パレスチナ問題を解くための歴史3、中世史篇その1 |
更新日/2022(平成31.5.1栄和/令和4).3.21日)
【離散の民後のユダヤ人の生態】 |
ローマ帝国の迫害によって離散の民となったユダヤ人は、ユダヤ教保守派(パリサイ派)の生き残りを中心に、ガリラヤやティベリアに「サンヘドリン(ユダヤ長老議会)」を設置した。サンヘドリンは総主教、教学院長、最高法廷議長の三頭制度で成り立っていた。こうして、新ユダヤ教を信仰する共同生活を送り始めた。ユダヤ人はパリサイ人とも呼ばれた。パリサイとはヘブライ語で「特別な者」という意味である。 また、イエス生誕以前から自発的に諸外国で暮らしを始めていた離散ユダヤ人もいた。彼らはヘレニズム・ローマ時代に発展を遂げ、地中海やオリエントなどに広がっていた。その中心がバビロニアやエジプトのユダヤ人共同体である。 |
180 | 新約聖書成立する。聖書の中に、「父(神)」、「子(キリスト)」、「精霊」が併記された。 |
ローマ帝国と並んでビザンチン帝国(30B.C〜A.D641)が支配する。 |
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211 | ユダヤ人は、ローマ帝国カラカラ帝(在位211〜217)の在世時代、課税の単純化を目的としたローマ市民権付与法によりローマ市民権保有者となった(「211年、ユダヤ人にローマ市民権付与。(課税の単純化が目的)」)。 |
226 | パルティア王国を征服したササン朝ペルシア帝国は、パルティアの手になる「エクシラルク制度」をユダヤ人の自治的な亡命政府として認める。ササン朝ペルシア帝国のユダヤ人学者は「アモライーム」と呼ばれ、「ゲマラ」の基礎をつくる。 |
230 | カルタゴの教父テリトゥリアヌスが始めて「三位一体」という表現を用いる。 |
250 | ローマ帝国デキウス帝がキリスト教を大迫害する。 |
269 | ワレンティヌス(ヴァレンタイン)殉教。(バレンタインデーの起源。)但し、その実在性については定かではない。 |
293 |
ローマ帝国が四分割される。 |
300 | キリストは神か人かを廻って論争される(同質性論争)。 |
301 | ディオクレティアヌス帝がキリスト教を迫害する。 |
301 | アルメニア王国がキリスト教を国教とする。当時のアルメニアはローマ帝国の属国だが、国家の国教としては世界初。 |
303 | 皇帝ディオクレティアヌスがキリスト教禁圧令を出し迫害する。 |
306 | この頃、コーモンのアントニウスがエジプトで隠修士を集め、キリスト教最初の修道院を始める。 |
311 | キリスト教寛容令。 |
312 | コンスタンティヌス1世、十字架を旗印にしてミルヴィウス橋の戦いに勝利する。 |
313.6月 | ローマ帝国コンスタンチヌス大帝(在位306〜337)は「ミラノ勅令」(ミラノ寛容令)を発して、キリスト教を公認した(「313年、コンスタンティヌス帝、キリスト教を公認。(ミラノ勅令)」)。ローマ帝国は衰退しつつあったが、これ以後、キリスト教化は急速に進んでいくことになった。ビザンティン帝国(東ローマ帝国)がパレスチナを支配。 |
315 | コンスタンティヌス大帝が、ユダヤ人の自治を制限する最初の勅令を出し、その中でユダヤ人を「あの恥ずべき一派」と表現した。 |
318 | 父と子の同一性を認めるアタナシウス派と、これを認めないアリウス派の間で論争が起る。 |
325 | コンタンティヌス1世によって、第1回ニカイア公会議が開かれ、三位一体の基礎が確立される。父と子を同質とするアタナシウス派を認めて、ニカイア信条を採択。アリウス派を異端とする。 |
327 | グルジアがキリスト教を国教とする。 |
330 | 〜640まで、パレスチナがビザンチン(Byzantine)の支配下に入る。パレスチナは次第にキリスト教化された。 |
336 | ローマで12月25日にキリスト降誕が祝われた最古の記録。 |
339 | コンスタンティヌス大帝が、キリスト教徒とユダヤ人との婚姻ならびに、ユダヤ人がキリスト教徒の奴隷を所有することを禁止した。 |
