45218 公判時代

 (最新見直し2005.6.23日)


1974(昭和49)年、角栄56歳

12.1  椎名自民党総裁が、三木武夫を後継総裁に推す椎名裁定案を提示。
12.4  自民党両院議員総会、椎名裁定に基づいて、三木武夫を次期総裁に選出。
12.9  田中内閣総辞職、三木内閣誕生。

1975(昭和50)年、角栄57歳

1.22  自民党定期大会、三木新総裁を追認。
4.30  南ベトナム解放勢力が、サイゴンを開放。臨時革命政府を樹立して全権を掌握。ベトナム戦争が終結する。
6.3  佐藤元首相死去。
8.2  三木首相訪米。
9.26  長岡市蓮潟の農民二人が室町産業を相手取り、売買契約無効と土地返還を求める訴訟を新潟地裁長岡支部に提訴。新潟県知事・君健男・氏は次のように述べている。
 「問題の経緯は亘前知事から聞いたが、『田中さんは農民から頼み込まれて、仕方なく買った』という話だった。訴訟になるのは不自然な気がする。訴訟の背後に政治的色彩を感じ嫌な気がする」。
9.29  長岡市議小林由市らが、田中元首相と室町産業などを詐欺未遂容疑で最高検に告発。
9.30  天皇・皇后両陛下、訪米に出発。
10.29  新星企業事件初公判。山田泰司元社長等起訴事実を認める。
11.28  田中彰治元代議士死亡。
12.2  新星企業事件で、山田泰司元社長に懲役1年6月、執行猶予2年などの有罪判決。控訴せず刑が確定。
1.15  狩谷忠男建設相急逝、1.19日後任に同じ田中派の竹下登就任。

