パレスチナ問題を解くための歴史7、近世史篇その3(ユダヤ人国家イスラエル樹立の経緯とその後考) |
更新日/2022(平成31.5.1栄和/令和4).3.21日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
1882年以来、ロシアではユダヤ人の虐殺(ポグロム)の嵐が吹き荒れていた。他方、ユダヤ人社会の中にシオニズム運動が巻き起こり、主にロスチャイルドの手で、東欧のユダヤ人がパレスチナに送り込まれ、この人々は約20のコロニー(集団居住地)をつくった。 シオニズムの運動をこの時指導したのは、社会主義の洗礼を受けた者たちだった。離散の生活の間に、ユダヤ社会が労働者不在となり、商人、金融業の層が極端に膨張しているから、健全な社会に戻すには労働者にならねばならない、と言う考えに東欧移民の若者は賛同した。そして、彼らは「キブツ」で肉体労働者になった。 キブツに代表される「土に帰れ」という運動のほか、シオニストは「ユダヤ人の商品だけを買う運動」などをくりひろげた。これはパレスチナ人の商店への襲撃や、そこで品物を買うユダヤ人の嫌がらせなどを導いた。 ヘルツルが「政治外交路線」や「難民救済博愛路線」を取っていると批判して、ワイツマンの「実践シオニズム」がパレスチナに根を下ろして主流となり、やがてこれはベングリオンの「建国強硬路線」にとってかわられていく。 ベングリオンの指導のもとに、ユダヤ人の独立国家をつくる基盤は着々と準備された。彼はシオニスト労働党マパイの指導者で、労働総同盟代表、ユダヤ人代表機関議長を経て、やがて初代イスラエル首相になる。このマパイ、労働総同盟に基盤を持つシオニストの主流の潮流が、そののち長くイスラエルを牛耳ることになるのである。 これに対するもう一つのシオニズムの潮流のことにもふれておきたい。それは修正派シオニストである。これはジャポチンスキーに指導され、ユダヤの武装、パレスチナ人の追放、イギリス人との非妥協、ヨルダン川東西の岸を含む大イスラエル復活などを唱え、やがてベギン首相のイングルや、イツハック・シャミール(1987年の首相)のシュテルンなどの、ユダヤ人テロ組織を生み出していく。 |
【イスラエル建設の経緯−米英帝国主義の役割】 |
以下、「日本アラブ通信」より参照。パレスチナ問題の本質に迫る。 |
国連でのパレスチナ分割案を強引に通過させるにあって、アメリカ・シオニストの共同戦線は、「ユダヤ人の表」と「パレスチナ」との取り引きを国際的権威でとりつくらう為に国連を盛んに利用したのである。アメリカが今日でもよく使う伝統的常套手段である。 |
さて、ここで、アメリカ政府へのシオニストの働きかけの歴史を少し振り返ってみたい。すでに、1945年4月、ルーズベルト大統領が死んだあと、ハーリー・S・トルー
マンが大統領に就任した。シオニスト機構の指導者、ラビ・ワイズはただちにパレス
チナへの無制限の移民と同地におけるユダヤ人国家の創設というシオニストのプログラムへのトルーマンの約束を取り付けた。これは、アメリカにおけるシオニストの黄金時代の開幕を告げるものとなった。 この問題についてアラブの4大使がトルーマンに面談した時、トルーマンは次のように述べている。「みなさん、はなはだ残念ですが、私はシオニズムの成功を熱心に求めている数十万人の人々に応えねばならないのです。私の選挙区には、数十万ものアラブ人は住んでいないのです」。 同年、6月に国連憲章はサンフランシスコで50ヶ国によって調印された。ユダヤ人は公式のユダヤの代表の参加許可を得ようと努めたが、失敗した。 7月、トルーマン大統領は「”ユダヤ人難民”特に帰国が不可能と見なされている人々についての統計を彼に提供するために」パレスチナに派遣したG.ハリソン伯爵の 報告を受取った。ハリソンは、10万人の移民許可証をイギリス政府に養成したユダ ヤ機関の希望が実現されるよう勧告した。 8月31日、トルーマン大統領は、イギリ スのアトリー首相にユダヤ機関の希望に応えるよう要請した。事実、トルーマンはこ れを上回る要望の実現に努力するつもりであったとシオニストの指導者に語っている。 「私はあなた方からの20万人の許可証の入手を喜んで支持するつもりだったのに、 あなた方は10万人の許可証しか頼んでこなかった」。 12月、アメリカ議会は殆ど満場一致の投票で、アメリカにたいし、パレスチナが 経済的に吸収能力の範囲内で無制限にユダヤ人移民に開かれるよう、また民主主義的 な共和国がパレスチナに創設されるよう、委任統治国に協力するよう呼び掛ける決議を採択した。 イギリスのベバン外相は、パレスチナへの10万人の移民にたいする10万人のユダヤ人の入国に反対であると発表した。ベバンは記者会見で、アメリカは「ユダヤ人をニューヨークの中にとどめておきたくないため」パレスチナに10万人のユダヤ人 を入国させようと強大な圧力をかけていたと言明した。