ロッキード事件の概要3(角栄逮捕ー保釈)

 更新日/2021(平成31→5.1栄和元/栄和3).2.8日

 これより以前は、ロッキード事件の概要2(田中逮捕時前後のドキュメント)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「ロッキード事件の概要3(角栄逮捕ー保釈)」をものしておく。

 2003.9.16日再編集 れんだいこ拝


 (れんだいこのショートメッセージ)
 角栄が、ロッキード事件のホンホシとして逮捕された。しかし、つい一年ほど前に日本国の首相を務め、抗弁すればしようのあった金脈追求に潔く辞職していた角栄を逮捕するには、事前の事情聴取があるべきであろう。検察はそれさえせぬまま逮捕に踏み切った。臭いと思うのはれんだいこだけだろうか。

 2006.1.5日 れんだいこ拝


【1976(昭和51)年】

【最高裁判所裁判官会議で、米側証人の刑事免責保証を決議】
 7.24日、最高裁判所裁判官会議で、米側証人の刑事免責保証を決議する。

【田中角栄逮捕のクーデター手法】
 布施検事総長は、徹底した隠密作戦を敷き、角栄逮捕の意向を三木首相、稲葉法相だけに伝え、特捜部を電撃的に目白邸へ向わせた。土田国保警視総監には何の連絡も為されていなかった。

 その時、青梅署で剣道の稽古をしていた土田警視総監は知らせを聞き、思わず竹刀を床に叩きつけ、「俺はのけ者か」と激怒したと伝えられている。椎名悦三郎も静岡御殿場の山荘に居り、「こちらはつんぼ桟敷」と唇を振るわせたと伝えられている。

 つまり、「別件による元首相の身柄拘束」に当って、政界や警察のトップに内密で事が行われたことになる。これは検察ファッショであり、一種のクーデター的手法であろう。
(私論.私見) 「土田警視総監」について
 土田警視総監はかって1971.12月に小包爆弾テロを受け、夫人が即死させられている。このたびも検察にコケにされている姿が見える。いろんな意味でこの人は興味深い人物のように見える。

 2005.1.11日 れんだいこ拝

【角栄逮捕される】

 1976(昭和51).7・27日、田中角栄前首相は外為法(外国為替・外国貿易管理法)違反容疑で逮捕された。この時続いて榎本秘書官も逮捕されている。概要は、「田中逮捕時前後のドキュメント」に記した。

 この日早朝午前6時半、東京地検特捜部・松田昇検事と田山市太郎・特捜部資料課長が田中私邸に乗りつけた。「松田検事は児玉の取調べにあたっていた検事であり、その彼が田中逮捕に出向いたこと自体、捜査当局が、ロッキード疑獄最大のターゲットを児玉から田中に移したことを暗示していると云えるだろう」(室伏哲郎「人間田中角栄の秘密」)との指摘が為されている。

 
角栄は、東京拘置所に向う車中での遣り取りは次の通り。隣に座る松田検事に、「総理大臣経験者で逮捕されたのは何人目か」と尋ね、松田が、「在職中の罪では初めてです」と答えると、角栄は、「この日のことは忘れないでくれ」と述べた。松田は、「歴史に残るようなことですから、忘れることはありません」と応じた。(2006.7.20日付け読売新聞「ロッキード事件30年、上」参照)


 高瀬検事正が記者会見を開き、「本日午前8時50分、衆議院議員田中角栄を外為法違反で逮捕いたしました」と発表した。前首相逮捕は、1948年の昭和電工疑獄事件の前首相芦田均についで、日本憲政史上2人目。
ちなみに、外為法違反容疑ということになると別件逮捕であるが、かりそめにも前首相という要職にあった者をこのような手法で逮捕されることが許されることであろうか。逆政治主義がここにある。これが、ロッキード事件の胡散臭さ第16弾である。

 佐藤昭子氏は、「田中角栄ー私が最後に伝えたいこと」で次のように述べている。

 「7月に入ると、稲葉法相は『横綱級は2ヶ月以内に』などと発言。以前にも国会答弁で『捜査当局が130人も呼んでいて、イワシサバだけということはあるまい』と答弁して波紋を投げかけていた。週刊誌などが『田中逮捕はあるか』と盛んに書いたが、こちらには緊迫感はまったくなかった。つい1年半ほど前に総理大臣を務めていた人物だ。多少の疑いを持たれたとしても、まず『お話をうかがいたい』という事情聴取が先にあると思っていた。が、突然に、昭和51年7月27日、東京地検特捜部は、外為法違反で田中を逮捕する。田中も、よもやと思っていたはずだ。私には信じられなかった。ただ逮捕を報じるテレビをボーッと見ていた」。

