【建設省関係】 議員立法

 (最新見直し2011.04.30日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 日本の法律の多くは内閣立法であり、官僚が法案を作成している。このため、日本の国会は立法府としての機能を十分に果たしておらず、三権分立という民主主義の根幹に問題をかかえている。このことに照らすと、角栄の議員立法歴には瞠目すべきものがある。

 角栄は、1947(昭和22)年の初当選後、戦後復興関連の議員立法に執念を燃やした。自ら提出者として成立させた議員立法は、初当選からの10年間に25法、42年間の議員生活を通じて実に33法、同僚議員との共同提出や協力して成立させた関連立法は84法、直接、間接に作成した法律は100件以上を数えている。この記録は前代未聞であり、凡百の政治家の真似できないところである。この記録は今後も破られそうにない。 

 角栄は、土木建築畑出身の専門性を発揮し、建築士法、住宅金融公庫法、公営住宅法を手始めにダム法、道路法、港湾法、河川法へ向う。次に、高速道路法、新幹線整備法、地域開発法へ向かい、次第に国土総合開発という観点からの必要事業を手掛けて行き、数多くの実績を残していることが分かる。同じ議員立法でも、最近のそれはちまちましており、国家百年の計に資するものがどうか判然としないものが多い。その点で、角栄の公共事業関係議員立法による一連の社会基盤整備が、昭和30年代から40年代へかけての高度経済成長の基盤となり、国富増進に資したことは疑いない。

 その角栄は後に、金権利権土建屋政治家として批判を浴びせられることになった。しかし、角栄が手掛けた以下の議員立法に通暁すれば、角栄が私利私欲の為に働いた訳ではないことが判明しよう。これを論より証拠と云う。しかるに日共系、立花系は何を論拠としてか悪徳政治家呼ばわりして、角栄の政治的業績を葬ってきた。今や、このことを批判的に総括する必要があろう。

 角栄は、これら全ての業績を集約する形で日本列島改造案まで進む。そこには国土の均衡的発展を要とする国家百年の計があった。昭和40年代後半からクローズアップされてきた公害、環境問題への対策が甘かった欠点は有るが、角栄健在なら必ずや更なる叡智を発揮していただろう。

 しかし如何せん、例の批判合唱から始まるロッキード疑獄により手かせ足かせを嵌められ、国政関与ができなくされてしまった。以降の日本の舵取りは、それまで蓄えられた国富の食い潰し政策であり、まともな指針を打ち出すことが皆無となった。今日、公共事業が目の仇にされ、与野党マスコミ問わずそれを合唱している様は、国家が自分の首を絞めて恍惚の法悦している愚に似ている。

 2005.9.7日、2009..6.20日再編集 れんだいこ拝

【角栄の議員立法考】

 角栄が議員立法として成立させた法案は33件にのぼり、この抜群の記録はいまだに破られていない。そして、その法案の多くは「生活関連及び国土開発とその為の特殊法人」に関するものである。角栄は数多くの議員立法を手がけた不世出の異能政治家であったことになる。

 これにつき、増山榮太郎氏は「角栄伝説」の中で次のように述べている。

 「田中が議員立法として成立させた法律は、32件にも上る。この記録は、その後も破られていない。議員立法を成立させるのは、当時も今も並大抵の作業ではない。立案するだけでも大変だが、成立させるとなるとその何十倍も困難を極める。

 三権分立の原則を重んずるアメリカ議会は、立法作業は上下両院議会の仕事だ。その為議員は、多くの政策スタッフ秘書を抱えている。しかし、日本の場合、官僚の権限が強く、各省庁が国会へ提案する法律案を党政調各部会で事前審査するが、議員自身が立法することは少ない。もちろん、国会議員は誰でも、法案を立案し、成立させる権利を有しているが、多くの場合、政治が提出する法案を審議し成立させるだけに終わる」。

  云うは易く行いは難しい。議員立法には、超人的な勉強と卓越した能力が必要とされる。関連法規全てを熟知し、その地平に立って新たな法律を作らなければならない。もしそれが的外れであったり、穴だらけのザルであったなら、第一役人達が横を向いてしまう。役人を納得させ、あたうならば協力させ、手伝わせる手腕が必要とされる。加えて責任を取る者でなければついて来ない。角栄は非常なる勉強家であったし、それらの能力を発揮したからこそ数々の議員立法が可能となった。

 角栄自身が次のように述べている。

 「戦後の政治家は行政に精通し、予算書が読めて、法律案文を修正することが政治だと錯覚に陥っている者が多い。それでもいいが、国民各層の個別的な利益を吸い上げ、それを十分にろ過した上で、国民全体の利益に統合し、自らの手で立法することにより政治や政策の方向を示すことこそ、政治家本来の仕事であることを明確にしておきたい」(「中央公論」昭和42年6月号)。