この発言はアメリカ内部に少なからぬ当惑を引き起こしたが、アメリカのユダヤ人通信員、マウリスゴルドブルームが指摘したように、「ベバン氏の攻撃は、それが幾らかの不愉快な真理ーーすなわちユダヤ人のパレスチナへの移民の最も熱心な共和党の支持者たちの多くのが、同じ程度にアメリカへの移民の制限の熱心な指導者であったことを明るみに出したため、 多くの人びとの怒りを買った」という。 ユダヤ人の票欲しさのために、アメリカの指導者がイスラエルの建国に手を貸したことが、今日のパレスチナの悲劇を生み出している。パレスチナ問題の根本的解決のためには、国連加盟国全体が人権の尊厳、諸民族の自決権を訴えた国連憲章の原則にかえることが必要ではないだろうか。長い目で見れば、パレスチナ人にもユダヤ人に も超大国の干渉から離れ、相互に尊重しあう平和共存を図る路を選ぶことを願う。ま たそれを支援するのが、国連加盟国全体の責任と思う。 (今回の記事は主として、1950年頃、レバノン、パレスチナでパレスチナ問題の PR活動や文化活動をしていたアラブ婦人情報委員会から発行させた小冊子『パレスチナ問題ABC』に基づく) ●中東を専門分野とするイギリス人の国際評論家、デイヴィッド・ギルモアは、豊富な当局側資料を駆使した著書『パレスチナ人の歴史──奪われし民の告発』の中で、この経過を次のように描きだしている。 「パレスチナの運命を決定したのは、国連全体ではなく、国連の一メンバーにすぎないアメリカだった。パレスチナ分割とユダヤ人国家創設に賛成するアメリカは、国連総会に分割案を採択させようと躍起になった。分割案が採択に必要な3分の1の多数票を獲得できるかどうかあやしくなると、アメリカは奥の手を発揮し、分割反対にまわっていたハイティ、リベリア、フィリピン、中国(国府)、エチオピア、ギリシアに猛烈な政治的、経済的な圧力をかけた。ギリシアを除いたこれらの国は、方針変更を“説得”された。フィリピン代表にいたっては、熱烈な分割反対の演説をした直後に、本国政府から分割の賛成投票の訓令を受けるという、茶番劇を演じさせられてしまった。」
大きな票田を持つ都市に集中するユダヤ人の票は、当時、戦局不利が伝えられていたトルーマンにとって勝敗を左右する重要な要素だった。このままでは共和党候補に敗北する、という危機感を抱いたトルーマンは、前言を翻し、国連決議案の支持に回った。これによって、翌年の大統領選挙では75%のユダヤ票を獲得し、きわどい差で勝利したのである。
●マスコミの連中がトルーマン大統領に聞いた。 トルーマン大統領はこともなげにこう言った。 このように、トルーマン大統領はユダヤ票欲しさに、イスラエル建国を支持するパレスチナ分割決議を推進したのである。 原爆投下といい、戦後の無秩序な核開発といい、イスラエル建国といい、彼は、自分の下した決定が、どんな深刻な悲劇を生み出すのか、あまり深く考える男ではなかったようだ。(ちなみに、トルーマンは父方がユダヤ系である)。 |
【イスラエル建国考】 |
国連の大失態ーーパレスチナ分割案 日本人ばかりでなく世界の多くの人びとは、イスラエルが国連に加盟していると言う単純な理由から、イスラエルは合法的国家だと考えている。それは果たして正しい であろうか? しかし、日本人にとってイスラエル建国当時のいきさつを知ることがで きなかったのが現実である以上、これも一面やむを得ないと言えよう。 当時のシカゴトリビューン紙で、「国連最悪の日」と報道されているように、10 0万人をこえる住民を無視してある一国の分割を国連が勧告した1947年という年は、世界各国がまだ、あの悲惨な第2次大戦の余波から立直っていなかった時代であった。日本では、片山内閣の時代で、食糧難がまだひどく、人々はその日その日を生き抜くことが精一杯の頃であった。「パレスチナ分割案、国連で可決」といった記事は、タブロイド2頁立の当時の朝日新聞に僅か2段見出しで報道されたに過ぎなかった。 日本人にとってパレスチナ問題の持つ意味がわからないのも当然と言えよう。 この分割案は、もともと総会の3分の2の賛成が得られず、死文化する運命にあっ たのであるが、アメリカにおけるシオニストの圧力によりその投票は、最初48時間、 続いてまた24時間と2回も延期され、その間に小国への圧力工作が執拗に行われて 辛うじて可決されたのであった。アジアではフィリッピン1国、アフリカではリベリ ア、南アフリカ連邦の2国がアメリカの脅迫のもとに賛成したにすぎなかった。この 分割案の強行裁決は、この頃からすでにアメリカの下請け的投票機械の域を出ていな かった「暗い夜の時代」であったことを物語る。 当時のアメリカ国防長官、ジェームズ・フォーレスタルは「国連において他の諸国を 強制したりするために.........これまで用いられてきた方法........