補足・戦後保守本流ハト派論考。ハト派とタカ派の政策的違いについて

 (最新見直し2013.01.24日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、戦後保守本流ハト派論を考察しておくことにする。


 (れんだいこのブログ)
 「戦後保守本流ハト派」とカテゴリーを設定した時に何らかのイメージが湧かないとしたら、戦後日本の政治史に対してかなり文盲であることを自覚せねばならない。ところが、そういうレベルの政治通が多い、中でも左翼の中にその種の者が多いというのが現状だろう。日本の未来は暗い肌寒いという感慨を覚えるのはれんだいこ一人であろうか。こういうことでは本当の政治史が見えてこない、ひいては明日の政治ドラマが拓けないと思う故に本サイトを設けることにする。

 「戦後保守本流ハト派論」を考究する意義は、我々の政治感覚特に左翼の中に牢と凝固する自民党内政治抗争ドラマに対する政治オンチの盲を拓くためである。或る人に対してはコペルニクス的衝撃を与えるだろう。れんだいこは、それを期待して以下書き付けて見る。誰も感慨を沸かさなかったとしたら、それはれんだいこの筆力の無さのせいであろう。

 まず、最初に明らかにしておかねばならないことは、戦後左翼が何時如何なる時でも「政府自民党」を一括りにして「反対、弾劾、糾弾、粉砕」を馬鹿の一つ覚えのようにしてきた万年野党的習性に対して、「それは間違いであった」と指摘しておくことである。いわゆる通俗的なマルクス主義的体制批判論が実証性抜きに振り回された結果であり、当のマルクスが今仮に存命していたとしたら、そういう野暮な対応はしなかったであろう、とれんだいこは考えている。

 しかるに、「政府自民党を一括りにして反対、弾劾、糾弾、粉砕」を弱く主張すれば社共となり、これを強く主張すれば新左翼なる全く無意味な闘いが演ぜられ続けてきたのが戦後左派運動史であった。その挙句が今日の惨状であるのに、このことに気づこうともしない政治指導者、それに付き従う党員ばかりであるように思える。

 むしろ、いわゆる大衆の方が慧眼で、戦後の歴史的意味を深く知り、「政府自民党」の政策の一挙手一投足に抜け目無く対応してきた節がある。なんとならば、戦後保守本流を形成してきたハト派の政策が「本質的に左傾」したものであったからである。本来、これを知るのを学ぶという筈であるが、下手なマルクス主義解説本を更に下手に読むことにより、余計に政治オンチになってきたという経緯があるように思われる。

 れんだいこのこの謂いを以下論証しようと思う。

 「戦後日本は、いわゆる左翼が云うように本当に政治状況の悪い国であったのか」、これを考えてみよう。多くの左派気取り者は「悪しき国」と云い為している。しかし、れんだいこは、そう思わない。むしろ、「世界史上稀に見る蓮華国家では無かったのか」と観る。もとより相対的なものであるから、理想的蓮華国家であったとは云わない。あくまで相対的に何時如何なる日本史上においても、世界史の戦後史上の他のどの国のそれよりもという比較の上でのことではある。「戦後保守本流ハト派がリードした戦後日本は、経済的成長の成功もさることながら、稀有なる民主主義の貫徹していた国家を創造していた」のではないのか、ということが云いたい訳である。

 いやそうではないといろんな事由、現象を挙げて否定しようとする者も居るだろう。そういう者達に云いたい。ならば、一体、誰のお陰でそこそこの飯が食え、社会的文化生活が享受できたのか。これこそ政治の要諦であり、この要諦に於いて戦後保守本流ハト派ほどうまく処理してきた政治はないのではなかろうか。

