イスラエル建国物語

 (最新見直し2012.1.10日)

 (れんだいこのショートメッセージ)


 2012.1.10日 れんだいこ拝
 


 「イスラエルにまつわる戦慄の物語〜イスラエル建国前編」、「イスラエルにまつわる戦慄の物語〜イスラエル建国前編(2)」、イスラエルにまつわる戦慄の物語〜イスラエル建国前編(3)」、「イスラエルにまつわる戦慄の物語〜イスラエル建国前編(4)」を参照する。(れんだいこ責で編集替えする)
 「イスラエルがわかると世界がわかる!」。あらゆる国際情勢を突き詰めると結局はイスラエルに繋がる。アルバート・パイクの第三次世界大戦論。まずは、反ユダヤ主義から始まるシオニズムの醸成に関して確認しておく。シオニズムが本格的になったのは、「ドレフュス事件」からである。広瀬隆氏の「赤い楯(上)」から引用する。
 「ドレフュス大尉は、フランス陸軍の参謀本部に勤務する軍人だったが、“敵対するドイツに対してフランス陸軍内部の輸送機器や部隊の配備について通牒し、軍隊を重大な危機におとしいれた叛逆罪”の容疑で、その日突然逮捕された」。
 管理人:これは、1894年10月15日に起こった出来事。当初から反ユダヤ感情は醸成されていたが、この事件をきっかけに一気に極限までのユダヤ差別に達した。

 「ドレフュス大尉が起訴される根拠となったのは、のちに“明細書”と呼ばれるようになる軍事機密漏洩の文書であった。ところが、実際にはきわめて曖昧な筆蹟鑑定によって、それがドレフュスによって書かれたと決めつけられていたのである」。
 管理人:広瀬氏は、反ユダヤ感情は「ドレフュス事件」が起こる年前、1878年の“ある出来事”が関係していると書いている。

 「フランスの金融業者はそれまでのロスチャイルド帝国に対抗するため、カトリック教会を母体とする一大金融シンジケートを結成した。その事業を遂行する母体として、事業銀行「ユニオン・ジェネラール」を創立したのである。(中略)四年後の一八八二年、パリ証券取引所でこのユニオン・ジェネラールの大暴落が起こったと見るまに、そのマンモスのように巨大な新会社が一瞬で倒産してしまったのである。この空前絶後の倒産は、金額が巨大であったことと、宗教対立の性格を持っていたという点で、国民規模の事件となり、カトリック教会とカトリック信者に甚大な被害を与えた。フランス全土で「これはロスチャイルドが仕組んだ暴落だ」という憤激の声があがり、今日までその陰謀の証拠はないとされているが、あまりにも明白な経過であった」。
 管理人:この事件を間近で目撃していたのが、後に“シオニズムの父”と称されるテオドール・ヘルツル。デヴィッド・ベングリオンがイスラエル建国を宣言した時、その後ろにある肖像画はヘルツルだった。ベングリオンの宣言内容の一部を見ておく。
 
 「われわれはすべての隣国とその民族に対して、平和と善隣の手を差しのべ、この地における独立のユダヤ国家と相互協力することを要求する。イスラエル国家は、中東全体の進歩のために、手をたずさえて寄与する用意を整えている」(ベングリオン回想録「ユダヤ人はなぜ国を創ったか」)。

