パレスチナ問題を解くための歴史5、近世史篇その1

 更新日/2022(平成31.5.1栄和/令和4).3.21日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 19世紀後半になると、西欧ではキリスト教の影響力が減退するにつれて、ユダヤ人の社会的地位が向上して行く。その中で、1743年にドイツのフランクフルトで生まれたマイヤー・アムシェル・ロスチャイルド(ロスチャイルド1世)の動向が注目される。ある意味で、その後の歴史は、「ロスチャイルド革命」に入ったと看做しても差し支えない。ロスチャイルド1世は、人類史にそれほど大きな影響を与えていくことになる。案外このことがこのこととして指摘されていない。

 「ロスチャイルド革命」の懐は深い。1・土着の諸国家・王朝に対しては金融支配を通じての政府中枢コントロール、2・基幹産業ないし資源及び将来的有望事業全般の支配、3・シオニズムによるイスラエル国家創出と大イスラエル帝国の野望、4・国際グローバル化促進。その流れに与する立場からのマルクス主義運動への肩入れとコントロール、5・ワンワールド化促進。これらのいずれもが、「ロスチャイルド革命」の青写真に映じていた。してみれば、ロスチャイルド1世こそ以降の歴史創造の仕掛け人と云えるだろう。

 問題は、その「ロスチャイルド革命」の正邪であろう。必要にして合理性があるのか、遣りすぎなのか、狂人の白昼夢なのか、その見極めが肝心だ。

 2005.3.20日 れんだいこ拝


1700  ルイ14世時代のフランスのパリに入り込む。
1708  イタリア人司祭シドッチ、日本に上陸。翌年、新井白石の尋問を受ける。
1721  ピョートル1世がモスクワ総主教庁廃止。
1727  ロシアからユダヤ人追放。
1730  ニューヨークに公認シナゴーグが建設される。
1734  ニューイングランドで大覚醒が起きる。アメリカで第一次大覚醒(リバイバル)が起こる。
1739  メソディスト派(ジョン・ウェスレー)が誕生する。
1743

 マイヤー・アムシェル・ロスチャイルド(ロスチャイルド1世)がドイツのフランクフルトで生まれた。彼は少年時代にユダヤ教のラビとして教育され、商人であった父親からは商売を仕込まれた。最初、ハノーバーの「オッペンハイム銀行」に見習いで入ったが、やがて独立して両替屋である「フランクフルト・ロスチャイルド商会」を営む。

 26歳の時に、フランクフルトの領主であるヘッセン侯爵家のウィリアム皇太子(のちのウィリアム9世)に金貨を売ったことがきっかけで御用商人に登録され、そのうちにヘッセン侯爵家の財政や国際的な資金調達の仕事に深くかかわるようになり、「宮廷ユダヤ人(ホフ・ユーデン)」の一人となった。

 ハプスブルク時代に金融力によって宮廷ユダヤ人(ホフ・ユーデン)となり、本来ならユダヤ人が絶対にもらえない「男爵位」を得た。ユダヤ金融資本のシンボルとなり、世界に散らばったユダヤ人の力が全てロスチャイルドに糾合された。このファミリーは無数に婚姻しており一大閨閥をも為している。その様は、シェークスピアにも悪く書かれた“ユダヤ商人”たちの面貌を備えている。彼らには国境はないに等しく、まさしく世界をまたにかけた商売をしている。(「ロスチャイルド考」)

1744  スロバキア、モラビア、ボヘミアがユダヤ人、ユダヤ金融追放。
1747  ロシアからユダヤ人追放。
1755  ニューイングランド経験主義哲学が始まる。
1772  ジョン・ニュートン、「アメイジング・グレイス」作詞。
1775  アメリカ独立戦争が始まる。
1776  アメリカ合衆国が建国される。
1777  朝鮮で、西学研究者による、宣教師の布教を介さない自発的なキリスト教共同体形成。
1781  ドイツで信仰寛容令が布告され、修道院が閉鎖される。
1784  リチャード・レイクスが日曜学校を始める。
1784  李承勲(イ・スンフン)、平壌に朝鮮初のキリスト教礼拝所を作る。
1785

 ヘッセン侯爵が亡くなり、その子ウィリアム9世が4000万ドルもの財産を相続する。これは当時のヨーロッパで最大の私有財産と言われている。更にウィリアム9世は、自国の国民を全ヨーロッパの君主に「傭兵」として貸し付け、莫大な富に莫大な利益を加算させていった。その背後にロスチャイルド1世がいた。

 アメリカで政教分離法と宗教税禁止法が施行される。
1789  「自由・平等・博愛」を掲げるフランス革命が勃発する。国王派とみなされた聖職者や修道士多数が迫害される。キリスト教弾圧される。
1790  フランス革命により、「ポルトガル系」ユダヤ人市民権を得る。
1791  フランス革命により、「ドイツ系」ユダヤ人市民権を得る。
1791  フランス革命から2年後、 「自由・平等・博愛」を掲げるフランス議会はユダヤ人に平等の権利を認め、法的にユダヤ人差別の撤廃が決定された。これはユダヤ史上、画期的な出来事であった。

 ナポレオンがその人権宣言を基に、ユダヤ人を隔離してきたゲットーを解体解体し始める。すると、その潮流はヨーロッパ各国に広がっていき、世界的にユダヤ解放政策が行なわれた。伝統的に教育を重視するユダヤ人は、それまでのゲットーでの隔離生活から解き放たれると、水を得た魚のように爆発的に各界に進出し勢力を得ていくことになった。
解放されたユダヤ人たちは一世代のうちに、政治家、将軍、前衛的な知識人・芸術家となる。
 (この時代のれんだいこ解説)
 西欧は、自由、博愛、平等を詠ったフランス革命以降、近代社会を開花させた。この流れは長い間封建制社会の下で不自由を強いられてきたユダヤ人の社会的政治的地位の上昇をもたらすことになった。