 確かに腐敗現象はあまたある。しかし現下の憲法秩序の法理に従えば、それは人民大衆的創意工夫によって「更に闘い取れる仕掛けになっているのではないのか」と言い返したい。戦後保守本流ハト派がリードする時代に於いてこそ、左派は階級情勢の更なる左傾化へ向けての糧を生み出すべきではなかったのか。それをせずに、ただ「お上」からのお与えを乞うような不満の投げつけ的万年批判に終始してきたのではなかろうか。それは何の意味も無くむしろ有害無益だった。

 れんだいこの観るところ、戦後憲法は革命権のようなものを規定するには至っていない。しかし、その他の諸規定においては「世界史上稀に見る先進的規定体系」となっている世界に随一の憲法であることは疑いない。この原理に則り、これを専ら自由市場主義、日米同盟的資本主義体制下で政治を執り行ったのが「戦後保守本流ハト派」達であった。この意義と限界をどう捉えるのか、これが本稿の眼目である。

 「戦後保守本流ハト派」について、田中角栄が次のように語っている。
 「私のように吉田さんの流れを汲む者は、池田勇人、佐藤栄作といった人も含めて、出会いの頃はみんな渾然一体としておった。吉田のじいさんのもとでね。それが今日まで連綿と続いている。そういう意味で、私は保守本流を歩いてきた」(佐藤昭子「田中角栄」)。

 「戦後保守本流ハト派」とは、吉田が「軽武装、経済復興」の総路線を敷き、池田が「所得倍増、高度経済成長」の路線で踏襲し、佐藤がまま踏襲し、角栄が「日本列島改造論」で力強く踏み込み、大平、鈴木へ至った系譜を云う。このハト派の政策は次のように要約できる。
 概要「戦前の対外膨張主義的国家経営即ち大日本主義を反省し、戦後確定された固有の領土に立脚して、軽武装、経済優先内治主義即ち小日本主義を貫いて、日米同盟に依拠しながら国際社会に於ける枢要の地位を築く。これが極東の小国日本の生き延びる大叡智であることを確認した諸政策」。

 このハト派政策が1950年代から80年代初頭まで指導力を発揮したことにより未曾有の国家的発展をもたらし、結果的に日本は世界bQの地位まで上り詰めることになった。80年代初頭、タカ派の中曽根政権が誕生するに及び、以降タカ派が政局をリードすることになり、声高な愛国的言辞の裏腹で対米追随政策に走り、それまでの国富を食い潰していくことになった。この流れが2006年現在の小泉政権まで基調となっている。

 以下、この系譜のハト派とタカ派の政策的違いを対比させていくことにする。

 2006.8.21日再編集 れんだいこ拝

【戦後保守本流ハト派論考その1】
 戦後の社会思想は始初の当初からボタンの掛け違いをして来た。あれから65年を過ぎて今なお迷妄から醒めていない。そんな気がするので、れんだいこが一筆啓上申し上げたい。れんだいこ著「戦後学生運動上下巻」の中で萌芽的に指摘しているところのものであるが、多くの者がまだ読んでいないこともあっていつまでたっても認知されない。そういう訳で繰り返しになるのは致し方ない。この迷妄を解かない限り日本における戦後社会思想は一歩足りとも前進しないと信ずる故にである。こう書けば、「戦後学生運動上下巻」を読んでみようと云う気になってくれるだろうかふふふ。

 世に難しく書き云うことで賢こぶる手合いが多い。れんだいこは、これまでは若造の分際で何を生意気なと云われることを恐れて発言を控えてきた。気がつけば還暦を越して3歳になっている。もう十分な齢だろう。それ故云わせて貰う。世に難しく書き云うものは信用しない方が良い。智者は難しいことでも分かり易く説く。分かり易いことならなおさら然り。難しく書き云うのは、当人がまだ十分に咀嚼できていいないからであるか、あるいはそういう気質の者であるからに過ぎない。れんだいこは左派圏に棲息しながら難渋な書物に辟易してきたが、その時は分からなかったが今ははっきり云える。難しく書き云う者の知性も品性も信用できない。