345 | 345(または352) ミラのニコラオス(ニコラウス)死去。(サンタクロースのモデル。) |
350 | この頃、エチオピアがキリスト教を国教とする(コプト教)。 |
361 | ユリアヌス帝の背教(キリスト教優遇措置を是正)。皇帝ユリアヌス(背教者ユリアヌス)がローマ古来の宗教の復活を企てる。 |
375 | ゲルマン民族の大移動が開始される。 |
380 | キリスト教がローマ帝国の国教となる。 |
381 | 第1回コンスタンティノープル公会議が開かれ、二カイア公会議を補則する。ニカイア・コンスタンティノポリス信条を採択。これにより三位一体の教義が確定する。 |
383 | ローマ帝国下で、ユダヤ教が法的に禁じられた。キリスト教の政治的勝利であったが、これによりユダヤ人は法的な差別や制限を受けざるを得なくなった。 |
386 | アウグスティヌスがマニ教からキリスト教に回心する。クリュソストモス、12月25日にキリスト降誕を祝うよう奨める説教をする。 |
388 | キリスト教とユダヤ教の異宗婚が禁止される。 |
391 | 皇帝テオドシウスがキリスト教を国教に定める。 |
392 | ローマ帝国テオドシウス大帝(在位379〜395)下で、キリスト教はローマ帝国唯一の合法宗教たる国教にまで高められ(「ローマ帝国でキリスト教が国教になる」)、異教禁止令が出され、すべてのローマ人はキリスト教信者の受容を強制されるようになった。 |
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「この時から、それまでキリスト教徒を迫害してきたユダヤ教徒が、逆に迫害され始めた。当時キリスト教の神学に、ユダヤ人はイエス・キリストを殺した民であって、その罪ゆえに彼らは離散の呪詛を永遠に背負わなければならないのである、との解釈が生じた」。 | |
395 | ローマ帝国が、東西ローマ帝国に分裂した。ビザンティン帝国が、パレスチナ全土を支配した(〜639年)。アウグスティヌス、『告白』を執筆。 |
ヒッポ(北アフリカ)の司教アウグスティヌスが『告白』を書く。 | |
397 | カルタゴ会議で新約聖書正典を決定し、「聖書」がほぼ確定する。 |
409 | サーサーン朝ペルシア帝国が、キリスト教寛容令を出す。 |
410 | ヒエロニムスがエルサレムで聖書をラテン語に翻訳する。(ヴルガータ訳聖書) |
411 | ペラギウス論争起こる。(原罪の否定。神の恵みによらない、自らの功徳による救い。) |
426 | アウグスティヌス、「神の国」を執筆。 |
430 | ヒエロ二ムスが聖書をラテン語訳。 |
431 | エフェソス公会議でペラギウスとネストリウス派を異端とする。(後の景教、アッシリア東方教会) |
440 | ローマ司教レオ1世が、ローマ司教の首位権(教皇権)を主張する。 |
451 | カルケドン公会議が開かれ、キリストは唯一の位格である事が確定し、単性論の立場のコプト教会、アルメニア教会などが離反する。「キリスト単性論」が追放され、三位一体が正当教理として確定する。 |
452 | ローマ教皇レオ1世がフン族の長アッティラをローマから撤退させる。 |
476 | ゲルマン人の度重なる侵攻に耐えてきた西ローマ帝国が、ゲルマン人の傭兵隊長オドアケルによって遂に滅ぼされる。 |
486 | クローヴィスがフランク王国を建設する。 |
490 | バビロニアタルムード成立。 |
496 | フランク王クローヴィス、部下3千人と共に洗礼を受ける。 |
499 | バビロニア・タルムード完成。 |
500年前後 | ササン朝ペルシア帝国内でユダヤ人の内紛が起きる。 |
【2から5世紀、ユダヤ人がタルムード編纂に着手する】 |
この間、ユダヤ人社会は、イスラエル10支族との完全離別、新バビロニア王国によるソロモン第一神殿の破壊やローマ軍との大戦争を経験し、マイノリティー化した彼らは、極度の民族的死活問題に直面していた。