 「文芸春秋」(昭和56.2月号)での田原総一朗氏のインタビューに次のように応えているのも注目される。

 概要「私は法律や予算や制度のコンサルタントです。そう云い切れるのは、法律の条文のその一行、その一語が生まれた背景のドラマ、葛藤、熾烈な戦い、それらを知っているからです」(猪瀬直樹「死者達のロッキード事件」)。

 角栄は、昭和44年組当選議員(小沢・羽田・梶山ら)の祝いの会での挨拶で次のように述べている。

 「皆もっと勉強して議員立法をしなきゃいけないよ。わしは今までに住宅、食糧、道路など33件の議員立法をしたよ」。
 「政治家の仕事は何か。政策を作って立法化することだ。『議員立法』っていうやつだ。政策は官僚がつくるものと思っていたら時代に取り残される。政策を作れんやつは政治家を辞めたほうがいい。ワシは、これまでいくつもの議員立法をしてきた。---その為には夜寝る暇も無く勉強した。まぁ、かあちゃんと仲良くする時間はあったがな」。

 田中は、後になって田中派の若い議員が来るたびに、地方のことは地方議員に任せればよい、君達は立法府の議員なのだから議員立法に取り組みなさいと勧めている。佐藤昭子は次のようにコメントしている。

 「そうすればうんと勉強になるし、それが何よりの選挙運動になるんだ、やり方が分からなければ、俺の持っている知恵を全部貸してやる」。
 「『いやぁ、オヤジさんは天才だからできるけど、俺達にはそんな力が無い。選挙区通いをして落選しないように運動するのが先決です』というばかりで、誰も本気で取り組もうとしていない。結局、国会議員が議員立法に取り組まなくなったことが、政治家を怠惰にし、自らも選挙屋に貶めてしまった」。
 「地方のことは地方議員に任せればよい。君達は立法府の議員なのだから、議員立法に取り組みなさい。そうすればうんと勉強になるし、それが何よりの選挙運動になるんだ。やり方がわからなければ、俺の持っている知恵を全部貸してやる」。

 猪瀬直樹氏の「死者達のロッキード事件」より引用する。

 「憲法には、国会は唯一無二の立法府と書いてある。内閣や行政府(官僚機構)が法律を作れ、とは書いていない。立法は国会の専権と書いてあるッ。しかし、国会議員は自分達にその能力が無いから、政府提出の法案を唯々諾々と審議しておる。これでは欽定憲法時代の、旧帝国議会の姿と変わりない。・・・・・現在、提出法案の95%以上が政府提出法案であるところを考えてみると、国会議員はもっと勉強しないといかん、と云わざるを得ないッ。そういう意味でね、若い代議士諸君にはいつも議員立法やらんといかんと、いっておるのです」。

 かく本人の述べるように、角栄は初当選からの10年間に25法の議員立法を実現、42年間の議員生活を通じて33法、生涯に陽の目を見させた議員立法は72件、直接、間接に作成した法律は100件以上という空前の業績を為している。事実、後にも先にも出ない、不世出の記録保持者となっている。

 特に精力的であったのが昭和25年からである。この年6件、翌26年に7件、翌々27年に8件のこの3年間に21件の法律を成立させている。その内容は、住宅、道路、国土開発などの国民生活環境の整備や、社会的弱者に対する支援救済立法であった。「昭和20年代の田中は、議員立法に政治生命を賭けたのである」(早坂茂三「政治家 田中角栄」)。

 これを評して、小室直樹氏は次のように云う。

 「戦後日本の民主主義における政治家・田中角栄の最大の遺産は何か。答えは簡単だ。田中角栄だけが立法府たる議会を機能せしめた」(「悪の民主主義」181P)

 早坂茂三氏も次のように云う。

 「田中が議員立法に汗まみれだったのは、アメリカ占領軍が超法規的な権力として、日本に君臨していた時代だ。その中で、議員立法を為し遂げるというのは、今では想像もできないような重圧があった。これと戦いながら、あるいは迂回し、なだめすかしながら、次々と主張していった苦労は、並大抵ではなかったと思う」(早坂茂三「宝石・平成元年12月号」)。

 この一連の議員立法が後の公共事業(道路、港湾、鉄道、住宅)の法的根幹になっていく。つまり骨格作りとなった。角栄のこうした裏方的社会基盤整備に向けた国土開発は、池田首相の高度経済成長路線と相まって車の両輪の如く日本経済を発展させていくことになった。

