小室直樹氏の角栄論その2

 更新日/2022(平成31.5.1栄和元/栄和4).8.2日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「小室直樹氏の角栄論その2」をものしておく。

 2022(平成31.5.1栄和元/栄和4).8.2日 れんだいこ拝


【白石隆時事エッセイ/私における小室直樹】
 私における小室直樹:白石隆時事エッセイ」。
 私における小室直樹:白石隆時事エッセイ  
 http://kiheitai.soc.or.jp/gobu/20010430.html
 小室直樹は初期の出世作「危機の構造」や「ソビエト帝国の崩壊」以来ずっと読み続けてきた。私の書棚には昔のカッパブックから始まって近刊のしっかりした装丁のものまで小室文庫と呼べる一連の著作が揃っている。

 初期の頃は熱烈なファンだった。よく小室の新刊の著書がないかと書店を目を皿のようにして探し回ったものだ。彼の最大の魅力はその特異な経歴と行動力にくわえ、歯に衣着せね大胆な発言にあった。それは奇を衒うというのではなく学者としての信念からほとばしり出る発言だった。私はそこを潔しとし魅了されたのだ。当時の彼は赤貧のどん底だった。世間は彼を奇人として愚弄した。彼はそんなことお構い無しで次々と当時の常識を覆す著書を世に問い続けていた。東大で自主講座を開いていたのもこの頃だ。無報酬で学生たちに彼の学識を伝えていたのである。その当時の弟子に橋爪大三郎や副島隆彦がおり、今では彼らも新進気鋭の評論家として活躍するにいたっている。当時は私も自称「小室の弟子」であった。そして小室を敬愛してやまなかったのである。

 初期の小室直樹は愛すべき学者でだった。学問探求の鬼だった。かれの学殖は数学から始まり、経済学、法学、政治学、心理学、社会学、人類学と多岐に渡っている。京都大学で数学を大阪大学で経済学を修めた後、若くしてフルブライト留学生としてアメリカに渡りミシガン大学、ハーバート大学、MITを渡り歩き、MITではサミュエルソンの直弟子として理論経済学を学んでいる。帰国後東大で政治学、法社会学、人類学、社会学を学び法学博士を授与される。すべて一流所で学んできているのであり、その学識は他を圧倒していた。しかし彼は不遇だった。当時の日本の閉鎖的な学会では彼のような学際人を受け入れる余地はなかったのである。真理を求めて自己に忠実に生きて来た結果がこれであった。彼は仕方なく食べるために著述を始めたのであった。そしてここから初期の名作が生れていったのである。

 初めて「ソビエト帝国の崩壊」を読んだ時は強い衝撃を受けた。すごい新人が出てきたと驚いたものだ。若くして共産党に入り一年も満たないうちに反党分子というレッテルを貼られて離党した経験のある私には共産党の持つ官僚制という致命的な欠点をいやというほど熟知していた。そこには個人の自由は皆無であった。小室はこの著書の中で共産主義は人民が共産主義に対する夢を失った時、肥大化した官僚制は硬直化の道を突っ走り、生産力を失ってついに自然崩壊すると結論づけていたのである。ソビエトの人民はすでにフルシチョフのスターリン批判で共産主義に対する夢を失っていた。従っていずれソビエトは必ず崩壊すると予言したのであった。その洞察は鋭く、その言葉通りに十年後ソビエトは崩壊したのである。

 以後小室は日本の官僚制に対しても鋭く批判を浴びせ無能な経済政策と腐敗の進行する組織に激しく警鐘を鳴らし続けた。日本のリーダシップをとるべき官僚組織に取り返しのつかない腐蝕と精度疲労が起こっていることを小室は以前から見抜いていたのである。しかし当時の日本株式会社は絶好調で、通産省の指導のもと世界を席巻しわが世の春を謳歌していた。米国のある学者などは日本はNO.1だと持ち上げて賞賛した程だった。右肩上がりの成長が永久に続いていくものと誰も信じて疑わなかった時代である。しかしその警鐘通り数年後バブルは崩壊し、日本の官僚が如何に無能であるかが暴露される結果となったのである。