そういう事情により、律法に加えて様々なユダヤ人の生活原理の規範ともいうべき民族内規を生み出していった。ユダヤ人たちは離散の地で、紀元2世紀にはミシュナを、紀元4世紀末にはミシュナとゲマラを融合してエルサレム・タルムードを、紀元5世紀末にはマル・ヨセがバビロニア・タルムードを編纂した。タルムードにはより現実的な利益を求める生活指向が盛り込められた。と同時に、非ユダヤ人のことを「ゴイム(家畜)」と表現し罵るなどの、故意に歪められた民族的排他性と独善的選民思想が付随し、他民族に反ユダヤ感情を植え付ける一因となった。
旧約聖書を補完するものとしてのタルムードの発生史は、すなわちユダヤ教の発展史である。離散時代のユダヤ社会はかっての神殿祭祀ではなく、「シナゴーグ(ユダヤ教会堂)」のラビ(ユダヤ教指導者)による旧約聖書やタルムードの研究解釈に切り替わった。このシステムは、現在のユダヤ教にそっくりそのまま受け継がれている。タルムードを中核に据えた新ユダヤ教を信仰し始めたユダヤ人には、もはやかってのような預言者も神の声もなくなった。それが進歩か退歩かは軽断出来ない。 |
517 | ブルグント王ジギスムント、アリウス派からカトリックに改宗。 |
520 | ベネディクトゥスが修道院を開き、それがイタリア各地に伝わる。 |
527 | ビザンツ帝国が「ローマ法大全」の編集開始。 |
529 | ベネディクトゥスがモンテ・カッシーノに西方教会で初めての修道院を開く(「529年、ベネディクト会設立。(最初の修道会)」)。(ベネディクト会) |
535 | ネストリウス派(景教)の宣教師、初めて中国訪問。 |
553 | ユスティニアヌス帝が「反ユダヤ法」を発令。以後、ビザンティン帝国は全史を通じて、ユダヤ人が帝国の行政的な地位に就くことも、青少年を教育することも、勅令によって禁じた。 |
第2回コンスタンティノポリス公会議が開かれる。 | |
589 |
第3回トレド会議が開かれ、キリスト教によるユダヤ人差別が明文化されるようになった。ユダヤ人はキリスト教徒との結婚を禁じられ、公職にもつけなくなり、以降、ユダヤ人が糊口を凌ぐためには、金貸し業などキリスト教徒が蔑んだ仕事に就くほかなくなっていった。キリスト教徒からするユダヤ人迫害史が確定されたことになる。 |
590 | グレゴリウス1世(大聖グレゴリオ)が教皇として即位し、ローマ法王権が確立する。(この頃より、ローマ教皇という言葉が使われる) |
アイルランドのコルンバヌス、ヨーロッパ大陸に伝道を開始する。 | |
596 | カンタベリーのアウグスティヌスがアングロ・サクソン人に伝道を開始する。 |
610頃 | ムハンマド、イスラム教を開く。 |
622 | 新興宗教イスラム教誕生。イスラム教を開いたムハンマド(マホメット)がマディーナ(メディナ)に遷る。ヒジュラ暦元年。イスラムの語源はアラビア語で「身をゆだねること」、「神に帰依(よりどころとする)すること」を意味する。 |
630 | ムハンマド、マッカ占領。 |
635 | ネストリウス派(景教)宣教師オロペン、唐を訪問。 |
638 | イスラム軍、エルサレム占領。 |
638 | 長安に大秦寺(景教寺院)建てられる。 |
638 | ムハンマド(マホメット)の興したイスラム教が爆発的に拡がった。聖地エルサレムもイスラム教徒のイスラム帝国の支配下におかれた(〜1099年)(イスラム帝国・A.D641〜A.D1517)。イスラム教によって民族的に目覚めたアラブ人により、イスラム帝国は急激な成長を遂げ、西アジアから北アフリカ、そして南ヨーロッパ一帯にかけてを版図にし、キリスト教圏と対峙した。パレスチナは以降、十字軍時代の約百年を除き、1917年に英国が占領(後に委任統治)するまで、イスラム教徒サラセン軍が支配した。 イスラム教徒は一部の例外もあるが、基本的にはユダヤ人を迫害し弾圧するということはなかった。なぜならば、アラブ人とユダヤ人はアブラハムの兄弟関係に当たるからという教義により、アラブ人はユダヤ人を被保護民族と位置づけ、特別な人頭税を課す代わりに、その宗教と生活を保護した。そのため、ユダヤ人は本部をバビロンに置いた。 このように、イスラム圏内の大多数のユダヤ人は、身分差別をされながらも、その共同体を保ったまま、安定した生活を送ることができた。しかも、中世イスラム社会では、ユダヤ教学最高の学者マイモニデスを一大頂点とした学術活動がなされ、ユダヤの思想文化面に輝かしい展開もみられることになった。 |