 水木楊・氏は、「田中角栄その巨善と巨悪」(13P)の中で次のように評している。

 「こうした田中の業績は嚇嚇たるものがある。歴史はその価値までも否定できはしない。すべきでもない」。

【田中角栄の議員立法及び傾注立法】
 角栄以前の立法として、1945(昭和20)年、国土計画基本方針、1946(昭和21)年、復興国土計画要綱、1947(昭和22)年、国土計画審議会が策定されている。

 *印は、議員立法ではないが、角栄の関与、目配りのある法律、事項である。主として、「治山、治水、治雪」を念頭に具体的には住宅、道路、港湾、ダム、新幹線、都市開発に努力傾注していったことが分かる。
西暦 和暦  議員立法
1949 24 第1号  建築士法
 衆議院の国土計画委員会(後の建設委員会)の中に地方開発小委員会をつくり、電源開発の基本的な討議を行っている。以降、この審議を皮切りにして議員立法が作成されていく。
 *総合国土開発審議会が設置される
1950 25 第2号  国土総合開発法
 内閣提案の形をとっているが、角栄の議員立法であった。
 *国土総合開発審議会が設置される
第3号  住宅金融公庫法
 *港湾法、北海道開発法、首都建設法が制定される。
1951 26 第4号  河川法一部改正
 国土開発や、経済発展という観点から一部改正され、原因者負担の大原則を確立し国の負担への道を拓いた。
 *経済自立三カ年計画案発表、自立経済審議会発足
第5号  公営住宅法
第6号  電源開発促進法
 GHQの抵抗があり、粘り強い交渉を要した。
第7号  道路法改正
 28年公布。有料道路制を導入した。
1952 27 第8号  道路整備費の財源等に関する臨時措置法(ガソリン税法)
 28.7月成立、28.7.23日公布
第9号  道路整備特別措置法(有料道路法)
第10号  水資源開発促進法
第11号  各軍港都市整備法
第12号  北海道東北開発法
第13号  官庁営繕統一法
第14号  高速道路連絡促進法
第15号  新幹線建設促進法
第16号  ダム特別会計法
第17号  水特別会計法
第18号  港湾特別会計法
第19号  トン税法
 *企業合理化促進法、国土総合開発法一部改正、農地法。電源開発(株)発足。
1953 28  *港湾整備促進法、離島振興法。
1954 29  *土地区画整理法。
1955 30  *経済自立五カ年計画、愛知用水公団、日本住宅公団。
1956 31  *道路整備特別措置法、日本道路公団、首都圏整備法、工業用水法、空港整備法。
1957 32  *新長期経済計画、国土開発縦貫自動事道建設法、高速自動車国道法、東北開発促進法、東北開発株式会社、特定多目的ダム法。
1958 33  *工業用水道事業法、道路整備緊急措置法、首都圏市街地開発区域整備法、公共用水域の水質の保全に関する法律、工場排水等の規制に関する法律。
1959 34  *首都圏の既成市街地における工業等の制限に関する法律、特定港湾施設整備特別措置法、九州地方開発促進法、首都高速道路公団。
1960 35  *国民所得倍増計画、治山治水緊急措置法、四国地方開発促進法、北陸地方開発促進法、中国地方開発促進法、東海道幹線自動車道建設法。
1961 36 第20号  水資源開発促進法
 「治水特別会計」に大蔵省が頑強に抵抗したが、押し切った。
 *港湾整備緊急措置法、後進地域の開発に関する公共事業等に係る国の負担割合の特別に関する法律、低開発地域工業開発促進法、産炭地域振興臨時措置法。
1962 37  *新産業都市建設促進法、水資源開発公団、全国総合開発計画、豪雪地帯対策特別措置法。
1963 38  *近畿圏整備法。
1964 39 第21号  河川法全面改正
 *首都建設法、首都圏整備法。続いて、低開発地域工業開発促進法、新産業都市建設促進法、工業整備特別地域促進法、地域ブロック(北海道、東北、北陸、中国、四国、九州)開発法。
 *日本鉄道建設公団
1965 40  *中期経済計画、山村振興法。
1966 41  *中部圏開発整備法、国土開発幹線自動車道建設法、新東京国際空港公団。
1967 42  *経済社会発展計画、公害対策基本法、外貿埠頭公団。
1968 43  *都市計画法、自民党都市政策大綱。
1969 44  *新全国総合開発計画、都市再開発法。
1970 45  *過疎地域対策緊急措置法、新経済社会発展計画、本州四国連絡橋公団、全国新幹線鉄道整備法。
1971 46  *農村地域工業導入促進法。
1972 47  *工業再配置促進法。

【住宅法について】
 「住宅公団10年史」(昭和40年刊)には次のように記されている。「戦争は日本の多くの都市に、壊滅的な破壊をもたらしたところで終結した。210万戸の住宅が失われ、しかも復員や海外からの引き揚げで64万戸ほどの世帯が増加し、住宅不足は420万戸に達すると云われた。住宅の状況は絶望的であった」。