1976(昭和51)年、角栄58歳

1.21  信濃川河川敷裁判第一回口頭弁論が開かれる。
2.4  米上院外交委員会多国籍企業小委員会公聴会で、ロッキード社の対日売り込み工作資金が問題化。ロッキード事件の発端となる。同小委員会は、ロッキード航空機会社の賄賂についての文書を公表。児玉誉士夫氏がロッキード社の秘密代理人であったこと、1968年以来、児玉氏などに700万ドル(約21億円)を賄ってきたほか、丸紅に手数料として320万ドル(約9億6000万円)を支払ったこと、この賄賂が政府高官に渡されたことを明らかにした。
2.6  衆院予算委で、野党がロッキード献金問題を追及。
2.16  衆院予算委、ロッキード事件で、小佐野賢治、全日空の若狭得治、渡辺尚治副社長ら7証人を喚問。児玉は病気で欠席。
2.17  衆院予算委、前日に続いて証人喚問。丸紅檜山広会長、大久保利春専務、伊藤宏専務、松尾泰一郎社長らが証言台に立つ。
2.23  衆参両院がロッキード事件解明のため、米政府・上院に資料提供要請を決議。
2.24  三木首相が、フォード大統領に協力要請依頼の親書を送る。
3.1  衆院予算委、ロッキード事件で5証人を喚問、再開。
3.23  日米司法当局が、ロッキード事件の資料提供に関する司法取り決めに調印。
4.2  田中前首相、「七日会」総会で、「私の所感」発表。「ロッキード事件と無関係である」ことを強調。
4.30  自民党有力議員による集まり「無名会」で、三木首相批判続出。
5.7  椎名自民党副総裁が、党有力者と会見し、三木退陣工作を開始。7日田中、9日大平蔵相、10日福田副総理と会談。
5.14  衆院、ロッキード問題調査特別委員会が設置される。この時、稲葉法相は、閣議後の記者会見で「イワシや小サバでは済まさない」と発言。
5.18  自民党の椎名副総裁と保利茂が会談、「三木退陣」で合意。
5.19  参院も特別委員会を設置。
5.27  椎名副総裁が、三木首相退陣要求で公式見解発表。
6月  田原総一朗「アメリカの虎の尾を踏んだ田中角栄」(「中央公論」7月号)。
6.18  衆院予算委、偽証の疑いで全日空若狭社長を告発。
6.22  東京地検、警視庁が、外為法違反で沢雄次全日空3幹部を逮捕。午後、大久保利晴、伊藤宏丸紅2幹部を偽証罪容疑で逮捕。児玉秘書も逮捕される。
6.25  衆院予算委、偽証の疑いで大久保利晴を告発。
6.25  河野洋平ら自民党5議員が離党、新自由クラブを結成。結党の少し前、河野は田中邸を訪れ、挨拶をしている。その時の角栄の次のような言葉が伝えられている。
 「君、外へ出れば苦労するぞ。十年の回り道になる。世間はそれほど甘っちょろくはない」。
7月  田原総一朗「北京の晴舞台で田中角栄は何を見たか」(「中央公論」8月号)。
7.2  東京地検、伊藤宏丸紅専務を逮捕。
7.8  東京地検、全日空の藤原取締役、若狭得治社長ら二人を逮捕。7.9日渡辺副社長を逮捕。
7.13  東京地検、檜山広丸紅前会長を逮捕。
7.27  東京地検が外為法違反容疑で田中前首相、榎本敏夫秘書を逮捕。田中前首相、自民党に離党届提出。
8.2  田中前首相運転手、笠原政則氏の変死体が発見される。
8.16  東京地検が、田中前首相を外為法違反・受託収賄罪で起訴。
8.17  田中保釈金2億円を積んで保釈される。小菅の東京拘置所に、早坂秘書、原長栄弁護士、梶山静六、保岡興治氏らが出迎える。
 田中が保釈された直後、当時NHK会長だった小野吉郎が田中を見舞い、世間の糾弾を浴びて辞任した。小野は田中の郵政大臣時代の事務次官である。NHKの現職のトップが、いてもたってもいられず出所見舞いに駆けつけた背景は、それほど強い恩情関係があったということであろう。「田中角栄の放送局に対する影響力は強大だった」などと評するのは、頓珍漢であろう。
8.18  新潟地検、信濃川河川敷の告発事件で、証拠不十分のため田中前首相は不起訴と決定。
8.19  自民党内に三木首相退陣を迫る「挙党体制確立協議会(挙党協)」結成。
8.20  東京地検、佐藤孝行運輸政務次官を受託収賄罪で逮捕(9.10日起訴)。
8.21  東京地検、橋本登美三郎元運輸相を受託収賄罪で逮捕(9.10日起訴)。
9.14  越山会の機関紙「月刊越山」9.14日付け特別号が、「激流に抗して毅然と立ち向かう」、「今後も堂々と政治活動−田中前首相、不退転の決意」を記事掲載。
9.15  三木内閣改造。
10.1  田中前首相、「月刊越山」に「私のとるべき道」と題しての初心を発表。逮捕容疑を全面否定して次のように述べている。
 「ロッキード事件という想像もできなかったことに巻き込まれて、国民の皆様に多大な迷惑をかけたことに心から恐縮しております」。
10.21  挙党協総会で、三木首相退陣要求を決議、福田副総理を後継総裁に推薦。
11.2  衆院ロッキード調査特別委員会で、法務省が丸紅経由受託収賄容疑の5名の政治家名を公表。田中角栄、二階堂進、佐々木秀世、福永一臣、加藤六月。
11.5  福田赳夫副総理、閣僚を辞任。
11.15  任期満了に伴う第34回総選挙公示。「ロッキード選挙」(田中角栄逮捕後初の総選挙)と云われた。公示後選挙区をくまなく「辻説法」して回る。次のように述べている。
 「一言で言えば、私は事件に関係ない日米両国のためにも真相が解明されなければならない。公人として逃避は許されない。私は敢えてイバラの道を踏んだ」。
12.5  第34回総選挙。田中は予想を覆して16万8522票で連続13回目のトップ当選、じたものの角栄人気は衰えていないことが証明された。渡辺秀央(中曽根派)も初当選。自民党は敗北、前回比22議席減の249議席、結党以来初めて過半数を割った。共産党は19(←39)議席に激減。公明55、民社29に続く野党第4党に転落。得票数603万(10.6%)。

 ロッキード事件関係者は、佐藤孝行氏(北海道3区)が落選しただけで、他は全員当選した。橋本登美三郎(茨城1区)は7万3034票で3位当選。加藤睦月(岡山2区)は8万590票でトップ当選。二階堂進(鹿児島三区)は5万9444票でトップ当選。福永一臣(熊本2区)は最下位ながら当選。 

