角栄シンパ財界人反目財界人考

 更新日/2021(平成31→5.1栄和元/栄和3).1.31日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「角栄シンパ財界人反目財界人考」をものしておく。

 2006.3.13日再書き込み れんだいこ拝


【8、財界・政商】
大河内正敏 理研の創業者。
政商 五島慶太 東急の創業者。
小佐野賢治 刎頚の友。
田中清玄 三幸建設社長
財界 中山素平 日本興業銀行相談役。「財界の鞍馬天狗」の異名を持つ。
今里広記 日本精工会長。資源外交に同行する。
藤井丙午 新日本製鉄副社長
市村清 リコー・三愛グループ創業者
岡田茂 三越
堤義明 西武西武グループ総帥
江戸英雄 三井不動産相談役
 当時の財界四天王-小林中・アラビア石油会長、永野重雄・日本商工会議所会頭、桜田武、水野成夫。このうち、永野は角栄を評価し、桜田は嫌った風がある。稲山嘉寛・新日鉄会長。

 田中系は中山素平、今里広記の資源派。他には土光敏夫・東芝会長、平岩外四らが高く評価していた。西武鉄道グループの総裁・堤義明は可愛がられた方であり、堤も評価していた。

 石坂泰三、桜田武、植村甲午郎、木川田一隆(東電社長→会長、経済同友会代表幹事)らは嫌った風がある。
新興企業

【藤井丙午と田中角栄先生の思い出】
 仮題「藤井孝男の国を動かした人々、一期一会、藤井丙午と田中角栄先生の思い出」を転載しておく。
2006年4月・7月 ~国を動かした人々~  広報誌すくらむより 
 故田中角栄元総理と私の父故藤井丙午は本当に親しい間柄でありました。「財界の政治部長」と呼ばれた父と田中角栄先生の関係がいつから生じたのか、今となっては知るよしもありませんが、生前父が「多くの政治家とつきあいはあるが、尊敬できる人物は2~3人しかいない」と言っていた中のお一人でありました。
 
 昭和49年に父は、当時総理であった田中先生から強く進められ、参議院選挙に岐阜地方区から出馬し政界に入りました。私は昭和52年にサラリーマンをやめ父の秘書になり政治の世界に入ってきたのでありますが、当時、父が田中先生にお会いする席によく陪席させていただきましたが、田中先生はざっくばらんな楽しい方で、また様々なことを知悉しておられ実に勉強になりました。

 残念なことに父は2度目の当選の半年後に病に倒れ他界いたしましたが、通夜の席にこられた田中先生は他の会葬者が帰られた後もじっと霊前に頭を垂れておられました。父の葬儀の後、参議院議員の補欠選挙をどうするかという問題に直面し、自民党岐阜県連も含め大いに揉めたわけでありますが、このとき私は目白の田中邸に呼ばれまして、「藤井君、自民党の岐阜県連が推薦してきたものを公認とするんだよ。大変厳しい状況だけれども、君はお父さんのために一所懸命尽くしてきて県会議員も地元の皆さんも君に好感を持っている。一人でも多くの皆さん方に君の気持ちを伝えてこい。そうしたらきっとよい結果が出るだろう」と励ましを受けました。紆余曲折の後、最終的に私が公認候補となって初陣を飾ることができましたが、思えば田中先生の陰に陽にのお支えがあったことは間違いありません。

 補選に当選後、最初にぶつかったのはどこの派閥に所属するかという問題でありました。私自身は、いささかの迷いもなく田中角栄先生の門をたたいたのですが、当時、田中先生はロッキード事件で刑事被告人となっていました。最近になって田中角栄無罪論もでてきていますが、そのときは金権腐敗の象徴のように言われ、私の後援者の中にも「田中派に入るのは好ましくない」雰囲気がありました。

