小室直樹氏の角栄論

 更新日/2022(平成31.5.1栄和元/栄和4).8.2日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、小室直樹氏の角栄論を確認しておく。

 2009.1.24日 れんだいこ拝


【小室直樹氏の角栄論】
 小室氏は、角栄批判のボルテージを上げればあげるほど正義とする立花隆的角栄論が跋扈する中、際立って角栄好評価論をぶち上げた。その論理は、立花隆的角栄論の為にする道徳的金権批判論、史実を捻じ曲げてまでの政治無能力論、司法判決事前事後のかまびすしいロッキード事件有罪論に対し、ことごとくアンチテーゼを打ち出したところに意義が認められる。それまでの渡部昇一氏らの角栄好評価論に加え、新たなイデオローグとして登場した。ここに、角栄論に於ける小室氏の歴史的意義が認められる。

 「小室直樹 に関連する記事」に、次のようなエピソードが語られている。悪意系で書かれているので、れんだいこ流に書き直す。
 「小室氏は、ロッキード事件・田中角栄被告人への求刑公判の日にテレビ出演した。その際、突然立ち上がってこぶしをふり上げ次のように発言した。『田中がこんなになったのは検察が悪いからだ。検事をぶっ殺してやりたい』。また翌日に出演した際にも次のように述べた。『政治家は賄賂を取ってもよいし、汚職をしてもよい。それで国民が豊かになればよい。政治家の道義と小市民的な道義はちがう。政治家に小市民的な道義を求めることは間違いだ。政治家は人を殺したってよい。黒田清隆は自分の奥さんを殺したって何でもなかった』」。

(私論.私見)

 実際のシチュエーションが分からないので、とりあえずそのまま確認しておくことにする。要は、小室氏が、かの時にかくまで熱く角栄を弁護したことが確認されれば良い。

 2009.1.24日 れんだいこ拝

 小室氏は、次のような著作で、角栄を歴史眼的に弁護している。「田中角栄の呪い “角栄”を殺すと,日本が死ぬ 」(光文社、1983.2.15)、「田中角栄の大反撃 盲点をついた指揮権発動の秘策」(光文社、1983.5)、 「田中角栄の遺言―官僚栄えて国滅ぶ」(クレスト社、1994.6.15)、「日本国民に告ぐ 誇りなき国家は、滅亡する」(クレスト新社、1996.12.23)、「悪の民主主義−民主主義原論−」(青春出版社、1997.11)、「日本人のための憲法原論」(集英社、2006.3)。

 小室氏は、「角栄を無罪にせよ 私の真意」の中で次のようにも述べている。
 「僕はあの時、田中角栄のような大政治家は日本に稀に見るものである。それに有罪求刑するとは何事か。俺が日本の護民官であれば、むしろ検事を電信柱に逆さ吊りしてやると言った訳です。(中略)もし角栄のことを金の面で攻撃するのであれば、もっと大きな問題で攻撃するべきじゃありませんか。(中略)そういうところをいい加減にして5億円、5億円と騒ぐな。その方がよっぽど馬鹿げている。そんな間が抜けた検事はぶっ殺してしまえという意味なんです」。

 「日本人全員必読:小室直樹氏「田中角栄の遺言、官僚栄えて国滅ぶ」 ライジング・サン(甦る日本)」より、「日本人全員必読:小室直樹氏『田中角栄の遺言、官僚栄えて国滅ぶ』」を知り、これをれんだいこ風に編集替する。原書は、「田中角栄の遺言、官僚栄えて国滅ぶ」(小室直樹著 平成六年四月、クレスト社)。
 第五章デモクラシーとは何かへプロローグ誤解だらけのデモクラシー理解デモクラシーには膨大な金がかかる。12頁

 田中角栄こそが、日本で唯一のデモクラシー政治家であった。こう述べると、意外の感に打たれる日本人は多い。しかし、これは政治システムに対する無知にもとづく。デモクラシーと言うと、多くの日本人は、完全無欠で人類が到達した最高の政治形態だと思っている。とんでもない。デモクラシーの評価については、古代ギリシャ以来、論及されてきた。古来、批判者、否定者も多い。デモクラシーの熱烈な支持者であればあるほど、その欠点に敏感である。これは剋目すべきことである。はじめに、注意しなければならない点が二つある。まず第一に、これは人間の自然状態ではなく、めったにないものだと言うこと。デモクラシーは、3000年に一度咲くと仏典に言う優曇華の花のように珍しい。今、曲がりなりにもデモクラシーらしき政治が行われている国は、アメリカ合衆国とカナダ、それから西ヨーロッパ諸国、北ヨーロッパ諸国と、日本。それ以外には、アフリカにアメリカを手本にして作った黒人国が二つか三つある程度だ。それ以外の世界のほとんどの国は、独裁か、それに近い国である。

 第二にデモクラシーとは、非常にか弱いものであること。フランス革命は、大革命をナポレオンに乗っ取られ、二月革命をナポレオン三世に乗っ取られた。されに第三共和国成立後も、もうちょっとでブーランジェに乗っ取られそうになった。デモクラシーのエッセンスを込めて作ったと言われるドイツのワイマール憲法からは、ヒトラーが出てきた。このようにデモクラシーとは、非常にか弱いもの、内に危険をはらんだものなのである。

 したがって、もしもデモクラシーを欲するならば、めったに無いか弱いものなのだから、常に守り育てていかねばならない。そうしないと、あっという間に消えてなくなる。デモクラシーが、自然現象のごとく、当然そこにあるものだという考え方は、とんでもない間違いである。戦後、日本がお手本としたアメリカの、いわゆる独立の父たちが、最も苦労したのは、この幼い共和国を、どうすればシーザーから守れるかと言うことだった。

 そのころは、ナポレオンもヒトラーも未だ出現していなかった。ボナパルティズムやファシズム、ナチズムと言う言葉は無かった。しかしながら、ワシントンは、はたまたジェファーソンはシーザーと言う例は知っていた。共和国ローマからシーザーが出てきて、独裁的政治を行った。そのシーザーは殺したけれども、アウグスチヌス皇帝になってしまった。だからアメリカ独立の父たちは、近代史の歩みの中で、これほどの経済大国になるなんて望みも考えもしておらず、ただ、ひたすらみんなが自由で、シーザーが出てこなかったらそれでよろしいと願っていた。アメリカの初代大統領ジョージ・ワシントンは、二期務めて、ぜひ三期目も大統領を頼むと請われたとき、固く辞して、その席をアダムズに譲った。アメリカ大統領の権限はきわめて大きいから、三期も大統領になるような人物が出てくれば、シーザーになる恐れがある。それは望ましくない。だから私は二期でやめる。私は百姓から大統領になったのだから、また元の百姓に戻る。さようなら、さようならと、ワシントンは帰っていったそれが前例になって、アメリカでは大統領の三選を非常に嫌う。13頁

 フランクリン・ルーズベルトの時代になって、初めて三選、四選が行われたが、そんなことがこれ以上続いては困ると言うわけで、三選禁止が合衆国憲法に入れられた。デモクラシーとは、それくらい注意深く守ってやらなければならないものなのである。また、レーガン元大統領は、スターウォーズ構想(戦略防衛構想=SDI)を膨大な金をかけてやろうとしたとき、反対する人々に「こんな計画をしてアメリカを守ると言うのは、核戦争の後でもデモクラシーが生き延びられるためだ」と説明した。核戦争のようなものすごいことが起きて、人類そのものが全滅するかもしれないような危機状態になれば、たとえ人類が生き延びようとも、デモクラシーなんていっていられるものではない。

 仕方が無いから、独裁者に後始末をやってもらうしかないと、国民は感じるに違いない。そんなことがあってはならないから、膨大な金をかけてでも、スターウォーズ構想を実行してデモクラシーを守るのだと。つまり、デモクラシーはべらぼうに金がかかる。それはデモクラシー諸国における常識である。デモクラシーを自然状態に放ったらかしておいても存続しつづけるなんて、彼らは決して考えない。まことに貴重なものだから、膨大なお金を賭けても、これを維持する値打ちはあると思っている。

 ところが日本人の考え方はまったくの逆。政治改革に関する議論は、金権政治はよくないから、金がかからない政治にしょうというのが、犯すべからざる大前提になっている。これは、実はデモクラシーの否定につながる。金をかけてでも守りたいのがデモクラシーなのに、金がかからず、腐敗、堕落さえしなければいいと言う。思い出してもみよ。大正デモクラシー(とうじ、民本主義と訳された)が、相当に発達したにもかかわらず、一気に崩れたことを。14頁

 議会の政党が、政友会も民政党も金権政党に堕落して、汚職に次ぐ汚職、国民は、これに愛想を尽かしたからだが、その直後に軍部独裁政治が始まった。すなわち、日本人には汚職をデモクラシーのコストと考えるセンスが無かった。膨大な金がかかるものだということを国民が理解しなかった。そこで軍人と右翼が暴れて、血盟団事件、それから五・十五事件、二・二六事件が起こり、ついにデモクラシー葬り去られた。ところがその後に出来たのが近衛文麿の政治であり、その後の軍人政権。今度は堕落しない。近衛文麿は、生まれながらにして天皇陛下の次に偉いのだから、悪いことをする必要が無い。その後の軍人も、イヤイヤながら首相になった。だから首相も閣僚も金に関しては清潔だった。だが、その政権が歩んだ道は、あの戦争ではなかったか。

 イサヤ・ベンダサンは「日本人は水と安全はタダだと思っている」(日本人とユダヤ人山本七平訳・角川文庫)と言ったが、日本人はデモクラシーもまたタダだと思っている。これは欧米民主主義国家においては、とんでもないこと。デモクラシーは膨大なコストをかけて購うものだ。今、マスコミの使命は、デモクラシーを水と安全みたいにタダだと思っている日本人に、そうではないのだと気付かせることにある。ところが、それを書くものは皆無に近い。つとに、上智大学の渡部昇一教授が「腐敗の時代」(文藝春秋社1975年刊)で指摘したが、金権腐敗をたたけばたたくほど、デモクラシーが逼塞し、ファシズムが台頭することに、今の未熟・未経験なマスコミ人は思いが至らない。15頁

 いや、このたび日本で国権を乗っ取っているのは、シーザーでもナポレオンでもヒトラーでもない。役人なのである。日本人がデモクラシーの本質に無知で、田中角栄を殺したために、角栄の呪いが天意か、立法も司法も行政も、日本の三権はすべて、役人が独占するところとなってしまった。下克上は日本史の通例ながら、今や、公僕変じて権力者となる。あに、偶然ならんや。しかも・・ここが致命的な点なのだが、日本人はまだ、事の重大さに気付いていない。暗愚な殿様が、シイ殺されるまで簒奪者に気付かないように。日本のマスコミは、汚職を報ずるときには、春先のどら猫のごとく喧噪をきわめる。だが、役人の横暴を伝える段になると、監督官庁を恐れるあまり、われ関せず焉。政治家がことごとく官僚の傀儡と成り果てた事実を白日の下に晒しても、風する馬牛も相及ばずで、関心を示さない。官僚による政治がいかに恐ろしいか。その解明が本書の主テーマの一つである。16頁