 中世期の長いあいた、ユダヤ教を信奉するユダヤの民は、流浪はしていても生活習慣を変えようとはせず、土着の文化と交じり合う事を拒絶する傾向にあった。ヨーロッパ各国とユダヤの民との抗争史は歴史的に根深く、反セム主義傾向にあった。ヨーロッパ各国がキリスト教国家として形成されて以来、イエス・キリストを磔に追いやった民族であるとして排斥する意識が加わり、公民化の道を閉ざしてきた。その為、ユダヤ人は、土地所有も不自由で、医師、弁護士、芸術家などの頭脳労働職や金融業に就業し、いわば一種「よそ者扱いの民」を余儀なくされていた。

 この均衡が、中世ヨーロッパでの十字軍の遠征によって破れ始めた。突如、キリスト教徒が「聖地奪還」を叫び行動に移したところからイスラム教徒との宗教戦争が勃発した。これがイタリア・ルネサンスを生み、そのルネサンス運動が西欧のキリスト教国に拡がり、各国の支配権力を揺るがしていくことになった。この波に、それまでゲットーに閉じ込められていたユダヤ人達の政治意識を覚醒させた。ユダヤ人は次第にゲットーから自由になり、社会的進出を進めていった。

 ところが、ユダヤ人の社会的進出は却って紛争をあちこちに生んでいくことになった。魔女狩り、異端狩り、テロと虐殺、アンチセミティズム(反ユダヤ主義)がこのユダヤ人の社会的進出に関わって引き起こされている。ロシアや東欧ではユダヤ人の排斥(ポグロムと呼ばれる)が激増する。

 この時、ユダヤ社会は二つに割れた。ユダヤ人は二つの選択肢の岐路に立った。一つは、独特の教義を捨て、それぞれの国の国民として同化の道を辿るべきだとする同化主義により当該国家の市民化を目指そうとしていた。これは、ユダヤ人は民族としては最早存在せず、ユダヤ教を精神のあり方を律する宗教としてのみ受け入れ、それぞれの国の中に同化し、その国の市民として平等の権利を享受しながら、その国家に貢献する道であった。ユダヤ人の同化運動の系譜から社会主義思想が生み出されていくことになり、労働運動と結合することにより社会の根本的変革思想へ辿り着いたのが正統マルクス主義とみなすことができる。この思潮及び運動が19世紀から20世紀にかけての主流となっていくが、ロスチャイルドのネオ・シオニズムの指揮下でのマルクス主義も発生しており、非常に複雑になる。

 もう一つの道は、反同化主義であった。反同化主義は、あくまで教義の純潔を護りつつ市民的権利の獲得を目指そうとしていた。しかし、時流は、同化主義であった。つまり、この時期、ユダヤ人社会が大きく揺れていたことになる。

1792  ウイリアム・ケアリがバプテスト伝道協会を設立する。合衆国憲法修正箇条により、信教の自由と、国教制度の否定が明記される。
1793
 ウィリアム・ケアリ、インド宣教。
1798  フランスの皇帝ナポレオンがエジプトに遠征。エジプト全土を支配下に置く。目的はイギリスと当時イギリスの植民地だったインドとの間に楔を打ち込む為だった。ナポレオン、パレスチナ侵攻に失敗する。
1799  イギリス国教会宣教協会が設立される。
1801

 イヤー・アムシェル・ロートシルト(ロスチャイルド1世)がヘッセン侯爵家の「銀行事務弁理人」に任命される。当時のヨーロッパ最大の資本国の金庫の管理を任された。

1801  フランス、ローマ教皇コンコルダート(政教条約)を締結。フランスにカトリックが復活する。
1804  ナポレオン1世がローマ教皇より戴冠されフランス皇帝に即位する。
1804

 ロスチャイルド1世には5人の息子がいた。それぞれをヨーロッパ列強の首都に派遣して次々と支店を開業させ、それぞれがロスチャイルドの支家となった。三男ネイサン(ロスチャイルド2世)は1804年にロンドンに派遣され、そこで支店「ロンドン・ロスチャイルド商会」を出した。次男サロモンはウィーンに、五男ジェームズはパリに、四男カールはナポリに支店を開業し、長男アムシェルはフランクフルト本店に残った。彼ら5人の息子はそれぞれの国の政府と癒着して“貴族”の称号を得て、政治的にも活躍し、今日の“ロスチャイルド金権王朝の基礎を作った。

 パリの五男とウィーンの次男は協力して、ヨーロッパ全体をカバーする通信と馬車輸送のネットワークを作り上げた。そしてそこから誰よりも早く得られる情報を利用して、ロンドンの三男が金や通貨の投機をして大儲けするという兄弟ならではの連携プレーをし、今日の“多国籍金融ビジネス”の原型を作り上げた。

 イギリス聖書協会が設立される。
1805  マケドニア生まれのアルバニア人傭兵隊長モハメッド・アリが、ナポレオン遠征の混乱に乗じエジプト総督に就任する。1811年に支配権を確立し事実上の独立を果たす。アリはフランスの援助を受け、エジプトの近代化と富国強兵策を進める。
1806

 ナポレオン1世のヨーロッパ遠征により、フランクフルトのウィリアム9世は領土を放棄しなければならなくなった。ロスチャイルド1世はこの時、その巨万の財産を安全に保管するよう命じられて、それを安全地帯であるロンドンに送って息子に管理させることとなった。このヘッセン侯爵家の財産こそロスチャイルド家の巨万の富の出発点となった。

1806  神聖ローマ帝国が崩壊する。
1807  ウィルバーフォースが奴隷売買廃止運動を開始。
1808  アメリカで奴隷貿易が禁止される。
1810

 ロンドン証券取引所の支配者フランシス・ベアリングが亡くなり、ロスチャイルド家ロンドン支店の三男ネイサン(ロスチャイルド2世)が新しい支配者となり、「世界一の金融王」として台頭した。

