【厚生省関係】 医師会との健保問題解決

 更新日/2021(平成31→5.1栄和元/栄和3).2.17日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 1961(昭和)7.18日第二次池田内閣の政調会長に就任した角栄に待ち受けていたものは、日本医師会との折衝であった。当時武見太郎を会長とする日本医師会は全国7万人余りを抱える自民党の有力圧力団体であった。この8.1日を期して「医療費の値上げを認めなければ、健康保険の医者は、全部辞める」とする「保健医総辞退」圧力で政府・自民党を恫喝していた。灘尾弘吉厚生大臣はこれを認めず、かくて交渉は難航していた。この当時武見氏はケンカ太郎、武見天皇と云われるほどの、吉田茂元首相との姻戚関係もあって政治的影響力を持っていた。

 角栄が政調会長になってまだ半月ばかりの7.24日と25日の両日、角栄は御茶ノ水の医師会館に乗り込み、武見太郎日医会長らと会談し、こじれていた保険医総辞退問題解決に向けて動き出した。角栄開口一番次のように述べ協力依頼した。
 「私は初めて横綱に立ち向かった十両のようなものです。この案を承知してくださらんと、政府自民党とも、医師会を見捨てざるを得なくなると云う事態も考えられます。私としては真剣に成案を考えたい」。

 武見は、「同じ新潟県人のキミに乗り込んで来られては喧嘩にならんなぁ」と受け止めた。「隣村同士の出身だから知っていたし、面識もあった。だから、(対決ではなく)気楽に話し合った」(日本医師会会長武見太郎)の伝がある。この時、厚生省案を携えていったが「こんな古証文では話にならん。出直してもらいたい」と言い渡され、物別れとなった。

 以降、両者の胸襟を開いた折衝が続いて行くことになった。期日の一日前の7.31日、角栄は再び医師会館に乗り込んだ。角栄が最終的成案を提示し、 「この案を承知してくださらんと、政府も自民党も、医師会を見捨てざるを得ません。お互いに真剣に成案を考えましょう」と、武見に切りこんで行った。この時、余人の真似できない芸当を演じている。白紙の下に「右により総辞退は行わない」と認(したた)めた白紙委任の便箋を渡し、「ここに思うとおりの要求を書き込んでください。但し、政治家にも分かるように書いてください」と内容一切を武見会長に下駄を預けた。武見医師会がこの収拾案を基調とし、便箋を受け取り、「医療保険制度の抜本的改正」、「医学研究と教育の向上と、国民福祉の結合」、「医師と患者の人間関係に基づく自由の確保」、「自由経済社会における診療報酬制度の確立」という四原則と、「医療懇談会設置」という付帯事項を書き込んだ。この時の遣り取りを後に武見氏は次のように回想している。
 「田中さんは僕とずっと話し合ってきて『あいつならそう無理なことを云うまい』と信頼したのだろう。僕も田中さんを信頼できると思ったから具体的なことは書かなかった。相手の都合もあることだし抽象的に書こうと思った。信頼関係に基づいて文書を交換するときはああいう形でなければならない」(「実録・日本医師会」)。

 このメモを持って帰った角栄は、自民党幹部会を開き、池田首相、灘尾厚生大臣、党三役で白熱の議論を続けた。厚生省の役人の向上を受け継ぐ灘尾氏を漸く説き伏せ、議論を制した。「保険医総辞退」を掲げて政府と対決していた当時の難問題であった健保問題はこうして解決し、角栄が実力を見せつけ「タダ者ではない」との評を得た。

 角栄は、改めて医師会館を訪れ武見に報告に出向いている。この時、武見は、角栄を評して「あいつは若いが、信頼できるよ。馬鹿の一つ覚えのようなやり方は、決してしない男だ」、「あいつは、どんな状況にも、戦法を変えて応じてくる。どんな相手に対しても、必ず自分の言うことを納得させるという、天分を持っているよ」と云ったと伝えられている。武見氏もまた傑物であることを思えば、その武見氏にここまで信頼された角栄の非凡さを認めるべきであろう。

 2008.3.1日 れんだいこ拝

 2017.1.23日、「相手のプライドをくすぐる、田中角栄の“殺し文句”テクニック」。
 昨年は、田中角栄再評価が頂点に達したとも言える年だった。2015年に刊行された『田中角栄 100の言葉』が好調な売れ行きを示したのに加えて、石原慎太郎氏の小説『天才』も大ベストセラーとなっている。このブームに関しては、すでに様々な分析がなされているが、確かなのは実に魅力的なエピソードが多く紹介されている点だろう。角栄の魅力を「殺し文句」という点から見つめ直したのが、コピーライターの川上徹也氏だ。川上氏は古今東西の有名人の「殺し文句」を分析、解説した新著『ザ・殺し文句』の中で、角栄に関しては他の誰よりも多く行数を割いている。その中から、2つのエピソードを紹介してみよう(以下、同書をもとに要約)。
 ■「白紙を持ってきた。どうか思うとおりの要求をここに書き込んでくださいよ」

 1961年7月、池田首相は内閣改造で田中を自民党政調会長に任命した。当時、前内閣から引き継いだ最大の懸案だったのが、日本医師会との間で対立していた同年4月の国民皆保険開始にともなう医療費値上げの問題である。日本医師会は当時7万人以上の会員を抱える自民党の有力圧力団体で会長は武見太郎。豪腕でケンカ太郎の異名を持つ人物だ。武見は、政府の国民皆保険政策に対し,開業医の立場を強力に主張しており、国民皆保険に対して、「医療費の値上げを認めなければ、8月1日に医師会から保険医を総辞退する」と自民党を脅していた。このような状況の下、田中は就任してすぐに武見と会談を設定する。場所は相手のホームグラウンドともいうべき医師会館。そこで田中は、以前から提案していた厚生省案をみせたが、武見は「話にならない。出直してもらいたい」と一蹴した。その1週間後、田中は再び医師会館に乗り込む。交渉期限の前日、あらかじめ池田首相には「交渉は決裂するかもしれません。覚悟しておいてください」と仁義を切ってからの交渉だったという。会長室に入ると、田中は懐からいきなり白紙に「右により総辞退は行わない」とだけ書いた便箋を取り出すと、こんな「殺し文句」を放った。「武見さん、わたしら素人で、医療のことはよくわかりません。ですからわたしは、こうして白紙を持ってきた。どうか思うとおりの要求をここに書き込んでくださいよ。ただし、政治家にもわかるように書いてくださいね」。すると武見は、その便箋を奪い取って要求を書き始めた。ただし、 武見はこの時、あえて具体的なことは書かなかった。具体的なことを書いてしまうと、田中を困らせることになる。白紙を渡すということは自分を信用してくれているということ。あえて抽象的なことを書くことで田中への信頼を返したのだ。「このメモさえあれば勝負できます。任せてください」。そう言うと田中は部屋を出た。その後も様々な経緯はあったものの、結局、武見が書いた原則を押す田中案でまとまり、日本医師会から保険医の総辞退という事態は避けることができたのである。武見はこの時、知人に田中のことをこう評したという。「あいつは若いのに信用できる。馬鹿のひとつ覚えみたいなやり方はせず、相手によって戦法を変えてくる。必ず自分の言うことを通す天分を持っている」。





(私論.私見)