【通産省関係】 日米繊維交渉

 更新日/2017.1.12日

 日米繊維問題には次のような経過があった。1969(昭和44).1月、アメリカ大統領ニクソンが、大統領選挙の際に南部の繊維業者に対して繊維産業保護の公約を行った。これに基づいて、5月、スタンズ商務長官が日本に派遣され、毛・合繊製品の対米輸出規制の協定締結を要請した。7月の日米貿易経済合同委員会で、アメリカ側は公式に、繊維製品の対米輸出の自主規制を求めた。ここから「日米繊維問題」の政治化が始まった。ニクソン大統領の大票田である南部の繊維業者の突き上げもあって、強硬なものとなった。他方、大屋晋三を会長とする日本繊維産業連盟が結成され、意気軒昂であった。日本の繊維産業が黙っていなかった為、日本側は、アメリカの要求を飲むことはできなかった。当時アメリカは対日貿易赤字に悩んでおり、単に通商問題のみならず外交問題にもなりつつあった。

 佐藤首相はこの問題を解決するために、大平、宮沢という実力派の政治家を次々と通産大臣に任命し、3年にわたって交渉に当たらせたが進展がなかった。1971(昭和46).2月、ミルズ米国下院歳入委員長によるミルズ案が提示された。しかし、日米の妥協点には至らなかった。そこで最後の切り札として、懐刀の田中角栄を登板させた。佐藤首相から、「田中君、おい、君が何とか片付けてくれ」と通産大臣を任命されようとしていたが、それは危険な賭けでもあった。二階堂、久野らが「オヤジ、泥をかぶることはないじやありませんか」と心配したが、角栄は、「佐藤政権の最後の責任は俺が全部とる。敢えて火中のクリを拾うよ」と云いながら通産大臣を拝命した。
 
 小林吉弥は次のように評している。

 「田中角栄が重要ポストに就くと、運命的と言うべきか必ず目前に難問が立ちはだかった。郵政大臣時は、大量申請の中から至難のテレビ予備免許裁きであったり、大蔵大臣時は金融恐慌危機、即ち『山一證券』の救済などである。『天下取り』決戦目前での通産大臣就任が、また同じであった。田中通産相の前に立ちはだかっていたとは、当時、最大の懸案と云われた日米繊維交渉であった。米国は、時に貿易収支が悪化しており、その大きな要因の一つに日本の繊維製品輸出の増加を挙げ、自主規制を強く求めていた。しかし、田中の前の通産省の大平正芳、宮沢喜一は事態打開に立ち向かってはみたものの何ら糸口を見出せず、3年間にわたり交渉は暗礁に乗りあげたままだった。特に、時のニクソン大統領は自らの大票田の南部諸州の繊維業者の突き上げもあり、姿勢は強固そのものであった。ところが、日本側が米国の貿易収支の悪化を分析すると、必ずしも日本の繊維製品の輸出で米国の業者が大きな被害を受けている事実はなく、ために日本国内の繊維業界は輸出規制に断固反対、これが繊維交渉が暗礁に乗り上げていた原因だった。こうした中で、田中に交渉打開のお鉢が回ってきたということだった」。(週間実話2017.1.5日号、小林吉弥「田中角栄 侠の処世」)

 1970(昭和45).7.5日、第三次改造内閣の第一次内閣改造で角栄が通産大臣に就任。この時、福田は大蔵大臣から外務大臣になった。保利茂幹事長、竹下登内閣官房長官の布陣となった。通産相に就いた角栄は、通産官僚たちをこんな就任スピーチで笑わせた。

 「私は東大を出ていない。しかし、仮に東大を出ていれば卒業年次は(昭和)16年前期だ。今の次官は16年後期。私は大臣として初めて後輩の次官と相まみえることになった」。

 角栄は、通産相就任にあたり通産省幹部を集めて次のように訓示した。

 「この交渉はスジ論だけではダメだ。この際、清水の舞台から飛び降りる決意が必要だ」。

 大臣就任後の僅か10日後に、ニクソン大統領から特命を受けたデヴィッド・ケネディー特使と会談し、これまでのやり方では通用しないことを悟った。下河辺淳氏の「秘話」は次のように語っている。

 概要「下河辺が、通産相就任直後に田中を訪ねたとき、田中は悲鳴のような口調で訴えた。『佐藤さんに通産大臣をやってくれと云われて、躊躇せずに引き受けたのだが、沖縄返還というのは大変なことなんだ。幹事長を五期もやっていたのに、何も分かっていなかった』。下河辺が『繊維交渉のことですか』と問うと、田中は大きく手を握り云った。『繊維なんて簡単なことだ。宮沢には出来ないけど、オレがやれば何でもない。しかし、沖縄返還はそんな単純なことじゃない』。田中の云う『大変なこと』とは、沖縄返還と引き換えに、繊維交渉でアメリカの要求を全面的に呑むだけでなく、ロッキード・トライスターや軍用機の購入などいくつもの約束をしていたことを示唆していた」。

