パレスチナ問題を解くための歴史3、中世史篇その1

 更新日/2022(平成31.5.1栄和/令和4).3.21日)



【離散の民後のユダヤ人の生態】
 ローマ帝国の迫害によって離散の民となったユダヤ人は、ユダヤ教保守派(パリサイ派)の生き残りを中心に、ガリラヤやティベリアに「サンヘドリン(ユダヤ長老議会)」を設置した。サンヘドリンは総主教、教学院長、最高法廷議長の三頭制度で成り立っていた。こうして、新ユダヤ教を信仰する共同生活を送り始めた。ユダヤ人はパリサイ人とも呼ばれた。パリサイとはヘブライ語で「特別な者」という意味である。

 また、イエス生誕以前から自発的に諸外国で暮らしを始めていた離散ユダヤ人もいた。彼らはヘレニズム・ローマ時代に発展を遂げ、地中海やオリエントなどに広がっていた。その中心がバビロニアやエジプトのユダヤ人共同体である。

180  新約聖書成立する。聖書の中に、「父(神)」、「子(キリスト)」、「精霊」が併記された。

 ローマ帝国と並んでビザンチン帝国(30B.C〜A.D641)が支配する。

211  ユダヤ人は、ローマ帝国カラカラ帝(在位211〜217)の在世時代、課税の単純化を目的としたローマ市民権付与法によりローマ市民権保有者となった(「211年、ユダヤ人にローマ市民権付与。(課税の単純化が目的)」)。
226  パルティア王国を征服したササン朝ペルシア帝国は、パルティアの手になる「エクシラルク制度」をユダヤ人の自治的な亡命政府として認める。ササン朝ペルシア帝国のユダヤ人学者は「アモライーム」と呼ばれ、「ゲマラ」の基礎をつくる。
230  カルタゴの教父テリトゥリアヌスが始めて「三位一体」という表現を用いる。
250  ローマ帝国デキウス帝がキリスト教を大迫害する。
269   ワレンティヌス(ヴァレンタイン)殉教。(バレンタインデーの起源。)但し、その実在性については定かではない。
293

 ローマ帝国が四分割される。

300  キリストは神か人かを廻って論争される(同質性論争)。
301  ディオクレティアヌス帝がキリスト教を迫害する。
301  アルメニア王国がキリスト教を国教とする。当時のアルメニアはローマ帝国の属国だが、国家の国教としては世界初。
303  皇帝ディオクレティアヌスがキリスト教禁圧令を出し迫害する。
306  この頃、コーモンのアントニウスがエジプトで隠修士を集め、キリスト教最初の修道院を始める。
311  キリスト教寛容令。
312  コンスタンティヌス1世、十字架を旗印にしてミルヴィウス橋の戦いに勝利する。
313.6月  ローマ帝国コンスタンチヌス大帝(在位306〜337)は「ミラノ勅令」(ミラノ寛容令)を発して、キリスト教を公認した(「313年、コンスタンティヌス帝、キリスト教を公認。(ミラノ勅令)」)。ローマ帝国は衰退しつつあったが、これ以後、キリスト教化は急速に進んでいくことになった。ビザンティン帝国(東ローマ帝国)がパレスチナを支配。
315  コンスタンティヌス大帝が、ユダヤ人の自治を制限する最初の勅令を出し、その中でユダヤ人を「あの恥ずべき一派」と表現した。
318  父と子の同一性を認めるアタナシウス派と、これを認めないアリウス派の間で論争が起る。
325  コンタンティヌス1世によって、第1回ニカイア公会議が開かれ、三位一体の基礎が確立される。父と子を同質とするアタナシウス派を認めて、ニカイア信条を採択。アリウス派を異端とする。
327  グルジアがキリスト教を国教とする。
330  〜640まで、パレスチナがビザンチン(Byzantine)の支配下に入る。パレスチナは次第にキリスト教化された。
336  ローマで12月25日にキリスト降誕が祝われた最古の記録。
339  コンスタンティヌス大帝が、キリスト教徒とユダヤ人との婚姻ならびに、ユダヤ人がキリスト教徒の奴隷を所有することを禁止した。
345  345(または352) ミラのニコラオス(ニコラウス)死去。(サンタクロースのモデル。)
350  この頃、エチオピアがキリスト教を国教とする(コプト教)。
361  ユリアヌス帝の背教(キリスト教優遇措置を是正)。皇帝ユリアヌス(背教者ユリアヌス)がローマ古来の宗教の復活を企てる。
375  ゲルマン民族の大移動が開始される。
380  キリスト教がローマ帝国の国教となる。
381   第1回コンスタンティノープル公会議が開かれ、二カイア公会議を補則する。ニカイア・コンスタンティノポリス信条を採択。これにより三位一体の教義が確定する。
383  ローマ帝国下で、ユダヤ教が法的に禁じられた。キリスト教の政治的勝利であったが、これによりユダヤ人は法的な差別や制限を受けざるを得なくなった。
386  アウグスティヌスマニ教からキリスト教に回心する。クリュソストモス、12月25日にキリスト降誕を祝うよう奨める説教をする。
388  キリスト教とユダヤ教の異宗婚が禁止される。
391  皇帝テオドシウスがキリスト教を国教に定める。
392  ローマ帝国テオドシウス大帝(在位379〜395)下で、キリスト教はローマ帝国唯一の合法宗教たる国教にまで高められ(「ローマ帝国でキリスト教が国教になる」)、異教禁止令が出され、すべてのローマ人はキリスト教信者の受容を強制されるようになった。

