れんだいこ一括和訳文「ユダヤ人問題について」(ON THE JEWISH QUESTION) |
(れんだいこのショートメッセージ) |
マルクスにより1843年秋に書かれ、1844年2月に出版された。 |
1−1 | ブルーノー・バウアー著「ユダヤ人問題」(ブラウンシュワイク、1843年) |
ドイツのユダヤ人は、解放を欲している。 彼らは、どのような解放を欲しているのか ? それは市民的政治的解放である。 |
ブルーノバウアーは、それに対して答える。ドイツでは誰も政治的に解放されている者はいない。 我々自身に自由がないのだ。 その我々がいかにして君達を自由にし得ようか ? 君達ユダヤ人は、ユダヤ人としての君達の特殊な解放を要求するのならば利己主義者(エゴイスト)である。 |
君達は、ドイツ人として、ドイツ人の政治的解放に向けて労を為すべきだ。そして、人間として、人類の解放の為に努めるべきだ。そして、君達は、君達の抑圧と恥辱という特殊なその種のものを、法の例外としてではなく、反対に法の裏づけと為すように感じるべきだ。 |
それとも又は、ユダヤ人は、国家に従属しているキリスト教徒としての同じ地位(ステータス)を要求しているのか ? この場合には、彼らは、キリスト教国家が正当なものであることを認めている。且つ一般的な抑圧体制をも又認めていることになる。 なぜ、彼らは、仮にもし一般的な隷属については承服しているなら、彼らの特殊な隷属を否認すべきとするのか ? なぜ、ドイツ人は、仮にユダヤ人がドイツ人の自由化に興味を示さないとして、それなのになぜユダヤ人の自由化に興味を示さねばならないのか ? |
キリスト教国家は、特権のみを知っている。 この国家では、ユダヤ人はユダヤ人として存在する特権を持っている。 ユダヤ人は、ユダヤ人として、キリスト教徒が持っていない権利を持っている。 なぜ、ユダヤ人は、彼が持っておらぬがキリスト教徒が享受している権利を欲するのだろうか ? |
ユダヤ人は、キリスト教国家から解放されることを欲しつつ、キリスト教国家が与えているユダヤ人に対する宗教的偏見を放棄すべきだと要求している。 彼つまりユダヤ人は、己の宗教的偏見を放棄するのか ? してみれば、ユダヤ人は、他の誰かが彼の宗教を放棄すべきだと要求する権利を持つのか ? |
キリスト教国家は、そのまさに本性により、ユダヤ人の解放はできない。しかし、とバウワーは付け加えて云う。ユダヤ人は、ユダヤ人の本性により、解放されえない。 国家がキリスト教国家としてあり、ユダヤ人がユダヤ人としてある限り、一方は、他方が受け取るのと見合った解放を得ることができない。 |
キリスト教国家は、ユダヤ人に対して、キリスト教国家的な性格のやり方によってのみ振舞うことが出来る。つまり、特権を与えることによって、ユダヤ人を他の臣民から隔離することを許容することによって。しかし、ユダヤ人は社会の全ての他の分離させられた各階各層の圧力を感じさせられており、そして、ユダヤ人が、国内の支配的な宗教に敵対している宗教を信奉していることによりなおさら激しく感じさせられている。 |
しかし、ユダヤ人も又、ユダヤ的なやり方でのみ国家に対して振舞うことが出来る。つまり、国家に対するある種異邦人的に関わることによって、現実国家に対する空想上の民族性を対置することによって、現実の法に対する幻影的な法を対置することによって、ユダヤ人を人類から分離することを正当化することを認めることによって、教条に則り歴史的運動に参加するのを慎むことによって、概して人類の未来と共通するものを何も持っていないある未来に彼の信頼を託すことによって、そして自己自身をユダヤ人の民の一員として且つユダヤ人の民を選ばれた民として見なすことによって。 |
しからば、どんな基盤の上で、君達ユダヤ人は解放を欲しているのか ?
あなた方の宗教の為にか ? それは、国教に対する不倶戴天の敵である。 市民としてか ? ドイツ人には、市民なる者は存在しない。 人間としてか ? しかし、諸君が人間的存在でないのは、諸君が訴えかけている相手がそうでないのと同様である。 |
バウワーは、ユダヤ人解放問題に対して、従前の公式に対する批判的な分析と問題に対する解決策を与えた後、新しい方式を持ち込んだ。
彼は尋ねる。解放されるべきユダヤ人及び彼を解放するべきキリスト教国家のあるべき姿とはどういうものなのかと。 |
彼はユダヤ教の批判によって答える。即ち、彼は、ユダヤ教とキリスト教間の宗教的対立を分析する。彼は、キリスト教国家の本質を解明する。そして、彼は、これら全てを大胆に辛辣に才智に溢れ且つ深遠に、的確にして簡潔且つ旺盛な著作スタイルで為している。 |
では、バウワーは、ユダヤ問題をどう解決するのか ? その結果はどうか ? 問題の立て方はその解決でもある。 ユダヤ人問題の批判は、ユダヤ人問題の解答である。 従って、要約は次のようになる。 |
我々は、我々が他の者を解放することが出来るより前に我々自身を解放せねばならない。
ユダヤ人とキリスト教徒間の対立の最も頑迷な形態は、宗教的対立である。 宗教的対立は如何にしたら解決するのか ? 宗教を不可能にすることによってである。 宗教的対立は如何にしたら不可能になるのか ? 宗教を揚棄することによってである。 |
ユダヤ人とキリスト教徒が、彼らの崇敬している宗教が人間精神の発達における異なる段階や、歴史によって脱ぎ捨てられた異なるヘビ皮膚や、そして、人はそれらを被っていたヘビであるとしているのだが、これらのことを認めるや否や、ユダヤ人とキリスト教徒の関係はもはや宗教的関係に立つのではなく、ひとえに批判的科学的且つ人間的関係に立つだけとなる。 科学は、だから、彼らの統合を構築する。 しかし、科学内の矛盾は、科学自体によって解決される。 |
ドイツのユダヤ人は特に、政治的な解放が全く欠如しており、且つ強く刻印された国家のキリスト教的性格に直面している。 バウワーの考えでは、しかしながら、ユダヤ人問題は、特殊ドイツ的諸関係とは独立した普遍的な意義を有している。 それは、宗教的偏執と政治的解放間の矛盾という、宗教対国家の関係問題となっている。 宗教からの解放は、政治的に解放されたがっているユダヤ人に対しても、解放に努力されるべき且つ解放される筈である国家という両者共々に対して、状況提起されている。 |
「結構である」と云われる。そして、ユダヤ人自身も次のように云う。「ユダヤ人は、ユダヤ人としてではなく解放されることになるべきだ。彼がユダヤ人であるということによってではなく、彼がそのような優秀な、普遍的な道徳の人間的教条を持っているということによってではなく、反対に、ユダヤ人は市民の背後に退き、一人の市民となるべきだ。彼はユダヤ人であって且つユダヤ人として止まるのだけれども。 |
つまり、彼は市民であり且つごく普通の人間的諸関係の中で生活するのだけれども、あくまでユダヤ人であり且つ今後ともそう在り続ける。即ち、彼のユダヤ的且つそう限定された本性は、いつも結局は彼の人間的且つ政治的義務に打ち勝つことになる。 偏執的な拘りは、普遍的な原理原則により凌駕されているにも拘らず、相変わらず残存する。 しかし、もしそれが残存するとなれば、次に、反対に、それが全て何もかもを上回る。 |
「ただ詭弁的にただ見かけだけ、ユダヤ人は、ユダヤ人のまま国家生活上に止まることができるだろう。 だから、もし彼がユダヤ人としてとどまり続けることを欲するのなら、単なる外見が本質となり、結局それが勝利を収めることになるであろう。つまり、彼の国家における生活は、本質と法律を捨象したところの類似したものになるかさもなければ一時的な例外にならざるをえないだろう」(「現今のユダヤ人とキリスト教徒が自由になる為の能力」、Einundzwanzig Bogen_, P.57)。 |
さぁ、他方で、バウワーが国家の任務をどう表現しているのか耳を傾けてみよう。 彼は云う。「フランス」で、「最近私たちに示された」(「下院議事録」1840.12.26)。「ユダヤ人問題の絡みで、―丁度あらゆる他の政治的質疑の中で連続的に行なわれた―自由な生活の光景、しかし、その自由は法によって無効にしている。だから、それは見せかけであると宣言し、他方ではその自由な諸法をその行為によって否定しているそういう光景を」(「ユダヤ問題」P.64)。 |
「フランスでは、普遍的な自由は、まだ法律となっていない。ユダヤ人問題はあまりにも未解決のままとなっている。なぜなら、法的自由―全ての市民は平等であるという事実―は、実際生活上で制限されている。それは、未だ宗教的偏執によって支配され分離されている。そして、実生活上の自由の欠如が法に反作用し、後者に本来自由である市民を圧迫者と被圧迫者とに区別する事を認めさせるよう強いている。 |
という訳で、ユダヤ問題は、フランスにとっていつ解決されるというのか ? 「ユダヤ人は、例えば、もし、彼が、自分自身をして、国家と彼の従う市民としての義務の履行が彼の法によって妨げられることが認められなかったならば、つまり、例えば、もし安息日に彼が下院に出席し公式議事録に参加するようになる時には、ユダヤ人であることを終えてしまっているだろう。 |
あらゆる宗教的特権、そして従ってさらに特権的教会の独占も、共に揚棄されていなければならないだろう。そして、数人ないしは多くの人達あるいは圧倒的な大多数の者さえ、未だ宗教的義務の遂行という任務を信じているのだったら、この義務の達成は、彼らに純粋な私事として残されていなければならないだろう」(P.65)。 |