 さて本題。「戦後保守本流ハト派」とカテゴリーを設定した時に何らかのイメージが湧かないとしたら、戦後日本の政治史に対してかなり文盲であることを自覚せねばならない。ところが、政治通にしてそういうレベルの者が多い。テレビに出てくる十指に余るコメンテーターのうち何人が合格するだろうか。恐らく一人としていない。そういう連中の解説を聞かされ得心させられている者が可哀そうだと思う。特注で付け加えておけば左派圏の中にもその種の者が多い。戦後保守内のハト派対タカ派の政争こそ真に戦後史を刻んでいると云うのに意外に無知である。その代わりに左派圏の政治史的にはさほど意味のない政争史に興じる者が多い。それは丁度、世界史に誇れる日本の幕末史となると案外に表層しか知らない癖にフランス革命、ロシア革命となると見て来たようにジェスチャー入りで語る姿に似ている。そういう政論家ばかりの日本の未来は暗い、肌寒いという感慨を覚えるのはれんだいこだけであろうか。

 囲碁将棋に例えればアマチュア初段レベルのものと知るべしであろう。そういうレベルでは本当の政治史が見えてこない、ひいては明日の政治ドラマが拓けないと思う故に本サイトを設けることにする。「戦後保守本流ハト派論」を考究する意義は、我々の政治感覚特に左翼の中に牢と凝固する自民党内政治抗争ドラマに対する政治オンチの盲を拓くためである。或る人に対してはコペルニクス的衝撃を与えるだろう。れんだいこは、それを期待して以下書き付けて見る。誰も感慨を沸かさなかったとしたら、それはれんだいこの筆力のなさのせいであろう。

 まず、最初に明らかにしておかねばならないこととして、戦後左翼が何時如何なる時でも「政府自民党」を一括りにして批判対象とし、「反対、弾劾、糾弾、粉砕」を馬鹿の一つ覚えのように唱えてきた万年野党的習性に対して「それは間違いであった」と指摘しておきたい。いわゆる通俗的なマルクス主義的体制批判論が実証性抜きに振り回された結果であり、当のマルクスが今仮に存命していたとしたら、そういう野暮な対応はしなかったであろうとれんだいこは考えている。

 しかるに、「政府自民党を一括りにして反対、弾劾、糾弾、粉砕」を穏和に主張すれば社共となり、これを急進的に主張すれば新左翼となるなると云う理論的にはほぼ等質で闘争形態だけが異なると云う違いでしかない旧左翼、新左翼運動に耽って来たのが戦後左派運動史であった。1960年前後、新左翼が華々しく登場したが旧左翼との理論的競合は開花しなかった。それぞれが罵倒し合うだけで理論的研鑽が為されていない。その挙句が今日の惨状であるとれんだいこは考えている。社共的旧左翼は既に体制内保守である。新左翼は体制外であるかも知れないが登場以来既に50年も経過しているのに政治の表舞台に出てくるまでに至っていない。新旧とも、この惨状に気づこうともしない政治指導者、それに付き従う党員ばかりであるように思える。こういうことでは勿体ない。

 2006.8.21日再編集、2013.01.27日再編集 れんだいこ拝

【戦後保守本流ハト派論考その2】
 そういう意味ではむしろ、いわゆる大衆の方が慧眼で歴史通であった。戦後の歴史的恵択の意義を深く知り、政府自民党政治の一挙手一投足に抜け目なく対応してきた節がある。なんとならば、戦後保守本流を形成してきたハト派の政策が本質的に左傾したものであったからであると思える。即ち人民大衆的に見て善政であることを察知して多くの者が支持したのではなかろうか。と云うかかの時代の実際は、幕末維新から明治維新への流れ、明治維新から大東亜戦争までの流れで、幕末維新の回天運動を捻じ曲げた勢力が敗戦責任を問われ追放されたことにより捻じ曲げられない幕末維新以来の回天運動の流れが一時的にせよ復権し施策されていたのではなかろうか。或る意味で戦前的統制秩序が払拭され、古来よりの縄文的叡智社会が復元していた。いわゆる大衆がかく時代を直感し額に汗して働き始めたのではなかろうか。それを当時のハト派が上手に舵取りしていた時代だったのではなかろうか。