 三木内閣は責任をとる形で辞任が確定した。
12.17  三木首相、退陣を表明。
12.24  三木内閣総辞職、福田内閣発足。

1977(昭和52)年、角栄59歳

1.1  東京・目白台の田中邸の元旦は賑わい、年始客760名。政・財はもとより、官の局長クラスも訪れている。
1.27  ロッキード事件丸紅ルート初公判。裁判長・岡田光了、主任検事・吉永祐介・被告席に田中・榎本・檜山・伊藤・大久保が並んだ。田中前首相、容疑を全面否認。
3月  田中派7日会解散、9日福田派も解散、30日三木派解散を決議。
3月  越山会青年部長で新潟県議の桜井新が次期総選挙に出馬表明。
4.13  衆議員ロッキード特別委員会、中曽根前自民党幹事長を証人として喚問。
5.27  越山会青年部長で新潟県議の桜井新が越山会からの分離を表明。
6.2  ロッキード事件児玉ルート初公判。
7月  田中派74人、旗揚げ以来最低になる。
7.10  第11回参院選投票。
7.16  中共10期3中全会で、ケ小平氏が再復活、江青らの党籍剥奪。
7.21  ロッキード事件小佐野ルート初公判。小佐野被告が偽証を全面否認。
9月  「七日会」解散。
10.10  越山会青年部長で新潟県議の桜井新が「一新会」事務所を越山会から分離、南魚沼郡の越山会が真っ二つに割れた。
11.28  福田内閣改造。

1978(昭和53)年、角栄60歳

1.21  旧田中派、政治同友会を発足させる(会長・西村英一)。
4.18  母フメ86歳で死去。 
4.23  新潟県知事選挙投票、君知事再選。
4.29  桜井新が後援会「一新会」結成、以後続々と3区内に誕生していく。
5.20  成田の新東京国際空港開港式。
6.11  田中派が総裁公選での大平支持を明らかにする。
6.15  越山会青年部長で新潟県議の桜井新が次期総選挙に公式に出馬表明、新潟日報に大きく載った。
7.13  福田首相・園田外相・村山蔵相・先進国首脳会議に渡欧。
7.24  キッシンジャー氏が田中邸を訪問し、約2時間会談。
8.12  北京で、日中平和友好条約調印。
10.22  ケ小平中国副首相が来日。10.24日に田中邸を訪問、日中国交回復の功績を称える。10.25日、福田首相と第2回会談。
11.1  自民党総裁選公示。福田、大平、中曽根、河本の4名が立候補。
11.27  自民党総裁選予備選で、大平正芳幹事長が圧勝。大平748点、福田638点、中曽根93点、河本46点。福田首相が本選挙の出馬を辞退。事態の弁は、「天の声にも変な声がたまにはあるよ」。12.6日福田内閣総辞職。
12.7  第一次大平内閣発足。角影内閣と評される。田中派から江崎真澄、橋本龍太郎、金井元彦、山下元利が入閣。
12.20  ロッキード事件丸紅ルート公判、ロッキード社のコーチャン元副社長等の嘱託尋問調書を証拠として採用決定。