 アメリカン・ボードが設立される。
1811  N・Mロスチャイルド&サンズ銀行設立。
1814  東インド会社のインド貿易独占権が廃止されると、ロスチャイルド家が利権支配するようになった。
1815  ロスチャイルド2世が通信網を駆使し、ナポレオンのワーテルローでの敗北をネタにして「ナポレオン勝利」のニセ情報をイギリスにタレ流し、大暴落した株を買いまくった。証券取引所が午後に閉まった時、彼は取引所に上場されている全株の62%を所有していたという。そして後に「ナポレオン敗北」という真情報が公になり株が急騰したとき、彼は300万ドルの自己資産を75億ドル、すなわち2500倍に増やしたとも云う。ちなみにこの日、イギリスの名門の多くが破産した。
 ロスチャイルド2世の死後、五男のジェームズ(パリ支店)が当主をついでロスチャイルド3世となった。
1816  アメリカ聖書協会が設立される。
1819

 ユダヤ人文化科学協会が創立される。

1827  イギリスで審査律が廃止される。
1828  アメリカで反ロスチャイルド派のジャクソン上院議員が大統領に就任。
1830  フランスがアルジェリアを支配。
1830  デービッド・サッスーンが中国、香港地域のアヘン貿易独占を認可され、その利益がロスチャイルド家とイギリス王室にもたらされることになる。
1830  ジョセフ・スミス、モルモン教を創始。
1832 ~1840、Muhammad 'Ali Pasha of Egypt occupies Palestine. Ottomans subsequently reassert their rule.
1832  アメリカでジャクソン大統領がロスチャイルド系第二合衆国銀行の認可更新を拒否。11月、ジャクソン大統領が地滑り的勝利で再選される。
1833  オックスフォード運動。
1833  アメリカでジャクソン大統領が、政府預金をロスチャイルド家の支配する第二合衆国銀行から独立系銀行に預け換えした。
1835  ロックフェラー家は石油業がきっかけで成長したが、ロスチャイルド家は銀行業がきっかけであった。ロンドン支店はあくまでも金融中心に発展を遂げていった。それに対してロスチャイルド3世のパリ支店は金融だけではなく、やがて新しい交通手段として登場した鉄道の将来性に着目して鉄道事業に進出し、「ヨーロッパの鉄道王」としてそれを支配した。

 また南アフリカのダイヤモンド・金鉱山に投資し、更にはロシアのバクー油田の利権を握って「ロイヤル・ダッチ・シェル」をメジャーに育て上げるなど、情報・交通・エネルギー・貴金属を中心とした実業中心の膨張を遂げていくこととなった。

1835  アメリカでジャクソン大統領が国債を完済。
1836  アメリカでジャクソン大統領が、第二合衆国銀行の認可の更新を認めず、アメリカから締め出す。
1836  7.28日、ネイサン・マイヤー・ロスチャイルドが急死する。
1837  ギュツラフによる日本語聖書の作成。
1839  オスマン・トルコ帝国が、ユダヤ人に市民権を与える。
1839  中国の清の道光帝がアヘンの禁輸を命じ、取締官に林則除を命じて広東に送り、サッスーンのアヘン2万箱を投棄させた。、これによりアヘン戦争が始まった。清は敗北し、1842年、南京条約が締結された。その結果、「清に於けるアヘン売買の合法化」を認めさせられることになった。
 チャーティスト運動。
1843  ニューヨークのユダヤ人が、フリーメーソンロッジとしてブナイ・ブリスを結成する。部内
1844  YMCAが設立される。
1845  第7代米国大統領ジャクソンが逝去する。
1846  福音主義連盟(現世界福音同盟)が設立される。
1846
 ベッテルハイム来日、聖書を翻訳。朝鮮人司祭・金大建、殉教。
1848  マルクス、エンゲルス共著「共産主義者の宣言」が発表される。
1849  キリスト教社会主義運動が始まる。
1850  イギリスのユダヤ人モンテフィオーレ卿が、エルサレム城外のユダヤ人定住地に援助を与える。エルサレムの城壁外に初めてのユダヤ人居住区「イェミン・モシェ」が建設される。
1851  中国で太平天国の乱。(キリスト教の影響を受けた洪秀全による革命運動。~1864)
1854  カトリック教会が聖母無原罪の教義を決定。日本、開国。
1856  イギリスにユダヤ大学が創立される。
1858  ライオネル・ロスチャイルドが決まりのキリスト教的宣誓を拒否したままユダヤ教式宣誓による初のイギリス議会議員に就任した。
1858  ルルドの聖母顕現。
1859  プロテスタント各派、日本宣教開始(ヘボン、フルベッキら)。チャールズ・ダーウィンが「種の起源」を著す。
1859  シナイ写本が発見される。
1860  世界イスラエル民族連盟(世界ユダヤ連盟結成。本拠はパリ)が創設される。
1861  アメリカで南北戦争始まる。
1861  ロシア正教宣教師ニコライ来日。
1862

 ロスチャイルド家を訪問したナポレオン3世と金融提携。

1862  ドイツ系ユダヤ人、モーゼス・ヘスがその著書の中で、祖国再建によりユダヤ人のエルサレム帰還を説く。但し、さほど注目されなかった。
1864  教皇が「誤謬表」を発表して、近代思想を非難する。フランス聖書協会が設立される。大浦天主堂建設。
1865  長崎の信徒の発見。(250年以上の禁教時代に信仰を守り通した隠れキリシタンが、フランス人宣教師に発見される) ロバート・トマス、朝鮮で最初のプロテスタント殉教者。ハドソン・テーラーが中国奥地伝道会(現在のOMF)設立。 ウィリアム・ブースが救世軍設立。
1866  朝鮮に密入国したフランス人司祭とカトリック信徒ら処刑(丙寅教獄)。フランス、報復攻撃をするが朝鮮軍これを撃退(丙寅洋擾)。
1867  浦上四番崩れ(長崎で発見されたキリシタン弾圧)。マルクス「資本論」を著す。
1868
 明治政府、「五傍の掲示」でキリスト教禁止。ニコライの洗礼により、日本人初の正教信徒誕生。バハーウッラー(バハイ教開祖)、アッコーに流刑。
1869  フランスの指揮のもとスエズ運河が開通し、地中海とインド洋を結ぶ要となった。
1869  第1回ヴァティカン公会議が教皇無謬説を宣言する。
1870