(私論.私見)

 「この時から、それまでキリスト教徒を迫害してきたユダヤ教徒が、逆に迫害され始めた。当時キリスト教の神学に、ユダヤ人はイエス・キリストを殺した民であって、その罪ゆえに彼らは離散の呪詛を永遠に背負わなければならないのである、との解釈が生じた」。
395  ローマ帝国が、東西ローマ帝国に分裂した。ビザンティン帝国が、パレスチナ全土を支配した(〜639年)。アウグスティヌス、『告白』を執筆。
 ヒッポ(北アフリカ)の司教アウグスティヌスが『告白』を書く。
397  カルタゴ会議で新約聖書正典を決定し、「聖書」がほぼ確定する。
409  サーサーン朝ペルシア帝国が、キリスト教寛容令を出す。
410  ヒエロニムスがエルサレムで聖書をラテン語に翻訳する。(ヴルガータ訳聖書)
411  ペラギウス論争起こる。(原罪の否定。神の恵みによらない、自らの功徳による救い。)
426  アウグスティヌス、「神の国」を執筆
430  ヒエロ二ムスが聖書をラテン語訳。
431  エフェソス公会議ペラギウスネストリウス派を異端とする。(後の景教、アッシリア東方教会)
440  ローマ司教レオ1世が、ローマ司教の首位権(教皇権)を主張する。
451  カルケドン公会議が開かれ、キリストは唯一の位格である事が確定し、単性論の立場のコプト教会アルメニア教会などが離反する。「キリスト単性論」が追放され、三位一体が正当教理として確定する。
452  ローマ教皇レオ1世がフン族の長アッティラをローマから撤退させる。
476  ゲルマン人の度重なる侵攻に耐えてきた西ローマ帝国が、ゲルマン人の傭兵隊長オドアケルによって遂に滅ぼされる。
486  クローヴィスフランク王国を建設する。
490  バビロニアタルムード成立
496  フランク王クローヴィス、部下3千人と共に洗礼を受ける。
499  バビロニア・タルムード完成。
500年前後  ササン朝ペルシア帝国内でユダヤ人の内紛が起きる。

【2から5世紀、ユダヤ人がタルムード編纂に着手する】
 この間、ユダヤ人社会は、イスラエル10支族との完全離別、新バビロニア王国によるソロモン第一神殿の破壊やローマ軍との大戦争を経験し、マイノリティー化した彼らは、極度の民族的死活問題に直面していた。 そういう事情により、律法に加えて様々なユダヤ人の生活原理の規範ともいうべき民族内規を生み出していった。ユダヤ人たちは離散の地で、紀元2世紀にはミシュナを、紀元4世紀末にはミシュナとゲマラを融合してエルサレム・タルムードを、紀元5世紀末にはマル・ヨセがバビロニア・タルムードを編纂した。タルムードにはより現実的な利益を求める生活指向が盛り込められた。と同時に、非ユダヤ人のことを「ゴイム(家畜)」と表現し罵るなどの、故意に歪められた民族的排他性と独善的選民思想が付随し、他民族に反ユダヤ感情を植え付ける一因となった。

