後援会組織「越山会」、佐藤昭子考

 更新日/2016.8.20日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、後援会組織「越山会」につき確認しておく。「田中角栄 最強の後援会。これが伝説の越山会」その他を参照する。

 2006.12.22日再編集 れんだいこ拝


【越山会誕生物語】

 「越山会」誕生前事情として踏まえておくべきは、岸信介が「箕山(きざん)会」、池田隼人が「宏池会」、佐藤栄作が「周山(しゅうざん)会」を作っていたことである。角栄もこの先例に倣って後援会的政治結社を作ることになる。これが「越山会」である。

 1953(昭和28).6.28日、戦友達が中心になって加茂市に越山会第一号を結成した。「発足のきっかけは、田中が直々に会を作ってくれと頼んできたからだ。会名も指定してきた」(戦友・高野清治)と伝えられているが、時機が熟したことによる双方からの立て合いであったと思われる。 

 「越山」の命名の由来は、郷土の英雄上杉謙信が加賀、能登の七尾城攻めに成功した際に「霜は軍営に満ちて 秋気清し 数行の過雁(かがん) 月三更(つきさんこう) 越山併せ得たり 能州の景 さもあらばあれ 家郷の遠征を憶ふ」と詠んだのにちなんで、山を越えて都へ攻め上る天下盗りの意気込みを示したものと解することができる。角栄自身は、単に越後の山越えを意味していると述べているが、本心は上杉公の天下盗り精神の称揚にあったと思われる。

 「越山会」は、田中角栄の選出地である地元新潟3区の後援会組織である。昭和20年代の後半、田中の選挙区のあちこちで越山会が結成されていく。自然発生的であったところに特徴が見られる。最盛期会員10万を擁した。新潟3区の自民党員1万5千人にも拘わらず。長岡市に置かれた新潟県本部を頂点として、その下に都市単位の連絡協議会が青年部、婦人部と同列で置かれ、この連絡協議会の下に単位「越山会」が結成されていた。新潟3区内33市町村のすみずみまで網の目を張り、その数330の支部を数えていた。1町平均10の越山会が結成されていたことになる。後援会機関紙「月刊越山」は毎月5万部が国許に送られた。

 これを思うのに、角栄の後援会作りとその機能のさせ方は、「代議士と選挙区との関係のあり方としてのモデル例」として注目に値するのではなかろうか。日本左派運動が全く無視していることではあるが、在地型社会主義を地で行く実践ではなかろうか。これを思えば、社共、新左翼の空理空論ぶりのみが浮き彫りになる。れんだいこは、ニセモノと本物の然るべき立ち現れの差であろうと思料する。


【越山会が越後交通本社内に越山会本部を構える】

 1960(昭和35).10月、長岡鉄道と中越自動車、栃尾鉄道が合併し、越後交通が誕生して以来、長岡市の越後交通本社内3階の秘書課が越山会本部となり、ここに本間が陣取り、越山会を統括していくことになった。選挙結果の査定、冠婚葬祭、就職の斡旋。迅速な被災地見舞い等の司令塔となった。新潟県越山会会長。初代・田中勇、2代目・庭山康徳、3代目片岡甚松。


【越山会の活動振り及び組織構成】

 越山会幹部ほど全員が粉骨砕身働いた後援会は珍しい。様々な肩書き(会長・事務局長・幹事長に始まり、総務会長・政調会長・常任幹事・幹事・青年部長・婦人部長・芳年部長・壮年部長・財政部長・会計部長・相談役・参事・顧問・評議員等々、これに副を付ければ膨大な人数になる)で割り振りし、自分のことのように働いた。 

 類を見ない信者集団的な後援団体、同志的連帯による結合振りである点で他の政治家の後援会組織とは異色である。「越山会をピラミッドだと見ると間違う。円のような組織で、円の中に田中も入っている一人に過ぎない、会員でしかない。要するに、田中という御輿を担ぐ後援会とは違う」と、本間幸一秘書の述べている通りのものであった。会則には「豊かな郷土づくり」が基本理念で「田中角栄を支持する」の文句はなかった。当然のことながら、選挙の際には集票マシーン化して奮闘した。