 もとより歴史はそうは一辺倒のものではない。敗戦を機に国際金融資本帝国主義の日本支配、その為のタガ嵌めが至るところで講ぜられ、二度と国際金融資本帝国主義に牙を剥かぬよう去勢されて行く日本でもあった。戦後直後から1970年代までは、この二ベクトルが相克する時代であった。故に単純に善政時代であったとは言えない。しかしながら、今日の如く国際金融資本帝国主義のワンサイド的な支配が貫徹する時代から見れば、よほど相対的に自由な日本であったように思われる。

 本来この辺りの機微まで知るのを学ぶという筈であるが、左派者は俗流マルクス主義解説本を更に下手に読むことにより余計に政治オンチになってきたという経緯があるように思われる。れんだいこのこの謂いを以下論証しようと思う。

 戦後日本は、いわゆる左翼が云うように本当に政治体制、政治状況の粗悪国だったのだろうか。ブルジョア体制規定により転覆を指針させねばならない国家及び社会だったのだろうか。これを考えてみよう。多くの左派者はブルジョア体制粉砕を当然視している。しかし、れんだいこは、そう思わない。むしろ、小室直樹氏云うところの「戦後日本は世界史上稀に見る蓮華国家ではなかったのか」と観る。もとより相対的なものであるから理想的蓮華国家であったとは云わない。あくまで相対的に何時如何なる日本史上においても同時代の世界の他のどの国のそれよりもという比較の上でのことではある。「戦後保守本流ハト派がリードした戦後日本は、経済的成長の成功もさることながら稀有なる戦後憲法的民主主義の貫徹していたプレ社会主義国家を創造していたのではないのか、更に云えば真に日本が誇るべき縄文日本の共同体活力が表出し得た時期だったのではなかろうか」ということが云いたい訳である。この謂いも、縄文日本論を理解しないと得心できまいが、それは別の機会に譲る。

 「戦後日本蓮華国家論、プレ社会主義国家論」に対して、いやそうではないといろんな事由、現象を挙げて否定しようとする者も居るだろう。そういう者達に云いたい。ならば、1970年代を頂点としてその前後の数十年間、一体、誰のお陰でそこそこの飯が食え、社会的文化生活が享受できたのか。これこそ政治の要諦であり、この要諦に於いて戦後保守本流ハト派ほどうまく処理してきた政治はないのではなかろうか。そもそも先の2012衆院選では不正選挙が取り沙汰されたが、そういうものとは無縁の権力を公正に争う社会だったのではないのか。大袈裟に否定事象を論うのは公平ではない。今日の水準から比較してみれば、よほどまともな社会だったのではなかろうか。

 この謂いでも足りない者に次のように云い聞かせておこう。左派圏のバイブルに「共産主義者の宣言」(俗に「共産党宣言」と訳されている)があるが、同書の「本文2、プロレタリアと共産主義者」の項の末尾に「過渡期社会の諸方策」が記されている。そこに述べられている10施策の殆どが戦後日本政治に取り入れられている。その詳細の検討はここでは割愛する。これを思えば、戦後日本は紛れもなく「過渡期社会主義社会」ではなかったか。少なくともその萌芽的社会だったのではなかろうか。