 旧約聖書を補完するものとしてのタルムードの発生史は、すなわちユダヤ教の発展史である。離散時代のユダヤ社会はかっての神殿祭祀ではなく、「シナゴーグ(ユダヤ教会堂)」のラビ(ユダヤ教指導者)による旧約聖書やタルムードの研究解釈に切り替わった。このシステムは、現在のユダヤ教にそっくりそのまま受け継がれている。タルムードを中核に据えた新ユダヤ教を信仰し始めたユダヤ人には、もはやかってのような預言者も神の声もなくなった。それが進歩か退歩かは軽断出来ない。

517  ブルグント王ジギスムント、アリウス派からカトリックに改宗。
520   ベネディクトゥスが修道院を開き、それがイタリア各地に伝わる。
527  ビザンツ帝国が「ローマ法大全」の編集開始。
529  ベネディクトゥスモンテ・カッシーノに西方教会で初めての修道院を開く(「529年、ベネディクト会設立。(最初の修道会)」)。(ベネディクト会
535  ネストリウス派(景教)の宣教師、初めて中国訪問。
553  ユスティニアヌス帝が「反ユダヤ法」を発令。以後、ビザンティン帝国は全史を通じて、ユダヤ人が帝国の行政的な地位に就くことも、青少年を教育することも、勅令によって禁じた。 
 第2回コンスタンティノポリス公会議が開かれる。
589

 第3回トレド会議が開かれ、キリスト教によるユダヤ人差別が明文化されるようになった。ユダヤ人はキリスト教徒との結婚を禁じられ、公職にもつけなくなり、以降、ユダヤ人が糊口を凌ぐためには、金貸し業などキリスト教徒が蔑んだ仕事に就くほかなくなっていった。キリスト教徒からするユダヤ人迫害史が確定されたことになる。

590  グレゴリウス1世(大聖グレゴリオ)が教皇として即位し、ローマ法王権が確立する。(この頃より、ローマ教皇という言葉が使われる)
 アイルランドのコルンバヌス、ヨーロッパ大陸に伝道を開始する。
596  カンタベリーのアウグスティヌスアングロ・サクソン人に伝道を開始する。
610  ムハンマド、イスラム教を開く。
622  新興宗教イスラム教誕生。イスラム教を開いたムハンマド(マホメット)がマディーナ(メディナ)に遷る。ヒジュラ暦元年。イスラムの語源はアラビア語で「身をゆだねること」、「神に帰依(よりどころとする)すること」を意味する。
630   ムハンマド、マッカ占領。
635  ネストリウス派(景教)宣教師オロペン、唐を訪問。
638   イスラム軍、エルサレム占領。  
638  長安に大秦寺(景教寺院)建てられる。
638     ムハンマド(マホメット)の興したイスラム教が爆発的に拡がった。聖地エルサレムもイスラム教徒のイスラム帝国の支配下におかれた(〜1099年)(イスラム帝国・A.D641〜A.D1517)。イスラム教によって民族的に目覚めたアラブ人により、イスラム帝国は急激な成長を遂げ、西アジアから北アフリカ、そして南ヨーロッパ一帯にかけてを版図にし、キリスト教圏と対峙した。パレスチナは以降、十字軍時代の約百年を除き、1917年に英国が占領(後に委任統治)するまで、イスラム教徒サラセン軍が支配した。

 イスラム教徒は一部の例外もあるが、基本的にはユダヤ人を迫害し弾圧するということはなかった。なぜならば、アラブ人とユダヤ人はアブラハムの兄弟関係に当たるからという教義により、アラブ人はユダヤ人を被保護民族と位置づけ、特別な人頭税を課す代わりに、その宗教と生活を保護した。そのため、ユダヤ人は本部をバビロンに置いた。

 このように、イスラム圏内の大多数のユダヤ人は、身分差別をされながらも、その共同体を保ったまま、安定した生活を送ることができた。しかも、中世イスラム社会では、ユダヤ教学最高の学者マイモニデスを一大頂点とした学術活動がなされ、ユダヤの思想文化面に輝かしい展開もみられることになった。

(私論.私見)