【河川法一部改正について】
 旧河川法では、橋も鉄橋も仮設物としてしか認可されていない為、国が堤防のカサ上げをする河川工事の際には、仮設物設置者の費用負担で一緒に位置を上げねばならなかった。それを「河川の所有者である国が負担する」ことにした。

【全国総合開発計画(「全総」)について】
 1950年、国土総合開発法が制定されている。内閣提案の形をとっているが、角栄の議員立法であった。後に日本列島改造論を唱えることになるが、その淵源はこの議員立法時代に発している。国土審議会が設置され、建設省の最高幹部・下河辺淳が会長となり審議を指揮することになる。

 当初は、特定地域の開発計画の策定、推進に重点がおかれていた。これが後に文字通りの全国レベルの国土総合開発に発展する。1954(昭和29)年、経済審議庁計画部から国土総合開発法に基づく全国総合開発計画として「総合開発の構想(案)」が発表され、目標年次を1965(昭和40)年としていた。
1960(昭和35)年、池田内閣は「国民所得倍増計画」を策定。この中で太平洋ベルト地域の工業開発を重視した「太平洋ベルト地帯構想」が打ち出された。1961(昭和36).6月、通商産業省が工業適正配置構想を示し、続いて「地域間の均衡ある発展」を図ることを目標とした「全国総合開発計画」の草案が閣議了解され、1962(昭和37).10月、正式に閣議了解された。これにより、1965(昭和40)年から始まるとされていた第一次全国総合開発計画(略称「全総」)が前倒しで実施されることになった。これが第1回目の全国総合開発計画となる。1970年まで続いた。

 以下、第2次全国総合開発計画(略称「新全総」)が1969(昭和44)年、佐藤内閣の時、130兆~170兆円規模で策定された。1985年まで続いた。第3次全国総合開発計画(略称「三全総」)が1977(昭和52)年、福田内閣の時、370兆円規模で策定された。1987年まで続いた。この頃までは国土総合開発法の精神が正しく律されていた。ところが、第4次全国総合開発計画(略称「四全総」)が1987(昭和62)年、中曽根内閣の時、1千兆円規模で策定された。この大盤政策はそれまでの有益型公共事業を不要不急型公共事業へと変質せしめて行った。2000年まで続いた。第5次全国総合開発計画(略称「五全総」)が1998(平成10)年、橋本内閣の時、「21世紀の国土のグランドデザイン」と銘して実施された。投資総額は示されなかった。

 2005(平成17).7.29日、国土総合開発法が改正され国土形成計画法(平成17年7月29日法律第89号)に転換する。同法は「開発中心主義からの転換」を主眼としており、ここれにより過去5回実施された全国総合開発計画(全総計画)が終焉させられた。これに代わる新しい国土形成計画の全国計画が2007年にも決定される予定であったが、音沙汰なしとなっている。


【電源開発促進法について】
 1951年、火力や水力の発電施設を整備する為の電源開発促進法を議員立法している。

【道路法について】

 角栄は、電源開発促進法の後、道路法の議員立法に向かった。次のように述べている。

 「これで電力拡大の目途はついた。次に敗戦で崩壊した日本経済復興の牽引車は何か。交通網の整備である。我が国の国民総生産は鉄道の建設テンポに大体比例して拡大してきた。私はその鉄道に次ぐ第二の交通網は道路だと思った」(2008.3.21日付け産経新聞5面「道路特定財源」)。

 角栄は、「道路三法」と呼ばれる1・道路法、2・ガソリン税法、3・有料道路法の制定に孤軍奮闘した。角栄は、道路網整備に於いて誰も考えないことを考え、実行するアイデアマンでもあった。

 1950年頃になって自動車台数が激増し始めたが、この時点で旧来の道路行政は法制上の不備を晒し続けていた。角栄は、「旧道路法」の全面改正に取り組み、都道府県を体系化し、管理負担を明確化させる案を構想した。田中政治の中核的ブレーンの一人・下河辺淳は次のように説明している。

 概要「戦前の道路法は、天皇と軍隊のための道路計画で、道路とは東京から師団司令部や鎮守府のある軍事都市を結ぶ、あるいは天皇が伊勢神宮に参るための道路でしかなかった。それに対して、角栄は、『路とは社会資本だ』と捉え、経済・産業と国民の生活に必要な道路を全国的に敷くべきだという、全く新しい発想を打ち出したのだ。角栄は、常々次のように述べていた。『道路は国家の動脈であり、道路が整備されれば企業の工場が全国的につくられ、人口も増えて交通量も増加する。交通量が少ないから道路を整備しないという考え方では日本経済の発展はない。道路は日本の未来を拓くための投資なのだ』。