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この頃の現在イスラエルのある地域一帯は、大シリアの南部、パレスチナ地方と呼ばれていた。と言っても、この地域に現在のような国境線が引かれるのは、第一次世界大戦以降のことである。中東やアフリカの国境線は、ほとんどがヨーロッパの大国の支配圏をはっきりするために引いたもので、そこに住んでいる人達が、自分の意志で引いたものではない。パレスチナ問題も、レバノンの混迷も、元を辿ればすべてこうした事情から生まれている。
この地域の住民ないし地名は様々な変遷を見せている。まずエジプト、ヒッタイト、カナン、フェニキア、ペリシテ、ユダヤ、アッシリア、バビロニア、ペルシャ、マケドニア、ローマ、イスラム、、トルコと移り変わっている。仮にパレスチナに定住民が居たとしてそういう人々の眼から歴史を見たら、、占領者が次々と入れ替わり、そのもとで改宗と混血を繰り返しながらも、住民が住み続けたということだろう。そして、その人々は、かつてカナン人と呼ばれ、現在パレスチナ人と呼ばれている。 パレスチナという名は、モーセに率いられたイスラエルの民と同じ頃カナンの地に移住してきたペリシテ人に由来する。ダビデ以前のこの地の支配者は、ペリシテ人とフェニキア人だった。やがて、その人々は土地の人々と混血し、同化していく。そして「カナン」と呼ばれたその地は、やがてローマによって「パレスチナ」と呼ばれるようになる。(「正太郎のイスラエルを調べよう」参照) |
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ユダヤ亡国後、全世界のユダヤ人の精神的支柱となってユダヤの復興に努めたのは、バクダッドを中心とするメソポタミア各地のユダヤ人社会であった。彼らはイスラム教の太守から自治権を付与され、9〜10世紀にはバグダッドだけでも4万人のユダヤ人が暮らし、平和にイスラム教徒と共存していた。 亡国の民となったユダヤ人の生計は、主として金銭に纏わる仕事によって支えられた。これは、当時のキリスト教義が清貧を重んじ金銭を取り扱うことを卑しいこととしていたことと関係していた。キリスト教義を信奉する国家の民は金銭の取り扱いを罪悪視し、そうした賤業にユダヤ人を就けることでいわば共存する仕組みを構築していた。 |
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651 | クルアーン(コーラン)が編纂される。 |
661 | 〜750 ムハンマドがダマスコスに代わってパレスチナを支配した。 Dynasty descended from Umayya of Meccan tribe of Quraysh. Construction of Dome of the Rock in Jerusalem by Caliph 'Abd al-Malik (685-705). Construction of al-Aqsa mosque in Jerusalem by Caliph al-Walid I (705-715). |
680 | 第3回コンスタンティノポリス公会議で単性論が断罪される。 |
692 | エルサレムに「岩のドーム」建てられる。 |
697 | ヴェネチア共和国が誕生する。かってのカルタゴ金融商人が拠点都市の一つとしたのがヴェネチアだった。ヴェネチアは国際交易都市として発展し共和国を誕生させる。フェニキア→カルタゴ→ヴェネチアの流れが見える。 |
700 |
イスラム軍が北アフリカを制圧する。 |
711 | ウマイヤ朝が西ゴート王国を滅ぼし、イベリア半島、イスラム勢力下に入る。イスラム軍がイベリア半島を制圧し、スペインがイスラム・アラブの支配下に入った。 |
720 | イスラム軍がフランク王国に侵入。 |
726 | ビザンチン皇帝が偶像破壊令(聖像禁止令)を出す。 |