「何らかの特権的宗教が存在しないところにはもはや宗教は存在しない。 宗教から排他的権力を取り去れ。そして、もはや存在せしむるな」 (P.66)。 |
「M・マルティン・デュ・ノール氏は、法律で安息日には拘束しないという提案を見たが、それはキリスト教が存在するのを終息させると宣言する動議を意味していた。同じ理由で(そして、この理由は非常に根拠があるものだが)、安息日の法がもはやユダヤ人を拘束していないとの宣言が、ユダヤ教揚棄の宣言となるだろう」 (P71)。 |
そういう訳で、バウワーは要求している。一方では、ユダヤ人はユダヤ教を放棄するべきだと。そして、一般に人類は、市民的解放を達成するために宗教を放棄するべきである。 他方では、彼は、とても一貫して宗教の政治的揚棄を宗教そのものの揚棄と見なしている。 宗教を前提とする国家はまだ真実の実際の国家ではない。 |
「もちろん、宗教的観念は国家に保障を与える。 しかし、どんな国家に対してか ? どの種の国家に対してか ?」 (P.97) |
この点にこそ、ユダヤ人問題の一面的把握が証左されている。 誰が解放する予定なのか。誰が解放されることになっているのか、を研究するだけでは決して十分ではなかった。 批判は第三のポイントを研究するべきであった。 |
それは、次のように質問しなければならなかった。どんな種類の解放が問題なのか ? 要求されているものは解放の本質に基づくものであり、どんな諸条件が要求されるのか ? 政治的な解放そのものの批判こそ初めてユダヤ人問題と「時代の一般的問題」におけるその本当の解決を廻っての決定的な批判であったのだ。 |
バウワーは、問題をこのレベルにまで引き上げないので、矛盾に絡まったようになる。 彼は、政治的な解放そのものの本質に基づかない諸条件を提出する。 彼は、彼の問題に含まれて居ない諸問題を提起する。そして彼は、この質問を未回答のままに放置したまま問題を解決する。 |
バウワーは、ユダヤ人の解放についての敵対者に次のように云う。 「彼らの間違いはまさに次の点にあった。つまり、彼らはキリスト教国家を唯一の真実のものであると前提し、それを彼らがユダヤ教を考察するときに適用したのと同じ批判にさらさなかったことである」(op. cit., P.3)。 |
我々は、彼の間違いが、彼が批判を「キリスト教国家」だけではなく「国家そのもの」に向けなかったという事実にあることが分かる。即ち、彼は、人間的解放に対する政治的解放の関係で研究しなかった。そういう訳で、一般的な人間の解放を備えた政治的解放という無批判的混同からしか説明できないような諸条件を提出する。 |
バウワーは、ユダヤ人に次のように尋ねている。すなわち、君達は、君達の立場から政治的な解放を望む権利があるのか ? 我々は、反対の質問をする。即ち、政治的な解放という見地には、ユダヤ人からユダヤ教の揚棄及び凡そ人から宗教の揚棄を要求する権利があるのか ? |
ユダヤ人問題は、ユダヤ人が生活している国家に依存しつつ異なる形態をとっている。 ドイツでは、政治的国家ではない、そのようなものとしての国家でもなく、ユダヤ人問題は純粋に神学的な問題である。 ユダヤ人は、キリスト教を基礎として信奉している国家に対して宗教的対立の中にある。 この国家は、職務上は(ex professo)神学者である。 |
批判はここでは神学批判である。キリスト教神学とユダヤ教神学の批判という両刃の批判である。 だから、我々は、どんなに批判的に神学の中で立ち回ろうとも、依然として神学の中で動いているのである。 |
フランスでは、立憲制国として、ユダヤ人問題は憲法的問題である。政治的解放という未完成問題である。 だから、国家宗教の表向きは、自家撞着的定式の中であろうとも、大多数の宗教の定式で保持されている。ユダヤ人の国家に対する関係は、宗教的神学的対立の表向きを保持している。 |
北アメリカ国家のみ−少なくともそれらのいくつか−において初めて、ユダヤ人問題は神学的意義を喪失している。そして、本当にスコラーな問題となっている。 政治的国家が完成しているところでだけ、政治的国家に対するユダヤ人の、そして一般に宗教的人間の関係が、その特質において、その純粋さにおいて現れうる。 |
この関係の批判は、国家が宗教に対して神学的態度で望まなくなるや否や、国家が国家として即ち政治的に向かい合うようになるや否や、神学的批判であることを終息する。 その時批判派、政治的国家の批判になる。 問題が神学的であることをやめるこの点で、バウワー的批判は批判的であるのを終息する。 |
「合衆国においては、国教も、多数者の宗教であると宣言された宗教も、他宗派に対する一宗派(カルト)の優越もない。 国家はあらゆる宗派から離れて存立している」(G.・ド・ボーモント著「マリ、別名北アメリカ合衆国における奴隷制」、パリ、1835、P.214)。 |
事実、いくつかの北アメリカの州では、「憲法は、いかなる宗教的信仰や宗教的実践も政治的権利の条件としては課していない」(op. cit,P.225)。 |
それにも拘らず、「合衆国においては、人々は、宗教無しの人がきちんとした人になることができるという風には信じていない」 (op. cit, P.224)。 |
それにも拘らず、北アメリカは、顕著に信仰心のあつい国である。これは
ボーモント、トクヴィルおよび英国人ハミルトンが異口同音に請合っているところである。 しかしながら、北アメリカ諸州は、我々から見れば一例に過ぎぬ。 |
問題はこうである。即ち、完全なる政治的な解放は宗教とどのような関係になるのか ? 完全な政治的な解放を成し遂げた国にさえ、宗教は存在しており、そればかりでなくむしろ若々しく活発精力的に演じられていることが判明するなら、宗教の存在は国家の完成と矛盾するものではないという証明が為されていることになる。 しかしながら、宗教の存在は欠陥の存在であるので、この欠陥の源は国家そのものの本源性の中にしか求めることができない。 |
我々はもはや、宗教を、現世的偏狭さの「原因根拠」とは考えず、むしろその現れでしかないと了解せざるを得ない。 だから、我々は、自由な市民の宗教的偏執をその現世的な偏執によって説明する。 我々は、彼らが、彼らの世俗的な諸制限を取り除くために彼らの宗教的偏狭さを克服せねばならない、と云う風には主張しない。我々は、彼らが、彼らの世俗的なな諸制限を取り除くならば彼らの宗教的偏狭さが克服されるだろう、と云う風に主張する。 |
我々は、世俗的な問題を、神学的な問題へと転化しない。 歴史は充分すぎるほど長い間、迷信に融和させられてきた。我々は今や、迷信を歴史に融和させる。 |
宗教に対する政治的な解放という関係の問題は、我々にとって、人間の解放に対する政治的な解放の関係という問題になる。 我々は、政治的国家の宗教的弱点を、その世俗的な構造での政治的な国家の批判によって批判する。宗教を尊重するという宗教的弱点とは別に。 |
国家と特殊な例えばユダヤ教のような宗教間の矛盾は、国家と特殊な世俗的な諸要素間の矛盾を人間的形態として差し出されている。一般に、国家と宗教間の矛盾、国家と一般にその諸前提間の矛盾のことであるが。 |
ユダヤ人の、キリスト教徒の、そして一般に宗教的人間の政治的解放とは、国家のユダヤ教からの、キリスト教からの、一般に宗教からの解放である。 国家は自分なりに、その本性の性格に基づくやり方で、国家を国家として自分自身を宗教から解放する。それは、国家が国家宗教から解放するという方法で為される。言い換えれば、国家としてはいかなる宗教をも信奉しないことによって。しかし、反対に、国家が国家として自分自身を崇めることによって。 |
宗教からの政治的解放は、徹底的且つ矛盾の無いままに遂行されるような宗教的解放ではない。なぜなら、政治的解放は、人間的解放の徹底的且つ矛盾の無いままに遂行される形態ではないからである。 |
政治的解放の限界は、国家は、人間がこの制限から真に自由でなくても制限から解放されうるという事実から直ちに明らかになる。つまり、国家は、人間が自由人でなくとも(言葉の上でのしゃれになるが共和国を意味する)「自由国家」でありうるのだ。 バウワー自身、彼が政治的解放に向けて次のような条件を設けるとき、このことを暗黙のうちに認めている。 |
「どんな宗教的特権も、従って、特権的教会の独占も又、共に廃棄されていなければならない。それでも数人、数十人、又は圧倒的大多数の者でさえが、なおかつ宗教的義務を遂行せねばならないと信じるのだったら、この義務の遂行は、純粋の私事として、彼ら自身の任意に任されていなければならないだろう」(「ユダヤ人問題」P.65) |
だから、圧倒的大多数の者が依然として宗教的であっても、「国家」は宗教から解放されているということがあり得るのである。 そして、圧倒的大多数の者は、彼らが私的に宗教的であることを通じて、宗教的であることをやめることはしない。 |
しかし、宗教に対する国家の態度は、特に共和国「自由国家」の態度は、結局は国家を構成する「人間」が宗教に対する態度に他ならない。 そこから次のような結論が生じる。人間が国家という媒体を通じて、つまり政治的に、ある制限から自ら解放するのは、人間が自分自身との矛盾において、つまり抽象的・限定的な且つ部分的な仕方で、この限界を超越する。 |
更に次のような結論が生じる。人間は、政治的に自らを解放することによって、回り道をして、ある仲介者を通じて、ある重要な媒体を通じて、自らを自由にする。 |
