田中角栄の下半身行状考 |
(最新見直し2005.11.28日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
「政治@2ch掲示板」で、「田中角栄」のスレッドが立ち、角栄について種々言及されている。批判派、擁護派双方の遣り取りが為されており、水準の高い者はないにしても参考になるにはなる。そのうちで、角栄の下半身行状が論及されており、その挙句として山拓、小泉の下半身行状も右同じで免責される論へと辿り着いている。ミソとクソの区別が付かないあまりの馬鹿馬鹿しにあきれているが、ひょっとしてこういうレベルまでれんだいこが論考しておかねば分からない時代になっているのではなかろうかと思い直し、本サイトを設けることにした。 2005.3.2日 れんだいこ拝 |
【下半身行状考】 |
角栄の下半身行状と山拓の下半身行状とどこが違うのかにつき、手っ取り早く解説しておく。結論から云えば、山拓の下半身行状は、当の相手から告発されており、しかも行状の中身が下衆過ぎる。それに比して、角栄の下半身行状につき、当の相手から告発された例を寡聞にして知らない。その差は大きいというべきではないか。 貧富社会にあっては一般に、富める者がその私的富の範囲で何に使おうがそれを咎める術はない。それを女性に投じたとしても、そのことでとやかく云われる筋合いのものではない。道徳的倫理的に云々するのは構わないが、その説法が正しいという訳ではない。それはあくまで「小さなコップの世界」の中での一見識に過ぎない。 人が峻別されたり評価されるのは、その御仁の職業及び仕事の中身においてであろう。社会的に有益な本業に従事し、その本業の担い方が合目的であり、且つそれに精出しておれば、その御仁の真価はそこに求められるべきである。比喩的に云えば、相撲取りは土俵の中に命があり、歌手は歌唱パフォーマンスに命があり、勝負師は勝負に命がけであればそれで良い。政治家も然りで、国民から負託された代議士として職分を尽くせばそれで良い。本来は、公人であればあるほどここが厳しく問われるべきだろう。 その御仁が、本業から離れたところで、時間と金をどう費消しようがそれは詮索されるに及ばない。なぜなら、人間種族の生態は極めつくされておらず、いろんな意味での千差万別風景があって良いからである。むしろそうあるべきではなかろうか。それこそまさに個性であろう。「英雄色を好む」とも云われる。そういうことも含めて、この世の中で、画一的にこうあるべきだとするほどのものは何もない、そういう観点を確立したい。 問題は、その個性が、相手との利害衝突に於いて、強権的過ぎる場合に於いてあるいは何らかの不具合に於いて発生するリアクションによるトラブルにある。その時の対処の仕方に人格が現われる。その対処時に時には犯罪が絡んだりする。この点に於いて、角栄が、云われるところの下半身行状に於いて模範的な対応をしている点をみてとらねばならない。山拓のそれが無茶苦茶であることを窺い知らねばならない。小泉のそれは目下裁判を受けているので、追って真相があきらかになるだろう。 二号が居るから悪いだの、子供を生ますとなお悪いだの、三号、四号がいるなら余計悪いだの、家族関係が複雑だから悪いだのは余計な悪い論に過ぎない。それは当人同士が決めることで、この辺りの機微は昔から文学で問われ続けてきているところであり、今もって少しも律化できず、するには及ばないところのものであろう。 悪いのは、相手の同意のない場合の又は地位利用又は甘言による相手の抵抗意思を押さえ込む凌辱レイプ行為、同じくセクハラ行為、同じく強要行為であり、相互の自由自主自律的行為については妄りに口を差し挟まない嗜みを持つのを大人と云う。これは商行為による男女の営みにも適用し得ると考える。 れんだいこは凡そ以上のように考えている。 2005.3.2日 れんだいこ拝 |
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(私論.私見)