田中角栄の文筆能力、話法について

 (最新見直し2006.2.19日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、角栄の文筆能力、話法について確認しておくことにする。

 2005.9.8日再編集 れんだいこ拝


【角栄の文章論】
 角栄は、自らの文筆能力について次のように語っている。
 「私は、しゃべることも速いが、書くことも速い。とにかく今まで代筆させたことは、ほとんどないといってよい。だから、人に代筆させて、追放になった政治家が居るが、私には恐らく、そんなことは起こらないだろう私の書いたものがあって、ひっかかれば、それは全く私の思想なのだ。まことに『文は人なり』で、政治はごまかせても、文学は欺くことはできない。どんな短文にも、人生はにじみ出るものである」。
 「政治家になった今でも、文学の夢は私から離れないでいる。あの苦学時代に乱読した小説の影響は大きいと思うし、頭に入った文章や詩など、自分でも驚くほど記憶している。一度身に付けた文学的センスは、政治家になっても貴重なものだたと思っている」、「ある時期が来たら、すっぱり政治家を辞めて、小説を書きたい」(戸川猪佐武「田中角栄猛語録」)。

 1963(昭和38).5月.角栄は、文芸朝日6.1日号に自らペンを取り、次のような文章を載せている。一部を抜粋引用する。(小林吉弥「角栄がゆく」207P、徳間書店、1983.6.30日初版より)
 「あの苦学時代に乱読した小説の恩恵は大きいと思うし、気に入った文章や詩などを、自分で驚くほど記憶しているのである。純文学とか大衆小説とか、区別するから、ことが面倒になるので、広い意味の文学は、政治家にとっても決して無縁なものではないはずだ。だいたい私は、空疎な数学や狭苦しい理論で、相手を説得する型ではないのである。ところが私は人からよく云われるときで積極果敢型、悪く云われるときは仕事師、ハッタリ、がラッパチとなってしまい、結論的には政治家に向くようにみられている。が、実は、この『遠山の金さん』の裏側には、内省的で孤独な、気の弱い文学好きの私が隠されているのである。

 私はしゃべることも速いが、書くのも早い。新聞記者諸君にしゃべるときでも、間違いやすい話し、複雑な話は、しゃべりながら要点を自分で買いて渡したりする。とにかく、今まで、代筆させたことはほとんどないといってよい。私が原稿を書くとき、百の力のうち、三、四十パーセントしか出さない。百のうち、五十か六十で書いたものと、三十くらいで軽く書いているものと、いろいろ区別はあろうが、私は百のうち九十なんていうものは、とても書く気にならないし、書けそうもない。能力も体力もないからだ。百のうち、三、四十パーセント台で書いても、あるリズムに、自分の思想や考えがのってくれればいいからである。一気呵成で書いて、絶対に推敲はしない。

 昔、設計屋をしているときもそうだった。設計図を書くときには、いつも初めからぶっ書き実線でいったものだ。よく、昔の名人が木の看板に向かったとき、一気に書いてしまって、下の方が残ったら木を切ったという話があるが、私も全てそれ式である。

 今でも、私は座談でも標準語を使わない。自分の言葉がそのまま論文になり、そのまま印刷に回るようなことをしゃべろうとすると、どうしてもドモる。だから、『私はドモらないのだ』という信念をもって、ほかのものを見ながらしゃべる。自分の発想と発声を同時に、そのまま瞬間に出す。しかも相当、強い圧力をかけて声を出すとドモらない。そんなわけで表現がどぎついとか、しゃべり方のアクセントが強いとか云われるのである。これは決して、浪花節をやったためではない。

 私が才気に走っていると思う人もあるが、実際はそういう型の人間ではない、凡そ才気煥発ということは、縁遠い男なのだ。頭の回転が速いと云われるが、之は体質だし頭の回転が速いからといって秀才とは限らない。モーターは小さければ小さいほど回転が速い。大きなモーターの回転が速いならいいが、小さいのが速いのは当たり前で、生きていくうえに必要だからというに過ぎない。

 今の私は、昔よんだ佐々木邦さんの小説のギャグなど思い出し、それに近代的センスを加えて演説をやったりする。しかし、どうも演説と文章は違う。浪曲を聞いていても、私などは好きだということで不自然に感じないが、そのまま文章にしたら、『なんでまあ、こんなにマクラが沢山あるのだろう。同じことを何度も云っていて』と驚くに違いない。それが『間』によって生きているのだ。まさに『文は人なり』で、政治はごまかせても、文学は欺くことができない。どんな短文にも『人生』はにじみでるものである」。