 越山会の組織構成は、まず各地の越山会が独立単位として結成された。その幹部が寄り集まって郡市単位での連絡協議会を結成していた。この頂点に角栄がいた。いうなればアメリカ合衆国的連邦型組織に近く、郡市単位での連絡協議会。このシステムのもと、一朝ことがあった場合は各地の越山会がフル稼働、これが選挙ならば巨大な集票マシーン化することになった。最盛期には、新潟3区内の県議19名のうち約7割の13名を送り出し、33市町村中なんと9割の30名の首長を越山会系で固めた。

 越山会の選挙活動は公職選挙法を守ることを強く言い渡されており、二回目の選挙で違反者を出したきりで後は一切でていない。祝儀その他のこれということについては、目白へ稟議書を回して判断を仰ぎ、田中が「よし」というものだけを差し上げた。リクルート問題のようなことは起こりえなかった。


【越山会の財務】

 この組織を維持する為には年間5億から10億円の資金が必要であった。会員の会費収入は微々たるもの。主収入は、公共事業の割り当てにより配分を受けた越山会会員の土建業者からの寄付で維持されていた。この遣り繰りに独特の陳情受け付け方式「越山会査定」があった。「越山会査定」とは、地元の陳情による公共事業の割り振りシステムであり、巷間で言われている如くいかがわしいものではない。越後は災害被害が多く又裏日本の豪雪地帯による開発の遅れが顕著な土地柄である。ここから発する地元要求の吸い上げと陳情から発する公共事業の獲得に対して、山田泰司秘書が責任者となり奔走した。山田は、角栄から「あの男は札束の中に入れておいても、一枚でも抜き取る男ではない」として全幅の信頼を置かれていた。工事を受注した業者は工事費の0.3%程度を御礼金として政治献金したようである。

 ここに運命共同体の紐帯が生まれていた。選挙民との「情」の部分での結合と「利」のつながり、「情と利」が歯車に如くにつながっていた。その他就職斡旋会員子弟たちの「誠心会」。県内外に1万人を超えていた。


【越山会の東京ツアー】

 越山会は東京ツアーを企画し、この方式は他の国会議員後援会にも波及した。田中支持者をバスに乗せて東京目白台の田中邸に乗り付け、田中本人と会わせ、時に食事を一緒にし、同時に国会見学のほか東京とその周辺を観光旅行(国会・皇居・国立劇場・浅草の国際劇場など)させるという「団体バス旅行による目白ツアー」であった。「団体バス旅行による目白ツアー」は、「同じ釜の飯を食ったという仲間意識」の培養に多大な貢献をすることとなった。本間秘書のアイデアから実現したと伝えられている。今はやりの「パック旅行」のさきがけとなったという栄誉をも担っており、角栄が筆頭株主の越後交通と越後観光がタイアップして企画した。


Re::れんだいこのカンテラ時評684 れんだいこ 2010/03/14
 【小沢キード事件を逆手に取り、ロッキード事件の闇を追撃せよその3、佐藤昭子追悼】

 2010.3.11日、田中角栄の心友にして「越山会の女王」と評されていた佐藤昭子(さとう・あきこ)さんが都内の病院で心不全で逝去した(享年81歳)。告別式(喪主・長女敦子)は近親者で済ませた。長年にわたって田中角栄の政治団体「越山会」の会計責任者として金庫番を務め、金脈事件、ロッキード事件後も一貫して角栄を補佐し続け、政界の女鏡とも云える生き様を遺した。ここに、その佐藤昭女史を称賛し追悼する。

