なぜ権力を三つに分割したか
ところが近代絶対主義においては、そういう権力を一切潰してしまった。「国家論」を著したフランスのボダンに依れば、主権とは最高の永続的権力である。ではどういうことにおいて自由であるかというと、外においては神聖ローマ帝国とローマ教会からの自由である。日本人には、そんなことを言ったって、ピンと来ないが、キリスト教圏では大変なこと。当時、他にさきがけてボタンを一人だけそういう主張をした。主権国家だから、この自由が得られるのだと。内においては、法からの自由で。主権者は自分が作った法およびそれ以前からあった法にとらわれない。法律なんか勝手に蹂躙していいというのだから、これは凄い権力。それから、主権者はいかなる抵抗権からも自由である。どんな大諸侯であろうと、特権を持っているシティであろうと、絶対王には逆らえない。217頁
この恐しきこと限りなき絶対主義から、人民を保護するために、いかにすべきか。このテーマから自由主義はスタートした。いろいろな紆余曲折の末、自由主義が到達した結論は、恐ろしき絶対権力を分断せよ、これであった。政治的手法に、分割統治という方法があるが、同じ発想である。また、こんな神話もあった。昔、人間は男女一体であった。だが、男女一体だと人間はあまりにも強すぎて神に背きかねない。そこで、神は人間を引き裂いて、男と女に分離させた。すると人間は、わかりあいにおとなしくなったと。
まりにも強大な絶対権力を三つに裂く。このアイディアは、英国の歴史を通じて徐々に実現され、モンテスキューは「法の精神」において、これを定式化した。ご存じ、三権分立の思想で有る。近代国家の権力は、あまりにも強大である。人民に何をするか分かったものではない。そこで、人民の権利を強大な国家権力から守るために、これを、立法、行政、司法の三権に分け、互いに牽制させて、バランスを取らせる。これ、所謂「三権のチェックス・アンド・バランシズ」のメカニズムである。これぞ、法と正義の存立条件である。218頁
なぜ大統領と首相の両方がいるのか
大統領しかいないのは、アメリカ。しかし、アメリカは近代デモクラシーで最初の国だったから、大統領だけでいいと思った。ところが、フランスにしてもドイツにしても、絶対権力に苦労したことのある国は、たいてい大統領と首相の両方がいる。これは行政権を分割するのが目的。どちらか一人だと、どうしても独裁化してしまう。フランスの場合だったら、大革命はナポレオン一世に乗っ取られ、二月革命はナポレオン三世に奪われてしまった。大統領だけしかいないと、国民投票やらなんやらで皇帝になってしまうかもしれない。ヒトラーは皇帝にはならなかったが、皇帝以上の権力を握ってしまった。だから大統領と首相の両方を置いて、牽制させる。フランスの場合には、大統領と首相で、きちんと権限を分けている。その他の国でも、いろいろと細かな工夫をして、行政権を分割している。
これは、司法権においても事情は同じで、一審、二審、三審と、何で三回もやるのかと言えば一回だけでは、恐ろしいからだ。特に恐ろしいのが刑法。近代刑法のエッセンスは、罪刑法定主義。事前に明確に定められた刑罰以外には、刑罰を科することが出来ない。国家による刑罰は絶対だから、事後立法で裁かれるのでは、恐ろしくてたまらないし、刑法またはその関連法令に明文で定められていない「刑罰」が科せられるのでは、恐ろしくてたまらないではないか。このように、まず三権を分けて、チェックス・アンド・バランシズをさせ、されに三権をそれぞれ分割して歯止めをかける。近代の絶対権力は恐ろしすぎるのだ。219頁
現代といえども、仮に国会で議決して裁判所がそれを合法だと認め、それを政府が実行したら誰にも止められない。もし、政府と裁判所がぐるになったら、もうどうしょうもない。だから、グルにならないようにバラバラにして、しかもチェック・アンド・バランシズさせなかったら、絶対権力から国民を守ることは出来ない。ところが、この日本においては、そのような意識がひじょうに希薄だ。三権分立とは何か。法律に関する最終的解釈権は裁判所にある。立法の最終的決定権は国会にある。もっとも最終的というよりも、今の日本の場合には立法権は国会にだけあるから、最終も何も、とにかく国会。それから、実際に権力を行使する最終的決定権は内閣にある。これが三権分立。220頁