 その後、ドレフュスの冤罪を証明できる物的証拠が見つかり、それを根拠に開かれた軍法会議では、「その証明できる物的証拠自体がユダヤの陰謀」と捉えられ、どう足掻いても有罪へともっていかれる状況でのさ中、フランスの小説家エミール・ゾラが軍部の横暴に対して弾劾するとした大統領宛の公開書簡を新聞に掲載した。
 「こうなると、軍部が受けて立ち、ゾラを重罪裁判所に召喚するという事態は避けられなくなった。ゾラの初公判の日、いよいよ大人物がドレフュス側の弁護人として登場した。アルベール・クレマンソーである。実は死の商人ザハロフ(管理人:“死の商人”とは、敵味方を問わず兵器を販売する輩どもです。ザハロフは第一次世界大戦を拡大させた黒幕であり、ロシア生まれのユダヤ人)と直結し、第一次世界大戦後のヴェルサイユ会議で全世界の頂点に立った男、のちのフランス首相ジョルジュ・クレマンソーが、ゾラの有名な書簡を掲載した新聞の発行人であった」。
 管理人:「ロシア革命」史に於いて、「皇帝アレクサンドル二世が、革命を志す“人民の意志”と称する一派の爆弾に倒されたあと、その次男のアレクサンドル三世がツァーとなるやポグロム(管理人:wikiから→ユダヤ人に対し行なわれる集団的迫害行為(殺戮・略奪・破壊・差別)を言う)の政策を打ち出し、後にロシア革命を指導したウラジミール・レーニンの兄を処刑する闘いの時代を迎えたが、この皇帝の従弟にあたるミハイル王子はと言えば、実は『モーツァルトとサリエリ』や『スペードの女王』で知られるロシアの詩人プーシキンの孫娘と結婚し、ロンドンで大実業家たちと交わっていた。その実業家というのがデビアスのもうひとりの支配者ジュリアス・ウェルナーという人物であった。そして遂には一九一七年のロシア革命後、ウェルナーの息子とミハイル王子の娘アナスターシアが結婚し、ロマノフ王朝が遺した財宝をロスチャイルド家が引き受けるという関係がすでにできあがっていた。

 管理人:ロマノフ王朝はニコライ二世で幕を閉じる。彼を含め一家が惨殺されたからである(アナスターシアという子供は生きていたという噂があるが未だに謎に包まれている)。アナスターシアの母が皇后アレクサンドラ・フュードロヴナ。その彼女の取り巻きだったのが怪僧ラスプーチンであり、ロシアのユダヤ資本家グンツブルグ。そのラスプーチンは皇后にユダヤ人の銀行家をパトロンとして紹介したが、その中にロスチャイルド一族がいた。

 「皇后アレクサンドラがわが一族に金を無心したのは、必ずしもラスプーチンの紹介によるためだけではなく、彼女自身が、ドイツの一王国の当主ヘッセン家からロシアに嫁いだ身であってみれば、第一章の冒頭に述べたロスチャイルド家の初代マイヤー・アムシェルとは浅からぬ因縁があった。浅いどころか、ヘッセン伯ヴィルヘルム九世こそ、駆け出しの金貸し業者マイヤー・アムシェルと手を組んで財を成し、“赤い楯”の看板を世界一の座に押しあげた育ての親であった。このヘッセン家の一族がロンドンに渡って“最後のインド総督”マウントバッテン卿となり、その甥がエリザベス女王の夫君エデェンバラ公ことフィリップ・マウントバッテン・・・・・・つまりここで説明しているのは、ポグロムの嘘である。ロシア、ドイツ、イギリスを問わず、ヨーロッパの王室はここ二百年ほどロスチャイルド家なしには存在することができず、ロマノフ家がユダヤ人を虐殺しても、ユダヤ王ロスチャイルド家には指一本触れなかったのである」
 「一九〇二年「レウミ銀行」がロンドンに設立される。小売店と、ボーア戦争と、ロスチャイルドと、聞き馴れない銀行――この謎めいた四つの現象を結びつけて考えた歴史家は、おそらくほとんどいないであろう。ところがこの四つは、いずれもある家族に深く関係していた。アガサ・クリスティーの『オリエント急行殺人事件』で、十二人の乗客が偶然乗り合わせたように見えながら、それが計画的であったというシナリオのごとく」。
 「ドレフュス事件が起こる十年前だったが、貧しいユダヤ人一家がイングランド北部の町リーズに店を開いた。一家の主はマイケル・マークスといい、ポグロムの嵐から逃れ、ポーランドから移り住んだばかりであった」。
 管理人:このマイケル・マークスとトマス・スペンサーが「マークス&スペンサー」という最大規模の小売チェーンを展開する
 「この一家が食品を中心に店を成長させたとき、農産物を提供してくれたのが、“フランスのロスチャイルド家”エドモン男爵の資金でパレスチナに入植したユダヤ人農民であった。彼らだけがマークス家に商品を送ってくれ、マークス家も彼らに応えて、パレスチナのユダヤ人農家の基礎を築くのに全力を注ぐ、いわば共生の関係を作りあげたのである」。
 管理人:上で登場したエドモン男爵ことエドモン・ロスチャイルド、彼はユダヤ人にとって矛盾した行動を取った。それは、まさに背信行為でした。
 
