【外務省・通産省関係】 中東政策

更新日/2021(平成31→5.1栄和元/栄和3).6.17日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 1970年代半ばの田中政権時代の中東政策は、戦後日本外交史上極めて特異な親アラブ政策となっている。今日の親シオニズム政策全盛一辺倒の時代に於いて、この史実が秘匿されている観がある。そこで、れんだいこが許さじとばかりにサイトアップしておく。

 2005.3.30日 れんだいこ拝


【「第4次中東戦争とオイル・ショック」】
 1973.10.6日、第4次中東戦争発生。この時、田中首相は、9.26日より「欧州3カ国とソ連歴訪外交」いわゆる「資源外交の旅」に出向いていた。奇しきなことにその最中に第4次中東戦争が勃発した。10.15日、第4次中東戦争にサウジアラビアが参戦する。 

 10.17日、ペルシャ湾岸6カ国が、アラブ石油輸出国機構(OPEC)が緊急閣僚会議を開き、石油の原油生産削減と原油価格の大幅引き上げを一方的に宣言した。これにより中東原油の公示価格は、アラビアン・ライトで、1バーレル3.011ドルから5.119ドルへと約70%の引き上げ、つまり原油価格の21%の値上げとなった。世にこれを「オイル・ショック(第一次石油危機)」と云う。第4次中東戦争の影響であった。

 10.18日、外務省に、クウェートから「各アラブ産油国は石油生産を削減することを決定した。ただしアラブにとっての友好国には影響を与えない」という電報が入る。

 10.20日、アラブ産油国が、イスラエル支持国への一方的石油生産削減、輸出停止を決定。イスラエルを支援する西側諸国を牽制した。

 10.22日、イスラエルとエジプトが、第4次中東戦争の国連安保理の現状維持停戦決議を受諾する。10.23日、シリアが、第4次中東戦争の国連安保理の現状維持停戦決議を受諾する。

 10.23日、オイル・メジャーのエクソンとシェル両社が原油価格の30%引き上げを通告。他のメジャーもこれに追随し、10.25日には10%の供給削減を通告するという事態となった。この国際石油資本の日本に対する原油価格値上げ、供給削減通告も含めて「オイル・ショック」という。これにより1バーレル2ドル40セントだった原油価格が一挙に約4倍に跳ね上がった。

 10.25日、国際石油資本5社が、原油の供給削減に踏み切り、石油危機が深刻化した。当時日本はすでに世界最大の原油輸入国であり、石油の99.7%を輸入に依存し、うち88%が中東からであった。備蓄も「四日分」に過ぎなかった。第一次石油危機は、中近東の安価な石油に依存し、これを大量に消費して高度成長経済を実現してきた日本経済に深刻な打撃を与えた。

 10.31日、兵庫県尼崎市のスーパーで、トイレットペーパーの買占め騒ぎ発生、全国に「物不足バニック」が波及した。

 11.4日、OPECが友好国以外に対して石油生産25%削減を決定する。

 11.11日、第4次中東戦争の停戦協定が締結された。

 11.14日、キッシンジャー国務長官は、中国訪問の帰途日本に立ち寄って、田中首相と会談し、「今アメリカは中東和平工作を進めているので、日本がアラブ寄りに外交方針を変えることは控えて欲しい。無理をすると日米関係にもヒビガ入る」と強調した。これに対し、田中は、日本の中東に対する石油依存度が極めて高く、アメリカが石油の代替供給をしてくれない限り、日本はアラブ寄りにならざるを得ないと訴えた。

 11.16日、閣議で、「緊急石油対策推進本部」を設置し、石油・電力の10%削減などの石油緊急対策要綱を決定。

 11.18日、ウィーンで開かれていたアラブ石油大臣会議が、ECに対する5%の石油削減上積みを免除すると発表する。しかし日本は対象とならず。

 11.19日、アラブの石油戦略に対応するための中東外交転換会議が外務省で開かれる。日本がイスラエルを捨てアラブに寄るという方針転換がアメリカに伝えられる。キッシンジャーは了承せず。

 以上の経緯を踏まえて、田中政権は、親中東政策の採用に踏み切ることになる。


【新中東政策策定】

 11.22日、田中政権は政府部内をまとめ、閣議で、わが国のアラブ支持を明確にした新中東政策となった中東政策の全面的転換を決定した。これを二階堂官房長官が発表した。骨子は、@・武力による領土の獲得及び占領反対。A・1967年戦争の全占領地からのイスラエル兵力の撤退。B・同域内の全ての国の安全保障措置。C・パレスチナ人の正当な権利の承認と尊重。