 この頃の現在イスラエルのある地域一帯は、大シリアの南部、パレスチナ地方と呼ばれていた。と言っても、この地域に現在のような国境線が引かれるのは、第一次世界大戦以降のことである。中東やアフリカの国境線は、ほとんどがヨーロッパの大国の支配圏をはっきりするために引いたもので、そこに住んでいる人達が、自分の意志で引いたものではない。パレスチナ問題も、レバノンの混迷も、元を辿ればすべてこうした事情から生まれている。

 この地域の住民ないし地名は様々な変遷を見せている。まずエジプト、ヒッタイト、カナン、フェニキア、ペリシテ、ユダヤ、アッシリア、バビロニア、ペルシャ、マケドニア、ローマ、イスラム、、トルコと移り変わっている。仮にパレスチナに定住民が居たとしてそういう人々の眼から歴史を見たら、、占領者が次々と入れ替わり、そのもとで改宗と混血を繰り返しながらも、住民が住み続けたということだろう。そして、その人々は、かつてカナン人と呼ばれ、現在パレスチナ人と呼ばれている。

 パレスチナという名は、モーセに率いられたイスラエルの民と同じ頃カナンの地に移住してきたペリシテ人に由来する。ダビデ以前のこの地の支配者は、ペリシテ人とフェニキア人だった。やがて、その人々は土地の人々と混血し、同化していく。そして「カナン」と呼ばれたその地は、やがてローマによって「パレスチナ」と呼ばれるようになる。(「正太郎のイスラエルを調べよう」参照) 

 ユダヤ亡国後、全世界のユダヤ人の精神的支柱となってユダヤの復興に努めたのは、バクダッドを中心とするメソポタミア各地のユダヤ人社会であった。彼らはイスラム教の太守から自治権を付与され、9〜10世紀にはバグダッドだけでも4万人のユダヤ人が暮らし、平和にイスラム教徒と共存していた。

 亡国の民となったユダヤ人の生計は、主として金銭に纏わる仕事によって支えられた。これは、当時のキリスト教義が清貧を重んじ金銭を取り扱うことを卑しいこととしていたことと関係していた。キリスト教義を信奉する国家の民は金銭の取り扱いを罪悪視し、そうした賤業にユダヤ人を就けることでいわば共存する仕組みを構築していた。
651  クルアーン(コーラン)が編纂される。
661  〜750 ムハンマドがダマスコスに代わってパレスチナを支配した。 Dynasty descended from Umayya of Meccan tribe of Quraysh. Construction of Dome of the Rock in Jerusalem by Caliph 'Abd al-Malik (685-705). Construction of al-Aqsa mosque in Jerusalem by Caliph al-Walid I (705-715).
680  第3回コンスタンティノポリス公会議単性論が断罪される。
692  エルサレムに「岩のドーム」建てられる。
697  ヴェネチア共和国が誕生する。かってのカルタゴ金融商人が拠点都市の一つとしたのがヴェネチアだった。ヴェネチアは国際交易都市として発展し共和国を誕生させる。フェニキア→カルタゴ→ヴェネチアの流れが見える。
700

 イスラム軍が北アフリカを制圧する。

711  ウマイヤ朝が西ゴート王国を滅ぼし、イベリア半島、イスラム勢力下に入る。イスラム軍がイベリア半島を制圧し、スペインがイスラム・アラブの支配下に入った。
720  イスラム軍がフランク王国に侵入。
726  ビザンチン皇帝が偶像破壊令(聖像禁止令)を出す。
 聖像論争。
732  フランク王国宮宰カール・マルテルトゥール・ポワティエの戦いウマイヤ朝イスラム軍を撃退し、イスラム軍のピレネー以北へのヨーロッパの進軍が止む。(トゥール・ポワティエ間の戦い)
736   景教徒と思われるペルシア人医師・李密医、日本を訪れ、聖武天皇に仕える。(続日本紀)

 ローマ帝国なき後のヨーロッパ秩序を回復したカール大帝(在位768〜814)の保護下で、ユダヤ人は商人として東西貿易に活躍した。カール大帝以後のカロリング諸王のもとでも、被保護者の立場にあった彼らは、国王の商人の名の下に、特別な保護を受けている者もいた。単に商人としてのみならず、国王や軍隊の水先案内人、物資の調達者として軍隊や軍需物資の輸送などに従事し、王に忠誠を誓い、見過ごしがたい重要な役割を果たした。