三権における人事の流れ
三権分立のチェック・アンド・バランシズにおいて、三権は独立であって、一つが他のいずれかに従属するものではないと言われる。しかし、それは、究極的な権力行使の決定においてである。このことは、三権のうちのある一権が、他の二権のいずれかにそれぞれの固有の権力の行使に当たって、命令を下すことはない、と言うことを意味する。しかし、このことは権力行使の流れにおいて、ある一権が、その他の二権のいずれかに対して、影響を及ぼし易いということを、アプリオリ(先験的)に排除するものではない。
かかる影響の及ぼし方の順序をいえば、立法・・行政・・司法、この順序である。官僚権力の淵源は、人事権である。人事の流れである。この人事任命の順序で言うと、国会は内閣総理大臣を指名する(憲法第六条)。内閣が最高裁判所の長を指名する(同第六条)。また、最高裁判所の長たる裁判官以外の裁判官は内閣が任命する(同第七九条)。つまり人事任命の順序で言うと、国会・・内閣・・裁判所の順番である。ゆえに、権力の流れも、この順番である。逆に、内閣が国会議員を任命することはない。また、内閣が議長などの国会の役員を任命することもない。もっとも、自民党が単独政権を誇っていた頃には、議長などの国会役員を、実質的に自民党総裁たる首相が決めていたことが、あるにはあった。しかし、これは、憲法上の任命(指名)とは、まったく別な話である。また、裁判所が、内閣の大臣を任命(指名)することはない。罷免することもない。
このように、内閣(行政)と裁判所(司法)との間の任命(指名)関係は、まったく一方的である。それゆえ、人事任命(指名)による権力の流れも、完全に一方的である。この点、国会と内閣との権力の流れとは違う。たしかに、任命(指名)の流れにおいては、国会から内閣総理大臣へと、一方的である。しかし、罷免(資格を失わせること)においては、どうか。衆議院は、内閣に信任案を決議することができる。が、内閣は衆議院を解散することができる(六九条)。罷免に関しては、内閣と衆議院とは、双方においてこれを行うことが出来る。いわば、相互的である。不信任と解散と言うこの相互性によって、国会(立法)と内閣(行政)とは、チェック・アンド・バランシズを機能せしめることができる。221頁
どちらかが、一方的に優越すると言うことはあり得ないのである。この相互性によるチェック・アンド・バランシズの機能が作動可能であることによって、国会のメンバーと内閣のメンバーとは、とくに一方の身分を他方の権力から保証する必要はない。ところが、裁判所に関しては、事情がまったく違う。裁判官は、すべて、内閣によって指名または任命される。任命(指名)は完全に一方的である。罷免については、国会と内閣の間に見られるような、相互性によるチェック・アンド・バランシズの機能はまったく作動しない。そうなればどうか。原理上は、司法権は立法・行政と言う他の二権から完全に独立し、「すべて裁判官は、その良心に従い独立して、その職権を行い、この憲法および法律にのみ束縛される」。すなわち、立法府、行政府からは、まったく自由であると言うものの、現実には、必ずしもそうだとは言い切れないものが残る。222
ニューディール政策が行えた理由
行政府のトップによる裁判官任命権が、実際のところ、いかに司法府の行動を掣肘(干渉)するものであるか。裁判官の独立性を、実質的にいかに阻害するものか。我々は如実にこれを、かのルーズベルト大統領の、ニューディール政策に見ることが出来る。一九三三年に米大統領に就任したフランクリン・ルーズベルトは、ニューディール政策によって、空前の大不況の克服を決意した。が、このニューディール政策は、従来の資本主義イデオロギーからすれば、あまりにも革命的でありすぎた。