 政治家の最大の任務は何か

 角栄は、しゅうふくせしめ、自由自在に駆使した。角栄ありてデモクラシーあり。角栄死してデモクラシー亡ぶ。デモクラシーが機能しえるための第一の条件は何か。議会における自由な言論である。自由な討論によって国策が決定されることである。18頁

 角栄死して自由な(討論)が議会に滅びてすでに久しい。大臣・議員の発言は、ことごとく役人の口うつし。自らの自由な意思は、そこにない。この秋にあたり、言論(討論)の自由の意味を理解するより急なるはない。著者は、古今東西の史実を博引傍証して、このことを立証しようとした。たとえば、尾崎ガクドウ(行雄)、犬養木堂(毅)、浜田国松、斎藤隆夫らの帝国議会における演説。現在の日本国会における演説とくらべてみよ。藩閥全盛の日において、言論が逼塞した戦中、戦前の「暗き谷間」の日々において、デモクラシー(民本主義)は、今日よりはるかに健全に機能していたではないか。討論こそ議会政治のエッセンス。角栄はこの真髄を理解し、体得し、実践した。しかし、角栄以外の政治家は、そうではなかった。討論は、まもなく、日本の議会から蒸発し、有名無実なものと成り果てた(昭和30年の国会法第5次改正)。皮肉なことに、いや、当然のことに、所謂五五年体制の発足と共に、デモクラシーは日本から去ったのであった。このように、議会は自由な言論(討論)を見棄てたが、角栄は見棄てなかった。自由な討論を通じて、次々と重要な国策を決定し、実行した。国土総合開発、住宅政策、道路の整備、郵政の活性化、開放経済に基礎づくり・・と、重要政策は、角栄の帷幄(総司令部)の中に運らされ、彼の雄弁広辞によって法制化され実現された。これらの活躍によって、一介の匹夫より身を起こした角栄は、コウリョウ(小さな竜)昇天し、三十九歳で戦後最年少の大臣となった。

 ちなみに、内閣制度始まって以来、三〇代で大臣となったのは角栄と森有礼の二人だけである。その後、自民党政調会長(昭和三十六年。四三歳)、大蔵大臣(同三十七年。四十四才最年少)、自民党幹事長(同四十年。四十七歳)と、議会の階段を駆け上って行く。小学校卒業で、何のバックもない田中角栄が。急上昇の理由は、抜群の政治手腕もあるが、議会における大活躍が、万人を、世論を納得させたからである。議員立法といえば角栄、角栄と言えば議員立法。この言葉が人口に膾炙したほど角栄は議員立法の権化であった。角栄は陣笠時代(昭和20年台)、八年間に、なんと二六件もの議員立法に提案者として参画した。我が国の議会史に例を見ない。田中角栄が初当選したのが昭和二十二年。早くも二十五年には国土総合開発法を作った。次いで、電源開発促進法・・抜く手も見せぬ議員立法。日本の進路を決める重要な法律が三十代の代議士の手によって陸続と作られていった。田中角栄は、討論によって議会を制し、議員立法によって日本再建を推進していった。それとともに、角栄の地位も右のように鰻上り。これぞ立憲政治。これぞデモクラシー。議院内の活動こそ、議員評価の最大の基準である。選挙民もこれをもって議員を評価し、院内の地位も、これによって定まる。19頁
 こうこなくては、議会政治は作動しない。デモクラシーは機能しない。人々は今太閤・角栄に出世をサンギョウして問う。何故に角栄は、かくも立身し得たるや、と。著者答えて曰く。デモクラシーが健全に作動したればなり、と。今では、角栄的出世は、まったく不可能である。若くして初当選し、当選を重ねて年功を積み重ねるのは、ニ世議員、三世議員であって、門閥なき角栄的人物の出る幕は、きわめて乏しくなりきたった。昭和三十年、国会法第七八条が「実益のない制度として削除され」て以来78ページ参照)、自由討議の機能は国会で永遠に失われた。討議による議員立法は角栄より後、漸次、零に収束していった。今や、議員も政府も、その発言たるや、官僚が書いた原稿の棒読みとなった。「討議」は、官僚作のシナリオどおりに演じられるだけ。形式化した議長発言までが官僚の原稿どおり。このたびの平成大不況の風は、九一年夏の終わり頃から吹き始めた。もしやバブルが萎みはじめて不況がくるのでは。人々は、政府の正しい予測に聞き耳を立てた。実地の人びとの危惧を尻目に、政府の役人は平気の平左。これは不況なんかではない、国民よ安心せよ。当時の経済企画庁長官・某代議士の発言・・「景気は穏やかに減速しつつ、引き続き拡大している」は、今に伝えられる歴史的迷言。その後の景気の行く末は、ご存知のとおり。その後の役人の景気予測は、これもご存知のとおり。外れて外れて、外れまくった。20頁
 これほどまでに外れまくった景気予測。国民に大迷惑をかけた責任の追及は・・すべての鉾先は、役人に向けられたのだった。すなわち、政府の景気予測の発表者、経済企画庁長官某代議士を批判したものは誰もいなかった。すべての批難と責任追及は、吉冨勝氏(下経済企画庁研究所所長)に集中した。どうせ大臣・代議士の発言なんか、役人の口移し。傀儡を攻撃してもはじまらない。責任は傀儡師にあり。人びとはみんな、こう思ったからであった。例は一つで充分だろう。責任のない木偶の業績は、評価のしようもあるまい。かくて、議院内討論を通じての議員活動は、評価の対象でさえなくなった。議員が無気力、無能力な投票機械に堕したのでは、権力が議会を去るのは当然ではないか。あたかも、頼山陽が論じているごとく、平安末期以降、権力が朝廷を去ったように。欧米のデモクラシー期における議会と比較しても見よ。
 チャーチルは、大学へも行けない劣等生であり、はぐれ青年であった。それなのに、ひとたび議会に入るや、メキメキと頭角を現し、あっという間に大臣となった。さらに、ひとたび大臣となるや、たちまち彼の真価は発揮され、スウヨウナ大臣を歴任し、四十歳そこそこで副総理(英国では大蔵大臣)になった。めくるめくスピード出世の理由は、彼の雄弁にあった。と言っても海部(元総理)流に「弁が立つ」と言うのではない。政府に対する質問が的を射、含意が深かったからである。21頁
 大臣になって以後は、答弁が適切で、識見が高い政策が、有効であることが立証されたからである。では、英国最大の首相と評されるディズレーリの場合は、どうか。門閥全盛の階級・階層社会、英国において、まったくの門地を欠き、当時、被差別はなはだしきユダヤ人出身の彼が、何故に首相までのぼりつめ得たのか。議会における雄弁である。雄弁によって大英帝国を獲らしめたところに、極盛期英国立憲政治の真骨頂を見る思いがするではないか。これによりこれをみるに、議会における言論の意義、角栄の偉業、かくぜんとしてくるであろう。本書は、古今東西の歴史に懲して、言論の自由こそデモクラシー、立憲政治の要諦である。このことを徹底的に論ずることからはじめる。次に役人が政治を操るということの恐ろしさ。このことは、冒頭でも述べたように、軍人官僚が日本を誤らせたことによっても推察されると思うが、最も決定的で重要な点は何か。役人は、与えられた状況の下において、与えられた法の下においてしか行動が出来ないことである。換言すれば、与えられた運命に完全服従すると言う、どうしょうもない性質を持っている。ところが、政治家として一番大切なものは、運命をいかに駆使するのかと言うこと。予測することの出来ない激変に、いかに対処するかである。このことこそ、マキャヴェッリが最も強調することであるから、マキャヴェッリを想起しつつ、その範例としてナポレオンについて観察することにした。22頁
 運命を駆使し、国民生活を安定させること。これが、政治家の最大の任務である。それはマキャヴェッリや、中国で言えば法家の思想であると言われるかもしれない。だが、必ずしもそうではない。孔子、孟子をはじめ、日本人が大好きな儒教の思想においても、政治家にとって一番大切なことは、国民生活を安定させて、国民に秩序を与えることにある。このように考えきたれば、角栄の功績がいかに大きく、その功罪の「罪」は、「功」に比べれば比較にならないくらい小さいものであることに、思いが至る。23頁

 日本のデモクラシーの死

 最後に、戦後最大の政治家・田中角栄を葬った、あの暗黒裁判を分析し、日本の裁判制度がいかにデモクラシー裁判とかけ離れたものであるかを証明する。デモクラシー裁判においては、状況証拠がいかに揃おうと、確定的証拠がなければ、絶対に無罪である。デモクラシー裁判の最大の目的は、国家と言う巨大な絶対権力から国民の権利を守ることにあり、裁判とは検事に対する裁判である。検事は行政権力の代理者であって、強大この上なき絶対権力を背景にしている。だから、検事が持ち出す証拠のうち一点でも疑問があれば、これは無罪。たとえ、仮に証拠そのものが確実であったとしても、書庫を集める方法において少しでも法的欠点があれば、これも無罪。これが、デモクラシー裁判の考え方である。そうしなければ、もう恐ろしいことに限りない。国家権力から国民を守りきれないではないか。にもかかわらず、田中角栄はロッキード裁判の一審、二審において、刑事免責されたコーチャン証言を根拠に、しかも反対順門の機会を与えられずに有罪とされた。これがデモクラシーの死を意味することを、日本国民は知らなければならない。

 プロローグ 誤解だらけのデモクラシー理解第五章、デモクラシーとは何か、果たして「国民主権」が守られているのか(一)  民主主義と自由主義の正体とは

 デモクラシーと独裁制は矛盾しない

 戦後日本のデモクラシーの中で、角栄唯一人が偉大な立憲政治家であると繰り返し述べてきた。これは今、初めて欠くことではない。10年以上も前から、私は機会あるごとに声を大にしてきたのだ。にもかかわらず、大多数の国民、ジャーナリズムは、角栄への評価を改めず、刑事被告人としてのみ扱った。そして角栄は見殺しにされ、本当にあの世いってしまった。なぜ、これほどまでの錯誤がまかり通りつづけるのか。私は不思議でしょうがない。そして、一つの結論を得た。

 日本のジャーナリズムおよび大多数の国民は、デモクラシーとは何かを理解していない。そうとしか考えられないのだ。そもそも、デモクラシーとは何かがわかっていなければ、角栄の評価など定まりようがないのである。デモクラシーとは何か、「民主主義だ」と言うのは答えにならない。訳しただけだ。質問を変えよう。デモクラシーの反対は何か。多く日本人は、この質問に「独裁主義」なんて答える。とんでもない。民主主義独裁と言うことだってある。これはギリシャやローマの政治学者が充分に研究したことで、いちばん簡単なのは、委任独裁と言う形態。

