田中角栄政治語録

 更新日/2017(平成29).5.11日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、田中角栄の政治語録を採り上げる。今のところ順不同であるが、噛締めて味わいたい。下手にマルクス、レーニンに被れるよりよほど値打ちがあるのではないかと思っている。一般に誤解されているが角栄は無学なのではない。大学を出なかったと云うだけで、例えば二宮金次郎(尊徳)、松下幸之助のように土着的な日本思想を背景にした実学を真剣に学んでおり、そこから思想を汲みだしている。マックスウェーバーが激賞するところの真に英明な政治哲学者であったと評し遇するべきではなかろうか。この理合い筋合いが分からない自称インテリによる角栄批判が多過ぎて困る。

 2004.11.30日、2010.06.13日再編集 れんだいこ拝


【角栄の政治家の原点論】
 戦後の代議士立候補につき、恩師の草間先生に云った言葉。
 「先生、私が政界入りを決意したのは、貧しい人々、そして肉親を戦争で亡くして苦しんでいる人たちの為に何かがしたい。その為には議席を持つことが最も近道である、とおもうたからです。自分自身の見栄や名誉の為では断じてないのです」(戸川猪佐武「田中角栄猛語録」)。
 「政治家になると思っていなかった。日曜日に釣りに行って、ああ川の流れがきれいだし、景色もまたいい。それでついそこに住まいを構えて魚屋になってしまった。そんな感じで政治家になってしまった」。

 「住宅は一家の団欒所、魂の安息所、思想の温床。家があるならば、それからいろいろなことを考えてやっていける。働く人たちに家を与えずして、何が民主主義か。政治の仕事は、国民の邪魔になる小石を丹念に拾って捨てることと、国の力でなければ壊せない岩を砕いて道をあけること。それだけでいい」。


【政治家及び政治能力論】
 角栄は、政治家たる所以の任務を次のように諭している。
 「国の方向を示すのが政治家の役目だ。それが出来なければ役人以下だ」。
 「自らの手で立法することにより、政治や政策の方向を示すことこそ、政治家本来の姿だ。政策を作れん奴は、政治家を辞めた方がよい」。
 「政治というものは、国家の威信というよりも、国民の威信を守りつつ、列国に伍していかなければならんのだから。ほかの国がみんな飢饉で困っておっても、まず、わが国だけは餓死者を出さない。みんなにメシを食わせる。これが政治にとって最大の課題になるわけだな」。

 1952(昭和27)念から角栄の秘書を勤めた佐藤昭子女史の「田中角栄−私が最後に伝えたいこと」は次のように記している。
 「戦後の政治家は御製に精通し、予算書が読めて、法律案文を修正することが政治だという錯覚に陥っている者が多い。けしからん。自らの手で立法することにより、政治や政策の方向を示すことこそ、政治化本来の姿だ。政策を作れん奴は政治家を辞めた方が良い」。

 角栄はかく述べ、側近の早坂茂三氏や新聞記者に常日ごろ語っていた。大衆政治家の面目躍如の言であろう。その上で次のように抱負している。
 「大仕事を遂げて死なまし 熱情の若き日は又と来はせじ」(角栄が送った色紙の言葉)。

 次のようにも述べている。
 「戦争を知っている人間が社会の中核にいる間はいいが、戦争を知らない人間ばかりになると日本は怖いことになる」。
 「政治家の仕事は後継を育てること」。
 「時は移り変わって、人も次々と変わっていくものだ。お前たちは天下国家を見失わずに進んで行きなさい」(創成会旗揚げ直後、野中広務が角栄に挨拶に行った時の言葉)。

【大衆政治論】
 新潟出身の友人に連れられて田中角栄さんの目白の家に行ったとき聞かされた話。  角栄は政治の任務について次のように述べている。
 「政治とは何か。生活である。国民の生活そのものである。政治とは国民の暮らしをよくするためにある。わが国は発達した議会制民主国家であり国民の知的レペルは高い。こうした国で政治が国民の手の挙げかた、足の運びかたまで指図する必要はない。政治の仕事は国民の邪魔になる小石をたんねんに拾って捨てる。国の力でなければ壊せない岩を砕いて道をあける。それだけでよい。いい政治というのは、国民生活の片隅にあるものだ。目立たずつましく、国民のうしろに控えている。吹きすぎて行く風、政治はそれでよい」。
 「国会議員の発言は国民大衆の血の叫びである。政治とは自分たちがメシが食えない。子供を大学にやれない状態から抜け出すことを先決に考えねばならん。理想よりも現実だ。政治とは何か。生活である」。
 「いい政治というのは、国民生活の片隅にあるものだ。目立たずつましく、国民のうしろに控えている。吹きすぎて行く風、政治はそれでよい」。
 「 俺の目標は、年寄りも孫も一緒に、楽しく暮らせる世の中をつくることなんだ  」。
 「エー田中角栄は、道路だとか鉄道ばかりつくっている。あれは政治家じゃなくて土方だなんていう人もありますねぇ。しかし、バカなことを言うなッ。これが政治じゃなくて何だ。政治とは、政治家のものじゃありません。政治とは、お互いの生活だ。これを解決するのは、政治じゃなくて、何ですかッ」。
 「暇があったら区内を歩き、できるだけ区民に会って苦情や注文を聞くこと。自分の背丈に合った出来る約束をして一つずつ実行すること。これを信念にしています」。
 人間は、やっぱり出来損ないだ。みんな失敗もする。その出来損ないの人間そのままを愛せるかどうかなんだ。政治家を志す人間は、人を愛さなきゃダメだ。東大を出た頭のいい奴はみんな、あるべき姿を愛そうとするから、現実の人間を軽蔑してしまう。それが大衆軽視につながる。それではダメなんだ。そこの八百屋のおっちゃん、おばちゃん、その人たちをそのままで愛さなきゃならない。そこにしか政治はないんだ。政治の原点はそこにあるんだ」。
 「法律を使うのは人間である。人間が使えないような法律は、法律ではない」。
 「政治家は権力者だが、もっと謙虚であるべきだ。その権力は極力抑制して行使されるべきだ」。