当時のアメリカで、「あいつはニューディーラーだ」と言えば、戦前の日本で、「あいつはアカだ」と言うのと同じ語調であったとか。大多数のアメリカの資本主義者にとって、ニューディール政策は異端に見えた。革命的ニューディール政策には、次々と新立法が必要であった。ところが、新立法された法律は、最高裁の保守的な判事によって、片っ端から違憲とされてしまったのであった。これでは、せっかくのニューディール政策も実行不可能である。そこで、ルーズベルトはどうしたか。ルーズベルトのニューディール政策に賛成しそうな人を、次々と最高裁判事に任命して過半数にしてしまった。これでやっと、革命的ニューディール政策を法律として、施行することができた。めでたし、めでたし、と言いたいところだが、このニューディール騒動で、はしなくも大変なことが露見した。
最高裁判所の任命権を持っている行政府のトップの権力は、最高裁に対して、とてつもなく強い。このことである。裁判所は行政機関から独立だ、なんて言ってみたところで、行政府がひとたび腹をくくれば、たちまち有名無実になってしまう。裁判所を行政府から独立させるとは、言うは易く、行うのは難い。その用例をみたいなものではないか。現在の日本では、ルーズベルト時代のアメリカと違って、最高裁判事の定員は決まっているから、ジャンジャン最高裁判事を新任して法案を認めさせるなんてできない。しかし行政府のトップが、はじめから自分とイデオロギーを同じくする人、少なくともあまり違わない人を最高裁の判事に任命すると言うこと、これならできる。223
自民党の単独政権が実に長かったことを思い出せば、自民党とあまり考えの違わない人、少なくとも何とか我慢できる人、そういうイデオロギーの持ち主を裁判官に任命すると言う傾向があったことは否定できまい。224頁
日本の官僚は司法権も奪っている
占領軍が日本に入ってきたときのこと。アメリカ人は、日本の役人が勝手に法律を解釈していることに驚いた。そこでアメリカの司法将校が、「あんたの解釈は判例と違うんじゃないか」と質問した。すると、日本の役人は少しも騒がず、「たしかに私の法律解釈は判例とは違う。しかし、それは判例のほうが間違っているんだ」と言った。アメリカにおいては法律解釈は、結局、判例によって行う。日本でも刑法や民法は判例による。たとえ刑法一九九条に「ひとを殺したるもの」の定義がない。「人」の定義もない。「殺す」の定義もない。さらに進んで、障害致死罪、過失致死罪、重過失致死罪、それから自殺幇助罪などのそれぞれがどう違うのか、刑法の条文には書いてない。そういう場合にどうするのかと言うと、判例で見るしかない。このように「明文主義」の刑法でも判例に依ることが大きい。また民法における判例は、さらに大きな役割を演ずる。
ところが、行政に関する法律には、ほとんど判例がない。法律の数から言ったら圧倒的に行政に関する法律が多い。六法全書というが、これに乗っている法律なんてほんの一部。載っていない行政に関する法律が山ほどある。それらを役人が勝手に操っている。日本では官庁同士の裁判なんてほとんどないから、当然、判例もほとんどない。このために役人は平然と判例を無視して、俺の解釈が正しいと言うのである。これは役人による司法権の簒奪である。行政に関する法律は、国会が作る。条例を都道府県、市町村などの地方自治体が作る。それらにしたがって、実際の行政は行われる。これは簡単なことで、誰が見ても明らかである。しかし、何かの解釈が必要になることがある。筑波大学の加藤栄一教授による例で説明すると、たとえば「この橋を牛や馬は通ってはならない」と言う条例が、何とか村にあったと仮定しよう、その橋を、象を連れて渡ろうとした人がいた。果たして、象はこの橋を渡っていいのか悪いのか。
ある村の役人は牛や馬が悪いんだったら、もっと重い象はなお悪いだろうと条例を解釈した。また別の役人は、これは牛と馬だけ禁止しているんだから、象はさしつかえない、現に昔と違って、この橋はこんなに丈夫になっていると解釈した。それで論争になったが、村の段階で埒があかない。その場合はどうするか。これがアメリカやイギリスだったら裁判所に訴えるが、にほんでは県に訴える。すると、県の役人はよく考えて、これはよろしいだとか、これは駄目だとかと言うことを教えてやる。県の段階で結論が出ない場合はどうするかと言うと、中央官僚にお伺いを立てる。225頁