【早坂秘書の角栄の話法論】
 早坂秘書は、角栄の話法の特徴について次のように述べている。
 「オヤジの話しというのは、簡潔、平易、明快が特長だ。筋道が立っていて、村の爺さん、婆さん、ごく普通の青年、企業人など誰でも分かり易く、納得できるようになっている。だから、短時間の結論でノート言われても、誰もが不満を引きずることがない。田中邸での陳情裁きだけでなく、事務所で政治家、財界人などと会う時も、よほど込み入った話以外はまず3分で済ませた。話に起承転結などはない。ズバッと結論から入るのが特徴だ。

 一度、若い政治家の相談が終わった後に、オヤジに聞いたことがある。『もう少し、ジックリ聞いてやればいいじゃないですか』と。オヤジの言葉はこうだった。『どんな話でも、ポイントは結局一つだ。そこを見抜ければ、物事は3分あれば片付く。後は無駄話だ。忙しい俺が、無駄話をしていられるか』と」。(小林吉弥「田中角栄処世の奥義」)

Re::れんだいこのカンテラ時評833 れんだいこ 2010/10/24
 【角栄の文章能力評】

 れんだいこは、このところ角栄に色気づいている。天理教教祖中山みきと角栄につき知れば知るほど楽しくてしようがない。れんだいこブログに興味のある方は、こたびもお付き合い願いたい。ここで、角栄の文章能力について言及しておく。近視眼的「田中角栄諸悪の元凶観」から一度離れて角栄を遠望した時、元文学青年にして文達者であった素の角栄が見えてくる。これを確認しておく。

 角栄は、文章を書くのも得意で能筆家であり且つ自筆文をモットーにしていた。幹事長、蔵相などの激務のさなかでも可能な限り自ら筆をとった。やむを得ず代筆させるときでも、でき上がった原稿に納得のいくまで赤筆を入れた。簡単なインタビューでも、口述がそのまま原稿になるよう配慮していた。文体は簡潔な散文調であった。所信表明演説の草稿も角栄自身が書きあげ演説している。こういう首相はなかなか出てこない。

 角栄の文才は既に、1933(昭和8)年、15歳の時に認められている。二田尋常高等小学校高等科卒業時、卒業生総代として答辞を読んでいる。この時凝りに凝った文案を作成し、立派に読み上げている。「残雪はなお軒下にうずたかく、いまだ冬の名残りも去りがたけれど、わが二田の里にも、更生の春が訪れようとしています」云々。

 卒業後暫くの間、自宅の独学で中学講義緑を学んだり、漢詩を暗誦したり、書道に熱中している。余程進学したかったことと将来の進路を掴もうとして充電中であったものと推測される。「明治大正文学全集」、大衆雑誌「キング」、姉が読んでいた「婦女界」などを耽読している。新潮社の雑誌「日の出」に懸賞小説を投稿し、「三十年一日の如し」で選外佳作5円貰っている。「私の最初の収入は原稿料なのですよ。子供の頃、文士にあこがれましてね。モノを書くということでは、みなさんの先輩かな」と回顧している。

 1966(昭和41)年、日経の「私の履歴書」に登場した角栄は、他の多くの者がゴーストライターを用意しているのに自ら書き上げている。「最初の5回分は口述筆記の原稿に手を入れたものを載せたが、読んで自分でも気に入らなかったのだろう、6回目からは自ら筆をとって書いた。本人の書いたものは俄然面白くて読みやすい。かなりノッて書いたようで、予定の30回では終わらず5回分を追加している」とある。

 これを読んだ「近代批評の神様」と云われて名高い文芸評論家の小林秀雄が日経新聞編集局に次のような葉書を寄越した。「貴紙連載中の田中角栄氏による『私の履歴書』を愛読しております。文章は達意平明、内容また読む者の胸を打つ。筆者によろしくお伝えください」。

 この葉書が編集局長から政治部を通して早坂茂三秘書の手に渡ったと早坂著「オヤジとわたし」に記されている。これにつき、れんだいこは従前、川端康成が角栄文を高く評価していたと書いていたが正しくは小林秀雄のようである。ここに訂正させていただく。川端康成の評があるのかどうかは分からない。

