パレスチナ問題を解くための歴史 13、現代史篇その7、2040、50年代

 更新日/2023(平成31.5.1栄和/令和5).5.21日


 2023.12月、ベンヤミン・ネタニヤフがイスラエルの首相に就任。​その4カ月後、イスラエルの警官隊がイスラムの聖地であるアル・アクサ・モスクに突入。、​10月3日、イスラエル軍に保護されながら同じモスクへ832人のイスラエル人が侵入。​イスラム教徒に対する強烈な挑発だ。ネタニヤフ首相、そして彼の後ろ盾が新たな戦争を望んでいた可能性は高い。

 アメリカやイスラエルを支配する私的権力にはガザを消滅させたい理由がある。イスラエル北部で推定埋蔵量約4500億立方メートルの大規模なガス田を発見したとノーブル・エナジーが発表したのは2010年。USGS(アメリカ地質調査所)の推定によると、エジプトからギリシャにかけての海域には9兆8000億立方メートルの天然ガスと34億バーレルの原油が眠っている。そのエネルギー資源を売るマーケットとしてヨーロッパが想定されたはずだ。ライバルはロシアということになる。

 ネタニヤフ首相の父親、ベンシオン・ネタニヤフは1910年3月にワルシャワで生まれ、40年にアメリカへ渡った。そこで「修正主義シオニズム」の祖であるウラジミル・ヤボチンスキーの秘書を務めている。その年にジャボチンスキーは死亡、ベンシオンは第2次世界大戦後にコーネル大学などで教鞭を執った。ヤボチンスキーに接近したひとりにレオ・ストラウスという人物がいる。1899年にドイツの熱心なユダヤ教徒の家庭に生まれ、17歳の頃にヤボチンスキーのシオニスト運動に加わったのだ。このストラウスは後にネオコンの思想的な支柱と言われるようになる。カルガリ大学のジャディア・ドゥルーリー教授に言わせると、ストラウスの思想は一種のエリート独裁主義で、「ユダヤ系ナチ」だ。(Shadia B. Drury, “Leo Strauss and the American Right”, St. Martin’s Press, 1997)
 ストラウスは1932年にロックフェラー財団の奨学金でフランスへ留学し、中世のユダヤ教徒やイスラム哲学について学ぶ。その後、プラトンやアリストテレスの研究を始めた。(The Boston Globe, May 11, 2003)
 1934年にストラウスはイギリスへ、37年にはアメリカへ渡ってコロンビア大学の特別研究員になり、44年にはアメリカの市民権を獲得、49年にはシカゴ大学の教授になった。
 ストラウスと並ぶネオコンの支柱とされている人物が、やはりシカゴ大学の教授だったアルバート・ウォルステッター。冷戦時代、同教授はアメリカの専門家はソ連の軍事力を過小評価していると主張、アメリカは軍事力を増強するべきだとしていたが、その判断が間違っていたことはその後、明確になっている。
 ヤボチンスキーの系譜に属すネタニヤフ親子やネオコンはユーフラテス川とナイル川で挟まれている地域を支配しようとしている。「大イスラエル構想」だ。

 2023.10.9日、「イスラム組織ハマスがイスラエルに大規模攻撃、これまでの経緯は」。
 10.7日午前6時半ごろ、パレスチナ自治区ガザ地区を実効支配するイスラム組織ハマスが、大規模な奇襲攻撃を実施しロケット弾がイスラエル上空に飛来した。サイレンはテルアビブの地域でも聞こえた。イスラエル軍によれば、イスラエルに向けて発射されたロケット弾は約2200発。ハマス側は5000発を発射したとしている。ハマスのメンバーが陸海空からイスラエルに侵入した。パラグライダーを使ったものもいた。これにより数百人のイスラエル人が死亡した。ハマス軍事部門のデイフ司令官は今回の作戦を「アルアクサの嵐」と呼び、イスラエルに対して攻撃を行ったことについて、女性への攻撃やイスラム教の聖地「アルアクサ・モスク」に対する冒とく、現在行われているガザ包囲への対応だと説明した。ハマスは、イスラエル軍兵士を拘束したとし、拘束したとされる兵士の動画をSNSに投稿している。

 これを受けて、イスラエルは8日、報復の空爆を行い、正式に宣戦布告した。イスラエルのネタニヤフ首相はハマスによる攻撃の直後、ビデオメッセージで、「我々は軍事作戦ではなく、戦争状態にある」と述べた。ハマスは大量のロケット弾を撃ち込んだほか、武装集団をイスラエルに送り込み、多方面にわたる前代未聞の攻撃を行った。イスラエルは攻撃を受けて、「ソード・オブ・アイアン」作戦を開始し、ガザ地区の複数の目標を攻撃した。ネタニヤフ氏は、ハマスが多大な代償を支払うことになると述べた。 イスラエル軍はガザ地区の民間人に対して、即座に居住地域を離れるよう呼び掛けた。

 今年は特に暴力が激化している。ヨルダン川西岸地区でイスラエル軍によって殺害されたパレスチナ人の数は、武装組織のメンバーと民間人を合わせて、過去20年間で最も多い。パレスチナ人による襲撃で死亡したイスラエル人や外国人の数もやはり過去最多の水準となっている。殺害されたのは大部分が民間人だ。 イスラエルとハマスの武力衝突は87年に起きた、イスラエルによるガザ地区とヨルダン川西岸地区の占領に反対する第1次インティファーダ(対イスラエル蜂起<ほうき>)にさかのぼる。 イスラエルは67年の戦争でエジプトからガザ地区を奪ったが、2005年にガザ地区から撤退していた。ハマスは07年、パレスチナ自治政府の主流派「ファタハ」と衝突した後、ガザ地区を支配下におさめた。ガザ地区には約200万人のパレスチナ人が暮らす。 ハマスがガザ地区を掌握した後、イスラエルとエジプトはガザを厳重に包囲した。イスラエルはガザ地区の空と海も封鎖している。
 ハマスとは

 ハマスは軍事部門を有するイスラム組織で、イスラム教スンニ派の「ムスリム同胞団」を母体に1987年に発足した。 ハマスという単語自体は、「イスラム抵抗運動」のアラビア語の頭文字から来ている。ハマスは、パレスチナの大部分の派閥や政党と同じく、イスラエルは占領国であり、パレスチナを解放しようとしていると主張している。ハマスはイスラエルを国家として認めていない。 イスラエルを国家として承認していないことが、ハマスにとって、イスラエルとパレスチナ解放機構(PLO)の間で成立した93年の「オスロ合意」に反対する理由の一つとなっている。 ハマスは自身について、イスラエルを承認し、和平構想に何度も失敗しているパレスチナ自治政府に代わる存在と位置づけている。 ハマスは何年にもわたり、イスラエルに対して複数の攻撃を行っており、米国や欧州連合(EU)、イスラエルはハマスをテロ組織に指定している。

 「ガザにおける今回の戦闘激化が提起した疑問
 2023年10月8日、パレスチナ武装勢力がガザ市からイスラエルに向けて発射したロケット弾。(AFP)
 また始まった。イスラエル国内でのハマスによる驚くべき攻撃を受け、2005年以降6回目となる、イスラエルによるガザへの軍事作戦が本格化している。軍事作戦の再開は驚くことではない。それは避けられなかった。ガザは何も変わっていなかったのだから。衝撃的だったのは、ハマスがこれほど劇的で血なまぐさい作戦を試み、成功させたことだ。危機は進行中であり、詳細がほとんど確認されていない状態であるため、初期評価にはリスクが伴う。7日未明にガザで起きたハマスの攻撃は、多くの疑問を投げかけた。これまでのところ、はっきりした答えはほとんどない。

