早坂秘書考

 更新日/2016.8.11日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、早坂秘書を検証しておく。

 2010.11.03日 れんだいこ拝


Re::れんだいこのカンテラ時評846 れんだいこ 2010/11/03
 【角栄と早坂秘書の邂逅譚、二人三脚政権取り考】

 早坂茂三秘書は、1987.1.20日、「オヤジとわたし」(集英社、週刊プレイボーイ特別編集)を刊行している。れんだいこはなぜだか、この本を読み落としていた。こたび手にして新しい合点があったので書き付けておく。れんだいこは、日共の本質右派性、偽装左派性と対比的な田中角栄の本質左派性、偽装保守性に言及して来た。「オヤジとわたし」を読んで、その思いを強くした。

 と云うのも、早坂秘書は1930年生まれ、北海道函館市恵比須町出身、早大政経学部入学の学生運動家である。こういう履歴を持つ早坂氏と角栄がどういう経緯で邂逅し、終生の友誼を結び得たのか。ここに大きな政治ドラマが有ると思うので確認しておく。以下、単に早坂と敬称させていただく。

 早坂は、れんだいこが生まれた年の1950(昭和25)年に早稲田大学政治経済学部新聞学科に入学している。たまたま先輩になる。れんだいこは法学部だけれども。民主主義科学者協会早大班サークルに入り、ほどなく共産党に入党している。丁度この頃、共産党は徳球―伊藤律党中央派(所感派とも云う)と宮顕、春日(庄)、志賀、神山らの反党中央派(国際派とも云う)に分裂する「1950年党中央分裂」期であった。

 興味深いことは、早坂が徳球―伊藤律党中央派に属していたことである。党中央の指針する武装闘争に参加し、有能なオルガナイザーの一人として各地の大学にオルグに向かっている。次のように記している。「朝鮮戦争勃発の1周年のときには、火炎瓶をつくり、新宿駅頭にデモを組織して、今は新しくなった東口の交番や機動隊に火炎瓶を投げつけたりもした云々」。この情報は、「オヤジとわたし」で初めて知った。角栄と早坂の終生の友誼を観る時、これはかなり重要な意味を持つ。これについては後で触れようと思う。

 早坂のその後の概略履歴は次の通りである。1955年、早稲田大学政治経済学部卒業、東京タイムズ社に入社。政治部記者として掛けだし次第に頭角を現す。1962年、角栄が大蔵大臣に就いた時、秘書官となる。以降23年間、角栄と共に政界を二人行脚し、角栄の政権盗りの手足、頭脳となる。その後の金脈追及、ロッキード事件、公判闘争の日々の逆風下にもたじろがず政策担当の秘書を務め抜く。1985年、角栄が脳梗塞で倒れたのを機に政治評論家に転身する。角栄政治擁護の論陣を張り続け、数多くの「角栄もの」を著作している。2004.6.20日、肺ガンのため死去(享年73歳)。

 この早坂と角栄の出会い、秘書入りの経緯は次の通りである。入社後の早坂は、東京タイムズ社の政治部記者として自民党、社会党番を務めていた。60年安保闘争時代には社会党の「安保7人委員会」の裏方を務め、国会質疑の原稿書きなどしている。安保闘争で岸政権が倒れ、池田政権が誕生する。早坂はこの波に乗り、自民党佐藤派、池田派の番記者を務めるようになる。東京タイムズ社は少数世帯なので一人で何役もこなすことになった模様である。池田首相に認められ自宅へ自在に出入りするようになる。「こらぁ、新聞記者の低能児ども云々」から始まる座談の相手を務め、経済論、政治論を聞く間柄になる。

 1962(昭和37).2.6日、アメリカのロバート・ケネディ司法長官(ケネディ大統領の実弟で、後に暗殺されることになる)が来日し、東京六本木の国際文化会館で自民党の若手代議士たちと非公式に懇談した。これに政務調査会長の角栄が出席し、「沖縄返還の前提として米国が日本に憲法改正と再軍備することを提案してはどうか」と遣り取りした。この時の角栄の語り全文の大意に対して曲解であるが、この情報を掴んだ早坂はすぐさま原稿を書き上げ、これが翌日の東京タイムズの1面トップに載った。いわゆる特ダネ、スクープをものにした。これが国会審議がストップする大問題に発展した。

 「田中が、さすがにしょげていると聞いた」早坂は、「私は彼に恩もなければ怨みもない」として目白の田中邸に名乗りを挙げに行った。早坂が「あの記事を書いたのは私です」と告げると、角栄は、「『君なら顔を知っている。新聞記者は書くのが商売、政治家は書かれるのが商売だ。俺が記者だったら、やはり書くよ。あれは書くべきことだ。こんどの勝負は君の勝ちだ。心配するな。騒ぎはじきに片づく。野党が俺の首など取れるはずがない。それにしても、よく来てくれた。お互いに友達になれそうだ。それにしても君は優秀だな』。田中は全身で笑い、顔で笑い、眼まで笑った。そして二人は握手した」。「早坂に差し出した角栄の手の握力はもの凄かった」と、早坂は回想している。

 こうして、早坂は角栄にも認められ、角栄邸にも出入りするようになる。この頃の角栄を、「滅法イキがいい。それに頭の回転が早い。エネルギーに溢れている」と評している。同年7月、池田内閣の改造の際、田中角栄が大蔵大臣、大平正芳が外務大臣に抜擢された。早坂は逸早く「自民党に“新しい波(ヌーベル・バーグ)”」見出しのH署名入り解説記事を書き、改造人事が発表された翌日、東京タイムズの一面トップに載り注目される。

