的に営為し始めた時代であり、その水準も高かった。日本左派運動派には、これを下手に潰した後遺症が未だに続いており理論音痴となっている。武装共産党時代は後の党運動に重要な基盤となるタネを各所に扶植した時代であり党勢を正成長させている。戦後の徳球時代はGHQの思惑を越えて日本左派運動を名指導しGHQの強権干渉なかりせば国会内に戦後左派政権を樹立していたかも知れない時代であった。

 これらの時代こそ肯定的に総括されるべきである。ところが日共党史ではこぞって罵詈雑言されている。れんだいこ史観に照らせば罵詈雑言されるべき時代が称賛され、特に宮顕の功績が喧伝されていることになる。日共党史はかように肝心なところを逆さに記述する。本当の史実を知らされていないから、党員達はいかようにもゴマかされてしまう。つまり、下手に学べば学ぶほどバカになる仕掛けにされている。故に学ぶにも学び方が必要な時代になっていることを知らねばならない。今日の日共の惨めな逼塞の背景に、こうした変調指導が介在しており、これが党勢衰退の真の原因であるように思われる。そういう意味で疎かにできない。

 もとへ。田中清玄は戦前は武装共産党時代の委員長、戦後は真の民族系右翼として身すぎ世すぎした。この変わり者である田中清玄と田中角栄が妙にウマが合い地下で繋がっていたとしたら、どういうことになるか。田中角栄をも変わり者として見ようと云うのでは話にならない。田中角栄の左派的本質を認めるべきではなかろうか。

 一見、反体制側の委員長、書記長の肩書にある者ともなると左派的革新的に見える。一見、政権党の総裁であったり首相であったりすれば保守的体制的に見える。しかし、肩書を字面通りに受け止め評価するのは子供の能力でしかない。大人になると正しく勘繰ることができるようになる。れんだいこ史観では、種々の事情から政治が捩れており、人は種々にカメレオン化しているので名刺や肩書だけでは信を置くに値しないとみなしている。そういう訳で、人は言葉ではなく行いを見て判断せねばならないと心がけている。本質的なところで共産党委員長が反共的、体制側の政権党首が裏真実的に左派的と云うことは十分考えられると思う。子供の頭脳ではここが解けない。大人になっても同様の者は体だけが大人になったに過ぎない。老人といえども然り。

 れんだいこ史観に照らせば、「田中角栄と田中清玄の良好な関係」はカメレオン同志の左派系提携と見える。正確には左派系とか右派系とかどうでも良いところで成り立っている。そういう役に立たない西欧仕込みの仕分けではなく識別すれば、田中角栄と田中清玄は在地土着的ないわばン千年来陶冶され今日まで続いている縄文系頭脳の邂逅のように映る。これに対して、反角栄反清玄で口を尖らし悦に入る政治家の殆どが右派系であろうが左派系であろうがなべてシオニスタンのように映る。そう、日本政治は、民族系縄文系政治家と売国系シオニスタンが拮抗対立し続けて日々の政治史を刻んでいる。こう確認すべきではなかろうか。

 執拗に続く小沢キード事件、小沢どんに対する政治訴追、辞職運動も、この観点に照らせばたちまち透けて見えてくる話である。誰が口を尖らすのか、エージェントなのか、これを確認すれば良い。

 2010.10.27日 れんだいこ拝

【田中角栄と田中清玄の地下同盟考】
 デイリー新潮の2017年1月4日付け「田中角栄を支えた“もう一人の田中” 右翼の黒幕と協力した資源外交」を参照する。
 角栄は首脳外交を重ねて供給源の拡大を図っていた。その角栄を側面から支援したのが“もう一人の田中”即ち国際エネルギー・コンサルタンツ社の社長“Seigen Tanaka”(田中清玄)だった。七三年九月、田中首相一行は欧州各国やソ連を歴訪しているが、田中清玄はその直前に訪英し根回ししている。彼は海外で「東京タイガー」と呼ばれていた国際的フィクサーであった。戦前の武装共産党で書記長を務めた履歴を持ち、治安維持法違反で11年獄中で過ごし、その後は右翼に転向して激烈な愛国主義者に転じていた。戦後は海外の石油開発などの事業を手掛け、中国のトウ小平やアラブ首長国連邦のシェイク・ザイド大統領、欧州の名門ハプスブルク家の当主オットー大公、山口組三代目の田岡一雄組長など絢爛たる人脈を持っていた。この訪英で田中首相は国際石油資本ブリティッシュ・ペトロリアム(BP)が保有する北海油田の権益獲得を目指したが、その交渉で英国政府やBPとの仲介役を果たしたのが清玄だった。彼の元側近によると、折に触れて入手した国際情勢に関する情報を個人的に田中首相に届けていたという。この動きを米国CIAは注意深く見守っており、機密解除された当時のインテリジェンス報告に次のような記述がある。「日本のエネルギー問題に於ける長期的目標は国際石油資本への依存を減らしつつ安定的な石油供給源を確保する事である」、「それを促進するため日本政府は産油国との直接取引をしたいと考えており、(中略)日本企業も海外勢が保有する石油権益を買い入れて生産量の一部を獲得しようとしている」(七三年一一月九日、CIA報告書)。この報告は更にアブダビや北海、インドネシアなどでの日本の権益の交渉状況に触れているが、これらはいずれも田中首相や清玄が手掛けた案件である。

 このロンドン滞在中に清玄は独自に入手した情報として近く中東で戦火が上がる可能性が高いと警告する書簡を英国政府首脳に届けているが、それは翌月に勃発した第四次中東戦争で的中した。七三年一〇月六日のエジプトとシリアによるイスラエル奇襲で幕を開けた第四次中東戦争でアラブ産油国は石油戦略を発動してきた。消費国の対イスラエル外交の変更を求めて原油の生産削減を通告し、各国にパニックが広がる中で一一月中旬、今や国務長官となったヘンリー・キッシンジャーが田中と対応を協議するため急遽来日した。その時の米側議事録は次のように記している。「田中は今回の中東危機では米国よりも日本に大きな影響をもたらす面があり、それは石油だと語った。(中略)石油積み出しを二〇パーセント削減したアラブはさらに三〇パーセントまで減らすと通告している。そのため政府は今月二〇日までに電力消費を一〇パーセント減らさねばならないが産業界への影響は甚大だと言う」、「(田中によると電力消費削減は)来年一月から三月には一五から二〇パーセントの幅に拡大され、その場合、同時期のGNP成長率はマイナス五・五パーセントまで減少するだろう。これは深刻な問題であり(中略)来年三月末までに日本の石油在庫は最低限まで落ち込むと言う」(七三年一一月一五日、国務省文書)。

(私論.私見)

 徳本栄一郎は云う。「それは米国の国務省文書がいみじくも指摘したように長期的戦略より短期の解決、そして国際情勢をも無視した猪突猛進の政治だった。ここに彼を殊更「天才」と持ち上げる事への危うさがある。今も多くの日本人に愛憎と郷愁の念を抱かせる田中角栄とは“愛すべき偉大な親父”であり、同時に“とてつもない反面教師”であった」。懲りない反角栄闘士の徳本栄一郎の言である。彼の解釈はどうでも良いものの、田中角栄と田中清玄の地下同盟に言及しているので採録しておく。

 2017.1.14日 れんだいこ拝





(私論.私見)