 小室直樹の活動の舞台は広大である。私は様々な知識を彼から授かってきた。たとえば国連が軍事同盟の延長に過ぎない「連合国」であり、いまだに日本には「敵国条項」が適応されていること。山本七平との共同研究では日本人には日本教という「空気」に似た宗教がありそれが日本人の行動を支配していること。資本主義の原点にはキリスト教の予定調和説があること。田中角栄はロキード事件では無罪であること。などなど。数え上げればきりがないほど実に様々な分野の様々な知識を彼から授かってきた。今でも小室の著書を書店で見つければ必ず購入するようにしている。しかし最近はじっくり読む暇もなく積読(つんどく)することが多くなってしまった。いずれ時間に余裕ができた時にじっくり読みたいと思っている。

 以上小室を称える賛辞を贈ってきたが、私には小室に対して大きな疑問を抱いていることがある。彼には国際金融財閥を正面から扱った著作がただの一部もないことだ。彼は学者だから国際経済を論じる時は学術用語を駆使して経済理論にそって話を進め、それで読者を納得させようとする。学者らしく学問の体系と論理的整合性にしたがって事象の解釈をおこない発言することを常としているのだ。しかし彼は本気で経済現象が人間を超えた経済法則によって動くものと確信しているのだろうか。そう考えているとするなら小室は本当の「学者馬鹿」と言うほかはないだろう。経済とは人間の欲で動いているものである。それも巨大な金を動かせる人間の欲によってである。経済法則などというものはその結果を統計処理しマクロ的に解釈して法則化したものに過ぎないのだ。小室直樹はこのことをどう考えているのだろうか。

こ こに一冊の本がある。1988年〔★1987年の間違い〕に青春出版から出版された「経済裏陰謀の常識」という本だ。この本はイルミナティの経済裏陰謀を日本で初めて紹介した衝撃的な内容の本だ。イルミナティとは国際金融財閥の奥の院のことである。この本には1989年に日本経済の破局があると予言されているが、それはみごとに的中している。著者は馬野周二(うまのしゅうじ)氏。日本における陰謀論の草分け的存在である。彼は1970年代のオイルショック当時、「石油危機の幻影」という著書を著わしオイルショックが国際石油資本の陰謀であること立証し日本国民に警鐘を鳴らした人物だ。馬野氏は通産省の技官を勤めたあと戦後まもなく米国に渡り化学技術者として長く活躍したのちニューヨーク工科大学の教授を勤めた人だ。この著書の推薦者の一人として小室直樹が名前を連ねている。彼の推薦文にこうある。
「1989年に経済破局がくる。フリーメイソンなどイルミナティの手先に過ぎない。イルミナティはアメリカ東部のエスタブリシュメントを巻き込み、虎視耽々と日本の喉笛をねらっている。大恐慌を起こしそのどさくさにまぎれて日本経済を征服しようというのだ。この大陰謀にくらべればオイルショックの円高不況でさえも児戯に類する。日本人よ無知によって生命を失うことなかれ。アメリカ研究の泰斗馬野氏渾身の力作。馬野経済史観による日本経済の将来を予測するの書」

 とある。この推薦文から分かる通り小室は国際金融財閥の実態を熟知しているのである。わずか四年間のアメリカ留学生活であったが彼はアメリカに巣食う強大な権力の実態を正確に把握していたのである。渡米前、友人に必ずノーベル賞を獲って帰って来ると豪語した小室が数年後「もうアメリカから何も学ぶものはない」と言って静かに帰国した背景にはノーベル賞が国際金融財閥に奉仕した人間にだけ与えられるご褒美に過ぎないことを喝破していたからに他ならない。

 小室直樹は今やソビエトの崩壊を予言した人物として一部の学者や文化人に神様のように崇められ「天才小室」とか「学問の神様」といってもてはやされている。このようなおべんちゃらを聞くにつけ小室が堕落しはすまいかと心配になる。彼の持論である「宿命の対決-日米は二度戦う」は次第に実現の可能性を濃くしつつある。阿呆な取り巻きを一掃して、日本の命運を担う彼の人生最大の大仕事、日米対決への処方箋をじっくりと完成して欲しいものである。