最後に次のような結論が生じる。人間は、国家という媒体を通じて自らを無神論者なりと宣言してさえ、つまり、国家が無神論者としてあるべきであると宣言してさえ、相変わらず宗教というくびきにとらわれたままでいるが、それはまさに、人間が回り道をしてのみ、もっぱら仲介者を通じてのみ、自らを認知する。 宗教とはまさに、回り道をして、仲介者によって、人間を認知することである。 |
国家は、人間と人間の自由との間の仲介者である。 丁度キリストが、人間があらゆる自己の神性やあらゆる自己の宗教的偏執という負荷を仮託するところの仲介者であるのと同様に、国家も、人間があらゆる自己の神性やあらゆる自己の宗教的偏執を仮託するところの仲介者なのである。 |
宗教に対する人間の政治的超越は、政治的超越一般のあらゆる欠陥と長所を分かち持っている。 国家が国家として例えば私有財産を撤廃する。人間は、北アメリカ諸州の多くで行われているように、選挙被選挙権のための財産資格を廃止するや否や、これをもって直ちに私有財産は廃棄されたのだと政治的な仕方で宣言する。 |
ハミルトンは、この事実を政治的立場からまったく正しく解釈して云う。「庶民が所有者と財産とに打ち勝った」と。 |
私有財産は、非所有者が所有者の立法者となったとすれば、理念上揚棄されることになるのではなかろうか ? 財産資格は、投票者にとって私有財産を認知する政治的形式の最後のものなのだ。 |
それにしても、私有財産の政治的撤廃をもってしては、私有財産はただちに揚棄され損なったばかりでなく、むしろ前提にされてさえいるのである。 国家はそれなりの仕方で、生まれ、身分、教養、職業の差別を揚棄する。即ち、出生、身分、教養、職業を非政治的な差別であると宣言するとき、これらの相違にかかわり無く、国民の各自を国家主権の平等の参与者であると布告するとき、国家が現実の国民生活のあらゆる因子を国家的見地から取り扱うときに。 |
それにも関わらず、国家は、私有財産、教養、職業がそれぞれの仕方で、即ち私有財産として、教養として、職業として作用し、それぞれの特別の本質を発揮するがままに任せる。 国家は、これらの事実上の諸差別を揚棄するどころか、むしろそれらの存在を前提としてのみ存在し、これらの自己の諸因子との対立のうちでのみ自らを政治的国家として感知し、また自己の普遍性を発揮する。 |
だから、へーーゲルが次のように云うとき、彼は宗教に対する政治的国家の関係を全く正しく規定しているのだ。 「国家が精神の自覚的な人倫的現実性として定存するためには、権威及び信仰の形態から国家が区別されていることが必要である。 |
しかし、この区別性が現れるのは、ただそれ自身のうちで教会的側面が分離する限りにおいてである。 このように、国家は、特殊的教会を超えてのみ、思惟の普遍性、自己の形式の原理を獲得し、またそれらを現存させるのである」(ヘーゲル「法哲学」初版P.346)。 |
まさにその通り! こうしてのみ、国家は特殊的諸因子をこえて、普遍性として、自らを構成するのである。 |
完成した政治的国家は、その本質からみれば、人間の物質的生活に対立する、人間の種としての類生活である。 この利己的生活のあらゆる諸前提は、国家の圏外に、市民社会のうちに存続したままである。但し、市民社会の諸特質として。 |
政治的国家がその真に発達したところでは、人は、思惟、意識のうちばかりでなく、現実のうち、生活のうちでも、天上と地上との二重生活をおくる。二重生活とは、人が自分自身に対して共同的存在として考えらているような政治的社会生活と、人が私人として行動し、他人を手段とみなし、自らを手段へと下落させ、他勢力の玩具となるところの市民的社会生活のことである。 |
政治的国家の市民社会に対する関係は、天上と地上との諸関係と同じく、精神主義的である。 政治的国家は、市民社会に対する同じ対立のうちにある。そして、究極丁度宗教が俗世界の狭隘さに打ち勝つのと同じ対立のうちにある。つまり、同様にいつも市民社会を再認知し、再興し、市民社会によって支配されるべきであるということを許容している。 |
人は、そのもっとも直接的な現実、つまり市民社会の中では、俗物的存在である。 ここでは、人は自分自身を真の個人として尊重している。そして、他人によってもそう尊重されている。人は、架空の現象である。 他方、人が種族的類的存在として尊重されている国家においては、人は幻想的主権の想像的一員であり、自己の現実的個人的生活を奪われて、非現実的普遍性をもってみたされている。 |
人は、特殊な宗教の信奉者としては、共同体構成員としての彼の市民性と他の人との間に衝突を見出す。 この衝突は、政治的国家と市民社会との間に世俗的な分裂を帰着させる。 |
ブルジョアジー(ここでは、市民社会、私的生活の一員ということを意味しているて)の如き人にとっては、「国家内の生活」は、「単に仮象もしくは本質と法に対する暫時的例外に過ぎない」。 確かにブルジョアジーは、ユダヤ人と同じく、ただ詭弁的にのみ、政治的生活の球体のうちに止まるに過ぎない。それは丁度公民が、ただ詭弁的にのみ、ユダヤ人又はブルジョアジーとしてとどまるのと同様である。 |
しかしこの詭弁は個人的なものではない。 それは政治的国家そのものの詭弁である。 商人と市民間、日雇い労働者と市民、土地所有者と市民、商人と市民間の差異は、生きた個人と公民との間の差異である。 |
宗教的人間が彼自身政治的人間に対して見出す矛盾は、ブルジョアジーが彼自身公民に見出す矛盾、市民社会の構成員がその政治的な獅子の皮(立派なつけ衣装)に見出す矛盾と同じものである。 |
ユダヤ人問題は究極において政治的国家とその諸前提間の関係に帰着するが、この俗世的な衝突は、それが私有財産制等のような物質的諸要素であれ、文化、宗教のような精神的な諸要素であれ、一般的利害と私的利害との間の衝突、政治的国家と市民社会との間の分裂、これらの現世的諸対立をば、バウワーはそのままにしておきながら、その宗教的表現を論難する。 |
「市民社会の存続を保証し、その必要性を防衛する欲求こそまさに市民社会の基礎である。が、それが市民社会の存立をたえまない危険にさらし、市民社会の中に不安な要素を培養し、不断に貧富、困窮と繁栄の入れ混じりを変転させ、一般に有為転変を引き起こしている」(P.8)。 |
ヘーゲルの法哲学の綱要に添って書かれた「市民社会」という全章(8−9頁)を参照せよ。(そこでは)市民社会は政治的国家に対立するものとして、必然なものとして認められているが、その理由たるや、政治的国家が必然なものと認められるからである。 |
政治的解放は確かに一大進歩である。 それは、なるほど人間的解放一般の究極の形態ではないが、これまでの世界秩序内での人間的解放の最終の形態ではある。 自明の事だが、我々がここで語っているのは、現実の実践的な解放のことである。 |
人は、宗教を公法から私法へ追いやる事によって、自らを宗教から政治的に解放する。 宗教はもはや、人が−そのうちで限られた仕方で、特別の形態で、特別の圏内においてではあれ−他の人間との社会において種族的類的存在としてふるまうところの国家という意味での精神ではない。 宗教は、市民社会の精神即ち利己主義の、万人争闘(イギリスの経験論哲学者トマス・ホッブスがその市民論のて前提とした人類の本然的状態)の精神となっている。 |
それはもはや社会の本性ではなくて、差別の本性である。 それは、人がその社会から、自分自身から、そして他の人から分離した事の表現となった、-宗教はもともとそういうものであった。 それは今では、特殊な片意地の、私的な気紛れの、恣意の、抽象的告白に過ぎぬ。 |
例えば、北アメリカにおける宗教の限りない細分化は、外見上でも既に、純個人的ことがらたるの形態を宗教に与えている。 宗教は、私的利害の大多数間に押し出され、社会をそのようなものとしての共同体的社会から追放してしまった。 しかし、政治的解放の限界については何の幻想をも抱いてはいけない。 |
人間が公人と私人とに分裂した事、(従って)宗教が国家から市民社会へ置換されたこと、これは、政治的解放の一道程ではない。しかしそれは、政治的解放の完結である。だから、政治的解放は、人の現実の宗教心を揚棄するものでもなければ揚棄しようとするものでもない。 |
人のユダヤ人と市民への、プロテスタントと市民への、宗教的人間と市民への分解は、市民性に対する詐欺ではない。それは、政治的解放の回避でもない。それは、政治的解放そのものである。それは、宗教から自らを解放する、政治的な手法である。 |
なるほど、政治的国家が政治的国家として、市民社会から暴力的に生まれる期間には、政治的解放が市民の自己解放の形で完遂しようとつとめる形態で為される時には、国家は宗教の揚棄にまで、宗教の絶滅にまで進む事が出来るし、又進まなければならない。 |
しかし、このことは、国家が同じやり方で私有財産の揚棄にまで、最高限度令にまで、財産没収にまで、累進課税にまで進むことが出来るのということであるのみならず、丁度同じように生活の揚棄にまで、ギロチンにまで進むのということでもある。 特殊な自意識強まった時には、政治的生活は、この社会を構成している市民社会とその諸因子という先行条件を抑圧し続けようとする。そして、自らを矛盾の全く無い真の種族的類的な人間生活に構成しようと試みる。 |
