【大蔵省関係】 1964東京五輪後押し

 更新日/2021(平成31.5.1栄和元/栄和3).7.21日

 (れんだいこのショートメッセージ)
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【1964東京五輪後押し】
 1964年の東京五輪は、戦後日本の復活劇を世界に示す格好のイベントだった。当時の自民党政権は、党内主流派、反主流派の根深い対立の下で辛うじて挙党一致を生み出し、それ故に案外と強固にしてしなやかな政権運営となつていた。

 1959年5月、周到な根回しの結果、IOC(国際オリンピック委員会)総会での投票で、米デトロイト、オーストリアのウィーン、ベルギーのブリュッセルを押さえて、「アジア初の五輪」が実現することになった。岸は「安保騒動」で60年7月に退陣、後を継いだ首相、池田勇人が東京五輪成功に全力を傾けた。開催のための関連予算は当時で1兆円超、今なら20兆円規模であった。これにより、この国の高速道路や一般道整備、新幹線開通、地下鉄整備もまた、時代の幕開けとなっていった。

 田中角栄は、岸政権で郵政相として初入閣、自民党筆頭副幹事長を務めた後、池田政権では党から国家予算ににらみを利かす政調会長、第2次池田改造内閣(62年7月~)でついに蔵相の椅子に座った。田中はもともと積極財政論者で、 田中は、池田政権下の五輪予算をさらに積極財政の展開につなげ、五輪成功に導くチャンスと捉えていた。








(私論.私見)