 当時大学生の長女真紀子がそれをききつけて、「パパ、小林秀雄がパパの文章をほめてたそうよ」と云いに行ったら、角栄は「そうかい、へえー。・・・で、小林秀雄って誰だい?」と聞き返したという逸話が残っている。「オヤジとわたし」では、その遣り取りは早坂秘書と角栄で為されたものであり、それを知らされた真紀子が翌日に早坂秘書に電話を入れ、「あれ、本当に小林秀雄さん?」との確認が有った云々と記されている。

 それにしても、田中角栄と小林秀雄の「一瞬の遭遇」が面白い。こう評している小林一喜著「戦後精神における近代と超近代」(文芸社、2000.5月初版 )にネット検索で出くわした。(アドレスが長い為割愛する)早速取り寄せ読むことにした。

 ちなみに、れんだいこの知る小林秀雄の凄さは次のところにある。1929(昭和4)年、当時「中央公論」と並んで最も権威ある総合雑誌であった「改造」の懸賞論文に一等当選の栄誉を得たのは後に共産党指導者になる宮本顕治の「敗北の文学」で、次点が小林秀雄の「様々なる意匠」であった。当時の審査員がそう評したと云うことであって作品の優劣ではない。共にプロレタリア文学を論じていた。

 宮本顕治の「敗北の文学」はマルクス主義の通俗的教条を振り回して芥川文学を評していた。次のような観点を披歴している。概要「ブルジョア・リアリズムとしての自然主義文学よりプロレタリア.リアリズムの勝利へ――この道程は、近代文学の必然的方向であり、より重大なことは、彼らの属した非プロレタリア階級の認識そのものが、既に主観客観の同一性を持ち得なかったのである」、概要「主観的認識が、同時に客観的認識足り得る歴史的必然に立ち得る文学的見地、自己の階級的主観が同時に世界の客観的認識としての妥当性を持つ者は、プロレタリア階級のみである」、概要「現代文学の先端が、プロレタリア文学の旗によって守られているということを認定することが肝要である」、「芸術が形象的思想である以上、プロレタリア芸術家は、何よりも骨の髄まで、細胞の中まで、プロレタリア的な感情によって貫かれていなければならないのである」、「芥川氏の場合、究極、労働階級を知らず、観念論の無力を自覚し得なかった」、「『社会主義の武器を持ってブルジョアジーへの挑戦を試みなかった彼の限界性。根本的批判』がなさればならない、という『批評の党派性』を身につけねばならない」、「芥川文学に『一つの彷徨時代。社会的進歩性』を認めることができても、ブルジョワ文学が、他の何物にも煩わされることなく、ひたすらに芸術的完成を辿った過程は、芥川竜之介の自殺を一転機とするブルジョワ文学の敗惨の頁によっ て、終結を告げたと見ていい」。

 これに対し、小林秀雄は既にかの時点でマルクス主義の通俗的教条に批判的な論評を加えている。「私には文芸評論家が様々な思想の制度をもって武装している ことをとやかくいう権利はない。ただ鎧というものは安全では有ろうが、随分重たいものだろうと思うばかりだ」、「マルクス主義 文学、――恐らく今日の批評壇に最も活躍するこの意匠の構造は、それが政策論的意匠であるが為に、他の様々な芸術論的意匠に較べて、一番単純なものに見える」、「私は、ブルジョワ文学理論のいかなるものかも、又プロレタリア文学理論のいかなるものかも知らない。かような怪物の面貌を明らかにする様な能力は人間に欠けていても一向差し支えないものと信じている」、「私は、何物かを求めようとしてこれらの意匠を軽蔑しようとしたのでは決してない。ただ一つの意匠をあまり信用し過ぎない為に、むしろあらゆる意匠を信用しようと努めたに過ぎない」。

 当時に於いては宮本顕治の論の方が鋭いように思えたのであろうが、あれから80年を経た今日では小林秀雄の批評の方こそ 「時代に媚びず阿ねず」で文芸論的な眼が確かなのではなかろうか。未だにそう思わない者も居るだろうから、「マルクス主義の通俗的教条」に対する態度の論であるとしておこう。

 そういう真贋を見抜く眼を持つ当代一の文芸評論家である小林秀雄が同じく当代一の政治家であった田中角栄の文を称賛した意味は大きい。小林秀雄の孤高の精神からして、今をときめく幹事長故の角栄文激賞ではない。素の角栄文を高く評価して、その評価から幹事長の地位に上り詰め、いずれ首相にまでなろうとしている政治家・角栄を首肯したのに相違ない。小林一喜氏は、「確と相通じた両者の精神の交点」と評し絶賛している。「類は友を呼び、あい親しむ」の法理の絶好例ではなかろうか。このことを教えてくれた「戦後精神における近代と超近代」を読まずにおれるか。