聖像論争。 | |
732 | フランク王国宮宰カール・マルテルがトゥール・ポワティエの戦いでウマイヤ朝イスラム軍を撃退し、イスラム軍のピレネー以北へのヨーロッパの進軍が止む。(トゥール・ポワティエ間の戦い) |
736 | 景教徒と思われるペルシア人医師・李密医、日本を訪れ、聖武天皇に仕える。(続日本紀) |
ローマ帝国なき後のヨーロッパ秩序を回復したカール大帝(在位768〜814)の保護下で、ユダヤ人は商人として東西貿易に活躍した。カール大帝以後のカロリング諸王のもとでも、被保護者の立場にあった彼らは、国王の商人の名の下に、特別な保護を受けている者もいた。単に商人としてのみならず、国王や軍隊の水先案内人、物資の調達者として軍隊や軍需物資の輸送などに従事し、王に忠誠を誓い、見過ごしがたい重要な役割を果たした。 そして、カロリング王朝下で、異教徒のキリスト教への強制改宗の試みはあったものの、ユダヤ人は聖書の民として特別な保護も受けていたし、中世初期から10世紀は概してユダヤ教徒とキリスト教徒間には共存できる寛容さも存続していた。 |
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「暗黒の中世史」を通じ、ユダヤ商人は次第に富裕になり、王侯貴族や教会権力中枢に食い入っていくことになった。但し、不正の手段によってではなく商能力の高さによってそうした関係を創って行ったとみなすのが穏当であろう。この頃よりユダヤ人の能力の高さが認められ、諸分野に次第に社会進出し始めていくことになる。 |
【「ハザール汗国」のユダヤ教改宗】 | |||
740年頃 |
カスピ海沿岸の「ハザール汗国」のオバデア王、国民もろともユダヤ教に改宗させ、国難を乗り切る(ユダヤ人以外のユダヤ帝国の誕生)。 |
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7世紀頃 | 「ハザール王国の歴史」、「<ユダヤ問題特集第2章>世界史のタブーである東洋系ユダヤ人と白人系ユダヤ人のルーツ」を参照する(目下、ほぼ転載)。 コーカサスからカスピ海北岸に、総人口が100万の「ハザール王国」という巨大王国が存在していた。住民はトルコ系白人(コーカソイド)で、商人・職人・武人として優れていたが、これといった宗教を持っていなかった。 これに対して、ハザール王国をはさむ形で東ローマ帝国とイスラム帝国が存在していたが、東ローマ帝国はキリスト教を国教とし、イスラム帝国はイスラム教を国教としてそれぞれが国家的アイデンティティーを保持していた。ハザール王国は、次第に両国の「宗教的な干渉」を受けるようになり、どちらの宗教に改宗しても、国全体が戦火に巻き込まれるのは必至という状況に陥った。 こういう状況によってか、ハザール王国の王オバデアは、国民まとめて「ユダヤ教に改宗」させる。彼らはユダヤ教に改宗しただけでなく、自分たちは「血統的にもアブラハムの子孫」であるとした。ハザール王国は、8世紀末から9世紀にかけて、全国民がユダヤ教に改宗してしまうという、世界史上例を見ないことを成し遂げた。 国家的な「ユダヤ化政策(改宗政策)」を推し進めたハザール王オバデアから200年たったヨセフ王時代の書記は、以下のような記録を残し、ハザール人は全トルコ民族の先祖であるトガルマを通じ、ノアの長男セム(黄色人種)ではなく第3番目の息子ヤペテ(白人種)の直系子孫であることを断言している。
このことに関し、イスラエルのテルアビブ大学でユダヤ史を教えていたA・N・ポリアック教授は、イスラエル共和国が建国される以前の1944年に『ハザリア』という著書を出版し、次のような見解を発表していた。