 秦野章・氏は、「何が権力か」の中で次のように記している。

 「いやしくも一国の総理大臣であった者をあのようなやり方で逮捕することがあってよいものだろうか。これはよく考えるてみると別件にもならない別件逮捕なのだ。なぜかというと、あの当ー昭和50年代の初めごろー外国為替管理法という法律は、ほとんど死んでいたのだ。昭和24年にできたこの外為法は、しだいにその必要性がなくなっていた。為替自由化の波は世界の波だ。(中略)

 法律というものは機能が失われていてもなかなか廃止されないし、役所の方も、死んだものを生きたもののように扱い、そう強弁もしている。それは役所のメンツみたいなものだ。外為法もそのような法律だったのだが、検察はこれに罰則がついているというただそれだけのことで、田中元首相を逮捕した。常識論として違法に近い逮捕で、スピード違反で逮捕されるよりはるかに不当だ」。

 
俵孝太郎氏の「田中角栄ーもう一つの視点」は、「田中裁判の問題点(1)元内閣法制局長官・林修三氏に聞く」(1984.9月号正論)の中で次のような遣り取りをしている。
 「公安事件で、別件逮捕したとしたらーーー」。
 「別件逮捕したということが問題だし、しかもその別件逮捕は別件も別件、外為法というような形式的な行政犯で逮捕するということは、これは相当大きな問題なんでーーー」。
 「しかも今や死法化した法律ですからね」。
 (中略)
 「まさに今の新聞でやかましく問われているダブル・スタンダード。これは北朝鮮と韓国、あるいはソビエトとアメリカ、そこでの人権侵害について、一方を責め、一方を不問にし、ダブルスタンダードをほしいままにしているのが朝日新聞であり、NHKであると思いますけど、考案事件とロッキード事件とのダブルスタンダードは日本中の新聞は全部使っているわけですね」。
 「そうだと思います」。
 「その部分に対して、ジャーなのリズムの中で反省しているという声をまず聞いたことも無い」。

 一国の元首相を別件逮捕するのも異例なら、「外国為替管理法違反」という「死に法」で逮捕するのも異例であろう。つまり異例ずくめということになる。

 産経新聞論説委員を経て政治評論家になっていた今井久夫は著書「角栄上等兵とヒトラー伍長」(コンパニオン出版、1982.1.1日初版)の中で次のようにコメントしている。
 「田中は三木内閣の治下で逮捕された。ロッキード事件に関連し、外為法違反の容疑がその理由である。いわば立小便の咎めを受けて、軽犯罪法に問われたようなものである。(中略)しかし、それが結局、司法の勇み足だったらどうなるか。過去の多くの疑獄が司法の行き過ぎであったと同じように、ロッキード事件が司法の独走だとしたら事は重大である。三権分立どころか、司法ファッショを生む。政治ファッショは怖い。しかし司法ファッショはもっと恐ろしい。その時こそ三木は歴史の法廷に立ち、時代の裁判を受けなければならない」。

 新野哲也氏は、「だれが角栄を殺したのか」168Pの中で次のように批判している。

 「角栄逮捕に働いた機制は、官にあってはならなかった恣意性である。この時、公の下僕となって無意思的に政治を補佐しなければならなかった官が、はっきりした意思をもって政治を圧倒した。それ以来、日本の政治は検察の恫喝に尻尾を丸めた負け犬同然となった。そしてその一方で公然と検察ファシズムが進行した。政と官の力関係がこの時はっきりと逆転したわけだが、政が官にねじ伏せられることは、取りも直さず民が公権力に屈服させられたことを意味する」。

【新聞各社が号外配布、夕刊が1面トップに同じ見出しの「田中前首相を逮捕」】
 新聞各社が号外を配布、夕刊が1面トップに同じ見出し「田中前首相を逮捕」で記事を載せる。(これにつき、2017.4.29日号週間現代が新聞各社の紙面を掲載し実証している)