 ハマスがこのようなかつてない規模の奇襲攻撃を仕掛けたのはなぜか。なぜこのような大胆で無謀な行動にでたのか。ハマスは何を達成したいのか。民間人を殺すことが彼らの大義にとってプラスになるのか。民間人を標的にすることは戦争犯罪である。ハマスがイスラエルの子どもたちをガザに連れ去ったこともあったようだ。ハマスによれば、それはアル・アクサに対するイスラエルの脅威を阻止し、囚人を釈放させるためだという。それは事実なのだろうか。それとも他の問題が関係しているのだろうか。誰がこの決定を下したのか。そしてハマス指導部のどこがこの極秘作戦を知り、承認したのか。イランやその他の第三国がハマスに働きかけているのだろうか。パレスチナ市民が今後耐えなければならない恐怖について、少しでも考えた者はハマスの中にいたのだろうか。
 イスラエルはどう動くのか。またしてもガザへの長期的な砲撃や地上侵攻が行われるのだろうか。イスラエル史上もっとも過激な現政権は、その軍事行動の際、さらに残忍になるのだろうか。イスラエルは、ガザ地区の完全かつ直接的な軍事再占領を目指すのだろうか。イスラエルは占領国ではあったが、ほとんどの場合、休戦ラインや海、空からガザを支配してきた。これは、ガザ地区内にイスラエル軍が戻ってくることを意味するが、それはほとんどの人にとって歓迎されないシナリオだ。どのような作戦が実施されるにせよ、最後には首が飛ぶことになり、その中にはベンヤミン・ネタニヤフ首相の失脚も含まれるだろう。

 パレスチナ自治政府に何かできるのか、あるいは何かするつもりはあるのだろうか。多くの選択肢があるのだろうか。あるとしても、これは自国民を救うための解決策も戦略も持ち合わせていないマフムード・アッバス大統領の弱みを露呈させただけだ。一部の人々はそれを誤った判断だと見なすかもしれないが、パレスチナ人の多くは、ハマスが何かをしようとしていると見るだろう。

 どのような事態が予測されるだろうか。これは短期的な戦闘激化で終わりそうもない。イスラエルは、2014年にヨルダン川西岸で10代のイスラエル人3人が誘拐されたときのように、危険な地上侵攻を選ぶかもしれない。ハマスは、可能な限り、イスラエルにロケット弾を撃ち続けるだろう。暴力はおそらくガザだけにとどまらない。すでに東エルサレムのシュアファトキャンプ内で衝突が表面化していることが報じられている。ヨルダン川西岸地区のパレスチナ人は、検問所に閉じ込められながら生き延びなければならない。一方、入植者たちは、より多くの土地と水を奪うという長期的な戦略目標に向け、さらに多くのパレスチナ人が村や先祖代々の土地から逃げ出さざるを得ないような、強制的な環境を作り出そうとしている。

 ハマスとイスラエルの間で、先週の状況に戻るための短期的な取引が行われる可能性はあるだろうか。その可能性はきわめて低い。イスラエル国内に向けては、イスラエルの情報・安全保障における1973年以来最大の失敗に対応する姿を見せなければならないことをネタニヤフ首相はわかっている。このことは安全保障体制全体を揺るがすだろう。ハマスの中には、イスラエルの捕虜を確保することが自分たちのカードになる、保険になると考えている者もいるかもしれない。しかしこれは非常に疑わしい。少なくとも、イスラエル軍がハマスの能力に甚大なダメージを与え、教訓を与えたと彼らが見なすまでは。
 長期的な解決策を見出すことを優先し、リーダーたちが責任のなすりあいをやめてくれるといいのだが。
 クリス・ドイル

 しかし、長期的な視点において最大の問題は、国際社会がどのように対応するかである。イスラエルとハマスが対立するたびに採用されてきた伝統的な脚本に従えば、両国民の期待を裏切ることになる。サウンドバイトやスローガンは戦略の代わりにはならない。たしかにイスラエルには自衛権がある。しかし、パレスチナ人にも同じ権利があるという声は聞かれるだろうか。国際社会はイスラエルに、自衛には限界があり、民間人への積極的な攻撃はその範囲を超えるものであることを思い起こさせるだろうか。そして、冷静さを取り戻すことが大事だという金言が聞かれることはあるのだろうか。占領下での生活は侵略であり、決して穏やかではない。

 国際社会は明確に発言し、断固として行動する必要がある。ハマスはすでに制裁を受け、孤立している。ガザに住む200万人以上の人々に対する、イスラエルとエジプトによる16年にわたる封鎖を終わらせる取り組みはどうだろうか。これは民族全体に対する集団的懲罰であり、戦争犯罪である。パレスチナ人を野外刑務所に閉じ込め、貿易も旅行も普通の生活もできないようにするのは紛争のもとである。パレスチナ人は、動物でさえ口にすべきでないほどひどい水の、過密スラムに住んでいる。ガザの人々を人間として見るときだ。このような封鎖が子供たちにどのような影響を与えるか、この地獄のような場所を一度もでたことがない80万人の子供たちには外の世界がどんなものかという概念もないというのがどういうことか、私たちは考えるべきだ。ヨルダン川西岸地区におけるイスラエルの違法行為を無視してきた結果でもある。

 国際社会が何もしなければ、私たちは多数の人命の損失と人々の生活の破壊を目にすることになる。すでに両国民の死者数は3桁に達しており、イスラエルの軍事作戦が続けば、パレスチナ人の死者数は刻一刻と増えていくだろう。また、ヒズボラは今のところ関与していないが、北方戦線にまで対立が広がる危険性もある。

 長期的な解決策を見出すことを優先し、リーダーたちが責任のなすりあいをやめてくれるといいのだが。これらの解決策は、すべての人々にとって得るものがなくてはならない。それは、ガザの人々が自由に息をできるようになり、抑圧や占領から解放された新しい生活を夢見ることができるようになることだ。適正かつ合法的な経済生活の繁栄を認めるということだ。そして、ガザのパレスチナ人とヨルダン川西岸地区のパレスチナ人の交流を妨げる封鎖を終わらせることだ。

 それはまた、ガザ周辺のコミュニティーに住むイスラエル市民が、ロケット弾や迫撃砲による攻撃や、今回のようにコミュニティに侵入してくる武装戦闘員による攻撃から解放され、安全に暮らせることでもある。

 そのいずれも、明確で実行可能な政治的プロセスなしには実現しない。米政権は今年、イスラエルによる行動の多くに対し、より力強く発言してきたが、それは当然のことである。しかし、パレスチナ人の苦境に対処するための政治的なプロジェクトは何も進展させていない。


 アメリカがイスラエルとサウジアラビアの正常化合意を推進する中、サウジアラビアはパレスチナ問題に対する真の解決策を放棄するよう圧力を受けてきた。サウジアラビアがこれに対抗し続けているのは正しい判断だ。