アシュケナジー系ユダヤ人N・M・ポロックは、自然科学の教科書の翻訳者であり、出版会社から頼まれて本の校正もしていた学者であった。その彼が1966年8月、イスラエル政府に抗議したことがあった。彼はその当時のイスラエル国内の60%以上、西側諸国に住むユダヤ人の90%以上は、何世紀か前にロシアのステップ草原を徘徊していたハザール人の子孫であり、血統的に本当のユダヤ人ではないと言ったのである。イスラエル政府の高官は、ハザールに関する彼の主張が正しいことを認めたが、後にはその重要な証言をもみ消そうと画策。ポロックは自分の主張を人々に伝えるため、その生涯の全てを費やしたという。 「アシュケナジー系ユダヤ人」が非セム系民族であるとすると、現在、世界中に散らばっている“ユダヤ人”と呼ばれている人間の90%以上が、本来のヘブライ人とは全く関係のない異民族ということになってしまうが、これは恐るべき事実である。この「ニセユダヤ人問題」(ちょっと言葉が悪いが)が世界史のタブーであることがうなずけよう。 |
745 | ケルンに大司教座が設置される。 |
750 | ウマイヤ朝が滅亡し、アッバース朝が始まる。〜1258、'Abbasid caliphs rule Palestine from Iraq. Dynasty, founded by Abu al-' Abbas al-Saffah, who is descended from' Abbas, uncle of the Prophet. |
756 | フランク王国宮宰小ピピン、ラヴェンナの土地を教皇に寄進し、教皇領が始まる。 |
780 | 養子論論争。 |
780 | アナン・ベン・ダヴィッド、バビロンよりパレスチナに戻り、カライ派を創始。(ミシュナー、タルムードといったラビ的ユダヤ教を否定し、成文律法のみを認める) |
781 | 大秦景教流行中國碑が建てられる。 |
787 | 第2回ニカイア公会議で聖像の使用が認可される。 |
793 | イングランド北部、リンデスファーン修道院、ノルマン人に襲われる(ヴァイキングの始まり)。 |
800 | ローマ教皇によるカール大帝(シャルル・マーニュ、カール・マルテルの孫)が、ローマで教皇レオ3世から西ローマ皇帝として戴冠する。西ローマ帝国。 |
800 | ハザール王は、…ユダヤ教を選び、ロシアのツァー(皇帝)の率いる連邦国家の定める要求の、内部に留まることを約束した。彼の合意と約束にもかかわらず、ハザール王と彼の少数政治サークルは、古代バビロニアの黒魔術(秘密サタン教とも呼ばれる)を実践し続けた。この秘密サタン教には、子供の「血を抜き去り」、それを飲み、その心臓を食ったあとで、子供の生贄を行うオカルト儀式が含まれる。ハザール王は、これらルシファー教の黒魔術儀式をユダヤ教と融合させ、バビロニア・タルムード教として知られる秘密のサタン教との雑種をつくり出した。これがハザールの国家宗教とされ、ハザールが昔知られていた通りの、同じ悪を生み出すようになった。 |
829 |
伝道師アンスカルらスウェーデンに布教。 |
844 | 聖餐論争。 |
846 | イスラム軍が東ローマ帝国を攻撃する。 |
848 | 二重予定説論争。 |
860 | ノルマン人がロシアを支配する。 |
865 | 聖書がロシア語に翻訳される。 |
867 | 東のローマと西のコンスタンティノープルの教会が一時的に分裂する。 |
869 | 第4回コンスタンティノポリス公会議開かれる。 |
878 | イスラム軍がシチリア島を占領。 |
900年前後 |
ユダヤ教におけるキリスト教以来最大の異端派である「カライ派」が、ユダヤ教の高位の聖職者を分裂させる。「イスラム東方世界」の分裂によって、東洋系ユダヤ人は北アフリカを経由して「イスラム西方世界(イベリア半島など)」に追われる。 |
940 |
サアディー・ベン・ヨセフがアラビア語訳旧約聖書を完成。
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950 | |
954 |
コルドバのカリフの総理大臣だったユダヤ人ハスダイと、ハザール王ヨセフとの間にハザール書簡がかわされる。 |
957 | キエフ公妃オリガがコンスタンティノポリスで受洗。 |
962 | 東フランク王国(ドイツ)国王オットー1世が神聖ローマ帝国皇帝となる。神聖ローマ帝国誕生(〜1806年)。 |
965 | キエフのスビャトスラフ、ハザール汗国へ遠征し、首都イティルを破壊。 |