【角栄取調べの様子】
 角栄は、小菅の東京拘置所1号舎3階の3畳ほどの独居房に収監された。直前まで総理大臣を務めた男が拘置所に収監されるのは前代未聞の椿事だった。取調べに当たったのは石黒検事らであった。田中の取調べは午前9時から10時の間に始まり、昼食と夕食を挟んで、夜は午後9時頃まで連日続けられた。田中は、収監中も以降も一貫して被疑事実を全面否認していくことになる。20日間続いた。

【反角栄派の酒宴】
 当夜、料亭「金竜」で、三木派の河本通産大臣、井出官房長官、中曽根派の中曽根幹事長、桜内義雄、稲葉法務大臣などが出席して酒宴を開いた。

【角栄、離党届けと派閥の脱会届けを提出
 田中良紹氏の「今明かされる田中角栄の真実―裏支配」には次のように記されている。概要「7時35分から9時半まで高瀬検事正が、角栄を取り調べている。逮捕状を執行された後、角栄は『紙をくれ』と要求し、離党届けと派閥の脱会届けを書き、『中曽根に渡してくれ』と頼んでいる」。
(私論.私見)「離党届けと派閥の脱会届け書を、『中曽根に渡してくれ』と頼んだ奇怪さ」について
 角栄は、この時なぜ中曽根に頼んでいるのだろう。田中派の後継者・二階堂ないしその辺りに届けるよう依頼するのが普通だろうに。恐らく、角栄は、本件に中曽根が深くかかわっていることを承知しており、「何とかせぃ」とのメッセージを託したのでは無かろうか。ロッキード事件の闇の構図はますにここにあるように思われる。

 人面畜生の中曽根は、角栄の「何とかせぃメッセージ」を聞くふりをしながら権力掌握の足掛かりに徹底利用し、正真正銘の裏切りを続けて行くことになる。その限りで角栄は翻弄される。

 2005.1.11日 れんだいこ拝

【榎本秘書攻略の異常さ】

 榎本も否認していたが、卑劣なトリックにより追い込まれ、金銭授受を認めさせられたことが判明している。トリックとは、逮捕されてまもなくの取調べの時に、「検事から『田中5億円受領を認める』と一面トップに書かれたサンケイ新聞を見せられ、オヤジが認めているのに私が認めないのも変だという気分にさせられ、その後の取調べで検事の誘導に従って段ポール箱の授受を認めた」、「先生が、党の為に、ありもしない事実をやむを得ずひっかぶられたのかと思い、悩んだ末に、私も先生に口裏を合わせた」、「オヤジがしゃべったから、仕方が無くはゃべった」と、この時の事情を法廷で陳述している。

 これを確認するのにサンケイ新聞のみならず大新聞が一様に「田中前総理が5億円授受を認めた」と「実際に」虚報を報道している。

(私論.私見) 「大手新聞各社の検察とつるんだ意図的虚報記事」について
 検察側のリークがあったにせよ、不偏不党を生命とするマスコミの信義において信じられないほど有り得てならない虚報である。つまり、こうして発行されたマスコミの虚報を元にして自白を迫っていくという異常な取り調べが為されたことが見据えられねばならない。これが、ロッキード事件の胡散臭さ第17弾である。

 
2005.1.11日 れんだいこ拝

政府高官の名が次々挙がる

 翌7.28日付け朝日新聞朝刊には、「汚職の疑惑」との見出しでトップ記事が載せられ、中曽根康弘、二階堂進、佐藤孝行、橋本登美三郎の4名の名前が挙げられていた。

 しかし、奇妙なことに司直の手は、中曽根康弘だけを外していくことになる。ちなみに、児玉の秘書の太刀川恒夫は中曽根の秘書も務めるなど密接な関係にあった。コーチャン証言には、「ロッキード社が不利な状況になった時、児玉は中曽根と連絡をとってくれて、翌日には中曽根が状況を変えてくれた」という件(くだり)がある。これを思えば、中曽根の線が消えていくなど有りえて良い訳が無かった。


【角栄運転手に対する変調取り調べと変死】

 この間関係者のお抱え運転手の取り調べが為され、運行行動日報・ノート・手帳との照合が為されている。清水運転手(榎本付き)、松岡運転手(丸紅付き)は、帰りたい一心で検事の尋問誘導に「そうです、そうです」と迎合したことを後に明らかにしている。

