ロッキード事件の伏線考

 更新日/2018(平成30).6.19日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 れんだいこのロッキード事件顕彰で見えてきたことをメッセージしておく。あれから30数年、見えてきたこととして、この事件により致命傷を負った者と丸儲けした者とを判然とさせることが必要ではなかろうか。深手を負った者は角栄と児玉である。丸儲けした者は中曽根である。これは偶然か、これを問いながら検証していくのがロッキード事件の早分かりであろう。

 確かにこの事件を通じて「戦後なるもの」が清算された。しかし、清算後に遣ってきたのは、恐ろしいほどの売国政治である。中曽根から小泉まで30年かけてこの国は脳粗鬆(そしょう)になってしまった。

 2005.7.15日 れんだいこ拝


【ロッキード事件の政治的背景】
 ロッキード事件の背景はいろいろ考えられる。ここでは、その1・アメリカー国際金融資本の角栄観、その2・資源外交、その3・ロッキード・ダグラス・ボーイング三社の航空機売り込み競争、その4・ロッキード社の秘密対外工作、その5・サンクレメンテ会談、その6、その6・日英首脳会談時のヒース首相の売り込み、その7、売り込み競争の結果の6観点から考察しておく。

【その1・サンクレメンテ会談】

 1972(昭和47).1月、サンクレメンテ会談がこういう背景で行われている。表向きのメインテーマは、米中の頭越し外交の追認、日米繊維交渉の結果に対する確認、円の通貨切り上げの確認と、最後に沖縄返還の最終的合意及び詰めの作業の打ち合わせであった。

 この時のサンクレメンテ会談を、ニクソン再選の援護射撃として種々打ち合わせされたと捉える向きもある。この会談で、対日貿易不均衡の是正、「農産物を自由化してロッキードを買え」の働きかけがあり、そのパートナーとして福田より田中が選ばれた。そして、日米通商問題、繊維業界、航空機業界の内ゲバ対応策(民間導入航空機の選定、防衛庁の支援戦闘機やPXLの購入)が話し合われ、それぞれが同床異夢の契りを結んだ、と見る向きもあるが真相はわからない。

 この時のハプニングだけははっきりしている。元々この会談は、佐藤首相の腹づもりとして福田外相を次期首相候補として米政策当局者に確認せしめる「顔見せ興業」的意味合いも持っていた。その意味では田中通産相の同行は付け足しであった、とされている。ところが、この時ハプニングが起こり、福田より田中のパフォーマンスが脚光を浴びる結果となった。この時田中通産相は、スタンズ商務長官との会談で見事な捌きぶりを見せており、前年の日米繊維交渉の決着での手腕の評価とも相俟ってかと思われるが、ニクソンは福田より田中の方をチョイスし続けることになった。

 ゴルフの際に、ニクソンのカートに田中を乗せ(おかげで福田が歩いていく様となった)ラウンドしている、昼食会の席に隣に座らせたこと等がそうである。本来、福田が座るべきところに田中が座ったことになった。日米首脳の昼食会の席次は厳格なものであるが、ニクソンの自然な行為であったのか、田中の意図的な滑り込みであったのか、今日も真偽が定まっていない。ニクソンが田中に「仕事が出来る男、話せる男」として好意を抱いていたことだけは確かである。


【その2・アメリカ当局の角栄観】
 1972(昭和47)年、田中首相は就任と同時に日本列島改造論・日中国交復交に「決断と実行」で着手し、従来のアメリカ一辺倒政策とは違った自主的な新しい政策を強力に打ち出していった。今日、アメリカがこの角栄政治に恐怖を抱いた様子が明かされている。ホワイト・ハウス当局は、CIAに命じて角栄の政策と思想、そのブレーンに至るまで再チェックさせ、首相としての動向の調査、分析を徹底させている。

 今日公開された国務省レポートは、「何をやりだすか分からん男。日本のためには優れた政治家であっても、それがアメリカの利益になるかどうかは未知数である」として、神経を尖らせていた様子を明らかにしている。概略はアメリカ特務機関の角栄レポートに記した。

【その3・資源外交】

 ロッキード事件の考察に当たっては、アメリカの保守本流(その奥の院としての国際金融資本、その表舞台としての米英ユ同盟)が、この時日本(の政治家)に対してどんな謀略をしかけたか、 この観点からも追跡せねば真実像が見えてこない。

 その動機の一つとして石油問題がある。1973(昭和48)年、第二次田中内閣時に「オイル・ショック」が襲った。角栄は、この時の石油危機の教訓から、アメリカや中東のみに依存する従来のエネルギー政策に危惧を覚え、石油メジャーの支配から脱する独自のエネルギー調達外交を展開していった。ブラジル、インドネシア、北海油田沿岸諸国を訪ねて、将来にわたるエネルギー源の確保を目指して精力的に交渉をこなした。つまり、旧式の対米・対中東依存構造の転換を企図して「新資源外交」を打ち出していった。

 しかし、ホワイト・ハウス当局はこれを許さなかった。用意周到に「新資源外交」を分析しつつ、警告を与えている。角栄の外遊先で、特にタイのバンコックで学生デモを煽動して「経済侵略反対デモ」を誘発させているのもその一つであろう。

 もう一つの動機としてウラン問題がある。角栄は、核独占を狙うアメリカ系多国籍企業の原子力エネルギー政策に対抗するかのごとく、カナダからの新規原子炉導入商談を推し進めていった。これがどこまで角栄の本意であったかどうかまでは分からない。そういう役割を課せられ、引き受けていったという「闇」がある。日本は当時、向こう15ヵ年計画で百兆円を投入して電力の全面的原子力化を計画しつつあった。それ自体見逃しがたい巨額商談であったというに留まらず、もしカナダ炉導入が本格化すれば、米系資本の原子力世界政策に大きなヒビが入ることが予見された。