【政府の予算案づくりに関わってきたとの自負】
 ある時、角栄は次のように豪語した。
 「私は、吉田内閣以来、政府の予算案づくりには全部関わってきた」。
(私論.私見) 角栄の予算案目通しについて

 「私は、吉田内閣以来、政府の予算案づくりには全部関わってきた」は見過ごされがちで有るが、相当重要なメッセージをしているように思える。それは、角栄の時代までは、赤字国債の発行と軍事費の偏重を抑制した健全財政下に有ったからである。今日、デマゴギーにより、今日の累積国家債務の責任を角栄に求める観点が流布されている。

 それは全くのウソデタラメで、福田、三木、中曽根により仕掛けられ今日に至っているという観点を持つ必要が有る。れんだいこは、覚束ないまでも「
国債論」で論証している。

 2005.9.6日 れんだいこ拝


 角栄の予算編成目通しは本当の話であり、次のような逸話で裏付けられる。
 「大野伴睦が威勢を振るっていた吉田内閣か、岸内閣の頃のこと。ある年の予算編成で、要求が入れられなかった大野は、大蔵大臣室に怒鳴り込んだ。そしてひょいと大臣室の奥の小部屋を覗くと、チョビヒゲをはやした若い男が、そろばんを片手に、ワイシャツの袖をまくりあげて、数字をいじくっている。「なんだァ、こいつは」と怒鳴りつけると、「俺は田中角栄だァ」という怒鳴り声が跳ね返ってきた。後年、池田内閣で、田中が政調会長、大蔵大臣に抜擢された時、大野は「ああ、あの時一生懸命そろばんをはじていた男か」とつぶやいた云々」。

【話し方の基本、について】
  話し方の基本、について次のように述べている。
 「相手の目を見て、大きな声でキチンとしゃべろ。目をろくに見ず、風呂の中で屁をするような低い話し方はダメだ」。

【政治家の発言について】
  「政治家の発言」について次のように述べている。
 「政治家は発言に、言って良い事、悪い事、言って良い時、悪い時、言って良い人、悪い人、に普段から気を配らなければならない」。

【政治家の演説の際の心構え。真の雄弁とは】
 政治家の演説の際の心構について次のように述べている。
 「いいか、演説というのはな、原稿を読むようなものでは駄目だ。聴衆は、初めから終わりまで集中して聞いていない。きっちりとした起承転結の話をしても、駄目なんだ。話があっちへいつたり、こっちに行ったりしてもいい。聴衆の顔を見て、関心のありそうな話をしろ。30分か1時間の演説の中で、何か一つ印象に残るような話をもって帰ってもらえばいいんだ」
 「演説、スピーチでの真の雄弁とは、今日この話を聞けてあぁ良かった、と思わせることだ。聞き手との一体感をどう醸すかがポイントになる」
 「わかったようなことを言うな。気の利いたことを言うな。そんなものは聞いている者は一発で見抜く。借り物でない自分の言葉で、全力で話せ。そうすれば、初めて人が聞く耳を持ってくれる」。

【総理の器】
 総理の器について次のように述べている。
 概要「好むと好まざるとに関わらず、たたなければならない時がある。総理という職責は、なりたいと思ってもなれない。なりたくないと思っていても、やらなければならない時があるんだよ。政治家になると思っていなかった。日曜日に釣りに行って、ああ川の流れがきれいだし、景色もまたいい。それで、ついそこに住まいを構えて魚屋になってしまった。そんな感じで政治家になってしまった。」
 「一国の総理総裁はなろうと思ってもなれ るものではない。時がきて天が命じなければ絶対になれない。議員というのは、努力、勉強すれば、だいたい幹事長までにはなれる。しかし、総理総裁というとそうはいかない。運だ」。
 「総裁になる―と云うことは大変なことなんだ。田舎から出てきた女性が、料亭の下働きから始めて、女中さんになり、そこの家の女将になるようなもんだ。容易なことじゃないんだ」(戸川猪佐武「田中角栄猛語録」)。

 首相になった時の次の言もある。
 「総理大臣は自分がなろうと思ってなれるものではない。人事を尽くしてもなれぬモノで、ただ天が命ずるときにのみなれるのである。その総理大臣になった以上は天に対する 責任を果たすために、誰もが不可能だと考えることを身命を懸けて成し遂げなければならぬ」。

【首相権限、首相能力について】
 自民党の加藤紘一元幹事長は、新著の「テロルの真犯人」(講談社)で、「言葉には、おそろしいほどその政治家の地金がでる」と述べ、大物政治家たちの印象的な一言をまとめている。その中に角栄語録が採り上げられている。1972.7月、田中が福田赳夫との激しい総裁選を制した直後の記者会見で、記者の一人が、「佐藤政権で幹事長などを務めたあなたは、佐藤栄作前総理とどこが違うのか」と質問した。田中は一瞬キッとなって次のように答えた。
 「いいですか、一軒の家でも財布が親父(おやじ)から息子に移ると、やり方も変わってくるんだよ」。