 これらの出来事からあらためてわかるのは、この紛争の核心にあるのはパレスチナ人の未来だということである。あるイスラエル人コメンテーターが言うように、「ガザの生活が地獄である間は、イスラエルが楽園になることはない」のだ。この問題を公正かつ合理的な方法で解決しなければ、世界中のいかなる国交正常化交渉も、イスラエル人とパレスチナ人に平和と安全をもたらすことはない。

 クリス・ドイル氏は、ロンドンを拠点とするアラブ・イギリス理解協議会の会長である。エクセター大学でアラビア語とイスラム研究を専攻し、最上級の優等学位で卒業した後、1993年から同協議会で勤務している。アラブ諸国への議会代表団を数多く組織し、同行してきた。
X: @Doylech

 イスラエル・レバノン国境の緊張は想像を絶する事態への懸念をもたらす
  次の地域的あるいは世界的な災難を予知することに熱心な破滅論者ならば、イスラエル・レバノン国境での最近の緊張に目を向ける価値があるかもしれない。この緊迫した国境で大規模な戦争が起こってから17年が経った。イスラエルとヒズボラが再び戦うことで誰が得をするのか想像するのは難しいが、今や不可能なこと、考えられないことが、しばしば「可能」の扉をノックする時代である。戦争が起こる可能性はどれほど現実的なのだろうか。国境での事件は紛れもなくエスカレートしている。レバノンの国連平和維持軍(UNIFIL)は、イスラエルとレバノンの過激派組織ヒズボラの双方が、国境「ブルーライン」間の国際的な協定に違反していると非難している。UNIFILは、中東でいつまでも存続する暫定的な組織の1つだが、少なくとも重要な警告システムとしての役割は果たしている。イスラエルの軍事アナリストは、紛争の可能性は2006年以降、いつにも増して高まっていると考えている。 レバノン人なら誰もが知っているように、イスラエルは意のままに、そしてあまりにも恒常的にレバノン領空を侵犯してきた。UNIFILは、今年最初の4カ月だけで131件の領空侵犯を報告し、そのすべてが国連安全保障理事会決議1701に違反していたと述べている。イスラエルは3月、過激派が国境を越え、メギド近郊の道路沿いに爆弾を仕掛けたと主張した。そして4月初旬、イスラエル軍は、ハマスがイスラエルに向けて34発のミサイルを一斉発射したと非難した。その後、イスラエル機は、レバノンのティール南部にあるパレスチナ難民が居住するラシディヤ・キャンプ付近の3カ所を攻撃した。

 5月と6月、ヒズボラはブルーラインの反対側100フィート(約30メートル)の場所に2つのテントを設置した。ヒズボラの指導者であるハッサン・ナスラッラー師は、イスラエル、レバノン、シリアの国境の交差点に位置し、ブルーラインが2つに分かれているガジャール村の一部をイスラエルが封鎖したことに抗議してテントを建てたと主張した。イスラエル軍は、UNIFILが退去を要請したにもかかわらず、2006年に占領した村の北部から一度も撤退していない。イスラエルは国境のインフラを強化しているが、ヒズボラも存在感を高めている。
 イスラエルとヒズボラはシリア国内でより直接的に対立している。
 クリス・ドイル
 イスラエルとヒズボラはシリア国内でより直接的に対立している。イスラエルは、イランからレバノンのシーア派組織へのハイテク兵器の移転に関与しているとイスラエルが主張するシリア国内の拠点を頻繁に爆撃している。ヒズボラがそれを快く思うわけがない。しかし、どの当事者にとっても失うものが多い。レバノンもしくはイスラエルに、戦争をする余裕があるのか。ヒズボラ、シリア政権、イランはどうか。

 イスラエルもレバノンも、国内の広範な政治的混乱に直面している。イスラエルは過去31週間、イスラエル史上紛れもなく最も過激で暴力的で反民主的な連立政権が推し進める司法改革に反対する大規模な抗議デモに耐えてきた。パイロットを含むイスラエルの予備兵たちは兵役を拒否している。

 ヒズボラや他のグループがイスラエルを弱い標的と見なすのは賢明ではないだろうが、ベンヤミン・ネタニヤフ首相がイスラエルに再びもたらした混乱を利用しようと考える者が出てくるかもしれない懸念がある。ネタニヤフ氏といえども、リスクを考慮すれば、国民の気をそらすためのレバノンへの攻撃はためらうかもしれない。イスラエルにとってガザは、これまでずっと、この点ではるかにリスクの少ない攻撃対象だった。

 ヒズボラについては、イスラエルの出来事に細心の注意を払っているのは確かだ。ナスラッラー師は、自身の見解を臆面もなく語り、イスラエルは「崩壊、分裂、消滅への道を歩んでいる」と主張した。ヒズボラがテントを設置したのは、イスラエルの意思を試すためだったのだろうか。


 レバノンは4年間、政治的、経済的、社会的危機に耐えてきた。そのことは先週、まだ誰も責任を問われていないベイルート港爆発事故から3周年を迎えたことで、痛々しいほど浮き彫りになった。10月末以来、レバノンでは大統領職の空席が続いている。国会は新大統領の選出に12回失敗している。レバノンには適切な政府だけでなく、大胆で思い切った、痛みを伴う改革が必要だ。

 国際社会はレバノンを支援する道筋を見いだせないでいる。経済状況は悲惨を極めており、政府は根本的な問題に対処することができない一方で、枯渇した外貨準備を食いつぶしている。レバノン人は、失業率の急増、食料や医薬品の深刻な不足、日常的な停電に直面している。世界食糧計画(WFP)によると、レバノンの食料価格のインフレ率は350%と世界で最も高くなっている。

 その他の不安定要因としては、レバノンにいる150万人のシリア難民の将来が挙げられる。レバノン人は10年以上にわたって難民を受け入れ、信じられないほどの寛大さを示してきたが、レバノンのシリア政権支持者が反難民的な偏見を煽ることに熱心で、善意は枯渇しつつある。
 ヒズボラや他のグループがイスラエルを弱い標的と見なすのは賢明ではないだろう。  
 クリス・ドイル
 アイン・アル・ヒルウェにある最大の国連パレスチナ難民キャンプでの戦闘(現在の死者数は13人)も同様に、パレスチナ問題がレバノンで依然として根強いことを示している。相変わらず、何千人もの人々が戦闘で避難し、いつ戻れるか分からない状態だ。ハマスによるロケット弾攻撃が示しているように、パレスチナのグループも国境での敵対行為に関与する可能性がある。

 イスラエルとレバノンが昨年署名した重要な海上国境協定も、紛争が起きた場合のリスクを高める変化だ。双方の多くが強い疑念を抱いていたが、合意に至った。協定のメリットは大きい。というのも、大規模なガス田は、レバノンが盲目的に陥った深い穴から抜け出すのに役立つかもしれないためだ。

 レバノンの情勢は緊迫している。ほとんどのレバノン人は、国境をめぐる出来事に対して、自分たちにはどうすることもできないと感じている。「私たちは無力だ。私たちの運命は相変わらず他者の手に委ねられている」と、あるレバノンの学者は私に言った。これは、よく耳にする意見だ。イスラエルとヒズボラの対立はどのような影響を及ぼすのだろうか。あらゆることが、破壊と人命の損失が、1000人以上のレバノン人と159人のイスラエル人が命を落とした2006年7月の34日間の戦争よりもはるかにひどいものになるだろうということを示している。