 ロスチャイルド家がバチカン融資を開始し、ロスチャイルド家がカトリック教を金融支配するという事態になった。

1870  チャールズ・ラッセル、「聖書研究者」(現在の「エホバの証人」)創始。
1870  バチカン公会議が開かれ、教皇不謬性を宣言。
1871  ドイツで体制側とカトリック教会側が対立し、文化闘争が行われる。教皇無謬説が原因でドイツの一部のカトリック教会が復古カトリック教会として離脱する。ドイツ帝国成立により、ユダヤ人市民権獲得。
 ドイツのプロシアとフランスの間で戦争が始まる。
1872  横浜で日本初のプロテスタント教会「日本基督公会」設立。(横浜バンド)
1873  日本でキリシタン禁制の高札が撤去される。教皇無謬説に反対したカトリック諸教会、「復古カトリック教会」として離脱。
1875  エジプトは財政難のためスエズ運河会社の株(全て!)をイギリスに売却、イギリスがスエズ運河株式会社の株を買い占め、支配者となった。ロスチャイルド資本の融資によってイギリス政府がスエズ運河会社最大の株主となり、ロスチャイルド家はイギリス政府&ヨーロッパ王室との癒着を更に深めていった。
 (スエズ運河の英国所有に関するれんだいこ解説)
 こうして、スエズ運河は、エジプトのなかにありながら主権の及ばない地域となった。その背景にはイギリスの植民地政策があり、インドへの最短通行の確保の為に運河の安全を確保したいという狙いがあった。その他、メソポタミア北部に発見された油田からのパイプラインの出口として地中海沿岸の権益を確保するという事情があった。

 この頃、燃料が石炭から石油に切り替わる移行期であり、石油の確保が植民政策の重要な柱になりつつあった。19世紀の後半になると、ヨーロッパ列強諸国が、世界中を植民地化しようと、触手をのばし始める。してみれば、帝国主義の発生過程はこの辺りから論ぜねばならないように思える。

1876 ~1877、Palestinian deputies from Jerusalem attend the first Ottoman Parliament in Istanbul, elected under a new Ottoman Constitution.
1876  熊本洋学校の生徒ら(金森通倫、海老名弾正、徳富蘇峰ら)、信仰を誓約。(熊本バンド)
1876  エジプトの国家財政は破綻しイギリス、フランスなどの欧州各国の財政管理下に置かれることになる。
1877  クラークの感化を受けた札幌農学校の生徒ら(内村鑑三、新渡戸稲造ら)、信仰を誓約。(札幌バンド)
1878  The first modern Zionist agricultural settlement of Petach Tiqwa established (click here to learn more about Zionist and its impact on the Palestinian people).
1879  日本聖書協会が設立される。
1880  日本語訳新約聖書出版。(明治元訳)

【「アンチ・セミティズム」発生考】
 「★阿修羅♪ > 戦争a8」のはちまき伍長氏の「『アンチ・セミティズム』を発明した男:「近代反ユダヤ主義の開祖」はユダヤ人だった」を転載しておく。
 Whatreallyhappend.comからリンクされていたブログ記事です。

 1879年、はじめて「anti semitism」という言葉を作り出し、「反ユダヤ主義者同盟」なる団体を立ち上げたヴィルヘルム・マルというドイツ人ジャーナリストが実はユダヤ人だったという話です。この「反ユダヤ主義者同盟」は「ユダヤ人を全部パレスチナに追放しろ」という主張をしていたそうです。シオニズムの歴史を1896年のテオドール・ヘルツルの著書『ユダヤ人国家』から説き起こす人がいますが、もちろん政治的シオニズム運動はもっと早くから始まっています。フランスのロスチャイルド男爵がユダヤ人入植運動に資金援助を始めたのは1882年ですし、パレスチナに最初のシオニスト入植地ができたのは1878年でした。


 Wilhelm Marr "The Patriarch of Antisemitism" was a "Jewish Renegade" says B'nai B'rith

 The term "antisemitism" was coined by Wilhelm Marr in 1879. Marr's secular, political racism existed inconsistently alongside his religious anti-Semitism.

 His self-proclaimed goal was "to free Christianity from the yoke of Judaism."

 "Russia is the last defence against the Jews, and its surrender is only a matter of time. The elastic spirit of Jewish intrigue will crush Russia in a revolution, such as the world has never seen the like.

 When it has overthrown Russia, it will have nothing to fear from any quarter; when it has seized in Russia all the offices of state as it has done with us, then the Jews will openly undertake the destruction of western civilization, and this "last hour" of condemned Europe will strike within a hundred or a hundred and fifty years at the latest, since the march of events moves more rapidly in our era than in preceding centuries."

 Wilhelm Marr Der Sieg des Judentums über das Christentum 1879

 Wilhelm Marr coined the word "anti-semitism" circa 1879 in the pamphlet from the which the above quote was extracted, assuming that it's an accurate quote (if it is, it's almost prophetic).

 He was given the sobriquet "The Patriarch of Antisemitism" by Israeli historian Moshe Zimmermann in Zimmerman's 1980's biography of Marr.

 The Anti-Defamation League (ADL) of B'nai B'rith calls him an "anti-Jewish German journalist" who "helped push "the Jewish question" to the center of German politics."

 Marr was also the founder of the League of Anti-Semites in Germany.

 However, ALSO according to B'nai B'rith in their 1926 manual, he was a "Jewish renegade", sharing the same label thrown on Spinoza, Alfred M. Lilienthal all other manner of unmentioned Jewish unpersons:

 Quote:

 At this time, a Hamburg journalist, Wilhelm Marr, issued a sensational pamphlet, "The Victory of Judaism over Germanism" (1879), calling for the defense of the "vanquished" against their "conquerors." It is through the writings of this Jewish renegade that the term anti-Semitism was coined, "expressing antagonism to the social and political equality of Jews."

 The pamphlet of this otherwise obscure writer fell on fruitful soil. It harmonized with the raging national jingoism that had mounted skyhigh with the unification of Germany and that had aimed at the creation of a unified racial and religious body of German citizens.