1979(昭和54)年、角栄61歳

1.8  ダグラス・グラマン航空機疑惑浮上。米グラマン社前社長が、E2C対日売り込みに岸・福田・松野・中曽根の介在を言明。
1.30  衆参両院のロッキード問題特別委が、航空機輸入調査特別委に改称。
2.8  衆院本会議、ダグラス・グラマン航空機疑惑究明を決議。
2.15  衆議院予算委、ダグラス・グラマン航空機疑惑で、5人を証人喚問する。
4.2  東京地検は、海部八郎日商岩井副社長を外為法違反容疑で逮捕。
4.11  ロッキード裁判丸紅ルート第70回公判。被告人質問始まる。大久保利春被告が「心に曇る金」、「贈賄は檜山の発意」などと供述。
4.12  周恩来夫人が、目白邸に角栄を訪問。
5.1  東京地検は、航空機疑惑で、松野頼三元防衛庁長官から事情聴取。
6.28  先進国首脳会議(東京サミット)開催。
7月  田中氏が田中派総会に出席。51.7月のロッキード逮捕以来、初の公式会合に出席。
9.7  衆院、野党提出の内閣不信任案を可決、解散。
9.17  総選挙公示。桜井新が「一新会」をバックに新潟3区から立候補。
10.7  第35回総選挙でトップ当選。前回より約2万7000票減の14万1285票。桜井新は4万8315票で次点。この時、田中の「聖地」であった魚沼郡の票が桜井に2万5千票余、角栄票がそれより2600票少ないという「事件」となっていた。
10.9  自民党反主流派が、総選挙敗北で大平総裁の責任追及へ。「40日抗争」始まる。田中前首相が、大平首相全面支援。
10.17  ロッキード裁判丸紅ルート第82回公判で、檜山広被告が「総理に5億円献金話を伝えた」と供述。
10.30  第89回特別国会で大平内閣総辞職。
 「今の自民党というのは、まるで柵の中にメス象(大平正芳総理総裁)が寝ていて、その周りを痩せたトラ(福田赳夫)とハイエナ(三木武夫)とハゲタカ(中曽根康弘)がうろうろしているようなもんだ。野党の奴等は、柵の外で見ているだけだねぇ。無所属の田中となると、頭を柵の外に半分出しているライオンであります。いいですかッ、トラやハイエナやハゲタカは、今は勝手なことを言っているが、メス象は怒り出すと怖いぞ。手におえなくなることが、わかっておらんのであります」。
11.6  衆参両院本会議で首班指名、大平・福田候補が争い、大平188票・福田121票で大平が勝つ。この時大平は新自由クラブを取り込んだ。
11.9  第二次大平内閣発足。11.16日自民党3役決定(桜内幹事長・中曽根派、安倍政調会長・福田派、鈴木総務会長・大平派)し、40日抗争終わる。
12.19  長岡市と室町産業が「千秋が原(信濃川河川敷)の土地利用・譲渡・交換に関する協定」を締結し、土地売買契約書に調印。

1980(昭和55)年、角栄62歳

1.30  ロッキード裁判丸紅ルート第91回公判で、伊藤広の被告人質問始まる。「現金入りダンボール箱を榎本に渡した」などと証言。
5.16  衆議員本会議で大平内閣不信任案可決。社会党が提出、自民党反主流派69人が欠席したため、賛成234票・反対187票で可決。5.19日衆院解散、6.22日初の衆参同時選挙が決まった。
5.17  佐藤昭子証言によれば、大平から角栄に電話が入る。大平は、「兄貴、兄貴、どうしよう。どうしたらいいんだろう」と述べ、角栄は、「君は座して死ぬつもりか。解散だ、解散だ。打って出るんだ」と叱咤したと云う。
5.27  華国鋒中国首相が来日。大平首相と会談。
6.12  「盟友」大平首相死去。
 「31年にわたり兄弟付き合いをしてきた。非常に慎重な性格で、自分と合せて二で割れば丁度いいのに、と笑いあったりした。外遊前に電話したとき、無理をしたら死ぬぞ、と忠告したのに」。
 「勝つことが故大平への最大のはなむけだ」。
6.22  第36回衆・第12回参の初の両議院同時選挙投票。自民党圧勝。角栄は13万8598票でトップ当選。2位は桜井新で7万926票で初当選。このときの選挙で2区の稲葉修、3区の三宅正一氏(社会党)が落選、引退となった。
7.15  自民党両院議員総会、鈴木善幸党総務会長を第10代総裁に選出。7.17日鈴木内閣発足。

 「直影内閣」と揶揄されたが、この時角栄は側近に次のように述べたことが伝えられている。
 「どうして『角影』とか『直角』とか世間は騒ぐんだ。ネット裏で見ていただけなのに。三十年も政権の中枢にいたオレなんだから、結果的に『角影』の政権ができたって不思議はないじゃないか」。
10.23  田中派を「木曜クラブ」と改名発足。会長に二階堂進。過去最高の93人。
11.4  米大統領にレーガン就任。
12.3  ロッキード裁判丸紅ルート第117回公判で、榎本被告人質問始まる。「現金授受は絶対無い。ないものはない」などと否認。
12.9  小坂徳三郎ら自民党議員ら、新自由クラブ離党の木村守男議員らが木曜クラブに入会。