 「外からは見えなかったが、陰の中心人物は鉄道王の息子エドモン・ロスチャイルドであった。エドモンは、ある理由から、ロスチャイルド家のなかで最も情熱的な“ユダヤ人”だった。ロシアのポグロムから逃れてきたユダヤ人をパレスチナに送り込みながら、一方で、ロシアで重大な事業に手を染めていたからである。今日のアゼルバイジャン・アルメニア紛争の火種となる、当時世界最大のバクー油田に投資をしたのが、このエドモンであった。ユダヤ人が虐殺された直後にも当たっていたため、エドモンの頭のなかではロシアの事業とユダヤ人問題を切り離すことができなかった。こうしてパリのロスチャイルド家はカスピ海沿岸のバクー油田で得た莫大な利益をパレスチナに送り込み、それがロンドンでマークス&スペンサーを繁盛させていった」。
 管理人:エドモンはロシアだけでなく南アフリカのダイヤモンド利権にも深く関わっていた。

 「今日、全世界のダイヤの八割を支配すると言われながら、実はそこにソ連のダイヤを加えなければならないことが明らかになった今では、十割を完全支配する「デビアス」社の重役室を、エドモンの孫にあたる同名のエドモン・ロスチャイルドが牛耳る世界をつくりあげることになった」。
 「一九〇二年にロンドンに「レウミ銀行」が設立された。テオドール・ヘルツルのユダヤ国家建設に否定的であったロンドンの当主ナサニエル・ロスチャイルドが、この年からヘルツルの計画に協力を開始したのである。(中略)ただしこの銀行がパレスチナでなく、反ユダヤの嵐が吹き荒れるヨーロッパのロンドンに設立されたのであるから、当初の名前は「アングロ・パレスチナ社」いわばイギリス中東商会という無難な看板を掲げ、これがイスラエル建国の資金を調達し、南ア・イスラエル同盟という最も危険な関係を確立してきた。

 これを提唱したのが、シオニズムの提唱者テオドール・ヘルツルだったが、同社は「アングロ・パレスチナ社」から「アングロ・パレスチナ銀行」に改名され、のちにイスラエル建国から六年後に「イスラエル銀行」(わが国の日銀に相当する中央銀行)が誕生するまで、一切の公的資金を提供してきたのである。その後は、民間の銀行としての役割を果たすため、「レウミ銀行」と改名して、今日に至っている」。
 管理人:1904年に、“シオニズムの父”テオドール・ヘルツルは亡くなる。その後釜に就いたのは、初代イスラエル大統領になるハイム・ワイツマン。彼は、マンチェスター大学で化学を教える傍ら、物理学の革命児アルベルト・アインシュタインとともにシオニズム運動のための資金集めをした。
 「ワイツマンはポグロムのロシアを逃れてヨーロッパ大陸を転々としたのち、イギリスに渡ってきた。そこで一九一三年、マークス&スペンサーの二代目サイモン・マークスと出会ったのである。マークスはすでに自分の店を大成功させ、懐には大金を抱えていた。そしてロンドンのシオニスト本部で爆弾係ワイツマンがNo1、金庫係マークスがNo2のポストに就き、やがて車の両輪としてヘルツルのシオニズムを実現してゆく運命にあった」。
 第一次世界大戦がいかにイスラエル建国に関係しているか。これには、映画『アラビアのロレンス』が欠かせない材料となる。史実が意図してねじ曲げられている状況をすべての人民が理解できる日が来るのを望む。
 「ロレンスが手を貸し、その後の歴史のなかで、アラブ国家が次々と独立してゆくのである。まず現実の歴史を一覧してみると、アレック・ギネスの演じたファイサル王子というのが、預言者かっら数えてちょうど四十代目のハーシム家、つまりマホメット直系の子孫であった。その父親のフセインから見ると、長男アリ、次男アブダラ、三男がこのギネス役ファイサル、という息子たちであった。後年、長男アリはヒジャズ国王となり、次男アブダラはヨルダン国王、三男ファイサルはイラク国王となって、この三兄弟が新しく誕生するアラブの王国を支配してゆくのだ」。
 管理人:上述した長男アリ、そして彼が王となったヒジャズ、後にこのヒジャズはサウド家のイブン・サウドによって征服される。これが“サウド家のアラブ”の意味をもつ“サウジアラビア”誕生に繋がる。イブン・サウドと同名であり彼の次男であるサウドは、海運王であるオナシスと石油事業に取り組んでいた。
 このようにアラブ世界は西側諸国と密接なつながりを持っていた。