 民主党の藤井裕久前代表代行(元蔵相)は、田中政権の官房長官秘書官を務めていた時、田中が次のように述べたことを明らかにしている。

 「戦争を知っているやつが世の中の中心である限り、日本は安全だ。戦争を知らないやつが出てきて、日本の中核になったとき、怖いなあ。しかし、勉強してもらえばいいやな」。
 (「岩見隆夫の近聞遠見:角栄が残した『いいもの』」参照)
 「政治家には年季と云うものが必要だ。開発途上国や宗教団体なら別だけれども、政治家たる者、そんなに早く総理大臣になろうと思わないほうがいい。富士山の頂上を極めるには吉田口、御殿場口のいずれかから第一歩を踏み出し、三合目、五合目、七合目ときちんと登って行くことだ。堅実にね。無理な登り方をすればケガをする。ケガだけで済めばいいけど、命まで落としてしまっては元も子もない。何をやるにしても、実力をつけながら、じっくり進むことが大事だ」。

【後継指名について】
  後継指名をせずに辞職したことにつき、次のような後悔の念を吐露している。
 「私が総理大臣を辞めた後の政局ッ、これはだいぶゴタゴタ致しました。この責任は自分にある。池田隼人が佐藤栄作を指名したように、私も大平か福田のいずれかを指名すれば良かったものを、椎名に任せたのが失敗だった。そんなのは本当の政治ではない」(北魚沼郡での立会演説会で)。

【政治における考え方の基本について】
 政治における考え方の基本について次のように述べている。
 概要「政治家にはオール・オア・ナッシングというのはない。まず最善手を目指す。一方で次善、三善の策まで思いを致す必要がある。これができんようではリーダー、政治家とは云えぬ」
 「なあ、とにかく話し合おうじゃないか。民主主義の根底は、話すことなんだ。話せばわかることなんだ」。
 「地価の問題にしても、建物を二階建てから六階建てにすれば、地価は三分の一に下がったことになる。十階建てにすれば、五分の一に下がったことになる。発想の転換、逆に考えてみればいいんです」。

【政治家の能力について】
 角栄が政策研究に余念がなかったことを裏付ける福田赳夫の角栄評がある。
 「私が初めて田中角栄氏を親しく知るようになりましたのは、佐藤政権ができて間もない頃、僕は佐藤政権で大蔵大臣になったんだが、その頃に国会内の総理大臣室に『ちょっと来てくれ』と言われ行ってみたら、何か弁舌さわやかにね、とうとうとやっている人がいる。あれが田中氏である、と。何の話かというと、都市計画だな。東京をはじめ地方都市などをどういう風につくっていくべきか、という話をやっていた。とうとうと都市計画について、佐藤さんにね。都市計画ばかりじゃないですがね、関連して治山、治水とか、そういうことに至るまでの話を事細かに、雄弁にね、やっておりました。『ああ、これが何年も長い間聞かされていた田中角栄君か』と。これが初めてだったね」。

【政策研修制度の確立について】
 角栄は、「責任政治を目指した」。その為に、日頃から政策研修を怠らなかった。次のように述べている。
 「勉強せよ、専門知識をもて、議員立法せよ」。
 「政治家たるるもの、国会で国政に携わる者は、全てのことは無理にしても、一つや二つ、誰にも負けない専門分野を持たなくては、国家国民のための政治家にはなれん!」
 「馬鹿も休み休み言え。総理が政治で動いてたまるか。そんな心配する前に、お前等はまず国家にとって人材となることを考えろ。政策の勉強をする方が先だろう」。

 という考えから党の各委員会、小委員会、分会の「勉強会」以外に、田中派内にも各分野の勉強会を連日開かせ、一人一人に専門分野の知識を、その道の専門家と丁丁発止で討論ができるように育てていった。これが、後に、田中派が「総合デパート」と云われるようになる下地となった。ちなみに、勉強会の費用を飲食代まで全て派閥事務所が負担した。「勉強会」は、「同じ釜の飯を食った仲間意識」の醸成にも役立つこととなった。

 このことにつき、浜田幸一氏が「日本をダメにした9人の政治家」の中で次のように裏付けている。
 「自民党には部会制度があって、火曜日から金曜日まで、約20の部会で朝の8時から法律作成のための議論が行われている。一つの法律案をつくるにも、3年も4年もかけて勉強を重ね、あらゆる角度から検討し、質疑応答を繰り返している。ここまでしている政党は、他にはない。日本では自民党だけである。こうして部会でつくられた法律案が、政務調査会、総務会、党三役などの議を経て、その間にも修正されたり、検討のやり直しをさせられたりし、最終的に総裁がOKしてはじめて提出法案となるのである。これまで自民党が提出してきた、年間90本なり百本の法律案はみな、こうした地道な積み重ねから出てきたものなのだ。こういうことが、意外と一般には知られていない。自民党はといえば、いつでも派閥抗争ばかりしている党のように思われている」。
 概要「野党側は、法案を通す見返りに、まず、自分達も何かをしたのだという『証拠』を残すために付帯条件をつけさせ、さらに、ここが最大の問題なのだが、その裏で金銭の遣り取りが行われる」、「これが、自民党政権時代に行われてきた国対政治の実態なのである」。

【議会における討論の重視について】
 角栄は、「議会討論を重視し、率先した」。角栄の議会に対する態度を物語る当人の国会弁舌がある。1947年、初めて登院した衆議院本会議で「自由討議」(フリートーキング)をテーマにしての演説である。
 「新国会法によりまして、本会議において、議員相互に自由討議の機会を与えられましたことは、形式主義に流されやすい本会議に、清新なる活を入れたものでありまして、新国会運営上、重大視せねばならないと思うのであります」。
 「本会議場において活発なる討議の展開ができますことは、明朗なる政治、すなわちガラス箱の中での民主政治の発達助長に資すること大なりと思うものであります」。
 「明治大帝陛下も、よきをとり悪しきを捨てよ、と仰せられましたごとく、他議員の発表はこれを聴き、しかして、それに対する賛否は自由なのであります。己のみを正しいとして、他を容れざるは、民主政治家にあらず。それをもし一歩を誤れば、戦時下におけるあの抑圧議会の再現を見るのであります」。
 「議員は一人というものの、この背後には15万5千人の国民大衆があって、議員一人の発言は、まさに国民大衆の血の叫びなのであります」。