1981(昭和56)年、角栄63歳

1.12  呼吸困難で自宅で倒れ、救急車呼ぶ騒ぎに。政界に激震走る。
1.15  文芸春秋2月号が「田中角栄元総理独占インタビュー・6年間の沈黙を破る」(田原総一朗)を発表。「(総理復活があるのかの問いに)全く考えたことも無い。総理・総裁というものはなろうとしてなれるものじゃない。そういう考え方は覇道だ」。
1.18  ロッキード裁判丸紅ルート第122回公判で、榎本被告の被告人質問終わる。
2.5  全日空ルート裁判長、金隆史が急死。
4.8  ロッキード裁判丸紅ルート第126回公判で、弁護側の反証開始。「榎本アリバイ」など主張。
5.4  鈴木首相訪米。
5.10 フランス大統領選挙で、ミッテラン社会党党首が選出される。
6.10  ロッキード裁判丸紅ルート公判で、弁護側の証人として後藤田正晴氏が証言、その後政治家証人が次々に出廷し、「榎本アリバイ」を裏付ける。
7.13  土光第二臨調会長の訪問受ける。事件後初の公式活動。
7.15  永田亮一(兵庫2区)ら3名が田中派に入会、105人に。12月108人。
7.24  キッシンジャー元米国務長官が目白邸を訪問。
8.10  中曽根行政管理庁長官と軽井沢でゴルフ会談。
8.10  ロッキード裁判丸紅ルート第140回公判で、検察側が「榎本アリバイ」に反証開始。
9.24  行財政改革のため第95回臨時国会が始まる。
10.28  ロッキード裁判丸紅ルート第146回公判で、榎本被告の前夫人・美恵子が証人として出廷。「51年2.10日過ぎに信号待ちの車中で、『報道の通り金を受け取ったの』と聞いた。榎本は思い巡らしているようなので顔を覗き込むと、軽くうなずいて肯定した。『あなたの逮捕はあり得ますね、田中先生にはどの程度追及が及ぶのか』と聞くと、『後は三木総理の腹一つ』という答えでした」と証言した。「ハチの一刺し」証言として話題となった。
11.5  小佐野・児玉ルート判決。小佐野に懲役1年。小佐野は即時控訴する。児玉は病気のため言い渡し延期。検事総長安原美穂氏は、「検察側の主張がほぼ認められ、評価できる。嘱託尋問調書の合法性と信憑性が認められ、他のロッキード事件公判にとっても結構なことだ」。
11.30  鈴木内閣改造。二階堂氏が幹事長に就任。
12.3  無派閥の久間章生代議士等2名が田中派に入会、田中派は108名になる。
12.21  秘書の榎本敏夫氏が高血圧性脳症で倒れ入院。

1982(昭和57)年、角栄64歳

1.26  ロッキード事件全日空ルート一審判決。全日空社長若狭得治に懲役3年、執行猶予5年。ほか全日空幹部5人も有罪。若狭だけ起訴。
1.29  参議院議員・堀江正夫が田中派に入会、田中派は109名になる。
6.1  中国の趙紫陽首相来日、目白邸を訪問。
6.8  ロッキード事件全日空ルート政治家判決。橋本登美三郎懲役2年6ヶ月、執行猶予3年。佐藤孝行懲役2年、執行猶予3年。両被告控訴。判決文には二階堂進らを灰色高官と明記していた。

 田中の地元秘書本間は次のように述べている。
 「お二人がクロになろうがシロになろうが、越山会には全く関係がありません。田中がこれでクロに近づいたとするのはマスコミだけです。田中のシロは不動です」。
7.21  ロッキード裁判丸紅ルート第172回公判で、弁護側が職務権限で反証。
夏頃  夏頃、科学技術庁長官・中川一郎氏が軽井沢に居た田中角栄を訪ね、中川の自民党総裁への立候補如何を打診。「オヤジさん、池の鯉は跳ねちゃ駄目か」と伺いを立てる。この時、角栄は次のように述べたと伝えられている。
 「跳ねてもいいが、池に戻ればともかく、カンカン照りの砂利道に落ちたら、日干しになってしまう。鯉の日干しならまだしも、熊の日干しなんて誰も食わんぞ。お前はまだ若いんだから、まず北海道を平定して、北海道の総大将として出て来い。無理すると、借金で首が廻らなくなるぞ」と応答している。巷間で、「跳ねる(出馬)はいいが、池から飛び跳ねて帰ってこれなかったらスルメになってしまう」。
8.18  参議員比例代表制法が成立。
8.31  自民党総裁選に科学技術庁長官・中川一郎が決意表明。
9.6  経済企画庁長官・河本敏夫も総裁選出馬の意向表明。
9.6  ニクソン元米大統領、目白邸訪問。
10.12  鈴木首相、突然退陣を表明。
10.16  自民党総裁予備選告示。中曽根、中川、河本、安部の4名が届け出。
11月  高野孟(はじめ)「ロッキード事件に表れた日米支配層の暗闘」(「月刊社会党」12月号)。
11.15  上越新幹線(大宮−新潟)が開通。新幹線で新潟入りした角栄は、「これで新潟の産業は力を持つ。生産力は5倍、10倍に増えるだろう」とコメントしている。
11.24  中曽根康弘が総裁予備選で圧勝。
11.26  第一次中曽根内閣発足。官房長官に後藤田正晴氏がなるなど田中派から6名が入閣。
12.9  参議院議員・梶原清が田中派に入会、田中派は110名になる。
12.22  ロッキード丸紅ルート第183回公判。裁判所が田中被告の被告人質問を行い、事実審理終了。この時田中は全面否認し、次のように質問に答えている。
 「いやしくも現職の内閣総理大臣に対して、『成功したら報酬を差し上げる』などといったとしたら、言語道断であり即座に退出を求めたはずです。政治家の第一歩は、いかなる名目でも第三国人からせ維持献金を受けてはならない、ということです。5億円授受は全くありません。事実上も、職務上もございませんっ」。