 Source:Jewish Reference Book: B'nai B'rith Manual

 Edited by Samuel S. Cohon Cincinnati, Ohio 1926 pp. 287-88


1880  1880-1925年の間にアメリカへ400万人のユダヤ人が移住していった。
1880

 ロスチャイルド家が世界三大ニッケル資本の1つである「ル・ニッケル(現イメルタ)」を創設。

1881  フランスがチュニジアを占領。ロシアで「ポグロム」と呼ばれるユダヤ人大虐殺事件が波状的に発生(~1884)。ユダヤ人十数万人が犠牲になる。エリエゼル・ベン・イェフダー、パレスチナに帰還。日常言語としてのヘブライ語復活に向けて活動を続ける。
1881
 19世紀初頭から、ドイツを中心に反ユダヤ暴動が起こっているが、これはユダヤ人を諸悪の根源とみなす過激な反ユダヤ主義運動にまで発展し、1870年代頃から顕著になってきた。ロシアでは1881年から「ポグロム」と呼ばれるユダヤ人大虐殺事件が波状的に起こり、十数万人がその犠牲になった。 ~84年まで、ロシアとポーランドでポグロム(ユダヤ人の大量殺戮と略奪のことをロシア語で「ポグロム」という)と呼ばれるユダヤ人排斥運動が発生。

 この事件の原因は皇帝アレキサンドル二世の暗殺事件で、実行した革命集団に一人のユダヤ人女性が関与していたことによる。ポグロムは4年間続き、襲われた地域は100カ所を越えた。ロシア政府はポグロムを抑え込むどころか、数万のユダヤ人を虐殺する民衆に経済的支援さえ与えている。政府は、ポグロムが、圧制への民衆の不満のはけ口になることを望んでいたためである。

 ロシアおよび東ヨーロッパではくり返しポグロムが発生し、その厳しさから逃れるため、1881年から1914年までの約30年のうちに、200万人を越えるユダヤ人が主としてアメリカに移住した。ユダヤ人の台頭が西欧社会に危機感をもたらしていく。民族主義の興隆とともに、ユダヤ人を自分たちの国から排除しようとする強烈な反ユダヤ主義勢力(ナチスなど)が台頭するという事態をも生み出すことになる。
1881

 ロスチャイルド家が亜鉛・鉛・石炭の発掘会社「ペナローヤ」を創設し、スペインからフランス、イタリア、ギリシア、ユーゴスラビア、北アフリカ、南アフリカまで事業を拡大している。

1882 ~1903、First wave of 25,000 Zionist immigrants enters Palestine, coming mainly from eastern Europe.
1882
Baron Edmond de Rothschild of Paris starts financial backing for Jewish settlement in Palestine.
1882  イギリスがエジプトを支配。
 平等と自由を求める「ホバベイ・ジオン」や「ビールー」という団体に組織されたユダヤ移民の第一波がパレスチナに到着。第一次アリヤー(ロシア・東欧からユダヤ人帰還)
1882  第一回目のユダヤ人イスラエル帰還。1882年以来、ロシアではユダヤ人の虐殺(ポグロム)の嵐が吹き荒れていた。西欧に経済的・政治的影響力を持つユダヤ系大資本家ロスチャイルドの指図で、主として東欧のユダヤ人がパレスチナに送り込まれ、この人々は約20のコロニー(集団居住地)をつくった。
1884  朝鮮で定住宣教師によるプロテスタントの宣教始まる。
1885  長老派、朝鮮に培材学堂(現在の培材大学)創設。
1886  メソジスト、朝鮮に梨花学堂(現在の梨花女子大学)創設。
1887  -1888、Palestine divided by Ottomans into the districts (sanjaks) of Jerusalem, Nablus, and Acre. The first was attached directly to Istanbul, the others to the wilayet of Beirut.
1887  日本語訳旧約聖書出版。(明治元訳)
1888

 ロスチャイルド資本によって世界最大のダイヤモンド・シンジケートである「デ・ビアス社」を創設。更に、南アフリカ最大の資源開発コングロマリットである「アングロ・アメリカン」=オッペンハイマー財閥と提携した。今さら言う事でもないが、つい最近まで南アフリカを騒がしていたアパルトヘイトの真犯人はロスチャイルド家の代理人たちであった。

 (ロスチャイルド財閥に関するれんだいこ解説)

 19世紀末にはロスチャイルド家が「世界最大の財閥」にのし上がった。とりわけ、非鉄金属を中心とする資源の分野への進出ぶりは目覚ましいものがあった。20世紀は重化学工業の世紀であり、そこでは非鉄金属や石油を含む地下資源を押さえたものが世界を制するという大戦略が国家規模で発動され、ロスチャイルドのビジネス戦略と密接に連動して動いた時代でもあった。

 20世紀末期を迎えている今、ロスチャイルド財閥はもはや単なる一財閥ではなくなった。現在、パリ分家とロンドン分家を双頭とするロスチャイルド財閥は、金融と情報という21世紀の主要メディアを支配し、また、そのあり余る力をアフリカ大陸をはじめ、全世界の金やダイヤモンドやウランをはじめとする地下資源の確保に注ぎ込む、巨大な先端企業連合体でもある。現在、世界最大最強の巨大財閥を誇っている。

 ロスチャイルドは、現代文明をリードしてきたという強い自負を持っている。彼らの文化的事業は非常に国際的でアクティブである。映画産業界、ファッション業界は言うに及ばず、各種国際研究所、ノーベル財団などなどという学術面においても、全く輝かしい業績を挙げている。彼らのビジネスは、国際政府機関&各国の王室&国際報道機関&国際諜報機関などと密接に結び付いている。世界中にのさばっている“死の商人(兵器商人)”の多くは、ロスチャイルド財閥と何かしらの関係を持つ者たちであることは事実である。戦争あるところにロスチャイルドの姿ありと言われている。してみれば、帝国主義の発生過程はこの辺りから論ぜねばならないように思える。