 国が危急存亡の危機に陥ったとき、有能な人に独裁権を与えて、国を救ってもらおう。これで、ローマでもギリシャ諸国でもずいぶん危機を脱している。そして、委任独裁はデモクラシーと矛盾しないと言うのが、政治学者の結論。最近の例としては、ヒトラー。彼が天下を取ったころ、欧米諸国ではヒトラーのやっていることはデモクラシーではないと批難した。けれども、ドイツの学者は、これだって立派なデモクラシーだと反論した。ドイツの総意によって、ヒトラーは独裁権を握ったんだ。そのたびに国民投票を行っているではないかと。ヒトラーがドイツの首相に任命されたのは、1933年の1月30日。同じ年の三月には全権委任法が成立した。だから、全権委任法ができるまでは、ヒトラーは単なる首相に過ぎなかったが、全権委任法が出来て独裁的権力を掌握した。この全権委任法は出来た当時、四年間の時限立法であった。だから、少なくともその四年間は委任独裁と言える。デモクラシーであると同時に独裁と言うこともあり得るのであって、デモクラシーの反対が独裁であるとはいえない。191頁

 デモクラシーの反対はシオクラシー

 日本人はきちんと教えられていないから、非常に大切な概念を、印象だけで分かったつもりになっている。中にはデモクラシーの反対は「軍国主義」なんていう人もいる。デモクラシーには、平和主義のデモクラシーもあれば、軍国主義のデモクラシーだってある。スパルタなどは典型的な軍国主義のデモクラシー。スパルタには王様が二人いたけれども、最高の決定権をもっていたのは国民議会だから、一種のデモクラシーだった。しかし、軍国主義だった。

 逆に極端な平和主義でも、デモクラシーとはまったく関係ない場合もある。たとえば平安時代日本。デモクラシーと言う考え方からすれば、全然デモクラシーでもなんでもない。特権的な貴族政治である。しかし、あれほど平和な国もなかった。平和主義をもっと狭く解釈して、戦争しないと言うことだけが平和主義だとすれば、徳川時代だって200年以上も戦争をしなかったから、立派な平和主義といえる。しかし、デモクラシーではない。これらの諸例でも分かるように、軍国主義あるいは平和主義とデモクラシーは、何の関係もない。語源的にデモクラシーの反対は何かと言うと、シオクラシー。神聖政治である。「デモ」と言うのは人という意味だから、極端に言えば、神様が政治と関係なくて、人間が行う政治であれば、専制王制であろうと貴族政治であろうと、それから民主政治であろうと、みんなデモクラシー。その反対が、シオクラシー。シオクラシーの例を挙げれば、独立をしていたころのユダヤ人。古代ユダヤのソロモン王とか、ダビデ王の時代は、王様が大きな権力を持っていたけれども、根本的にはシオクラシーである。なぜかといえば、どんな専制国王だって、預言者に叱られれば縮み上がった。ダビデ大王が、忠勇なる兵士ウリアを殺し、彼の美しい妻バスシェバを奪った。すると、太刀預言者ナタンが現れて、ダビデ大王を叱り付けていった。192頁

 古代ユダヤにおいては、根本的にシオクラシーであるのに、それをきちんと守らなったからうまく行かなくなったと言うのが、旧約聖書のテーマになっている。つまり、シオクラシーとは、神様の言ったとおりにやると言う政治。政治は何もかも神が定めた法律、規範、戒律に従って行え。実際の政治を担う人びとは、神の法律を最も体得した法律家が相談して政治を行うべし。これがシオクラシー。典型的なものがイスラム・ファンダメンタリズム。ユダヤ教も同様。シオクラシーとは神が行う政治。それに対して人間だけで行う政治がデモクラシー。だから、専制性君主制であろうが貴族制であろうが、この意味ではみんなデモクラシーに入る。193頁

 デモクラシーとは、本来、暴民政治

 ところが、そんなに広い概念で使っていたら、現代においてほとんど意味がない。もう少し現在のデモクラシーと関連があるところからアプローチすると、それは古代ギリシャの政治思想。そんな昔のことと言っては行けない。プロローグでも述べたようにアメリカの独立宣言は、「この幼い共和国をシーザーから守ること」を重視した。ギリシャにおける共和国を手本にして作ったのである。それほどまでにギリシャの政治思想の影響は大きかった。すなわち、政治学は古代ギリシャから始まる。古代ギリシャは経済学、心理学などの近代社会科学においてはあまり重要ではないが、政治学においては今でも決定的な重要性を持つ。

 なぜ、そうなったか。古代ギリシャでは、小さなポリス(都市国家)が並立していた。君主制、帰属性、それから共和制、そういういろいろな政体が起きたり滅びたり、滅びたり起きたりしていた。だから、いろいろな政治の制度が比較が簡単に出来たのである。さて、古代ギリシャにおいてデモクラシーと言う言葉は、どのように使われていたか。古代ギリシャの諸国に対して、プラトンもアリストテレスも君主制、貴族性、共和制を比べて、それぞれの良い点と悪い点を挙げ、比較して論じている。ところが、共和制が最高だ、とはいっていない。それぞれ良いところもあるし悪いところもあるとして、その各々について理想的な形態と堕落した形態を挙げている。そして、共和制の最も堕落した形態がデモクラシー。デモクラシーと言う言葉は、暴民政治という意味であった。プラトンが理想とした政治形態は、哲人王による支配。非常に偉い哲学者が王様になって、それを哲学者と軍人と労働者が補佐して理想的な王国を作る。このために哲人王の下の哲学者が最高。その次が軍人。その次が労働者。その国の人口はどのくらいかと言うと大体5000人。プラトン派理想的な国家は、そのくらいの大きさでないと到底できないと考えた。そこで国を政体によって分類するのだが(これがプラトンの政体論)、支配者が一人である場合、これをモナルケアという。単独支配。良い政治と悪い政治はどうかというと、法を守る政治が良い政治。法を守らない政治が悪い政治。単独支配でよい政治を王制と言う。そして、単独の支配者が法を守らず、悪い独裁者になってしまった場合には、これを僭主制という。タイラントである。 194頁
 第二の政治形態としては複数支配。よい複数支配のことを貴族制、アリストクラシー。悪い複数支配のことをオリガーキー。あえて訳せば寡占支配。それから多数者支配。これをデモクラティアと言うが、プラントンはこれに対して何と言ったか。「デモクラティアにしてみたら、到底法律は守らないだろう。だから多数者支配は暴民政治になってしまう」。ところが、大変面白いことに、それだけでは終わらない。多数支配の暴民政治は法を守らない支配ではあるけれども、法をどうせ守らないのであれば、デモクラティアのほうが寡占支配のオリガーキーや、一人の独裁者、タイラントの支配よりは、はるかにいいと述べている。そして、具体的にいろいろな例を挙げて一人の支配、少数支配、多数支配の利害得失、それを比較研究している。いずれにせよ重要なことは、古代ギリシャの思想において、政治は理想を実現するプロセスであって、理想を実現しているのがよい政治。理想の実現をしそこなったのが悪い政治、そうとらえていることである。その中で、デモクラシーとは暴民政治であり、評価から言えばマイナス・イメージであった。この考え方はヘレニズム、ローマ、中世とずっと続いている。たとえばドイツの社会民主党、ゾーシャル・デモクラット。どういう感覚でデモクラットと言う言葉を使ったのかと言うと、半分皮肉。そのころ労働者階級は蔑まれていた。過激な共産主義者にスパルタクス団なんていうのがあったが、蔑まれていたのを逆手にとって、どうせ俺たちはスパルタクス(決闘者奴隷)だと開き直った。196頁

 これと同じニュアンスでゾーシャル・デモクラットと言う言葉を使った。どうせ俺たちは暴民だと。こうしたマイナス・シンボルであったデモクラシーがプラス・シンボル変わったのは、ずっと後。1918年、アメリカの大統領・ウィルソンが第一次世界大戦でドイツに宣戦布告したときに使った「世界をデモクラシーによって、住みやすい場所にするために」と言う言葉からである。このときからデモクラシーと言う言葉がプラス・シンボルになって、今のような意味になったわけだ。196頁02

 自由主義とは、政治権力から国民の権利を守ること

 では、それまで今のデモクラシーの元祖にあたるようなものを、何と言う言葉で呼んでいたのかと言うと、リベラル、自由主義。すると、自由主義が発展して近代デモクラシーになったのかと言うと、そういうわけでもない。リベラルとデモクラシー。自由主義と民主主義というのは戦後の日本にとっては似たようなものだが、歴史的には全然その意味が違う。これについては、フランシス・フクヤマ氏が書いた「歴史の終わり」で繰り返し述べられている。フクヤマ氏が述べていることを一言で要約すると、「自由主義とは、政治の権力から国民の権利を守ること。民主主義とは政治権力に国民が参加すること」。この二つはぜんぜん違うことである。そんな例を、フクヤマ氏はいくつも挙げている。英国における自由主義の発展は、前に述べたとおり清教徒革命(1640〜60年)。清教徒革命の発端は違法な税金を国民に課そうとしたことから起こった。以来、国王と言う絶対権力から国民の権利を守ること、それが何回も何回も、押しつ戻しつ戦われたのである。198頁

 大事なのは、この時代は絶対主義の時代であったと言うこと。すなわち国王の権力は絶対だと思われていた。どんな時代であったかと言うと、「王は、その領国内において、神が宇宙において自由であるがごとくに自由である」(ホップス)。絶対君主は、方からも自由である。自分が作った法律、昔からあった法律を自由に蹂躙してもよろしい。大諸侯や臣下の抵抗権からも自由である。教会から大学などの不入権、ギルトなどの特許などにも束縛されない。自由に臣下の生命、財産を奪ってもよろしい。これが絶対君主である。これほど恐ろしいものはない。とても、前近代的専制君主などの比ではない。前近代的専制君主は、その権力がいかに大きくても、伝統主義的諸制約にがんじがらめにされて、そこから抜け出すことなんか思いも及ばない。

 それほどまでに、封建的権利は不抜であった。近代絶対主義の成立過程は、王権と諸特権との抗争であるといわれる。中世においては多くの制約があった王の大権が、諸特権を打破いて絶対性を獲得してゆく過程。これが、近代絶対主義の成立過程である。近代絶対主義は恐ろしい。ホップスはこれを「リヴイアサン」と呼んだ。リヴイアサンとは聖書に出てくる怪獣である。絶対主義は、リヴイアサンよりも、ゴジラよりも、いかなる怪獣よりもはるかに恐ろしい。何しろ、主権を有する領国内では、どんなことでも出来るのだ。どんなことをしても、それが正当なのである。199頁