 その角栄の書は筋が良かったらしい。端正で勢いのある字を書き、書道家が褒めたと云う。政治家に色紙や額の題字書きはつきものだ。角栄は自筆をモットーにしており、「こんなに書かされたら死ぬ」と文句をいいながらも、山積みの色紙に一切手抜きせず、真剣に筆を執った。その先に支持者のそれぞれの顔を見ていたのだろう。今こういう労を取る政治家が果たして何人いるだろうか。

 「田中角栄の文筆能力、話法について」
 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/kakuei/sisosiseico/bunphitunoryokuco.htm)

 2010.10.24日 れんだいこ拝

【角栄文例―IMF総会時の訪米回顧録】
 その角栄の名文の一つがネット検索でヒットしたので転載しておく。「ジャパン・ハンドラーズと国際金融情報」の「田中角栄と小沢一郎 共通する軌跡」を参照する。原文は、「田中角栄『大臣日記』」(新潟日報社)のようである。田中角栄が池田勇人内閣の大蔵大臣として、IMF8条国への移行がテーマになったIMF総会がメインとする訪米したときのエピソードを集めたもので、色々なところに足を運んでいる。角栄がボヘミアン・グローブに呼ばれていた時の様子である。
 <女人禁制のボヘミアン・クラブ>

 経済界に籍を置く人たちの親睦クラブであるが、ここだけは過去も現在も、また将来も女人禁制で「輩(くん)酒山門に入るを許さず」式のもの。会長の夫人同伴も許さないとのことだった。要は男どもが女性の監視から逃れて一夕一室にこもり、少年のころにかえりたいという趣向らしい。このクラブに入ると、絵の好きなものは絵をかき、歌の好きなものは歌う。それぞれ好きなことを静かにやりながら、その結果を会員に披露してたのしむ、というものである。アメリカの近代都市観とはおよそかけ離れた古い建て物であり、ふんいきであった。歴史の浅いアメリカ人のやるせない思いかもしれない。

 歓迎会には二十四、五人の人々が集まって各人がこのクラブで練習し、修得した芸術を披露した。私はこの席のスピーチで、「現在、日本はバンク・オブ・アメリカに金を借りているが、やがては貸すほうに回りたいと考えている。しかし、当分はまだ借りる側である。優良な投資先である日本にはどんどん金を貸したほうがよいと思う」といって拍手をあびた。そのさいの話し合いで、丸善石油の再建資金貸し増しも決まったのである。私が冗談に「金を借リる側の目本がごちそうになって恐縮だ」といったら「アメリカでは金を貸すほうがごちそうする」との返事があり、参会者は声を立てて笑ったものである。

 ボヘミアン・クラブ-それはサンフランシスコの思い出の中に鮮明に残っているものの一つだ。シスコからワシントンまでの空路は、大陸を横断してコロラド渓谷の真上から五大湖まで一直線。そこからワシントンまではすかいに南下する。距離四、二〇〇キロ、所要時間は五時間である。
 「大臣日記」田中角栄著(新潟日報社)69~70ページ
 IMFのレセプションという形で、角栄も「ロック家」に招かれた時の回想文。

 ■忘れ得ぬロック家の招待

 <馬場もある大邸宅>

 ニューヨークヘきた私を待っていたのはロックフェラー家の招待である。アメリカの有名な財閥で、当主になる長兄のロックフェラー三世、次兄のロックフェラー、ネルソン(ニューヨーク州知事)、末弟のロックフェラーニァビット(チェスマンハッタン銀行社長)三兄弟の主催。

 IMF総会を終わり、ニューヨーク経曲で帰国する各国代表を慰労するため、アメリカ政財界の指導層も集まって開かれるこの催しは、和気あいあいとしたもので、IMF総会終了後の恒例行事だといわれている。私はニューヨークの郊外、セントラル・パーク横にあるホテル・ピェールに宿泊した。窓の外はすぐ公園で、ちょうど東京の帝国ホテルから日比谷公園をみるような環境である。