969 | ハザール、キエフ大公国により壊滅的な打撃を受ける。 Fatimid dynasty, claiming descent from the Prophet's daughter Fatima and her cousin 'Ali, rule Palestine from Egypt. They proclaim themselves caliphs in rivalry to the' Abbasids. |
988 | キエフ大公ウラジーミル1世が受洗し、司教座が設置される。 |
989 | キエフ大公国(ルーシ、現ロシア)のウラジーミル1世が東ローマ皇帝の妹と結婚し、東方正教がロシアの国教になる。東方正教に改宗。 |
995 | ノルウェー王オーラフ1世がキリスト教を導入。 |
1000頃 | キリスト教に改宗したレイフ・エリクソン、北アメリカを「発見」。布教、領有化は成されなかった。 |
スウェーデン王・オーロフ・シェットコンヌングがイングランド人宣教師によって受洗。 | |
10〜14世紀 |
スペイン・ユダヤ人社会の黄金時代。11世紀以降、キリスト教徒によるスペイン奪還運動「レコンキスタ」が始まった。13世紀半ばまでには、グラナダを除くスペインの大部分がキリスト教徒の支配下に入った。14世紀半ば過ぎまでは、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教は比較的平穏な関係で共存していた。ユダヤ人たちはキリスト教に改宗するように迫られたが、暴力的なものではなかった。この間、ユダヤ人はその能力に応じて登用されていた。
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11世紀 |
「イスラム東方世界」が分裂。それまでユダヤ人に対して穏健であったイスラム政権は、ユダヤ首長を追放。これによりバビロンのサンヘドリン本部は陥落。そのため、彼らは本部をヴェニスに移動した。ヴェニスはユダヤ商人の活躍により、地中海貿易最大の港町へと発展していった。 |
1012 | マインツでユダヤ人追放。ユダヤ金融メインズから追放される。 |
1014 |
デンマーク王クヌーズ2世がキリスト教を国教とする。 |
1016 | ビザンティン―ロシア連合軍、ハザール汗国と会戦。ハザール敗退。 |
1020 | クリュニー修道院の改革が、教会改革へと波及する。 |
1035 |
カスティーリャ王国、アラゴン王国建国。(後のスペイン。)
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1041 | 「神の休戦」が制定される。 |
1049 | 教皇レオ9世が即位し、教皇権の腐敗時代が終わる。 |
1054 | ギリシャ正教とローマ・カトリック教会が相互破門し、キリスト教がローマ・カトリック教会とギリシャ正教会に分裂する。(東西教会の分裂、大シスマ) |
1060 | 聖職者の階級制度確立。 |
1071 | Saljuqs, originally from Isfahan, capture Jerusalem and parts of Palestine, which remains officially within the 'Abbasid Empire. |
1072 |
パレスチナがセルジューク朝支配下に。
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1073 | 教皇グレゴリウス7世即位。教皇グレゴリウス7世が教会改革を断行する。 |
1074 | 聖職者の独身制が決定され、妻帯していた司祭などが失職する。 |
1075 | 聖職者の平服が禁止される。俗人による聖職叙任が禁止される。 |
1077 | ローマ法王・グレゴリウス7世が、神聖ローマ皇帝・ハインリッヒ4世を破門する。ハインリヒ4世が赦しを請うカノッサの屈辱事件(カノッサの屈辱)に至る。 |
1078 |
ローマ教皇グレゴリウス7世が、ユダヤ人に対しキリスト教国での「公職追放令」を発令。ユダヤ人は全ての職業組合から締め出される事態となった。 |
(私論.私見)