 イスラエルの指導者たちは一貫して、ヒズボラとの将来的な戦争を躊躇しないと明言している。歴代の政治的・軍事的指導者が脅してきたように、イスラエルはレバノンをはるかに激しく攻撃する可能性があるが、イスラエル当局者でさえ、ヒズボラの能力が大きな進歩を遂げたことを認めている。イスラエルは、ヒズボラが2006年にはわずか1万5000発だったロケット弾を今では約13万発保有しており、イスラエル全土の標的を攻撃できると計算している。とはいえ、シリアとイランの政権に代わってヒズボラがシリアに関与したことで、ヒズボラの地域的地位は損なわれた。2006年、ヒズボラは、敵対勢力を困惑させ、多くの人々に英雄的に描かれた紛争から離脱した。今日、ヒズボラははるかに二極化している。

 論理的に考えれば、互いに損をすることは確実であり、従って、戦争はいかなる当事者にとっても望むべきものではない。イランでさえ、万一イスラエルがヒズボラを攻撃するようなことがあった場合、ヒズボラを介した対応能力を失うリスクを冒したくはないはずだ。

 軍事的勝利が戦略的な政治的勝利につながるかどうかは、まったく分からない。しかし、この国境が緊迫するたびに、人々は偶発的な戦争を懸念する。賢明な頭脳が冷静さと統制を保てば、こうした緊張は収まるかもしれないが、あまりに多く存在する感情的で短絡的な人々が、考えられないようなことをする可能性は十分にある。

 クリス・ドイルは、ロンドンを拠点とするアラブ英国理解評議会のディレクター。エクセター大学でアラブ・イスラム研究の第一級優等学位を取得し、1993年から同評議会に所属している。これまでに数多くのアラブ諸国への英国議会代表団の取りまとめ、および同行を行っている。Twitter: @Doylech
 多大なる犠牲を払ったイラク介入を絶対に繰り返してはならない

20年前の3月、イラクに戦争を仕掛けるという英国と米国が下した決断の結果が、それ以後、イラクと周辺地域を悩ませてきた。この戦争により、この2カ国の地位が低下し、米国は中東だけでなく世界全体への影響力を失った。

夢の世界の住人だけが、侵略とその後の占領が大失敗ではなかったと認めることができないでいる。戦争を支持した多くの人々は、大失敗だったと認めている。一部の政治家は、戦争を支持したことを後悔していると公に認めている。

イラク戦争の是非について、議論は尽きないかもしれない。この苦い過去の記憶が、イラクという国についての議論を汚してしまう。この議論を蒸し返すことは無意味である。さまざまな調査機関が私たちイラン国民のために調査を行っている。英国のチルコット報告書には、英米の失敗について、260万語に及ぶ分析の中で驚くべき批判を展開した。150ページに及ぶ報告概要は、じっくりと読む価値がある。

イラク戦争について、ある目新しさが際立っている。軍事行動に関するその後の意思決定を損ない、将来においても再び影響を及ぼす可能性があるのである。当然のことながら、議会は戦争に踏み切る際の発言力を高めてきた。

2003年の英国下院の議決は、議会が事前に戦争の許可を与えた史上初の出来事だった。これは、緊急事態を除き、軍事行動については下院で議論した上で議決すべきとして、先例となった。

英国やその他の国で選挙で選ばれた政治家は現在、このようなことにも判断を下さねばならない、厄介な義務を負っている。英国では、2011年のリビア、イラクのダーイシュ、そしてシリアに対する武力行使に賛成したが、2013年8月のシリアに対する武力行使は反対した。多くの国会議員がイラクについて賛否を表明することを負担だと感じている。国会議員はもう、イラクにおける差し迫った安全保障上の脅威を知らせる自国の首相に盲目的に従う覚悟を持たなくてもよい。

しかし、かつてないほど多忙な政治家が、どうすればイラク、リビア、シリアのような紛争地域を理解するために必要な時間を注ぎ込むことができるのか。国会議員がにわか仕立ての専門家にはなれない。率直に言って、国際問題、特に中東についての深い知識や理解で選出されたという議員はいない。そんな時代は遠い昔のことだ。政治家は有権者の関心事に時間を割かなければならないのである。政治の関心がますます局所的になっている。

2003年当時もそうだったが、間違いなく、この傾向は強まっている。明らかに、国会議員は効果的に行政を精査できず、壊滅的な結果を招いた。2002年10月、議会は武力行使を承認した。多くの人、とりわけ米国の多くの人が、イラクに民主主義を輸出すれば、イランやシリアのような周辺国にドミノ効果をもたらすことになるという、単純な考え方で、何年も前からイラク侵攻について考えを固めていた。イラクのサダム・フセイン政権が依然として、兵器開発の計画を進行させているという、基本前提に疑問を呈する人があまりにも少なかった。2003年当時、ウェストバージニア州の民主党のロバート・バード上院議員は、上院がイラクに関する議論にほとんど時間を割かなかったことを批判した。

イラクについて、最も激しく辛辣な議論が行われたのは英国議会であった。トニー・ブレア首相は議決を得ることができたが、その背景には、街頭で戦争反対の抗議をしていた何百万人もの国民の存在があった。

しかし、2002年から2003年まで長時間かけて行われた議論を見直すと、一つのことがはっきりと浮かび上がる。この時代を振り返ってみて、チルコット報告書でさえほとんど取り上げられていない、ある要因である。それは、イラクという国に対する関心や知識が驚くほど欠如していることだ。議論の中心は、大量破壊兵器の存在と正当性、アルカイダによるイラク政権への協力の有無だった。13年に及ぶ残酷な制裁と数十年にわたるサダム政権の支配の後も生き延びようとするイラク国民に何が起こるのか、考えられていなかった。

国会議員は効果的に行政を精査できず、壊滅的な結果を招いた。

クリス・ドイル

占領国になることについて、どこで議論がなされたのだろうか。米国と英国は数週間で、国連の役割について明確にせずに、主権国家を交戦国が占領することにしたのである。この占領には、2500万のイラク国民に対し、法的・倫理的に重大な責任が伴う。議論の中で支援についての言及はあったが、紛争後の統治については、仮にあったとしてもまれであった。米国と英国は一体、イラクをどのように統治するつもりだったのか。

略奪に遭ったイラク博物館など主要な施設のセキュリティについて、適切な計画が考えられていなかったのも、何ら不思議ではない。連合国暫定占領当局代表のポール・ブレマー氏が、イラク軍の解散やバース党員の排除の方針を決めたことは、米国や英国の議会で問題にされなかった。

イラク国民は侵略してくる軍隊を諸手を挙げて歓迎し、その到着を祝ってくれるだろうと、誰もが思い込んでいた。一部のイラク国民は歓迎した。しかし、占領軍が基本的なサービスを回復させることができなかったため、イラク国民の喜びはすぐに冷めてしまった。イラクの歴史を少しでも知っている人であれば、イラク国民は誇り高い国民であり、外国の占領下に置かれることを進んで受け入れないことは、自明であっただろう。当時、英国の野党のリーダーだったイアン・ダンカン・スミス氏は、「サダム・フセインがいなくなっても、誰も涙を流したりしないと断言できる」と語った。多くのイラク国民がサダム・フセインを敬愛していなかったかもしれないし、涙を流さないもっともな理由もある。しかし同時に、政権崩壊後に何がおきるのか、次の支配者が誰か、無政府状態の危険性についても恐れを抱いていた。

