パレスチナ問題を解くための歴史2、紀元前後編

 (最新見直し2014.11.03日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 「パレスチナ問題を解くための歴史2、紀元前後編」を書き付けておく。

 2004.2.13日 れんだいこ拝 


紀元前63年  ローマ帝国がシリアを征服し、ローマ軍(ポンペイウス将軍)がエルサレムに入城し、ユダヤのハスモン朝は短期間で終わり、ローマの属州シリアに組み入れられた(「BC63、ポンペイウスがユダヤをローマに併合」)。ユダヤは新興ローマ帝国に支配される時代に入った。ユダヤに王は存在したものの、ローマの支配下にある属国となった。ローマの支配はAD313年まで続くことになる。
紀元前47年  ユリウス・カエサルの援助を得て、クレオパトラ7世が王位を確定する(〜30年)。ヘロデず、ローマ帝国の属領ガリラヤの総督に就任する。
紀元前44年  ユリウス・カエサルが殺害される。
紀元前37年  ローマ帝国が台頭し、ローマ帝国から派遣された非ユダヤ人・エドム人のヘロデがローマ帝国の庇護のもとにローマの傀儡として即位しユダヤ王(在位前37から前4年)となる。33年間エルサレムを統治(ヘロデ王朝)する。ヘロデ王は、ユダヤ人に皇帝礼拝を強要し、エルサレム神殿を大改築している。
 この時代に、「死海文書」が書かれている。(死海文書は、イスラエルの荒野とヨルダンの砂漠にはさまれた死海のほとり、クムランの洞窟から発見された。壺に入った800本以上の洋皮紙の巻物と無数の断片には、2000年前と推定される古代ヘブライ語による文章がびっしり書き込まれていた。死海文書と新約(キリスト教)聖書との関係は、旧約聖書とユダヤ教徒の関係よりも深い、との証拠もあるとされている)。
紀元前34年  ヘロデ大王が、ローマからユダヤ人の王に任命される。
紀元前31年  ユダヤに大地震、クムラン教団壊滅される。
紀元前30年  アントニウスとクレオパトラ7世が、オクタヴィアヌスに敗北。クレオパトラ7世自殺する。クレオパトラ7世の自害によって「プトレマイオス王朝」が滅亡する。
紀元前29年  オクタビアヌスがローマ初代皇帝となり、ここに帝政ローマが始まる。
紀元前27年  アウグストゥス即位、ローマ帝政開始。
紀元前20年  ヘロデ王が、エルサレム神殿の大改修に着手。
紀元前7年  ローマのアウグストゥス帝の勅令によりシリア全住民の戸籍登録。
紀元前4年  BC8年とも云われているが、この頃、イエスが誕生している。「マリアとヨセフの長男として、ベツレヘムの馬小屋で生まれる」とあるが、ベツレヘム誕生説は無理筋で、ガリレアのナザレで誕生したと推測される。

 “ユダヤの王”として君臨していたヘロデ王は「ユダヤの救世主誕生」の噂を耳にすると、それを阻止するために実子殺しを強行。それを恐れたイエスの両親は、イエスを連れてエジプトに逃れる。ヘロデ王の死と同時に、イエスと両親はナザレ村に帰ってきて、イエスはナザレ村で少年時代を過ごす。

紀元前4年  ヘロデ王が他界する。ローマのアウグストゥス帝の命令により王国を3分割する。ガリラヤは、ヘロデ王の第2子ヘロデ・アンティパスが相続する。
 古代ローマ帝国でユダヤ独立戦争があり、大敗を喫したオリジナル・ユダヤ人(東洋系ユダヤ人)たちは徹底的に追放された。この迫害により離散したユダヤ人のうち、イベリア半島(スペイン)に移住した東洋系ユダヤ人(セム系民族)の子孫を「スファラディ系ユダヤ人」という。

 彼らは中世において世界のユダヤ人の約半数を占め、ラディノ語を話しアラブ・イスラム文化とも同化し最も活動的であった。ちなみにこの頃、既に彼らの間では「ハザール人のユダヤ教改宗」はよく知られており、有名なユダヤ人の詩人・哲学者であるユダ・ハレビは、ハザール人の改宗について「ハ・クザリ」という詩で歌っていたという。