 確かに単純に「過渡期社会主義社会」と云い為すには無理な国際金融資本帝国主義の圧政、これに規定される諸制度、腐敗現象がより根本においては体制化されていた。しかし、それでさえ、現下の憲法秩序の法理に従って、人民大衆的創意工夫によって漸次改良の変革余地が大いにあったのではないのかと言い返したい。とりわけ戦後保守本流ハト派がリードする時代に於いてこそ、左派は左バネとして「過渡期社会主義社会」のより内実化に向けて貢献すべきではなかったのではなかろうか。史実は逆にハト派がリードする時代に於いて左派運動が活性化し、タカ派がリードする時代に至っては今日の如く全く逼塞している。これでは話しが違う、逆であるべきなのではなかろうか。

 ハト派がリードする時代に口先的な万年批判に終始してきた穏和系、革命ごっこに興じて来た急進系の双方とも、思えば良き時代を無駄に過ごして来たものである。それと云うのも、理論の第一歩からしてボタンを掛け違えて来たことに原因があるのではなかろうか。そういう訳で、穏和系、急進系の両者左派運動ともが何の意味もなくむしろ有害無益なものでしかなかったと総括したい。そもそも戦後日本の歴史規定が誤っていたところに原因が求められるとの解を出したい。これがれんだいこ史観であり、本領発揮である。

  2006.8.21日再編集、2013.01.27日再編集 れんだいこ拝

【戦後保守本流ハト派論考その3】
 れんだいこの観るところ、戦後憲法は革命権のようなものを規定するには至っていない。しかし、その他の諸規定においては「世界史上稀に見る先進的な規定の体系となっている。世界に随一の憲法であることは疑いない。この原理に則り、これを専ら自由市場主義、日米同盟的資本主義体制下で政治を執り行ったのが戦後保守本流ハト派の政治であった。この意義と限界をどう捉えるのか、これが問われていた歴史眼であった。これを問うのが本稿の眼目である。

 「戦後保守本流ハト派」について、田中角栄が次のように語っている。
 「私のように吉田さんの流れを汲む者は、池田勇人、佐藤栄作といった人も含めて、出会いの頃はみんな渾然一体としておった。吉田のじいさんのもとでね。それが今日まで連綿と続いている。そういう意味で、私は保守本流を歩いてきた」(佐藤昭子「田中角栄」)。

 「戦後保守本流ハト派」とは、吉田が「軽武装、経済復興」の総路線を敷き、池田が「所得倍増、高度経済成長」の路線で踏襲し、佐藤がまま踏襲し、角栄が「日本列島改造論」で力強く踏み込み、大平、鈴木へ至った系譜を云う。このハト派の政策は次のように要約できる。
 概要「戦前の対外膨張主義的国家経営即ち大日本主義を反省し、戦後確定された固有の領土に立脚して、軽武装、経済優先内治主義即ち小日本主義を貫いて、日米同盟に依拠しながら国際社会に於ける枢要の地位を築く。統治者は、これが極東の小国日本の生き延びる大叡智であることを確認していた。その時代の諸政策である。公共事業を重視しており、国債発行禁止、消費税的間接税導入の抑制、防衛費のGNP1%枠を堅持していた」。

 このハト派政策が1950年代から80年代初頭まで指導力を発揮したことにより未曾有の国家的発展をもたらし、結果的に日本は世界bQの地位まで上り詰めることになった。80年代初頭、タカ派の中曽根政権が誕生するに及び、以降タカ派が政局をリードすることになり、声高な愛国的言辞の裏腹で国際金融資本帝国主義の指令する施策の請負政治に走り、結果的にそれまで営々と蓄えてきた国富を食い潰していくことになった。この流れが200年代初頭の小泉政権時代に更にエスカレートし、2009政権交代による民主党三代政権時代も踏襲し続け、2012衆院選により自公の安倍政権が復活するや更にエスカレートしようとしている。

 以下、本稿に関連するれんだいこの過去の書きつけを記しておく。

 これを「提言11」とする。以下のことに注意を喚起されたい。日本左派運動の習性がそういうケッタイナ按配であったことに規定されて、妙なことに、日本左派運動に代わって戦後社会のプレ社会主義制を担ったのは何と保守的政権与党側であった。有能の士が早々に日本左派運動に見切りをつけ、体制側に入り込み、政府与党系のハト派に位置し、戦後日本のプレ社会主義的秩序を牽引していくことになった。ここに戦後日本政治の大きな捩れを見て取ることができよう。