 絶対君主は怪獣よりも恐ろしい

 英国は、フランスやスペインとは違って、絶対主義が法制化されることはなかったが、チューダー王朝(1485〜1603年。ヘンリー七世、ヘンリー八世、エドワード六世、メアリー一世、エリザベス一世)は、実質的に絶対主義であった。議会は余喘を保ち、封建的諸特権は法律上は生きていたが、王の大権は、全盛時代のルイ十四世(フランス王、在位1643〜1715年)のそれと、ほとんど同様であった。議会は王権に隷属し、たまに口中でモグモグと不平をつぶやくのがせいぜいであった。フランスの三部会などとは違って存続はしているのだが、王権に抵抗するなんてとんでもない。チューダー王朝の諸王は、自由に人を殺し、財産を奪った。この点、ロマノフ家、ブルボン家などの絶対主義諸王朝と同様。

 だから、絶対主義がどれほど恐ろしい怪獣であるかを知るためには、チューダー諸王の所業に一瞥を投じただけで充分であろう。ヘンリー七世は、貴族を殺すわ殺すわ。蝿や蚊でも叩き潰すように貴族、とくに大貴族を殺した。自分の出生が卑しいものだから、チューダー家より家柄のよい貴族をみなごろしにするのが目的であった、なんて言われている。ヘンリー八世は、王妃殺しで有名である。アン・ブーリン・ジェイン・セイモアはじめ、六人もの王妃を殺したり追放したり。王妃の扱いすらかくのごとし。いわんや、一般臣下の扱いにおいてや。教会領は片っ端から没収するし、人民を蝿のように殺した。

 つぎのエドワード六世は、マーク・トウェインの「王子と乞食」のモデルになっている王様である。幼くして即位し、まもなく死んだので、人を殺しているいとまがなかった。そのつぎのメアリー一世は、「ブラッディー・メアリーと、」今になお残す。カクテルにも彼女の名があるので有名。血なまぐさきメアリーの名で呼ばれるほどなのだから、いかに多くの人を殺したか、説明の必要もあるまい。メアリー一世は熱烈なカトリック教徒であるのに、当時のイングランドでは、カルヴァニズムはじめ激烈な禁欲的プロテスタンティズムが、澎湃としてみなぎってきた。のちのクロムウェルも、この禁欲的プロテスタンティズムに掉さすものである。敬虔なるカトリック教徒メアリー一世にとって、プロテスタント、ことにカルヴァン派などの禁欲的プロテスタントは許すべからず存在である。彼らを生かしておいたのでは神様に申し訳ない。こう思い定めたメアリー一世は、プロテスタントを殺して殺して殺しまくった。あまりにたくさん殺しまくったので、血なまぐさきメアリーと言う渾名が奉られて今に残る。メアリー一世が、どこまで大殺戮の手を伸ばしたか。彼女の殺しの手は、ついに、王太妹エリザベスにまで及んだ。エリザベスは、英国国教派(プロテスタントの一種)であるゆえをもって、姉のメアリー女王の命によって捕らえられて、ロンドン塔に幽閉された。斬首刑を待つばかりであった。このときもし、エリザベスが斬首されていたならば、チューダー王朝はこのとき断絶し、スコットランドのメアリー・スチュアートが次ぐほかなかったであろう。ちなみに、メアリー・スチュアートはカトリック。100頁

 ここで注目すべきことは、法律(自分で作った法律も古来の法律も)を自由に蹂躙することが出来る絶対君主と言えども、王位継承の順位を変えることは出来ないのである。もしメアリー・スチュアートが王位を継承していたら・・。面白い歴史シミュレーションであろう。このとき早くも、イングランドとスコットランドの統合がなされていたであろう。ご存知、「メアリー・スチュアートの悲劇」はなかったであろうし、そうなっていれば英文学は、多くの作品を失っていたことだろう。が、そうはならなかった。運命は、エリザベスに忠実であった。エリザベスが、斬首は避け得まいと覚悟していたとき、メアリー女王のほうが急死した。王太妹エリザベスは、晴れてロンドン塔を出た。人民はいっせいに、エリザベス万歳。エリザベスは、めでたく即位してイングランド女王となった。その後の経緯については、教科書やら何やらで周知のとおり。202頁

 英国における自由主義の完成

 それにしても、チューダー王朝の歴史に一瞥を投じただけでも、絶対主義とはいかに恐ろしいものか、お分かりのことと思う。王様がが、いったんこうと決めたが最後、人民を殺すのは自由自在。財産を没収するくらい朝飯前なのである。

 その国王の権力から国民の権利を守ると言うプロセスが、どういう形で現れたのか。欧米人が考える場合、権利の中で最も大事なのは財産権だ。だから、王様は勝手に税金を取るわけにはいかないようにすべし。これが第一。その次には、王様が勝手に法律を作ることは出来なくしよう。その歯止めとして作ったのが議会。だから、近代が生まれることによって、議会の機能が根本的に変わったのである。中世における議会の機能は裁判所である。ユダヤのサンヘドリン(宗教議会)と同じ。英国でも、ずっとスターチェーンバー(星法院)なんていのうのが続いていたのは、その名残。つまり、近代自由主義の発端は、国王とも言えども議会を通さなければ税金を課すことができない、法律を作ることが出来ないと言うこと。これがリベラリズム、つまり自由主義の第一歩である。税金をめぐる闘争から清教徒革命(一六四〇〜六〇年)が起きた。それでも、王が絶対権力を持っていると言うのが根本的基調だから、王の絶対権力を少しでも制限しよう、らには議会に王を取り替える機能を与えよ、それが名誉革命で、近代自由主義の第二段階。名誉革命(一六八八年)によってジェームズ二世を追い払い、オランダからウィリアムとメアリーを呼んできた。これは議会が王を取り替えたと言うことで、画期的な自由主義の成果。しかし、それでもまだ王の権力と言うのは大きく、行政権は非常に大きな影響力を及ぼしていた。約五十年後のアン女王(在位一七〇二〜十三年)の時代においても、まだまだ王や女王の権力が残っていた。203
 どういうことかというと、議会や内閣が定めたことに対して拒否権の発動が出来た。拒否権の発動が出来ると言うことは、権力が残っていると言うこと。国連の常任理事国だって、拒否権があるからあんなに権力がつよいのであって、拒否権は決定的。アン女王が一七〇七年に拒否権を発動したのが最後で、以後、発動されなかったのだが、それがたまたま拒否権を発動しないのか、拒否権がなくなったのか、イギリスは慣習法だから、それを見極めるのは難しい。それがほとんど決定的になったのは、ジョージ一世(在位一七一四〜二七年)のころ。なぜ確定的になったかと言うと、ジョージ一世の時から王様が閣議に出席しなくなった。アン女王までは、王様が閣議に出席していた。閣議に出席していれば、たとえ拒否権を行使しなくても、影響力はある。王様と家来なのだから、家来たちはなんとなく王様に遠慮しなくてはならない。だから、完全に統治権が内閣に移ったとも言えないわけだ。ところが、ジョージ一世から閣議に出席しなくなった。その理由がまた面白い。ジョージ一世はハノーヴァーと言う小さな国の王様だった。それが何で英国につれてこられたかと言うと、アン女王に子供がなくて、彼女と最も血縁的に近いと言うのが一つの理由。もう一つの理由は、ジョージ一世が強かったから。彼はハノーヴァーの王様だった頃、ゲオルグ五世という名だった。一六八三年のトルコ軍によるウィーン包囲のときに助太刀に駆けつけたのが、一人がプリンツオイゲンで、もう一人がゲオルグ五世。204頁
 この二人が猛烈に暴れて、トルコ軍の包囲を蹴破ってしまった。そんな強い人物だったので、呼ばれて英国の王様になった。ところが、彼はもともと非常に専制的で、ハノーヴァー王の時に言論の大弾圧やって有名になった人物。ハノーヴァーの大学の教授が王様のちょっとでも気に入らないことを言うと、みんなグビにした。それくらい専制的だったのだが、英国のために非常に幸いだったことに、英語が一言も喋れなかった。英国に来たときには五十五歳で、新しい語学やるのはちょっと困難。英国の臣下たちとはラテン語で喋っていた。しかもこの人、戦争に強いだけが取柄で、ほとんど教養がなかった。「えいっ、面倒くさい」と言うことで、閣議に出席しなくなった。ジョージ一世は、英語がまったく出来ないのに、なぜイギリスの王様になったのかと言うと、ハノーヴァー王の手当てよりもイギリス王の手当てのほうが多いから。英国王の手当てはハノーヴァー王の何十倍だった。こういう理由で英国王になったので、天気が悪くて寒いイギリスに滅多におらず、しょっちゅうハノーヴァーに帰っていた。言葉が通じない上に、ほとんどいないのでは、どんな専制的な人だって専制政治の行いようがない。それで、大臣が勝手に政治をやっていた。すなわちジョージ一世、総理大臣はウォルポールの時代に、国王は閣議に出席しなくなり、完全に国王の権力は有名無実になった。これによって十八世紀の半ば頃までには、イギリスの自由主義、リベラリズムは完成をみたのである。205頁

 デモクラシーでは英国よりアメリカが先輩

 一方、デモクラシーのほうはどうであったかというと、リベラリズムの完成した十八世紀の半ば頃には、デモクラシーなんて影も形もなかった。と言うのは、第一章で述べたように一八三二年の第一次選挙法改正までは、なんと四〇〇年近くの前の一四五三年に出来た選挙法がそのまま通用していたのだ。一四五三年とは、マホメッド二世がコンスタンチノーブルを落とした年である。その頃の英国は、田舎の小さな国だった。国民所得は、ベネチアやフローレンスなどの一つの市の収入の何分の一くらいしかなかった。ところが、十八世紀の半ばの英国は、経済超大国。そんな昔に出来た選挙区が、英国が超経済大国になってもそのままだった。だから一方に、昔は人が住んでいたけれども、もうほとんど人が住まないような選挙区あり。他方に、昔はほとんど人がいなかったけれども、すでに大きな都市、たとえばバーミンガムとかマンチェスターと言った大都市になっているのに選挙権のない人ばかりというところあり。そういう状態がずっと続いていた。だから、一つの選挙区の選挙民は、二〜3にんから五十〜六十人くらい。つまりロトゥン・バラー=腐朽選挙である。それでは、選挙は簡単かというと、そうでもない。と言うのは、その頃の英国には、巨大貴族がうようよといた。そんな選挙区を大きな貴族が所有しているのだ。だから、誰を下院の代議士にするのかは、大貴族の意のまま。このために、ロトゥン・バラーはまたポケット・バラーともいった。206頁