笠井尚会津が生んだ天才 ―小室直樹の人と思想—」】
 2019.12.1日、笠井尚会津が生んだ天才 ―小室直樹の人と思想—」。
 小室直樹は、会津武士の血を受継いだ天才思想家であったと思います。村上篤直さんの『評伝小室直樹』を読んでみて、なおさらその思いを強くしました。天才といわれたのは、当初は数学の世界に身を投じながらも、経済学、政治学、社会学の多方面にわたって業績を残したからです。アカデミズムにとどまらずに、私のような一般大衆にまで影響を及ぼした功績も大なるものがあります。アカデミズムの世界で小室が注目されたのは、昭和四一年一〇月と同年一二月の岩波書店の『思想』に「社会科学の一般理論の構築(上)」と「社会科学の一般理論の構築(下)」が掲載されたからです。当時の小室は東京大学大学院法学政治研究科の博士課程に在学中でしたが、新進の若手思想家としてのデビューを飾ったのでした。前年三月に小室は、丸山真男に提出した「権力の一般理論」で政治学修士号を取得しています。戦後日本の思想界をリードしたのが丸山ですから、そこで認められたということで三〇代初めの小室は前途洋々たるものがありました。

 一躍時の人となった小室は、同じく『思想』に昭和四三年二月から昭和四四年三月にかけて全五回「社会科学における行動理論の展開」を連載し、それでもって、昭和四五年七月には、日本社会学会が若手研究者の奨励賞として設けられた第一一回城戸浩太郎賞を受賞した。 

 

 会津高校の卒業生

 

 小室が城戸賞をもらったというのは、昭和二六年に卒業した先輩ということもあって、会津高校在学中の私の耳にも入ってきました。私の三年生のクラス担任が田﨑行威という英語の教師で、小室の会津高校時代の同級生であったために、時間があると、決まって小室の話をしました。『評伝小室直樹』でも書かれていますが、京都大学に受験に行ったおりに、金を取られたか、無くしたかして、会津まで歩いて帰ってきたということや、家が貧乏で飯が食えなくて、芋ばかり食っていたとか、頭を剃ってメンタムを塗っていた、といったエピソードを語ってくれました。

 岩波の「思想」に掲載された論文は、あくまでもアカデミズムの世界のことですが、ジャーナリズムの世界でも知られるようになったきっかけは、「エコノミスト」の昭和四五年一月号に載った『社会科学革新の方向』によってでした。同年一〇月には、TBSの『人物』で小室が取り上げられ、「がんばれ るんぺん先生」とのタイトルで紹介されたのでした。東大の田無寮に住んでいた小室が、一躍時の人となったのです。

 

 小室の出自と学問

 

 小室が生まれたのは、現在の東京都渋谷区神宮前で、戸籍上は昭和七年九月九日となっていますが、『評伝小室直樹』の筆者である村上篤直さんは、生年月日に疑問を呈しています。もっと早く生まれていた可能性があるというのです。小室が母親チヨと河沼郡柳津村で暮らすようになったのは、昭和一七年になってからです。父親の小室隆吉は、昭和一二年にはこの世を去っていますから、東京の食料事情が悪化し、空襲の危険性がたかまったために、母親の実家に身を寄せることになったのです。柳津村国民学校に編入しましたが、小室はかなり大人びていたようで、同級生を子ども扱いにしていたそうです。

 小室が柳津村国民学校を卒業し、会津中学に入学したのは昭和二〇年四月のことです。戦後の学制改革もあって、会津中学と会津高校の両方で学ぶことになります。

 小室が昭和二六年四月、京都大学の理学部に合格したのは、昭和二六年四月のことです。専門課程で数学を専攻しました。小室が数学をマスターしたことで、経済学や政治学、さらには社会学の分野で新たな学問の領域を開拓することになったのです。数理経済学が注目を集めるようになってきていたこともあり、その分野のパイオニアであった、市村真一に私淑するとなったのです。