 九月二十三目、私は娘といっしょに車に乗ってロックフェラー邸に出かけた。運転手は在米生活四十年という目系二世である。この運転手がハンドルをにぎりながら「大臣、映画や人の話では東京も変わったそうですが、きっと見違えるほどでしょうね」などと開くので「変わったよ。多少無理をしても一度は帰ってみるんだね」と、話にすっかり花が咲いた。

 ところが車は一〇〇キロのスピードで走っている。話に身がはいりすぎ、娘も彼の身の上話に涙ぐんでいる間に、高速道路の曲がり口をすぎて別な方向に何十キロときてしまった。これは困った、と思った瞬聞、周囲にパトロール・カーがいないのをたしかめた運転手は、あざやかなユー・ターンをやってのけた。

 おかげでロックフェラー邸へは定刻に着くことができた。「彼はやはり目本人だ。高速道路では禁制のユー・ターンを敢行して私たちに遅刻させないあたり、何十年たっても日本人の“たくましさ”は抜け切れんとみえる」-この小事件の体験で妙に感心したことを覚えている。

 ロックフェラー邸はプカンティデュ・ヒルズという丘の上にある。邸内の広さは驚くべきもので、プールはもちろん馬場まであるのには恐れ入った。ところが邸内には日常ここで暮らしているようすがみあたらない。閾いてみると「ロックフェラー一家はニューヨークの高層アパートのいちばん上に住んでいる」という返事。ニューヨークのアバートは、部屋が上になればなるほど値段が高い。

 これは全般的にビルが高層化しているので、上部で視界が広くなればなるほど値も高くなるというわけだ。地震国、同本ではビルの一階がいちばん値が高いのにくらべ、まったく逆の現象である。

 ロックフェラー家の邸内には一種の厳粛な家風といったものがみなぎっていた。玄関の応接ホールには、当主の両親と長姉、軍服姿をした三人の男の子の写真が飾られているだけで、ほかにはなんの装飾品もなかった。サンフランシスコのボヘミアン・クラブと似た感じで、渋く落ち着いたふんいきであることが印象的であった。

 <肩の荷おろし談笑>

 会は楽しいものであったが、私には困ったことがひとつあった。それは招待者は本人に限られ、通訳を入れないことである。「英語を話せないのは私だけではなかろうか」と心配したが、会場には英語やフランス語、それにス。ヘイン語が入り乱れて、お互いにちんぷんかんぷんの人たちが多く、私も内心ホッとした。ところが、そこへ南アフリカの大蔵大臣シェラレオーネ氏がやってきたのである。身長七尺、体重四十五貫の偉丈夫、IMF総会では私の隣席だったから、お互い顔は知っている。しかし話は通じない。お互いが握手を繰り返すばかり。これには困った。もともと私には、この会でも通訳がいなかったわけではない。英語の話せる娘といっしょに招かれていたのである。

 だから私は邸内にはいる前に娘にたいして「きょうは通訳がおらんのだから、お前はお客さんというより、おとうさんの通訳としての責務を果たさなくてはいけない」ときつく申しわたしておいたのである。ところが、娘は親のいうことを聞かず、すぐ私のそばを離れては、遠くの席でブラック世銀総裁夫人やウッズ・ファーストボストン証券会長夫人らとぺちゃくちゃしゃべっている。このときは、つくづく「人をたよってはいけない」と思った。しかし"捨てる枠あれば助ける神あり"というが、困っている私をみて、チェスマンハッタン銀行のラムネック氏がほとんど私につきっきりで、なにくれとなくめんどうをみてくれた。私は遠くの方でよその奥さんたちと楽しそうに話している娘をみながら"遠くの親せきよりも近くの他人。ということわざを身にしみて感じた。

 招待からの帰り道、私は娘と一言も口をきかなかった。ロックフェラー家の招待をめぐるこのようなホロにがい体験も、いまになってみれば、やはりなつかしい思い出である。日本では外国から要人や使節団がくると、すぐいろいろな会杜、団体が争って招待競争をやる。

 私はこんどの経験を通じて同本のこれまでのようなやり方では、まずいと思った。政府や公的機関主催のとおり一辺のレセプションより、公式な会議を終えて肩の荷をおろした外国代表を一堂に招き、日本の政、財界の首脳も加わって談笑の機会を持つことのほうが、どれだけ豊かな実りをもたらすことか。ロックフェラー方式は大いに参考にしたいものである。

 「大臣日記」 田中角栄著(新潟日報社)96~100ページ






(私論.私見)