 訃報(ふほう)に接して、次のような懐旧が伝えられている。小沢民主党幹事長は病院に駆けつけ、亡きがらを前に「ママ、長い間お世話になったね」と涙を流した。田中派の元参院議員山口淑子(90)は、「田中事務所に行くと、議員から『佐藤ママ』と呼ばれて慕われていた。気っぷが良く、久しぶりに声を聞きたいと思っていたのに本当に残念」と話した。かって越山会の青年部長を務めた自民党県連会長の星野伊佐夫県議(70)は、「会館に出向くと、いつも佐藤さんが手際よく仕事をこなしており、事務所の中心的人物で派閥を束ねる存在だった」と振り返った。田中元首相の地元秘書だった長岡市の丸山幸好さん(77)は、「後輩秘書にも優しかった。当時の先輩秘書が次々と亡くなり、寂しい」としみじみと語った云々。

 以下、佐藤昭の角栄に纏わる伝説を確認しておく。
 1946(昭和21).4月、佐藤昭は、終戦間もない戦後初の総選挙の際に、進歩党の大麻唯男氏にすすめられて立候補していた田中角栄と面識を得た。佐藤昭著「私の田中角栄日記」によると、生家の柏崎市の雑貨店で店番をしていた昭のところに、「今度立候補した田中です」と店内に入ってきたのが最初の出会いであった。鼻の下にちょび髭を生やし、どう見ても50歳くらいに見えたと云う。あとで27歳と聞いてビックリしたと云う。17歳の昭さんとは十歳違いだった。当時、昭には婚約者がいたが、その青年が角栄の応援弁士を引き受けたのが縁の始まりだった。この時、角栄は惜しくも次点落選している。

 角栄は翌年4月の総選挙で初当選を果たした。昭は婚約者と結婚し、夫妻は角栄を頼って上京した。だが二人の結婚生活は長続きしなかった。夫の浮気と借金が原因だったという。離婚を聞きつけて「俺の秘書にならないか」と角栄が誘ったのが二人の政界行脚の始まりとなった。1952(昭和27).2月のことだった。佐藤昭はやがて越山会の会計責任者即ち金庫番となる。よほど有能にして信用され親しくもなったということであろう。 

 ロッキード事件での角栄の検事調書は次のように記している(佐藤昭子の「田中角栄ー私が最後に伝えたいこと」より)。

 「越山会を始めとする私の政治団体を含め砂防会館、関係事務所の事務を取り仕切っているのが佐藤昭君です。彼女は私と同郷の柏崎の生まれで、昭和21年、私が始めて衆議院選挙に立候補した際に、その事務を手伝ってくれ、昭和36年から越山会の事務を引き受け、今日に至っております。彼女は関西財政経済研究会の会計責任者となっておりますが、事実上は砂防会館や関係事務所の総括責任者と申しても過言ではありません。彼女は法律的にも制度的にも責任があるというわけではありませんが、勤務経歴が古く、生き字引のような存在なので、自然右のような立場となっておるものです」。

 1961(昭和36).7.18日、角栄は政調会長に就任した。「私の田中角栄日記」は次のように記している。「当選回数を重ねれば、誰でもいずれ大臣のイスに座れる。しかし、党三役になると話は別だ。(略)たとえ田中が大臣を1回か2回やるだけで終わる平凡な政治家であったとしても、秘書を辞めないであろう。けれど、この人は絶対に大物政治家になる。私がどこまでも一緒に走り続けなければいけないという気持ちに変わったのは、政調会長になってからだ」。「田中の頭の中は、すでに王道を歩むという気持ちが戦略的にあった。国対委員長をやらないかという話は、これまで何回も来ていて、なろうと思えばいつでもできた。しかし、田中は『党7役にはならない』といって、ずっと断り続けた。(略)政治団体を作ったのも田中の長期戦略の一つだった」。

 佐藤昭は角栄の天下取りに一蓮托生し、角栄を裏から扶翼し続けた。秘書軍団と共に田中派を陰で支え束ね役を引き受けた。当時、田中派の中堅だった小沢一郎らは「ママ」と呼び慕っていた。