しかし、それがこれを為しうるのは、ひとえに自分自身の生活諸条件に暴力的に反抗する事によってである。ひとえに革命を永続的なものと宣言することによってである。だからこそ政治劇は、必ずや宗教や私有財産、市民社会の全諸要素の再興をもって終わるのである。それは戦争が平和をもって終わるのと同じである。 |
事実、完成されたキリスト教国家は、キリスト教を自己の基礎として、国教として信奉し、従って他の諸宗教に対して排他的にふるまうその種のいわゆるキリスト教国家ではない。 むしろ反対に、完成されたキリスト教国家とは、無神論的国家、民主主義国家、宗教を市民社会の他の諸要素と同列の地位に置くことを委託する国家である。 |
まだ神学的な状態にある国家、まだ公式にキリスト教の信仰告白を行う国家、まだ自らを国家として宣言する勇気の無い国家、そういう国家はまだ、国家としてのその現実性において、俗世的、人間的形式で、人間的基礎−それの誇大な表現がキリスト教であるが−を実現する事に成功していない。 |
いわゆるキリスト教国家は単に非国家たるに過ぎない。なぜなら、宗教としてのキリスト教ではなくて、キリスト教の人間的背景だけが、真に人間的な創造物のうちにその表現を見出す事ができるからである。 いわゆるキリスト教国家は、国家のキリスト教的否定であるが、決して、キリスト教の政治的具現ではない。 |
キリスト教をまだ宗教の形態で信奉する国家は、まだ国家に適合する形態で公言していない。というのは、そういう国家は、宗教に対してまだ宗教的態度で臨んでいるのだから。つまり言い換えれば、そういう国家は、宗教に基礎をおく人間的基盤を真に成就していない。なぜなら、それが未だに人間的核心を非現実的空想的な基盤の上に依拠させているからである。 |
いわゆるキリスト教国家は未完成の国家である。そしてキリスト教は、そういう国家にとっては、その未完成の補足及び聖化として役立てさせられている。 |
だから、キリスト教国家にとっては、宗教は必ず手段となる。そして、それは偽善の国家である。 完成された国家であるか未完成の国家であるかどうかは、大きな違いである。なぜなら、完成された国家は、国家の普遍的本質のうちに潜む欠陥のために、宗教をその諸前提の一つに加えている。未完成国家は、その特殊的存在のうちに潜む欠陥のために、欠陥ある国家として、宗教はその基礎であると宣言している。 後者の場合には、宗教は未完成の政治となる。 |
前者の場合には、完全無欠な政治さえが持っている不完全さが、宗教となってあらわれる。 いわゆるキリスト教国家は、自らを国家として完成するために、キリスト教を必要とする。 民主主義国家つまり真の国家は、その政治的完成のために宗教を必要とはしない。 反対にむしろ、宗教を無視できる。なぜなら、民主主義国家のうちでは、宗教の人間的基盤が俗世的な仕方で現実化されているからである。 |
他方、いわゆるキリスト教国家は、宗教に対して政治的に、政治に対して宗教的に臨む。 この国家は、国家形態を単なる仮象にまで引き下げることによって、それと同様に、宗教をも単なる仮象にまでで引き下げる。 |
この矛盾を明らかにするために、バウアーのキリスト教国家構造論を見よう。これはキリスト教=ゲルマン的国家の観察に基づく論考である。 |
「近頃」とバウアーは云う。「キリスト教国家が不可能である事、又は存在しない事を証明するために、福音書中の諸文句がよく引き合いに出された。その文句は、『今日の』国家が対応できていないばかりでなく、いやしくも国家が『国家として』完全に解体したくないなら、全然対応出来ないような文句なのである」。 |
「しかしことはそう感嘆には片付かなかった。 例の福音書中の文句は、一体何を要求しているのか ? 超自然的な自己否定、啓示の権威への服従、国家からの離脱、俗世的な諸関係の揚棄である。 |
何と、キリスト教国家は、これら全ての達成を要求している。 キリスト教国家は、福音書の精神を我が物とした。そして、もしこの国家がこの精神を、福音書が述べているのと同じ言葉で再説していないとすれば、それはひとえにキリスト教国家が、この精神を政治的形式で言い表していることによるのである。それはつまり、この政治的形式は、この世界の政治的組織(システム)から取ってきたものある。しかし、それが経験しなければならない宗教的再生の過程で、単なる仮象にまで引き下げられてしまうのである。 これは、国家からの離脱を現実化させる為に政治的形式の利用が為されている国家からの離脱である」 (P.55)。 |
バウアーは、更に論を進めて云う。キリスト教国家の国民は、一介の非国民に過ぎぬばかりでなくもはや独自の意志をも持っていない。しかし、その真の存在は、国民が臣従する首長の中で保っている。この首長は出自により、且つその本質上は国民には無縁なものであるのだけれども。言い換えれば、神から与えられ、何の共同性も無しに国民にあてがわれたものである。 |
バウアーは、次のように宣言している。こういう国民の法律は、こういう国民自身の手により創造されたものではなくて、全くの啓示である。その最高の眼目は、本来の意味での国民即ち大衆との間に、特権的な仲介者達を必要とすることにある。この大衆自身は、偶然によってつくられ、定められた多数の特別の群れに分かれている。これらの群れは、その利害、特殊な情熱と偏見とによって互いに区別されており、又互いに排除しあう許可を特権としてえている」。 |
しかしながら、バウアー自身が次のように云っている。「もし政治が宗教以外のものであってならないのなら、それは政治である訳にはゆかない。それは丁度、もし鍋洗いが宗教的行事とみなされるべきであるなら、それを家事とみなすわけにはいかないのと同じである」(P.108)。 しかしながら、キリスト教=ゲルマン的国家では、宗教は「家事」であり、又「家事」はどこから見ても宗教に属する。 キリスト教=ゲルマン的国家では、宗教の支配は、支配の宗教である。 |
「福音書の精神」を「福音書の言葉」から分離することは、不信人の行いである。 福音書をして政治の言葉で語らせる国家、つまり精霊の言葉以外の言葉で語らせる国家は、たとい人間の目の前ではないにしても、自分自身の宗教的目の前で涜神罪を犯すものである。 |
キリスト教を最高規範として、聖書を憲章として信奉する国家は、神聖な聖書の言葉を直面させられねばならない。というのは、聖書の言葉は末まで神聖だからである。 この国家も、それが基礎を置く塵に等しい人間も、もし例の聖書中の文句、即ち国家がこれを「守っていないばかりでなく、いやしくも国家が国家として全く解体したくないなら、全然守る事の出来ない」文句を指摘されるなら、宗教的意識の立場からは解き難い、苦しい矛盾に陥る。 |
では、なぜ国家は全く解体したくないのか。国家自身、自らに対しても、他に対しても、この間に答える事が出来ぬ。 この国家意識の前では、公的なキリスト教国家は、実現されえない一つの当為である。それは、自分自身にうそをつくことによってしか、自己の存在の現実性を証明できぬ。だから、彼自身にとって、あくまでも疑惑の対象、あてにならぬ、疑わしい対象にとどまる。 |
従って、批判が、聖書をよりどころとする国家を追い詰めて、自分が空想物であるか実在物であるか、その国家自身にももはや分からなくなり、宗教をその隠れ蓑に用いるこの国家の現世的目的の醜さと、宗教を現世の目的と観じるこの国家の宗教的意識の立派さとが、解き難い争闘に落ち込むまでにその意識を錯乱させるとき、その批判派全く正しいのである。 |
この国家が自己の内的苦悶から救われるのは、それがカトリック教会の警吏となるときだけである。 現世的権力をもって自己に奉仕する機関と公言するカトリック教会に比べれば、国家は無力である。自ら宗教的精神の支配であると号する現世的権力は、無力である。 |
いわゆるキリスト教国家では、疎外は重んじられても、人間は重んじられない。 重んじられるたった一人の人間、即ち国王は、他の人間から特に区別された、しかも彼自身未だに宗教的な、天上つまり神と直接に結びついたものである。 ここで支配する諸関係は、未だに信仰的な関係である。 だから宗教精神は、まだ実際には世俗化されていないのだ。 |
しかし、宗教精神は又実際に世俗化されえないものである。というのは、この精神それ自身は、人間精神の一発展段階の、非世俗的形態以外の何ものでもないからである。 宗教精神は、ただ、その宗教的表現である人間精神の発展段階がその外観を形成し、その世俗的形態において構成されるようになる場合にのみ世俗化されうるるのである。 |
これは民主主義国家で行われる事だ。 キリスト教ではなくて、キリスト教の人間的基礎がこの国家の基礎である。 宗教は国家構成員の理想的・非世俗的意識としてとどまっている。なぜなら、宗教は、その国家において達せられる人間の発展段階の理想的な形態だからである。 |
政治的国家のの諸構成員が宗教的であるのは、個人生活と種族的類生活、市民社会の生活と政治的生活との二元主義によっている。 彼らが宗教的であるのは、人が、自己の現実的個性の彼岸にある国家の政治的生活に対して、自己の真の生活として臨むことによるものである。 彼らが宗教的であるのは、宗教がここでは市民社会の精神であり、人間が人間から分離し、疎遠になることの表現である限りにおいてである。 |