 そこで一計を案じ、「地元の皆さんは、マスコミで報じられる田中先生の姿しか知らない。直接会えば、田中先生の人柄や、父藤井丙午との因縁もきっとわかってもらえる」と思い、バス数台をチャーターして私の後援会幹部を目白の田中邸に案内しました。田中先生は多忙を極める毎日でありましたが、当日、田中先生は背広に下駄といういつものいでたちで私たちを出迎え、そして中庭でミカン箱のようなもので作られた演台に立ち、「や~、よう来たな」とあの名調子で私の後援者に向かって蕩々と、亡き父藤井丙午との思い出話に始まり、岐阜県の抱える課題や、政治の問題、そして私に対する期待感というものを1時間近くにわたって力強く語っていただきました。特に岐阜県に関することは、よくぞそこまで知っていると思うほど、緻密で詳細なお話で、皆一様に度肝を抜かれたといった様子で、田中先生の家を辞し、バスに乗ったとたん、帰りの道のりは皆が田中先生の話題で持ちきりになり、「いや、驚いた」「田中先生はすばらしい方だ」「藤井さんが田中派に入ろうという理由がよくわかった」と口々にご賛同を頂き、ほっとすると同時に、私自身田中先生の懐の深さ、政治家としてのスケールの大きさというものを改めて痛感したことを思い出します。

 昭和60年2月7日、小沢一郎先生や渡部恒三先生等が中心となって故竹下登先生を次の総理にしようという勉強会「創世会」を旗揚げし、私も参議院から参加いたしました。そのときに「藤井孝男、おまえはお世話になった田中角栄先生を裏切るのか」という厳しい声もありましたが、私は裏切るとかいうのではなく将来の総理候補として竹下先生を支えていこうということで参加いたしました。当時田中派のお家騒動と言われましたが、その折田中角栄先生の事務所から「おやじが参議院の若手に会いたい」と言っているという話が来ました。われわれは「怒られるのかな」と躊躇もしましたが、結局私と竹山裕先生、それから引退された松岡満寿男先生の3人が2月27日の朝8時に目白の田中邸をお尋ねいたしました。ちょっと待たされまして8時半頃応接でお会いいたしましたが、田中先生はすこし顔色が悪いなという印象がありました。そして番茶かウーロン茶が入ったコップを片手に、たばこをスパスパと吸いながら、いつもの口調で若手の政治家はいかにあるべきか、その心構えなどを蕩々と語られました。われわれは怒られるんじゃないかという不安の中でお伺いしたわけですが、逆に励まされるような話を1時間半ぐらい、次のお客さんは東京都の副知事さんだったと記憶しますが、秘書の方が時間ですというまでお話をうかがって、しかも次の方が待っているのに玄関まで見送っていただき「若手ががんばらなきゃいかんぞ」と励まされ、恐縮しながら田中邸を後にしました。

 そしてその日の午後でした。田中先生が脳梗塞で倒れられたのは。聞くところによれば、最後に会った国会議員が私たちだったということです。非常にショックでした。われわれがストレスを与えてしまったのではという思いに苛まれました。幸い一命は取り留められましたが、その後一度もお目にかかることなく田中先生は平成10年12月16日に他界されました。

 田中先生は政治家として、厳しくも温かいその人柄、決断力と行動力は卓越したものがありました。田中先生に対する評価は様々なものがございますが、歴史の中で必ずやその功績が正しく評価されるときが来ることを信じてやみません。

【田中清玄との繋がり】
 週刊新潮 2016年11月17日号掲載、徳本栄一郎「“タフネゴシエイター”田中角栄 機密解除文書から読み解くその姿」。
 ■タフネゴシエイター「田中角栄」の残像(上)

 日本は「経済一流、外交三流」とよく言われる。もっとも、近ごろ再評価の動きのある田中角栄は首相時代、「タフネゴシエイター」と評された。ジャーナリストの徳本栄一郎氏が、独自に入手した米国や英国の機密解除文書を読み解き、田中外交の「光と影」に迫る。

 ***
 新潟県柏崎市の西山町は山間に位置する静かな土地で、その小高い丘の上に田中角榮記念館はある。地元出身の田中角栄元首相の生前の写真や遺墨、愛用した品が展示され、死後二三年を経た今でも故郷の人々に敬愛されているのが伝わる。ここ数年、わが国では再び田中角栄ブームが沸き起こってきた。元首相の評伝や名語録が相次いで出版されて、その激動の生涯や強烈な個性に関心が集まっている。雪深い新潟の極貧農家に生まれて小学校卒の学歴で首相の座に上り詰め、そして日中国交回復や日本列島改造を断行した生き様を元国会議員の石原慎太郎は「天才」と形容した。だが正直言って私は今の角栄ブームには大きな違和感と物足りなさを覚えてならない。その名語録や人間臭い人心掌握のエピソードをいくら読んでも、本人のごく表層しか触れていない気がしてならないのだ。かつて私は石油危機に襲われた七〇年代の日本が原発にのめり込む過程を調べた際、田中政権に関する膨大な英米政府の機密解除文書を入手した。ホワイトハウスや国務省、CIA(中央情報局)などが作成したファイルで、それを小説の形にまとめたのが『臨界』(新潮社)である。そこから浮かび上がったのは戦後に出現した田中角栄という特異な政治家の存在感、辣腕ぶり、そして天才であるが故に挫折していった悲劇だった。
 ■日米貿易摩擦 キッシンジャーとの会談

