「れんだいこの『ユダヤ人問題論』」 |
(最新見直し2006.2.22日)
(れんだいこのショートメッセージ) | ||
戦後日本の左派運動は、1・マルクス主義に基づく奪権理論、2・反戦平和運動、3・戦後憲法的秩序の擁護の三本柱を核として回天しているように思う。ユダヤ人問題は、主としてこのうちの反戦平和運動に関係している。その圏内では、悲劇の民として描かれ次のように合意されている。
果して、このようなユダヤ人問題論ないし史観は正しいのだろうか。れんだいこは、そういう通説は俗説でしかないと思う。 事実は、ユダヤの民の歴史的DNAとして認められる選民主義、その裏返しのゴイム思想、陰謀、策略、生贄(いけにえ)生血秘儀、寄生的生態等々が、その他の民族と絶えざる軋轢を産み続けてきたわけであり、その間ユダヤ人は一方的な被害者であった訳ではない。むしろ、常に攻勢的に抗争を仕掛けてきた民であり、ユダヤが支配するのかされるのかの二者択一しかない熾烈な抗争を生み出した張本人ではないのか。反ユダヤ主義とは、そういう過程に於いて生み出された歴史的生成物なのではなかろうか。 この場合、「般呼称としてのユダヤ」的命名は軽率かも知れない。しかしながら、「ユダヤ一般」が「ユダヤ民内のネオ・シオニズム急進主義及びサタニズム」に拝跪しながら歴史的に経緯していることは史実であるからして、「総称としてのユダヤ」的命名は止むを得ないものがあると云うべきだろう。我々が、彼らのそういう危険な習性と和睦することは有り得ない。なぜなら、ユダヤの危険な習性は、それを逆手取りするからである。西欧ではそういう風に数千年の争いを経ている。そこに、日本人の想像の及ばない怨念を見て取るべきであろう。 従って、流布されている次のような見解は歴史の詐術であり全くの虚偽であろう。
付言すれば、「ゲットーに押し込められ」云々も正確とは云い難い。 「ゲットーからユダヤ人を出すことより、ユダヤ人をゲットーを出すことの方が難しい」 とも云われている。ゲットーとは、独特の宗派性を持つユダヤの民が治外法権的に自治区を形成し、「国家内国家」足り得た区域であり、ユダヤの民がその宗派を維持する手法であり、ユダヤの民が住みついた当該国家との平和的共存の有姿であり、歴史的妥協でもたらされているものであり、決して悲劇の姿ではない。こういうところの誤解から解かなければ、ユダヤ人問題の真相は見えてこないのではなかろうか。 2006.2.14日、2006.3.21日再編集 れんだいこ拝 |
【既成のユダヤ人論雑感】 | ||
アブラム・レオン著「ユダヤ人問題の史的展開」(訳・湯浅邦男、柘植書房、1973.11.10日初版)は、次のように記している。
れんだいこは、この姿勢に異存ない。然るに横行するユダヤ人論は余興的な域を出ない。サルトルは、「ユダヤ人迫害には根拠が無い。ユダヤ人とは反ユダヤ主義者が幻想的に作り出したものである」と述べているとのことであるが、典型的な問題すり替え話法であろう。内田樹・著「私家版・ユダヤ文化論」は、「反ユダヤ主義には理由があると信じていることには理由がある」と茶化しているようであるが、サルトルの善いりも幾分かは正確であろう。 2,006.9.17日付け毎日新聞書評欄での鹿島茂・氏の「内田樹・著、私家版・ユダヤ文化論」によれば、は、鹿島氏は次のように述べている。
れんだいこは著作を読んでいなので内田氏の真意は分からないが、この見立ては秀逸である。れんだいこが観るところ、西欧キリスト教国家及び社会は実に、イエス以前も以降もユダヤ人問題に悩み続けてきた史実を刻んでいる。内田氏は、このことを踏まえてを隠喩的に述べているのであろう。そう考えれば、ここまで述べられない者たちよりも論を進めていることになる。 2006.9.17日 れんだいこ拝 |
「★阿修羅♪ > ホロコースト6」のOrion星人氏の2009.8.5日付け投稿「ユダヤ人とイスラエル人は目覚めないといけない」を転載しておく。
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(私論.私見)