 そして、カロリング王朝下で、異教徒のキリスト教への強制改宗の試みはあったものの、ユダヤ人は聖書の民として特別な保護も受けていたし、中世初期から10世紀は概してユダヤ教徒とキリスト教徒間には共存できる寛容さも存続していた。

(私論.私見)
 「暗黒の中世史」を通じ、ユダヤ商人は次第に富裕になり、王侯貴族や教会権力中枢に食い入っていくことになった。但し、不正の手段によってではなく商能力の高さによってそうした関係を創って行ったとみなすのが穏当であろう。この頃よりユダヤ人の能力の高さが認められ、諸分野に次第に社会進出し始めていくことになる。

【「ハザール汗国」のユダヤ教改宗】
740年頃

 カスピ海沿岸の「ハザール汗国」のオバデア王、国民もろともユダヤ教に改宗させ、国難を乗り切る(ユダヤ人以外のユダヤ帝国の誕生)。

7世紀頃  「ハザール王国の歴史」、「<ユダヤ問題特集第2章>世界史のタブーである東洋系ユダヤ人と白人系ユダヤ人のルーツ」を参照する(目下、ほぼ転載)。

 コーカサスからカスピ海北岸に、総人口が100万の「ハザール王国」という巨大王国が存在していた。住民はトルコ系白人(コーカソイド)で、商人・職人・武人として優れていたが、これといった宗教を持っていなかった。

 これに対して、ハザール王国をはさむ形で東ローマ帝国とイスラム帝国が存在していたが、東ローマ帝国はキリスト教を国教とし、イスラム帝国はイスラム教を国教としてそれぞれが国家的アイデンティティーを保持していた。ハザール王国は、次第に両国の「宗教的な干渉」を受けるようになり、どちらの宗教に改宗しても、国全体が戦火に巻き込まれるのは必至という状況に陥った。

 こういう状況によってか、ハザール王国の王オバデアは、国民まとめて「ユダヤ教に改宗」させる。彼らはユダヤ教に改宗しただけでなく、自分たちは「血統的にもアブラハムの子孫」であるとした。ハザール王国は、8世紀末から9世紀にかけて、全国民がユダヤ教に改宗してしまうという、世界史上例を見ないことを成し遂げた。

 国家的な「ユダヤ化政策(改宗政策)」を推し進めたハザール王オバデアから200年たったヨセフ王時代の書記は、以下のような記録を残し、ハザール人は全トルコ民族の先祖であるトガルマを通じ、ノアの長男セム(黄色人種)ではなく第3番目の息子ヤペテ(白人種)の直系子孫であることを断言している。
 「我々の父祖の系図から、トガルマには10人の息子があったことを知った。その子孫の名前はウィグル、デュルス、アヴァル、フン、バシリー、タルニアク、ハザール、ザゴラ、ブルガル、サビールである。我々は7番目の息子ハザールの子孫である」。

 このことに関し、イスラエルのテルアビブ大学でユダヤ史を教えていたA・N・ポリアック教授は、イスラエル共和国が建国される以前の1944年に『ハザリア』という著書を出版し、次のような見解を発表していた。
 「これらの事実から、ハザールのユダヤ人と他のユダヤ・コミュニティの間にあった問題、およびハザール系ユダヤ人がどの程度まで東ヨーロッパのユダヤ人居住地の核となっていたのか、という疑問について、新たに研究していく必要がある。この定住地の子孫――その地にとどまった者、あるいはアメリカやその他に移住した者、イスラエルに行った者――が、現在の世界で“ユダヤ人”と言われる人々の大部分を占めているのだ」。

 アシュケナジー系ユダヤ人N・M・ポロックは、自然科学の教科書の翻訳者であり、出版会社から頼まれて本の校正もしていた学者であった。その彼が1966年8月、イスラエル政府に抗議したことがあった。彼はその当時のイスラエル国内の60%以上、西側諸国に住むユダヤ人の90%以上は、何世紀か前にロシアのステップ草原を徘徊していたハザール人の子孫であり、血統的に本当のユダヤ人ではないと言ったのである。イスラエル政府の高官は、ハザールに関する彼の主張が正しいことを認めたが、後にはその重要な証言をもみ消そうと画策。ポロックは自分の主張を人々に伝えるため、その生涯の全てを費やしたという。