 田中を評してよく使われる言葉に「決断と実行」「コンピュータ付きブルドーザー」がある。数字に滅法強くてずば抜けた豪胆さと頭の回転の速さで懸案を次々に解決する意味で、それが遺憾なく発揮されたのが日米貿易摩擦だった。首相に就任した翌月の一九七二年八月一九日、夏休みで軽井沢に滞在中の田中の元に一人の米政府要人が訪ねてきた。彼の名はヘンリー・キッシンジャー、ニクソン大統領の国家安全保障問題担当補佐官で約半月後に迫ったハワイでの日米首脳会談の打ち合わせに来たのだ。そしてこの日、二人の主な議題の一つが深刻な日本の貿易黒字の削減だった。六〇年代後半のわが国は「いざなぎ景気」と呼ばれる高度成長を謳歌して米国に次ぐ経済大国となるが、それに比例して急増したのが対米貿易黒字だった六七年に三億ドルだった黒字は六八年に一一億ドル、七一年には三二億ドルまで膨れ上がり米国内では市場開放を求める声が沸騰した。日本政府は輸入促進の緊急経済対策をまとめたが焼け石に水で、日米の緊張が高まる中、新首相となった田中はどう取り組んだか。万平ホテルでのキッシンジャーとの会談は予定を超えて三時間に及んだが、その直後に米側が作成した議事録が手元にある。
田中  「あなたが来日されると聞いてから私は役人に短期と長期の貿易見通しを調べるよう指示し、自分でも数字を見てみました。正直言って半年や一年で問題のないバランスまで貿易収支を改善するのは可能でないと思います。三年あれば今ほどの不均衡は是正されるでしょうが(後略)」。
キッシンジャー  「首相は『問題のないバランス』という言葉をどう定義されますか」。
田中  「それは正確には答えづらい質問です。貿易収支とは基本的に多国間で考えるべきで日米だけでは達成できないからです。昨年の数字を見ると不均衡の金額は三二億ドルでしたが、私は役人に今年度末までに三〇億ドルを下回る手段を考えろ、それが無理なら国際的に状況を改善する他の手段を見つけろと指示しました」。
 ■人心掌握術

 そして田中は具体的な解決策、米国からの輸入増加にずばり切り込む。
 「日本側には濃縮ウラン、民間航空機、農産物の購入の問題があります。この内、農産物については当初の予測の三億九〇〇〇万ドルに加えて五〇〇〇万ドルの特別購入をするので四億四〇〇〇万ドルになります。この数字は五億ドルに達する可能性もありますよ」。
 「内密に願いますが、私は米国からの軍備購入を増やせないか検討するよう関係当局に指示しました。現在の購入額は約七億ドルですが、これを例えば八億五〇〇〇万ドルまで増やせないかとの内容です。もしあなたが三月末までの統計値に反映させろと言うなら、それは不可能な話です。私が言ってるのは例えば五年の期間なら可能だという事です」。

 田中が官僚の人心掌握と操縦術に長けていたのは有名な話である。各省庁のエリート官僚の入省年次や公務員試験の席次まで頭に叩き込んで信頼関係を築いてブレーンに活用した。自信に満ちた口調で具体的な品目と数字を矢継ぎ早に出す話し方から、それが申し分なく威力を発揮したのが分かる。そしてこの会談で最も田中らしさを感じさせたのは次の発言だった。
 「率直に言いますが、繊維問題についての佐藤・ニクソン会談では『善処する』という東洋的、いや日本的な表現が使われたと思います。わが国の国会で誰かがそう言ったなら、それは前向きの姿勢として受け取られますが外国の政府はそうではないでしょう。私はそうした誤解を避けたいと考えているんです」。
 ■問題解決者

 この言葉の背景にはその二年前、ワシントンで行われた日米首脳会談での失態があった。この場でニクソン大統領は田中の前任者の佐藤栄作首相に、国内産業を守るために繊維の自主的な輸出規制を要請してきた。これに佐藤は「善処します」と答えたが外務省の通訳は何と「ドゥー・マイ・ベスト(全力を尽くします)」と訳してしまった。佐藤にすれば要請に応じる気はさらさらなく適当に相槌を打っただけかもしれないが、結果的に裏切られた米政府は激怒してしまう。のらりくらりと曖昧な態度を取って英訳困難な日本語を使った佐藤の責任で、それを田中は熟知していたようだ。