1983(昭和58)年、角栄65歳

1.9  中川一郎が自殺。田中角栄と秘書早坂が弔問に駆けつけ、角栄は遺骸に向かって「バカヤロー、俺よりなんで先に死んだ!」と号泣したと伝えられている。
1.17  中曽根首相が訪米。1.18日日米首脳会談。1.19日日米共同声明。この時「日本列島不沈空母」発言を行い、問題となる。
1.19  田中元首相、議員辞職を考えていないことを言明。
1.21  小佐野控訴審始まる。
1.26  丸紅ルート検察が論告求刑。田中に懲役5年、追徴金5億円。丸紅会長・桧山広は懲役4年。
2.9  衆議院で、野党が東京地裁の検察側求刑を受けて「田中議員辞職勧告決議案」を提出。
3月 「小説吉田学校」の著者である政治評論家戸川猪佐武が急死。
5.11  田中弁護側が最終弁論。
 「一人の主任検事(吉永特捜部副部長)が虚心に証拠の検討をせずに、自己の独断的偏見を被疑者らに押し付け、事件を自己の見込み通りに作出した。田中元総理の失脚を狙い、無理に収集した証拠に基づく違法な起訴だ」
5.26  中曽根首相、先進国首脳会議出席のため渡米。
6.26  初の比例代表制となった第13回参院選投票。田中派が圧勝、118名になった。
9.19  田中派が総会。
9.22  角栄が小千谷片貝の後援会で次のように述べている。
 「私を死ねばいいと思っているヤツがいる。とんでもない野郎だ。これでもハラの虫を抑えてしゃべっているんだッ。裁判のことは裁判所に任せている。とやかく言うことは無い」。
10.3  田中が目白台の私邸で胸が苦しくなり救急車を呼ぶ。
10.12  東京地裁一審判決。田中に懲役4年、追徴金5億円。桧山に懲役2年6ヶ月。他の3被告も有罪。全員が控訴。角栄は所感を発表して、「今後とも不退転の決意で闘い抜く。国会議員としての職務遂行に今後も微力を致したい」と述べた。
10.13  「推論で人に罪を被せるようなことは絶対に許せん」と目白邸に出迎えた田中派議員らに語る。
10.13  一審判決後、国会は田中の議員辞職勧告決議案を廻って紛糾した。
 この頃、マスメディアはこぞって角栄の議員辞職を求めた。福田や三木元首相も「田中が辞職しないと自民党政権が維持できない」と主張した。
10.21  三木元首相が中曽根首相と会談し、田中辞職へ指導力を発揮するよう要請。
10.28  午前、岸元首相が田中邸を突然訪問。午後3時からホテル・オークラで中曽根首相と二人だけの会談。田中は「自重自戒」、中曽根は「できる限り助言」との談話を発表。
10.31  「所懐」を発表。
 「六年半余りに及ぶ長い間、国民皆様をお騒がせし、ご迷惑をかけていることは申し訳なく、深くお詫びを致します」。
 「私は政治家として満三十六年の間、戦いに敗れた祖国の再建と繁栄、明治以来恵まれる事の少なかった郷土・新潟県の発展のため、いささか微力を致して参りました。私の一身を国家、国民にささげ尽す私の信念は、今後も変わることはありません」。
11.5  長岡市で作家の森村誠一氏らが「よみがえれ民主主義!金権腐敗と田中金脈を裁く国民の集い」開催。
11.9  レーガン米大統領、日本を公式訪問。
11.28  衆院解散(ロッキード判決解散)。
12.3  総選挙告示。この日の柏崎の演説で次のように述べている。
 「ロッキード事件はトラばさみにかけられた。足を取られた方が悪いのか、トラばさみを仕掛けた方が悪いのか、後世の学者が判断するものだ。私は断じて何もしておりません」。
12.5  社会党委員長・石橋正嗣が長岡で地方遊説第一声。「諸悪の根源、田中角栄氏を倒すしかない」と地方遊説第一声。
12.17  三島出雲崎町での個人演説会で、「ワシが10年間じっとしていたら、日本はマイナスのことばかり目立つようになった。当選したら、ワシがいろんな法案を立案し、日本の改革に着手する」。
12.18  第37回衆議院総選挙。投票率は戦後最低の68%。田中は驚異の22万761票獲得。連続15回目のトップ当選。有罪判決を突きつけられ、がけっぷちにたった刑事被告人の立場ながら全有効投票の46.65%という驚異の得票だった」。2位から5位までの票を全て合わせても田中一人の票に及ばなかった。野坂昭如氏も立候補したが、2万8千票で次点。