 小室が京都大学の理学部数学家を卒業したのは、昭和三〇年三月でした。引続いて四月には大阪大学大学院経済学科修士課程に入学します。市村が大阪大学の社会科学研究所に招かれたので、小室も一緒に付いて行ったのです。社会学ばかりでなく、経済学者としても知られた高田保馬が初代室長となり、京都大学の市村と森嶋通夫を招聘して、一躍数理経済学の牙城となり、大阪大学社研が経済学をリードした時代があったのです。 

 

 国士市村真一の弟子

 

 小室は市村を通して、平泉澄の教えを直に受けることになります。東京帝国大学の国史の教授であった平泉は、大東亜戦争の敗北もあって、アカデミズムを追われました。しかし、その門下生たちが日本の再生を果たすために、平泉の許へ集まっていたのです。とくに市村は敗戦の報に接し、自刃しようとした国士で、平泉を師として仰いでいました。平泉が昭和二九年に千早鍛錬会を再会すると、小室も参加して、市村ばかりでなく、高弟である鳥巣通明、田中卓、村尾次郎から、日本の国柄の精神を叩きこまれたのだった。

 率先して参加したのは、皇室を重んじる会津精神が小室の血には流れていたからだと思います。小室は「母方は会津の士族」と公言していましたが、そのことを裏付ける位牌が今も残っています。チヨの祖父の寅像(蔵)の死亡年月日の昭和二年二月十九日の下に、会津藩士と書かれているからです。会津藩士の末路は哀れなものがありました。農家の養子となって、苗字を変えて野に埋もれた人も、かなりの数にのぼったといわれます。小室の母のチヨは、祖父寅蔵から苦労をしたことを聞いたに違いありません。

 学問的には小室はニュートラルな立場に終始しましたが、根本的な精神としては、一貫して愛国者でした。会津の武士道にこだわり、朱子学の意義を説いたのは、平泉や市川の流れを汲んでいたからです。

 小室は指導教官でもあった市村が、平泉の門下生らとともに、自らが塾頭となって昭和三〇年一二月一八日に大阪府吹田市に「清々塾」を開設すると、第一期生となりました。精神の鍛練も怠らなかったのです。平泉は開塾式で、吉田松陰の「士規七則」を論じながら、「大厦は現に傾き始めましたが、何とかこれを支え、もって回天の大事を為し遂げねばなりません。これが、私の士規七則を講じた所以であります」と訴えたのでした。会津武士の精神を重んじる小室が感涙に咽んだことは、容易に想像がつきます。

 

 フルブライト留学生

 

 小室は昭和三二年の「理論経済学の基本問題」で、経済学の修士号を取り、昭和三三年一月には「デモンンストレーション効果と市場の均衡および安定」という論文を発表し、経済学者としての地位を固めました。いよいよ海外に雄飛する道が拓けたのは、市村が推薦したからで、小室は昭和三四年八月二七日、フルブライト留学生として、横浜港から氷川丸に乗って、アメリカに向かって出発しました。大きな日の丸を警策に結んで、風呂敷包みを抱えての旅立ちでした。

 小室にとってのアメリカ留学の目的は、マサチューセッツ工科大学で、サムエルソンから教えを受けることであり、そこで博士号を手にすることでした。学問的な好奇心が旺盛な小室は、サムエルソンばかりか、ハーバード大学にまで出かけ、パーソンズの講義を聴いたりもしています。

 小室がマサチューセッツ工科大学で博士号論文の提出資格を得るためには、筆記試験と論文試験をパスしなければなりません。小室が躓いたのは、語学ができなかったからです。いくら天才小室であっても、解答を制限時間内に英文で書くのは難しかったようです。数理経済学者としては、サムエルソンからも御墨付きを得ていたにもかかわらず、落第をしてしまったのです。失意のどん底に落とされた小室は、市村に「もう死にます」との手紙を書いています。これに慌てた市村は、八方手を尽くして思いとどまらせようとしました。

 

 東京大学で博士号

 