 しかし1492年に、スペインでキリスト教への改宗を拒否したユダヤ人に対して、徹底的な追放政策がとられると、約25万人が北アフリカ、イタリア、オスマン帝国に移住。オスマン帝国はユダヤ人を喜んで受け入れたので、「コルドバ」に代わって「テサロニケ」がスファラディ系ユダヤ人の中心地となった。 

紀元1世紀前後  選民としての誇り高いユダヤ人たちの多くは、統治者であるローマ帝国に従おうとしなかった。ユダヤ人の間でもローマ支持者と不支持者との争いが絶えず、「スカイリ(短剣党員)」という過激な集団もはびこった。当時のユダヤ教には祭司を頂点とした「サドカイ派」や「パリサイ派」、「エッセネ派」といった宗派が存在し、ユダヤ人社会は宗教的にも政治的に分裂して相争っていた。
紀元6年頃  ユダヤのイスラエルの地がローマ帝国の属州となり支配下に置かれた。ローマのアウグストゥス帝の勅令によるユダヤ人の住民登録。
18年頃  カヤパが大祭司に就任。
26年頃  ローマ人ポンティオ・ピラトがユダヤ総督に就任。
27年  この頃、洗礼者ヨハネが活動を開始する。イエスはヨハネより洗礼を受け、良き訪れと呼ぶ宣教活動を開始する。
 イエス青年が登場し、新しい神の法を説き始めた。イエスは、モーセがシナイ山で授かった神との契約(旧約)に基づく「律法主義」に固執していたパリサイ派の教義と鋭く対立した。 パリサイ派はイエス派と真っ向から激しく対立した。パリサイ派のユダヤ商人は当時のソロモン第二神殿をマーケット広場として利用し、のさばっていた。そのため、ソロモン神殿に入城したイエスに激しく罵られた。イエスはパリサイ派ユダヤ人に対して「マムシの子らよ」とか「偽善者なるパリサイ人」とか常々語っていた。そして極めつけは以下のような言葉であった。「あなたたちは悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は最初から人殺しである」(「ヨハネ伝」8章)。