 ちょうどキッシンジャーが軽井沢を訪れた頃、東京の米国大使館から国務省に送られた一通の機密報告書がある。タイトルは「タナカ・ザ・マン」、田中の性格や思考パターンを分析した文書で、そこには「問題解決者」「意思決定者」と書かれていた。
 「田中は抽象的よりも具体的な問題を得意とする人物として知られる。ある問題を理解できれば全ての側面を休みなく議論して、素晴らしい想像力と創造性を発揮しやすい」。
 「基本的に田中は理論家と言うよりも問題解決者である。(中略)一方でその取り組み方は長期的戦略よりも短期の戦術的解決に重点を置いている」。
 「問題解決の際に田中が見せる豪胆さや率直さ、利用できる物は何でも使おうとする姿勢は日本社会の伝統に反するが、それは例外ではなく、戦後の虚無主義と弱肉強食の空気の中で成功してきた事を反映している」(七二年八月、国務省文書)。

 田中にとって日米貿易摩擦はまさに本領を発揮した分野で、それまで培った官界人脈と決断力を十二分に見せつける場だった。両国の政府が頭を悩ませてきた巨額黒字はわずか一年で解消に向かったのだった。(文中敬称略)
 徳本栄一郎(とくもと・えいいちろう)

 1963年佐賀県生まれ。英国ロイター通信特派員を経て、ジャーナリストとして活躍。国際政治・経済を主なテーマに取材活動を続けている。ノンフィクションの著書は『角栄失脚 歪められた真実』(光文社)、『1945 日本占領』(新潮社)等多数、小説に『臨界』(新潮社)がある。
 週刊新潮 2016年11月17日号掲載、徳本栄一郎「田中角栄を支えた“もう一人の田中” 右翼の黒幕と協力した資源外交」。
 ■タフネゴシエイター「田中角栄」の残像(下)

 ジャーナリストの徳本栄一郎氏が、独自に入手した機密解除文書を元に、「タフネゴシエイター」と評された田中角栄の姿に迫る。
 ***

 世間の慣習や前例に囚われない田中の豪胆さが垣間見えるもう一つのエピソード、それが首相在任中に推し進めた資源外交、特に石油の確保である。すでに高度成長で日本の石油消費は急増しており、ほぼ全量を海外に、それも政情不安定な中東に依存していた。このまま経済成長が続けば石油が足りなくなると危惧した田中は自ら首脳外交を重ねて供給源の拡大を図っていた。だが石油は産油国に加えてメジャーと呼ばれる国際石油資本や大国の思惑が複雑に絡む魑魅魍魎の世界だ。『臨界』(新潮社)でも描いたが、ここで首相を側面から支援した“もう一人の田中”が登場する。
 ■東京タイガー

 七三年九月から田中首相一行は欧州各国やソ連を歴訪しているが、私はロンドンの国立公文書館で当時の英国政府文書を調べてみた。そこで首相の直前に訪英した日本の財界人ファイルを入手して、その中の国際エネルギー・コンサルタンツ社の社長“Seigen Tanaka”という名前が目を引いた。田中清玄、海外で「東京タイガー」と呼ばれた国際的フィクサーで右翼の黒幕である。戦前の武装共産党で書記長を務めた清玄は治安維持法違反で一一年を獄中で過ごし、その後は右翼に転向して熱烈な天皇主義者となった。また海外の石油開発などの事業を手掛けて中国のトウ小平やアラブ首長国連邦のシェイク・ザイド大統領、欧州の名門ハプスブルク家の当主オットー大公、山口組三代目の田岡一雄組長など絢爛たる人脈を持つ人物として知られた。この訪英で田中首相は国際石油資本ブリティッシュ・ペトロリアム(BP)が保有する北海油田の権益獲得を目指したが、その交渉で英国政府やBPとの仲介役を果たしたのが清玄だった。彼の元側近によると、折に触れて入手した国際情勢に関する情報を個人的に田中首相に届けていたという。現職の首相と右翼の黒幕が手を取り合って石油確保を図るなど今からでは想像もしにくいが、当時のわが国はまさにオール・ジャパンで資源外交に取り組んでいたのだった。