市町村が一審で、それから都道府県が第二審で、中央官庁が最高裁。裁判所の仕組みとまったく同じになっている。裁判所の場合には、判例というが、その判例に該当するのが行政実例集には、下からこういうお伺いがきて、この法律はこういう風に解釈しました、と言う実例がたくさん載っている。それを中央の省庁が保管していて、必要に応じて地方自治体にも見せる。地方自治体の役人がそれを見て明らかであれば、そのように判断するけれども、それでも分からない場合には、上の役所にお伺いを立てる。つまり、法律の解釈はお役所がやる。これは、いわゆる革新自治体でも同じで、役人の体に染み込んでいるから、他のやり方はしない。
政治学者の篠原一先生が、「日本の政治風土」に書いたこんな例もある。区長がまだ公選になっていなかった頃、区長を公選にしようと思って練馬区に嘆願に行ったら、練馬区はそれは駄目だと言う。何で駄目なんですかと聞くと、それは法律に違反すると言う。何で法律に違反するんだと言ったらば、東京都が法律に違反すると解釈しているから、法律に違反する。この法律のここに違反すると説明するのではなしに、東京都がそう解釈しているからいけない。それで、東京都に嘆願に言ったら、東京都もやっぱりそれは法律が許さないから駄目だと。じゃあ何で法律が許さないんですかと聞くと、自治省がそれは違反だと言っているからだと言う。だから、市町村にとっては都道府県の判断が、都道府県にとっては中央官庁の判断が最終的で、それをもって法律の解釈とすると言う。226頁、02/4/24 20時47分
日本国憲法は、すでに改正された
角栄後、日本の三権は官僚に簒奪されてしまった。三権分立のないデモクラシーはあり得ない。今の日本は、デモクラシーを止めて役人クラシーの国に成り果てた。「国会は国権の最高機関」(憲法台四一条)とは名のみであって、実は、官僚の傀儡である。デモクラシー(リベラル・デモクラシー)であるかないかを判断するうえで、憲法(の条文)があるかないかは、あまり関係がない。英国憲法は十八世紀の半ば頃に成立したと言われ、世界中の憲法の手本になっている。その英国憲法に明文はない。また、明文化された憲法がデモクラシーを謳っていても、その憲法に実効性がなければ、その政治はデモクラシーとはいえない。憲法は改正されたと解釈されなければならない。
現在の日本では、どうか。角栄後、デモクラシーは死んだ。憲法は改正されたと解釈されるべきである。確かに、憲法改正の手続きはとられていない。名目上、「日本国憲法」は現存している。が、それがどうしたと言うのだ。角栄後、日本国の三権は、官僚が独占してしまっているではないか。そんなデモクラシーがあってたまるか。人は、ヒトラー治下のワイマール憲法を思い出さないか。ヒトラー治下においても、ワイマール憲法に改正の手続きはとられ、正式に、改正されたことはなかった。外見上、ワイマール憲法は存続してはいたのであった。227頁、02/4/24
21時5分
が、その実効性はどうか、完全に実効性は失ったことは明白。それゆえに、憲法学者は一九三三年三月二十三日、全権委任法制率の日を持ってワイマール憲法は改正された、と解釈するのである。改正の手続きがまったく踏まれなくても。これが、憲法の論理。日本の憲法学者が、理解していても、いなくても。この論理を、日本国憲法の場合に当て嵌めてみると、どういうことになるのか。一体全体。いかにもまだ、日本国憲法に改正の手続きはとられてはいない。だが、その実効性となるとどうか。日本国憲法は、角栄後、実効性を失ってしまっている。ということは、どういうことか。228頁
角栄後、役人が三権を壟断しているからである。国権の最高機関であるはずの国会は、役人の操り人形になってしまったではなかったか。しかも、国民もこのことを知り、もはやどうにもならないとあきらめているではないか。政治家は人形、人形使いは役人。これすでに、天下周知の事実である。デモクラシーは、角栄後、すでに没し、在るものは、役人クラシーのみ。三権すでに役人の掌中に有り、しかも、天下、これを知る。日本国憲法は、すでに改正された。知らぬは国民ばかりなり。世の憲法屋諸君、これをなんと見る。