 「自由討議」(フリートーキング)制度は、新憲法が制定された当初、国会法第78条において「各議院は、国政に携わる議院に自由討議の機会を与えるため、少なくとも、二週間に一回その会議を開くことを要する」と定められ開始された。ところが、わずか数回行われただけで、1955年の国会法改正によって実益の無い制度として削除された。このようにして、国会から自由清新な議論が消えていった。これについては、「自由討議」でもう少し詳しく見ておくことにする。

【政策論争好みについて】
 角栄は、政策論争を好んだ。若手議員を掴まえては政策論争したと伝えられている。政策がおかしければ、おかしいとはっきりと口にした。発想力の豊かさに感心したと伝えられている。自然と門下生教育となった。

【世論】
 次のような世論論を遺している。
 「世論とは新聞やテレビではない。世論は選挙。世論は選挙の結果が世論」。

【政権取りの戦略戦術としての中間地帯論】

 角栄は、政権取りの戦略戦術として「中間地帯論」を述べている。いわば「政界操縦遊泳術」と云え、自民党のみならず野党対策にも適用された。

 「山頂をきわめるには、敵を減らすことだ。好意をもってくれる広大な中間地帯をつくることだ。第一は、できるだけ敵をへらしていくこと。世の中は、嫉妬とソロバンだ。インテリほどヤキモチが多い。人は自らの損得で動くということだ。第二は、自分に少しでも好意をもってくれる広い中間地帯をつくることだ。だから、人の悪口は絶対に言うな。第三は、人間の機微、人情の機微を知ることだ」。
 「この世に絶対的な価値などはない。ものはすべて比較だ。外国人は物事を白か黒かと割り切ろうとするが、娑婆はそれほど単純じゃない。世の中は、白と黒ばかりではない。敵と味方ばかりでもない。黒と白との間に灰色がある。どっちとも言えない。このグレーゾーンが一番広い。真理は常に中間にありだ。そこを取り込めなくてどうする。天下というものは、このグレーゾーンを味方につけなれば決して取れない。天下を取るなら、グレーゾーンをいかに手元に引き寄せられるかどうかにかかっている。このことを知ることが大事だ」。 

 「相手が立ち上がれなくなるまでやっつければ、敵方の遺恨は永遠に去らない。対立関係にあっても、徹底的に論破してしまっては、相手が救われない。土俵際には追い詰めるが、土俵の外に押し出してしまう必要はないんだ」。

 「無理して作った味方は、いったん世の中の風向きが変われば、アッという間に逃げ出していく。だから、無理をして味方を作るな。敵を減らすこと。自分に好意を寄せてくれる人たちを気長に増やしていくしかない」。

【野党批判論】
 次のような野党批判論、批評論を遺している。
 「野党は政策を競うのではなく、取引ばかりしている。労働組合のやり方が蔓延している。日本政治の最大の問題は野党がないことだ」。
 1973年、5月、野党四党(社会、共産、民社、公明の抵抗が激しく、国会審議がままならない状態での記者相手のオフレコ発言。「これまで四人の女を相手にするときは、一人にカネをやり、一人にハンドバックをやり、一人に着物を買ってやり、残りの一人はぶん殴れば済んだが、今度ばかりは女同士の結束が堅くて、うまくいかん」。
 1974年、6月、島根県浜田市で参議院選挙の遊説時の発言。「野党が何だかんだと云っておっても、気にしなくていいんです。あれ、三味線みたいなもんだから----。子供が一人、二人ならいいけど、三人、四人と居ると、うるさいのもいるもんですよ。ねぇ、オッカサン、そうでしせう」。

【責任政治論】
 角栄は”舌先三寸”政治を嫌った。次のように述べている。
 「仕事をすれば、批判、反対があって当然。何もやらなければ、叱る声も出ない。私の人気が悪くなったら、ああ田中は仕事をしているんだと、まぁこう思っていただきたい」
 「政治家って云うのは結果なんだ。多少文句を云われてもやり通す。終り良ければ全て良し。その覚悟がなければ政治などできない。政治家が褒められるために一番良いのは何もしないことだ。何もしなければ苦情もない。しかし、川の真ん中に橋を作れば、上流と下流の人間から文句を云われる。仕事をすると云うことは文句を云われると云うことだ」
  「何もしないでおれば内閣が長く持つなんてことはないんでね。ここまできたら、期限内で物事を片付けていくべきだ。4年なら4年のうちに、キッチリ仕事をする。急ぐとケガをする時、仕事をやらなければ長生きするとか、孫子の兵法を国の政治に使うのは誤りです。まさに、自民党、内閣が今心しなければならないのはそこだな。人間のやることですからね。そりゃぁ未熟なところもあります。しかし、それは長い間の歴史の中で補完されていくんだ。空しく日を送っていたのでは、責任政党の務めは果たせないですね。慎重の上にも慎重で時機を失するマイナスより、少しピッチを上げて拙速が生じ、批判が出ても、こちらの方が国民は納得する」。
 「政治は瞬時として停滞を許さない。たえず動いている。静かに瞑想にふけったりしているうちに、死んでいく政治家が何百人、何千人といる。学者は専門バカが多い。了見が狭くて片寄りがち。それに、許認可の権限がない。僕は、役人を手足に使う。学者の話は君が聞け」。