 角栄と佐藤昭を廻る別れ話譚が次のように伝えられている。 「『日本列島改造論』を書き上げることに尽力した麓邦明と早坂茂三秘書は、総理就任直前の頃、『オヤジ、小佐野さんと佐藤昭さんを、この際切ってください』と談判している。小佐野は政商として、佐藤は金庫番として、これまで田中と奥深くまで繋がっていたが、首相となった時点で田中政権のアキレス腱になることを憂えたからであった。田中は涙を流しながら次のように語った。『もう俺についてこれないということだな。お前達の言うことは良く分かる。しかしな、この俺が長年の友人であり自分を助けてくれた人間を、これからの自分に都合が悪いというだけの理由で切ることができると思うか。自分に非情さがないのはわかっている。だが、それは俺の問題だ。自分で責任を持つ。責めは自分で負う』。早坂は了承し、麓は去った」。

 この言につき、れんだいこは思う。惚れ惚れさせられる角栄の侠気ではなかろうか。角栄と小佐野、角栄と佐藤昭との余人を持って代え難い信頼関係のほどが透けて見えてこよう。感嘆すべきは、これに応える佐藤昭のロッキード事件で角栄が満身創痍になろうとも終生変わらず支え称賛し続けた侠気であろう。

 その後の角栄は天下盗り階段を順調に登り詰め、1971年、ポスト佐藤の自民党総裁の座を福田、大平、三木と争い、これに勝利し首相に就任した。田中政権の履歴は別途考察するのでここでは略す。

 「私の田中角栄日記」は次のように記している。「あの、総裁戦で勝利した時の田中の堂々たる姿。あんないい顔はなかった。そして稚気あふれた人間田中角栄の顔。ホールインワンをした時の子供のような笑顔。親しい人が来ると1日4ラウンドもした自分のゴルフスコアをメモにして見せる得意そうな顔。秘書相手に将棋をやっている時、相手の駒を取ってニコニコしている顔。そのすべてを、私は好きだった」。

 この佐藤昭が世に知られるようになったのはルポライター児玉氏による。当時、児玉は女性週刊誌の編集長代理だったが、佐藤昭に執拗な取材を続け、文芸春秋1974.11月号に立花の「田中角栄研究〜その金脈と人脈」と並んで「淋しき越山会の女王」を発表し角栄を撃った。政治家の下半身は記事にしないと云うのがそれまでの政治記者の不文律だったが、それが政治生命を左右するまでになった嚆矢がこの児玉の記事となった趣がある。1979(昭和54)年、佐藤は、「それに対してのささやかなレジスタンスのつもり」で佐藤昭から昭子へ改名している。

 佐藤は、「私の田中角栄日記』(新潮45 1994.11月号)で、次のように記した日記を公開している。「昭和49年10月10日(木)晴 『田中角栄研究〜その金脈と人脈』を掲載した『文芸春秋』11月号が発売。ゲラの段階で記事を読み、怒りがこみあげる。田中は総理という公人だ。金脈だか人脈だかを追及されても仕方ない面もある。ところが、大変なおまけがついている。『淋しき越山会の女王』という記事。なぜ私のことまで書かれなければならないのか。個人のプライバシ−も何もない。児玉隆也なるライタ−、会ったことも聞いたこともない。ただ田中を蹴落とすために私を引き合いに出すとは、マスコミの卑怯さに腹がたつ。ただ娘がかわいそう」。

 その後の角栄は金脈問題に揺れ、政権を辞任、蟄居を余儀なくされた。但し、その能力を惜しむもの多く、政界に隠然とした力を保持し続けていた。そこへ、1976.2月、ロッキード事件がお見舞いされた。以降、角栄は、ロッキード事件公判にはがい締めされ、佐藤昭の献身的な精神的支えが続いた。

 「私の田中角栄日記」は、角栄のロッキード事件観を次のように記している。「この裁判には日本国総理大臣の尊厳がかかっている。冤罪を晴らせなかったら俺は死んでも死にきれない。誰が何と云ってもいい。百年戦争になっても俺は闘う」。