政治上の民主主義がキリスト教的であるのは、そこでは、人がただ一人の人間だけでなく、あらゆる人が主権者として、至高者としてみとめられることによってである。しかし、開化されていない非社会的な姿における人間、偶然的存在としての人間、あるがままの人間、我々の社会の全組織によって腐敗させられ、自分自身を見失ってしまい、非人間的な諸関係と諸要素との支配のもとに他人に売り渡されたままの人間、一口で言えば、まだ真の種族的類的存在となっていない人間としてである。 |
キリスト教の幻像であり、夢であり、仮説つまり人間の主権、しかし真の人間からは区別された、外的な存在としての人間が、民主主義下において、感性的現実であり、現在的存在であり、世俗的原理である。 |
完成された民主主義の中では、宗教的・神学的意識そのものは、外見上においてはより宗教的であり、より神学的である。なぜなら、政治的意義が無く、地上的目的がなくて、つまり世事に閉鎖的な関係にあり、知的に狭量な精神を表現しており、気ままと空想の産物であることによる。且つ、実際に彼岸を真とする生活であることによる。 |
ここではキリスト教は、その世界宗教的意義の実践的表現をうるが、それは、千差万別の世界観がキリスト教の形で雑居並存することによってであり、それ以上に又、キリスト教が他に向かっては決してキリスト教の要求を課さず、ただ宗教一般の、何らかの宗教の要求を課するだけだということによってである。(先に引用したボーモンの著作を参照せよ)。 宗教的意識は、宗教上の対立と宗教上の多様性とを満喫する。 |
1−2 | ブルーノー・バウアー著「ユダヤ人問題」 |
以上で我々が示したのは、次の事である。宗教からの政治的解放は、たとい特権的宗教を存続させないにしても、宗教を存続させる。 特定宗教の支持者は彼が市民的権利との関係に巻き込まれていることが判明するであろうが、その矛盾は、政治的国家と市民社会との間の普遍的、現世的矛盾の一様相に過ぎぬ。 |
キリスト教国家の完成は、自らを国家として認知し且つその構成員の宗教を無視する国家である。 宗教からの国家の解放は、現世的人間の宗教からの解放ではない。 |
だから、我々はユダヤ人に向かって、バウワーのように、君達はユダヤ教から徹底的に自らを解放しないでは政治的に解放される事は出来ぬ、とは云わない。 反対に、我々はむしろ彼らに向かってこういう。君達は、ユダヤ教を完全に且つ問題ない形で放棄しなくても政治的に解放されうるのだから、政治的解放そのものは人間的解放ではない、と。 |
もし君達ユダヤ人が、自らを人間的に解放しないで、政治的に解放されたがっているとすれば、その中途半端な接近と矛盾とは、君達にばかりあるのではない。それは政治的解放の本質と範疇との中にあるのだ。 もし君達がこの範疇に捉われているとすれば、君達は普遍的な偏執を分かち持っているのだ。 まさしく、国家は、国家なのだけれども、ユダヤ人に向かってキリスト教的に振舞うとき、その国家は福音を説いている。それと同じように、ユダヤ人は、ユダヤ人なのだけれども、市民的諸権利を要求するとき、そのユダヤ人は政治的に行動していることになる。 |
しかし、人は、ユダヤ人であっても、政治的に解放され且つ市民的諸権利受け取る事が出来るけれども、いわゆる人権を要求し、これを受け取る事ができるであろうか。バウワーは、これを否認する。 |
「問題は、ユダヤ人としてのユダヤ人が、即ち自己の真の本性によって他から永遠に分離して生活する事を強いられていることを自ら認めているユダヤ人が、普遍的な諸人権を受け、又これを他人に許す事ができるかどうか、である」。 |
「キリスト教世界にとっては、人権という思想は、前世紀になって初めて発見されたものである。 それは人間に生得のものではなかった。それはむしろ反対に、人間がそれまで生育されてきた歴史的伝統に対する闘いの中でやっと獲得されてきたものである。 だから、人権は、天与の贈り物ではない。これまでの歴史の持参金でもない。それは、出生の偶然に対する、そして又歴史がこれまで幾世代にもわたって伝えてきたおり現在もそうである諸特権に対する闘いの代償なのだ。 これらの人権は文化の果実であって、これを所有できる者は、これを自ら獲得し、正当に勝ち得たものだけである」。 |
「では、ユダヤ人は、実際にこれを手に入れることが゛できるだろうか? ユダヤ人がユダヤ人である限り、ユダヤ人をユダヤ人とする限定的な本質は、ユダヤ人を人間として他の人と結びつけるべき人間的本質に打ち勝つよう義務付け、ユダヤ人を非ユダヤ人から分離させないではおかない。 ユダヤ人はこの分離によって、彼自身をユダヤ人とする特別の本質こそ、彼の真の最高の本質であり、人間の本質はその前では退かねばならない、と宣言する」。 「どうように、キリスト教徒はキリスト教徒としては、人権を分与することができない」 (P.19,20)。 |
バウアーの説によれば、人は、普遍的な人権を受け取ることが出来るには、「信仰の特権」を犠牲にしなければならぬ。 我々は暫くいわゆる人権なるものを考察してみよう。正確を得る為に、本来の形式での人権つまりその発見者たる北アメリカ人及びフランス人の間で使われている形態での人権を検証してみよう。 |
これらの人権は、一部は政治的権利、即ち他人と共同でしか行使されない権利である。 それらの内容は、共同体社会特に政治的共同体社会即ち国家生活上で関与している。 |
それらは、政治的自由の範疇であり、市民的諸権利の範疇である。既に見たように、この範疇は、決して宗教の、従って又例えばユダヤ教の、矛盾の無い、積極的な揚棄を前提してはいない。 考察を要する人権の他の部分はまだある。即ち、市民的諸権利から区別される限りでの人権である。 |
これらの中には、信教の自由、つまり任意の宗教を執り行う権利が含まれている。 信仰の特権は、人権としてか又は人権の成り行きの結果としての自由権としてはっきりと認められている。 |
1791年の人権及び公民権宣言第10条、「何人もその意見のために迫害されるべきではない。宗教上の意見についても、同様である」。1791年の憲法第一篇では、人権として次のことが保障されている。即ち、「自ら信じる宗教的礼拝を行う各人の自由」。 |
1793年の人権宣言は、第7条「宗教の自由活動」を人権のうちに数えている。 それどころか、自分の思想、意見を発表し、集会し、自己の宗教活動を行う権利について、次のようにさえ云っている。「これらの諸権利を明言する必要は、専制政治の存在又はその最近の記憶を前提とする」。1795年の憲法第12篇第354条を参照せよ。 |
ペンシルヴァ二ア州憲法第9条第3項。「全ての人間は、その良心の勧めるところに従って、全能者を礼拝する不磨の権利を自然から受けている。又何人にも、法律上、その意志に反して何らかの礼拝又は宗教的勤行を果たし、制定し、又は支持することを強制することはできない。いかなる人間的職権も、どんな情況下においても、信教の問題に干渉し、精神の力を支配する事を得ない」。 |
ニューハンプシャー州の憲法第5条及び第6条。「これらの諸天賦権のうち、あるものは、その本性上譲渡されえない。なぜなら、それらと等価のものが存在しえないからである。信教の権利はその一つである」。 |
宗教と諸人権とが両立しないということは、人権の概念中にはほとんど含まれて居ないのであって、むしろ反対に宗教的である権利、好きな方式で宗教的である権利、自分の特別の宗教の礼拝を行う権利が、明文をもって人権のうちに数えられているくらいである。 信仰の特権は普遍的な人権の一つである。 |
即ち人権は、それ自体としては 即ち公民権から区別される。公民から区別される人間とは誰か。市民社会の成員にほかならぬ。 市民社会の成員がなぜ、「人間」、単なる人間と呼ばれ、その権利が人権と呼ばれるのか。 この事実を如何に説明するのか。政治的国家と市民社会の関係から、政治的解放の本質からである。 |
とりわけ、我々は、次の事実を銘記する。わゆる人権、即ち市民権から区別される公民権とは、市民社会の成員の、言い換えれば、利己的人間の、他の人間と共同体とから分離させられた人間の、権利に他ならないということである。 |
最も急進的な憲法たる1793年の憲法をしてこれを語らせよう。 人権及び公民権宣言。 第2条。「これらの諸権利等々(天賦不磨の諸権利)とは、平等、自由、安全、財産である」。 |
自由の本質はどこにあるか。第6条。「自由とは、他人の権利を侵害しない限り如何なる事でも為しうる、人間に属する力である」。又は、1791年の人権宣言に拠れば、「自由とは、他人を侵害しない限り如何なる事でも為しうることである」。 |
このように、自由とは、他人を害しないことなら何でもやれる権利である。 各人が他人を害することなしに動く事の出来る限界は、法律によって規定される。それは丁度、二つの畠の境界が垣根で決められるようなものだ。 ここで問題になっているのは、自己のうちに閉じこもった、孤立した単子(モナド)としての人間の自由である。 |
バウアーによれば、ユダヤ人はなぜ人権を受ける能力が無いのか。 「ユダヤ人がユダヤ人である限り、ユダヤ人をユダヤ人とする限定的な本質が、ユダヤ人を人間として他の人間に結びつけるべき人間的本質に打ち勝つように結び付けられている。それで、ユダヤ人を非ユダヤ人から分離させることになる」。 |
しかし、自由という人権は、人間と人間との結合に基づくものではない。むしろ人間をして人間の分離に基づいている。 それは、このように分離する事の権利、制限された、自分自身に制限された個人の権利である。 |
自由という人権の実際上の適用は、私有財産という人権である。 |