【現実政治論】
 角栄は、「理想と現実」について次のようなコメントを残している。
 「(角栄は土方代議士だと言われたことに対し)私は、原水爆禁止運動も世界連邦運動も結構だが、『まず足元から』という気持ちで、敢えてこの批判に甘んじています」。
 「私はね、理想がないわけじゃないが、理想を求めて果てしない旅を続けていく性分じゃない。今日は今日、いわゆるその日にタイムリーにものを片付けるんです。明日でも来年でも、また同じ政策問題がやってくるかも知れないよねぇ。でもいいんです。そういう時にはまたやり直したらいい。考えたにいい。とりあえず今日は今日である方向性で解決する。明日なら、同じ問題に対してまた別の方法による解決方法が見つかるかもしれない。そうなったら、政策転換すればいい。だから、判断は非常に早いんだ」(戸川猪佐武とのインタビュー・昭和45.10.8「週間大衆」・幹事長時代)。
 「私はメシも仕事も早い。一生の間理想を追っても結論を見いだせないような生き方はキライだ。すべてのことにタイム・リミットを置いて、可能な限りの努力をするタイプなんだ」。
 「皆さんッ。田中は土方政治家で、新幹線なんか国費の乱費だ、それより世界平和の為にカネを出すべきだ、なんて批判する奴も居る。バカヤローと答えたいねェ。そうでしょ。政治と云うものは、まずメシが食えない、子供を大学にやれない、という悲しい状態から抜け出すことを、先決に考えなければいかんのだ。現実を踏まえるものであります。皆さんの農村を回ってみなさい。住む家よりもデカい小屋を建て、農機具をしまっている。これを見ると、田中の政治も悪くなかったなァと、こう思うのであります」。
 「皆さんッ。選挙というものは、今どこに問題があるのか、国民の前に処方箋を明らかにしなければいけないんです。政治は現実であり、動いているッ」。
 「僕は忙しいんだよ。一つの問題を半日がかりで話をする老人とは同じペースで仕事は出来んのだよ」。
 「私が大切にしているのは、何よりも人との接し方だ。戦術や戦略じゃない。会って話をしていて安心感があるとか、自分のためになるとか、そういうことが人と人を結びつける」。

【体当たり政治論】

 日中国交回復交渉の際の角栄の言葉。台湾国府の取り扱いが揉めにもめて一頓挫していた時である。二日目の夕食は日本側の田中、大平、二階堂、外務官僚・橋本の4人だけが共にした。田中はマオタイ酒をぐいぐいと呑む。大平は交渉不調のためかシュンとなっており、食事に箸をつけなかった。田中はそんな大平に言う。

田中  「食べろよ。冷めてしまうぞ」。大平は深刻な顔をし続ける。田中はからかった。「大体な、大学を出たヤツは修羅場をくぐってないから、駄目なんだ。こんなときにすぐそうなる」。
大平  「しかし、明日からはどうするんだ?」。
田中  田中はにゃっと笑った。「明日からどうするかは、大学を出たヤツが考える」。
大平  暫しの沈黙があって、大平がしんみりした口調で言った。「なぁ、田中君、君は越後の田舎から出てきたとき、総理になれる思ったかい?」。
田中  「冗談じゃない。食えんから出てきたんだ。お前だってそうだろ」。
大平  「オレもそうさ。讃岐の水呑百姓の小セガレじゃ食えんからのう」。
田中  二人は暫ししんみりした気分に浸っていたが、田中が急に大声を出した。「それなら、当たって砕けても元々じゃないか。決裂なら決裂でもいい。オレが責任を取る」。
大平  「しかし、手ぶらでは帰れないぞ」。
田中  「そんなことはこのオレに任せろ。オレが何とかする。それがオレの仕事じゃないか」。

 この時、橋本は角栄を凄い人だと思った、と伝えられている。この大仕事はこの人にしか出来ないと、橋本はこの時痛感したとも伝えられている。


【官僚論】

 角栄は、官僚の優秀さを認めたうえでその限界も知り、官僚に使われるのではなく、使いきろうとした。次のように述べている。

 「役人は権威はあるが、情熱はない」。
 概要「大蔵省の役人というのはそりゃ優秀です。正しいデータさえ入れればちゃんとした結論を出してくる」(1981年「月刊ペン」)
 「学者は駄目だ。世間知らずだ。それよりも役人だ」。
 「官僚には、もとより優秀な人材が多い。こちら(政治家)がうまく理解させられれば、相当の仕事をしてくれる。理解してもらうには、三つの要素がある。まず、こちらのほうに相手(官僚)を説得させるだけの能力があるか否か。次に、仕事の話にこちらの野心、私心というものがないか否か。もう一つは、彼ら(官僚)が納得するまで、徹底的な議論をやる勇気と努力、能力があるか否かだ。これが出来る政治家なら、官僚たちは理解し、ついてきてくれる」。
 「官僚でも局長、部長以上になると、既に天下り先を見ている。遮二無二、働こうという気は薄い。ときとして理屈、不満が咲きになる事が多い。そこへいくと、課長、課長補佐クラスは理屈、不満を言わず仕事熱心だ。だから俺はいつもそちらの方に目を向けている」。
 「ここまでは役人の作文。次からが私の言いたいことです」と云って人を笑わせた。

 1964年、44才で大蔵大臣に就任した角栄は、時間、局長以下、大蔵省の幹部を前に次のような挨拶をしている。

 「私が田中角栄だ。小学校高等科卒業である。いささか仕事のコツは知っている。世の中の経験は多少積んでいるつもりである。まぁ、諸君は財政、金融の政治家だ。これからは、もし私に会いたいときは、誰でも遠慮なく大臣室に来てほしい。何でも言ってくれ。いちいち上司を通して来ることはない。こう思う、これはおかしい、これを考えてくれなんてことがあれば、遠慮せずに述べてくれ。そして、国家有事の現在、諸君は思い切って仕事をしてくれ。これは局長も課長も同じだッ。私はできることはやる。できないことはやらない。事の成否はともかく、結果の責任は、全て大臣であるこの田中がとる。今日から、大臣室のドアは取っぱずす!以上」。