 イエスを廻って、ユダヤ教各派は対応に苦慮した。
28  洗礼者ヨハネが逝去する。
30  イエスがエルサレムのゴルゴタの丘で十字架磔刑される。イエスの使徒達が三日後の復活を宣べ、キリスト教を形成し始める(「30−33年頃 イエスが十字架で死に、復活する」)。ペテロ、ゼべタイの子ヤコブ、ヨハネがエルサレムに最初の教会を設立する。
32  ステパノが宗教裁判中に殺害される(「35−36年頃 ステパノ殉教」)。パウロの改心。
33  パウロが回心する。
35  又は36、ステファノが石打ちの刑で死にキリスト教の最初の殉教者となる。迫害者パウロ(本名サウロ)がイエスの幻を見て回心する。
38  ローマ帝国支配下のアレクサンドリアで、「ディプロストーン破壊事件」が起き、ユダヤ人迫害が起り、全市にユダヤ人の血が流れた。  
39  ヘロデ・アンティパスがガリアに追放され、他界する。
41  ヘロデ大王の死後、ユダヤ属州はローマの総督によって直轄されていたが、大王の孫であったアグリッパ1世は巧みにローマ側にすりよってユダヤ王として称号を受けることに成功し、ユダヤの統治をゆだねられた。
41  ユダヤ、サマリア、イドマヤが、ヘロデ王の孫のアグリツパ1世の領地となる。
42  アグリツパ1世のキリスト教迫害により、ゼべタイの子ヤコブが殉教する。ユダヤ人がローマから追放される。
44  アグリッパ1世が病死する。ユダヤ地方は再びローマの直轄地となった。
46  サウロがバルナバとともに第1回伝道旅行(キプロス・小アジア)に出発し、途中で名をパウロと改める。
47  宣教方針をめぐってエルサレムで使徒会議が開かれ、異邦人への宣教が認められる。ペテロ、パウロにより伝道活動が開始される。
48  又は49、パウロの第2回伝道旅行。小アジア・ギリシャに出発し、途上でテサロニケ人への第1・第2の手紙が書かれる(〜51)。
52  又は53、パウロの第3回伝道旅行。小アジア・ギリシャに出発し、途上でコリント人への第1・第2の手紙が書かれる。
54  クラウディウス帝が暗殺される。ネロがローマ皇帝に即位する(〜68)。
 この頃、マルコによる福音書が書かれる。
55  この頃、「ローマ信徒への手紙」、「コリントへの手紙」が成立する。
56  この頃、パウロがエルサレムに到着する。エルサレムにで熱心党、シカリ派が暗躍する。
57  パウロはユダヤ人に訴えられて逮捕されるが、ローマ市民であるとして皇帝に上訴する。
60  パウロはローマに到着し、以降数年を過す。フィリピ人・コロサイ人・フィレモンなどへの手紙を書く。この頃、ルカによる福音書が書かれる。続いて同じ著者によって、使徒言行録が書かれる。マタイによる福音書もこのころ成立。パウロが、ローマに到着し、監禁される。
61  エルサレムの教会を指導していたイエスの兄弟ヤコブ)殉教する。
62  この頃、イエスの弟ヤコブが殉教する。
63  パレスチナを支配するローマ帝国にユダヤ人民族派が叛乱をおこした(「ローマの圧制に対するユダヤの反乱」)。「シカリオリ(短剣党)」なる地下運動が組織され、反ローマ帝国運動に参加しない者が片っ端から暗殺された。
64  ローマ市で大火発生。ローマ皇帝ネロが、これを口実にキリスト教を迫害する(「64年、ネロ帝がキリスト教徒を迫害」)。
65−67年頃  「ネロ帝のキリスト教徒迫害」によりイエスの直弟子ペテロ、パウロらが殉教する。ペトロは、ローマで逆さ張り付けの刑を受けて殉難した。ペトロの刑死場跡を記念して建てられた寺院がバチカンのサン・ピエトロ寺院である。エルサレムのキリスト教徒はペラへ移住する。
66  当時のローマ帝国は、被支配民族の伝統文化を尊重し巧みな統治政策を採っていたが、多神教文化であった地中海世界の中で一神教を奉ずる特殊な文化を持つユダヤは次第にローマへの反感を募らせていった。イエスが公開処刑されてから約30年後、熱心党(ゼロテ党)というユダヤ人レジスタンスグループがユダヤ独立戦争を起こし、ローマの守備隊を襲った為、ユダヤ人とローマ軍は本格的な戦いに突入した。総督フロルスは暴動の首謀者の逮捕・処刑によって事態を収拾しようとするが、逆に反ローマの機運を全土に飛び火させてしまう。属州シリアの総督が軍団を率いて鎮圧に向かうも、反乱軍の前に敗れてしまう。事態を重く見たネロ帝は将軍ヴェスパシアヌスに三個軍団を与えて鎮圧に派遣した。ヴェスパシアヌスは息子ティトゥスらと共に出動すると、エルサレムを攻略する前に周辺の都市を落として孤立させようと考え、ユダヤの周辺都市を各個撃破していった。このガリラヤ攻略戦のさなかに投降してきたユダヤ人武将がヨセフスで、後に「ユダヤ戦記」を記す事になる。こうしてヴェスパシアヌスらはユダヤ軍を撃破しながら、サマリアやガリラヤを平定し、エルサレムを孤立させることに成功した。(「66年、第一次ユダヤ戦争始まる」)
68  ネロが反乱によって自殺に追い込まれた。以降1年間に4名もの皇帝が立つ異常事態になり、ヴェスパシアヌスもエルサレム攻略を目前にして、ローマへ向かった。ローマ軍の司令官不在のまま、ユダヤでは戦線はこう着状態に入った。
70  皇帝としてローマを掌握したヴェスパシアヌスが懸念であったエルサレム陥落を目指して、ティトゥスを攻略に向かわせた。ユダヤ人たちは神殿やアントニウス要塞によって頑強に抵抗したが、圧倒的なローマ軍の前に敗北し、エルサレム神殿は炎上、エルサレムは陥落した(「70年、エルサレム陥落、神殿破壊される」)。ここにおいて叛乱は鎮圧され、ティトゥスはローマへと凱旋した。この戦争のユダヤ人犠牲者数は60万人とも100万人ともいわれている。66年から70年にかけて約5年間続いたこの戦争は第一次ユダヤ戦争と呼ばれる。以降、エルサレムはローマの直轄領植民地となり、徹底的な弾圧政策を敷いていった。
70  ローマ皇帝タイタス(ティトゥス将軍)がエルサレムを完全制圧、エルサレムのソロモン第二神殿(ユダヤ教エルサレム神殿)を完全に破壊した。この時、ローマ軍によって破壊されたユダヤ神殿の壁跡の一部が現在「嘆きの壁」と呼ばれるユダヤ人の礼拝場になっている。「嘆きの壁」には。現在も多くのユダヤ教徒が巡礼にやってきて、この壁に向かって祈りを捧げている。