は、殆どスキャ ンダルすれすれであった」と彼の有名な「フォーレスタル日記」の中で書いている。 国連総会の勧告の合法性は、民族自決の原則が尊重された場合にだけ成り立つもの であった。これと関連して、二つの仮説が考えられねばならない。第一の仮説としては、勧告を行なうに先立って国連総会は国民投票の手段でパレス チナ人の同意をとりつけることができた筈であった。しかし、この国民投票は行なわ れなかったばかりか、さらに国際司法裁判所にこれに関連する国連の権限について助 言を与えるべきだという提案されったが、拒絶されてしまった。国民投票を抜きにした場合においては、民族自決とパレスチナの領土保全の尊重とは、せいぜい少数民族としてのユダヤ人共同体の権利が保証されるべきだと言う勧告 を決議することであった。分割決議によってユダヤ人国家を創り、国連はこの国家に 国際的地位を与えることをによって、一つの社会的共同体の単なる保護以上のことをやってのけた。この行為によって、国連は(民族自決という)国連憲章の重大な侵犯をしてしまっている。(『パレスチナ問題』亜紀書房発行 37頁)。しかし、とにかく、国連のパレスチナ分割案が、シオニストの筋書き通 りに可決されたのは、たとえそれが法的効力を持たぬ勧告に過ぎないものであっても、シオニストにとって大勝利であった。というのは、この分割案によって、ユダヤ人の国家に与えられたのは、パレスチナの55%の国土であった。それまでに1880年から1947年までかかって7%ほどの土地しか購入できなかったのに比べれば、この55%という数字はまさにそれ以前の8倍の領土を一挙に獲得したことになる。しかもこの分割案では、灌漑できる土地の83%を含む海岸地帯や高原地帯の肥沃 な土地がユダヤ人国家に与えられ、またアラブ人の工業の約40%は「ユダヤ人国家」 に割り当てられる反面、ほんの僅かなユダヤ人工業が「アラブ人国家」に残されるという、いたれりつくりの分割案であった。 しかし、シオニストにとっては国連分割案の可決もまだ紙の上での勧告案にすぎなかった。ベン・グリオンは、国連がその勧告を引っ込められないうちに、分割案を規 制事実としてしまうために武力行動を励ました。はたせるかな、分割案に可決に激昂したパレスチナ住民の激しい反対運動に刺激さ れて、このパレスチナ分割案を一たん通過させるのに全力を上げたアメリカ自身が、 1948年3月20年突然国連で分割案を放棄して、パレスチナの国連信託統治の提案をすると言う180度の方向転換をおこなった。 パレスチナ人学者のサミハダウィは、この不思議なアメリカの豹変は、国連での討議がパレスチナ問題の持つ重要性に慎重な考慮を払っていなかったこと、アメリカ国 内の政党政治の道具に供せられていたことによるによるものであるが、それはパレス チナ人が新たな事態に気づき、その陣容の整備にあたる以前に、シオニストたちにパ レスチナを奪取させてしまうことを意図し、けしかけたと指摘している。一般にいわれるようにパレスチナ難民の発生は、アラブ諸国の介入によるパレスチ ナ戦争のぼっ発によるのではなく、1948年5月15日の委任統治領終了時には、 すでにイスラエルの軍事組織によって難民の半分に近い40万人のアラブ人をその家から追い出していたことによるのである。 |
シオニズム運動がイスラエルを建国したあと、自分たちで「ユダヤ人」の定義を考える必要が生じた。イスラエル国樹立宣言で「イスラエルは、ユダヤ人の移民と離散者の集合のために門戸を解放する」と言うときの「ユダヤ人」は誰を指すのか、またイスラエルでは憲法と同じ働きする「帰還法」で「すべてのユダヤ人はこの国に移住する権利を持つ」と言うときの「ユダヤ人」をどう定義するのかということが大問題になっていくのである。 ポーランドのユダヤ系住民のオスワルド・ルフェイセンはナチスに追われて森のなかの修道院にかくまわれた。そこで彼はキリスト教徒に改宗しダニエル神父となる。その後バルチザンの活動を通じて、彼はユダヤ系社会で英雄となった。彼は自分が、「ユダヤ民族」に属しているキリスト教徒なのだと考えていた。そして自分が「約束の地」と強く結びついていると信じていたのである。そしてやがて彼は1958年にイスラエルに渡り、「帰還法」の適用を求めた。イスラエル市民権を獲得しようとしたのである。「イスラエルは騒然となった。”キリスト教徒のユダヤ人”など言語道断だというのである」。こうして、「ユダヤ人はユダヤ教徒でなければならないのか」と言う問題が裁判で争われた。それならイスラエルの「ユダヤ人」のほとんどがユダヤ教を信じてない、と言う問題をどうするのか。しかし判決は「ルフェイセンはユダヤ人ではない」というものだった。これは「ユダヤ人」が民族的存在であるという定義が、宗教的存在であるという定義に敗れた例である。(「正太郎のイスラエルを調べよう」) |
(私論.私見)