 また田中内閣の副総理兼環境庁長官三木武夫を中東八カ国へ歴訪させた。後に「油乞い外交」と云われたが、日本はこの経験に懲りて以後、米国追随の中東政策の軸足をイスラエルからアラブ諸国に移し始めた。同時に「日の丸石油」(民族系資本)開発に力を入れることになった。

 2001.10.25日朝日新聞の「テロは世界を変えたか」記事で、中曽根元首相の次のような回顧談が載っている。参考資料として引用する。

 「73年の石油危機の際、アラブの国々が日本への石油を禁輸した。私は通産大臣で非常に困って、アラビア石油の水野惣平社長にサウジアラビアに飛んでもらい、ファイサル国王に『日本経済が危ない。解禁してくれ』と頼んで、国王は『それじゃぁ、政府声明を出して欲しい』と。水野さんが政府声明の案文を持ってきた。その中には『パレスチナの自治(autonomy)を認める』とあった。角さんに『これ呑めや』と電話すると、角さんは『呑もう。大平をくどいてくれ』。外務省はアメリカに遠慮して承知しなかったが、押し切って二階堂官房長官談話を出した」。

 中曽根の癖として自己を過剰演出するところがあるが、そこら辺りを割り引いて読めば当時の雰囲気が伝わる。


(私論.私見)

 タカ派系のお粗末さにアングリ、叩き潰そう

れんだいこ 2003/03/07
 小泉はんの親米ポチ化政策はとどまるところを知りませんが、振り返って銘記しておきたいことを書き付けてみます。我が国の中東問題外交史上、前代未聞の親アラブ政策を見せた一時期があります。恐らく専門家は、「だから云わんこっちゃない、葬られることになったのだ」として冷笑的評価しかしていないと思われますが、れんだいこには逆に見えます。オヤジあなたは偉かった、よくぞそういう見解を披瀝し、政策を採れたものだと。

 どなたかというと、云わずもがな角栄でござんす。それには次のような背景がありました。1973.10.16日「第一次オイルショック」が発生致します。この日アラブ石油輸出国機構(OPEC)が緊急閣僚会議で、石油の原油生産削減と原油価格の大幅引き上げ(中東原油の公示価格をアラビアン・ライトで、1バーレル3.011ドルから5.119ドルへと約70%引き上げを一方的に発表。第4次中東戦争の結果、対抗措置として「石油戦略」を決定しました。続いて、10.20日アラブ産油国が、イスラエル支持国への一方的石油輸出停止を決定。イスラエルを支援する西側諸国を牽制した。

 これを受けて、オイル・メジャーのエクソンとシェル両社が原油価格の30%引き上げを通告。他のメジャーもこれに追随し、10.25日には10%の供給削減を通告するという事態となった。この国際石油資本の日本に対する原油価格値上げ、供給削減通告を「オイル・ショック」という。これにより、1バーレル2ドル40セントだった原油価格が一ぺんに4倍に跳ね上がった。

 11.14日キッシンジャー国務長官は、中国訪問の帰途日本に立ち寄って、田中首相と会談し、「今アメリカは中東和平工作を進めているので、日本がアラブ寄りに外交方針を変えることは控えて欲しい。無理をすると日米関係にもヒビが入る」と強調した。これに対し、田中は、日本の中東に対する石油依存度が極めて高く、アメリカが石油の代替供給をしてくれない限り、日本はアラブ寄りにならざるを得ないと訴えた。

 11.16日田中内閣は閣議で、「緊急石油対策推進本部」を設置、石油緊急対策要綱を決定。

 11.22日田中内閣はこの日閣議で、新中東政策を策定し発表した。それまでの中東政策を転換し、アラブ支持を明確にしていた。二階堂官房長官が次のような声明を発表。
@ 武力による領土の獲得及び占領反対。
A 1967年戦争の全占領地からのイスラエル兵力の撤退。
B 同域内の全ての国の安全保障措置。
C パレスチナ人の正当な権利の承認と尊重。

 続いて、田中内閣の副総理兼環境庁長官三木武夫を中東八カ国へ歴訪させた。これはあまり役に立たなかったようである。後に批判派からは「油乞い外交」と云われたが、この時以来日本は一時的とはいえ、米国追随の中東政策の軸足をイスラエルからアラブ諸国に移し始め、「日の丸石油」(民族系資本)開発に力を入れることになった。