 未来への投資だといっても、他省庁や財界、学者たちに受け入れられず、地方の自動車交通量を二倍に水増しし、さらに二倍に水増しした例も少なくなかった。ところが、現実には、私たちが水増しした数字の二倍の交通量になってしまった。日本経済が予測以上の成長を遂げたからである」。

 角栄は衆院建設委員会の「道路に関する小委員会」小委員長に就いて「道路法」抜本改正の議員立法に取り組んだ。

 1952(昭和27).4.2日、角栄は建設委員会の小委員会報告で次のように述べている。

 「現行道路法は30年間ほとんど改正らしい改正を加えることなく、不適当な幾多の点が明らかになりましたので、全面改正の要に迫られた次第です。改正案の基本方針として、第一に新憲法の趣旨に則り、国と地方公共団体の事務の配分を合理化すること、第二に幹線の基準を改めること(中略)」。

 4月、角栄は他の二人の議員とはかって旧道路法の全面改正による戦後道路行政の骨格を決める「新道路法」を提案、委員会答弁まで引き受け、この年6.10日に公布させた。その第1条には、「この法律は、道路網の整備を図るため、道路に関して、路線の指定及び認定、管理、構造、保全、費用の負担区分等に関する事項を定め、もって交通の発達に寄与し、公共の福祉を増進する ことを目的とする」と記した。国道を1級国道と2級国道に分けた。道路建設の決定に大臣だけでなく道路審議会を関わらせることにした。地方からの陳情をきき易くする仕組みでもあった。

 当時、年間の道路整備費は約200億円。
これにより1972(昭和47)年頃には約2兆円。単純計算でいえば、20年間で100倍になる予算を計上することになる。問題はその後整備のための財源をどこに求めるかであった。「道路法」ができても、予算の裏づけがなければ道路の整備はできない。田中は、道路整備のための目的税たるガソリン税を創案した。「道路は無料」という固定観念を打破して、「有料道路制導入による更なる道路開発を」というアイデアを生んだ。つぎのような論法であった。

 「自動車を走らせるには道路が要る。道路は舗装しなければならない。舗装するにはカネがかかる。日本の一人当り道路費用はインド並で39円。こんなことでいいのか。自動車を走らせるにはガソリンが要る。ガソリン税を道路財源に当てる。道路が良くなれば自動車の利用が増える。ガソリンの使用量も増える。ガソリン税が増えて、道路はますます良くなるのであります」。

 ヴァーチュアス・サイクル(好循環)の受益者負担論を畳み掛けて、運輸・石油業界を黙らせてしまった。

 しかし、これには大蔵省が反対した。1・税を特定の目的の為に使う「特定財源」なる目的税は、大蔵省の財政運営の裁量を狭めるものであり、予算配分権が侵害される。2・当時の徴税制度にはこうした目的税がなく、税体系を崩すことにもなる。「議会が目的税の立法で、政府固有の予算編成権を拘束するのは、憲法違反である」という論法であった。委員会審議はモメにモメ難航を極めた。

 しかし、角栄は、アメリカではどう処理しているのか興味を持った。当時建設省の第一期生官僚であった井上孝(当時建設官僚で後の国土庁長官)に、「アメリカでは道路整備財源はどうなっているのか、大至急調べて欲しい」と依頼した。井上は調査に出向き次のように報告した。

 概要「アメリカでは、ガソリンの税金を、道路整備財源に充てております。田中先生、もし道路三法ができれば、道路整備の基礎工事は、最低限できます。特に、ガソリン税法が通れば、建設省が独自の財源を持てることになり、道路整備の長期計画が立案できます。その意義は計り知れないものがあります」。

 田中は、井上の報告に膝を叩いた。

 1952(昭和27).12月、第15回国会に、田中は他の25人の議員とはかって、ガソリン税法を議員立法で提案した。百日間にわたる長期論議が行われたが、結局、このときの提案は衆議院は通過したものの、参議院で野党と大蔵側委員の強い反対論がある中での審議中、いわゆる「バカヤロー解散」で審議未了になった。

 この時、大蔵省は、権限が及ばなくなる事を危惧して、「税金を特定の目的に使う特定財源は、政府の予算編成権を拘束する事になり、憲法違反だ」と立論し反対した。

 しかし、角栄はこれにひるまず、翌1953(昭和28).6月、再び衆議院の建設委員会に提案し、建設・大蔵連合審議会などでは、殆ど一人で大蔵委員会の論客を相手に一歩も引かぬ論戦を応酬させた。