「真の国会」は省庁間調整にあり
それにしても、三権を、実効上、役人に簒奪された実体はいかん。これを、加藤栄一氏の説に見てゆきたい。このことを最初に指摘したのは加藤氏であり、後に、同じことを宮本氏(厚生省検疫課長著書に「お役所の掟」によっても指摘された。以下、加藤栄一教授の立論(「サンサーラ」1994年3月号、加藤教授と小室直樹の対談「官僚不況論」)を引用して、このことの実体を見てゆきたい。加藤、衆参両法制局とも官僚と同じコンピューターを使うようになっても、国会で成立する法律の大部分は、なおも内閣法制局が管轄する内閣提案です。それ以外に議員も提案をしますが、成功率は非常に少ないと言うのが現実です。どうしてそのようなことになるのかと言いますと、質が悪いと言うこともありますが、より本質的には、議員はそれぞれに部分利益を代表する存在であるからです。議員は、自分が依拠する部分利益に従って法律案を書かざるを得ないわけですから、多数を取ることがなかなか出来ないのです。
他方、内閣提案のほうは、課長補佐段階あたりから、各省庁間で綿蜜に議論を重ね、実施レベルで起こそうな問題などもすべて調整をしてしまいます。国会議員は、国民各層の代表であると言うことになっていますが、日本の状況は各省庁、各局、各課が、それぞれに日本の各層を代表しているわけです。たとえば、昔は通産省に石炭局というものがありました。これは石炭業界を代表していましたし、鉄鋼局と言うのが鉄鋼業界を代表していました。そうして、二つの業界、二つの局に矛盾するような問題が起きれば、局長同士が話し合い、その上の次官が調整すると言う仕組みになっていました。ですから、すべての国民、すべての業界は、役所のどこかにつながって、代弁者を持っていると言うことになっているわけです。
そして、その代弁者同士が盛んに議論をして、調整していくわけですから、これを私は「真の国会」と呼んでいます。この「真の国会」の議論はうまく煮詰まってきますと、これを法制局にもっていって、句読点に至るまで直して国会に提出します。そうしますと、だいたい八〇〜九十%が通ってしまうわけです。国会をテレビ中継するということもありまして、最近では国会の審議と言うものがどのようなものであるか、国民も大体わかってきました。審議と言うからには、質問をして答えをするのが質疑であって、それとは別に、賛成、反対の意見を戦わす討論がなければなりません。順序からすると、質疑をして法案の中身が分かって、それに賛成か反対かを討論するわけです。ところが、日本の国会では、ほとんどの場合、討論は省略されてしまいます。質疑が終わると、「では討論に入ります。討論ありませんか。ないものと認めます。採決に入ります」と言うようなことになるわけです。すなわち、「この法案は、ここがおかしいではないか。ここはどうなっているのか。ここはどうするのか」と言うような質問があり、それに満足のいく答えが得られれば、それでもう討論がないわけです。しかも、その質問も、質問に対する答えも、あらかじめ書いてあるものを読み上げているだけのことなのです。230n
小室、国会の審議とは、ほとんど猿回しのようなものなのですね。「真の国会」すなわち根回しの場こそ、テレビで中継してほしいものです。
加藤、立法過程論と言う政治学の一分野があります。アメリカでは、この分野の研究はとてもやりやすいわけです。まず、マスコミで問題が出る。議院がそれを採り上げる。公聴会を開く。賛成、反対の討議がなされる。それがぜんぶ議事録に記録される。日本の場合は、陰で根回しをしているので、討論の記録は残りませんね。官僚の中には、国会での質問取りの担当者がいて、明日の国会ではどのようなことを質問しますかと言うことを聞いて帰ってくる。それを、みんなが待ち構えていて、課長補佐や係長あたりがそれに答えを書いて、それを局長から次官までが目を通してはんこを押す。