 8.2日、笠原政則運転手(目白邸付き・42歳)が取り調べ直後変死している。この笠原運転手変死もいささかミステリーである。埼玉県比企郡都幾川村の山中で、林道にエンジンをかけっぱなしにしたまま車の中で死んでいるのを、通りかかりのトラック運転手に発見された。社内にビニールホースを引き込み、車の排ガスが充満していた状況から自殺と見られた。笠原運転手は、7.31日、8.1日の二日間東京地検に呼ばれ、事情を聞かれていた。この事件に付き「事件の変事」で更に詳しく検証した。

 
この笠原運転手の死亡は怪奇である。田中側の口封じとして流布されたが、真実冤罪を主張する田中にとってメリットは無く、むしろこれは大きな痛手であろう。これが、ロッキード事件の胡散臭さ第18弾である。

(私論.私見) 「笠原運転手変死事件に対する猪瀬直樹の逆さま観点を弾劾する」
 猪瀬直樹は、「死者達のロッキード事件」で、笠原運転手の変死に対して田中側からの謀殺疑惑有りとして縷々論証している。れんだいこは、猪瀬直樹の『死者達のロッキード事件』批判でこれを考察した。この一書で、猪瀬なる者が事象を反対に描く才筆を売ろうとする実にくだらない立花に次ぐ御用評論家であることが分かる。後に、小泉政権の下で道路公団民営化の諮問委員会委員に名を連ね、2004年世間に何かと話題をまいたが、胡散臭さは特上級だろう。

 2005.1.11日 れんだいこ拝

【鬼頭史郎謀略電話事件発生】
 8.4日、京都地方裁判所判事補の鬼頭史郎が、布施健検事総長を騙って三木首相に対し架電し、三木首相は気づかずロッキード事件捜査に関する打ち合わせを続け、この時の会話の録音テープを報道関係者に公開するという珍妙な謀略事件が発生した。事件のその後につき、10.22日の項で検証する。

【コーチャンの嘱託尋問調書が東京地検に渡る】
 8.7日、コーチャンの嘱託尋問調書が東京地検に渡る。

【東京地検、榎本を外為法違反で起訴】

 8.9日、東京地検は東京地裁に対し、榎本を外為法違反で起訴している。これは伊藤調書によって立件された。伊藤調書では、田中の受託収賄罪の核心部分の一つになる榎本と伊藤間の五億円のワイロの受け渡し場面がまことしやかに記述されていた。1973.8.10から74.3.1日にかけ計4回、英国大使館(東京都千代田区一番町一番地の)裏側の道路などで、現金の入ったダンボール箱を丸紅の車のトランクから、田中家の車のトランクに移し替え、目白の田中邸に搬入したとされ、生々しいダンボール箱の受け渡しが明るみにされていた。

 ところが、これを精査していくと不自然な個所が多く、渡した側の伊藤氏の供述も
肝心なところが曖昧で、本人自身「細かい日時なども含めて詳細な点を思い出すことができず」という調子の調書でしかない。特異な遣り取りは記憶に鮮明に焼きつくことがありこそすれ、その記憶が曖昧になるということは通常有り得ないことではなかろうか。今日冷静になって考えれば、角栄側には5億円の金額をわざわざ「白昼に、天下の公道で、スリラーじみた振る舞いで受け渡しする」必然性が無い。むしろ、この証言には裏付け証拠が少な過ぎ、「実際に伊藤と榎本の現金授受を直接裏付ける客観的証拠は何もない」変な具合の調書になっており、検事の作成した文案に誘導され署名押印した臭いが強い。
 

 ロ事件で第一審から最高裁まで田中の弁護を担当し、今も田中の無罪を信じて疑わないた木村喜助弁護人は、最近出版した「田中角栄の真実――弁護人から見たロッキード事件」の中で、「私も高齢者といわれる年齢になった。いまのうちに、この事件はマスコミが喧伝したような明々白々とした事件ではなく、一、二審で有罪判決は出たものの、田中先生は無罪であると確信しており、百歩譲っても限りなく不透明な事件で有罪にはできないことをどうしても明らかにしておく必要があると考えた」との前置きに続いて、「(ダンボール箱ストーリーについて)いやしくも時の総理大臣に対する献金を路上などで本当に行なうものだろうか。人目につきにくい路上などあるのだろうかと強い疑問を抱き、あらゆる調書などを点検した結論として、田中側の運転手がつけていた運転日報とロ社側の領収証の日付を付き合わせ、金を渡した日は領収証の日付に近接した日として、それに適当な場所を、取調べ検事が頭で考えて作り出したものであったのだ」と断定している。