 9.9日、日米経済閣僚が一堂に会する第8回日米貿易経済合同委員会が米国の観光地ウィリアムズパークで開かれた。日本側は、福田外務大臣、田中通産大臣、水田三喜男大蔵大臣が出席、アメリカ側は、ロジャーズ国務、ジョン・コナリー財務、スタンズ商務の各長官が出席した。事前のテキサス州出身のコナリー財務長官との会談があった。この時、コナリー財務長官は、テーブルを叩きながら日米の貿易不均衡を攻め立てた。新米大臣の田中が何を言うかと固唾を飲んで見守っている中、田中は、次のように堂々と反論している。

 概要「(繊維問題に対しては、)日本の繊維業界は農民と同じで、団結が固く、妥協させることは困難である。それに米国にはこれといった被害がでていないではないか。被害なきところに規制なしだ」。

 こう述べて、田中通産相は一歩も譲らなかったという。米国が対日貿易で赤字であり、この大幅赤字が米国の相対的利益を押し下げているとの批判に対して、次のように反論した。

 概要「(貿易不均衡に対しては)貿易は多数国を相手にするものであり、黒字のところもあれば赤字のところもある。いつも二国間でバランスを取らねばならないというのは無理がある。日本は米国に対しては黒字かも知れないが、産油国に対しては赤字になっている。個々の国との貿易を仔細に見ればマイナス貿易も多い。決して、我が国は黒字利益を貪っている訳ではない。貿易不均衡問題は、全体のバランスに関わっている」。

 当時通産省で大臣秘書官だった小長啓一氏はこの時の角栄の交渉ぶりに舌を巻いている。角栄は、相手の論法を受け入れ、同じ論法で切り返す弁論能力を示した。これに反対すれば、自分達の論法が否定されるというジレンマに追いやられた。角栄の交渉術、弁論能力は、日本の官僚の度肝を抜いた。

 角栄は、会議から帰国後、「君等の云う通り主張してきたが、このままではどうにもならんだろう。主張だけでは解決しない。局面打開を図らねばならんな」と対策を練り始めた。「理不尽ではあっても、ある程度アメリカの要求は飲まなければならぬ。その代わり日本の業者の救済をする。日米貿易の今後の発展を考えたとき、繊維問題でこれ以上こじれるのは得策ではない」というのが田中の判断であった。この時の角栄には、「日米貿易の今後の発展を考えたとき、繊維問題でこれ以上こじれるのは得策ではない」という目線での判断があったことは銘記されるべきであろう。

 180度の方針転換であった。角栄は、この指針に基づいて、国内の繊維業界の廃業した機械を国で買い上げるという発想で精力的に国内の調整を進め、10.6日、日米繊維問題で、自民党三役、野党書記長らと会談、政府の方針を説明した。10.15日、東京・千代田区の通産省で行われた東京会議で、ケネディ米大統領特使と「日米繊維問題の政府間協定の了解覚書」仮調印に漕ぎ着けた。合意内容は、1971.10月から3年間、日本側は対米繊維輸出を自主規制し、総枠で9750万ヤードの規制水準を維持する。2・規制対象は全ての毛、化合繊を対象とする。3・その見返りとして、米側は日本の繊維製品にかけた輸入課徴金を適用除外にすることを約束する。

 こうして、日本側がアメリカ側の提案を呑んだ形で解決させた(本協定は翌47.1.3)。過去2代の通産大臣にわたり混迷を続けた繊維交渉を、田中通産大臣は就任後のわずか3ヶ月でまとめあげて、外交における非凡な能力を内外に示したことになる。調印後直ちに実施した。

 「火中のクリを拾い、自分の責任において結論を出し、見事に裁く」好例を見せつけた。宮沢喜一、大平正芳の二人の通産大臣が解決できなかった難問であったが、国内の繊維業界の廃業した機械を国で買い上げるという発想で切り抜けた。この時の「竹下登談話」は次の通り。

 「世界の流れは流れとして受け入れ、後は徹底した国内生産者対策を練り上げる」、「それは我々が全く考えが及ばないほどの、大胆且つユニークなものであった」。

 大屋晋三日本繊維産業連盟会長は、「糸を売って、縄を買うのか!」と怒り、「かかる暴挙に対して、あらゆる手段を尽くして、あくまでも政府の責任を追及する」という抗議声明を発した。衆議員に田中角栄通産大臣不信任案が、参議員で問責決議案が提出された。この時、角栄は、日米関係の長期的視野にたって、自分自身はこれくらいのことには耐えねばならない、と意に介さなかった。