 1962(昭和37).12.2日、角栄蔵相は、早坂に秘書話を持ちかける。早坂は、学生運動歴を持つ自分でも構わないかと問う。この時、角栄は次のように答えている。「俺はお前の昔を知っている。しかし、そんなことは問題じゃない。俺も本当は共産党に入っていたかも知れないが、何しろ手から口に運ぶのに忙しくて勉強するひまがなかっただけだ」、「俺は十年後に天下を取る。お互いに一生は1回だ。死ねば土くれになる。地獄も極楽もヘチマもない。俺は越後の貧乏な馬喰の倅だ。君が昔、赤旗を振っていたことは知っている。公安調査庁の記録は全部読んだ。それは構わない。俺は君を使いこなせる。どうだ、天下を取ろうじやないか。一生一度の大博打だが、負けてもともとだ。首までは取られない。どうだい、一緒にやらないか」(早坂茂三「鈍牛にも角がある」106P)。

 角栄と力強い握手を交わした早坂は、学生運動上がりの早坂を承知で拾ってくれた恩義ある東京タイムズ社の岡村二一社長(元、同盟通信、後の共同通信社の社会部長)に、「田中角栄のところへ行きたい」と相談する。岡村社長は次のように述べている。「角さんは面白い男だ。俺のところで苦労するよりも、やりがいがあるだろう」、「角さんにとことん尽くせ。可愛がってもらえ。いいな」。12.10日、早坂は、「喜んでお受けします」と返答する。こうして、早坂の角栄番秘書生活が始まった。最初の教育がお辞儀をして見せろだった。早坂がお辞儀をしたところ、角栄は、「それは会釈だ。お辞儀はこうやるんだ」と、隣に立って「腰っ骨を直角に折り曲げ、ひと呼吸入れて、ゆっくり頭を下げた」。

 その時の初訓示が次の通り。「新聞記者は、お辞儀をされるのが商売だ。しかし、世間の人がなんでお前たちにペコペコするか。新聞記者は世の中を知らず、役に立たない知識、理屈を頭いっぱいに詰め込んで、気位ばかり高い。ぞんざいに扱えば、すぐ逆恨みして悪口を云う。云うだけでなく書く。印刷して、頼みもしないのに日本じゅうに配って歩く。そうされたんじゃかなわないから、世間の人たちはお前たちに会えば、お辞儀をする。あ、貧乏神が来た。腹の中で舌を出し、足早に通り過ぎる。わかったか。お前は今日から、お辞儀をされる側でなく、お辞儀をする側に来たんだ」云々。

 れんだいこには、この邂逅が興味深い。まさに政治ドラマではなかろうか。特に、角栄が、学生運動上がりと云うだけでなく、日本共産党分裂期の徳球―伊藤律系の履歴を持つ早坂を拾ったところが面白い。日本左派運動史では、旧左翼も新左翼も口を揃えて徳球―伊藤律系の運動を罵詈雑言するところから書き起こすのを通説としている。れんだいこは違うと申し上げている。徳球―伊藤律系の運動こそ評価されるべきであり、その後の宮顕―不破系運動こそニセモノとしている。これの論証は省くが、日本左派運動失速、低迷、お蔵入りの要因は、この不正にあると考えている。もとより、徳球―伊藤律系を全肯定しようと云うのではない。引き継ぐとしたら紅い心の徳球―伊藤律系の方であり、白い心なのに赤く偽装している宮顕―不破系運動ではないと申し上げている。その他諸派のそれも然りであり、徳球―伊藤律系の運動を罵詈雑言する限り、永遠に有益な軌道に乗らないだろうと申し上げている。

 その点で、角栄が、徳球―伊藤律系の運動上がりの早坂を秘書に抱えたのが面白い。これを、角栄を徳球―伊藤律系運動との琴線の繋がりを見ることなく解けるであろうか。角栄は、駄文駄弁に耽ることなく一瀉千里に権力盗りに向かった。当初は進歩党、次に民主党、その後紆余曲折しながら1955年の党合同により自民党入りし、以降真一文字に政権奪取に向かった。もとより政権自体が狙いではない。議員立法時代を経て郵政相、大蔵相、通産相、幹事長の要職を歴任し、行く先々で有能に職務を遂行し、その総仕上げとして自己の信ずる教条に則る政治を開花させる為に政権取りに向かった。早坂は、その角栄政治に心底惚れ、これこそ有能にして真の左派政治ではないかと気づかされ教えられつつ追っかけて行った。

 早坂は、ロッキード事件以来全くの逆風下に置かれ、そんじょそこらの弱虫で有れば寝返るところ、終生にわたって角栄を愛し褒め称え、孤軍奮闘力戦した。「オヤジとわたし」の末尾はこう結んでいる。「政治家・田中の復活が仮に奇蹟であるとしても、それはオヤジの不名誉ではない。すべては神の思し召しにある。私たち人間は自然の摂理に従うしかない。それでも日本原人・田中角栄は、わが日本の風土と人々の心の中で永遠に生き続ける。昭和37年12月から60年6月までの23年間、オヤジの不肖の弟子であった私は、不死鳥・田中角栄の栄光を確信しています」。

 この言、その生きざまや良しとすべきではなかろうか。れんだいこが講談師なら一節ぶつところである。

 2010.10.3日 れんだいこ拝




(私論.私見)