中東地域の専門家、特にアラブ支持者が多くのイラク国民と同じことを恐れていたが、無視された。2002年11月、6人の学者がブレア首相に対し、イラク占領がいかに困難であるかについて説明した。この6人を含む他の学者たちも、イランとシリアの両国が、英米の侵略と占領を徐々に損なうことが自国の利益になるとみなすようになると警告したが、結局、イランとシリア両国は極めて効果的に実行に移した。イランはイラクに固執した。政治家はまたしても、このような国家建設がいかに難しいのか、十分に理解できなかった。

イラクの専門家に相談したり、信頼したりできなかったのも特徴である。2003年当時、計略を隠そうともしないイラク人のアフマド・チャラビーのような人物に、あまりにも多くのイラク国民が心を奪われていた。サダム・フセインを嫌悪するイラク国民なら、イラク占領における複雑な問題を説明できる人が他にもたくさんいたはずだ。今もシリアの専門家は、自国のことが議論されているその場に同席していないのである。中東以外の大国は、その教訓を学ぶべきである。

しかしほぼ間違いなく、中東以外の大国の議会で行われた、介入についてのその後の議論は少しは改善されている。政治家たちは自らの責任を受け入れている。それが政治家にとっての重しとなっている。リビアについては、出口戦略や最終目標について、これまでより多くの疑問が投げかけられた。しかし、それでも不十分で、再び悲惨な介入を防ぐことはできなかった。その根底には、再び、ムアンマル・カダフィのリビアに対する深い理解が欠如していた。

もし米国や欧州の選挙で選ばれた政治家が、世界の他の地域への介入について議論し賛否を決めるのであれば、戦争の根拠を精査し、戦後についての計画を立てるために、適切な時間と労力と資源を割くことが、これらの国の議会の責務である。2003年の貧弱な議論と不十分な精査のために、イラク国民は途轍もない犠牲を払い、いまも犠牲を払い続けているのだ。このようなことを決して繰り返してはならない。

 クリス・ドイルは、ロンドンのアラブ・イギリス理解推進協議会(Council for Arab-British Understanding)の会長(director)である。
Twitter: @Doylech

1962  ローマ教皇ヨハネ23世が第2ヴァティカン公会議を開催する。カトリックの現代化が打ち出される。
1962  有賀寿、キリスト者学生会(KGK)初代総主事に就任。
1963  選挙の時、ベングリオンは新政党「Rafi」を旗揚げする。Rafiはベングリオン自身も含む10議席を獲得し、1970年まで議席を保ち続けたが、ベングリオンの政治生命はもう終わっていた。なお、ベングリオンと共に槍玉に挙げられた他の二人は、皮肉にもベングリオンとは対照的な日のあたる人生を歩み始める。シモン・ペレスは後にイスラエル首相となり、ダヤン将軍は、1967年の第三次中東戦争では見事な三正面作戦を成功させ、わずか6日で10倍のアラブ軍を撃破する大勝利を収めました。
1964  第一回アラブ首脳国会議。
1964  三浦綾子、「氷点」を著す。
1964.5  【パレスチナ民族解放機構(PLO)結成される】アラブ諸国の肝いりで、穏健派のパレスチナ解放機構(PLO)が結成された。メンバーは以前から知られていた政治指導者たちであり、エジプトのナセル大統領のコントロール下にあった。あくまで政治勢力であり、結成当初は武装闘争組織ではなかった。パレスチナ国民憲章制定。
1965  【「急進派ファタハ」が結成される】「急進派ファタハ」が結成され、シリアに支援されて、イスラエルに対するゲリラ攻撃を開始した。以降、ゲリラ活動が発生し、他ののパレスチナゲリラも攻撃を行うようになった。このゲリラ活動により、アラブとイスラエルの緊張は高まった。
1965  バチカンが、「第二回バチカン公会議」において、「イエス処刑に責任があるのは直接関与したユダヤ人だけだ」との公式声明を出し、ユダヤ勢力に歩み寄りの姿勢を示した。
 西方教会(カトリック)のローマ教皇パウロ6世と東方教会(正教)のコンスタンティノープル総主教が相互破門を解除して和解し、東西教会の対立解消する。
1967.2  【パレスチナ解放人民戦線(PFLP)が結成される】マルクス主義者ジョルジュ・ハバシュ氏らがパレスチナ解放人民戦線(PFLP)を創設。反主流派で最大のPLO内の第二勢力となった。シリアとリビアの支援を受け、兵力800名規模。
1967.5.22  アラブ側は戦争の準備を着々と進めていった。対イスラエル強行派のエジプトのナセル大統領が、突如紅海とアカバ湾を結ぶチラン海峡封鎖を宣言。軍を差し向けシナイ半島に進駐させた。

 (解説)
 1922年のイギリス支配時代、66万8000人のアラブ人がパレスチナの土地の98%を所有していたのに対し、8万4000人のユダヤ人は2%の土地を所有しているに過ぎなかった。1948年のイスラエル共和国建国の時になると、76万人に膨らんだユダヤ人がパレスチナ領土の75%以上を支配するようになり、135万人のアラブ人がパレスチナから追い出されてしまったのである。1967年に第三次中東戦争が勃発すると、236万人のユダヤ人がパレスチナ全土を支配するようになり、パレスチナ難民は約300万人にまで膨らむ。

【第三次中東戦争(六日間戦争)勃発】
 1967.6.5日、イスラエルにとって、アカバ湾はインド洋への唯一の航路だった。イスラエル空軍はエジプト各地の空軍基地を電撃的に攻撃し、第三次中東戦争が勃発した。これによりエジプト空軍は壊滅的打撃を受けた。ダヤン国防相の指揮するイスラエル軍は、東部でヨルダン、北部でシリア、南西部でエジプトという「三正面」で交戦し、全てに勝利した。アラブ側はイスラエルに制空権を握られ、ゴラン高原、ヨルダン領の東エルサレムとヨルダン川西岸、エジプト領のガザ地区、シナイ半島などを占領された。

 エジプト、ヨルダン、シリアは停戦を受け入れた。この戦争はアラブ側の敗北で、6日間で終わった(1967.6.5日~6.10日)。故に6日間戦争(第三次中東戦争)と呼ばれる。イスラエルが、西岸、ガザ、シナイ半島、ゴラン高原、エルサレムを獲得した。ナセル大統領(エジプト)による汎アラブ民族主義が失墜した。中東革新陣営諸国によるアラブ統一・社会主義路線も敗北した。
約2000年振りにエルサレムがユダヤ人国家の都に。
 (解説)
 第三次中東戦争は、イスラエルの圧倒的勝利に終わった。イスラエルはこの戦勝により更に領土を拡大した。東エルサレムを含むヨルダン川西岸、エジプトの領土だったガザ地区とシナイ半島をも支配下においた(エジプトはシナイ半島全域を失ったことになる)。

 右派政党リクードの「大イスラエル主義者」らによる西岸とガザ地区への入植地建設が始まった。

 約40万人のパレスチナ人が難民となり、ヨルダン川東岸に逃げ込んだ。ヨルダンの人口約200万人の内74万人がパレスチナ人となった。この人口構成により、ヨルダンでは大きな政治勢力としてパレスチナ人を抱え、国内政治情勢は不安定となった。