 佐藤昭のもう一つの著作「田中角栄ー私が最後に伝えないこと」は、角栄のロッキード裁判観を次のように記している。「田中は終生疑惑を否定した。『一銭も貰っていない』と。長期裁判も覚悟の上、元総理の名誉に於いて『5億円授受否認』を争ったのである。田中は誇りの高い党人政治家であり、外国のエージェントからカネを貰うことなど絶対に有り得なく、田中の言葉にこそ真実がある、と私は考えている」。

 これらによると、角栄は、ロッキード事件に於ける5億円収賄は冤罪であると明瞭に語り、故に徹底的に闘うとしていたことになる。今日に於いても諸説あるところであるが、れんだいこは、本人のこの観点に立って解析することが真相に迫る道筋であると思っている。冤罪的刑事事件の場合に被疑者の側から見ることが常に正しいという保証はないが、ロッキード事件の場合には被疑者角栄の側から見るほうが正しく見えると思っている。

 1985.2月、角栄が脳梗塞で倒れた。その後、角栄の跡目を相続した娘の田中真紀子は角栄政治の清算に向かい、田中派事務所を閉鎖した。佐藤昭は秘書の早坂茂三と共に解雇された。その後、政治団体「政経調査会」を主宰し、角栄派チルドレンの相談相手として隠然とした影響力を保持し続けた。

 1994年、「決定版 私の田中角栄日記」(新潮社)を著す。角栄に対して次のように評している。
 「私は33年間、それこそ二人三脚で過ごしてきた。もちろん人間だから数々の欠点はあったけれど、田中は本当に誇り高く誠実な人間だった。私は色々な人たちにだまされ裏切られたけど、田中にはただの一度も裏切られたことはなかった」。

 2005年、雑誌「経済界」に「田中角栄。今、在りせば」と題して連載している。9.27日号は、時の小泉政権の政治を次のように批判している。 「今回の小泉さんのやり方には本当に疑問を感じる。民主主義とはプロセスであり手法である。この原則は、一法案の成否などよりはるかに優先、尊重されるべきものだ。わが国は代議制民主主義をとっている。国民が直接に小泉首相を選んだのではない。国民が選んだ国会議員が小泉首相を選んだのである。独りよがりの解散は国民を愚弄するものだ」、「田中角栄の秘書として三十三年間ともに歩んできた私からすると、小泉さんはかつての「角福戦争」の延長上に存在しているとしか思えない。あの総裁選挙で福田赳夫さんが敗れ、田中が総理大臣になって以来、小泉さんは田中憎し一筋だったのではないか。総理になると、旧田中派潰しと、自身が所属する森派(旧福田派)の勢力拡大に懸命になってきた。(中略)憲政の常道から外れ、覇道を歩む小泉さんには、草葉の陰で福田さんも泣いているのではないだろうか」。

 2005.12月、「田中角栄ー私が最後に伝えたいこと」(経済界)を著す。
第1章 田中政治の本質(民主主義を重視する政治、庶民に重きをおく政治 ほか)
第2章 田中角榮の政策(内政外交)
第3章 田中角榮と政治家群像(先輩政治家、同僚政治家ほか)
第4章 田中角榮の生き様(初選挙は落選、演説の名人ほか)
第5章 田中角榮とロッキード事件(事件はこうして起こった なぜ田中は「逮捕」されたのか ほか)

 佐藤昭が逝き、生の角栄を語れる者が次第に少なくなる。れんだいこ的には、関係者はもっと精力的に語っておくべきではなかろうか。現下の貧困な政治を思うにつき、角栄を語ることが滋養強壮になるのではなかろうか。

 2010.3.14日 れんだいこ拝

【「角栄票はどこに流れたのか」追跡調査考】

 小林吉弥氏が著作「角栄一代」の冒頭で、「『革新政治家』だった角栄」として衝撃的な記事を掲載している。角栄の政界引退の後の角栄票の流れを追って、新潟3区の約18万票を常時維持していた角栄票が、主として社会党に流れたことを明らかにしている。それは平成2.2.18日の総選挙であったが、事前の予想に反して、社会党の新人・目黒吉之助氏が9万4107票でトップ当選した。2位の渡辺秀央(自前)が7万2263票、3位の星野行雄(自前)が6万9832票、4位の桜井新(自前)が6万6860票、5位の村山達雄(自前)が6万4468票、社前の坂上富男は次点に泣いた。この結果は、角栄票が自民党よりもより多く社会党シンパシーの者達に支えられていたことを証左している。