はんこが並べば、この答えを大きな字で清書します。これは、大臣はお年寄りが多いからです。そして、国会を迎えますと、質問取りをしたのと同じ質問が出まして、答えを読み上げればそれでおしまいとなります。なかには、「私は、どのような質問をすればよいのか、おしえてほしいと官僚に尋ねてくる議員もいます。議員の関心は、格好よくテレビに映り、自分はよき答弁を引き出したいと言うことを印象づけることであるわけですから、官僚に聞くのが手っ取り早いというわけです。そうしますと、官僚のほうも心得たもので、「先生、これこれの質問をなされば、役所も、ちょうどそのようなことをやろうと思っていたところなので、「早速、そのようにいたします」と答弁することになります。ですから、ぜひ、この点をご質問ください」と言うように、質問をかいてあげるわけです。それをテレビなどで見ていると、あたかも議員の先生が、的確なよい質問をして、役所も素直に、素早く、それに応えたかのように見えるわけです。(中略)231頁
加藤、行政実例と言うのは、裁判所における判例と同じように法律の淵源にあたる法源と見なすしかないでしょう。それ以外にも、裁判所には民事と刑事がありますが、これも行政官労が簒奪している部分があります。と言うのは、警察が「怪しい奴だ」と言うことで、二〇〇人捕まえたとします。大体半分の一〇〇人くらいを起訴します。残り半分は不起訴になり、家に帰ってもよいということになります。
さて、そうして検察庁に起訴され、裁判所に送られた疑義者一〇〇人の内、裁判所によって有罪判決を受けるのは九九人ほどです。無罪になるのは、率で見ますと一%を切っています。これはものすごく低い率です。外国人にこの話をしますと、「それは、何か不正があるのではないか」と言って、気味悪がるほどです。ちなみに、アメリカでは有罪率というのは、七十%ほどです。そのような状態であるわけですから、日本の裁判官は非常に楽です。検察庁から送られてきた被疑者を片っ端から有罪にすれば、九九%以上の確立で当たっていると言うことになるわけです。232頁
小室、つまり、実質的に検事が最高裁で、警察が二審判決で、刑事が一審判決を下していると言うことですね。加藤、起訴したものの有罪がそれほど多いと言うことは、不起訴にしている中に真犯人がずいぶん紛れ込んでいる可能性があるのではないでしょうか。とにかく、ひとたび起訴をすれば九九%以上が有罪になるわけですから、その中で無罪になったものが非常に目立つ。そこで、「無罪になって申し訳ございませんでした」と、検事が上役に始末書を書くようなこともあるようです。その反面、逮捕されたと言うこと自体が、実質的には一審で有罪判決を受けたようなものなので、これがひじょうに大きな意味を持ちます。日本では、逮捕歴があるなどというと、誰もが「ビクッ!」とし、就職などにも差し障りがあるのではないでしょうか。もっとも新聞などでは、日本でも「有罪の判決を受けるまでは、無罪に推定を受けることが正しい」と言うことが、基本方針となっているようです。英米では、実際にもそのとおりなのですが、日本では起訴されれば、これはもうほぼ有罪だと推定してさしつかえないでしょう。制度上ものそのようなことになっている場合が多くて、公務員が起訴されれば、もうその時点で休職になると言うことになっています。(中略)233頁
模範官僚になるための五つの条件
加藤、官僚が三権を簒奪して、みんながそれを受け入れていると言うことは、官僚に対するある種の信頼感がある、と言う側面がありますね。それとともに、官僚と言うものが民主的な制度としてあり得るためには、どのような条件が必要であるかと言うことを考えたいと思います。
まず 第一に、何と言っても能力がなければなりません。第二に、国益とか国民のためと言う価値観を持っていてくれなければなりません。第三に、責任を取るべきです。そのためには、民意によって免職をさせることが出来る、と言うようにしなければならないのではないでしょうか。第四に、任命については選抜がひじょうに公平で、門地等にかかわらず自由競争のもとに行われなければなりません。第五に、役所に入ってからも特権を濫用しない。これも大切な点です。