 ちなみに、この時カナダ炉の輸入代理店となっていたのが丸紅であった。その他の動きとして、ウラニウムをオーストラリア(ホイットラム首相)に求めようとしていたことも見逃せない。こうした「アメリカ離れ」的「新資源外交」が、ホワイト・ハウス当局を一層刺激させたことは疑いないところである。事実、この動きをキャッチした当時のキッシンジャーアメリカ国務長官は、「国際石油資本の政策に対する挑戦であるとしてあからさまに激怒した」と伝えられている。


【その4・ロッキード・ダグラス・ボーイング三社の航空機売り込み競争】

 7月下旬、日米通商箱根会談が開かれた。この席で、日本側は、航空機や濃縮ウラン、農産物などの緊急輸入を呈示していた。この政府間の交渉を受けて、ロッキードをはじめ、グラマン、ボーイングといったアメリカの民間航空機製造会社が、こぞって日本に売り込みをかけてきた。

 8.31日、ハワイのクイリマホテルで日米首脳会談(田中.ニクソン会談)が開かれた。安全保障、経済摩擦等様々な懸案が話し合われているが、真意は日中交渉の米側への報告と了承を得ることにあったものと思われる。

 アメリカ側は、ニクソン、キッシンジャー、日本側は田中、牛場信彦駐米大使。その後、ロジャーズ国務長官、大平外相が加わっている。この席で、中国問題、特に日中交渉、国際収支問題、日米貿易不均衡問題等が包括的に話し合われている。

 日米貿易不均衡問題を見ておくと、70年までは、日本の対米貿易黒字は数億ドル単位だったものが、71年には25億ドル、72年には30億ドルを軽く突破する見込みとなっていた。

 日米安保条約の維持・日中国交正常化・日米貿易不均衡是正の共同声明が発表された。文芸春秋2001.8月号の「角栄の犯罪25年目の真実」は次のように記している。

 概要「ニクソン政権としては、何とか日本の輸入を増やしてもらい、貿易収支の改善を図ろうと懸命な時期だったわけである。この会談で、アメリカのドル防衛と、日米貿易摩擦改善の為に、日本が、アメリカから7億1千万ドル(約2千億円)の緊急輸入を行うことが決定した。その目玉が日本の民間航空会社による3億2千万ドルの航空機輸入だったのだ。田中は、日米関係強化のためにも民間航空機調達といった手土産を、ハワイ会談までに用意しなければならない立場にあった。こうした日米間の貿易摩擦問題の中で、日米を跨ぐ形でロッキード事件が起きたことを強調しておきたいと思う」。

 この時、竹下副幹事長、金丸国会対策委員長、亀岡経理局長等20数人が同行している。真偽不明なるも、その中の大物議員の一人が「ニクソンがロッキード、ロッキードと言うので困ったよ」とオフレコで語っているとのことである。

 こうした事情か、1972(昭和47)年は、ロッキード・ダグラス・ボーイング三社の航空機売り込み競争が過熱していた年であった。他方、国家向け軍用機の売り込みも稼動していた。この年、次期対潜哨戒機(PXL)を廻って、「自力国産か輸入調達か」かの極めて高度な政治判断が要求されていた。10.9日、国防会議が四次防大綱を決定し、次期対潜哨戒機(PXL)の国産化を白紙還元している。10.11日、田中首相はこの決定を受け、PXLを「国産から輸入」に重点を置く方針転換を表明している。この決定の背後にあった動きまでは分からない。ロッキード・ダグラス・ボーイング三社の売り込み競争に拍車がかかったことは容易に想像できる。

 他方、民間航空会社に対する旅客機の売り込みも伯仲した。ロッキード社は、民間旅客機(エアバス)についてはトライスター(L1011型機)を、軍用機についてはP3Cを用意してこの商戦に参入していた。代理店は丸紅。同様にダグラス社はDC10で三井物産、ボーイング社はB747ジャンボで日商岩井という構図で競争していた。

 
「ロッキード事件」は、この時の商戦での民間航空旅客機トライスターの売り込みにまつわる贈収賄疑獄事件である。その問題点として、トライスターに関する捜査の手は伸びたが、代わりに軍用機P3Cについてはいつの間にか捜査線上から消えてしまい闇に隠されていくという経過を見せていくことになる。「ロッキード事件」の胡散臭さがここにもある。


【その5・ロッキード社の秘密対外工作】

 この時期、日本の航空旅客会社全日空は機種選定の年に当たっており、22機を購入しようとしていた。ロッキード・ダグラス・ボーイング三社がこの大型商戦に色めきたち、売り込みの為に秘密代理人、商社、政府高官にも触手を伸ばした事は十分考えられる。ロッキード社は、東京事務所代表クラッター氏をしてその任にあたらせた。

 1972(昭和47).8.21日、コーチャン・檜山会談。同8.23日、田中・檜山会談。9.1日、ハワイで田中・ニクソン会談が行われている。これは公表されている表の流れであり、未だ公表されていない裏面の流れもあると思われる。

 この頃のロッキード社の経営状態を知っておく必要がある。橋本登美三郎運輸大臣がエアバス導入延期を発言した時期、その直前にはトライスターのエンジンを製造していた英国ロールスロイス社が倒産、国家管理に移されている。このためロッキード社は6500人の従業員を解雇、ニクソン大統領に緊急特別融資を直訴している。