 ほかにも検事の作文調書と言い切っている個所が、この本にはいくつもあり、木村氏の主張どおりなら、事件全体が作文で固められたフィクションということになってしまう。木村喜助氏は検事から弁護士に転じたヤメ検上がりの弁護士で、今になってわざわざこのことを主張する法益は無いことも考え合わせると、我々はこの木村氏の指摘にもっと関心を寄せても良いだろう。


【檜山調書に疑惑有り】

 8.10日、桧山の供述検事調書が作成されている。桧山調書では、8.23日の目白邸訪問の際、田中に縷縷尽力を要請し(全日空が大型機を輸入するにあたっては、ダグラス社のDC10ではなく、ロッキード社のL1011という機種を選定するように働きかけて欲しい)、見返りとして5億円を贈ることを約束する桧山に対し、田中が「よしゃ、よしゃ」と快諾した旨が記載されていた。この陳述は桧山逮捕後29日のものではあるが、請託と約束があったと明記されており、これが検事側からする唯一の証拠能力を持つ調書となった。

 この檜山調書の真実性を廻って、公判で完全否定側の田中及びその弁護人と検察間で激しく争われることになった。ちなみに、
田中自身の受託収賄を裏付けるのは、この部分を記した桧山調書だけが証拠でこれ以外には全く無いという奇妙な構図がここにある。一国の元首相犯罪を立件するにしては杜撰さが過ぎようと云うべきである。これが、ロッキード事件の胡散臭さ第19弾である。補足すれば、檜山氏は公判途中より目白邸へ挨拶に行ったところまでを認め、後の部分は検事の作文であると主張するところとなった。こうなると「よしゃ、よしゃ」の遣り取りそのものが疑わしいということになる。

 この時の請託に対して、田原氏は論文「誰かが嘘をついている」で、概要「(もしこの時さような請託が為されたとしたら)売込みが成功した後、ロッキード社から、二階堂進、佐々木秀也など6人の政治家、さらに同社の秘密代理人であった児玉誉土夫には早々に金が支払われた。だが、肝心の田中への5億円については、丸紅、ロッキード社間で何の話し合いもされず、まったく『なしのつぶて』だった。不自然ではないか」と疑問を提起している。

 検事調書では、全日空がトライスター機購入を決めてから10ヵ月後の73.8.10日から数次に亘って手渡された様がまことしやかに語られている。これをどう見るかという問題がある。更に、この受け渡しは榎本秘書の催促によって始まったとされており、とするならば、榎本の催促が為されなかったら支払われなかった可能性さえあるというストーリーとなっている。

 田原氏は、続けて同論文で「もしも榎本の催促がなければ、ロッキード社も丸紅も、田中角栄と直接約束した賄賂を、放置したまま終わっていた可能性が高い。日本有数の総合商社の社長が、現役の首相と約束したことを八ヶ月も放りっぱなしにしておくなどということがあるのだろうか」と疑問を投げかけている。


【角栄、外為法違反と受託収賄罪で起訴される】
 8・16日、検察は、田中を外為法違反と受託収賄罪で起訴した。この時点より、田中は、「総理大臣より一転して刑事被告人」の立場に追いやられることになった。「5億円は全日空のトライスター機導入に絡む賄賂である」として受託収賄罪が適用された。

 既に述べたが、伊藤・檜山の供述は、担当検事の誘導ストーリーに従って作文された感が強い。仮にそうだったとした場合、当時の検察の意図が詮索されねばならない、この闇は深い。「アメリカが田中を失脚させるための追放劇だった」にせよ、それに呼応した検察当局の責任も付きまとっている。
桧山調書と伊藤調書に見られる曖昧さ、検察の誘導作文性が、ロッキード事件の胡散臭さ第20弾である。 