 繊維業界に二、三千億円の補償をすることになったが、大蔵省からこれを引き出すことは、実際には並大抵ではなかった。通産事務当局も「そんなことおっしゃるけども、できるんですか」と半信半疑だった。が、角栄は、水田大蔵大臣、佐藤首相との協議で「その線で進めてみよう」の言質を取り、すぐさま大蔵官僚首脳(相沢英之主計局長、大蔵真隆局次長)に膝詰め談判で了承させた。

 12.15日、救済対策費1270億円が補正予算で計上され、日米繊維交渉は決着した。こうして、「火中のクリを拾い、自分の責任において結論を出し、見事に裁く」好例を見せつけた。宮沢喜一、大平正芳の二人の通産大臣が解決できなかった難問であったが、アメリカに乗り込み、電光石火、あっという間にこの難問を解決してしまった。

 田中の予想通り、野党は通産省不信任案を提出、繊維業界も強い怒りを表明し、メディアも叩いた。田中は悪役に堪えた。福田寄りの保利をして、「角さんの決断は、あっぱれ」と激賞させている。

 当時通産相秘書官であった小長啓一氏は30年後の回想で次のように述懐している。

 「凄い人だったと改めて思います。理屈では駄目だと察知した勘も凄いが、業界の損失を丸ごと国が被るという発想は、それまでなかった。大蔵省がそんなものを受け入れるなんて、誰も思わなかったからね」。
 「政治家の出番というものがどんなものか肌で感じた。官僚には、とうていできない発想だ」。

 「世界の流れは流れとして受け入れ、後は徹底した国内生産者対策を練り上げる」、「それは我々が全く考えが及ばないほどの、大胆且つユニークなものであった」(竹下登談話)というのが識見としてあった。

 渡部昇一氏の「萬犬虚に吠える」の「『田中角栄の死』に救われた最高裁」の「『カネ』でどのように解決したか」の項は次のように評している。

 「なかなか解決がつかず、時の通産大臣・宮沢喜一氏は何らなすことなく、時間が経っていくばかり。佐藤首相まで食言をアメリカで指摘される有り様であった。それで、第三次の佐藤内閣は田中角栄を通産大臣にした。そうしたらたった3ヶ月で解決してしまった。その後、繊維摩擦は、少なくとも思いだせるほどの形では起っていない。それほど究極的な解決の仕方であった。それはアメリカの反論をなくしたのみならず、決して日本の繊維界を潰したものでないことは、今日も日本の繊維界は世界最強であることを見ても明らかです」。
(私論.私見) 「サヨ族の日米繊維問題解決における角栄方式批判」について

 この一連の経緯における「日米繊維問題解決における角栄方式」について、現代サヨ族は、次のように批判している。「日米繊維交渉、田中の解決策とは、アメリカの要求を『ほとんど丸飲み』することだった。これに日本の繊維業界は怒ったかというと、少しも反発しなかった。業界は莫大な損失補償を手に入れたからだ。田中にとって、問題解決とは、つまり双方に札束を握らせるということであった」。

 この批判は正当だろうか。れんだいこには、つまらない愚見披瀝であり、為にする批判であるように思われる。この手合いにかかると、歴史の風雪に耐える業績でさえ、いとも容易く批判の対象となる。日中国交回復交渉の手際でさえ、「角栄でなくても誰でも為しえた。台湾を切った方が犯罪的云々」批判となる。この手合いと議論することさえ億劫になるので、これ以上れんだいこ見解を開陳させない。話し合っても分かろうとしない者を分からせる技量がれんだいこにはない故に。

 ちなみに、現代サヨ族は、現在の日本が抱える国債等々の過重国家債務についても、その責任が角栄政治にありとして、次のように批判している。「現在日本を破滅の瀬戸際に追いつめている700兆になろうとする巨大な財政赤字が残され、すさまじい勢いで増殖しつつある。その温床となっているのが、角栄の築き上げた金権と利権の社会システムである」。云っている当人は通説故に何ら疑問なくこのように指弾しているのだろうが、この「諸悪の根源が角栄なりとする元凶説史観」は真っ当なものだろうか。れんだいこには、刷り込まれたプロパガンダの安易な請け売りに過ぎないと思う。どだい資本主義的ないしはブルジョア制度的悪弊に求めるところのものを角栄一人に被せるのはナンセンスの極みではないか。

 人は誰しも体制の中で泳いでいかなければならない。体制下で漕ぐ以上は体制の諸手段、機構、権力に依拠せざるをえないというのは分かる話ではないか。その過程で、彼が何を求め果実させたのか、ようとしたのか、その良し悪しを見て取るべきではなかろうか。角栄のように社会的基盤整備に蛮勇の精力を注ぎ込み、相応の成果を歴史に残した者に対しては、それを慈悲的に観る思いやりもまた居るのではなかろうか。れんだいこはそのように思う。

 2005.2.11日 れんだいこ拝





(私論.私見)