 そしてこれらの動きは米国のCIAも大きな関心を寄せていたようだ。機密解除された当時のインテリジェンス報告に次のような記述がある。
 「日本のエネルギー問題に於ける長期的目標は国際石油資本への依存を減らしつつ安定的な石油供給源を確保する事である」。「それを促進するため日本政府は産油国との直接取引をしたいと考えており、(中略)日本企業も海外勢が保有する石油権益を買い入れて生産量の一部を獲得しようとしている」(七三年一一月九日、CIA報告書)。

 その上でこの報告はアブダビや北海、インドネシアなどでの日本の権益の交渉状況に触れているが、これらはいずれも田中首相や清玄が手掛けた案件である。またこのロンドン滞在中に清玄は独自に入手した情報として近く中東で戦火が上がる可能性が高いと警告する書簡を英国政府首脳に届けているが、それは翌月に勃発した第四次中東戦争で的中した。そしてそれが田中首相の運命を狂わせてしまったのだった。
 ■反面教師

 七三年一〇月六日のエジプトとシリアによるイスラエル奇襲で幕を開けた第四次中東戦争でアラブ産油国は石油戦略を発動してきた。消費国の対イスラエル外交の変更を求めて原油の生産削減を通告し、各国にパニックが広がる中で一一月中旬、今や国務長官となったヘンリー・キッシンジャーが田中と対応を協議するため急遽来日した。その時の米側議事録からは想定外の事態に狼狽する田中の様子が見えてくる。
 「田中は今回の中東危機では米国よりも日本に大きな影響をもたらす面があり、それは石油だと語った。(中略)石油積み出しを二〇パーセント削減したアラブはさらに三〇パーセントまで減らすと通告している。そのため政府は今月二〇日までに電力消費を一〇パーセント減らさねばならないが産業界への影響は甚大だと言う」。
 「(田中によると電力消費削減は)来年一月から三月には一五から二〇パーセントの幅に拡大され、その場合、同時期のGNP成長率はマイナス五・五パーセントまで減少するだろう。これは深刻な問題であり(中略)来年三月末までに日本の石油在庫は最低限まで落ち込むと言う」(七三年一一月一五日、国務省文書)。

 おそらく事前に官僚から綿密なレクチャーを受けたのだろう。キッシンジャーに口を挟む間も与えずに、必死の形相で機関銃のように数字を捲し立てる田中の顔が目に浮かぶ。その後、政府は原発建設を進めるため地元に巨額の交付金を落とす電源三法を制定させるが、ここで重要なのは、じつは懸念とは逆に日本の原油の輸入は減っていなかったという事実である。危機の最中に通産省は原油供給量のシミュレーションを行ったが、洋上のタンカー輸送量の計算ミスなどが重なって削減量を過大に見積もっていた。石油は足りていたのだ。誰よりも官僚を信頼して大切にしていた田中が、その同じ官僚にミスリードされたのは皮肉としか言いようがない。さらに悲劇なのは石油危機が直撃した頃、田中が長年の悲願である日本列島改造を推し進めていた事だった。冒頭(※「上」の冒頭)で紹介した新潟の角榮記念館には、これまで地元の市町村長から贈られた古い感謝決議がいくつも展示されている。高度成長期に鉄道や国道を誘致してくれた事への感謝状で、さらに田中は官僚のブレーンを結集して新幹線や高速道路網を全国に広げようとしていた。だがそれは全国で土地投機を引き起こし、折しも石油危機も加わって列島改造は狂乱物価の元凶とされてしまった。いわば田中は最悪のタイミングで最悪の政策を進めていたのだ。
 ■コンプレックス

 では私たちは田中角栄という政治家の光と影をどう見たらいいのだろう。それには長年側近として彼を見てきた秘書の早坂茂三の証言が正鵠を得ているように思える。
 「角栄は政治家として終わりを全うできなかった。理由はいろいろある。ロッキード事件があった。だが、一番の原因は自己過信である。彼は自分の力に絶大な自信を持っていた。同時にデリケートな田中は、その深層心理の中にコンプレックスを隠し持っていた。その対象は東京帝国大学、学者、素性のよいエスタブリッシュメントである。私はこの不世出の鬼才に二三年間、仕えたが、折にふれて、親方のコンプレックスを垣間見た。『帝大とか学者といってもロクなやつがいない』とか、『育ちがいいだけでは、ものの役に立たない』という親方の話を聞いて、私は逆に、彼がエリートに抱いている一種のまぶしさ、遥かなるものへの思いを強く感じた」(早坂茂三著『捨てる神に拾う神』)。