これらの条件が満たせば、ずいぶん信頼されることになるでしょうが、現在のところ、このなかのいくつかの条件が満たされていません。官僚の本音は「いつまでも権力を握っていたい」 このように、今や日本の権力は、役人に奪い去られてしまっている。日本の学者よ、役人よ、評論家よ。これを何と見る。借問す。日本の憲法屋よ。この事実に接して、何か言いたいことがあるのか。第九条だけが憲法であるとでも錯覚しきっているのか。これ以上なき憲法違反を、そのまま見過ごすつもりででもいるのか。もう一人、役人が三権を簒奪していることを明確に指摘したのが現役の厚生省検疫課長・宮本氏。その著書「お
役所の掟」(講談社)に曰く。
少なくとも私は、帰国する前は日本も憲法に基づいた三権分立が制度上、確立しているものだと思っていた。だが、帰国後、三権分立について本音と建前の使い分けが存在していることに気がついた。ある晩、厚生省の幹部たちと会食する機会があった。そこで私の日本における三権分立について意見を述べたことがある。「日本はどうして三権分立ではないのでしょう」「いや、三権分立になっているよ。憲法にもそう書いてある」「でも実態は違うでしょう。本当に三権分立ならば、なぜわれわれが法律作成をしているのですか」「いや、政治家も法律を作っているよ」「でも、パーセンテージから言ったら役人が作成している法律が圧倒的ですよ。私が言っているのは実態論であって形式論ではありません。本来、役人の仕事は法律に基づいて国を運営することであって、法律を作る業務は国会議員のはずだと思うのですが」「それは、君の言うとおりだ。でも残念ながら、多くの国会議員には法律を作る能力がない」「彼らは法律を作ることがその主な任務だと考えるのですが」「建前はそのとおり。だが、地元に橋を作るとか、新幹線を通すとか、地元に利益をもたらすことが主な任務なのだ」235頁
「確かに地元に外国企業を誘致するなども政治家の能力の一つだと、アメリカでは見られています。でも法律を作れないのならば議員としての資格はありませんね」「ただね、彼等だって作ろうと思えば作れる。国会には国会の法制局がちゃんとある。おい、ここからはオフレコだぞ。国会の法制局に勤めている職員の法律作成能力が、官僚組織とは雲泥の差なのだ。内閣には内閣法制局という組織があるが、ここに集まる人たちは役人の中でも最優秀とされた人びとだ。だから国会議員がたとえ法案を作ったとしても緻密さが違ってくる。議員立法を見てみろ。スキ間だらけだ。彼らが作るのはザル法なのだ。政治資金規正法案がその典型だよ」「へーっ。そんなものですか。ところで、内閣法制局に集まる人たちは、結局各省庁からの出向人事でしょう。国会の法制局はどうなんですか」「あそこもそうだ」「で、そうならば、なんで国会に集まる人のほうが法律作成能力に劣るのですか」「それはむずかし質問だ。まあ、組織が小さいことが一つあるな。それにお前の言っているように、議員立法は全体の立法案件から比べれば絶対量が少ない。だから、いつも仕事がある内閣法制局とは仕事の密度が違ってくる。それと、やはり優秀な人材は内閣法制局に派遣されるのだろう」「どうしてですか」236頁
「うがった見方と言われるかもしれないが、国会議員は今のままでいてほしいのだ」、「法案作成能力に欠けた立法者にしておく、ということですか」、「まあ、そんなところかな。法律に基づいて国を運営する。これもひとつの権力だよな。でも、法律を作ると言うことは、もっと大きな権力を持っていることなのだ」、「それ私もそう思います。権力はいったん手に入れたら誰も手放したくない。これはひとつの真理ですな。官僚がいつまでも権力を握っていたい、が本音なのですね」、「穏やかな発言とはいえないが、そういう見方もある」。角栄後、日本国憲法は改正された。この理解の上にたたなければならない。ヒトラー後のワイマール憲法のごとくに。237
五章おわり
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