 「ええですか。今までは表日本偏重の予算投下が長い間続けられ、裏日本とか、(裏日本から)表日本横断する道路などが未改良のままになっておるのであります。これを、一切、整備しなければ道路網整備と云うものはできませんッ」。
 「私は一建設省のためというような甘い考えは持っておりません。日本の産業の根本的な再興をするためには、道路整備以外にないのです!」。

 この時の相手の一人として後の民社党委員長・春日一幸氏と角栄の遣り取りが、小林吉弥氏の著作「角栄一代」(77P)に記載されている。角栄は、局面が困難になると、大蔵省に乗り込んでいき、「君達、日本再建の基礎は、道路だ。頼むぞ」と大蔵官僚に根回ししていった。

 角栄は、当初の法案には「政府は当該年度の揮発油税収入を、道路整備の財源等に計上しなければならない」と記していたのを、「揮発油税収入を」の下りを「揮発油税収入相当額以上を」と修正して、ガソリン税を直接、道路整備に充てるのではなく、大蔵省財源に戻した上で抜き取るという修正案を提示し大蔵省の了解を取り付けた。「ガソリン税を一旦そのまま歳入として一般会計に組み入れ、同時にその歳入額に『相当』する額を、道路整備の特定財源として支出する」というアイデア、この発想は、東大法学部卒の高級官僚の知恵の及ぶところではなく、角栄の異能さを知らしめていくことになった。

 1953(昭和28)年、角栄は、再び法案を提出した。結局、この「ガソリン税法」は、野党、大蔵省の強い反対を押し切る形で可決され、1953(昭和28).7.23日に「道路整備費の財源等に関する臨時措置法」として公布された。同時に、これは、戦後初めて行政府に君臨する大蔵省が立法府に敗れた「事件」となった。この法案提案時の角栄は、わずか当選2回、国会議員歴5年に過ぎない時であった。

 「道路整備費の財源等に関する臨時措置法」に基づく道路特定財源制度は、「より多く道路を利用する人が、より多くを負担する」という受益者負担の理念に基づいて導入され、揮発油税収相当額が道路整備に充てられることになった。ガソリン税を道路建設の財源にするというおよそ当時としては考えられない常識破りの法案だが、これが国土建設の基本的なシステムとして働き、現在にいたる道路建設に潤沢な財源を与えてきた。同法は、1958(昭和33)年に「道路整備緊急措置法」、2003(平成15)年に「道路整備費の財源等の特例に関する法律」と名を変え、現在に継承されている。

 1953.10月、角栄は初めての外遊でヨーロッパの道路事情を見にでかけた。11月、新潟3区で「帰朝報告会」を開き次のように述べている。

 「ヒトラーがつくった弾丸道路は飛行機が離発着できるんだ。走っていてコップの水もこぼれない」。

 1956(昭和31)年、建設省が日本に高速道路を建設するため世界銀行から招聘したワトキンス調査団が訪日し、次のように指摘した。

 「日本の道路は信じ難いほど悪い。工業国にしてこれほど道路を無視してきた国は他にない」。

 当時の日本の道路は道幅が狭く舗装されておらず、世界的水準から見れば以上なほど遅れていた。 

 「道路整備費の財源等に関する臨時措置法」に続いて、1956(昭和31).3月、「ガソリン新税」同様の受益者負担を考え方とする「有料道路法」が公布され、ここに角栄が提案者及び立案参画した「道路3法」が勢ぞろいし、道路復興の基礎が完成された。こうして、輸送の要の道路を整備する財源をガソリン税でまかなうようになった。

 その後も、1966(昭和41)年に石油ガス税、1971(昭和46)年に自動車重量税が国の道路財源として創設された。また、地方の財源として、1955(昭和30)年に地方道路譲与税、1956(昭和31)年に軽油引取税、1966(昭和41)年に石油ガス譲与税、1968(昭和43)年に自動車取得税、1971(昭和46)年に自動車重量譲与税が創設された。

 当時、年間200億弱であった道路整備費は、その後の15年間に百倍以上増えた。現在のトラック輸送網が全国的に広がり、スムーズになったのはこのおかげと云える。こうして日本は、角栄が夢に描いた通りに「土木事業を基礎としてその上に各種産業を隆盛させ流通先進国家を目指す」総路線を目指し、未曾有の高度経済成長を成し遂げていくことになった。

 こういう国の将来を作る背骨となるような法案を、まだ30代前半だった田中角栄が作り上げたことになる。それには、角栄流の政治・歴史哲学があった。角栄は、「戦後の日本経済は道路三法から再建が始まった、といってよい」と自負しており、岸内閣の郵政大臣であったときの選挙公報に、次のように書いている。