 イスラエルは統一されたエルサレムを「首都」と宣言した。しかし、各国(日本を含め)はこれを認めていない。あくまでテルアビブが首都であるとして、大使館はテルアビブにおいている。 国連総会は、イスラエルによる東エルサレム併合に対する撤回決議を採択したが、イスラエルはこれに拒否し今日に至っている。


 東エルサレムは以降イスラエルに占領されることになったが、中心部の「旧市街」にはイスラム、ユダヤ、キリスト各教の聖地があり、パレスチナ人約21万人が住む状態の中での占領であり、この宗教上の聖地問題が「パレスチナ問題」の複雑さに更に輪をかけていくことになる。


 (日本を含め)これを認めていない。あくまでテルアビブ首都であるとして、大使館はテルアビブにおいている。 国連総会は、イスラエルによる東エルサレム併合に対する撤回決議を採択したが、イスラエルはこれに反論した。
そして1967年6月5日に始まった第3次中東戦争。この年の3月から4月にかけてイスラエルはゴラン高原のシリア領にトラクターを入れて土を掘り起こし始めて挑発、シリアが威嚇射撃するとイスラエルは装甲板を取り付けたトラクターを持ち出し、シリアは迫撃砲や重火器を使うというようにエスカレートしていった。

 しかし、この時にイスラエルはシリアに対し、イスラエルに敵対的な行動を起こさなければイスラエルとエジプトが戦争になってもイスラエルはシリアに対して軍事侵攻しないと約束していた。

 軍事的な緊張が高まったことからエジプトは1967年5月15日に緊急事態を宣言、部隊をシナイ半島へ入れた。5月20日にはイスラエル軍の戦車がシナイ半島の前線地帯に現れたとする報道が流れ、エジプトは予備軍に動員令を出す。そして22日にナセル大統領はアカバ湾の封鎖を宣言した。

 イスラエルはこの封鎖を「イスラエルに対する侵略行為」だと主張、イスラエルの情報機関モサドのメイール・アミート長官が5月30日にアメリカを訪問、リンドン・ジョンソン米大統領に開戦を承諾させた。そして6月5日にイスラエル軍はエジプトに対して空爆を開始、第3次中東戦争が勃発する。

 戦争が勃発した4日後にアメリカは情報収集船のリバティを地中海の東部、イスラエルの沖へ派遣するが、そのリバティをイスラエル軍は8日に攻撃している。偵察機を飛ばしてアメリカの艦船だということを確認した後の攻撃だった。ロケット弾やナパーム弾が使われているが、これは船の乗員を皆殺しにするつもりだったことを示している。

 それに対し、リバティの通信兵は壊された設備を何とか修理、アメリカ海軍の第6艦隊に遭難信号を発信するが、それをイスラエル軍はジャミングで妨害している。

 遭難信号を受信した空母サラトガの甲板にはすぐ離陸できる4機のA1スカイホークがあった。艦長はその戦闘機を離陸させたが、その報告を聞いたロバート・マクナマラ国防長官は戦闘機をすぐに引き返させるように命令している。

 その後、ホワイトハウス内でどのようなことが話し合われたかは不明だが、しばらくして空母サラトガと空母アメリカは8機の戦闘機をリバティに向けて発進させた。

 この戦争で圧勝したイスラエル軍はガザ、ヨルダン川西岸、シナイ半島、ゴラン高原を占領している。ゴラン高原の西側3分の2は今でもイスラエルが不法占拠している。勿論、イスラエルはそうした占領地を返すつもりはない。残りの地域を制圧する作戦を進めているのだ。

【第三次中東戦争(六日間戦争)勃発】
 「★阿修羅♪ > 戦争b24」の「HIMAZIN 日時 2023 年 6 月 17 日」「No. 1827 USSリバティ号:巧みに計画された事故(耕助のブログ)」。
The USS Liberty: A Well-Planned Accident by Melvin Goodman
 今日6月8日はイスラエルによるUSSリバティ号への攻撃から56年目にあたる。この攻撃は、多くの米国とイスラエルの説明によって事故であるとされてきた。実際、この攻撃が起きたのはイスラエルによる8時間の空中監視の後で、2時間の空と海からの攻撃で34人の船員が死亡し、さらに172人の軍人が負傷した。これは294人の乗組員のうち、70%が犠牲になったことになる。イスラエル側はエジプト船を攻撃したと主張したが、世界最高水準の諜報船であるリバティ号の構成からして、米国のものとしか思えないことは明らかである。空爆は30分近く続き、無標のイスラエル軍機がナパーム弾をリバティ号の艦橋に投下し、30ミリ砲やロケット弾を撃ち込んだ。この空爆には少なくとも12機のイスラエル軍機が関与していた。さらに、イスラエルの魚雷艇がリバティ号に魚雷を撃ち込み、リバティ号の消防士や担架係が船と乗組員を救おうと奮闘しているところに機銃掃射を行った。これらの魚雷艇は、水中で重傷を負った軍人を救助するために下ろされたリバティの救命いかだを機銃掃射するために戻ってきた。生存者によると、イスラエルのパイロットは、この船がアメリカの国旗を掲げていることを認識しながらも、攻撃してきたという。私の調査によると1967年6月8日の早朝、巨大なアメリカ国旗が掲揚され、攻撃機によって撃ち落とされるまで一日中掲揚されていた。リバティ号は常に国際海域で、わずか5ノットの速度で航行していた。さらに、イスラエル軍機がリバティ号の5つの緊急無線チャンネルをすべて妨害したため、リバティ号の無線オペレーターは遭難信号を送信することが難しかった。リバティ号の乗組は、なんとか間に合わせのアンテナでSOSを放送した。このSOSがイスラエル軍の指揮官に届くと、攻撃は即座に中止された。

 この攻撃は、1967年の「6日戦争」開始時にイスラエル軍の通信を監視していた米艦を破壊しようとする意図的なものであったと、多くの米政府関係者が証言している。しかし、彼らがそう証言したのは、公職を離れた後で、もはやリンドン・ジョンソン大統領の政権に所属していなかったからだった。このリストには、ディーン・ラスク元国務長官、ジョージ・ボール元国務次官、リチャード・ヘルムズ元中央情報局長官、ウィリアム・オドム元国家安全保障局(NSA)長官、ドワイト・ポーター元在レバノン米国大使が含まれていた。元統合参謀本部議長のトーマス・ムーア退役提督も政府を去った後、リバティのエピソードは「アメリカ全土の古典的な隠蔽工作の一つ」と結論付けている。戦時中、CIAのタスクフォースに所属していた元アナリストとして、私もその事実を証明することができる。中東での情報収集のためにNSAに出向していた海軍艦艇は、イスラエルの戦争計画に関する機密情報を提供していた。イスラエル側は、そのようなデータを傍受されないように艦艇の移動を要求していた。ジョンソン政権によるUSSリバティ号への攻撃の公式隠蔽は、アメリカ海軍の歴史上、前例のないことである。議会はこの攻撃を調査せず、生存している乗組員も攻撃について公に証言することは許されなかった。ホワイトハウスがリバティ号を守るために米海軍を出すのを止めた、という報道もあったが、私はその報道を確認することはできていない。NSAの攻撃に関する調査は、依然として機密扱いのままである。海軍の法廷では、イスラエルがなぜ攻撃し
たのかについて判断するには情報が不十分であると結論づけられた。リバティ号に関する嘘に加え、イスラエルは6日戦争の開始についても嘘をついた。開戦に向け、イスラエル側は「エジプトが侵攻の準備をしている兆候がある」と主張したが、航空戦力や装甲戦力などエジプトの準備態勢を示す情報はなかった。私は当時、エジプトは軍の半分近くがイエメンの内戦に参加している状態で、イスラエルと戦争を始めることはないだろうと主張した。国務省のアラブ派の人々は、ナセル大統領がハッタリをかましていると考え、カイロの軍備の質の低さを理由に挙げた。 飛行場でエジプトの飛行機が翼をくっつけて駐機していることから、エジプトがイスラエルを攻撃する計画はないことがうかがえた。それが、イスラエルが地上で200機以上のエジプト機を撃破できた理由だった。ずっと後になって、ジョンソン大統領の腹心の部下であったハリー・マクファーソンが開戦時にイスラエルに滞在し、レヴィ・エシュコル首相との会談に米国大使を伴っていたことを知った。会談中にイスラエルの空襲警報が鳴り始めると、イスラエル情報部長のアハロン・ヤリブ将軍が「地下壕に移る必要はない」と言い切った。イスラエル政府の最高レベルでは、エジプトの攻撃はありえないという確信があったのだ。これは、イスラエルの攻撃は先制攻撃であったという主張に反するものである。アメリカの歴史上、武力行使が腐敗した情報、あるいは単なる嘘で正当化されたことがあまりにも多い。ベトナム戦争も、2003年のイラク戦争もそうだった。私たちは大統領の嘘を容認すべきではなく、外国の公式の嘘も容認すべきではない。それは6日戦争やUSSリバティへの攻撃の場合でも同様である。