1888  ロシア系ユダヤ人のレオン・ピンスケルが、著書「自力解放」の中で、祖国再建によりユダヤ人が安心して暮らせる「故郷」の必要性を説く。但し、あまり注目されなかった。
1890  「シオニズム」という名称が使われ始め、エルサレム(ユダヤ人の間では「シオンの丘」)に、ユダヤ人国家を再建しようという運動が始まる。
1890年代頃  反ユダヤ主義を煽る偽書「シオン賢者の議定書(プロトコール)」が出回り始める。
1891

 英・仏の内政支配に我慢ならなくなったエジプトの軍人アラビ・パシャ率いる軍が蜂起。イギリスが単独でこれを鎮定、イギリスはこれを口実(?)にエジプトを「保護国」とし、支配することになる。

1891
 内村鑑三、教育勅語への最敬礼を拒否して教職を追われる(不敬事件)。
1891  モスクワとペテルスブルグからユダヤ人追放。ユダヤ人モレヒバが「シオンを愛する人々」を創立。
1892  「シオンを愛する人々」の理論的指導者ピンスケルが、「自力解放」に共鳴して、パレスチナに最初のユダヤ人コロニーを成立させる。

【ドレフェス事件】「反ユダヤ主義」菅野賢治「ドレフュス事件史再考」その他参照)
 1894.12月、フランスで“ユダヤ禍”を宣伝した「ドレフュス事件」発生。フランスの陸軍参謀将校(大尉)にしてユダヤ人であったアルフレッド・ドレフェス(1859-1935)が、ドイツに軍事機密を売り渡したとの容疑で逮捕され、軍法会議にかけられた結果、軍法機密漏洩罪で有罪(終身刑?)を宣告されるという事件が起こった。パリ駐在ドイツ武官シュワルツコッペンが所持していた売り渡し機密の明細書の文字が、筆跡鑑定でドレフェスのものと判定されたのが、有罪の根拠であった。これが、世に云う「ドレフュス事件」の始まりである。

 愛国主義的反ユダヤ主義系新聞がすぐさまこの事件を取り上げ一大キャンペーンを展開した。こうして事件は忽ちのうちに世に知られるところとなった。他方、ドレフェス大尉の無罪を主張する動きも始まった。大尉の兄マチューは、ユダヤ人ジャーナリスト、ベルナール・ラザールの助力を得て救援活動を開始した。軍の情報部長ピカール中佐は真犯人は別にいると主張したが、逆に左遷されてしまった。

 当時のフランスには、相次ぐ疑獄事件で、現存する共和体制に不満を持つ人々が多くいた。国内の政治に不満を抱いていた人々(反ユダヤ主義者、愛国主義的右翼、軍部による対独復讐を主張する軍国主義者など)が、反ユダヤ主義を合言葉に「反ドレフェス」という旗の下に結集し始めた。「これは、あらゆる時代に見られる反ユダヤ主義運動の典型である。何か問題が起こると、それをユダヤ人の責任(スケープゴート)にするという傾向は、今も死に絶えてはいない」(反ユダヤ主義)。

 「ドレフュス事件」は、フランスの文化人・政治家などを巻き込んで世論を二分する大論争を巻き起した。1899.1月、作家のエミール・ゾラが「我弾劾す」で冤罪を告発した。大統領あて公開書簡をオロール紙上に発表し、それがきっかけとなって、ドレフェス大尉の冤罪説が高まっていった。後の首相クレメンソーもドレフュスを擁護した。真犯人の詮索問題も派生させた。ドレフュスを擁護したのは進歩的な政党で、これに反対の立場を採ったのは保守政党であった。

 有罪の根拠となった文書を偽造したのは、アンリ大佐であった。彼はそのことを自白し、その直後に獄死をとげている。権威の失墜を恐れた軍上層部は、1899年8月末からレンヌで開かれた再審軍法会議で、再び有罪を宣告した。事態の進展を憂慮した大統領ルーベは、ドレフェス大尉に恩赦を与えることで、問題の解決を図った。ドレフェス大尉は一貫して無実を主張したが、それが認められ、最終的に無罪が確定した。彼が完全に復権するのは1906年になってからであった。大佛次郎が「ドレフュス事件」(19355年)を著している。

 ドレフュス事件は、ヨーロッパ史上最大の冤罪事件と云われている。事件の背景にあるのは、次第に強まるユダヤ人のフランス社会への公的進出であったように思われる。この頃東欧ユダヤ人の西欧流入が起こっており、新たな社会問題を発生しつつあった。これが、西欧での反ユダヤ主義の新たな契機となっていくことになる。

 「ドレフュス事件」は、ユダヤ人社会にも大きな影響を与えていくことになった。フランス革命以降ユダヤ人の解放が各地で達成されつつあると考え国々での同化を目指していた流れが変わり、ユダヤ人社会に危機意識を募らせていくことになった。
 (ドレフュス事件のれんだいこ解説)
 ドレフュス事件は今日新たな論争を生み出しつつある。菅野賢治「ドレフュス事件史再考」に次のように記されている。
 概要「本国フランスでは、ドレフュス大尉の逮捕からちょうど一世紀を経た1994年を皮切りに、事件百周年を記念するエクスポジション、学術会議、出版活動などが盛んに行われる一方、国防省のある幹部がドレフュスの無罪に疑義を差し挟んで物議をかもすなど、事件の現代性がクローズアップされた。事件に対する評価をめぐって、論争は、二十世紀のユダヤ問題、対独協力の歴史、共和国の存亡、宗教と政治の分離の問題などに直結し、予断を許さない状況を呈している」、「近年、本国フランスで相次いで公表された新資料と、フランス以外にもイギリス、アメリカ、イスラエルなどで進められている最新の研究成果が注目されつつある」。
 意訳概要「結論として、ドレフュス事件にとどまらず、ディアスポラ、反ユダヤ主義、同化主義、シオニズム、ユダヤ・アイデンティティーなど、古代から現代までに至る『ユダヤ人問題』の再検証に向かう必要が生まれつつある。十九、二十世紀の歴史そのものを問い返すような、まったく新しい視点からの事件論が求められている。日本人にはなかなか理解することの困難なイデオロギー、思想潮流であるが、それらの根本に横たわるヨーロッパの反ユダヤ主義に関して正しく認識する必要がある」。