 要するに、初期の英国の立憲政治を奇妙なもので、下院に主権があるのに、その下院議員というのは八〇家族ぐらいの大貴族がパケット・バラーで勝手に決めていた。一応、選挙はやるけれども、実質的には任命だ。こんな状態だったが、ようやくデモクラシーに対して歩み始めたのは、一八三二年の選挙法改正。その後何回も選挙法の改正は行われ、英国が完全にデモクラシー、つまり政治権力に国民が参加できる国になったのは二十世紀に入ってからだった。では、アメリカではどうかというと、デモクラシーの発展に関しては、英国よりもずっと早かった。アメリカの独立は一七七六年。その前のアメリカはコロニーだった。これを植民地と訳すのは誤訳。英国はいろいろな国を侵略して植民地を作ったが、アジア、アフリカにおける植民地と北米におけるコロニーとでは性格が違う。北米には流れ者も行ったが、まともな英国人もずいぶん行った。だから、そのような人びとが本国の英国を理想としてコロニーを作った。すなわちコロニーは植民地ではなく、後に州になるようなものだから「州の卵」とでも訳したほうが言い。コロニーを治めていたのがガバナー。この場合のガバナーは、王の代理人だから統治者。英語では、ガバナーと言うのはプレジデントよりよっぽど偉そうに響く。ガバナーは統治者だし、プレジデントは議長。しかし、ガバナーが専制政治を敷けたかというとそうではなくて、法律は議会を通さなくてはならない。税金を取るときにも議会を通さなくてはならない。つまり、英国の自由主義を模範にした。ところが、決定的に違う点には、コングレス(コロニーの議会)と言うのはコロニーの人びとの選挙によって議員が決まる。207頁
 一七七六年の独立以前からそうだった。つまり、英国でロトゥン・バラーとがはびこっていた頃、アメリカでは、すでに人民の選挙によって議員が選ばれていた。民主主義ではアメリカのほうがはるかに進んでいたのである。

 アメリカ独立戦争の本当の意味

 そこに起こったのがアメリカ独立戦争。本国の英国が茶税を課したので、怒ったボストン市民が暴れて独立戦争になったと言われている。ところが、それでは説明が充分ではない。税金を課したから怒ったのではなく、税金の課し方が問題だった。そのころ英国の王様はジョージ三世。総理大臣は、フレデリック・ノース。当時、北米の英国コロニーは、カナダのフランス・コロニーと戦争ばかりしていた。世界各地でフランスのほうが旗色が悪かったが、北米大陸においては互角に戦っていた。そこで英国本国は、たびたび助太刀をしてフランス植民地をやっつけていた。その費用が膨大になった。そこで、英国はコロニーから税金を取って戦費を賄おうと考えた。茶条例である。本国が助けてやったところのコストぐらい負担せよ、と言うわけだ。これを、コロニーの議会を通せばよかったのに、どうせお前らのためにやったんだからコストぐらい出せと言うわけで、コロニー議会を通さずに税金をかけてしまった。そこで、コロニーの人びとはモーレツに怒った。208頁

 英本国の首相ノース卿は、これはいけないというわけで、その代わり今まであったいろいろな税率を下げたので、かえって負担は安くなった。ところが、意気盛んなコロニーの人びとは、おさまらない。金が問題じゃない。原則が問題だ。俺たちの代表である議会を通さないで税金を課した、それが問題だ。そこで有名な言葉「ノー・リプリゼンテーション・ノー・タックス」・・「代表なくして課税なし」が誕生した。つまり、本国の英国よりも先に、アメリカではすでに自由主義と民主主義が結合していたと言うことだ。税は議会を通さなければ課せられない。これは英国においてもずっと前からそうだったが、そのころの英国の議会は国民の代表ではなかったのだ。ところが、アメリカではすでに国民の代表たる議会が会った。権力への住民の参加、デモクラシーと言う意味ではアメリカのほうが進んでいたのである。それから独立戦争になり、ついにアメリカが独立した。これで自由主義と民主主義が一本になったのである。以上が根本的な自由主義と民主主義の発展経緯であった。210頁

 近代デモクラシーは絶対主義の所産

 ヨーロッパでも、このような動きがどんどん広まっていったが、やはり絶対権力はひじょうに強いものであって、絶対権力に対して個人の権利を守ることも大変、個人が権力に参加することもまた大変だった。そして二十世紀に名って、ようやく自由主義と民主主義が結合して近代デモクラシーが確立したのである。

 ここできわめて重要なことは、近代デモクラシーといえども、絶対主義の所産であると言うことだ。「絶対主義」と言えば、誰しも絶対君主を連想する。絶対君主は、確かに絶対主義の所産である。が、絶対主義をふりかざすのは、絶対君主だけではない。近代国家においては、「主権は絶対である」と言われるように、近代国家は、デモクラシー国家であろうがなんであろうが、すべて、絶対主義の所産である。と言うことは、伝統主義の束縛から自由であると言うことである。自由に、国内における諸特権を否定することが出来ると言うことである。たとえば、主権国家は自由に課税することが出来る。自由に徴兵することが出来る。財産権、生命権は、最も根本的な権利である。それらの諸権利といえども、適法な手続きに依れば、これを押し切ることが出来る。自由に課税し、自由に徴兵することが出来る。

 このようなことは、前近代国家においては考えられない。財産権は、固有の伝統主義的特権であるから、当該財産の所有者の同意がなければ、税を課すことは出来ないのである。徴兵についても同様。マキャヴェッリは、つとに徴兵を主張していたが、前近代的兵制のほとんどは傭兵であった。課税、徴兵以外の諸項目についても同様。すなわち、王でも誰でも伝統主義的諸権利の総てについて、当該特権に関して、拒否権を有していたのである。こうなると、国会決議も、満場一致でないと成立しないことになる。たとえば、最重要国事事項たる課税。一人でも反対すれば、この人の財産権を侵すことになるから、課税することは出来ない。211頁

 すなわち、一人でも反対すれば、税法を改正して新税制を作ることが出来ないのである。このように、前近代的伝統主義社会においては、国家権力の侵犯に対して、個人の諸権利は、がっちりと守られていたのであった。しかし、このような制度は、静謐な中世社会ならばともかく、不断に状況が変化する近代社会には不向きである。実に、「変化する状況への適応能力」こそ、君主の徳(ヴィルトウ)ではないか。

 たとえば、ポーランド議会は、近代に入るや、たちまち機能不全に陥ってしまった。議会の決議が満場一致を要すると言うのであれば、「変化する状況への適応」は不可能ではないか。ポーランド王は、マキャヴェッリ流の君子たることは出来ないのであった。かくて、中世の大国たるポーランドは、近代に入るや、見る見る没落して小国になってしまった。多くの歴史家は、このように分析している。中世的残滓のために没落したポーランドを尻目に、興隆する国家は、「変化する状況への適応能力を持つ」マキャヴェッリ的国家、すなわち絶対主義国家へと変身をとげていった。スペイン、ポルトガル、オランダ、フランス、イギリスなどの諸国家である。212頁

 踏みにじられた日本のデモクラシー

 なぜ、長々と近代デモクラシーの誕生を述べたかと言えば、これがたとえ歴史の理想であるにしろなんであるにしろ、近代デモクラシーとは、ものすごく限定されたところに現れる優曇華の花のように珍しいのである。優曇華とは仏典に記された伝説の花。この花が開くとき、転輪聖王が世に現れ、正法によって世を治める理想の政治が行われる。咲くのは3000年に一度である。つまり、自由主義、民主主義、その二つが結合したところの近代デモクラシーは、滅多に出現しない、きわめて貴重な制度なのだ。それが何よりの証拠には、アジア、アフリカでいろいろな国が独立してどうなったかだ。みんな、もとの宗主国を手本にして憲法を作る。その条文には、立派な自由主義や民主主義が盛り込まれている。にもかかわらず、どこの国でも、あっと いうまに機能しなくなって、独裁性が出来てしまった。だから、もしもデモクラシー、リベラリズムによって政治を行うのであれば、それを生かす、成り立たせるための条件について真剣に考えなければ意味がない。

 政治制度、特に憲法の場合には、その実効性が問題で、条文に何と書いてあるのかあまり問題でない。いちばんよい例は、ドイツのワイマール憲法で、ヒトラーが実権を握ってからも廃止も改正もされなかった。ところが、ほとんどの政治学者、憲法学者は一九三三年の三月、全権委任法が通ったときを持って、ワイマール憲法は廃止されたと考えた。全権委任法は時限立法でありながら、廃止されることなくずっと続いて、結局、ヒトラーの独裁になったからである。したがって、アジア、アフリカの諸国において見られるがごとく、立派な憲法の条文が残っていても、実質的に機能していなかったら意味がないのだ。この観点から今の日本を考えてみるとどうか。次節で詳述するが、近代民主主義の根本的条件である三権分立が機能せずに「役人クラシー」になっている。これでもデモクラシーであるのかどうか、大問題である。213頁

 では、議会主義デモクラシーが機能するための最大の条件は何か。一つは、国民の代表によって議会が形成されること。次に議会における討論によって国策が決定されること。そして最後にして最大の条件は、国会が立法の機能を失っていないということ。第一章で述べたとおり、田中角栄だけが討論による国策の決定と議員立法を実践した。角栄を評価する場合に、この点を見逃しては何もならない。角栄が世を去った今、優曇華の花のような日本のデモクラシーは、役人クラシーによって踏みにじられているのである。214頁
 (二)  日本の三権分立は死んだ 主権者たる国民が「絶対者」

 近代デモクラシーにおいて、国民の主権は絶対的なものとなった。何者もそれを侵すことは出来ず、その行使は完全に国民の自由となった。これに異を唱える日本人はいないだろう。しかし、それが目もくらむほど恐ろしいことだと自覚している日本人が何人いるだろうか。政治学の泰斗・丸山真男は「神が宇宙において何事をもなし得ることがごとく、「絶対者」は、その主権国家内においては、何事をもなし得る」と言った。

 この「絶対者」とは、絶対君主のみを意味するのではない。近代デモクラシー国家においては、主権者たる国民が絶対者となる。となれば、デモクラシー国家の国民は、名君になることも出来れば、暴君になることも出来る。主権は絶対なのだから、国民が暴走すれば、主権の名の下に、どんな暴虐をもなし得るのである。

 近代絶対主義が成立する以前の前近代社会においては、これほどの恐ろしさはなかった。伝統主義が支配していたから、専制君主といえども伝統主義的な慣習を無視したり、潰すことが出来なかった。それに従わなければならなかった。すなわち、専制君主といえでも、伝統主義の歯止めがかけられていた。215頁

 日本人に最も分かりやすい例は、徳川綱吉。綱吉の権力がどんなに大きかったは、浅野内匠頭一人を見ただけで分かる。五万三千五百石の大名たる浅野内匠頭を、不快の一言で切腹させた。浅野家は小大名だといわれているが、決して小大名ではない。中大名の大きいほうだ。二百六十諸侯の大多数は一万石とか二万石くらいで、五万石以上は数えるほどしかいなかったのだ。