The USS Liberty: a Well-Planned Accident
https://www.counterpunch.org/2023/06/08/the-uss-liberty-a-well-planned-
accident/
 

1967.11  【国連安保理、イスラエルの占領地撤退を求めた安保理決議242を採択】 この決議は、占領地からのイスラエル軍の即時撤退と、イスラエルを含む中東地域の全ての国の生存権をうたっている。アラブ側は決議をボイコッ ト。PLOの穏健化、これに飽き足らないPFLPが結成されることになる。
1968  アル・カラーメの戦い。
1968  日本福音同盟(JEA)設立。
1969  アラファト氏がパレスチナ解放機構(PLO)執行委員会議長に就任 ヤセル・アラファトが議長に就任したアラファトは、「西岸とガザ地区に東エルサレムを首都とするパレスチナ独立国家を樹立する」との目標を掲げ、イスラエルの当該占領地域からの撤退を要求、パレスチナ人自身による解放闘争を目指すことになり、現在の紛争の基本形が出来上がった。その後、アラファト議長はPLO内現実派として国際交渉に活躍、国連でパレスチナ人の権利を認めさせるのに成功した。それと共にPLOはイスラエルの抹殺という当初の目的を変更し、イスラエルとの共存をはかるようになる。ファタハはPLOの最大勢力となった。
1969  日本基督教団、教会派と社会派の紛争に突入。
1970年  ヨルダン空港に到着した4機が同時にハイジャックされ、人質は全員解放後爆破された(黒い9月・Black September)。ヨルダン内戦。これによりヨルダンで活動していたPLOメンバーはレバノンに移動した。PLO、ヨルダンを追われ、レバノンに拠点を移す。結果、レバノン国内に於ける宗派間の政治バランスが崩れ、内戦の原因となった。
 急死したナセルの後を継いで、アンワル・サダト氏がエジプト大統領になる。ナセルが行ってきた社会主義的政策を覆し彼は保守的政策を志向した。
1970  新改訳聖書発行。日本ハリストス正教会、独立。大阪万博へのキリスト教館出展を巡り、日本基督教団で内紛。
1971.7  【ブラックセプテンバー事件】 全てのパレスチナ・ゲリラ組織がヨルダンから追放される。PLOは本部をレバノンのベイルートに移し、抵抗運動を続けることになった。
1971.11  エジプトのカイロを訪問中のヨルダン首相・ワシフィ・タル氏が暗殺される。PLO傘下のテロ組織ブラックセプテンバーの犯行であった。
1972.5  日本赤軍の岡本公三ら三人が、テルアビブのロッド国際空港(現在のベングリオン空港)で自動小銃を乱射する事件が起こった。100名近く死傷。
1972.9  イスラエルのオリンピック選手団が、ドイツ・ミュンヘンオリンピック選手村で人質に取られ、交渉不成立で11名が殺される。ブラックセプテンバーの犯行で、200名の革命戦士の解放を要求していた。
1973  ダビッド・ベングリオンはSde Bokerのキブツで、六度の戦争を目の当たりにする波乱の生涯を閉じた。人生の最後にもまた一波乱あり、彼が病床にあったのはヨム・キップル戦争の真っ最中で、エジプト軍の大攻勢にイスラエル軍が撃破されつつあった時でした。

 カリスマ的指導者」とされていますが、実際のところ、それほどカリスマがあったわけではありません。少なくとも、ワイツマン博士よりもカリスマ性はずっと劣っていました。人々がベングリオンに従ったのは、常にベングリオンが正しい判断を下してきたからです。だから、ラヴォン事件のたった一度のミスで彼の政治生命は終わりました。とは言え「建国の父」であることには変わり無く、イスラエル国民から相応の尊敬を受け続けました。現在、テルアビブのダビッド・ベングリオン空港(旧ロッド空港)で、彼の名を偲んでいます。

【第4次中東戦争(ヨム・キプール戦争)勃発】
 1973.10.6日、サウジアラビアは、アメリカが中東の抱える諸問題を解決しようとせずイスラエルを軍事支援するアメリカを激しく非難した。10.6日、エジプト軍がスエズ運河東岸を、シリア軍がゴラン高原に進撃して、アラブ諸国対イスラエルの第四次中東戦争が勃発した。1973.10.6日~10.26日まで続く戦争となった。

 10.15日には、サウジアラビア軍も参戦して、アラブ側参戦国は10ケ国に達しましたが、アメリカの巨大な軍事力を背景にしたイスラエル軍がアラブ側を圧倒した。
 1973.10.17日、OAPEC(アラブ石油輸出国機構、クウェート、リビア、サウジアラビア、アラブ首長国連邦、アルジェリア、カタール、バーレン、イラク、シリア、エジプトの十カ国)は、いわゆる「石油戦略」を発動した。これは、親イスラエル国に対して石油輸出禁止や削減政策を断行するというものであり、原油価格を70%値上げするというものだった。世界に「オイルショック」が襲い、アラブの石油に頼っていた日本では、トイレットペーパーが店頭からなくなるというほどのパニックを引き起こした(「石油危機」)。

 その後も次々と原油生産削減、石油禁輸が実行に移され、この政策によりアラブ側はそれまでの圧倒的不利な状況を覆した。ところが、皮肉なことに石油危機に乗じた原油値上げによりメジャーは空前の利益をあげ、このことがイスラム諸国の大衆に一層の貧困をもたらすという現象となった。しかし、原油価格は1972年末と比較して3$/Bから12$/Bと約5倍近くに値上がり、世界経済に大打撃を与えることになった。

 その後エジプトが単独でイスラエルとの共存路線を模索し始めたこともあり、アラブ諸国全体の占領地返還などにはつながらなかった。

 国連安保理決議338号採択。
 (解説)
 第四次中東戦争も、イスラエルの勝利に終わった。但し、エジプトのサダトは、サウジなど保守陣営諸国との対立を解消・協力することによって、イスラエルとの第4次中東戦争を引き分けに持ち込んだとも云える。