【ヘルツェルが「ユダヤ人国家-ユダヤ人問題の現代的解決への試み」を出版】
 1896.2月、 「ドレフュス事件」にショックを受けたオーストリア・ハンガリー帝国出身のユダヤ人青年ジャーナリスト、テオドール・ヘルツェル(1860-1904)が、首都ウィーンで一冊の本「ユダヤ人国家-ユダヤ人問題の現代的解決への試み」を出版し世に問うた。政治的シオニズム運動の始まり。

 ヘルツェルはドレフェス事件に衝撃を受け、次のように主張し始めた。
 概要「ユダヤ人の異邦人社会同化政策は誤りであり、ユダヤ人迫害は、ユダヤ民族の団結と各国政府の協力によってパレスチナにユダヤ人国家が建設 されるまでは止むことがない。ユダヤ人問題解決のための唯一の道は、ユダヤ人の独立国家の創設である。聖書の記述『私はこの地をあなたの子孫に与える。エジプトの川から、かの大川ユフラテまで』(聖書・創世記第15章)に基づきユダヤ人国家を建設しよう」。
 概要「ユダヤ人を収容するために十分な土地が欲しい。その土地ではユダヤ人に主権が与えられる。その主権の及ぶ土地で、ドージュ(総督の意か、王の意か)としてロスチャイルドが選出されるべきである。土地を獲得するための長征があることになる。首都はベネチアがモデルとなろう。王宮が作られ、戴冠式が行われ、軍隊が創設されるであろう」(鬼塚英昭「20世紀のファウスト」199P)。

 これが「シオニズム運動の嚆矢」とされており、テオドール・ヘルツェルは、「近代シオニズム運動の父」としての歴史的地位を獲得している。(テオドール・ヘルツェルの提唱に基づくシオニズム(ユダヤ民族祖国再建運動)始まる

 「ユダヤ人国家」の意義は、当時、ヨーロッパに住むユダヤ人の間に宗教的戒律を守りつつあるいはキリスト教への宗旨替えしつつの住居地国家への帰化(ユダヤ人同化論)が進みつつあったのに対し、自由、平等をうたったフランス革命の後でも、ドレーフェスのようにユダヤ人差別が続くことを指摘、「ユダヤ人にはユダヤ人の国家が必要」との意識を覚醒させ、シオニズム運動を提唱していったことにある。

 
こうして、1896年、「テオドール・ヘルツェルの提唱に基づくシオニズム(ユダヤ民族祖国再建運動)が始まる」。シオニズムとはユダヤ人の民族主義運動で、パレスチナの地にユダヤ民族国家の再興を目指す政治的運動であった。このシオニズムは、これによりパレスチナへのユダヤ人入植が拡大、アラブ人との衝突が始まった。これが今のパレスチナ紛争の直接の起源となる。

 シオニズムのシオンとは、聖地エルサレム南東にあるシオンの丘の名から命名されていた。ユダヤ人がその地を追放されて離散の歴史をたどる「旧約聖書」の記述中の<シオンの地>は、宗教的迫害を味わってきたヨーロッパのユダヤ教にとって解放への希求と合わさって象徴的意味を持っていた
 (パレスチナに関するれんだいこ解説)
 イスラエル建国前は現在のイスラエルのある地域全体をパレスチナと呼び、長い間イスラム教徒によって治められていた。ユダヤ人も少数ながらキリスト教徒と共にイスラム政権下のもと共存していた。第一次世界大戦以前、東アラブ地域(現在のレバノン、シリア、パレスチナ、イスラエル、イラク、ヨルダン)はオスマン トルコの領土だった。当時オスマン トルコの弱体化により、西欧の列強が同地域、特にエルサレムに注目し始めていた。エルサレムをイスラム教徒の手から奪還するというのは十字軍のとき以来のキリスト教徒にとっての悲願であった。そこにユダヤ教徒も祖国再建運動で参入することになった。

1895  山室軍平、日本で救世軍の活動を始める。
1896  Theodor Herzl, an Austro-Hungarian Jewish journalist and writer, publishes Der Judenstaat, advocating establishment of a Jewish state in Palestine or elsewhere.
1896
Jewish Colonization Association, founded in 1891 in London by German Baron Maurice de Hirsch, starts aiding Zionist settlements in Palestine.
1897   第一回シオニスト会議。
1899
 ジョン・H・ニコルソンとサムエル・E・ヒル、国際ギデオン協会を設立。

【シオニズム考】シオニズム運動」、「中東戦争全史(1)」その他参照)
 ユダヤ教を信奉することで共同体を形成しているユダヤ人は流浪はしていても生活習慣を変えようとはせず、土着の文化と交じり合う事を拒絶する傾向にあり、ヨーロッパ各国では差別や迫害(反セム主義)を受けてきた。それに加え、キリストを磔に追いやった民族であるユダヤ人をそれらから守ろうとする動きも殆ど無かった。ユダヤ人は公職や一般職(商売や職人等)に就くことが禁止される傾向にあり、土地の所有も不自由であったために中世には医師、弁護士、芸術家などの頭脳労働職や金融業に就く者が多かった。

 この均衡が、中世ヨーロッパでの十字軍の遠征によって破れ始める。突如、キリスト教徒が「聖地奪還」を叫び行動に移したところからイスラム教徒との宗教戦争が勃発した。これがイタリア・ルネサンスを生み、そのルネサンス運動が西欧のキリスト教国に拡がり、各国の支配権力を揺るがしていくことになる。

 これに応じてゲットーに閉じ込められていたユダヤ人達の社会的進出が進んでいった。この時、ユダヤ社会は二つに割れた。一つは、独特の教義を捨て、同化主義により当該国家の市民化を目指そうとしていた。他方は、あくまで教義の純潔を護りつつ市民的権利の獲得を目指していた、この中間に改宗ユダヤ人が生まれつつあった。