 この時、エルサレム神殿の多くの聖典と宝物がクムランの洞窟をはじめとする洞窟に隠されたと言われている。(死海文書は、イスラエルの荒野とヨルダンの砂漠にはさまれた死海のほとり、クムランの洞窟から発見された。壺に入った800本以上の洋皮紙の巻物と無数の断片には、2000年前と推定される古代ヘブライ語による文章がびっしり書き込まれていた。死海文書と新約(キリスト教)聖書との関係は、旧約聖書とユダヤ教徒の関係よりも深い、との証拠もあるとされている)。
70  この頃、マルコ福音書成立。
73.5月

 ユダヤ人の最後の抵抗がヘロディオン、マカイロス要塞で続けられた。クムランの施設もローマ軍に攻撃され破壊された。クムラン信徒達は死海の南西岸で抵抗を続けるマサダ要塞(死海南西部の高台にあるイスラエル最大の遺跡。ヘロデ王が離京として建設したが、後に要塞に改築された。ヘロデ大王没後はローマ軍が駐留したが、その後ユダヤ過激派が奪回し、籠城。紀元73年、ローマ軍の攻撃を前にユダヤ過激派960名全員が自決した)に合流し、ローマに対抗し続けた。

 反乱軍の一部は岩山の難攻不落の要塞「マサダの砦」に立てこもり、2年間にわたって抵抗を続けた。967名のユダヤ人が籠城し続けた。ローマ帝国軍8000が総攻撃。追いつめられたユダヤ人は、その最後は、960名のうち二人の女性と5名の子供を残し、全員が自決するという悲劇で幕を閉じることになった(「73年、マサダ陥落」)。この砦は現存し、イスラエル軍新兵は、ここで国家への忠誠を宣誓することになっており、今日のイスラエル国家独立のシンボルとして歴史化されている。ユダヤ人最後の抵抗であった「バルコホバ戦争」もハドリアヌス帝下のローマ軍に殲滅された。

 多くの命が失われ、エルサレムの占領と神殿の破壊によって、第一次ユダヤ戦争は事実上終わりを告げた。ユダヤ人は、神殿の消失により民族の精神生活の支えを失った。荒廃の中で復興に向う。


【マサダ砦】
 「マサダ砦」を転載しておく。
 「死海の近くにある世界遺産マサダ砦は、古代ローマにエルサレムが支配された時に、抵抗したユダヤ人が立てこもった砦だ。当時最高の築城技術によって高い丘の上に築かれた巨大要塞で、数少ない降雨時に大量の水を貯める貯水技術を持ち、食糧備蓄も十分であり、ローマ軍を悩ませた。だが最後は力尽き、城壁が破壊され、ローマ軍の総攻撃前夜、壮絶な集団自決をする。自殺が戒律で禁じられているため、男が家族を殺し、選ばれた一人が他の男全員を殺すことで、戒律を破るのが一人で済むようにした自決だったという。この祖国愛と悲劇を忘れないよう、イスラエル軍の入隊式はこの砦で行われるという。マサダ砦の悲劇を繰り返さないよう、最後の砦となるよう、決意をする。はるか昔のこの悲劇はホロコーストとともに、ユダヤ人の心に今も深く刻まれている」。

【ユダヤ戦記】
 1世紀にユダヤ人フラウィウス・ヨセフスによって書かれたユダヤ戦争の記録として「ユダヤ戦記」全7巻がある。誇張が多く、著者の都合に合わせて事実をゆがめているなどの批判はあるものの、ユダヤ戦争の目撃者による貴重な記録である。ヨセフスによれば、ユダヤ人たちは最期まで主導権争いと仲間われを繰り返し、意思統一ができていなかったという。もともとギリシャ語で書かれていたが、古代においてラテン語に訳され、さらに近代に入ると各国語に訳されて多くの読者を得た。