 これを更に分析すれば、角栄票が旧日農(日本農民組合)系に支えられていたことが明らかにされたことになる。これは史実とも照合している。日農とは、左派系の農民運動団体で、戦後1947年に賀川豊彦や杉山元治郎らが指導者となって結成され、全国各地で起きていた小作争議を指導することで勢力を伸ばしていた。新潟では江戸時代から農民一揆が少なからず起きていた土地柄であったから、日農運動が浸透し易い素地があった。実際に、新潟三区では、戦後初の選挙から社会党系の候補が2名ないし3名当選していた。

 戦後代議士を目指すことになった角栄は、進歩党→民主党から立候補したが、角栄の政治理念は「民主政治と経済復興による国家の廃墟からの再建」であり、農地改革後の日農運動の利害ともほぼ一致していた。こういう土壌の一致によってか、戦前からの農民運動の闘士で、何度も警察に逮捕されていた経歴を持っており、当時の日農運動を指導していた社会党の三宅正一代議士から目をかけられ、選挙戦のイロハから教えを受けている。以降、角栄と三宅は互いに心を許し且つ畏敬し合う関係になった。三宅が落選して以降終生に亘って、三宅の知らぬまま生活の面倒を見ている。

 やがて日農指導者が各地に越山会を結成し核となっていく。農民運動の闘士たちは、「飯も食えない、子供を大学にも出せないという悲しい状態を解決するのが政治の先決だ」という田中の発想に共鳴し、越山会のリーダーとなりエンジン役になっていった。ここには、日農のリーダー等は、「政治家としての筋は今ひとつ分からぬが、仕事はできる」、「オイ、あの田中ってのは若いがなかなか見どころがあるぞ」
「田中は面倒を見てくれる」と角栄を評価し、以降の政治行動を一蓮托生にさせていった経過がある。

 その好例が江尻勇氏の例である。江尻氏は、ニ田村役場に勤めていたが、戦後間もなく戦争事務を執っていたというカドで役場を辞めた。同時に日農系の社会党代議士となっていた三宅正一の応援に回ったが、昭和26年頃田中と話をする機会があり、「あんたは社会党をどう考えているのか」と詰問したところ、角栄は顔を真っ赤にして、「バカな。社会主義では、これから先は通らない。先の読めるのは保守党だ」。これを機に江尻は社会党から離れ、以降40年に及ぶ歳月を田中一辺倒に捧げ、田中の地元刈羽町の越山会会長として殉じ、町長にもなった。平成元年10月の田中引退に合せて、30余年にわたった町長職を辞している。

 平石金次郎もその好例である。1910(明治43)年生まれだから角栄より8歳上になる。平石氏は岩塚製菓の創立者であるが、元々熱心な社会主義者であった。戦後の混乱期に早稲田大学卒の建設者同盟の創設メンバーにして農民運動家の三宅正一の演説会に出くわして以来実懇となり、社会党の応援に奔走し始める。但し、社会党議員は理念は語るが具体策を持とうとせず、そうしたスローガン一辺倒主義の空理空論に失望し、「理屈をこねるより、今日喰う飯が先だ」として越山会に入った。後に越路町(現越路市)の町長を務め、よく目白に陳情に出向くことになる。

 平石金次郎のいとこの塚野村越山会会長の大矢栄一の例はこうである。1948(昭和23)年、シベリア抑留から帰還し、日農活動に取り組む。親共産党でビラ配りなどしていた。或る日、平石の紹介で東京・目白のカクエイ邸を訪ねた。角栄は思ったより気さくで、「(大地主名望家の)長谷川家の当主と会うより気楽に話せた」。翌年、共産党シンパから越山会に転向した。







(私論.私見)