 2001.10.25日朝日新聞の「テロは世界を変えたか」記事で、中曽根元首相の次のような回顧談が載っている。参考資料として引用する。「73年の石油危機の際、アラブの国々が日本への石油を禁輸した。私は通産大臣で非常に困って、アラビア石油の水野惣平社長にサウジアラビアに飛んでもらい、ファイサル国王に『日本経済が危ない。解禁してくれ』と頼んで、国王は『それじゃぁ、政府声明を出して欲しい』と。水野さんが政府声明の案文を持ってきた。その中には『パレスチナの自治(autonomy)を認める』とあった。角さんに『これ呑めや』と電話すると、角さんは『呑もう。大平をくどいてくれ』。外務省はアメリカに遠慮して承知しなかったが、押し切って二階堂官房長官談話を出した」。

 中曽根の癖として史実を無視して自己を過剰演出するところがあるが、そこら辺りを割り引いて読めば当時の雰囲気が伝わる。

 さて、戦後ハト派の真骨頂とも云える国際協調的親アラブ政策が一時期といえどもあった、と云うことになる。戦後、親米の枠内で、主としてハト派系がこう云う努力を積み重ねてきたからこそアラブ諸国の親日性が保たれている、少なくとも今日までは。れんだいこはそう考えている。

 それをに思えば、小泉内閣の親米ポチ化政策が何と矮小な売国路線を邁進していることか。日本の政策は、本当に今のようなブッシュ傾倒イエスマン方式で良いのだろうか、それしか無いのだろうか。れんだいこには、日本のタカ派の正体見たり枯れ尾花のやうに見える。

 我々は今や、昂然と怒るべきではないのか。小泉だろうが石原だろうがタカ派系にこの国の運営を任せて良いのか。口先で愛国と民族精神の称揚を云う連中が、実際には如何にチグハグな反民族的売国的親米ポチ化政策へ忠勤していることか。それは何も外交だけではない。経済政策も政局運営も然りではないのか。我々は、新植民地主義の率先的水先案内人として立ち回るこの愚者どもへ鉄槌を下すべきではないのか。

 思えば、幕末から明治維新の過程は、その後の舵取りさえ間違わなければ、政治的変動を半暴力的半平和的に為し遂げた類稀なる世界史一級の叡智的史実ではなかったか。かの時失政していれば、日本もまた西欧列強の植民地にされる危機が多分に有った。それを未然に防ぎ、繰り返すが暴力的に且つ内戦を避けながら大局観宜しく為し遂げた。まさに偉業であったのではないのか。

 ああだがしかし、今や我等が社会のお偉方がこぞってその遺産を潰そうとしているように見える。愛民族愛国を云う者が、靖国を詣でる精神の他方で戦争狂ブッシュに自ら馴化飼育されることを望みつつある。それはまさに変人的姿態であろう。今や構造改革論の内実が、左様な風に更に我が国を変えようとするものであることがはっきりしているが、この場に及んでもなおしっかりせぇとエールを送る自称インテリがそれに列なっているとは。氷嚢氷嚢これ無くしては今日も眠れない。

【その後】

 11.23日、愛知揆一蔵相が急逝。

 12.5日、田中首相、顔面神経痛で入院。

 12.10日、三木武夫副総理が石油危機打開のため、経済援助という土産を持って中東8ヶ国訪問に出発する。12.12日、サウジアラビアを訪問した三木特使がファイサル国王に会談し、経済援助を約束する。国王は日本は友好国であると述べる。

 三木は田中内閣の副首相として田中資源外交の一端を引き受け、エネルギー特使として中近東各国を歴訪。国王や元首に会い石油相とも会談したが、共同声明すらまとめることなく、空振りさせた。三木の中東訪問は第一日目のサウジアラビア石油相との会談で失敗し、日程の都合上やむなく中東5カ国を回ったという代物になった。派閥のバランス上三木を副総理に据えていたが、足手まといでしかなかった。

 12.22日、第1次石油ショックにともなう石油緊急2法が公布・施行される。

 12.22日、パーレビ国王の招待で、OPEC加盟の石油大臣が会合する。このとき、日本の商社がバレルあたり17ドルで原油を買ったことが報告される。

 12.23日、アラブ産油国の湾岸六カ国は、OPEC会議を開き、原油公示価格を11.65ドルへの引上げを74.1.1日から実施することを決めた。僅か2ヶ月余りで約4倍、72年末に比べると4.7倍になった。

 12.25日、OPECが日本を「友好国」とし、原油を必要量供給すると宣言する。




(私論.私見)