 マックスウェーバーの言に、「フランスやアメリカの腐敗した官吏制度、イギリスの非常に侮辱されている夜警統治、部分的には腐敗した官吏制度をもって民主的に統治されている国は、高度に道徳的な官僚制よりはるかに大きな成功をおさめてきた」というのがあるが、まさにマックスウェーバーの言を地で行ったのが角栄政治であった。

 次のように評されている。

 「田中は、官僚をつかった。が官僚の言いなりになどなりっこない。優秀な官僚の知識を利用するが、最終的には自分が上のほうから政治的に判断する。それが、本来の政治家の在り方だと思う。今でこそ政治は官僚指導と言われているが、田中の時代は、短い期間ではあったが政治家主導でなしえた」。
 「官僚の使い方がうまかった」田中は、官僚の話を聞くのがうまかった。それも、事務次官や局長など上のクラスの人だけではない。必要とあらば、例え一課長とも気軽に会った。官僚は、自分の担当については頭で整理できている。その考えを上手に聞き出し、時には政策などに活かした。その意味で、官僚の使い方がうまかった」。

 角栄の秘書の一人早坂茂三氏は、「宝石・平成元年12月号」の「」の中で次のように評している。

 「彼は役人をよく知っていた。自分が組む相手がどういう属性をもっているか。このメリット、デメリットは何か。役人をどう使っていけば、給料の10倍も20倍も働くか。どうすれば裏切らないか。これを良く知っていれば、役人の力をフルに引き出すことが出来る。これが、頭領の器というものでしょう。田中は、『役人は生きたコンピューターた』と、よく僕にいつていた。『役人にはハッキリした方向を示して、ガイドラインをせいかくに与えてることだ。インプットする情報、数字、ファクトが間違っていなければ、コンピューターは正確に機能して、何万人分もの能力を一瞬のうちにやってのける』と」。

 大蔵大臣就任早々の頃の大蔵大臣室での、田中角栄と藤原弘達の会話。
 「『角さん、大蔵省というところは、一高−東大−大蔵省人脈といってね、大体頭のいい奴が集まるところなんだ。福田なんてその最たるもんだな。そういうところに、あんたのような西山町の馬喰(ばくろう)のせがれで、尋常高等小学校出が大臣になって、上から抑えようったって、到底まともにいうことはきかんぜ。どうやってやるつもりかね』。田中はニヤッと笑って、平然と答えた。『なに、たいしたことはないさ』。『どうして?』。『役人という奴は、要するに、エライ地位につきたい動物なんだ。自分のことを考えんで、日本全体のことを考えているやつなんて、本省の課長までさ。部長から局長、次官になるにつれて、大臣から何か言われて、それに反対するのは出てこれないね。だから、ちょっとお小遣いをやるとか、ちょっと出世させてやる、いいとこ連れて行ってやる。選挙に出たいといったら世話してやる---。そんな具合に、面倒見て大事にしてやれば、ちゃんと従うもんさ。角栄流の人間操縦術というのは、大蔵大臣になったって、同じだよ』。大蔵官僚の監視の中で、そのようなことを平然というものだから、さすがの私もいささか驚いてしまった---」(角栄、もうええかげんにせんかい)。

 1983(昭和58).8.10日付け日経新聞インタビューは次の通り。
 「役人は生きたコンピューターだ。政治家は方針を出すものだ。方針の決まらん政治家は役人以下だ。役人と一度、仕事をやれば(人間関係は)切れない。初めはケンカするんだ。そうすると、『なんであんたの言うこしを聞かねばならんのか』とくる。『政党政治なんだよ。キミが局長になれば俺を利用するようになる』と言い返してやる。すると後で分かるんだね。『やはり子供だったと』と役人は自分で云うもの。それだから役人はまた(自分のところへ)来る」。

 「例えば、行政機構を本当に改革するというのなら、行政責任の確立が不可避となる。まず、自民党や役所の上の方で大きな方針や具体的な対策を決めるんだ。それを各行政機関の政策として採用させる。もし、行政機関の方で反対と云うなら、『じゃぁ対案を持って来い』と指導すれば良い。そして、成果を持ってこさせ、その取捨選択をするといったようにすれば、役人の数は今の10分の1で済む。一方で、役所の明確な責任体制をつくる為には公務員の総定数を今の半分に減らし、逆に局長を今の3倍、5倍増やすのがいい。人件費は抑制され、局長への数が増えるのだから役人も喜ぶ。同時に、責任感も抱かざるを得ないということになる」。(小林吉弥「田中角栄 侠(おとこ)の処世」第38回、週刊実話2016.10.13号)。

【自民党論】
 角栄の真骨頂とも云うべき軽妙洒脱な自民党論に次のような言い回しが有る。
 概要「皆さん! 自民党は何やってんだと! 自民党はいつまで政権を握っているんだと! まあ、いつもいつもねえ、何でも自民党が悪いと、そう云われているのであります! 皆さんッ。評判が悪くても、自民党がずっとやっているのはなぜか。 ま、これはねぇ、酒癖は悪いが、働き者だから亭主代えないっていうおっかさんの気持ちと、同じだわねぇ」。