 「マホメットの直系が今日も国王である「ヨルダン」を見ると、映画でアレック・ギネスの兄にあたるアブダラが現実の世界では暗殺され、そのあとを継いだ長男タラール国王は精神病という説明で交代し、その息子のフセイン国王は、一九九〇年にはイラクをめぐる中東問題で鍵を握る隣国の支配者だったが、何度も結婚を繰り返し、四度目にはアメリカ人エリザベス・ハラビーを妻に迎えた。彼女の父は、石油王国ロックフェラー・ブラザース社の出身で、パン・アメリカン(PanAm)航空の会長であった」。

 管理人:冒頭で登場したロレンスことT・E・ロレンスはアラブ世界にどう関わったのか。映画『アラビアのロレンス』で示されたイギリスの思惑とは?
 「T・E・ロレンスは、イギリスとドイツが開戦すると同時に、ただちにエジプトの情報局に配属され、アラブのファイサル王子と接触した。すでにスエズ運河を武力で制圧するイギリス軍にとって、敵国ドイツと手を組んで運河に進出しようとするトルコ帝国を叩くには、砂漠の戦いに長じたアラブ民族の力を借りなければならなかった」。
 管理人:しかしアラブ側が何の利益もなしに命を捧げるわけがありません。そこには、「アラブ人のための独立国家を創る」という、誘い文句を掲げたのでした。それは、ハーシム家がアラビア半島全体を手にするというもの。しかし、戦後開かれたヴェルサイユ会議での議決内容は、見事に「アラブ人は捨て駒だった」を理解させるものでした。
 
 「アラブの衣装を脱ぎ捨て、生涯忘れ難い砂漠をあとにすると、再びイギリス軍の制服に着換えなければならなかった。将校に戻ったT・E・ロレンスは、パリのヴェルサイユ会議に臨み、クレマンソーが虎の猛威で敗戦国ドイツとトルコの利権を奪い去り、それをイギリスとフランスに分配してゆく姿を見た。そこには、アラビア半島一帯で最も肥沃な地中海沿岸地帯“パレスチナ”をアラブ人に与えるという肝心の取り決めがなかった。最終的には、一九二〇年に北部のレバノンまでが「フランス」の支配下に置かれ、そこから南は「イギリス」が統治する、という意外な結果が待ち受けていた」。
 管理人:映画『アラビアのロレンス』は、例えば、『プラトーン』でのベトナム人、『ブラック・ホーク・ダウン』でのソマリア人のような、西側諸国に都合のいい映画と同様であり、史実を意図して操作している。
 イギリスはアラブ人を裏切っただけではなく、三枚舌を使って、中東を我が物として手に入れるため謀略を張り巡らした。
 「第一次世界大戦の戦火が激しく燃えあがっていた一九一六年、イギリスとフランスは中東を分割して、手中に収めようと画策していた。「三枚舌」つまり具体的には、イギリス代表のマーク・サイクスとフランス代表のジョルジュ・ピコが密談を重ね、オットマン・トルコ帝国の領土を勝手に区分けする作業に入っていた。これが有名な秘密の“サイクス・ピコ条約”と呼ばれた一枚目の舌である。(中略)しかも奇妙なことに、この前年にイギリスの高等弁務官アーサー・ヘンリー・マクマホンがすでにアラブ人と接触を続けていたのである。マクマホンは第一次世界大戦の開幕と同時に、一九一四年にエジプトへ送り込まれ、アラブ一族の首長フセインにアラブ民族の独立を約束した。これが二枚目の舌であり、(中略)アラビアのロレンスが送り込まれ、トルコを倒すことに成功した・・・・・・(中略)一九一七年、今度はイギリス外相バルフォアが、同じパレスチナの土地をユダヤ人に与え、母国を建設すると声明したのである。これがまた悪名高い三枚目の舌“バルフォア宣言”であった」。
 管理人:「サイクス・ピコ条約」を結んだマーク・サイクスとジョルジュ・ピコは共に“ロスチャイルド一族”だった。つまり、“身内による条約”。