 浅野内匠頭は、しゃんと天守閣のついた城を持っていたし、切腹したときには早馬を城下へ走らせるだけの組織を持っていたのだから、相当大きい諸侯。これを簡単に切腹させることが出来たのだから、その権力は絶大である。ところが、その綱吉でさえ、生母の桂昌院を正四位から従三位にするために、苦心惨憺した。柳沢吉保が気に入られた一つの大きな理由は、そのことで骨を折ったからである。だから、前近代社会にあっては、伝統主義的な束縛が大きく、巨大な専制君主といえども、何でも出来るというわけではなかった。

 英国においても同様。ロンドンでは、今でも女王が旧市街に入るためには、ロンドン市長の許可が必要なのはその名残だ。チューダー王朝以前からの習慣で、ロンドン府は特許を与えれたチャータード・シティだから、そこに入るためには必ず市長の許可がいる。これは中世的特権。こんなルールは絶対王制になったらナンセンスだし、いわんや今ではナンセンス以下なのだが、中世にはこんなのがたくさんあって、専制君主といえども、国内の大諸侯だとか、いろいろな教区、特許を得たシティ、それから特許を得た大学などに対して、なにかやと権力の及ばないとことがたくさんあった。216頁

 (二)  日本の三権分立は死んだ 主権者たる国民が「絶対者」

 近代デモクラシーにおいて、国民の主権は絶対的なものとなった。何者もそれを侵すことは出来ず、その行使は完全に国民の自由となった。これに異を唱える日本人はいないだろう。しかし、それが目もくらむほど恐ろしいことだと自覚している日本人が何人いるだろうか。政治学の泰斗・丸山真男は「神が宇宙において何事をもなし得ることがごとく、「絶対者」は、その主権国家内においては、何事をもなし得る」と言った。

 この「絶対者」とは、絶対君主のみを意味するのではない。近代デモクラシー国家においては、主権者たる国民が絶対者となる。となれば、デモクラシー国家の国民は、名君になることも出来れば、暴君になることも出来る。主権は絶対なのだから、国民が暴走すれば、主権の名の下に、どんな暴虐をもなし得るのである。

 近代絶対主義が成立する以前の前近代社会においては、これほどの恐ろしさはなかった。伝統主義が支配していたから、専制君主といえども伝統主義的な慣習を無視したり、潰すことが出来なかった。それに従わなければならなかった。すなわち、専制君主といえでも、伝統主義の歯止めがかけられていた。215頁

 日本人に最も分かりやすい例は、徳川綱吉。綱吉の権力がどんなに大きかったは、浅野内匠頭一人を見ただけで分かる。五万三千五百石の大名たる浅野内匠頭を、不快の一言で切腹させた。浅野家は小大名だといわれているが、決して小大名ではない。中大名の大きいほうだ。二百六十諸侯の大多数は一万石とか二万石くらいで、五万石以上は数えるほどしかいなかったのだ。

 浅野内匠頭は、しゃんと天守閣のついた城を持っていたし、切腹したときには早馬を城下へ走らせるだけの組織を持っていたのだから、相当大きい諸侯。これを簡単に切腹させることが出来たのだから、その権力は絶大である。ところが、その綱吉でさえ、生母の桂昌院を正四位から従三位にするために、苦心惨憺した。柳沢吉保が気に入られた一つの大きな理由は、そのことで骨を折ったからである。だから、前近代社会にあっては、伝統主義的な束縛が大きく、巨大な専制君主といえども、何でも出来るというわけではなかった。

英国においても同様。ロンドンでは、今でも女王が旧市街に入るためには、ロンドン市長の許可が必要なのはその名残だ。チューダー王朝以前からの習慣で、ロンドン府は特許を与えれたチャータード・シティだから、そこに入るためには必ず市長の許可がいる。これは中世的特権。こんなルールは絶対王制になったらナンセンスだし、いわんや今ではナンセンス以下なのだが、中世にはこんなのがたくさんあって、専制君主といえども、国内の大諸侯だとか、いろいろな教区、特許を得たシティ、それから特許を得た大学などに対して、なにかやと権力の及ばないとことがたくさんあった。216頁

 また、日本にはないが、ヨーロッパにおいて重要なのは、専制君主の家来、国民には抵抗権というのがあった。王様がこれこれ然々の事をした時には、抵抗してよろしいという抵抗権を持っている人がたくさんいた。普段は王様命令を聞くけども、抵抗権まで侵されたら実力を持って抵抗することが正しいとされていたのだ。つまり、前近代的な国には、王様の専制的権力と言えども、それを遮るような権力がたくさんあった。
 なぜ権力を三つに分割したか

 ところが近代絶対主義においては、そういう権力を一切潰してしまった。「国家論」を著したフランスのボダンに依れば、主権とは最高の永続的権力である。ではどういうことにおいて自由であるかというと、外においては神聖ローマ帝国とローマ教会からの自由である。日本人には、そんなことを言ったって、ピンと来ないが、キリスト教圏では大変なこと。当時、他にさきがけてボタンを一人だけそういう主張をした。主権国家だから、この自由が得られるのだと。内においては、法からの自由で。主権者は自分が作った法およびそれ以前からあった法にとらわれない。法律なんか勝手に蹂躙していいというのだから、これは凄い権力。それから、主権者はいかなる抵抗権からも自由である。どんな大諸侯であろうと、特権を持っているシティであろうと、絶対王には逆らえない。217頁


 この恐しきこと限りなき絶対主義から、人民を保護するために、いかにすべきか。このテーマから自由主義はスタートした。いろいろな紆余曲折の末、自由主義が到達した結論は、恐ろしき絶対権力を分断せよ、これであった。政治的手法に、分割統治という方法があるが、同じ発想である。また、こんな神話もあった。昔、人間は男女一体であった。だが、男女一体だと人間はあまりにも強すぎて神に背きかねない。そこで、神は人間を引き裂いて、男と女に分離させた。すると人間は、わかりあいにおとなしくなったと。

まりにも強大な絶対権力を三つに裂く。このアイディアは、英国の歴史を通じて徐々に実現され、モンテスキューは「法の精神」において、これを定式化した。ご存じ、三権分立の思想で有る。近代国家の権力は、あまりにも強大である。人民に何をするか分かったものではない。そこで、人民の権利を強大な国家権力から守るために、これを、立法、行政、司法の三権に分け、互いに牽制させて、バランスを取らせる。これ、所謂「三権のチェックス・アンド・バランシズ」のメカニズムである。これぞ、法と正義の存立条件である。218頁


 なぜ大統領と首相の両方がいるのか

 ところが、三つにぶった切っても、それでも絶対権力は恐ろしい。とくに行政権がすぐに暴れはじめる。ヨーロッパの国、イスラエルもそうだが、大統領と首相の両方いる国がある。これはなぜか。英国のような立憲君主国だったら、王の他に首相がいるということが分かるけれども、そうでない国に大統領と首相の両方がいる。


 大統領しかいないのは、アメリカ。しかし、アメリカは近代デモクラシーで最初の国だったから、大統領だけでいいと思った。ところが、フランスにしてもドイツにしても、絶対権力に苦労したことのある国は、たいてい大統領と首相の両方がいる。これは行政権を分割するのが目的。どちらか一人だと、どうしても独裁化してしまう。フランスの場合だったら、大革命はナポレオン一世に乗っ取られ、二月革命はナポレオン三世に奪われてしまった。大統領だけしかいないと、国民投票やらなんやらで皇帝になってしまうかもしれない。ヒトラーは皇帝にはならなかったが、皇帝以上の権力を握ってしまった。だから大統領と首相の両方を置いて、牽制させる。フランスの場合には、大統領と首相で、きちんと権限を分けている。その他の国でも、いろいろと細かな工夫をして、行政権を分割している。


 これは、司法権においても事情は同じで、一審、二審、三審と、何で三回もやるのかと言えば一回だけでは、恐ろしいからだ。特に恐ろしいのが刑法。近代刑法のエッセンスは、罪刑法定主義。事前に明確に定められた刑罰以外には、刑罰を科することが出来ない。国家による刑罰は絶対だから、事後立法で裁かれるのでは、恐ろしくてたまらないし、刑法またはその関連法令に明文で定められていない「刑罰」が科せられるのでは、恐ろしくてたまらないではないか。このように、まず三権を分けて、チェックス・アンド・バランシズをさせ、されに三権をそれぞれ分割して歯止めをかける。近代の絶対権力は恐ろしすぎるのだ。219頁


 現代といえども、仮に国会で議決して裁判所がそれを合法だと認め、それを政府が実行したら誰にも止められない。もし、政府と裁判所がぐるになったら、もうどうしょうもない。だから、グルにならないようにバラバラにして、しかもチェック・アンド・バランシズさせなかったら、絶対権力から国民を守ることは出来ない。ところが、この日本においては、そのような意識がひじょうに希薄だ。三権分立とは何か。法律に関する最終的解釈権は裁判所にある。立法の最終的決定権は国会にある。もっとも最終的というよりも、今の日本の場合には立法権は国会にだけあるから、最終も何も、とにかく国会。それから、実際に権力を行使する最終的決定権は内閣にある。これが三権分立。220頁


 三権における人事の流れ

 三権分立のチェック・アンド・バランシズにおいて、三権は独立であって、一つが他のいずれかに従属するものではないと言われる。しかし、それは、究極的な権力行使の決定においてである。このことは、三権のうちのある一権が、他の二権のいずれかにそれぞれの固有の権力の行使に当たって、命令を下すことはない、と言うことを意味する。しかし、このことは権力行使の流れにおいて、ある一権が、その他の二権のいずれかに対して、影響を及ぼし易いということを、アプリオリ(先験的)に排除するものではない。


 かかる影響の及ぼし方の順序をいえば、立法・・行政・・司法、この順序である。官僚権力の淵源は、人事権である。人事の流れである。この人事任命の順序で言うと、国会は内閣総理大臣を指名する(憲法第六条)。内閣が最高裁判所の長を指名する(同第六条)。また、最高裁判所の長たる裁判官以外の裁判官は内閣が任命する(同第七九条)。つまり人事任命の順序で言うと、国会・・内閣・・裁判所の順番である。ゆえに、権力の流れも、この順番である。逆に、内閣が国会議員を任命することはない。また、内閣が議長などの国会の役員を任命することもない。もっとも、自民党が単独政権を誇っていた頃には、議長などの国会役員を、実質的に自民党総裁たる首相が決めていたことが、あるにはあった。しかし、これは、憲法上の任命(指名)とは、まったく別な話である。また、裁判所が、内閣の大臣を任命(指名)することはない。罷免することもない。

 このように、内閣(行政)と裁判所(司法)との間の任命(指名)関係は、まったく一方的である。それゆえ、人事任命(指名)による権力の流れも、完全に一方的である。この点、国会と内閣との権力の流れとは違う。たしかに、任命(指名)の流れにおいては、国会から内閣総理大臣へと、一方的である。しかし、罷免(資格を失わせること)においては、どうか。衆議院は、内閣に信任案を決議することができる。が、内閣は衆議院を解散することができる(六九条)。罷免に関しては、内閣と衆議院とは、双方においてこれを行うことが出来る。いわば、相互的である。不信任と解散と言うこの相互性によって、国会(立法)と内閣(行政)とは、チェック・アンド・バランシズを機能せしめることができる。221頁