【田中派論、公約責任論】
 田中派論、公約責任論について次のように述べている。
 「お前達は幸運だぞ。俺の時代よりマシなんだ。俺の時代にはなかったバックアップが受けられるんだからな。そこをうまく利用しないとバチが当たるぞ。いいか、もうだめだと思っても、諦めるな。必ず相談しろ。そう簡単に、選挙民の願いは叶えられない。公約するのはサルでも出来るが、実現するのは大変なんだ。そこんところで、ほとんどの政治家が頓挫する。投げ出す。挫折するんだ。だから相談しろ。先輩が居る。俺が居る。ここは最大派閥なんだからな。元医者から弁護士、学者から警察まで、何でもあるし、誰で居る。これを利用しない手はない」。
 「カゴに乗る人、かつぐ人、そのまたワラジをつくる人だッ。ワラジをつくる人がなくて、カゴに乗っていられるか。黙ってカゴをかつぎ、ワラジを作っているのが、我々木曜クラブであります」。
 「偉くなるには大将のふところに入ることだ。大将は権力そのものだ。だから、そのふところに入れば、あらゆる動きがすべて見える。それがわかればムダな手間がはぶかれ、ボタンのかけ違いもなくなる」。

【単なる反対ではいけない論】
 「田中の日本列島改造などというのは、ありゃ駄目だと。駄目だと言うなら、それなりのいい案を出しなさいッ。そう言ってるではありませんか!!!」」

【最近の議員の資質について】
 最近の議員の資質について次のように述べている。
 「最近の議員の資質はなかなかの優等生だが、独創性、エネルギー、統率力といったものが欠けている。内外の情勢は教授会のような議論は許さないんだが」

【公と私情の分別について】
 1980.5.16日、大平内閣不信任決議を受け、この日たまたまホテル二ューオータニで行われることになっていた田中派の「参院立候補予定者激励会」を急きょ「田中派緊急総会」に切り替え、角栄は、その席上、次のようにぶった。
 「私はかって他人の悪口を言ったことがあるか! 誰か私が一度でも他人の悪口を言っているのを聞いたことがるか!私は一度として他人の悪口を云ったことはない。しかし、今日だけは口に出して云わずにおれないッ。(中略)政治家は51%は公に奉ずべきだ。私情というものは、49%にとどめておくのが政治家だ。自分の為だけにあらゆることをして、テンとして恥じることのない者は、これは断固、排除せざるをえないッ。日本を誤らせるような行動は絶対に許せん。我々のグループだけは、このことだけは守ろうではないか!こうなれば、もはや個人の問題ではない。私もかっては、日本を代表する立場にあったんだ。が、疑いを受け、生命を絶たなければならないと思ったこともあった。しかし、生きながらえた以上、果たさなければならんこともある。また、迷惑をかけた諸君にも詫びなければならないが、いつかいったことは必ず果たしたいと思っている。全員当選してくるんだ!参院の連中にはできるだけのことはするッ−」。(フランスの諺「ノーブレス・オブリージ(noblesse oblige))

【陳情政治について】
 「議会政治家の申し子としての角栄その2、陳情采配能力」に記す。

【議員辞職運動について】
 1982(昭和57).5.17日、角栄は、日共とマスコミの一体となった政治訴追、議員辞職運動に対して次のように批判している。(「週刊現代2009.8.22−29日号」の田崎史郎の「懐かしい日本人第1回 田中角栄」より)。
 「政治家は外交、防衛、治安など国体をどう守るかを考えるもんだ。議員辞職勧告は政治の本流とは違う。議員を辞めろと云う奴がいるかも知らんが、憲法違反の議論で。やるならやってみろ! 社会部長は政治部長が兼ねりゃいいんだ」。

 1984(昭和59).8.31日、角栄は次のように批判している。(「週刊現代2009.8.22−29日号」の田崎史郎の「懐かしい日本人第1回 田中角栄」より)。
 「他人のために汗をかかんで自分だけいい思いをしようなんて奴はぶち殺す!本当にぶち殺すよ。俺は共産党より恐いんだ。地下の皮膚呼吸もできんところで働いている人や、雪の降る中で高圧線に上って工事をしている人を忘れている奴がいたら、戦車で踏み潰してやる。田中角栄はまだまだ死なんぞ。営々と築いてきたものをそう簡単に渡してたまるか!」。

【「田中首相が外人記者クラブで記者会見】

 1974.10.22日、田中首相は、東京外国特派員協会の外人記者クラブで記者会見した。会見直前、「文芸春秋11月号」の立花論文やその関連資料の英訳版が何者かによって特派員たちに配布され、会見のテーマは「金脈問題」に関する質問攻めの場になった。記者の質問は、「文芸春秋」記事に集中し、一種査問委員会のような雰囲気となった。

 この外国人記者クラブでの会見で、日本のメディアが一斉に動き出した。宮崎学氏の「民主主義の原価」には、「いわば外圧をきっかけに、日本のマスコミが一気に金脈報道に乗り出したのだ。R氏は、この記者会見を仲介したのは共同通信記者だったが、その記者はCIAのエージェントであったと話している」とある。 

 田中首相の予想を超える「査問会見」となり、しどろもどろの弁明となった。次のように述べている。

 「一言で言うと、私は経済界の出身であり、政治に支障のない限り経済活動をしてきた。記事で個人の経済活動と公の政治活動が混交されていることは納得いかない。米国だけでなく、政治家が国民の支持と理解を得るためには、プライバシーの問題をある意味で制限されることは承知している」。

【「学生運動上がり」の登用考】

 角栄はどうも「学生運動上がり」を重宝にしていた形跡がある。早坂記者の秘書入りのエピソードもこれを物語っている。早坂茂三氏は早稲田大学時代全学連の有能なオルガナイザーの一人であり、卒業後東京タイムズ記者をしていた。昭和38.12.2日、その早坂氏を田中が秘書になってくれないかとスカウトしている。この時の言葉が次のような角栄節であった。