 政権与党はやがて1955年に自由民主党を創出するが、党内は様々なハト派と様々なタカ派が混淆する寄り合い世帯であった。その中で、最大勢力化していったのは、吉田茂を開祖とし、池田隼人を牽引車とし、ハトタカやじろべえ的な佐藤栄作を巻き込み、田中角栄を総帥とし、この時同盟軍に位置していた大平正芳−鈴木善幸まで至るいわゆる吉田学校派であった。これを戦後日本政治史上のハト派と云う。

 戦後日本政治史上のハト派とは、戦後憲法を概ね遵守し、その大綱の中で主として内治に励み、外交は現代世界を牛耳る国際金融資本の枠内に納まる欠陥を見せながらも、他方で戦後憲法的国際協調にも精を出すというかなり高等な政治芸路線を云う。かく規定できると思う。

 このハト派が戦後から1970年代までの戦後保守本流つまり主流派を形成し、党内のタカ派と表面的には相和しながら、底流で激しく対立抗争しつつ政権を担って行った。ハト派は、戦前来の国家主義的日本的官僚制度と云う国家頭脳を政治主導的に操作し、官僚も叉これに能く応えたと云う史実を刻んでいる。この期間、戦後日本は内治に成功し、高度経済成長を呼び込み、世界史上に稀なる発展を遂げ、日米安保の枠組内ながらも等距離的な国際協調にも貢献しアジア、中近東、アフリカ諸国からの賛辞も得た。今から思えば大いなる善政時代であった。

 戦後日本左派運動は、戦後権力当局者のこのような独特の政治流動と局面を分析し、陰に陽にハト派と提携すべきであった。ところが実際には、ハト派もタカ派も十把ひとからげにマルクス主義的字面教条に従って打倒されるべき保守反動的体制派と断じ、図式公式主義的な政府自民党批判運動に終始してきた。時に政権打倒を呼号するが、代わって政権を引き受ける意思も能力も無い口先運動に没頭してきたに過ぎない。

 2006.8.21日再編集、2013.01.27日再編集 れんだいこ拝

【戦後保守本流ハト派論考その4】
 日本左派運動は、戦後日本の立役者となった政府自民党内のハト派的運動に対して余りにもお粗末な対応をしてきたのではなかろうか。今、政府自民党内のタカ派的運動が、ハト派時代が築いてきた国富を国際金融資本帝国主義に譲り渡し、売国奴政治にうつつを抜かしている時、両者を識別し是々非々すべきではなかろうか。「政府自民党」に対する万年一本槍批判ほど実際にそぐわないことはない。

 情けないことに、日本左派運動は、政府自民党内のハト派が政権を掌握機動させていた時にもっとも盛んに反政府反体制運動を繰り広げ、タカ派が掌握機動している現在逼塞させられ、口先三寸の批判運動に終始し裏協力するという経緯を見せている。これが偶然か故意なのかは分からないが、そういう悪しき対応をしている。社共運動特に宮顕−不破系日共運動が真に批判されねばならないのは、この犯罪性に於いてである。

 思うに、政府自民党内のハト派政治を良質のそれであったと見直し、その限界を突破し更なる左からの政治運動を生み出すために弁証法的に検証し直すべきではなかろうか。ハト派政治を体現したのは吉田茂を開祖とする池田隼人及び田中角栄、大平正芳、鈴木善幸政権であるからして、この時代の政治を検証し直し、復権せしめるべきところは復権し再興すべきではなかろうか。