 角栄は、新潟日報のインタビューに次のように答えている。
 「私も心を新たに国民のため、県民のために全力を尽くす。この得票は県民の声なき声が爆発したものだ。必ずこの負託にこたえていく」。

 但し、自民党は惨敗となった。田中派は2減の63名当選したものの他派が軒並み総崩れとなった。
12.24  中曽根首相が総選挙惨敗で4項目の総裁声明。「いわゆる田中氏の政治的影響を一切排除する」を盛り込む。
12.26  第二次中曽根内閣組閣。

1984(昭和59)年、角栄66歳

1.1  目白低に、政財官界から約500名が年始挨拶。
2.6  衆議院で、政治倫理制度を協議するため政治倫理協議会が発足。
3.16  自民党田中六助幹事長、日本記者クラブの講演で、「田中元首相は政界にいまなお大きな影響力を持っている」と発言。
3.30  田中派総会に出席。中曽根内閣への協力を明言。「木曜クラブは総裁候補も出さずに骨抜きになっているといわれているが、カゴを担ぐ人のわらじを作っているのが諸君だ」。
6.22  旧船田派の稲村利幸ら3名が入会、田中派は120名になる。
6.29  自民党新潟県議48名による「田中元首相を囲む会」が発足。
10.27  田中派会長二階堂進副総裁の「総裁擁立工作」発覚。二階堂氏は田中の置かれている立場を顧慮して相談なしに話を進め、公明党の竹入委員長等を巻き込んでポストの割り振りまで決めていた。目白邸で田中−二階堂会談が行われ激論になる。結局、二階堂は総裁選への立候補を断念する。「二階堂君と俺とは夫婦みたいなものだ。たまには喧嘩もするが、何でも言い合えば後はスッキリしたものだ」。この二階堂「総裁擁立工作」の意味を理解できる人士がいなく、逆に私心行為として潰されることになった。
 この頃、自民党幹事長・金丸信らが中心となって、竹下グループを独立させる動きが密かに進行していた。
10.29  自民党総裁に中曽根首相が単独立候補、再選決定。10.30日金丸信が幹事長、二階堂が副総裁に決定される。その他閣僚ポストに蔵相・竹下、農相・佐藤守良、郵政相・佐藤恵、総務庁長官・後藤田、国土庁長官・河本嘉久蔵、科学技術庁長官・竹内黎一らの6ポストを田中派が占める。
11.9  新たに2名が加わり田中派122人に。
12.3  共産党が、国会に田中元首相の議員辞職勧告決議案を提出。
12.19  金丸の音頭で、竹下登・橋本龍太郎・小沢一郎・梶山静六・羽田孜が集まり、「竹下中心の勉強会」発足を決議。
12.25  竹下登ら「創世会」の第一回準備会(実際には2度目の会合)。衆院12人、参院2人の14名(衆議院・竹下、金丸、小渕、橋本、小沢、羽田、梶山、中村喜四郎、田原隆、中島衛、保利耕輔、額賀福四郎、参議院・遠藤要、井上孝)が築地の料亭「桂」にひそかに集合し会合。「創世会」旗揚げの謀議を凝らす。席上、竹下が「全てを燃焼し尽くして、65歳までに全てを終え、政界を引退する覚悟です」と決意を述べた。