 ヨセフスはもともとユダヤ側の指揮官であったが、ガリラヤのヨタパタの陥落によってローマ軍に投降し、以後ティトゥスの配下としてエルサレムの陥落までユダヤ戦争の全期間にわたって従軍した。ヨセフスはティトゥスの凱旋にしたがってローマへ渡り、死ぬまで同地で暮らした。ローマにおいて厚遇され、豊富な資料と自らの体験をもとにして『ユダヤ戦記』を記した。『ユダヤ戦記』の最初の版は80年ごろに完成したと考えられている。ヨセフス自身の言葉によれば、もともとアラム語版が書かれ、それをもとにギリシャ語版が書かれたという。

 各巻の内容と記述されている年代は以下のとおり。

第一巻 (紀元前200年ごろ-紀元前4年) 執筆にいたる経緯、マカバイ戦争の勃発からハスモン朝の成立、ハスモン朝の終焉とヘロデ大王の登場、ヘロデ家の内紛とヘロデ大王の死。
第二巻 (紀元前4年-紀元66年) アルケラオの継承からローマによる属州化、ユダヤ教各派(エッセネ派、ファリサイ派、サドカイ派)の解説、ティベリウス帝の登場、ユダヤ戦争の発端、シリア知事ケスティオスの敗北、ヨセフスのガリラヤ防衛。
第三巻 (紀元67年) ネロ帝によるヴェスパシアヌスの派遣、ガリラヤの攻防、ヨセフスの投降。
第四巻 (紀元67-69年) ヴェスパシアヌスのエルサレムへの進撃、ユダヤ人内部の抗争、ネロの死とローマ帝国の混乱、ヴェスパシアヌスの皇帝推戴、司令官ティトゥスの派遣。
第五巻 (紀元70年) ティトゥスによるエルサレム攻囲、エルサレム内部の状況。
第六巻 (紀元70年) 神殿の炎上とエルサレムの陥落、ティトゥスのエルサレム入城。
第七巻 (紀元70-75年) 戦後処理とローマでの凱旋式、ヘロディオン・マカイロス・マサダにおけるユダヤ人残党の抗戦と鎮圧。各地でのユダヤ人の陰謀。

 執筆直後から戦勝国のローマ人による高い評価を得ることに成功した本書は、やがてエウセビオスなど初期のキリスト教の著述家によってさかんに取り上げられるようになる。それは『ユダヤ戦記』がマカバイ記と新約聖書をつなぐものであること、福音書と使徒行伝の時代の同時代史となっていることであり、何より執筆者の意図を無視してユダヤ人攻撃のための格好の資料として用いられたためである。

 それはエルサレムの崩壊とユダヤ人の受難をイエスを死に追いやったことの報いとして位置づけたためと、福音書にみられるイエスのエルサレム崩壊の預言が成就したことを『ユダヤ戦記』において説明することでイエスの権威を増すことが出来たからであった。現代の聖書研究においては当然イエスのこの預言は、ユダヤ戦争の終末を知る福音記者がイエスの言葉として語らせた「事後預言」であると解釈されているが、近代初期に至るまで福音書の記述を疑うことは考えられなかった。

 『ユダヤ戦記』は古代以来ラテン語版でさかんに読まれ、近代以降は英語・フランス語を初めとする各国語に翻訳されて多くの読者を得た。近代のヨーロッパの知識人にとって聖書とならぶキリスト教の主要テキストという位置づけがなされていたのである。日本語でも土岐健治、新見宏、秦剛平などによる翻訳がある。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%80%E3%83%A4%E6%88%A6%E8%A8%98


80  この頃、マタイ福音書が成立。
90  この頃、ルカ福音書、ヨハネ福音書、使徒行伝が成立する。
95  ドミティアヌス帝がキリスト教徒迫害する。この頃、第一ペテロ書、ヨハネ黙示録成立する。
100  この頃までにヨハネによる福音書ヨハネの黙示録が完成する。
 この頃、ユダヤ教徒がヤムニア会議で旧約聖書正典を決定。
130  この頃、キリスト教の異端グノーシス派が、アリクサンドリア中心に活躍する。
132  再び独立戦争を起こす。ユダヤの民はバル・コホバを指導者として再びローマの圧制に蜂起する(「第二次ユダヤ戦争、バル・コホバの乱始まる」)。これをもってユダヤ独立戦争は事実上終結し、ローマ帝国は「ユダヤ州」を「シリア・パレスチナ州」に変名。皇帝ハドリアヌス、ユダヤ教を徹底的に弾圧、大迫害開始。 パックス・ロマーナ(ローマの平和)と言われたローマ帝国絶頂期、ハドリアヌス皇帝の時のことである。 第二次ユダヤ戦争では、第一次ユダヤ戦争の時のように戦争の記録を書き残した者がいない。とにかく言い伝えによれば、ユダヤ人の最強砦50がローマ人によって破壊され、彼らの最も重要な居住地985が完全に破壊されたという。58万人のユダヤ人が殺され、ユダヤ全土が荒廃した。