 筆者は、戦後保守本流派を一時期形成していたハト派の中でも田中角栄政治を偽装保守実は真正の左派政治ではなかったかと推定している。実際には、古代出雲王朝の大国主的政治であったとみなしている。スサノウとみなす向きもあるがオオク二ヌシ的であったと解するのがより近いと思われる。国譲り前の善政政治であり、陰に陽にその後の日本政治に影響を与えている。

 それ故に、そのことを嗅ぎ取ったネオシオニズムがロッキード事件を用意周到に仕掛け、政治的に葬ったのではないのか。ネオシオニズムがこぞって呼応し、その際宮顕−不破系日共が異常にはしゃいだ裏には臭いものがあるとの仮説を持っている。日本左派運動は新旧左翼ともども、この観点をからきし持っていない。むしろ、金権政治の元凶として共に最悪視している。果たしてどちらの受け止め方が正しいのだろうか。

 角栄については、「田中角栄論」(jinsei/kakuei/tanakakakuei.htm)で総合研究しているので参照されたし。筆者が特に触れておきたい事があるので記しておく。それは、角栄がロッキード裁判で羽交い絞めされた折、公判闘争の途中より新左翼系弁護士に依頼したことである。角栄は何ゆえ見得も外聞もなくよりによって新左翼系弁護士に依頼したのだろうか。これが解ける者があるだろうか。

 れんだいこ史観に拠れば容易である。筆者の「角栄=偽装保守実は真正の左派」説に立てば、窮した時に本性表われるで、角栄が日共とは違う真性左翼の系譜であろうと仮定して新左翼系に必至の思いで助け舟を求めたと解することができる。

 であるとするなら、新左翼は、角栄が藁をも掴む思いで差し伸べた手をしっかりと受け止めるべきであった。新左翼系弁護士は全精力で角栄救済に向うべきだった。実際にはその有能性を最大限発揮して角栄冤罪説を主張した形跡がない。恐らく、左翼圏全体が日共式の角栄観に禍いされて熱心とならなかったのではなかろうか。返す返すも残念なことであった。

 それにしても、角栄退治に鉄腕を振るった宮顕−不破系のおぞましさよ。彼らは、ロッキード事件摘発最中の1976(昭和51).7.28日、秋に予定していた定期党大会を翌52年に延期し、異例にも党史上初めての臨時党大会を開き、宮顕・幹部会委員長が、大会の冒頭の挨拶と基調報告をし、前日の田中前首相の逮捕を誇らしげに伝え、対角栄闘争の徹底推進をぶちあげ異例の並々ならぬ意思統一をした。この時の様子についての詳しい記録が発表されておらず、秘密性の濃いものとなっている。

 角栄のその後は日共の願う通りのものとなり、政治的に絞殺された。こうなるや不破は、かって角栄を金権政治の元凶としてさんざん悪し様に指弾しながら、今になって云うことに概要「よほど貧乏していたのだろう。今日から見てさほどの額でもない僅か5億円の金欲しさに外国からの汚い金に手を出していた」などと角栄死してなお侮辱しており、ご丁寧な事に党員の拍手拍手と云うおまけ付きである。共に語り得ずの面々ではなかろうか。

 しかし、冷静になって考えれば次のことが明らかになる。今現在、自民、民主のタカ派系が構造改革と称して次から次へと改悪策動している諸制度は、ハト派時代に築かれた善政の産物ばかりである。タカ派系は何を急いで改悪に狂奔しているのだろうか。ここが詮索されねばならないだろう。国際金融資本のシナリオ論を媒介せずして解けるだろうか。

 筆者は既に「戦後憲法秩序をプレ社会主義のそれと認識し護持成育せしめる運動を展望せよ」で述べたが、戦後保守本流のハト派政治こそ、戦後日本のプレ社会主義性を良しとして在地土着型の左派運動を展開した稀有なものであったのではなかろうか。彼らは一度としてマルクスのマの字さえ口にしなかったが、マルクスを呼号し続けるマルクス主義者よりもよほどマルクス主義的で、世界に冠たる親方日の丸式在地土着型社会主義政策を創造し敷設していったのではなかろうか。ここに、世界の奇蹟と云われる戦後の高度経済成長式発展があり、イスラム世界ともよく親交し賛辞されていたのではなかろうか。