1985(昭和60)年、角栄67歳

1.1  目白邸に例年を上回る600人が年賀の挨拶。この時の角栄の挨拶は、「沈黙は金。謹賀新年。正月元旦。これで終わり」というだけの奇妙な挨拶であった。
1.8  来日中のキッシンジャー元国務長官が目白の私邸に田中角栄を訪れる。
1.23  「創世会」の第2回準備会(拡大世話人会)が開かれた。新たに衆議院・亀岡高夫、山村新治郎、野中広務、榎本和平、塩島大、参議院・梶木又三、井上吉夫、中村太郎、岡野祐、志村哲良が加わり、前回よりも11名増の25名の国会議員が集まり、勉強会として「創政会」の旗揚げを決議。「創政」とは、竹下の後援会機関誌名「創政」から名づけられた。席上、竹下が「私は、竹下登の全てを燃焼し尽くし、一身を国家に捧げる覚悟で参りました」と決意を述べた。2.7日の設立総会を確認。
1.27  四日後、田中−竹下会談。「創世会」の設立を伝える。
竹下  「全国各地に勉強会を拡大したい。また、中堅、若手を集めて勉強会を開きたいと考えております」。
角栄  「県会議員出身で首相になった例は太政官発布以来無い。君がなれば初めてだがなかなか大変だぞ。『勉強会大いに結構。但し、稲門会(雄弁会)のような早稲田グループだけに偏ってはいかんよ、いろんな連中を入れて、幅広くやれよ』」と注意しておいておいた」。

 この頃の田中の思惑は、「一に二階堂進、二に江崎真澄、三に後藤田正晴だ。順序を間違っては駄目だ」。
2.4  「創世会」の旗揚げを廻って、二階堂進・小沢辰男・金丸・竹下の四者会談が、梶山と小沢の立会人で行われた。
 田中六助・前幹事長が長らく病床にあったが、この日心筋梗塞で逝去。政界宛て遺言状には次のように認められていた。
 「私が最後にお世話を被りたいお願いの一つは、田中角栄元総理の問題に取り組む姿勢です。何か問題が起るたびに、この問題と結びつける政界の姿勢を早く改めてもらいたいことです」。
2.7  「創世会」初会合で正式発足。平河町砂防会館新館で、衆院29名、参院11名の計40名(田中派の3分の1)が出席。梶山が司会、渡部が開会の挨拶、橋本が経過報告、竹下が会長としての挨拶を行った。

 角栄激怒し、切り崩し工作も行われる。
2.13  竹下が創世会幹部二人(橋本、梶木)を連れて目白邸を訪問、田中と会談する。田中は「同心円で行こう」と云ったと伝えられている。
2.19  小沢・羽田・梶山が目白邸を訪れ、田中と会談する。「お−っ、お前等よく来たな。本当によく来てくれた。しかし、お前等も強引にやるもんだ」と云ったと伝えられている。
2.21  田中派123人に。
 財界の中山素平、今里広記が目白の田中邸を訪れ、電電公社民営化後の初代社長に真藤総裁を当てることが財界の総意だと説得に努めたが、角栄は頑なに北原副総裁に固執して、話はまとまらなかった。
2.25  羽田孜の後援会パーティー「羽田孜を励ます会」に出席。「最近は、世代交代とか、田中がどうのこうのという声が無い訳でもない。しかし、召される時は、神様が否応無く引っ張っていく。心配要らない」
2.26  田中派閣僚経験者の「さかえ会」に出席(赤坂の料亭「川崎」)。「賢者は聞き、愚者は語る。オレは今日からは賢者になる。何か云うことがあればなんでも言って来てくれ」。これが田中の公の場での「最後の肉声」となった。
2.27  竹下登らが旗揚げした創世会が波紋を広げる中、脳梗塞で自宅で倒れ、東京逓信病院に入院。以降言語能力と共に政治生命を失った。




(私論.私見)