【起訴に至るまでの検察の奇怪な独走ぶり】
 「田中事件の本質とロッキード事件の真相」は次のように語っている。
 「普通、疑獄事件捜査は、検察・警察の合同捜査で進められる。捜査の記録は検察・警察ともに二部づつ作られ、それぞれが各一部をもつのが習わしである。だが、ロッキード事件の捜査については、捜査の総括資料が警視庁にないという。警視庁にあるロッキード事件の資料は単なる事件概要資料だけで、捜査二課を中心に百四十余人の捜査員を投入して行ったロッキード事件捜査の総括資料が警視庁にないというのである。

 何故か。その理由は部外者の知るところではないが、釈然としない多くの疑問を感じる。ロッキード事件で逮捕された被疑者は総勢十八人である。その内訳は、東京地検の逮捕十四人、警視庁の逮捕は四人である。疑獄事件の場合、中心人物の逮捕は地検が行っているが、その他の被疑者は概ね警視庁の担当である。にもかかわらず、ロッキード事件については、"合同捜査"の先例を度外視して、十八名中十四名までが東京地検逮捕である。捜査の段階と同じく、被疑者の逮捕もなぜか検察中心に進められた。捜査、逮捕で、補助役に回された警視庁は、その他のケースでも無視され続けた。

 捜査続行中、コーチャン証言に関係したアメリカ側の秘密資料が検察側に届けられた。届けられた資料について、警察側はツンボ座敷におかれた。不公平な扱いに業を煮やした土田警視総監が検察に異議を申し入れた結果 二週問後、検察は秘密資料の写しを警察側に渡したが、資料の重要部分七百ページがカットされており、資料からアメリカ側の秘密事項全般 を読み取ることはできなかったという。検察・警察の対立を恐れた警視庁は、このことについて関係者に緘口令を敷いた。発覚から捜査着手、捜査から捜査の続行、起訴になるロッキード事件の全般 は、まったくの異例づくめだった。

 終始検察中心の捜査で、重要捜査については警察側の介入さえ拒否し、捜査内容の外部流出を検察は極端に恐れた模様である。捜査の段階で、被疑者のしぼりこみ、関係者の一人ひとりの扱い、職務権限の解釈等々で、謎に満ちた多くの具体例もあるが、ここでは省くとして、ロッキード事件の「検察・警察合同捜査」は、実は、検察主導、警察補助協力の捜査だった。慣習を無視した検察側の態度は、一体何を意味しているのか。第三者は知る由もないが、このようにして行われた捜査と、捜査結果 によって田中元首相は逮捕され、そして起訴された」。


【週刊サンケイ臨時増刊号が「ロッキード事件及び田中元首相逮捕を廻る特集」を出す】
 週刊サンケイ臨時増刊号8.23号が出され、ロッキード事件及び田中元首相逮捕を廻る特集を出版した。政治評論家の俵孝太郎氏が、「ロッキード捜査・その不透明な部分」と題して5ページの小論を寄稿し、ロッキード事件の喧騒に警鐘を鳴らしている。嘱託尋問調書、不起訴宣明と最高裁保証、外為法による別件逮捕、世論操作の危険まで問題点を指摘し、「極言すれば目的の為に手段を選ばぬやり口が横行しなかったか」と批判した。

【角栄、保釈される】

 8.17日、検察によって起訴された翌日の8.18日夕刻、角栄が保釈され東京拘置所を出所した。逮捕以来21日ぶりであったが、2億円の保釈金を積まされたことになる。保釈金2億円は、贈収賄事件のそれとしては史上最高金額であった。

 この日7時過ぎ原長栄田中弁護団長は、「田中が私利私欲の為に国益を損なったことは絶対にない。一国の前総理としての地位や立場に相応しい強力な弁護団を編成、国民総監視のもとで、公正な裁判を得るべく全力を注ぐ」との弁護団声明を発表している。

 東京拘置所まで出迎えたのは、原弁護士、田中直紀、早坂秘書、衆議員の保岡興治、梶山、参議員の斎藤十朗、亀井であった。角栄が目白の自宅に戻ると、田中派幹部の面々が「親分の出所」を待っていた。この時、「橋本龍太郎は辺りはばからず涙をポロポロと流していた」と伝えられている。角栄はこの後、元神楽坂芸者の愛人(辻和子)宅に足を運び、名言を遺している。