 このように「アシュケナジー系ユダヤ人」は、『旧約聖書』に登場するユダヤ人(セム系民族)とは「血縁的に全く関係のない民族(ヤペテ系民族)」であり、国をあげてユダヤ教に大改宗して以来、現在に至るまで“ユダヤ人”になりきってしまっているのである。

 「アシュケナジー系ユダヤ人」が非セム系民族であるとすると、現在、世界中に散らばっている“ユダヤ人”と呼ばれている人間の90%以上が、本来のヘブライ人とは全く関係のない異民族ということになってしまうが、これは恐るべき事実である。この「ニセユダヤ人問題」(ちょっと言葉が悪いが)が世界史のタブーであることがうなずけよう。

 と同時に注意(考慮)するべき点は、「白人系ユダヤ人問題」というセンセーショナルな問題を扱う場合、幾ら「ニセユダヤ人」とはいえ、彼らは長い間“ユダヤ人”として生き、オリジナル・ユダヤ人と同じ「キリスト殺し」の汚名を背負い、悲惨な迫害を受け続けて来たわけであり、同情に値するという点であろう。


745  ケルンに大司教座が設置される。
750  ウマイヤ朝が滅亡し、アッバース朝が始まる。〜1258、'Abbasid caliphs rule Palestine from Iraq. Dynasty, founded by Abu al-' Abbas al-Saffah, who is descended from' Abbas, uncle of the Prophet.
756  フランク王国宮宰小ピピンラヴェンナの土地を教皇に寄進し、教皇領が始まる。
780  養子論論争。
780   アナン・ベン・ダヴィッド、バビロンよりパレスチナに戻り、カライ派を創始。(ミシュナー、タルムードといったラビ的ユダヤ教を否定し、成文律法のみを認める)
781  大秦景教流行中國碑が建てられる。
787  第2回ニカイア公会議聖像の使用が認可される。
793  イングランド北部、リンデスファーン修道院ノルマン人に襲われる(ヴァイキングの始まり)。
800  ローマ教皇によるカール大帝(シャルル・マーニュ、カール・マルテルの孫)が、ローマで教皇レオ3世から西ローマ皇帝として戴冠する。西ローマ帝国。
800 ハザール王は、…ユダヤ教を選び、ロシアのツァー(皇帝)の率いる連邦国家の定める要求の、内部に留まることを約束した。彼の合意と約束にもかかわらず、ハザール王と彼の少数政治サークルは、古代バビロニアの黒魔術(秘密サタン教とも呼ばれる)を実践し続けた。この秘密サタン教には、子供の「血を抜き去り」、それを飲み、その心臓を食ったあとで、子供の生贄を行うオカルト儀式が含まれる。ハザール王は、これらルシファー教の黒魔術儀式をユダヤ教と融合させ、バビロニア・タルムード教として知られる秘密のサタン教との雑種をつくり出した。これがハザールの国家宗教とされ、ハザールが昔知られていた通りの、同じ悪を生み出すようになった。
829

 伝道師アンスカルらスウェーデンに布教。

844  聖餐論争。
846  イスラム軍が東ローマ帝国を攻撃する。
848  二重予定説論争。
860  ノルマン人ロシアを支配する。
865  聖書がロシア語に翻訳される。
867  東のローマと西のコンスタンティノープルの教会が一時的に分裂する。
869  第4回コンスタンティノポリス公会議開かれる。
878  イスラム軍がシチリア島を占領。
900年前後

 ユダヤ教におけるキリスト教以来最大の異端派である「カライ派」が、ユダヤ教の高位の聖職者を分裂させる。「イスラム東方世界」の分裂によって、東洋系ユダヤ人は北アフリカを経由して「イスラム西方世界(イベリア半島など)」に追われる。