 ロッキード社はニクソンの選挙区に本社を持っていたこともあってか、ニクソンはこの時異常とも言える熱意でロッキード社救援に動いている。71年、ロッキード社に対する緊急融資陳情が「前例も制度も法律もない」ままに推し進められ、ニクソン政権のコナリー財務長官、パッカード国防次官はじめ米上下両院の有力議員への働きかけが功を奏し、その結果、上院で僅か1票差で緊急融資法が成立している。もし否決されていたら、手形の期限切れでロッキード社は倒産というギリギリの状況にあった。

 文芸春秋2001.8月号「角栄の犯罪25年目の真実」は次のように記している。

 「72年になっても、ロッキード社は6億ドルもの借入金を抱え、経営建て直しのためには、是が非でも日本の航空会社にトライスターを買ってもらわなければならない立場にあった」。

 こうした流れが全日空の機種選定作業の一旦中止工作と並行しつつ進んでいた。つまり、ロッキード社の商戦勝ち抜きのお膳立てが日米合作で進められていたという背景が垣間見られる。


【ロッキード社、全日空、丸紅考】
 ロッキード社について、「荒木睦彦氏のアラキラボ<ロッキード事件「田中支配」とは何であったのか?> 」の「(3)ロッキード事件の役者たち」が次のように記述している。これを転載しておく。
 ●ロッキード社(ロッキード・エアクラフト・コーポレーション)

 Lockheed Aircraft Corporation(略称はLAC,ここでは「ロッキード社」もしくは「ロ社」という)は、昭和7(1932)年に設立された航空会社であり、本社はアメリカのカリフォルニア州バーバンクにある。事業は、各種の航空機、エレクトロニクス、宇宙船、ミサイル等の設計、開発、販売を主たる営業目的にしており、アメリカ国防省からの受注契約高は全米企業中第1位を占める。つまり「官」には強く、「民」には弱い会社である。ここにロッキード事件の鍵が隠されていた。

 ロッキード社では、昭和42-50(1967-75)年の間、アーチボルト・カール・コーチャンが社長を務めていた。従業員数は関連会社を併せて約6万人。わが国の自衛隊が使用しているF-104Jスター・ファイター戦闘機、P-2V対潜哨戒機は同社から納入されたものであり、軍用機には強いが、反面で民間機は出遅れていた。

 ロッキード事件で有名になったコーチャンとクラッター両氏の略歴を述べる。
 アーチボルト・カール・コーチャンは、1941年にロッキード社の関連会社に入社し、その後、ロッキード社に移り、経理、財政、管理部門に勤務。1963年にロ社の実行副社長、1967年に社長に就任した。75年副会長に昇格し、76年2月13日、ロ社の海外における不正支払いの責任をとり退任した。

 クラッターは、1939年にロ社へ入社。販売部門に勤務。1958年にLAI社に配属され、国際取引業務を担当。しばしば来日し、その後、LAAL社の社長兼東京事務所の代表に就任。1974年の末頃、LIC社の市場開発部長になり離日した。

 ロ社の営業成績は、70年代以降、その経営が悪化しており、倒産寸前に追い込まれていた。そのため1971年にニクソン大統領は、ロ社に政府保証による緊急融資を行なった。そのような大統領によるロ社に対する特別な配慮は、ロ社がアメリカで最大の軍用機のメーカーであることに加えて、その本社がカリフォルニア州にあり、そこがニクソン大統領の選挙基盤であることからくる政治配慮があったと思われている。

 ●ロッキード社の販売代理店と全日空

 ロッキード事件に関わる日本の販売代理店と、ロッキード社の顧客となる全日空の関係を簡単に述べる。
 航空行政は、防衛、外交、交通の面から、一国の国家政策に最も関連の多い産業である。そのため日本の戦後における航空機の生産、購入、管理などの行政手続きは、GHQ(連合軍総司令部)により厳重な統制下に入った。GHQは昭和20(1945)年10月に、まず日本政府の航空行政を航空保安施設の維持、管理に縮小・限定して、それまでの航空局を逓信院電波局航空保安部と名称を変更した。その時の保安部長が、後に日本航空の社長になる松尾静麿、また保安課長が同じくその後に全日空の社長になる大場哲夫である。

 この航空行政は、昭和31(1956)年の国防会議構成法から、日本の国防の重要な柱となった。翌年2月に日本の再軍備路線を進める岸内閣下で、国防会議は「国防の基本方針」(5月)を決定した。この方針に従い、6月に第1次防衛力整備計画が策定され、航空機を1300機保有する事が決定した。ここから日本は戦後に初めて、戦闘用の航空機を保有することができるようになった。この日本における最初の戦闘機の購入をめぐり、昭和32-33年にかけてグラマン社とロッキード社などによる壮絶な売り込み合戦が繰り広げられたことは有名である。このときグラマン社から30億円という巨額な資金が岸首相の自民党に流れ、それが選挙資金に流用される事件が起こった。それを児玉誉士夫がスッパ抜いて、国会でも大きな問題になった。この事件を通じて、昭和32年から児玉誉士夫はロッキード社の「秘密代理人」となり、また丸紅は第1次FXにおけるロッキード社の代理店となった

 ▲全日本空輸(株)−「全日空」

 全日空は、昭和27年12月27日に日本ヘリコプター輸送(株)として設立され、昭和32年12月1日に全日本空輸(株)と名称を変更した。これが現在の全日空の始まりである。社長は昭和44年5月30日から45年6月1日まで大庭哲夫、その後を受けて、51年12月17日までを若狭得治、その後を安西正道が務めた。

 全日空は、昭和45年1月、大型ジェット機を昭和47年4月に導入する事を目途として機種選定を行なうため、社長の諮問機関として新機種選定準備委員会(以下、「選定委員会」という)を発足させ、その委員長には若狭得治副社長があたった。選定委員会は、ボーイング社(代理店:日商岩井)、ダグラス社(代理店:三井物産)、ロッキード社(代理店:丸紅)などからプロポーザルを提供させて、選定作業を進めたといわれる。