 「ユダヤ人の国家という言葉が初めて人びとの前に公式に姿をみせたのが、一九一七年十一月二日のバルフォア宣言であった。それまでは、二千年の歳月にわたって国家を失ったユダヤ人の存在を認める国家がなく、ユダヤ人そのものが公式に実在していなかったからである。しかし南アのダイヤを確保した今となっては、利用すべきものはユダヤ人であった。(中略)ロスチャイルドの代理人となったバルフォアが書いた有名な宣言文は、意外にも宛名が――親愛なるロスチャイルド卿へ――という書き出しではじまる書簡であった。(中略)かつてヘルツルが見抜いた通り、この一族の資金と支配力なしには国家建設があり得ない事情を物語っていた。“赤い楯”なしにはシオニズムが思想の域をでなかったのである」。

 管理人:私が『赤い楯(上)』を読んだ限りでは、広瀬氏はロレンスを“完全なる裏切り者”として扱っていると感じています。実際そうかもしれません。しかし、次のような内容もあります。
 「ロレンスはアラブに対する英国政府の約束反故に嫌気がさして、公的生活から身を引いた」(『天皇のスパイ』高橋五郎より)。

 ロレンスは後にオートバイ事故で亡くなります。wikiにはこうあります。
 「除隊から二ヶ月後の1935年5月13日、ロレンスはブラフ・シューペリア社製のオートバイを運転中、自転車に乗っていた二人の少年を避けようとして事故を起こし意識不明の重体になった」。
 この事実に対して、ディズモンド・スチュワートという英国作家はこの史実を次のように書いています。
 「アラブの土地を乗っ取るユダヤの計画は、第一次世界大戦中にアラブが英国を支援する交換条件として交わされた英国のアラブに対する領土保全の誓約を立証できるロレンスが生きているかぎり、決して実行できないことをユダヤは理解した。そこでロレンスがいつも高速で走る習慣にしていた道路を横切って一本の電線が張られた。オートバイがそれに引っ掛かりロレンスは放りだされて即死した。風説では、そのとき路上に何人かの子供がいて、その子供たちを避けるためにロレンスは道路から外れたと流布されている。だが、「事故」時には路上には子供は一人もいなかった」(『天皇のスパイ』前掲)。
 管理人:しかしこれにも疑問があります。ロレンスはウィンストン・チャーチルの下で、植民地省中東局・アラブ問題の顧問として働いていましたから、もし、そんなにアラブ人に対しての罪を感じているなら、そこでは働かないでしょうと。。。真実は何処へやら。
 ある大学のある学科のある講義の中で、ある教授は「テレビがいかに私たちを欺くか」という趣旨の内容を話し、具体例を挙げて説明しました。テレビは世論を良くも悪くも形成するとう根底の元、言及は戦争から始まり、選挙戦などにも及んだ。例えば、戦争では、イラク戦争を取り上げ、「一部の国民だけが喜んでいる出来事を、まるで全国民が喜んでいるかのように放映した」と述べた。これは、何の出来事を言っているのか想像つきましたか?フセインの像を倒すときの映像です。画像をズームすることで、喜んでいる人たちだけを映し、その周りで傍観している人たち、または、ホントはたいして人が集まっていなかった風景ををまったく映さなかった。なのに、世界には「全イラク国民が喜んだ」と報道された。
 その他にも細かい世論操作は多々ある。つまり、テレビの恐ろしさを訴えていた。しかし・・・・・・です。その教授は、いわゆる、後になって明らかになった“事実”を“真実”と思ってしまっている。もし、その明らかになった“事実”すらも嘘だったら?という考えには思考が及んでいない。陰謀は裏の裏だけでは終わらない。人類の頂点に立ちたい輩どもがは、裏の裏などすぐ予想できるヘマをしない。単純、複雑を使い分けることで見通し、判断を曇らせる。これは彼らの作戦の一部である。