 「私は世界的政治家や総理総裁になって一党をひきいようというような派手な夢や考えは持ちません。私が道路や橋や川や港、土地改良などに力を入れるので一部のかたがたは『田中は土方代議士だ』といわれるが、私は原水爆禁止運動も世界連邦運動も結構だが、『まず足元から』という気持ちであえてこの批判に甘んじておるわけであります」。

 同時に、田中角栄はこの経過で昭和23年に独立して間がない新興官庁たる建設省に、政治家としての大きな拠点をつくることになった。法案成立の過程で若手の建設官僚とともに知恵をかき汗を流すことで、誼を通じることとなった。この当時の若手建設官僚たちは、以後長く「政治家田中」に一目置くことになり、信奉する者も生まれることになった。

 続いて、道路整備のロングラン対策を講じている。これを裏付ける次のような発言がある。

 「昭和60年度の自動車、道路の概況を見ると大変なことになる。鉄道の貨物輸送力を強化しない場合、6千億トンの貨物を自動車による道路輸送で、処理しなければならない。6千億トンを運ぶには、トラックは2700万台が必要だ。そうなったら、道路整備計画(60兆円)だけのプランでは、乗用車の3分の2が走らなくなってしまう。今からロングランの対策を考えておかなければならない」(戸川猪佐武「田中角栄猛語録」)。

 ちなみに2002年のガソリン税の総額は5兆5千億円である。防衛費の2倍をこえている。しかもこれは国の正規の予算ではなく、すべて特別会計である。これに一般会計の公共事業費が加わる。角栄失脚後の政治は角栄の政治歴史哲学を欠き、土建利権性に目を着け群がることになった。

 角栄は、著書「日本列島改造論」(1972年)の中で、高速道路の効果に関して次のように具体例を挙げて力説している。

 概要「かつて工場ひとつない寒村だった滋賀県の栗東町は、名神高速道路ができたおかげで200以上の工場が進出し、新興工業地区へと一変した。それまでは農業中心の都市で、工業といえば食品、衣服、繊維関係の工場しかなかった愛知県小牧市は、名神、東名両高速道路のおかげで工業都市、流通基地としてにわかに脚光を浴びるようになった。東名高速道路ができてから東京に入ってくる九州産の豚の量が2〜3倍に増えた。輸送時間が約4分の1となったおかげで子豚の輸送疲れが少なくなり、トラック1台あたり20万円は余計に儲かるようになった。大阪の青物市場では季節になると東名、名神を突走って福島県岩瀬村のきゅうり、茨城県のピーマン、埼玉県の長十郎梨などさまざまな商品が出回るようになった。《高速道路ができればできるほど市場が広がる半面、産地どうしの競争も激しくなる。それは貿易の自由化と同じことで、日本経済全体からみれば、適地適産がすすみ、価格が平準化し、生産は合理化する。昭和50年までに、アメリカの高速道路の総延長は65970キロ、西ドイツは7000キロ、イタリアは6528キロに達する予定だが、その時点までに完成する日本の高速道路は1900キロメートルにすぎない。欧米なみの生活水準をめざすという観点からみても、日本の高速道路建設を急がなければならないのは明らかである」。

 こうして手掛けられた道路行政が、角栄亡き後、冬の季節を迎えることになる。これより以下は、「民営化考」で考察する。

 (「2003年度近畿大学法学部卒業論文」所収の黒瀬侑・氏の「角栄の功と罪」参照)

 2007.2.3日 れんだいこ拝
 山崎オンラインの「榊原英資スピーチ」に気になる記述があるので批判しておく。ここで榊原氏は、有料化制で高速道路網を整備して行った田中角栄方式に対して次のように批判している。
 「山崎さんが言われていた通り、非常識なことをやったのは、田中角栄です。田中角栄は道路財源を作っただけではなく、道路公団も作ったんですね。有償資金で道路作っている国なんて、世界中どこにもないですよ」、「世界の常識は日本の非常識なんですね。僕は必ずしも世界の常識に全部戻れって言っているわけじゃないですよ。日本的なものがあってもいい。でも、これは世界の常識に戻るべき」。

 この一語で、榊原英資なるものの本質的粗脳さが分かる。本来であれば、論の流れは、有料化制で高速道路網を整備して行った田中角栄方式を批判するのであれば、それに代わる方式を対置せねばならない。これをせぬままに山崎式無料化論を持ち上げている。高速道路無料化の意義を説くのに、田中角栄方式批判を介在させる必要はない。時期と次元の違うものを対比させ、わざわざ田中角栄方式を批判している。癖のある御仁だと云うことになる。