私有財産という人権の本質はどこにあるか。第16条(1793年の憲法)。「財産権とは、全ての公民に属する権利である。公民は、自己の所有物、自己の収入、自己の労働及び産業(勤勉)の成果を、自分の意のままに享受し処分することができる」。 |
このように、私有財産という人権は、自分の意のままに他人と関係なく、社会とは独立に、自分の財産を享受し処分する権利、即ち利己の権利である。 市民社会の基礎を成すものは、この個人的な自由と、今述べたそれの適用とである。 |
市民社会は、各人をして他人の中に、各自の自由の実現を見出せずに、むしろ各自の自由の制限を見出す。 とりわけ市民社会が声を大にして宣言するのは、「自己の財産、自己の収入、自己の労働及び産業(勤労)の成果を、自分の意のままに享有し処分することのできる」人権である。 |
このほかにもまだ別の人権が残っている。即ち、平等と安全とである。 |
平等とは、ここでは非政治的な意味で云っているのであるが、それは、上述した自由が平等であるということ、つまり各人はひとしくこのような自己に立脚した単子とみなされるということに他ならぬ。 |
1795年の憲法は、この平等の概念を、その意義にふさわしく、こう規定している。 第3条(1795年の憲法)。「平等とは、保護する場合と処罰する場合とを問わず、法律が万人に対して同一である、ということのうちに存する」。 |
それから安全とは。第8条(1793年の憲法)。「安全とは、社会がその成員各自に対して、その身体、権利及び財産の保全のために与える保護のうちに存する」。 |
安全は、市民社会最高の社会的概念である。つまり、全社会があるのは、ひとえにその成員各自のために、身体、権利及び財産の保全を保障するためである、という警察的概念である。 ヘーゲルはこの意味で、市民社会を「必要及び悟性の国家」と呼んでいる。 安全の概念をもってしては、市民社会はその利己主義を超越しはしない。むしろ反対に、安全は、利己主義の保全である。 |
こんな訳で、いわゆる人権のどれをとってみても、利己的人間、市民社会における成員を超えるものでは無い。つまり、個人は、自分自身に中に引きこもり、その私利と我意の中に没入し、共同体から分離されている。 |
人権においては、人間は類的存在として把握されるどころか、むしろ反対に類的生活そのものが、社会が、個々人に対する外的な枠として、個々人の本源的自立性の制限として現れるのである。 個々人を結合する唯一の紐帯は、自然的必要であり、欲求と私利であり、彼らの財産及び利己的自身の保全である。 |
まさに自らを解放し、種々の国民成員間の一切の制限を取り壊し、一つの政治的共同体を建設し始めている国民、そういう国民が、同胞と共同体から分離された利己的人間の是認を堂々と宣言するということ(1791年の宣言)、しかももっとも英雄的な献身だけが国民を救うことができ、従ってそれが絶対的に要求されるときに、市民社会のあらゆる利益を犠牲にすることを日程にのぼし、利己主義を一つの犯罪として罰しなければならないときに、右の宣言を再び繰り返しているということ(1793年の人権等宣言)、この事自体が既に謎である。 |
この事実は、公民性が、政治的共同体が、政治的解放者の地位から、これらのいわゆる人権の単なる維持手段にさえ引き下げられるということ、従って、公民が利己的な人間の召使であると宣言され、人間が共同的存在として振舞う領域が、部分的存在として振舞う領域の下位に落としこめられるということ、最後に、公民としての人間ではなくて、ブルジョアとしての人間が、本来の、真の人間であると考えられるということを、我々が見るとき、なお一層謎は深くなる。 |
「全ての政治的連合の目的は、人間の天賦不磨の諸権利の保全である」(1791年の人権宣言第2条)。 「政府は、人間にその天賦不磨の諸権利の享受を保障するためにつくられたものである」(1793年の人権宣言第一条)。 |
だから、事態の急迫によって頂点にまで駆り立てられた、まだ血気盛んな熱狂の時でさえ、政治生活は、自らを市民社会の生活の目的の為の単なる一手段である、と宣言するのである。 |
なるほどその革命的実践は、その理論とひどく矛盾している。 例えば、安全が人権として宣言されているのに、信書の侵害が公然と日程にのぼせられる。 |
「出版の無制限な自由」(1793年の憲法第122条)が、個人の自由という人権の帰結として保障されているのに、出版の自由が完全に廃棄される。というのは、「出版の自由は、それが公共の自由を危うくするときには、許されるべきではない」(弟ロベスピエールの言)からである。 |
だから、言い換えれば、自由の諸人権は、それが政治的生活と衝突し始めるや否や、権利ではなくなるのである。というのも、理論上、政治生活は諸人権、即ち個人的人間の権利の保障でしかなく、従ってこの人権がその目的とこれらの諸人権との間に矛盾が生じ始めるや否や直ちに廃棄されなければならないことになる。 |
しかし<実践は例外に過ぎず、理論が通則である。 しかし、例え革命的実践をこの関係の正しい提起とみなしてさえ、まだ謎は解かれずに残る。即ち、政治的解放者の意識のうちでは、なぜこの関係が逆立ちさせられ、目的が手段として、手段が目的としてあらわれるのか。 |
この場合には、彼らの意識のこの錯覚は、心理上、理論上の謎となるにせよ、謎であることには代わりが無いであろう。 |
謎は簡単に解ける。 政治的解放は、同時に、国民から疎外された国家即ち支配者の権力が基礎を置いているところの旧社会の解体である。 旧社会の性格とはどんなものであったか。 |
一言でこれを性格づければ、封建制である。 旧市民社会は直接的な仕方で政治的性格を持っていた。言い換えれば、市民生活の諸因子、例えば所有や家族や労働のやり方は、領主権、身分及び同業組合の形で、政治的生活の諸因子水準に引き上げられていた。 |
この形態において、それらは、国家全体に対する個々人の関係、即ち個々人の政治的関係、即ち社会の他の構成因子からの個々人の分離除外の関係を規定していた。 というのは、国民生活のこのような組織は、所有又は労働を社会的諸因子に引き上げるのではなく、むしろ国家全体からのそれらの分離を完成し、それらを社会内の特殊社会につくりあげたからである。 |
それにもかかわらず、市民社会の生活諸機能と生活諸条件は、封建制の意味においてではあれ、とにかくやはり政治的であった。言い換えれば、それらの諸機能と諸条件とが、個々人を国家全体から締め出し、国家全体に対する彼らの同業組合の特殊的関係を国民生活に対する彼ら自身の普遍的関係に変じ、同様に、彼らの特定の市民的活動並びに状態を彼らの普遍的な活動並びに状態に変じたのである。 |
こういう組織の帰結として、国家の統一そして又その統一的意識、意志及び活動たる一般的国家権力は、同様に、国民から切り離された支配者及びその家臣の特殊的事柄として表れるのは必然である。 |
こういう支配者の権力を倒し、国家的事柄を国民的事柄にまで高め、政治的国家を普遍的事柄に、即ち現実的国家につくりあげた政治革命が、共同体からの国民の分離の表れに他ならない、あらゆる身分、同業組合、ギルド、特権を粉砕したのは必然であった。 |
それによって政治革命は、市民社会の政治的性格を揚棄した。 それは市民社会を粉砕して、これをその単純な構成部分に分解した。即ち一方では個々人に、他方では上記個々人の生活内容、社会的状態を形成する物質的・精神的諸要素に。 |
政治革命は、いわば封建社会の様々の袋小路に分裂、分解、分散していた政治的精神を解き放った。 |
政治革命は、分散されていた政治的精神を寄せ集め、市民生活との雑居からこれを解放し、社会的領域内、つまり市民生活の上述の特殊的諸要素から観念上独立した普遍的国家的関心事の領域にこれを樹立した。 或る人の生活上特化される活動と状態とは、単なる個人的な意義にまで下落した。 |
それらはもはや、国家全体に対する個人の普遍的関係を為すものではなくなった。 他方で、公共の事柄そのものが各個人の普遍的な事柄となり、政治的機能が各個人の普遍的機能となったのである。 |
しかし、国家の観念論の完成は、同時に、市民社会の唯物論の完成であった。 政治的束縛からの脱却は、同時に、市民社会の利己的精神を拘束していた紐帯からの脱却であった。 政治的解放は、同時に、政治からの、普遍的内容の外観からさえの、市民社会の解放であった。 封建社会は、その基礎的要素つまり人間へ分解されてしまった。しかし、それは、実際にそれの基礎つまり利己主義的人間を構成しているような人間への分解であった。 |
市民社会の成員たるこの人間が、今や政治的国家の基底であり必須条件である。 その人間は、そのようなものとしてこの国家によって彼の諸人権が認められている。 しかしながら、利己的人間の自由とこの自由の承認は、むしろその人間の生活内容をなす精神的・物質的諸因子の無規制的な運動の承認である。 |
だから人間は、宗教から解放されたのではなく、宗教の自由を得たのである。 人間は、財産から解放されたのではなく、財産の自由を得たのである。 人間は、営利の営利的(ビジネスの)利己主義から解放されたのではなく、営利切り盛りの自由を得たのである。 |
政治的国家の樹立と独立した個々人への市民社会の解体とは、−この個の他との法的関係のようなもの、丁度それは特権的な土地所有者及びギルド人の関係のようなものであるが−一個人及び同一の行為によって達成される。 |