 そして早坂は田中の偉大さはこのコンプレックスをバネにして深夜、自宅の寝室で鬼気迫る勉強を続けた事だと言う。それは東大卒の佐藤が手を焼いた日米貿易摩擦を小学校卒の田中がたった一年で解決した事でもよく分かる。だがそれは米国の国務省文書がいみじくも指摘したように長期的戦略より短期の解決、そして国際情勢をも無視した猪突猛進の政治だった。ここに彼を殊更「天才」と持ち上げる事への危うさがある。今も多くの日本人に愛憎と郷愁の念を抱かせる田中角栄とは“愛すべき偉大な親父”であり、同時に“とてつもない反面教師”であった。(文中敬称略)

【田中シンパ財界人】

 新総合政策研究会会員

中山一郎 日本軽金属相談役
渥美健夫 鹿島建設社長
石田正美 出光興産会長
稲井好広 三菱金属社長
尾本信平 三井金属鉱業社長
菊地庄次郎 日本郵船社長
北裏喜一郎 野村證券社長
久保富夫 三菱自工社長
田口連三 石川島播磨重工会長
中山善郎 大協石油社長
永山時雄 昭和石油社長
西村恒三郎 住友重工社長
長谷部照正 日興リサーチ社長
馬場崎哲 三菱電機取締役
藤田一暁 フジタ工業社長
安居喜造 東レ会長
山形栄治 新日鉄取締役

【田中反目財界人】

堤義明バッシング考
 「★阿修羅♪ > 日本の事件17 」のTORA 氏の2005 年 10 月 31 日付投稿「沢口靖子、南野陽子、小谷実可子、八木沼純子、伊東美咲や佐藤江梨子を食った堤義明 きっこの日記」その他参照。

株式日記と経済展望
http://www5.plala.or.jp/kabusiki/kabu105.htm
http://blog.goo.ne.jp/2005tora/

 故・太地喜和子をはじめとして、吉永小百合、三田佳子、岡田茉莉子、水沢アキ、沢口靖子、南野陽子、小谷実可子、八木沼純子、伊東美咲や佐藤江梨子を食った堤義明

 2005年10月31日

 ◆2005/10/28 (金) インサイダー天国ニポン 1 きっこの日記
 http://www3.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=338790&log=20051028

 西部グループのドン、堤義明は、故・太地喜和子、吉永小百合、三田佳子、岡田茉莉子、水沢アキ、沢口靖子、南野陽子、小谷実可子、八木沼純子、後に、伊東美咲、佐藤江梨子らの女優やタレントをカタッパシから食いまくって来た。

 2004.10月、東京地検特捜部のインサイダー取引の捜査が始まる。コイズミがSMデリバリーを堪能する時に良く利用してる赤坂プリンスのスイートを貸し切りにしている。

 2005.10.27日、堤義明の「証券取引法違反(虚偽記載とインサイダー取引)」に対しての判決公判が、東京地裁で行なわれ、「懲役2年6月、執行猶予4年、罰金500万円」判決が出た。栃木力裁判長は、「企業のトップが中心となった組織的な違法行為で強い非難に値する。経済界や社会に与えた衝撃は大きい」としつつ執行猶予付き判決。

 堤義明は、莫大な資産を持ち、約36%ものコクド株を持ち、何人もの愛人を囲い、ゼイタクな暮らしを満喫している。アメリカのインサイダー取引の場合、「10年以下の自由刑、または100万ドル(1億1千万円)以下の罰金」という厳罰な上に、この罰金の他に「儲けた金額の3倍」のお金を民事制裁金として課せられる。これほどの法律があるから、インサイダー取引をするのは、犯罪を専門にしてる闇の組織だけだ。
アメリカでは、「ジャンクボンド(回収の可能性が低い債権)の帝王」って呼ばれてたマイケル・ミルケンが、1988年にインサイダー取引で逮捕されて、禁固10年の実刑判決を受けたが、やったことの内容は堤義明と同レベルだ。だから、もしもここがアメリカだったら、堤義明も刑務所行きだった。
(私論.私見)
 きっこの日記」は時に鋭い批評で知られるが、著作権にうるさい強権著作権派にして、反角栄、反角栄シンパ財界人の健筆を振るう御仁である。




(私論.私見)