 してみれば、戦後保守本流ハト派の政治、特に角栄政治の功績を見直し、継承すべき面を継承し、新在地土着型のハト派政治を再興していくことこそ現代政治のテーマとなっているのではなかろうか。このことを指摘しておきたかった。この観点に異論があれば、筆者ははいつでも応ずる意思がある。堂々と議論しようではないか。

 2008.1.22日再編集、2013.01.27日再編集 れんだいこ拝

【ハト派とタカ派の政策的違いその1、政治体制論】
 以下、この系譜のハト派とタカ派の政策的違いを対比させていくことにする。ハト派とタカ派には、政治体制論に於いて次のような相似と差異がある。個々の事例では様々であろうからして、ハト派の場合には在地系社会主義派の田中角栄と大平正芳を、タカ派の場合にはネオシオニズム系タカ派中曽根康弘と小泉純一郎を念頭に置く。面白くするためにれんだいこ党の見解を対置しておく。
項目 れんだいこ党 ハト派/タカ派
法治主義 都合の悪い諸法蹂躙 是認都合の悪い諸法蹂躙
体制論 在地型社会主義体制創造 資本主義体制/資本主義体制
所有論
市場論 官業民業共生型自由市場主義 自由市場主義/金融支配型自由市場主義
同盟論 主体的国際平和協調主義 国際平和協調主義/日米同盟オンリー主義
反共論 容共 弱/
君主制論 /強、否並存
象徴天皇制 是認 擁護/否、元首制
ネオシオニズム 抗戦 /親
戦後憲法 護憲 護憲/改正
憲法9条 擁護 擁護/否定
自衛隊 救援隊に改組再生 文民統制/排文民統制
アジア外交 友好化 友好化/抗争化
愛国愛民族心 是認 是認/是認+米英ユ同盟へ傾斜
大東亜戦争責任論 再検証 再検証/居直り

【ハト派とタカ派の政策的違いその2、政策論】
 ハト派とタカ派には、政策に於いて次のような相似と差異がある。
項目 れんだいこ党 ハト派/タカ派
内政 優先重視 重視/軽視
公共事業 推進 推進/抑制
都市集中 共存 共存/地方切捨て
外交 国際平和協調主義+自主外交 自主外交/日米関係重視+米英ユ奴隷外交
防衛費 非軍事化による漸次削減 国家予算1%枠/国家予算の1%枠取り外す
専守防衛地域 国土内 東南アジア域/制限撤廃
治安警備 安寧秩序化による漸次削減 漸次強化/強権支配
国債発行 否&抑制/乱発
国営企業 戦後型官民共存是認 官民共存是認/民営化推進。官から民へ、
中小零細企業対策 保護、地場企業育成 保護、地場企業育成/淘汰、大資本迎合政策
法規制 自由、自主、自律型 自律型/統制型
治安警察法 規制緩和 事後規制/事前規制
外資政策 抑制 抑制/積極導入
首相の靖国神社参拝 春秋例祭参拝可 例祭参拝/例祭参拝+8.15終戦記念日参拝
奨学育英資金 積極的 積極的/消極的
労働者スト権 権利として是認 是認/否認
街頭デモ 権利として是認 容認/否認
石油政策 自力調達を目指す、脱石油化 自力調達を目指す/米英ユ同盟の指示に従う
原子力発電政策 弱推進/強推進
所得格差 是正+弱者支援 是正+自由放任/容認+自由放任
教育 義務教育無償化 義務教育無償化/義務教育無償化廃止
歴史教育 必要 必要/軽視、愚民化教育
報道規制統制 自由自主自律基準 自由自主自律基準/御用化




(私論.私見)