 大庭哲夫が全日空社長に就任した昭和44(1969)年5月30日の、2ヵ月後の7月25日に、大庭社長は三井物産を代理店とするダグラス社にDC10購入の意向を伝えている。この頃、三井物産は全日空の第2位の大株主であり、しかもDC10の導入には、閣僚級の政治家の後押しもあったといわれる。7月下旬には、三井物産はDC10を7機購入しており、それは明らかに全日空へのダグラス社のDC10導入の動きが始まっていたことを示している。さらに、選定委員会が発足した2ヶ月後の3月に大庭社長は、ダグラスの社長に70年9月に確定注文の予定を通告している。これらの状況を見ると、全日空の大庭社長は1970年の中ごろ、明らかにダグラス社のDC10を導入する予定で行動していたと思われ、同時にダグラス社や三井物産も、それに向かって手配を進めていたように見える。

 ところが全日空の大庭社長によるDC10導入計画は、フシギな事件により昭和45年の中葉に頓挫する。そのフシギな事件とは、俳優の田宮二郎の自殺事件でも有名になったM資金から、昭和44年7月28日に大庭社長が、3000億円の架空融資を受ける念書にサインしたことが明らかになったことである。その責任をとって、大庭社長は昭和45年5月31日に全日空社長を辞任し、代わって副社長の若狭得治が後任の社長に就任する。これにより全日空は、ダグラス社からのDC10の購入計画から、ロッキード社のトライスターの導入計画に変える。そのため三井物産は既に購入ていたDC10を、大幅値引きしてトルコ航空に売らざるをえない状況に追い込まれた。

 一方、ロッキード社側は、昭和44年頃から主に日航を対象にトライスターの売り込みを行なっていた。しかし日航は、従来ボーイング社やダグラス社と密接な関係にあり、エアバス級の旅客機を購入する可能性は全日空のほうが高いとして、全日空が若狭社長になった頃から、全日空への売り込みに転換する。

 ▲ロッキード社の販売代理店・丸紅

 ロ社の販売代理店を努める丸紅(株)は、丸紅飯田が東通を合併し、昭和47年1月に社名を丸紅に改めた。本社は大阪にあるが、営業の拠点は東京にあるため東京本社と呼び、営業の中心は東京にある。 従業員数は1万人で、内外物資の輸出入を扱う総合商社である。この会社で、ロッキード事件の関係者となったのは、次の人々である。

 檜山宏 −昭和7年東京商科大学専門部卒、丸紅の前身である大建産業に入社、昭和39年に取締役社長、昭和50年に会長を務め、ロ事件により51年3月退職。

 大久保利春 −昭和13年東北大学法文学部卒、三和銀行勤務からはじまり、昭和41年6月に丸紅飯田の科学機械部長に就任、43年に取締役、46年5月に常務取締役、50年5月に専務取締役。43年6月から航空機の輸入・販売等を担当。昭和51年2月17日からロ事件に関連して取締役を辞任。

 伊藤宏 −昭和23年東京大学法学部を卒業後、大建産業に入社、その後、病気で除籍になったが、26年に丸紅に復籍。社長室に勤務し、昭和46年取締役として社長室、人事部、研修室の部長、昭和47年常務取締役として社長室長、人事本部副本部長、業務本部副本部長を兼務、50年6月に専務取締役として人事、業務部門を管掌したが、51年2月17日にロ事件に関連して取締役を辞任した。

 ▲ロッキード社の秘密代理人・児玉誉士夫

 児玉誉士夫は、戦前、戦後を通じて行動右翼として、日本の裏社会を中心に活躍した人物である。出生は福島県安達郡本宮町であり、大正7年頃上京した。その後、朝鮮に渡り働いたが、大正15年4月に再び上京して鉄工所に工員として勤め、夜学で勉強した。
 昭和4年に上杉慎吉博士の右翼団体「建国会」に入り、次のテロ事件により3回入獄して有名になった。
 昭和4年(18歳) 天皇直訴事件       懲役6ヶ月
 昭和6年(20歳) 井上蔵相脅迫事件     懲役5ヶ月
 昭和7年(21歳) 天行会・独立成年者事件  懲役4年6ヶ月     

 出所後、右翼団体を組織したが間もなく解散し、内蒙古方面を旅行していたとき、外務省情報部長・河相達夫の紹介で外務省情報部嘱託となった。
 さらに、陸軍参謀本部嘱託、支那派遣軍総司令部嘱託などを経て、昭和16年11月ころから海軍航空本部嘱託になった。
 同年12月に有名な児玉機関を設立して、昭和20年8月まで上海を本拠にして海軍航空本部のための物資調達等の活動に従事していた。

 戦後、GHQの防諜部隊(CIC)が、戦時中の児玉機関の調査を徹底的に行なった。その時、児玉機関の財務試算表の総額は、なんと447億1,476万3,517円42銭という膨大な額にのぼっていたといわれる。
 ここからCICは、児玉が蓄積した資産は30-50億円と推定した。(春名幹男「秘密のファイル −CIAの対日工作」新潮文庫、上、342頁) 当時は10円札が大金の時代であり、その頃の上記資産額は殆んど天文学的な数字であった。
 この資金の一部は、戦後、鳩山の日本自由党の創設資金に使用されたという。