940
 サアディー・ベン・ヨセフがアラビア語訳旧約聖書を完成。
950

 デンマーク王ハーラル1世がキリスト教を公認。

954

 コルドバのカリフの総理大臣だったユダヤ人ハスダイと、ハザール王ヨセフとの間にハザール書簡がかわされる。

957  キエフ公妃オリガがコンスタンティノポリスで受洗。
962  東フランク王国(ドイツ)国王オットー1世が神聖ローマ帝国皇帝となる。神聖ローマ帝国誕生(〜1806年)。
965  キエフのスビャトスラフ、ハザール汗国へ遠征し、首都イティルを破壊。
969  ハザール、キエフ大公国により壊滅的な打撃を受ける。
 Fatimid dynasty, claiming descent from the Prophet's daughter Fatima and her cousin 'Ali, rule Palestine from Egypt. They proclaim themselves caliphs in rivalry to the' Abbasids.
988  キエフ大公ウラジーミル1世が受洗し、司教座が設置される。
989  キエフ大公国(ルーシ、現ロシア)のウラジーミル1世が東ローマ皇帝の妹と結婚し、東方正教がロシアの国教になる。東方正教に改宗。
995  ノルウェー王オーラフ1世がキリスト教を導入。
1000頃  キリスト教に改宗したレイフ・エリクソン、北アメリカを「発見」。布教、領有化は成されなかった。
 スウェーデン王・オーロフ・シェットコンヌングがイングランド人宣教師によって受洗。
10〜14世紀
 スペイン・ユダヤ人社会の黄金時代。11世紀以降、キリスト教徒によるスペイン奪還運動「レコンキスタ」が始まった。13世紀半ばまでには、グラナダを除くスペインの大部分がキリスト教徒の支配下に入った。14世紀半ば過ぎまでは、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教は比較的平穏な関係で共存していた。ユダヤ人たちはキリスト教に改宗するように迫られたが、暴力的なものではなかった。この間、ユダヤ人はその能力に応じて登用されていた。
11世紀

 「イスラム東方世界」が分裂。それまでユダヤ人に対して穏健であったイスラム政権は、ユダヤ首長を追放。これによりバビロンのサンヘドリン本部は陥落。そのため、彼らは本部をヴェニスに移動した。ヴェニスはユダヤ商人の活躍により、地中海貿易最大の港町へと発展していった。

1012  マインツでユダヤ人追放。ユダヤ金融メインズから追放される。
1014

 デンマーク王クヌーズ2世がキリスト教を国教とする。

1016  ビザンティン―ロシア連合軍、ハザール汗国と会戦。ハザール敗退。
1020  クリュニー修道院の改革が、教会改革へと波及する。
1035
 カスティーリャ王国、アラゴン王国建国。(後のスペイン。)
1041  「神の休戦」が制定される。
1049  教皇レオ9世が即位し、教皇権の腐敗時代が終わる。
1054  ギリシャ正教とローマ・カトリック教会が相互破門し、キリスト教がローマ・カトリック教会とギリシャ正教会に分裂する。(東西教会の分裂大シスマ
1060  聖職者の階級制度確立。
1071  Saljuqs, originally from Isfahan, capture Jerusalem and parts of Palestine, which remains officially within the 'Abbasid Empire.
1072
  パレスチナがセルジューク朝支配下に。
1073  教皇グレゴリウス7世即位。教皇グレゴリウス7世が教会改革を断行する。
1074  聖職者の独身制が決定され、妻帯していた司祭などが失職する。
1075  聖職者の平服が禁止される。俗人による聖職叙任が禁止される。
1077  ローマ法王・グレゴリウス7世が、神聖ローマ皇帝・ハインリッヒ4世を破門する。ハインリヒ4世が赦しを請うカノッサの屈辱事件(カノッサの屈辱)に至る。
1078

 ローマ教皇グレゴリウス7世が、ユダヤ人に対しキリスト教国での「公職追放令」を発令。ユダヤ人は全ての職業組合から締め出される事態となった。

 中世イスラム社会とは対照的に、中世ヨーロッパ社会すなわちキリスト教社会では、古くからユダヤ人を嫌悪する差別感情が定着していた。 キリスト教は、他人にカネを貸して利息を取ることは罪悪であると考えていた。ところが、ユダヤ教は『タルムード』の中で異邦人から利子を取ることを許していたので、ユダヤ人は古くから自由に高利貸業を営むことができた。そのため公職追放令が発令されると、ユダヤ人はキリスト教徒には禁止されていた金融業に喜々として手を染めていくことになった。「カネに汚い高利貸し」というイメージがユダヤ人に定着したのはこの頃からだと言われている。






(私論.私見)