 「地下軍事組織ハガナーが設立された一九二〇年から、パレスチナを根城にして、世界を股にかけるロスチャイルドの軍事組織が動き出した。ロスチャイルドはパレスチナに資金を送り、今日のイスラエル一のヘブライ大学の母体となる学校を一九二五年に創設し、もうひとつの手で、ペルシャにパーレヴィを送り込んで独裁王国を誕生させてしまった。これはチャーチルが投資した「アングロ・ペルシャ石油」の利権を自由に支配するための実質的なイギリス植民地政府であった。その正体は、十年後に国名をペルシャからイランに変えると共に社名も「アングロ・イラニアン石油」と変え、さらに一九五三年にCIAを利用したクーデターで二代目パーレヴィを王位に就かせると、「ブリティッシュ・ペトロリアム」、その名も英国石油となって自ら覆面を脱ぎすてたのである」。
 「一九二九年に二大機関が誕生した。それがひとつはパレスチナに、もうひとつは南アに創設された組織であった。ロンドンの「レウミ銀行」と連動して、ユダヤ人のパレスチナ入植を進めるため、現地での警備から世界的な農業輸出、ニューヨークでの資金調達までおこなう「ユダヤ機関」という強力な組織がつくられ、これが臨時政府として最大の役割を担うことになった。今日ではこれがイスラエル国内の企業まで所有し、十年ほど前(一九七九年)の資料では四十億イスラエル・ポンドの株を保有していたという記録がある。しかも問題の企業部の部長をレウミ銀行の総裁が兼務していた。それが支配のメカニズムであった」。
 「皮肉にもヒットラーが、一九三三年に首相となって実行に移したユダヤ人追放政策が、イスラエルのダイヤ産業の礎石を築くことになった。オランダのアムステルダムとベルギーのアントワープを中心に生きていたユダヤ人のダイヤ職人は、行き場を失い、三年後にナチスの戦争準備四ヵ年計画が発表されると、ユダヤ難民はパレスチナにどっと流れ込んだ。翌一九三七年、彼らは中東に工房を移して、牛舎のなかでダイヤ加工をスタートしたのである。当時、軍需品の生産現場では、ダイヤが欠乏すればそれで機械の加工が不可能になってしまい、この重要な工業用ダイヤのため、オッペンハイマーは全世界の軍需工場の生命を握っていた。後年、第二次世界大戦が勃発したとき、イギリス・フランスに続いて急いでドイツに宣戦布告したのが南アであったのは、このためだったのである。パレスチナに入植したユダヤ人が必要としたダイヤの原石は南アから買い付けられ、ここに今日のイスラエルと南アの悪しき同盟がはじまった。ユダヤ人が生きるために黒人が奴隷化され、アパルトヘイトを加速していった。一方は売り手で、一方が買い手」。
 「南アのダイヤは、かなりのものがベルギーのアントワープに流れて加工されるが、最高級品の大粒ダイヤはニューヨークで加工され、小粒ダイヤはインドに送られる。イスラエルは主に半カラット以下の“メレ”と呼ばれる中級ダイヤを加工してきたが、最近は高級品にも手を出しはじめた。イスラエル国内でこのダイヤ産業に出資し、多額の利益を得てきたのが、「イスラエル・ユニオン銀行」である。このダイヤ元締め銀行で、副会長の座にあって最大の実力者バーナード・ウェイレー=コーエンは、六代前の祖先マイヤー・アムシェル・ロスチャイルドの血を引く直系子孫であった。その大株主は、同行の資料によればすでに一九五四年時点で、「レウミ銀行」が株五〇パーセントを取得した、と書かれている」。
 「わが国に流入しているダイヤは、ほぼ全量が南アで採掘されたもので、このうちまた大部分がイスラエルで加工され、「デビアス」の販売網がこれを扱っている。あるものはピエール・カルダンがそれにデザインをほどこし、あるものはダリの作品として展示されるが、デビアスが生産し、デビアスが動かし、デビアスが収益を帳簿に記し、デビアスが肥える。この原則だけは不文律である」。





(私論.私見)