市民社会の成員としての人間、非政治的人間は、しかしながら必然に自然的人間としてあらわれる。 人権は天賦権としてあらわれる。というのは、自覚的活動は、「政治的」行為に集中するからである。 利己的人間は、解体された社会の受動的な、純粋に既成の結果であり、直接的に確実なものであり、従って自然のものである。 |
政治革命は、市民生活を解体してその構成諸因子に還元するが、これらの諸因子そのものを革命化し、それらを批判に付すること無しに。 政治革命は、市民社会即ち欲求、労働、私利、私法の世界を、自己の存立の基礎として、それ以上証明の要求されない必須条件として、そしてあれこれの「本性的」基盤を尊重する。 最後に、市民社会の成員としての人間は、生身感性的な、個性的な、直接的な存在であるように保持されている。しかるに、政治的人間は、単に抽象的な、人工的的な、寓意比ゆ的な、法律的な人間でしかない。 現実の人間は、利己的個人の姿においてのみ認知される。真実の人間は、抽象的公民の姿においてはじめてのみ認知される。 |
ところで、ルソーは、政治的人間の抽象化を、正しくも次のように記述している。 曰く、「人の諸機関を樹立しようと敢えて企てる人は誰でも、次のことを変化させる事が出来ると感じなければならない。人間の天性をかえること、それ自身完全独立な全一体である各個人を変じて、より大きな全体、この個人が何らかの仕方でそれから自己の生活と生存とを受け取るところのより大きな全体の一部たらしめること、肉体的、独立的存在を部分的・精神的存在にかえることが。 その人は人間からその本来の力を奪い、これにかえるに、彼らの知らない力、それは他人の助力を得なければ使用できない力であるが、それを人間に与えなければならない」。 |
あらゆる「解放」は、人間世界及び諸関係を、「人間そのもの」へ「復帰」させることである。 |
政治的解放は、一方では市民社会の一員へ、利己的な独立的個人へ、他方では公民へ、道徳的人格へ、人を還元する事である。 |
現実の個別的人間が抽象的公民を自己のうちに取り戻し、個別的人間的存在のままで、その毎日の生活、そのめいめいの労働、そのめいめいの諸関係において種族的類的存在となるときにはじめて、人間がその「本来の力」を社会的な力として認識し、組織する。従ってもはや、人が、社会的な力を「政治的な力」の姿で自分自身から分離しなくなる時にはじめて、そのときにはじめて人間的解放が成就されたことになる。 |
2 | ブルーノー・バウアー著「現在におけるユダヤ人とキリスト教徒の自由になるための能力」 (THE CAPACITY OF PRESENT-DAY JEWS AND CHRISTIANS TO BECOME FREE) |
本書において、バウアーは、ユダヤ教とキリスト教との関係並びに批判の関係を論じている。 批判の彼らの関係は、「自由になるための能力」関係となる。 |
結果、次の結論に達した。自由になるためには、「キリスト教徒は、宗教を共に揚棄する為には、ただ一段階つまり彼の宗教を乗り越えさえすればよい」。さすれば自由になる。 |
他方、ユダヤ人は、そのユダヤ教的本質を破壊せねばならないばかりでなく、その宗教の完遂的方向での発展、ユダヤ人を孤立せしめた発展をも壊せねばならない」(P.71)。 |
このようにバウワーは、ここでユダヤ人解放問題を純宗教上の問題にかえている。 ユダヤ人とキリスト教徒のどちらが救われる見込みが多いかという神学上の課題は、ここでは両者いずれが解放能力に富むか、というよりはっきりとした形態で繰り返されている。 今では誰も、人をを自由にするのはユダヤ教かそれともキリスト教かとは尋ねない。 反対に、今ではこう尋ねられる。人をより自由にするのは、ユダヤ教の否定かそれともキリスト教の否定のどちらだろうかと。 |
「もしユダヤ人が自由になりたいと思えば、彼らはキリスト教ではなくて、キリスト教の溶解において、一般に宗教の溶解において、言い換えれば、啓蒙、批判及びその結果たる自由な人間性を信仰すべきである」(P.70)。 |
ユダヤ人にとっては、信仰し続ける事が大事なのである。しかし、もはやキリスト教の信仰ではなくて、溶解されたキリスト教の信仰である。 |
バウワーは、ユダヤ人に向かって、キリスト教的宗教の本質と手を切れという要求を、即ち彼自身が云っているように、ユダヤ教の発展からは生じてこないことを要求する。 |
バウワーが、ユダヤ人問題の労作の果てで、ユダヤ教をキリスト教の粗雑な宗教的批判としてしか理解しなかった以上、従ってユダヤ教の中に「単なる」宗教的意義しか引き出さなかった以上、ユダヤ人の解放もまた一つの哲学的=神学的行為に変容されるだろうことは、前もって予測できることであった。 |
バウワーは、ユダヤ人の観念的・抽象的本質たるその宗教を、ユダヤ人の全本質と解している。 |
だから、彼が次のように推論するのは当然である。「ユダヤ人自身が彼の狭苦しい律法を軽んじても、つまり彼の全ユダヤ教を揚棄しても、人類に寄与するものは何も無い」 (P.65)。 |
従って、ユダヤ人とキリスト教徒との関係は、次のようになる。ヤダヤ人解放におけるキリスト教徒の唯一の関心は、普遍的人間的な関心、理論的な関心である。 ユダヤ教は、キリスト教徒の宗教的な目にとっては不快な事実である。 その目が宗教的でなくなるや否や、この事実も不快でなくなる。 ユダヤ人の解放は、それ自体ではキリスト教徒の仕事ではないのだ。 |
他方、ユダヤ人は、自分自身を解放するには、自分自身の仕事ばかりでなく、同時に、キリスト教徒の仕事、即ち共観福音書史家(マタイ伝、マカ伝、ルカ伝の著者)の批判及びイエス伝等をやりとげなければならぬ。 |
「彼らは、時分の運命は自分で決定しようとするならやってみるが良い。しかし、歴史は浪費されることはない」(P.71)。 |
我々は、問題の神学的な公式化を打ち破ることにしよう。 我々にとっては、ユダヤ人の解放能力の問題は、次のような問題に代わる。ユダヤ教を揚棄する為には、どのような特殊な社会的要素が克服されるべきであるか。 というのは、今日のユダヤ人の解放能力は、今日の世界の解放に対するユダヤ教の関係だからである。 この関係は、目下世界を隷属しているユダヤ教の特殊な地位から必然的に生まれ出ている。 |
我々は、現実の現世のユダヤ人を考察してみよう。即ち、バウワーがやっているように、安息日のユダヤ人ではなくて、日常のユダヤ人を考察してみよう。 我々は、ユダヤ人の秘密をその宗教のうちに見ないことにしよう。我々は、宗教の秘密を現実のユダヤ人のうちに見よう。 |
ユダヤ教の現世的基盤はどんなものであるか。実際的欲求、私利である。 ユダヤ人の現世的な宗教(礼拝)はどんなものであるのか。暴利商業である。 その現世の神はどんなものであるか。貨幣である。 |
されば良し。暴利商業と貨幣とから解放されれば、従って実際の、現実のユダヤ教から解放されれば、それこそは現代の自己解放となるだろう。 |
暴利商業の諸前提、従って暴利商業の可能性を揚棄するであろうような社会が組織されれば、その社会組織はユダヤ人というものをありえないものにするだろう。 ユダヤ人の宗教意識は、あわい煙のようにこの社会の現実の生気のうちに溶け込むことになるだろう。 |
他方では、ユダヤ人が自分らのこの実際的本質を取るに足らないものと認め、その揚棄の仕事に携わるなら、彼は、これまでの自己の発展から脱け出て人間的解放そのものの仕事に携わり、そして人間の自己疎外のこの最高の実践的実現に向かっていくように転換するであろう。 |
という訳で、我々がユダヤ教の中に認めるのは、現代の普遍的な反社会的要素である。その要素は、歴史的発展を通じて、その歴史とはユダヤ人をこの有害な見地において熱心に献身させてきたところのものであるが、今日のような絶頂にまで押し上げられ、その絶頂で必然的に分解せざるをえないものである。 |
究極の分析において、ユダヤ人の解放は、ユダヤ教からの人類の解放である。 ユダヤ人は既にユダヤ人的な遣り方で自己を解放している。 |
「例えばウイーンではやっとお情けでおいてもらっているに過ぎないユダヤ人が、その財政力によって全オーストリア帝国の運命を決定している。 ドイツの一番小さい国においてさえ、無権利であるかも知れないユダヤ人が、ヨーロッパの運命を左右している。 会社やギルドは、ユダヤ人を締め出しているか、または今もって彼らに好意的な態度を寄せていないのに、産業の豪放さは、物質的な諸制度の頑迷さを嘲笑している」 (ブルーノ・バウワー「ユダヤ人問題」, p.114)。 |
これは決して穿った事実ではない。 ユダヤ人はユダヤ人的な仕方で自己を解放したが、その仕方は、単に財政力を我が物にしたことによるばかりでなく、彼らの手を通じても、また彼らの手を経ないでも、貨幣が世界権力となり、実践的なユダヤ人精神がキリスト教諸国民の実践的精神となったことによってである。 ユダヤ人は、キリスト教徒がユダヤ人化した限りにおいて自己を解放したのである。 |
例えば、ハミルトン大佐はこう記している。「ニューイングランドの信心深い、政治的に自由な居住者は、一種のラオコーンである。彼らは、自分を締め付けるヘビから逃れるために、少しの努力も払わない。 |
マンモンが彼の偶像である。彼はこれを、口ばかりでなく、全身全霊の力をあげて礼拝する。 彼の目から見れば、この世は、ある取引所にほかならぬ。そして、彼が確信するところでは、彼はこの世で隣人以上の金持ちになる以外にはなんの使命ももたないのである。 取引が彼の全思想を支配し、対象物を交換する以外には他の気晴らしを持たない。 |