 ところが、ユダヤ人の社会的進出は却って紛争をあちこちに生んでいくことになった。
魔女狩り、異端狩り、テロと虐殺、アンチセミティズム(反ユダヤ主義)がこのユダヤ人の社会的進出に関わって引き起こされている。ロシアや東欧ではユダヤ人の排斥(ポグロムと呼ばれる)が激増する。

 ヨーロッパ諸国に於いて起ったアンチセミティズム(反ユダヤ主義)に対する反動として、シオンの地にユダヤ人の独立国家を作る為の運動が興った。近代ヨーロッパ社会において、ユダヤ人の解放と脱ユダヤ化(キリスト教社会への同化現象)が進むようになってからも、ユダヤ人に対する弾圧や差別は依然として解消されなかった。そのために、ユダヤ人の間に伝統への回帰指向が強まり、“ユダヤ版の民族主義”すなわち「シオニズム(シオン/Zion主義)」が盛んになっていった。

 シオニズム運動とは一般的に「ユダヤ人がその故地“シオン(Zion)の丘”に帰還して国家を再建する運動」と解されている。ここでいう“シオンの丘”とは、かつてソロモン神殿があった聖地エルサレムを中心にしたパレスチナの土地を意味している。その歴史事情は次の通り。
 概要「紀元70年、ローマ帝国によってエルサレム神殿が破壊され、ユダヤ人には所払い令が発布され、民族離散の憂き目に遭った。その後数十年の間に、エレツ・イスラエル(イスラエルの地)にいたユダヤ人は、その大半が郷里を追われた。しかし、ユダヤ人の帰郷への願いは絶えることがなく、その思いは祈祷や文学の中で悲願が吐露され続けた。毎年ユダヤ人は『過越しの祭り』の食事の最後に「来年はエルサレムで」と祈り、結婚式では新郎は『エルサレムよ、もしも、わたしがあなたを忘れるなら、わたしの右手はなえるがよい』(詩編137)と唱えることで、その熱情のほどが分かる」。

 シオニズム運動の先駆者にはモーゼス・ヘスなどがいたが、政治的シオニズム運動に決定的な役割を果たしたのは、オーストリアの新聞記者であった「テオドール・ヘルツェル」がこれを公言した最初の人とされている。従って、シオニズムとは、ユダヤ民族による失われた“シオンの地”を取り戻し、自前のユダヤ人国家を創る運動及び帰還運動であり、ユダヤ民族の歴史的復権運動、祖国回帰運動、父祖の地パレスチナの奪還運動ということになる。

 「ユダヤ人国家」の意義は、当時、ヨーロッパに住むユダヤ人の間に宗教的戒律を守りつつあるいはキリスト教への宗旨替えしつつの住居地国家への帰化(ユダヤ人同化論)が進みつつあったのに対し、自由、平等をうたったフランス革命の後でも、ドレーフェスのようにユダヤ人差別が続くことを指摘、「ユダヤ人にはユダヤ人の国家が必要」との意識を覚醒させ、シオニズム運動を提唱していったことにある。

 ユダヤ国家再建のためのシオニズム運動は、厳密には「政治的シオニズム運動」と称されるものであり、その他に、離散ユダヤ人のためにパレスチナに精神的中心機関を設置し、ユダヤ固有の文化を興隆させようとする「文化的シオニズム運動」もある。「文化的シオニズム運動」を提唱していたアハド・ハアムは、ヘルツルの「政治的シオニズム運動」を批判していた。

 また、ユダヤ教の主流ともいうべき伝統にのっとった「ユダヤ教正統派」は、シオニズム運動そのものが世俗的なものであるとして支持しなかった。彼らは、ユダヤ人の苦境は神が与えた試練なので人為的な祖国再建は神の意思に反すると考えていた。実際、現在でも、イスラエル国家に対して、旧約聖書の言う「神の国」では無いとして容認しないユダヤ教超正統派の高位聖職者や原理主義者もいる。この超正統派ユダヤ人は「聖都の守護者」を意味する「ナトレイ・カルタ」と呼ばれ、現在のイスラエル共和国はユダヤ教の本質を完全に逸脱した世俗的な寄せ集め集団に過ぎない、として徹底的に批判している。超正統派のユダヤ人の主張によれば、メシア(救世主)が出現して初めて真の栄光に満ちたイスラエル国家が誕生するという。従って彼らは、メシアの出現を待望してやまず、祈りと戒律を厳守した極めて求道的な生活を日々送り続けている。

 ユダヤ人社会主義組織「ブント」のメンバーも、シオニズム運動を“反動ブルジョア的”と決めつけ非難していた。更に「ユダヤ教改革派」も、ユダヤ人は民族ではなく宗教集団であるから、国家を樹立する必要はないとして反対していた。更には、ユダヤ人は国家を失っても固有の宗教民族性を保持できたのであるから、あらゆる国の中にユダヤ人の精神的国家を樹立すべきだという「修正シオニズム運動」や、土地の開拓に基礎をおいた「実践シオニズム運動」などもあった。 

 しかしながら、近代における反ユダヤ主義と民族主義の台頭が、シオニズム運動形成への大きなベクトルとなったことは疑いがない。ユダヤ人は迫害されればされるほど民族的結束を強めていき、自分たちの民族的独立を夢見た。そのため、各種シオニズム運動の中で主流となったのは、政治的シオニズム運動と実践シオニズム運動を統合した「総合シオニズム運動」であった。興味深いことに、シオニズム運動は、第一次と第二次にわたる「世界大戦」を通じて急激な展開を見せていく……。





(私論.私見)


「14話・民族的存在か宗教的存在か?」

「13話・キリスト教社会の勝手な都合?」

パレスチナ問題の構図・12話「シオニズムとは?」

まずはユダヤ人について

中東関係その3 中東関係その2 中東関係その1

アラビアのロレンス 英国の三枚舌外交 ユダヤ・ゲットー

富裕なユダヤ人 フランス革命

ロスチャイルド 差別・迫害
比較文化論 

ユダヤ機関の成立