 太田龍・氏の「ユダヤ世界帝国の日本侵攻戦略」は次のように記している。
 「1976.8.18日、日本国中がひっくり返るような大騒ぎのあとで、田中角栄は葛飾区小菅の東京拘置所から仮釈放された。その直後、角栄は何人かの腹心の部下を呼んで、『ユダヤにやられた。ユダヤに気をつけろ』と警戒警報を発した、と伝え聞く。ここに呼ばれたのが後藤田正晴なのか、山下元利なのか、金丸信なのか、それは定かでない。しかし、後藤田や二階堂その他、幾人かの田中派の幹部たちにしても、果して『ユダヤ云々』という警告の真意をその時理解しえただろうか?」。
(私論.私見) 「ユダヤにやられた。ユダヤに気をつけろ」考
 角栄の保釈後の腹心への第一声が「ユダヤにやられた。ユダヤに気をつけろ」であったとは、かなり重要な話である。誰が聞いたのか、どのように広まったのか、この真偽をせねばならない。れんだいこは、ありそうな話だと思っている。この話が事実だとすると、これは政治史に残る文句ということになる。

 2006.11.3日 れんだいこ拝

 辻和子の「熱情」は、この時の角栄の肉声を次のように伝えている。
 意訳概要「私が生涯語るまいと決めていたことを語ります。角栄がロッキード事件で逮捕され、保釈されてからの初めての帰宅でのことです。かなりの興奮状態で入ってきて、敷居をまたぐかまたがないかのうちに立ち止まり、一点を見つめるような目で、こう言いました。確か、『アメリカの差し金で、三木にやられた。三木にやられた』と、二度、憂いを含んだかすれた声で言いました」。(原文は長いため、れんだいこが肝心なところを抽出し要約した)
(私論.私見) 「アメリカの差し金で、三木にやられた」考
 辻和子の「熱情」は、「ユダヤにやられた。ユダヤに気をつけろ」のところが、「アメリカの差し金で、三木にやられた」となっている。これは、辻証言が真実なのか、「ユダヤにやられた。ユダヤに気をつけろ」と伝えるべきところを婉曲に言い換えたのかのどちらかであろう。れんだいこは、後者と受け取る。

 2006.11.3日 れんだいこ拝

【「橋龍」と小沢考の生きざま考】
 角栄がロッキード事件で逮捕された時、田中派内の多くの同志が日和見を決め込む中で、「橋龍」一人が、「それでも俺はオヤジが好きなんだ」との胸中を公言させた。角栄糾弾の嵐が見舞う形勢利有らずの中での勇気ある角栄擁護弁であった。この時、「橋龍」は男を挙げた。「橋龍」は、角栄釈放時の出迎えの際にも、「辺りはばからず涙をポロポロと流していた」と伝えられている。ここでも、男を挙げた。「橋龍」はその後、紆余曲折しながらも首相になる。その後の「橋龍」が、「男になった」かの時の矜持(きょうじ)を持ち合わせていれば「更に男になった」筈であるが、その頃から「俺は元々本籍佐藤派で田中派ではない」と御身保全に向かい始めた。この瞬間から男を下げ始めた。以降の「橋龍」の解説は無意味であるので割愛する。

 ところで、果敢に角栄を護った男がもう一人いる。ロッキード公判を欠かさず通い詰めた男−小沢である。小沢は、「橋龍」の常在主流派癖に比して、党を割り、イバラの道へ向い敢えて損な道を択んだ。火中の栗を拾い、大ヤケドしながら今日まで辿り着いている。国際ユダ邪が日本を呑み込み、使い捨てにせんと策謀を廻らしている渦中にあって見識を示し続けている。小ネズミ的嬌態政治から決別するのは、角栄政治の薫陶を正面から受け止めているこの男を通して以外にない。

 「橋龍」と小沢。政治に翻弄され、歩んだ道はそれぞれのものとなったが、戦後保守主流派を形成したハト派政治の何たるかを知っているだけに、今の政治にはがゆさを覚えている点では共通しているであろう。「橋龍」の死は、袂を分かった者であるとはいえ、小沢にとって損失であろう。しかし、今は懐旧する暇は要らない。屍を踏み越えて政権奪取に向かえ。日本人民大衆の大包囲網で勝負に向う以外になかろう。思いつくまま。

【角栄保釈直後の動き】
 

 これより以降は、【ロッキード事件の概要3(角栄保釈後)






(私論.私見)