旅行する時、彼は、いわば商品を持ち歩き、それを背にしてカウンター越しに、利子と儲けのことしか話さぬ。 彼は、一瞬自分の商売から目を離すことがあっても、それは単に競争相手の商売を嗅ぎ回す為でしかない」。 |
実際、北アメリカでは、キリスト教世界に対するユダヤ教の実際上の支配は紛れも無い、当たり前のこととなったので、福音の伝道そのものとキリスト教職が、商売品目に化しているほどである。そして破産した商売人が伝道するかと思えば、ビジネスで豊かになった伝道師も居る。 |
「礼拝集会で尊崇されている長は元はと云えば商売人であった。商売に失敗して牧師になったのである。 他のある者は、司祭職から出発したのだが、それでいくらか金の自由がきくようになるや、商売をやるために説教壇を捨ててしまった。 多くの人々にとっては、牧師職は、正真正銘のビジネス稼業なのである」 (ビーモント, op. cit., pp.185,186.)。 |
バウワーによれば、「ユダヤ人が、理論上では政治的諸権利が剥奪されているのに、実際上は巨大な力を持ち、又その政治的影響力がたとい細かい点では制限されていても、大きく見ればこれを奮っているのは、虚偽の状態なのである」 (Die Judenfrage, p.114)。 |
ユダヤ人の実際上の政治的権力とその政治的諸権利との間にある矛盾は、政治と金力一般の矛盾である。 理論上では政治が金力の上にあるのに、実際上では政治が財政力の奴隷になっている。 |
ユダヤ教はキリスト教と並んで存続してきたが、それは単にキリスト教の宗教的批判としてばかりではない。キリスト教の宗教的起源に対する懐疑の具象化としてばかりではない。それは又、実務的なユダヤ的精神が、即ちユダヤ教が、キリスト教社会の中にあって存続し、あまつさえその最高の発展に達したからでもある。 市民社会内の区別された成員としてのユダヤ人は、市民社会内でのユダヤ教の特殊宣言に過ぎない。 |
ユダヤ教は、そういう歴史に拘らずというのではなく、そういう歴史のお陰で存続してきたのである。 ユダヤ人は、市民社会によりそれ自身の胎内からたえずユダヤ人を産出する。 ユダヤ人的宗教の基盤は、本来どんなものであったか。実際的な欲求、利己主義であった。 |
だから、ユダヤ人の一神教は、実際には、多数の欲求の多神教、便所(雪隠)をも神の掟の対象とするような多神教なのである。 実際的な欲求、利己主義は、市民社会の原理であり、そして市民社会がそれ自体のうちから政治的国家を完全な形で生み出すや否や、純粋にそのような原理として現れてくるのである。 実際的な欲求と私利の神は貨幣である。 |
貨幣は嫉妬深いイスラエルの神であって、その前では、他の如何なる神も存立できない。 貨幣は人間のあらゆる神々を下落させ、商品に代える。 貨幣は、あらゆる事物の普遍的な、自己樹立的な形をとった価値である。 |
だからそれは、全世界から、人間社会からも自然界からも、その固有の価値を奪ってしまった。 貨幣は、人間の労働及び人間の存在の疎外された本質であり、この外的な本質が人間を支配し、人間はその前に拝跪する。 |
ユダヤ人の神は、世俗化され世界神となった。 為替手形がユダヤ人の実際上の神である。 ユダヤ人の神は、為替の幻想上の神に過ぎない。 |
私有財産と貨幣の支配のもとで得られる自然観は、実際上は、自然の軽蔑、自然の品位の引き下げである。ユダヤ人の宗教のうちにあっては、自然は存在しはするが、しかし本当のところは想像の上で存在するに過ぎない。 |
この意味で、トマス・ミュンツァーは、次のことをがまんならないことだと宣言している。 「あらゆる創造物は財産にかえられている。水中の魚も、空中の鳥も、地上の植物もが。創造物も又自由にならなければならない」。 |
理論、芸術、歴史、究極において人間自体に関するもの、これらはユダヤ人の宗教のうちに抽象的な形態で存続するものであるが、即ち、これが貨幣人の現実の意識的観点であり道徳である。 類関係、男女関係その他も商売の対象となる! 婦人は売買される。 |
ユダヤ人の途方も無い民族性は、商人の、一般には貨幣人の民族性である。 |
ユダヤ人の基盤を欠いた律法は、基盤を欠いた道徳と法一般の、私利の世界を取り巻く単なる形式的な儀礼の、宗教的な戯画化に過ぎない。 |
ここでもまた、人間の最高の関係は、律法関係である。つまり、人間自身の意志及び本質の律法である故にではなく、それが支配しており、それに背くと報復されるゆえに効力を持つ、諸律法に対する関係である。 |
ユダヤ人のジェスイット主義、即ちバウワーが、「タルムード」(ユダヤ教の法典)について指摘しているあの実際上のジェスイット主義は、私利の世界にこれを支配する律法に対する関係であって、これらの諸律法を巧みに潜り抜けることが、この世界の主要な技術を為しているのである。 |
実際、諸律法の枠内でのこの世界の運動は、必然的にその諸律法を継続的に機能停止させているのである。 |
ユダヤ教は、宗教としては、それ以上発展する事が出来なかった。理論的にも発展させることが出来なかった。なぜなら、実際的な欲求の世界観は、その本性上制限されたものであり、何度も汲まないうちに枯渇してしまったからである。 |
実際的な欲求の宗教は、その本質上、理論のうちにではなく実践のうちにしか成就を見出す事が出来なかった。なぜなら、その真実は実践であるからである。 |
ユダヤ教は何ら新しい世界を創造できなかった。それは、新しい世界創造物と世界関係とをその活動範囲に引き入れることしか出来なかった。なぜなら、私利を悟性とする実際的な欲求は、受動的に振舞うものであって、自分の思うがままに拡大するのではなく、社会状態の継続的な発展につれてもたらされるものであり、そのようなものとして自ずから拡大していくものだからである。 |
ユダヤ教は、市民社会の完成を持ってその頂点に達する。しかし、市民社会が完成するのは、まさにキリスト教世界のうちにおいでてある。 |
あらゆる民族的・人倫的・理論的諸関係を人間に対して外在化するキリスト教の支配のもとでこそ、はじめて市民社会は、国家生活から完全に分離し、人間のあらゆる類紐帯を切断し、この類紐帯に代えるに利己主義を、私利的欲求をもってし、人間世界を原子的な相敵対する原子論的諸個人の世界に解消することができたのである。 |
キリスト教はユダヤ教から発生した。 それは、再びユダヤ教に解消した。 |
キリスト教徒は、頭初から理論家的なユダヤ人であった。だから、ユダヤ人は、実践上のキリスト教徒である。そして、実践上のキリスト教徒が再びユダヤ人になった。 |
キリスト教は、見せ掛け上は本当のユダヤ教を克服している。 キリスト教は、実際的な欲求の粗野さを除去する為に、空への昇華によってよりは他の何らかの方法によって、あまりにも心情を崇高化し、精神化した。 |
キリスト教は、ユダヤ教を高尚に思想化したものであり、ユダヤ教はキリスト教の卑俗な実務的な適用である。しかし、この適用が普遍的なものとなることができたのは、キリスト教が発展させられた宗教として自己及び自然からの人間の自己疎外を理論的に完了したあとのことであった。 |
そうなって初めて、ユダヤ教は普遍的地位に達し、外在化された人間、外在化された自然を、利己的欲求の奴隷と商売に隷属した外在化され譲渡しうる対象物の中へ作ることになった。 |
売買[verausserung]は、外在化(疎外)[Entausserung]の実践的な面である。 人間は、宗教的に囚われている限り、自己の本質を外的な空想上の何らかの本体にかえることによってしか対象化することができない。それで、利己的欲求の支配の下で、人間は、自己の生産物をも活動をも一つの外的本体の支配の下に置き、それらに外的本体−貨幣−の意義を付与することによってしか実践的に活動したり実践的に物を生産することができない。 |
その完成された実践上、天上的至福(霊的救済)のキリスト教的利己主義は、必然的にユダヤ人の肉体的エゴイズムに転化させられる。天上の欲求は世俗的欲求に転化され、主観主義は私利に転化する。 |
我々は、ユダヤ人の粘り強さをその宗教から説明しないで、むしろ反対に、その宗教の人間的基盤によって、つまり実際的な欲求、利己主義から説明する。 |
だから、市民社会では、ユダヤ人の本当の本質は一般的に現実主義化され、世俗化された。文明社会は、ユダヤ人を彼の宗教的本質の非現実性を―それは観念を実践的必要という面でのみ必要とするものであるが―確信させることができなかった。 |
従って、我々は、「ペンタテウコス」(モーゼの5書即ち旧約聖書の最初の5巻)及びタルムードだけでなく、現代の社会の中に、現代ユダヤ人の本質を見つける。そして抽象的な本質としてではなく最も高い程度である経験主義として、単にユダヤ人の狭さとしてではなく社会のユダヤ人的狭さとして。 |
かって社会は、ユダヤ主義の経験的な本質を揚棄することに成功した。―暴利商業とその諸前提とを揚棄することに成功するや否や―ユダヤ人は、ユダヤ人としてあることが不可能になった。なぜなら、ユダヤ人の意識は、もはや何らの対象を持たなくなるからである。ユダヤ教の主観的な基礎、つまり実践的な欲求が人間化されたからである。そして、人間の個人的生身感性的な経験と種存在間の衝突が揚棄されてしまったからである。 |
ユダヤ人の「社会的」解放は、ユダヤ教から社会を解放することである。 |
(私論.私見)