 戦後、児玉は昭和20年9月に東久邇内閣の参与になったが、翌年1月、A級戦犯容疑で巣鴨拘置所に収容され、23年に釈放された。
 戦後の児玉の仕事は、表と裏に分かれており、表の仕事としては貿易会社、製糖、ホテル、新聞など多くの事業を始める。
 しかしその一方で、「児玉事務所」を設けて、会社間の紛争の仲裁を始めた。これがいわば裏の仕事であり、その一つがロ社の秘密代理人であった。

 児玉とロ社の関係は、昭和33年4月頃、ロ社のF-104型戦闘機を日本政府に売り込むため、LAI社長のジョン・ケネス・ハルが、わが国の政財界に隠然たる勢力を持つ児玉の尽力を借りるため要請したことに始まる。それ以降、児玉の要請で、契約書など一切作成しない秘密コンサルタントとして活動していた。

 この関係は昭和39年にハルからクラッターに引き継がれ、昭和43年12月に第2期の戦闘機がグラマンに決定したとき、怒った児玉は佐藤内閣総理大臣あての公開質問状を送った。この頃、児玉にはロ社からクラッターを通じて、毎年1500-2000万円の報酬が支払われていたといわれる。(ロ事件検事側冒頭陳述より)

 昭和40年代に入り、航空旅客需要は世界的に急増しており、航空各社の販売競争は激烈を極め始めていた。ボーイング社は40年9月頃からB-747ジャンボ・ジェット旅客機の開発に着手し、ロ社は昭和42年からエアバスL-1011型機、これと前後して、ダグラス社はエアバスDC-10の開発に着手していた。

 ロ社のコーチャン社長は、児玉のコンサルタント料を増額し、全日空に対するDC-10の売り込み情報を入手するとともに、全日空等の大株主で日本の航空業界に隠然たる勢力をもち、かつまた内閣総理大臣・田中角栄と眤懇の関係にある国際興業社長・小佐野賢治を、ロ陣営に取り込む事に成功した。

 コーチャンは昭和47年9月16日ころ、児玉、小佐野と面談して、9月1日の田中・ニクソン会談において、ニクソンがエアバス導入と、トライスターの購入の話を出したかどうかを、政府筋に確かめてほしいと依頼した。
 これに対して小佐野は、この依頼を了承し、トライスターを支持する意向を明確にしたといわれる。児玉は、小佐野がロ社のためにいろいろ援助してくれていることから、昭和48年10月中旬に20万ドルを小佐野に渡した。(ロ事件検事側冒頭陳述から)

 ●田中首相の刎頚の友・小佐野賢治

 小佐野賢治は、「たった一人で田中角栄政権を生み出した上、四十余年の経済活動で十兆円もの巨額な資産を残した。・・空前絶後の政商といわれる」(菊池久「政商たち 野望の報酬」82頁)。
 47年7月7日の田中が福田に圧勝した自民党総裁選は「札束戦争」といわれて、60〜100億円の総裁選挙資金が動いたといわれるが、それをたった一人でまかなったのが小佐野であり、まさに「田中政権の生みの親」といわれる所以である。

 小佐野賢治は、昭和6年に山梨県東山梨郡東雲村の東雲尋常高等小学校高等科2年を卒業し、すぐに上京して自動車の部品販売業の本郷商店に入った。昭和12年に召集されて入隊、14年9月に戦傷により除隊、療養の後、16年に東京の自動車部品販売業である東京アメリカ商会の経営に参加した。
 同社は、昭和20年2月に東洋自動車工業(株)と名称を変更し、小佐野はこの会社の代表取締役社長に就任した。これが国際興業(株)の前身となる。

 小佐野は昭和23年9月、業務上横領罪で横浜米軍軍事法廷において重労働1年の判決を受けた事から、同社の社長を辞任していた。しかし小佐野自身が同社の株を100%保有していることから、「社主」あるいは「会長」と称して同社に常勤し、業務全般を統括してきた。

 小佐野は、この国際興業を中心にして、ホテル、交通、建設、観光企業の株を取得して事業を拡大し、日本電建、国民相互銀行、富士屋ホテルなど、多数の国際興業グループの役員を兼任するほか、帝国ホテル、東京急行電鉄など多数の会社の取締役にも就任し、さらに49年6月から51年8月まで日本電信電話公社の経営委員も勤めた。
 
 小佐野は、自分が経営する国際興業がホテル事業および航空代理店業を行なっている関係から、わが国の主要定期航空会社の株式を、小佐野名義で取得してきた。
 昭和47年12月現在では、日航(1.97%)、全日空(2.02%)、東亜国内航空(0.09%)、また51年3月現在、日航(2.61%)、全日空(2.00%)、東亜国内航空(0.09%)、(カッコ内は、全株式に対する%:出典:検事側冒頭陳述書)であり、日本の航空会社の大株主として隠然たる勢力を持つ存在となっていた。

 政商といっても、小佐野が田中と組んで仕事をしたのは、虎ノ門公園跡地の国有地払い下げとロ社のトライスター売り込みの時だけといわれる。(菊池久「前掲書」102頁) その他は、小佐野が倒産寸前の田中が所有する日本電建を買い上げてピンチを救い、さらに田中の後援団体である越山会への政治献金を行うなど、主として小佐野が田中を支援する関係であったという。

 9月1日の田中・ニクソン会談の後で、小佐野が砂防会館にある田中事務所へ行ったとき、田中は「実は、ニクソンとの会談でハワイに行った際、ニクソンから日本が導入する飛行機は、ロッキード社のトライスターにしてもらうとありがたいといわれた。全日空の方針はどうかな」と話し、その意向を全日空側に伝えるように依頼した。
 そこで小佐野が、9月中旬頃、国際興業において全日空副社長・渡辺尚次に田中の意向を伝え、暗に全日空がL-1011型航空機を選定するよう慫慂した。渡辺はそのころ若狭社長にその旨を報告したという。(東京新聞特別報道部編「裁かれる首相の犯罪 −ロッキード法定全記録」★ 59頁)


