田中角栄履歴語録

 (最新見直し2009.10.25日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、角栄の履歴語録を確認する。

 2010.11.20日 れんだいこ拝


【今太閤角栄の感慨】

 「現在の私をみて、世間は立身出世の典型と考えるようだが、自分はそういうものからは、ほど遠いと思っている。いわゆる立身出世となると、栄進コースを順調に驀進して、そうなったという印象を与えるが、自分は人生の険しい坂道を、踏み越えて来たのだ」(戸川猪佐武「田中角栄猛語録」)。

【角栄の母の思い】

 「母は、私が代議士に初当選したころ、誰かに、『せがれさんは、何にしたかったのですか』と聞かれて、『実は、越後線の駅員にしたかった』と云ったそうだ。『不景気、不景気』と、気笛を鳴らす越後線のその切符切りが、長年苦労した母の眼には、この上なく安定した仕事に映っていたのに違いない」(戸川猪佐武「田中角栄猛語録」)。

【角栄の母について】

 「粘り強いという越後人の気質にみちた、優しい素晴らしい母です」(戸川猪佐武「田中角栄猛語録」)。

【長男的責任自覚について】
 角栄は、原日本人とでも云うべき感性と責任感の篤い人物であった。特に、冠婚葬祭を大事にしていた。次のように語っている。
 「オレは長男だ。弟や妹達を食わせにゃならん。屁理屈をいっている暇は無い。理想をいってたんじや飢え死にする。きれいごとではない長男の責任を負っているんだ」。

【母の励まし】

 「母は、私に、いろいろなことを教えてくれた。少年の頃、私はどもりだった。母は『どもりなんていうものは、努力すれば必ず治るものだよ。焦らず、落ち着いてものを云うこと、どうしたらいいか、自分でようく考えてごらん』と云った。自分でよく考えて見る――――、確かに、何事も、すべてそうだ」(戸川猪佐武「田中角栄猛語録」)。

【越後人の気質】

 「頼まれれば、越後から米をつきにくる―と云う昔からの諺がある。これは、越後人の働きぶりのことを云ったものだ。又、越後から江戸に、出稼ぎにきた人たちのことを云ったものである。私もその越後から出稼ぎに来たようなものだと思っている。政治家として働いて、また越後に戻る日があるだろう」(戸川猪佐武「田中角栄猛語録」)。

【親孝行】

 「子を持って知る親の恩―と云うがね。その時々には親の気持ちが理解できているつもりでいても、何年かたってみると、まだ理解が足りていなかったことに気づくね」(戸川猪佐武「田中角栄猛語録」)。

【ディアナ・ダ―ピン】

 「こんな女をワイフにしたい―と思って、軍隊に女優の写真を持っていった。それがディアナ・ダ―ピンだった」(戸川猪佐武「田中角栄猛語録」)。

結婚する時の女房への三つの誓い

 「結婚する時、女房に三つのことを約束させられた。出て行けと云わないこと、足蹴りにしないこと、将来二重橋を渡ることがあったら、同伴すること、だった」(戸川猪佐武「田中角栄猛語録」)。

【角栄の政治家転身述懐】

 概要「自分が政治家になったのは、日曜日に魚釣りに行って、川の流れもきれいだし、景色もいい、そこに居を構えて、魚屋になったようなものだ。と云うと、たいてい、そんなことはないだろう。田中はわざとそう云っているんだと云うが、本当のことだから仕方ない」(戸川猪佐武「田中角栄猛語録」)。

【母の戒め】

 「私が上京する時、母は私に、『大酒は飲むな。馬は持つな。できもせぬ大きなことは云うな』と注意してくれた。ところが、今の私は、酒は飲む、馬は持っている、政治家だから時には大言壮語もするし、どうも、あまり親孝行な息子ではないようである」(戸川猪佐武「田中角栄猛語録」)。

【角栄のせっかち論】

 「宰相学を勉強しろ―と、人に云われることがある。恐らく自分が勇み足、せっかち、おしゃべり―だからもっと、どっしり構えろ、悠揚迫らずという態度になれ―と云う意味だと思う。だが、俺は今のままの方が性に合うんだ。忙しそうに飛び歩くのが、人の為になると思っているし、自分も好きなんだから仕方がない」(戸川猪佐武「田中角栄猛語録」)。

【角栄の名前の由来】

 「新潟の雪は一番悪い。お寺と神社がやたらに多い西山町は、豊かな町だった。石油が採れた。親父も、石油に手を出せばよいものを、牛やっとった。牛の売り買いやっとって馬くろうだった。親父は初め、私の名前を角太郎と名付けた。しかし、母が角太郎というのは、近所にその名前の犬がいると言って反対した。それで母が角栄と名付けた。小学校の草間先生。私にとっては、この人だけが終生の師だ。先生の銘に、至誠の人―真の勇者、というのがある。小学校の先生こそ、人の魂をつくる。親のことはね、年ふるごとにその思い出は鮮明になるものだ。…まっ、人生はドラマだ」。









(私論.私見)