 どういう必要で田中角栄方式批判を持ち出したのか意図不明であるが、その上で次のような正論を説いている。これを転載しておく。
 「結局民営化っていうのは、有料道路の永久税金化なんです。だから民営化路線っていうのは、永久に税金として有料道路代を取り続けるということです。山崎さんの案は歳出を減らして減税をしますというわけです。しかもこの減税は非常に経済効果があるんです。所得税減税より効くと思います。あるいは消費税減税よりも効くと思います。企業のコストが直接下がるわけですから。個人が例えば観光に行くなんていうときに、安くいけますから、個人のコストも下がります。ですからこれは極めて効率的な減税案なんです。極めて効率的な地方活性化案なんです。僕は『快走論』も読みました。ともかく全面賛成です。しかも専門家からみて、あまり問題がない。つまりこんなもの荒唐無稽だって自民党の人たちが言ってますけど、頭が古いっていうか、まあ財務省にだまされてるんです。財務省の人たちに言われてるんですよ」。

 これは正論である。かく正論を述べたうえで、次のように角栄批判をしてスピーチを終えている。
 「いずれにせよ、これは極めて常識的なんです。世界の常識に我々が戻れるのか、田中角栄が作った奇妙な土建国家にいつまでも浸っているのか。それが今度の無料化VS民営化論。ですから、ぜひ皆さん、山崎さんの案を応援してあげてください。これが常識なんだと、世界の常識なんだということを一般の人に言ってください。彼もファイナンスの専門家ですが、僕も公的ファイナンスの専門家です。この二人が言うんだから、間違いありません。ぜひよろしくお願いいたします」。

 山崎式無料化論を支持する為に何の因果で「田中角栄が作った奇妙な土建国家にいつまでも浸っているのか。それが今度の無料化VS民営化論」で云うのかが意図不明である。普通には、「中曽根-小泉式民営化論にいつまでも浸っているのか。それが今度の無料化VS民営化論」とすべきところを意図的故意に角栄批判にすり替えている。マジに云っているのだとすれば精神分裂気味の御仁と云うことになる。こうい御仁に国政の要職を任せられる訳がない。

 2011.1.22日 れんだいこ拝

【新幹線整備計画】
 角栄は、高速道路の普及に歩調を合わせて新幹線の整備行政をも推進している。議員立法ではないが大いに旗振り役を演じていた。これについては資料を入手し大論証するものとする。その新幹線整備計画は次の通り。
 1980(昭和55)年頃、第2東海道新幹線を建設するのを筆頭に、奥羽北陸新幹線(青森〜秋田〜新潟〜富山〜大阪)、中国四国新幹線(松江〜岡山〜高松〜高知)、九州四国新幹線(大阪〜四国〜大分〜熊本)、山陰新幹線(大阪〜鳥取〜松江〜山口)、北海道縦貰新幹線(札幌〜旭川〜推内、旭川〜網走)、北海道横断新幹線(札幌〜釧路)を計画している。次のように述べている。
 「こうして9000キロメートル以上にわたる全国新幹線鉄道網が実現すれば、日本列島の拠点都市はそれぞれが1〜3時間の圏内にはいり、拠点都市どうしが事実上、一体化する。新潟市内は東京都内と同じになり、富山市内と同様になる。松江市内は高知や岡山などの市内と同様になり大阪市内と同じになる」。

【水資源開発促進法】
 角栄は、日本に於ける水資源の重要性を認識し、「利用者負担の原則」を打ち出して、水資源開発促進法から水資源開発公団法、治水特別会計法に取り組んだ。水資源開発促進法は、昭和36年に、角栄自身が衆院水資源開発と区別委員長になり、建設、通産、農林、運輸など、各省の縄張り争いを苦労して調整し、纏めた。

 治水特別会計法創設の際には、大蔵省が「特定の財源を持たない特別会計は、財政法によって作ることが出来ない」と反対した。角栄はこれに対して、「水は最大の財源だ。水の使用者が利水料を払うべきだ。ただ農業だけは既得権があるから免除するだけだ」という論法で、説得に成功した。

 角栄は次のように述べている。
 「私が昭和30年に治水十ケ年計画の会長をやった時、大蔵省は昭和60年までに150ケ所のダムを造ればいいとかったが、私は1500ケ所の予算要求をしたんだ。為に、土方代議士なんて云われた」。

【小泉政治の「角栄政治破壊」考】
 小泉改革で廃止が決定している「日本道路公団」、「首都高速道路公団」、「日本鉄道建設公団」、「日本住宅公団」、「本州四国連絡橋公団」など、すべて角栄が成立させたものだ。小泉政治は、意図的に角栄政治の遺産を壊し続けている。

 小泉政治は何故に角栄政治の遺産を壊し続けているのか、これを考察せねばならない。

 2005.10.30日 れんだいこ拝





(私論.私見)