【その6・日英首脳会談時のヒース首相の売り込み】
 9月、東京で、2つ衛首脳会談が開かれた際に、ヒース英国首相が、田中首相に対し、概要「世界一騒音が小さい英国ロールス・ロイス社製のジェットエンジンを搭載した航空機を購入することで、日本は、英国と米国という二人の友人に手助けできる」と協調し、米国ロッキード社の新型機トライスターの購入を働き掛けた(同機は、英国ロールス・ロイス社製ジェットエンジンを搭載していた)。田中首相が、「(機種に就いては)検討中」とだけ答えた。

 2006.7.20日付け読売新聞が、「ロッキード事件、英国首相、購入働きかけ 機密文書 72年の首脳会談で」の見出しで、次のように報じている。
 「ロッキード社による激しい売り込み工作は、事件の捜査・公判で分かっているが、英国の介入が判明したのは初めてで、元首相逮捕から30年を経て公開された機密文書により、新たな歴史的事実に光が当てられた」。
 「会談の約40日後の10月30日、全日空はトライスター採用を決定。英機密文書は、『ヒース首相による介入が、日本側の選択に多大な影響を及ぼしたのは明らか』としている」。
 「ヒース首相がトライスター購入を働き掛けた背景には、日英間の貿易不均衡があった。当時、日本は、工業製品などの対英輸出が急増、英国の対日貿易収支は、70年は1340万ポンドの黒字だったが、71年には4440万ポンドの赤字に転落。これに加え、英国を代表するメーカー、ロールス・ロイス社は71年2月に経営が破綻、国有化されるなど英国経済の停滞が問題となっていた。全日空のトライスター導入により、ロールス・ロイス社の建て直しを図る期待が英政府に強かったと見られる」。

(私論.私見) 読売の特報記事について

Re:れんだいこのカンテラ時評194 れんだいこ 2006/07/29
 【日英首脳会談時のヒース首相のトライスター機売り込み考】

 1972.9月、東京で、日英首脳会談が開かれた際に、ヒース英国首相が、田中首相に対し、概要「世界一騒音が小さい英国ロールス・ロイス社製のジェットエンジンを搭載した航空機を購入することで、日本は、英国と米国という二人の友人に手助けできる」と強調し、米国ロッキード社の新型機トライスターの購入を働き掛けた(同機は、英国ロールス・ロイス社製ジェットエンジンを搭載していた)。田中首相が、「(機種に就いては)検討中」とだけ答えた。

 2006.7.20日付け読売新聞が、「ロッキード事件、英国首相、購入働きかけ 機密文書 72年の首脳会談で」の見出しで、上述の機密文書を特報し、次のようにコメントしている。
 「ロッキード社による激しい売り込み工作は、事件の捜査・公判で分かっているが、英国の介入が判明したのは初めてで、元首相逮捕から30年を経て公開された機密文書により、新たな歴史的事実に光が当てられた」。
 「会談の約40日後の10月30日、全日空はトライスター採用を決定。英機密文書は、『ヒース首相による介入が、日本側の選択に多大な影響を及ぼしたのは明らか』としている」。
 「ヒース首相がトライスター購入を働き掛けた背景には、日英間の貿易不均衡があった。当時、日本は、工業製品などの対英輸出が急増、英国の対日貿易収支は、70年は1340万ポンドの黒字だったが、71年には4440万ポンドの赤字に転落。これに加え、英国を代表するメーカー、ロールス・ロイス社は71年2月に経営が破綻、国有化されるなど英国経済の停滞が問題となっていた。全日空のトライスター導入により、ロールス・ロイス社の建て直しを図る期待が英政府に強かったと見られる」。

 (私論.私見) 読売の特報記事について

 毎日新聞のロッキード事件30周年特集「米証券取引委員会(SEC)報告書考」記事に対して、読売新聞社は、「英国首相ヒースがトライスター機購入働きかけ 機密文書」を報じたことになる。

 読売は、この特報を、田中首相が関与してトライスター機売込みを図ったとする観点の補強に使っている。読売の懲りない性格が透けて見えてくる。どうしても、角栄を極悪非道政治家にし続けておきたいらしい魂胆のみが見えてくる。代わりに、小泉首相は史上随一の有能首相ともてはやし続けたいらしい。本質的に馬鹿な者は、いくら情報を持っても馬鹿の上塗りするだけであることが分かって興味深い。

 読売特報の真偽には若干不明な点が有るので特報そのもののコメントは控えるが、この特報が、角栄が5億円贈収賄を受けた周辺事情を窺わせるだけで、5億円贈収賄したかどうかには何の役にも立たないことは明らかだ。「会談の約40日後の10月30日、全日空はトライスター採用を決定」と書く事で、何か因果関係を認めようとしているが、当時の状況ではいずれこの辺りに結論が出るので、因果関係有とは必ずしも云えない。この辺りが分からないボンクラ記者が第4権力を行使してふんぞり返っているのは嘆かわしい。

 近頃、特報を特報にさせないコメント振りが目に付く。かなり記者ないし新聞社の眼力が落ちていると云わざるを得ない。国際金融資本のイエスマン記事ばかり書き続けることが習い性になって、自分の頭で考える必要が無くなり、分析読解能力がガタ落ちしているのだろう。

 新聞記者の論評の極め付きの低脳さは、角栄関連で云えば、角栄が毛沢東から「楚辞」を渡されたときのコメントにも表われている。どこの社か不明であるが、次のように論評した。
 概要「(角栄が読み上げた漢詩を念頭に置いて)漢字を連ねただけでは詩にならない。少し漢詩の作り方を勉強しなさい、という毛主席の皮肉を込めた返礼である」。