 どちらかが、一方的に優越すると言うことはあり得ないのである。この相互性によるチェック・アンド・バランシズの機能が作動可能であることによって、国会のメンバーと内閣のメンバーとは、とくに一方の身分を他方の権力から保証する必要はない。ところが、裁判所に関しては、事情がまったく違う。裁判官は、すべて、内閣によって指名または任命される。任命(指名)は完全に一方的である。罷免については、国会と内閣の間に見られるような、相互性によるチェック・アンド・バランシズの機能はまったく作動しない。そうなればどうか。原理上は、司法権は立法・行政と言う他の二権から完全に独立し、「すべて裁判官は、その良心に従い独立して、その職権を行い、この憲法および法律にのみ束縛される」。すなわち、立法府、行政府からは、まったく自由であると言うものの、現実には、必ずしもそうだとは言い切れないものが残る。222


 ニューディール政策が行えた理由

 行政府のトップによる裁判官任命権が、実際のところ、いかに司法府の行動を掣肘(干渉)するものであるか。裁判官の独立性を、実質的にいかに阻害するものか。我々は如実にこれを、かのルーズベルト大統領の、ニューディール政策に見ることが出来る。一九三三年に米大統領に就任したフランクリン・ルーズベルトは、ニューディール政策によって、空前の大不況の克服を決意した。が、このニューディール政策は、従来の資本主義イデオロギーからすれば、あまりにも革命的でありすぎた。


 当時のアメリカで、「あいつはニューディーラーだ」と言えば、戦前の日本で、「あいつはアカだ」と言うのと同じ語調であったとか。大多数のアメリカの資本主義者にとって、ニューディール政策は異端に見えた。革命的ニューディール政策には、次々と新立法が必要であった。ところが、新立法された法律は、最高裁の保守的な判事によって、片っ端から違憲とされてしまったのであった。これでは、せっかくのニューディール政策も実行不可能である。そこで、ルーズベルトはどうしたか。ルーズベルトのニューディール政策に賛成しそうな人を、次々と最高裁判事に任命して過半数にしてしまった。これでやっと、革命的ニューディール政策を法律として、施行することができた。めでたし、めでたし、と言いたいところだが、このニューディール騒動で、はしなくも大変なことが露見した。

 最高裁判所の任命権を持っている行政府のトップの権力は、最高裁に対して、とてつもなく強い。このことである。裁判所は行政機関から独立だ、なんて言ってみたところで、行政府がひとたび腹をくくれば、たちまち有名無実になってしまう。裁判所を行政府から独立させるとは、言うは易く、行うのは難い。その用例をみたいなものではないか。現在の日本では、ルーズベルト時代のアメリカと違って、最高裁判事の定員は決まっているから、ジャンジャン最高裁判事を新任して法案を認めさせるなんてできない。しかし行政府のトップが、はじめから自分とイデオロギーを同じくする人、少なくともあまり違わない人を最高裁の判事に任命すると言うこと、これならできる。223


 自民党の単独政権が実に長かったことを思い出せば、自民党とあまり考えの違わない人、少なくとも何とか我慢できる人、そういうイデオロギーの持ち主を裁判官に任命すると言う傾向があったことは否定できまい。224頁


 日本の官僚は司法権も奪っている

 占領軍が日本に入ってきたときのこと。アメリカ人は、日本の役人が勝手に法律を解釈していることに驚いた。そこでアメリカの司法将校が、「あんたの解釈は判例と違うんじゃないか」と質問した。すると、日本の役人は少しも騒がず、「たしかに私の法律解釈は判例とは違う。しかし、それは判例のほうが間違っているんだ」と言った。アメリカにおいては法律解釈は、結局、判例によって行う。日本でも刑法や民法は判例による。たとえ刑法一九九条に「ひとを殺したるもの」の定義がない。「人」の定義もない。「殺す」の定義もない。さらに進んで、障害致死罪、過失致死罪、重過失致死罪、それから自殺幇助罪などのそれぞれがどう違うのか、刑法の条文には書いてない。そういう場合にどうするのかと言うと、判例で見るしかない。このように「明文主義」の刑法でも判例に依ることが大きい。また民法における判例は、さらに大きな役割を演ずる。


 ところが、行政に関する法律には、ほとんど判例がない。法律の数から言ったら圧倒的に行政に関する法律が多い。六法全書というが、これに乗っている法律なんてほんの一部。載っていない行政に関する法律が山ほどある。それらを役人が勝手に操っている。日本では官庁同士の裁判なんてほとんどないから、当然、判例もほとんどない。このために役人は平然と判例を無視して、俺の解釈が正しいと言うのである。これは役人による司法権の簒奪である。行政に関する法律は、国会が作る。条例を都道府県、市町村などの地方自治体が作る。それらにしたがって、実際の行政は行われる。これは簡単なことで、誰が見ても明らかである。しかし、何かの解釈が必要になることがある。筑波大学の加藤栄一教授による例で説明すると、たとえば「この橋を牛や馬は通ってはならない」と言う条例が、何とか村にあったと仮定しよう、その橋を、象を連れて渡ろうとした人がいた。果たして、象はこの橋を渡っていいのか悪いのか。

 ある村の役人は牛や馬が悪いんだったら、もっと重い象はなお悪いだろうと条例を解釈した。また別の役人は、これは牛と馬だけ禁止しているんだから、象はさしつかえない、現に昔と違って、この橋はこんなに丈夫になっていると解釈した。それで論争になったが、村の段階で埒があかない。その場合はどうするか。これがアメリカやイギリスだったら裁判所に訴えるが、にほんでは県に訴える。すると、県の役人はよく考えて、これはよろしいだとか、これは駄目だとかと言うことを教えてやる。県の段階で結論が出ない場合はどうするかと言うと、中央官僚にお伺いを立てる。225頁


 市町村が一審で、それから都道府県が第二審で、中央官庁が最高裁。裁判所の仕組みとまったく同じになっている。裁判所の場合には、判例というが、その判例に該当するのが行政実例集には、下からこういうお伺いがきて、この法律はこういう風に解釈しました、と言う実例がたくさん載っている。それを中央の省庁が保管していて、必要に応じて地方自治体にも見せる。地方自治体の役人がそれを見て明らかであれば、そのように判断するけれども、それでも分からない場合には、上の役所にお伺いを立てる。つまり、法律の解釈はお役所がやる。これは、いわゆる革新自治体でも同じで、役人の体に染み込んでいるから、他のやり方はしない。

 政治学者の篠原一先生が、「日本の政治風土」に書いたこんな例もある。区長がまだ公選になっていなかった頃、区長を公選にしようと思って練馬区に嘆願に行ったら、練馬区はそれは駄目だと言う。何で駄目なんですかと聞くと、それは法律に違反すると言う。何で法律に違反するんだと言ったらば、東京都が法律に違反すると解釈しているから、法律に違反する。この法律のここに違反すると説明するのではなしに、東京都がそう解釈しているからいけない。それで、東京都に嘆願に言ったら、東京都もやっぱりそれは法律が許さないから駄目だと。じゃあ何で法律が許さないんですかと聞くと、自治省がそれは違反だと言っているからだと言う。だから、市町村にとっては都道府県の判断が、都道府県にとっては中央官庁の判断が最終的で、それをもって法律の解釈とすると言う。226頁、02/4/24 20時47分


 日本国憲法は、すでに改正された 

 角栄後、日本の三権は官僚に簒奪されてしまった。三権分立のないデモクラシーはあり得ない。今の日本は、デモクラシーを止めて役人クラシーの国に成り果てた。「国会は国権の最高機関」(憲法台四一条)とは名のみであって、実は、官僚の傀儡である。デモクラシー(リベラル・デモクラシー)であるかないかを判断するうえで、憲法(の条文)があるかないかは、あまり関係がない。英国憲法は十八世紀の半ば頃に成立したと言われ、世界中の憲法の手本になっている。その英国憲法に明文はない。また、明文化された憲法がデモクラシーを謳っていても、その憲法に実効性がなければ、その政治はデモクラシーとはいえない。憲法は改正されたと解釈されなければならない。

 現在の日本では、どうか。角栄後、デモクラシーは死んだ。憲法は改正されたと解釈されるべきである。確かに、憲法改正の手続きはとられていない。名目上、「日本国憲法」は現存している。が、それがどうしたと言うのだ。角栄後、日本国の三権は、官僚が独占してしまっているではないか。そんなデモクラシーがあってたまるか。人は、ヒトラー治下のワイマール憲法を思い出さないか。ヒトラー治下においても、ワイマール憲法に改正の手続きはとられ、正式に、改正されたことはなかった。外見上、ワイマール憲法は存続してはいたのであった。227頁、02/4/24 21時5分


 が、その実効性はどうか、完全に実効性は失ったことは明白。それゆえに、憲法学者は一九三三年三月二十三日、全権委任法制率の日を持ってワイマール憲法は改正された、と解釈するのである。改正の手続きがまったく踏まれなくても。これが、憲法の論理。日本の憲法学者が、理解していても、いなくても。この論理を、日本国憲法の場合に当て嵌めてみると、どういうことになるのか。一体全体。いかにもまだ、日本国憲法に改正の手続きはとられてはいない。だが、その実効性となるとどうか。日本国憲法は、角栄後、実効性を失ってしまっている。ということは、どういうことか。228頁


 角栄後、役人が三権を壟断しているからである。国権の最高機関であるはずの国会は、役人の操り人形になってしまったではなかったか。しかも、国民もこのことを知り、もはやどうにもならないとあきらめているではないか。政治家は人形、人形使いは役人。これすでに、天下周知の事実である。デモクラシーは、角栄後、すでに没し、在るものは、役人クラシーのみ。三権すでに役人の掌中に有り、しかも、天下、これを知る。日本国憲法は、すでに改正された。知らぬは国民ばかりなり。世の憲法屋諸君、これをなんと見る。


 「真の国会」は省庁間調整にあり

 それにしても、三権を、実効上、役人に簒奪された実体はいかん。これを、加藤栄一氏の説に見てゆきたい。このことを最初に指摘したのは加藤氏であり、後に、同じことを宮本氏(厚生省検疫課長著書に「お役所の掟」によっても指摘された。以下、加藤栄一教授の立論(「サンサーラ」1994年3月号、加藤教授と小室直樹の対談「官僚不況論」)を引用して、このことの実体を見てゆきたい。加藤、衆参両法制局とも官僚と同じコンピューターを使うようになっても、国会で成立する法律の大部分は、なおも内閣法制局が管轄する内閣提案です。それ以外に議員も提案をしますが、成功率は非常に少ないと言うのが現実です。どうしてそのようなことになるのかと言いますと、質が悪いと言うこともありますが、より本質的には、議員はそれぞれに部分利益を代表する存在であるからです。議員は、自分が依拠する部分利益に従って法律案を書かざるを得ないわけですから、多数を取ることがなかなか出来ないのです。