 「俺はお前の昔を知っている。しかし、そんなことは問題じゃない。俺も本当は共産党に入っていたかも知れないが、何しろ手から口に運ぶのに忙しくて勉強するひまが無かっただけだ」。
 「俺は10年後に天下を取る。お互いに一生は1回だ。死ねば土くれになる。地獄も極楽もヘチマもない。俺は越後の貧乏な馬喰の倅だ。君が昔、赤旗を振っていたことは知っている。公安調査庁の記録は全部読んだ。それは構わない。俺は君を使いこなせる。どうだ、天下を取ろうじやないか。一生一度の大博打だが、負けてもともだ。首までは取られない。どうだい、一緒にやらないか」(早坂茂三「鈍牛にも角がある」106P)。

 斎藤隆景(新潟県南魚沼郡六日町で「斎藤記念病院」を経営)もその例である。元「全共闘」闘士で、一転「田中イズム」のとりこになったことから田中角栄の懐に飛び込み、その後、長く目白の田中邸への出入り自由となった。


【フランスのル・モンド記者の証言】
 早坂秘書は、著書「オヤジの知恵」の中で次のように記している。1970の安保闘争の頃、フランスのル・モンドの極東総局長だったロベール・ギラン記者が幹事長室の角栄を訪ねて聞いた。全学連の学生達が党本部前の街路を埋めてジグザグデモを繰り広げていた。「あの学生達を同思うか」。この問いに、角栄は次のように答えている。
 「日本の将来を背負う若者達だ。経験が浅くて、視野は狭いが、まじめに祖国の先行きを考え、心配している。若者は、あれでいい。マージャンに耽り、女の尻を追い掛け回す連中よりも信頼できる。彼等彼女たちは、間もなく社会に出て働き、結婚して所帯を持ち、人生が一筋縄でいかないことを経験的に知れば、物事を判断する重心が低くなる。私は心配していない」。

 私を指差して話を続けた。「彼も青年時代、連中の旗頭でした。今は私の仕事を手伝ってくれている」。ギランが「ウィ・ムッシュウ」と微笑み、私は仕方なく苦笑した。

【田中政治の無理について】
 「2チャンネル田中角栄bS」より転載する。
778 :名無しさん@3周年:2006/10/25
 ある日、ポツンと田中事務所に鳩山邦夫ひとりでいると、ふらりと首相の田中が入ってきた。 末席の私設秘書である鳩山は、官邸の主である田中とめったに会うことはなかった。 鳩山は驚いて椅子から立ち上がった。

 「まあまあ、いいから座んなさい」。

 田中はそう言うと、隣の椅子に腰をかけた。鳩山が、何事なのか緊張していると、田中がしみじみとした口調で言った。
 「いま、たしかに田中内閣の支持率は高い。しかし、邦夫君、きみが本当に第一線で活躍するのは、二十一世紀になるかならないかのときだろうな。 そういう将来のことを考えれば、いまの田中政治というものを大いに勉強してほしいけれども、それを押しつけようとはまったく思わない。田中政治を継承しろとも思わない。時代は変わる。きみとおれとではタイプが違う。 したがって、田中政治の教師たる部分は、大いに吸収してもらいたいが、むしろ反面教師の部分もあるだろうから、それは批判精神をもっておれの政治を見ておってくれ」。

 田中はなかば眼を閉じ、天井を見上げた。
 「おれは、ここまでくるのに無理をした。無理をしなければここまでこれなかった。でも、きみは鳩山一郎さんの孫だ。無理をする必要がない。無理は、しなければ、しないほうがいいんだよ。苦労というものは、いい部分もあるが、悪い部分もある。苦労はしてもいいけど、無駄な苦労はしないほうがいいんだ」。

 田中はそう言うと、さっと事務所から出ていった。

【宗教的倫理と教育的倫理と政治的倫理について】
  宗教的倫理と教育的倫理と政治的倫理について次のように述べている。
 「宗教的倫理と教育的倫理と政治的倫理、この三つは全く違うんだ。(中略) 政治をやる以上、割り切るべきことは割り切らなければダメなんだ。政治の責任者でありながら、宗教的倫理だけでやろうとすれば、そんなものは政治に反映しない」(1984.6.19日号「週刊朝日」のインタビュー)。

【用件の伝え方について】
  角栄式用件の伝え方は次の通り。
 「余計な前置きは不要。用件は便箋1枚に大きい字で書け。結論を初めに言え。理由は3つまでだ。この世に3つでまとめきれない大事はない。それを便箋で書いておくように」。
 「大切なことは皆な難しい言葉ではなく、誰にでも分かる平易な言葉で書かれている。真理とは長たらしい言葉ではない。もし長くて説明が難しい場合には、どこかにウソがあると思った方が良い」。

【法、法匪批判について】
  法、法匪について次のように述べている。
 「バカモン! 大学も出てそんなことも知らんのか。法の解釈だけに拘って民衆を顧みない、そういうのを法匪って云うんだ」(「田中角栄という生き方」)。
 「だいたい、役人が法律を作っていると、立法の精神が途中で曲げられて、法学士が国民を抑えつけるのに都合が良いようなものになってしまうんだ」。

【政治、宗教、教育について】
  政治、宗教、教育について次のように述べている。
 「政治と宗教、教育は明らかに別ものだ。それをごっちゃにして政治倫理、宗教倫理を一緒にしたら国は保てない(政治はできない)」。

【女を味方につけろ、について】
  女を味方につけろ、について次のように述べている。
 「男は飲ませて握らせれば、すぐ転ぶから信用できない。女はこれと決めれば山の如しで変わらない。候補者の回りに女が群がれば間違いなく勝つ」。

【人の叱り方、褒め方について】
 
 「人を叱るときはサシでやれ。褒めるときは人前でやれ」。(二宮尊徳の教訓歌は、「かわいくば 五つ教えて 三つ褒め 二つ叱って 良き人とせよ」)





(私論.私見)