 ユダヤの対ローマ戦争は事実上終結し、ローマ帝国は「ユダヤ州」を「シリア・パレスチナ州」に変名。 ユダヤ人はローマ帝国から徹底的に追放されることになる。ユダヤ人はエルサレム内に住むことを禁止されはしたが、1年に一回、城壁内を訪れることが許され、その時神殿の廃墟で祈りを捧げることとなった。
135

 ユダヤ人最後の抵抗運動第2次ユダヤ戦争(バル・コクバの乱)が敢行されるが結局失敗に終わる(「135年、 第二次ユダヤ戦争終結」)。その結果、ローマは、ユダヤ全土の名称をユダヤの仇敵ペリシテ人にちなんで「パレスチナ」と土地名を変更した(「ハドリアヌス帝、ユダヤを「シリア・パレスチナ」に改称」)。地名の変更のみならずユダヤ人のエルサレム立ち入りが禁止され、パレスチナの地からユダヤ人を追い払うことを決定した。

 かくて、ユダヤ人たちはパレスチナの土地から追放された。ユダヤ人の離散(ディアスポラ)はここから始まる(「流浪の民となる」)。ある者はエジプトに、ある者はバビロニアに、ある者は小アジアに、またある者は南ヨーロッパへと流浪していった。このユダヤ人の離散は「民族離散=ディアスポラ」と呼ばれている。 以降、ユダヤ人は国を持たない流浪の民族として世界各地で生きていくことになる。

(解説)
 
イスラエルの民は、この間祖国を失い、欧州やロシアに離散した。但し、イスラエルの民の特徴として、律法書(トーラ)や歴史書、詩編などを含む聖書や口伝書(タルムード)を肌身は為さず、極めて濃密なユダヤ人社会を各地につくっていった。しかし、ユダヤ人は、「キリストを売ったユダの子孫=キリストの殺外者」というレッテルを貼られ、その後のヨーロッパを支配したキリスト教国社会で絶えず、蔑視され、迫害され続けて来た。土地の所有は禁止され、頭に三角帽子をかぶされるという虐待を受け、やむなく当時の裏稼業的商業や金融業につかざるをえなかった。こうして、中世期を通じて長く差別と迫害に苦しめられることになった。

 この「ディアスポラ」は1948年にユダヤ人が自らの国家イスラエルを建国するまで、実に1900年近く続くことになった。そしてその間、ほとんどどの時代にもそしてまたどの国に住みついても、排除され、差別され、そして迫害された。
 流浪していったユダヤ人のうち、二つのグループが特に重要である。すなわちスファルディとアシュケナジである。スファルディはスペインあるいはポルトガルに住んでいたユダヤ人である。彼らはラディノ語を話し、「世間ずれしていて物わかりがよくコスモポリタン(国際人)である。彼らは例えば商人、医者、高利貸し、哲学者、王やキリスト教司祭のアドヴァイザーとして器用に立ちまわる。」それに対して、アシュケナジはドイツや東欧に住み、イディッシュ語を話す。「彼らは行商人、農奴、プロレタリアであり、赤貧洗うがごとき生活を送り、信仰においては原理主義者、正統派の伝統を固守し、救世主を熱望し、その到来を夢みる。信仰心が篤く、神に対する無限の愛があり、屈辱と迫害にじっと耐える。」(「」内はユダヤ学の研究者ロステン)
 第二次世界大戦前までは世界のユダヤ人の90%がアシュケナジであった。今では50%をわずかに上回る程度にすぎない。もちろんスファルディもアシュケナジも共に迫害された。

 この続きは「パレスチナ問題を解くための歴史2、中世史篇」に記す。





(私論.私見)

「ウィキペディアキリスト教年表