 人は皆、己の背丈に合わせて人を測る典型だろう。毛沢東が「楚辞」を贈った際のコメントは為されていないようなので推測するしかないが、 中国史の有名な政治家・屈原の有能さと最後の悲運を角栄に見て取り、毛沢東流の「警戒しなさいよ」という警句が込められていたのではなかったか。れんだいこはそう読み取る。

 史実は、毛沢東が予見した通りになった。この辺の事情を当らずとも遠からずでコメントするのならまだしも、漢詩の勉強用に「楚辞」を贈ったなどと解釈されたら、世も末だろう。

 れんだいこが何を云いたいのか。こたびの毎日にせよ読売にせよ、特報を報じているが、正確に読み取っているのかと訝らざるを得ないコメントが横行しているのを憂いている訳である。何でこんな風に低脳化しつつあるのだろう。我欲にくらめば見えるものが見えなくなるという昔の説教通りのことなのだろうか。外交官もこの調子だとすると、日本の国運は風前の灯ということになる。上が上ならという事にならねば良いが、おとろしや。 

 2006.7.30日 れんだいこ拝

【その7・売り込み競争の結果】

 1972(昭和47).10.31日、全日空がトライスター機の採用を発表している。11.2日、全日空は、ロッキード社に対し、トライスター21機を購入するというレター・オブ・インテント(注文指示書)を出している。1機50億円で、全機で1050億円だった。

 他方、軍用機商戦も凄まじく続いていた。1972.11.1日、ロッキード社と丸紅間で「P3Cオライオン対潜哨戒機1機の売却につき手数料15万ドル(約4500万円)を支払う」契約が結ばれている。

 翌1973(昭和48)年、ロッキード社と児玉誉士夫間に「P3Cオライオン対潜哨戒機を50機以上販売できた場合は、報酬として総額25億円を支払う」旨のコンサルタント契約が結ばれている(これを裏付ける仮領収証も多数見つかっている)。コーチャンは、「当社が日本政府に対して不利な情勢にあったとき、児玉が中曽根に連絡をとり、中曽根が状況を直してくれた」と証言している。

 1973.6.4日、コーチャンがP3Cの売り込みに来日、8.10日、国防会議にPXL専門家会議発足。更に翌1974(昭和49)年12.28日、専門家会議答申で「PXLは結論持ち越し」となり、更に翌1975(昭和50)年10.27日、通産省、経団連が「PXLの国産化」を主張。こうした経過を経て、結局は1977(昭和52)年12月、国防会議は最終的にロッキード社からP3C−45機の購入を決めている。

 このより2年後ウォーター事件が発生し、ニクソンは1974.8.9日、大統領を辞した。フォードが新大統領に択ばれるや、「ニクソン氏が大統領在職中に犯した全ての罪状容疑に対し全面的に恩赦を与える」と言明し、「罪状ファイルに封印する大統領権限を行使する」と決定した。その理由として次のように述べている。

 「ニクソンが大統領であったから、やむなくそうした罪を犯したのだ。一市民であれば犯さなかった罪である。今、一市民に返ったニクソン氏にその罪を問う理由はない」。

 こうして、ニクソンとロッキード社の関係は封印され、何ら訴追を受けない身分の安全が保証された。これがアメリカ流の政治決着のさせ方である。片や、我が日本ではどのようなシナリオが進行して行く事になったか、これが以下の動きである。


【「文芸春秋11月号」と「外人記者クラブで記者会見」のワナ】
 田中政権は、「文芸春秋11月号」と「外人記者クラブで記者会見」で足下を激震された。これについては「在任中の流れ2」に記す。

(私論.私見)

 この問題の重要性は次のことにある。この二事件によって田中政権が瓦解されたのではない。多くの評論はそのように見立てているが皮相的過ぎよう。れんだいこは、、この二事件が田中政権瓦解策として用意周到に仕掛けられ、田中政権はこの仕掛けに乗せられ政権禅譲に向かったと解している。政権禅譲後も隠然と政治力を持ち続ける田中角栄に対して、最後の止めとしてロッキード事件が更に仕掛けられたと見立てる。こう捉えないと、歴史の真相が見えてこない。

 2008.12.27日 れんだいこ拝


【ロッキード社史】
 ロッキード社の社史は次の通り。
 1912年、アイルランド系アメリカ人のアラン・ロッキードとマルコム・ロッキード兄弟によって民間飛行機製造会社として設立された。その後、同社の設計者ジャック・ノースロップが独立すると、アラン・ロッキードは自社を売却した。1932年、倒産。投資家に買収され社名は存続した。第二次大戦中、軍用機の製造で大躍進した。戦闘機では、山本五十六搭乗の陸攻機を撃墜したP−38ライトニングを始め、ジェット戦闘機の先駆けと群雄割拠していた。いわれるF−80哨戒機のハドソンなどを開発、米軍に採用された。1970年代、世界の軍事産業の過半を占有している米国では、ボーイング、ノースロップ、グラマン、ロッキードが群雄割拠していた。(真山仁「ロッキード第3回」、週間文春2018.5.24日号)参照
 この時代、ジェット化の波に乗り遅れてしまい、民間機市場ではボーイングとマクドネル・ダグラス(MD)から大きく離されていた。ボーイングは広島・長崎へ原子爆弾を投下したB-29を製造した会社。ボーイングとMDはかつてライバル関係にあったが、1996年、MDはボーイングに買収される。ロッキードはその後イスラエルとの関係を深め、主にイスラエル軍の戦闘機を製造している(Lockheed Martin Israel Ltd) 。ボーイングはロックフェラーがコントロールしている。ロッキードはロックフェラーに潰され、民間旅客機市場に入り込む事ができなかった。ロッキード事件によってボーイングのライバルはマクドネル・ダグラスのみとなり、そのマクドネル・ダグラスもボーイングに買収され、ロッキードはイスラエルに乗っ取られ、イスラエル軍のお抱え軍事企業となっていった。ロックフェラーはもちろんイスラエル建国の大きな立役者。1930年代に作られたパレスチナ考古学博物館(西エルサレム)が、今はロックフェラー博物館という名で呼ばれている。