 小室がそこまで落胆したのは、自らの不甲斐なさが我慢ならなかったからでしょう。たまたまそんな小室を励ましてくれたのが、ミシガン大学で計量政治学を勉強していた永井陽之助でした。永井の口利きで、小室は東京大学で学ぶことになり、同じく修士号まではスンナリいきました。しかし、そこでまた壁にぶつかったのです。アメリカでそうであったように、またもや嫌がらせをされたのです。博士課程での指導教官であった京極純一に提出した論文が、数年間にわたって放置されたのです。これに腹を立てた小室は京極を「論文審査義務違反で訴えるぞ」と脅して、ようやく「衆議院選挙区の特性分析」は東京大学大学院法学政治政治研究科の博士論文として承認されたのです。すでに昭和四九年になっていました。

 社会学の分野での小室の活躍が目立つようになるのは、その頃からです。すでに田無寮を出て、マック・ヴェーバーの研究家大塚久雄が住む石神井公園の近くのアパートに転居していました。東京大学では社会学部の富永健一ゼミのサブゼミとして、昭和四七年四月に小室ゼミがスタートしました。富永自身が小室から、理論経済学と数学を教えてもらったこともあって、富永ゼミの学生が小室から指導を受けたのです。昭和四九年四月には、独立して小室ゼミとして、本格的に活動することになりました。しかし、東京大学の社会学研究科では、小室が目の上のたん瘤となり、追い出しにかかります。単位をもらうためではなく、学問をしたい者たちが、東京大学以外からも集まるようになったからです。

 

 アノミーの理論展開

 

 アカデミズムの世界ではそうであっても、世間は小室を放っておきませんでした。ジャーナリズムが小室をスターに押し上げたのでした。毎日新聞は昭和四九年六月、懸賞論文「日本研究賞一九七五・日本の選択」を公募しました。入賞金目当てで応募した小室の「危機の構造―現代日本社会崩壊のモデル」が入賞した三編のうちの一つに選ばれたのです。要約すると、天皇共同体が敗戦によって崩壊して急性アノミーが生じ、高度経済成長によって村落共同体が解体して単純アノミーが発生しました。これらのアノミーは企業、官庁、学校という機能集団が共同体としての性格を帯びることで収拾されるとみられましたが、機能集団と共同体とは本来矛盾するものであるため、この矛盾が新たなアノミーを拡大再生産するのが構造的アノミーで、それが日本の危機の構造だと位置づけたのです。アカデミズムからは黙殺されましたが、日本の知識人に大きな衝撃を与えたのでした。

 私のような一般大衆まで小室の本を貪り読むようになったのは、昭和五五年八月、小室が『ソビエト帝国の崩壊』を世に問うたからです。小室は昭和三一年四月の段階で、平泉の門下生が出していた機関誌『桃李』に「スターリン批判からソ連の崩壊へ」といった論文を書いていましたが、それを学問的に見地から、より掘り下げたのでした。それで小室は世に知られるようになり、数々のベストセラーによって、日本人は何を為すべきか、何に気を付けるべきかについて、分かりやすい言葉で警鐘を乱打したのです。

 

 会津の教学を尊重

 

 思想的なバックボーンとしては、会津藩の朱子学を最終的な拠り所としたのです。私は一度だけ会津高校の同窓会に出たことがあります。小室が講演をすると聞いたからです。残念ながら、酒に酔ってべろべろになった小室は、堂々巡りをするだけで、核心部分を話すことはありませんでした。朱子学という思想が会津藩にあったことで、いかに逆賊と呼ばれようとも、激動の時代に身を処することができました。世界が混迷を深めているなかで、日本の覚悟が問題となっているにもかかわらず、全てが後手後手に回っています。とくに政治家や官僚は責任を果たしていません。最近になってようやく、小室が言いたかったことが分かるような気がしてなりません。

 今日、柳津町の花ホテルで講演をするようになったのは、小室が柳津時代に住んだ家を、たまたま花ホテルさんが購入されたので、塩田社長から声がかかったからですが、村上篤直さんの『評伝小室直樹』がなければ、話ができなかったと思います。村上さんには感謝です。





(私論.私見)