 1973年、汝矣島(ヨイド)純福音教会、献堂。
【国連総会でアラファトが演説】
 1974年、国連総会でパレスチナ人の民族自決権利承認。アラ ブ首脳会議と国連総会(3236号決議)でPLOがパレスチ ナ人の唯一の代表と承認され国連総会でアラファトが演説。国連総会はPLOに国連オブザーバー資格を付与した。パレスチナ国家創設の歴史的決定が為された。

 1974年、ローザンヌ世界伝道会議、「ローザンヌ誓約」採択。
【レバノン内戦起こる】
 1975年、レバノン内戦起こる。度重なる中東戦争、さらに1970年のヨルダンによるパレスチナ解放機構(PLO)追放(ヨルダン内戦、黒い九月事件)が発生すると、多数のパレスチナ難民がレバノン国内に流入した。レバノン政府は、PLOに対して自治政府なみの特権を与えた(カイロ協定。1994年にイスラエル・パレスチナ間で締結された「カイロ協定」とは別物)。この協定の結果、レバノン南部に「ファタハ・ランド」と呼ばれるPLOの支配地域が確立した。イスラエルはこれを危惧し、空軍及び特殊部隊を用いて南レバノンやベイルートを攻撃し始めた。ファランヘ党をはじめとするキリスト教マロン派は米国・ロシアから様々な重火器を調達し、既存の民兵組織を強化した。イスラム教徒もPLOやシリアから軍事支援を受け入れ、アマル(シーア派)やタウヒード(スンニ派)といった民兵組織を構築していった。

 マロン派とイスラム教・PLO双方の民兵組織は対立する宗派の国民を次々に誘拐・拷問・処刑するという残虐行為を繰り広げた。特に週末は「ブラック・マンデー」と呼ばれ、こうした残虐行為が頻発した。自動車爆弾も次々にベイルート市内に置かれ、要人を含め多数の市民が殺傷された。誘拐は外国人観光客や外交員もターゲットとなった。内戦には距離を置いて中立姿勢を保っていたドルーズ派も信徒が殺害された事により、マロン派と対立していくことになった。1975.10月以降、各宗派の民兵達は立てこもるホテルを要塞化し、互いの陣地と化したホテルに目掛けて銃撃や砲撃を繰り返し、この戦闘で多くのホテルが壊滅した(ホテル戦争)。こうした結果、ベイルートはイスラム教徒・パレスチナ難民の多い西ベイルートと、マロン派の居住する東ベイルートに分裂。東西の境界線には「グリーン・ライン」とよばれる分離帯が築かれた。

 1976.5月、レバノン政府の要請に基づいてシリア軍が介入(「シリア、レバノンに軍事介入」)し、レバノン右派軍と共に急進派のPLOやイスラム教ドルーズ派を制圧した(「黒い六月」)。タル・ザータルの虐殺起こる(シリア軍がレバ ノンのパレスチナ人キャンプの攻撃で多数殺害)。レバノン内戦終結。1977.3月、シリアを裏切り者として特に非難したジュンブラットは何者かによって暗殺された。1976.9月、マロン派から反シリア・パレスチナを旗印に掲げたレバノン軍団(以下LF)と呼ばれる民兵組織連合体が結成するた。シリア軍とLFは散発的に衝突し、PLOやドルーズ派とも戦闘を繰り広げた。劣勢であったLFはイスラエルの支援と介入が不可欠と目論み、内戦へのイスラエル参入を誘導する。1878年、LF部隊がシリア軍の検問で衝突し、怒ったシリアは、レッドライン協定を無視してマロン派の拠点である東ベイルートに砲撃を加えた。イスラエルは協定違反として、シリアを非難した。さらに特殊部隊と空軍機を出動させ、リタニ川以南のレバノン南部を占領した(リタニ作戦)。しかし、イスラエル軍自身による占領は国際的批判を免れず、イスラエルはレバノン国軍の元将校であるハダト少佐に占領地を譲り渡して支配させた。彼は占領地で「自由レバノン」軍という民兵組織を結成し、イスラエルの傀儡部隊として協力した(その後、ハダトは病死し、「南レバノン軍(South Lebanon Army)」と改称)。

1976.6.27  フランスのエール・フランス機139便がPFLPによりハイジャックされ、ウガンダのエンテベ空港に着陸。イスラエルの特殊部隊が救出成功する。
1977  イスラエル総選挙で右派連合政権誕生。占領地への入植政策強化。
1977.11.19  エジプト大統領アンワール・サダトは、アラブ首脳初のイスラエルを訪問した。中東和平へ向けた模索が始まる。 
1977  イスラエル、「リクード」が第一党に。ベギン内閣成立。
1978  イスラエル軍のレバノン侵攻。
 ヨハネ・パウロ2世がポーランド人として、またスラブ人初のローマ教皇となる。
1978.9  【キャンプ・デービッド合意】米・カーター大統領、エジプト・サダト大統領とイスラエル・ベギン首相を招き会談(キャンプ・デービッド合意)。会談の内容は、
イスラエル・エジプトの平和条約を求める。→両国関係を正常化させる。
パレスチナ人の自治に関する規定。→イスラエルはパレスチナ人の自治について交渉することを約束。
イスラエルはシナイ半島から撤退し、代わって国連軍が駐留することを約束。それによって生ずる石油供給への不安をアメリカがカバーする
等々であった。アラブ諸国は、エジプトの非難の声をさらに高め、大半のアラブ諸国がエジプトとの外交関係を絶った。
1978
 共同訳聖書発行。ヨハネ・パウロ二世、ポーランド人・スラブ人として初めて教皇に就任。小坂忠、ミクタムレコードを設立。

1979.2  【イランでイスラム革命起こる】イランで、ホメイニ師による革命が起こり、パーラビ王朝が倒れ、シーア派が権力を握った。1960年代から、アメリカの援助を受けたイラン国王による近代化政策(白色革命)によって、市民の政治的自由は奪われ貧富の格差も増大、市民の不満は募っていた。そこで市民は反国王色を明確にしていたイスラム教勢力の下に結集、反国王運動を繰り広げた。遂に国王は国外へ退避、続いて宗教指導者ホメイニの帰国によってイラン・イスラム革命が達成された。以後、イランではイスラム教が国家のイデオロギーとなる。当然、国王を援助していたアメリカとの関係は悪化していく。
1979.7  イラクで、度重なるクーデターを経て政権を掌握したバース党が、42歳のサダム・フセインを大統領に就任させた。
1979.3  【イスラエルとエジプトが平和条約調印】 サダトは、欧米諸国との関係改善を積極的に行い、イスラエルとも1978年のキャンプデービット合意にて和平を達成して、1979年には平和条約を結んだ。エジプト政府は、他のアラブ諸国の反対を押し切ってイスラエルと真っ先に和解し、それ以来親米-イスラエル路線に立って中東和平の仲介役に乗り出すことになった。エジプトへのシナイ半島全面返還が約束される。
1979.5  シナイ半島がエジプトへ返還される。アラブ諸国とPLOがエジプトと断交。
1979  ソ連がアフガニスタンに侵攻、アフガニスタンで内戦始まる。





(私論.私見)