【ロッキード事件勃発直前の動き】
 ロッキード事件発生の直前の動きを、その1・フォード政権下の動き、その2・角栄の動きの2観点から見ておくことにする。

【フォード政権下でのロッキード社告発の動き】
 1975(昭和50).8.25日、ロッキード社の疑惑が追求されている。アメリカ上院の銀行・住宅・都市問題委員会(プロクシマイヤー委員長)公聴会で、ロッキード社のホートン会長が喚問され、3時間以上に亘って同社の賄賂商法が追求された。この時、海外での政治献金が2200万ドルにのぼることが明らかにされている。続いて、SEC(米国証券取引委員会)が調査に乗り出していくことになる。

 当時フォード政権下の国務長官は引き続きキッシンジャーであり、1975.11.28日、司法長官・エドワード・レビに次のような書簡を送っている。
 「我々はたとえいかなるものであれ、これら(不正)支払いに対しては繰り返し強く批判するものである。しかし、本事件における準備的な手続き段階において、特定の外国高官の氏名、国籍を第三者に開示することは時期尚早に過ぎるものであり、米国の外交関係に損害を与えることになる点も指摘しなければならない」(概要「ロッキード社の秘密資料は公表すべきではない」)。

 この書簡は、12.12日、ワシントンの連邦地裁に提出され、判事は公表禁止の保護命令を出した。
(私論.私見) 「キッシンジャー書簡」について
 この「キッシンジャー書簡」をどう見るべきか。字面しか追えない自称インテリ達は、キッシンジャーがあたかも「特定の外国高官の氏名、国籍を第三者に開示」を抑制していたかのように受け取るのだろう。トリッキーに見ることのできるれんだいこはむしろ、キッシンジャーが「特定の高官漏洩」に着手し始めたことを窺う。事実、キッシンジャーの抑制は何の功も無く、チャーチル委員会にロッキード社の秘密資料が渡り、この保護命令は無意味となる。キッシンジャー辺りになるとこれぐらいの芸当は朝飯前だろうに。

 2005.1.11日 れんだいこ拝
 10.23日、社会党の楢崎弥之助氏が、衆議院予算委員会で、アメリカ上院の銀行・住宅・都市問題委員会(プロクシマイヤー委員長)の動きを踏まえ、政府を追及し、関係資料の提出を要求した。しかし、マスコミ始め無視され、殆ど報道されなかった。

【三木首相の予言】
 1975(昭和50).12.27日、第77回通常国会が召集され、会期は翌年の5.24日までの150日間に決まった。三木内閣は、昭和51年度総予算を成立させることを最大の課題としていた。

 12.29日、三木首相は、首相官邸の小ホールでの記者団と納会の席上、次のように述べた。
 概要「来年はダイナミックな動きをする。この一年、だいぶ反省させられたし、来年は少し、日本の行く末を見据えてハラを据えてやりたい」(朝日新聞東京本社社会部「ロッキード事件 疑惑と人間」)。

【角栄の動き】

 76年の元旦、目白の田中邸宅に700名の年賀客が訪れ、田中はこの時、「三月には資産を公開し、金脈問題について釈明する。そして全国を遊説する。三木はどうにでもなる。福田には絶対に政権を渡さない。大平はオレの後だ」と述べ、復権への意欲を燃やし始めていた、と伝えられている。しかし、正確にはどのような謂いであったのか、やや捻じ曲げられているのではなかろうか、この言葉通りに受け取るには難がある。

(私論.私見) 「76年新年の目白邸りの様子」について
 要するに、角栄は、迫りくる危機に対して全く無警戒だったことが分かる。
 1.7日、角栄は、田中派7日会の新年総会で、「一年近い謹慎で、体力も気力も十分で有ります。今年は選挙の年、みんなで頑張ろう」と述べるなど、約30分にわたって熱弁を奮った。「角栄再浮上宣言」と受け止められ、会場は「また春が来るぞ」と沸いた。
(私論.私見) 「角栄再浮上宣言」について
 要するに、角栄は、「再浮上宣言」で立ち上がった途端に、出会い頭でロッキード事件に襲われたことになる。

【春日民社党委員長の「日本共産党委員長リンチ事件」質疑】
 1976(昭和51).1.23日、みき首相の政府演説に続いて衆参両院で代表質問が行われた。この時、春日一幸民社党委員長が「日本共産党委員長リンチ事件」を取り上げた。1.29日より衆院予算委員会で総括質疑が始まる。

【「スモール・ミキ」のロビイスト活動について】
 現代政治研究会の「田中角栄 その栄光と挫折」は、次のように記している。
 「三木の次男・格は、チャーチ上院議員ら民主党の有力者のところに出入りして、『スモール・ミキ』と呼ばれるロビイスト活動をしている。平沢和重や国弘正雄といった三木の外交ブレーンは、年中アメリカをはじめとして、世界を駆け回って、あらゆる情報を集め、また流している」。
(私論.私見) 「スモール・ミキ」について
 「スモール・ミキ」については初耳であるが、そういうロビイスト活動をしていたとして、その後から現在までどうしているのだろう。その消息が気に掛かるところである。





(私論.私見)