 他方、内閣提案のほうは、課長補佐段階あたりから、各省庁間で綿蜜に議論を重ね、実施レベルで起こそうな問題などもすべて調整をしてしまいます。国会議員は、国民各層の代表であると言うことになっていますが、日本の状況は各省庁、各局、各課が、それぞれに日本の各層を代表しているわけです。たとえば、昔は通産省に石炭局というものがありました。これは石炭業界を代表していましたし、鉄鋼局と言うのが鉄鋼業界を代表していました。そうして、二つの業界、二つの局に矛盾するような問題が起きれば、局長同士が話し合い、その上の次官が調整すると言う仕組みになっていました。ですから、すべての国民、すべての業界は、役所のどこかにつながって、代弁者を持っていると言うことになっているわけです。


 そして、その代弁者同士が盛んに議論をして、調整していくわけですから、これを私は「真の国会」と呼んでいます。この「真の国会」の議論はうまく煮詰まってきますと、これを法制局にもっていって、句読点に至るまで直して国会に提出します。そうしますと、だいたい八〇〜九十%が通ってしまうわけです。国会をテレビ中継するということもありまして、最近では国会の審議と言うものがどのようなものであるか、国民も大体わかってきました。審議と言うからには、質問をして答えをするのが質疑であって、それとは別に、賛成、反対の意見を戦わす討論がなければなりません。順序からすると、質疑をして法案の中身が分かって、それに賛成か反対かを討論するわけです。ところが、日本の国会では、ほとんどの場合、討論は省略されてしまいます。質疑が終わると、「では討論に入ります。討論ありませんか。ないものと認めます。採決に入ります」と言うようなことになるわけです。すなわち、「この法案は、ここがおかしいではないか。ここはどうなっているのか。ここはどうするのか」と言うような質問があり、それに満足のいく答えが得られれば、それでもう討論がないわけです。しかも、その質問も、質問に対する答えも、あらかじめ書いてあるものを読み上げているだけのことなのです。230n


 小室、国会の審議とは、ほとんど猿回しのようなものなのですね。「真の国会」すなわち根回しの場こそ、テレビで中継してほしいものです。

加藤、立法過程論と言う政治学の一分野があります。アメリカでは、この分野の研究はとてもやりやすいわけです。まず、マスコミで問題が出る。議院がそれを採り上げる。公聴会を開く。賛成、反対の討議がなされる。それがぜんぶ議事録に記録される。日本の場合は、陰で根回しをしているので、討論の記録は残りませんね。官僚の中には、国会での質問取りの担当者がいて、明日の国会ではどのようなことを質問しますかと言うことを聞いて帰ってくる。それを、みんなが待ち構えていて、課長補佐や係長あたりがそれに答えを書いて、それを局長から次官までが目を通してはんこを押す。はんこが並べば、この答えを大きな字で清書します。これは、大臣はお年寄りが多いからです。そして、国会を迎えますと、質問取りをしたのと同じ質問が出まして、答えを読み上げればそれでおしまいとなります。なかには、「私は、どのような質問をすればよいのか、おしえてほしいと官僚に尋ねてくる議員もいます。議員の関心は、格好よくテレビに映り、自分はよき答弁を引き出したいと言うことを印象づけることであるわけですから、官僚に聞くのが手っ取り早いというわけです。そうしますと、官僚のほうも心得たもので、「先生、これこれの質問をなされば、役所も、ちょうどそのようなことをやろうと思っていたところなので、「早速、そのようにいたします」と答弁することになります。ですから、ぜひ、この点をご質問ください」と言うように、質問をかいてあげるわけです。それをテレビなどで見ていると、あたかも議員の先生が、的確なよい質問をして、役所も素直に、素早く、それに応えたかのように見えるわけです。(中略)231頁


 加藤、行政実例と言うのは、裁判所における判例と同じように法律の淵源にあたる法源と見なすしかないでしょう。それ以外にも、裁判所には民事と刑事がありますが、これも行政官労が簒奪している部分があります。と言うのは、警察が「怪しい奴だ」と言うことで、二〇〇人捕まえたとします。大体半分の一〇〇人くらいを起訴します。残り半分は不起訴になり、家に帰ってもよいということになります。

 さて、そうして検察庁に起訴され、裁判所に送られた疑義者一〇〇人の内、裁判所によって有罪判決を受けるのは九九人ほどです。無罪になるのは、率で見ますと一%を切っています。これはものすごく低い率です。外国人にこの話をしますと、「それは、何か不正があるのではないか」と言って、気味悪がるほどです。ちなみに、アメリカでは有罪率というのは、七十%ほどですそのような状態であるわけですから、日本の裁判官は非常に楽です。検察庁から送られてきた被疑者を片っ端から有罪にすれば、九九%以上の確立で当たっていると言うことになるわけです。232頁


 小室、つまり、実質的に検事が最高裁で、警察が二審判決で、刑事が一審判決を下していると言うことですね。加藤、起訴したものの有罪がそれほど多いと言うことは、不起訴にしている中に真犯人がずいぶん紛れ込んでいる可能性があるのではないでしょうか。とにかく、ひとたび起訴をすれば九九%以上が有罪になるわけですから、その中で無罪になったものが非常に目立つ。そこで、「無罪になって申し訳ございませんでした」と、検事が上役に始末書を書くようなこともあるようです。その反面、逮捕されたと言うこと自体が、実質的には一審で有罪判決を受けたようなものなので、これがひじょうに大きな意味を持ちます。日本では、逮捕歴があるなどというと、誰もが「ビクッ!」とし、就職などにも差し障りがあるのではないでしょうか。もっとも新聞などでは、日本でも「有罪の判決を受けるまでは、無罪に推定を受けることが正しい」と言うことが、基本方針となっているようです。英米では、実際にもそのとおりなのですが、日本では起訴されれば、これはもうほぼ有罪だと推定してさしつかえないでしょう。制度上ものそのようなことになっている場合が多くて、公務員が起訴されれば、もうその時点で休職になると言うことになっています。(中略)233頁


 模範官僚になるための五つの条件

 加藤、官僚が三権を簒奪して、みんながそれを受け入れていると言うことは、官僚に対するある種の信頼感がある、と言う側面がありますね。それとともに、官僚と言うものが民主的な制度としてあり得るためには、どのような条件が必要であるかと言うことを考えたいと思います。

 まず 第一に、何と言っても能力がなければなりません。第二に、国益とか国民のためと言う価値観を持っていてくれなければなりません。第三に、責任を取るべきです。そのためには、民意によって免職をさせることが出来る、と言うようにしなければならないのではないでしょうか。第四に、任命については選抜がひじょうに公平で、門地等にかかわらず自由競争のもとに行われなければなりません。第五に、役所に入ってからも特権を濫用しない。これも大切な点です。

 これらの条件が満たせば、ずいぶん信頼されることになるでしょうが、現在のところ、このなかのいくつかの条件が満たされていません。官僚の本音は「いつまでも権力を握っていたい」 このように、今や日本の権力は、役人に奪い去られてしまっている。日本の学者よ、役人よ、評論家よ。これを何と見る。借問す。日本の憲法屋よ。この事実に接して、何か言いたいことがあるのか。第九条だけが憲法であるとでも錯覚しきっているのか。これ以上なき憲法違反を、そのまま見過ごすつもりででもいるのか。もう一人、役人が三権を簒奪していることを明確に指摘したのが現役の厚生省検疫課長・宮本氏。その著書「お


 役所の掟」(講談社)に曰く。

 少なくとも私は、帰国する前は日本も憲法に基づいた三権分立が制度上、確立しているものだと思っていた。だが、帰国後、三権分立について本音と建前の使い分けが存在していることに気がついた。ある晩、厚生省の幹部たちと会食する機会があった。そこで私の日本における三権分立について意見を述べたことがある。「日本はどうして三権分立ではないのでしょう」「いや、三権分立になっているよ。憲法にもそう書いてある」「でも実態は違うでしょう。本当に三権分立ならば、なぜわれわれが法律作成をしているのですか」「いや、政治家も法律を作っているよ」「でも、パーセンテージから言ったら役人が作成している法律が圧倒的ですよ。私が言っているのは実態論であって形式論ではありません。本来、役人の仕事は法律に基づいて国を運営することであって、法律を作る業務は国会議員のはずだと思うのですが」「それは、君の言うとおりだ。でも残念ながら、多くの国会議員には法律を作る能力がない」「彼らは法律を作ることがその主な任務だと考えるのですが」「建前はそのとおり。だが、地元に橋を作るとか、新幹線を通すとか、地元に利益をもたらすことが主な任務なのだ」235頁

 「確かに地元に外国企業を誘致するなども政治家の能力の一つだと、アメリカでは見られています。でも法律を作れないのならば議員としての資格はありませんね」「ただね、彼等だって作ろうと思えば作れる。国会には国会の法制局がちゃんとある。おい、ここからはオフレコだぞ。国会の法制局に勤めている職員の法律作成能力が、官僚組織とは雲泥の差なのだ。内閣には内閣法制局という組織があるが、ここに集まる人たちは役人の中でも最優秀とされた人びとだ。だから国会議員がたとえ法案を作ったとしても緻密さが違ってくる。議員立法を見てみろ。スキ間だらけだ。彼らが作るのはザル法なのだ。政治資金規正法案がその典型だよ」「へーっ。そんなものですか。ところで、内閣法制局に集まる人たちは、結局各省庁からの出向人事でしょう。国会の法制局はどうなんですか」「あそこもそうだ」「で、そうならば、なんで国会に集まる人のほうが法律作成能力に劣るのですか」「それはむずかし質問だ。まあ、組織が小さいことが一つあるな。それにお前の言っているように、議員立法は全体の立法案件から比べれば絶対量が少ない。だから、いつも仕事がある内閣法制局とは仕事の密度が違ってくる。それと、やはり優秀な人材は内閣法制局に派遣されるのだろう」「どうしてですか」236頁


 「うがった見方と言われるかもしれないが、国会議員は今のままでいてほしいのだ」「法案作成能力に欠けた立法者にしておく、ということですか」、「まあ、そんなところかな。法律に基づいて国を運営する。これもひとつの権力だよな。でも、法律を作ると言うことは、もっと大きな権力を持っていることなのだ」、「それ私もそう思います。権力はいったん手に入れたら誰も手放したくない。これはひとつの真理ですな。官僚がいつまでも権力を握っていたい、が本音なのですね」、「穏やかな発言とはいえないが、そういう見方もある」。角栄後、日本国憲法は改正された。この理解の上にたたなければならない。ヒトラー後のワイマール憲法のごとくに。237

五章おわり





(私論.私見)